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ルイーゼ・オットー = ペータースの生涯(3) : ドイツ工業化時代における女性就業問題 (2)

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(1)ル イ ー ゼ ・ オ ッ トー =ペ ー ター ス. の生 涯 (Ⅲ ) 一一 ドイツエ 業化時代 にお け る女性就業問題. 女. 采 1. は じめ に. 2. 家庭―一 独 立一一. 節. (2)‐ 一一. 子. 3 Paurskircheの 時代―― 自由―一. 4. “ Lcx Otto"の 時代―― 同権―一. 5 ADFの. 時. 6 Dr.Anna Kuhnowの. 代. ―. 一. 組. 一. 織. 時. 一. 代. 一. 一. 職. 業. 一. ―. 7 19世 紀 の社 会変動 と女 性就業 問題. 8. おわ りに. 6 Dre Anna Kuhnowの 時代 一 ― 職 業 一 ― (1). 1895年 3月 15日 ,ル イーゼ・オッ トー =ペ ー タース はライプツイヒにお いて死去 した。その死 を看 とった医師 はアンナ・クー ノウ Anna Kuhnowで あ った。 ア ンナ・ クー ノウはラ イプツ イヒで 開業 した女医第一号 であった が, ドイツの大学で医学 を学 んだのではなかった。ス イスのチ ュー リッヒ大 学医学部 で学 び,医 師の資格 をとったのである。 ドイツの各州 の大学 が女性 を正規の学生 として受 け入れる よ うになるの は,よ うや く1900年 か ら 19o9年 にかけての ことであ った。正規 の学生 とい うのは,男 性 の場合 にな らえば,ギ ムナジウム Gymnasium,実 科ギ ムナジ ウム Realgymnasium,高 等実科学校 Oberealschuleの いず れかの事業証書 を.

(2) 142. ルイーゼ 。オットー=ペ ー タースの生涯 (Ⅲ. ). 提 出で きる者 とい う意味 であ る。個 々の 講義 へ の参加 とい う こ とに関 して い えば ,例 えばハ イデ ルベ ル ク大学 ,ゲ ッテ イ ング ン大学 な どで は既 に女性 の 聴 講 が 許 され て い た し,1890年 以 降 は大部分 の 大学 で そ れ を認 め る よ う に な っていた。す なわち,女 性 の 大学 入学 に関 して も ドイッは,イ ギ リス や ア メ リカは もちろん,ヨ ーロ ッパ 大陸 の他 の 国 々 よ りも遅 れて い たのであ る。 隣国 オ ース トリアで は,既 に 1878年 に講義 へ の 規則 的 な参加 が 認 め られ てお り,ま た大学 入学 に必 要 な準備教育 機 関 ,す なわち女性 のためのギム ナ ジウムの 設立 も進 んで ,1897年 には 16人 の卒業 生 が哲 学部 に正 規 の 学 生 と して受 け入れ られて い る。 しか し女性 の大学就学 に関 しては ,ス イス が最 も解放 的 であ った。 チ ュー リ ッヒ大学 で は 1865年 に女子 学 生 の 入学 手続 きが行 われ た とい う記録 が あ り,1867年 には学位獲得 も可能 となってい る。 1871年 には 27人 の 女性 がチ ュー リッヒ大学 に学 んで い る。続 い てジ ュ ネー ブ,ベ ル ン,ヌ ー シ ャテル. ,. バ ーゼ ルの 各大学 にお い て も女性 の 入学が 認 め られた。特 に ドイツ語 圏 のチ ュー リッヒ,ベ ル ンの大学 にお ける女子学生 の比 率 は ,ま だ解放 されて い な い 国 々 か らの 留 学 生 を含 め て,か な り高 い もの にな ってい る。 1893/4年 の 学期 では,全 学部合計 して学生 の約. 10%が 女子学生 で ,そ の また約 10%が. ドイツか らの女子 学 生 であ った とい うい。 大学 に入 学 して学 ぶ 目的 は,そ れ によって可能 となる職業 へ の参加 とい う 結果 を目指 して い る。女性 の 地位 ,権 利 一 般 につい ての原則 的要求が ,ル イ ーゼ ・ オ ッ トー =ペ ー タース に よって創立 された市民 的女性運動 ,す なわち 「全 ドイッ女性 協 会」 ADFの 基本 的立場 で あ るか らには,こ の 要求 に とって 不利 とな り害 となって い る差別 ,障 害 の排 除 は,先 ず達成 され る もの と して υ 実証 され るべ きなので あ る 。 そ して また社会 の状況 は現実 に,切 実 に女性 の 力 を求 めて もい た。 それは 特 に医療 の 問題 であ つた。社会 の 変動が女性 の立 場 ,意 識 に影響 を与 える と す れば,そ れは女性 に よ り切実 な問題 をつ きつ けて い たのであ る。家庭 にお い て ,あ るいは家庭外 にお い て さまざまな労働 に従事 す る女性 は,精 神 的 に.

(3) 采. 女. 143. 節 子. も身体的にも多 くの困難,矛 盾 に直面す るにもかかわらず,解 決 は男性 の手 にのみゆだね られてい るのである。い うまで もな く医療 の分野 は元来,む し ろ女性的要素の支配す るところであった。 「女性 はいつ で も治療 を施す人であ つた。西欧 の歴史 におい て女性 は免 許 を持 たない医師であ り,解 剖学者 であった。女性 は中絶医で,看 護婦 で,カ ウ ンセ ラーであつた。女性 は薬草 を栽培 し,使 用法 の秘密 を交換 す る薬剤師であ った。女性 は家 か ら家,村 か ら村へ と旅す る産婆 であっ た。何世紀 にもわたって女性は,書 物 や講義か ら閉め出され,互 い に学 び合 い,隣 人か ら隣人へ ,母 か ら娘へ と経験 を伝承す る学位 なき医師で ぁ った」 3). しか し近代科学技術 の発展 は,そ れのみが原因ではない にして も,ま す ます 女性 に無知 を強制 し,そ のことによって医療 の分野 は男性 の手 に独占 され. ,. ・ 。 しか も「真 の 女性 はその控 え目な助手 の地位 に閉 じ込め られたのである 女 らしさの永遠 の法則」 'と もい うべ きものに捉 えられて,女 性 は医療 の現場 で正 しい治療 を受け られない状態 にあつた゛。医療 の現場 において女性が中 心 の役割 を呆 たす ことは,当 時女性 か らの緊急 の要請 で もあ ったのである。 それ故 「全 ドイツ女性協会」ADFに 代表 される市民的女性運動 による教 育 と就業活動 の 要求 の 中心 には,先 ず医学 の解放 が置 かれた ので あ った カロ,そ れはまた,女 性が立派 に医学 の勉強 に適応す ることによつて,女 性 の科学的能力 に対す る疑義や否定 を打 ち破 り,そ れによって他 の分野へ の女 m。. 性 の参加 を容易 にするとい う戦術 もあ った と思 われる. さらに,医 学の勉学 は他 の分野 の勉学 に比べ て,そ の勉強の直接 の結果 と しての職業に最 も結 びついてい るとい う理由があ った。従 って勉学能力 につ いての偏見以上に,こ のこと,す なわち医業 に仕事 として女性 が従事す るこ と,開 業す ることに対 して,男 性か らより大 きい抵抗 を受けたのである。. (2). ドイ ツ にお い て医 師 と して活 動 した最 初 の 女性 を特 定 す る こ とは 難 しい 。.

(4) 144. ル イーゼ 。オ ッ トー =ペ ー ター スの 生涯 (Ⅲ. ). それ は前述 の通 り,多 くの女性 が先祖伝 来 の ,あ るいは研 究 の結果 としての 知恵 を働 かせ て医療 の現場 で活躍 して い たか らであ るが ,そ れは さてお き. ,. 近代 的 な勉学 によって医師 と して認 め られ ,医 業 に従事 した と認 め られて い る女性 は ドロ テ ア ・ レポ ー リ ン Dorothea Leporin(1715-1762)の よ うで あ る。医 師 の娘 であ った レポ ー リ ンは,子 供 の 時 か ら父 の 仕事 に興 味 を も っ た。娘 の才能 を惜 しんだ父 は 出来 る限 りそ の勉 強 を応援 した。結局 当時新設 の ハ レ大学 に兄 と共 に入 学 を認 め られ ,常 に兄 と同伴 す るこ とで講義 に出席 す る こ とが 許 された。卒業後 もや は り兄 と共 に医師 と して働 き,そ の 業績 に よって学位 を授 け られて い るり。 しか し大 学 にお い て男性 と同様 に勉学 し,そ の ことに よって男性 と同様 な 意味 で職業 を持 つ ,そ の こ とが女性 の社会的地位 の改革 のための 第 一 歩 で あ る とい う意識 を もって医学 を学 び,そ れ を実 践 した最初 の ドイツ女性 は フラ ンツ ィス カ ・ テ ィブ ル テ ィウス Franziska Tiburtius(1843-1927)と い つて よ い であ ろ う。 テ ィブ ルテ ィウスは資 産家 の娘 と して生 まれ ,8人 兄弟 の 中 で 育 ってい る。後 に 自身 も医師 となった兄のすすめで ,女 子教員養成学校 を経 て 医学 の勉 学 の 道 に進 んだ。 1876年 ,チ ュー リ ッヒ大 学 医学 部 を優秀 な成 績 で 卒業 し (医 学博士 ),同 じく学位 を得 た友 人 エ ミー リエ ・ レームス. Emi―. lie Lchmus(1841-1932)と 共 に ドレス デ ンの 「王 立 産 院」 に助 手 と して 一 年 間勤 めた。 この 後 二 人 は終 生 共 同 して仕事 をす るこ とになる。翌 1877年 二 人 はベ ル リ ンに診療所 を開 い た。 当時既 にプ ロ イセ ンで は営業 の 自由が認 め られて い たので ,開 業 そ の もの に支障 はなか ったが , しか し様 々 ない やが らせ ,特 に男性 医 師 (医 師会 )か らの 妨 害 に会 わ な い わ け には い か なか っ た。「チ ュー リ ッヒ大学 医学博 士」 とい う看板 をあげ る こ ともで きず ,死 亡 診断書 を出す 権利 も認 め られ なか つた とい う。チ ュー リッヒ大学医学部 での 勉学 自体 の 困難 な環境 に数倍 して ,開 業 ,営 業 に伴 う苦労 は大 きか ったので あ るが , しか し結局 ベ ル リ ンの 労働者居 住区 の一つ に診療所 を経営 す る こ と がで きた ので あ ったЮ I。. 1871年 フラ ンツ イス カ ・テ ィブ ルテ ィウス が チ ュー リ ッヒ大 学 医学 部 で.

(5) 来. 女. 節. 145. 子. 勉学 を始 めた 時 ,医 学部 に在席 す る女子学 生 は 20人 を超 えて い たが ,翌 年 には急激 に増加 して 100人 を超 えて い る。そ してそ の大部分 は ロ シア女性 で あ った. チ ュー リッ ヒにお ける ロ シアの女子 学 生 に関 して は,こ の主 題 と. H)。. は直接 関係 の ない政治的問題があ つたが ,そ れ に もかかわ らず ロ シアの女子 学 生 の大量入学 は女子 学 生全体 に影響 を与 えな いで は い なか つた. D。. テ イブ. ル テ イウスの 思 い 出 に よれ ば ,真 剣 に医学 を学 ぶ 気持 が 少 い「短 く切 った 髪 ,大 きな黒眼鏡―― これは多勢 がかけて い るが ,私 にはその理 由が全 くわ か らない一― ,短 い全 く飾 りの ない ,傘 の袋 の よ うな衣服 ,黒 い光沢 の あ る ろ う引 きの船員帽 ,た ば こ,そ して女子学生 に独得 の黙 り込 んだ,陰 気 な. ,. ぼんや りとした尊大 な様子 」 の学 生 たちが ,教 授 たちの神経 に さわ つた こ と を紹介 して い るB)。 当時 ,女 性 の大学入学 ,ま た特 に医学 の分野 へ の参加 に対 す る最 も有名 な 反対 者 は, ミュ ンヘ ン大 学 の 解剖 学者 テオ ドール・ ビシ ョッフ Theodor von Bischoffで あ った。. 「神 と 自然 の掃 理 に よって女性 は ,看 護活動 や学 問 を職 業 とす る こ と. ,. そ して中で も自然科学 と医学 を職業 とす る能力 が欠 け て い る。勉学 に取 り組 む こ とや 医学 を職 業 とす る こ とは,女 性本来 の最 良 の面 , しとやか 同 さ,内 気 さ,同 情心 ,慈 悲心 と矛盾 してお り,そ れ を損 って しまう」 ビシ ョッフの論 に限 らず ,反 対論 の 中心 にはや は り女性 の 能力問題 がおか れてお り,そ のいわば素朴 な論理 ,む しろ感情 の余 りに単純 な表現 に,今 更 い゛ なが ら当 時 の女性 の存在 の意味 を考 え させ られ る コ 。 ところで ,そ の 頃 チ ュー リ ッヒ大学 医学部 で 5年 間 (1876-1881)女 子 学 生 と共 に学 び,さ らにその後 2年 間助手 として女子学生 も指導 したあ る医師 は,次 の よ うに述 べ て い る。 「女性 の大 学 にお け る勉 学 の 問題 は,次 の三 点 に しぼ られ る と私 には思 われ る。. 1)女 性 は一一 大 部分 の 女性 は一一 大 学 で の勉 学 に適 した能 力 が あ る か. 。.

(6) ルイーゼ・オットー=ペ ー タースの生涯 (Ⅲ. ). 大学 で教育 を受 けた女性 は その 力 を,自 分 自身 の ため に,ま た他 の 人 々の ため に有意義 に活用 で きるか。 女性 は そ の勉学 を通 して ,他 の 人 々,特 に男性 の 力 を借 りない で 口 既得権 に大 き く挑戦 で きるか」. ,. ). テ ィブ ル テ ィウスの思 い 出 に して も,ま たチ ュー リッヒ大学医学部 で 学 ん だ ドイツ女性 の次世代 の一 人ア グネ ス ・ ブル ーム Agnes Blumの 思 い 出 も 蟷),そ の 勉学 の 楽 しさを強調 してい るが 開業 ,営 業 の 困難 は前述 の 通 りで あ ,. った。特 に市民 的女性 運動 の 基本 方針 の一 つ ,「 自助」 の 精神 は一 層 の努 力 を女 性 に求 め るこ とになったのであ る。 「 どの よ うな大 きな困難 や根 深 い偏 見 と闘 ったの か ,そ れ は今 の 世代 か らは もはや想像 もで きない 。 この偏 見 に打 ち勝 ち,ひ ど く疑 い深 いの み な らず ,敵 意 に さえ満 ちて い た男性 たちの承認 を得 る こ とに遂 に成 功 し た,彼 女 の 医師 と しての素晴 しい仕事 に感謝す る。 …… 数 え切 れ な い ほ どの人 々 を彼 女 は助 けた。無 数 の 貧 しい 病 人 を無償 で 診 察 し,援 助 し た。後年彼女 はア グネス 0ブ ルーム Agnes Bluhm(ベ ル リ ンで初 めての 女性 産婦 人科 医 ),ア グネス ・ハ ッカー Agnes Hackerと 共 に女性 医師 の みの女性診療所 を設立 したが ,そ れは今 日最 良 の 評判 を得 て い る。死 の. 2週 前 に彼 女 は この 病 院 に入 院 し,そ こで 亡 くな っ た。 1927年 5月. 5. 日」. 19). 15年 間 にわた ってテ ィブ ル テ ィウス と レームス はベ ル リ ンの た だ二 人 の 女 医 で あ った が ,1890年 には上 記 の二 人が ベ ル リ ンで 開業 し,そ の 同 じ年 にア ンナ ・ クー ノウが ライプツ イヒで 開業 した。共 に まだチ ュー リッ ヒ大学 で学 んだ世 代 であ る。. (3). 「人生 の 内容 と目的の欠 如 ,そ れ に起 因す る内的 な苦 しみ は,市 民 階級 の女性 の十字架 であ る。 しか し人 々は これ につい ては何 も知 らず ,何 も 聞 か ない。何故 な ら女性 たちはそれ を隠 して い るか らであ る。 そ の 内的.

(7) 采. 女. 節. 子. 147. な切迫 した感情 を誰 に話 せ る とい うのだろ うか 。 ¨…・女性 もまたバ ンの みで生 きるのではない。女性 もまた苦 しみ と労働 の義務 を分担 しなけれ な らない 。それ が女性 に人 間性 を与 えるので あ る。労働 へ の 当然 の参加 が人 間の生 活 の歩調 を正 しくす るのだ。労働 は人生 の船 に必要 な喫水 を 20. 与 える積荷 であ る」. とエ ザ ー ベ ト・ グ ナ ウ ク=キ ュ ー ネ Elisabeth Gnauk=Kuhne(1850-1917). ,エ ア フル トで 開催 され た 第 6回 福 音 社 会会議 の 冒頭 で 講演 した。 この 会議 は初 めて女性 問題 を主題 として取 り上 げ ,グ ナ ウク =キ は 1895年 6月 5日. ュー ネ は「女性 の社会 的地位」 と題 して会員 に訴 えたのであ る。 しか し女性 は既 に声 をあげて い た。 しか も団結 を して。「仕事 ,自 由 な解 放 され た 仕 事 ,そ れ は 我 々 の 団体 の 合 言 葉 で あ り,我 々 が 集 う旗 印 で あ る」劉 仕事 ,労 働 こそ女性 団体 の 要求 で あ ったの に もか か わ らず , ドイ ツ )。. では まだ多 くの制約が あ った。 市民階級 の女性 たちには,既 にか な り早 くか ら「教 師」 の仕事 が提供 され て い た。教職 は恥 しくない仕事 とみ な された し,い ずれ母親 の役割 を果す こ とになる女性 に とっては 良 い訓練 とも思 われたので あ る。 しか し女教 師 の職 域 はなお 限 られてお り,小 学校 と女 学校低学年 を担 当 で きるだけであ って. ,. 女学校高学年や ,そ の上 の女子教員養成学校 にその席 はなか った。 そ して大 学 での勉 学が許 され ない以上 ,医 師 ,法 律 家 ,高 級官吏 ,牧 師 ,研 究者 には なれ なか った。 そ して大学 に入 るため にはその準備教育 が必 要 であ り,従 っ てそのための学校 が必 要 で あ った。. 1895年 以 降各地 に高等女 学校 の 中 に 5年 間 のギ ム ナ ジ ウ ムの コース が設 け られ ,こ こで規準 の教育 を受 け た女性 は,外 部 で大学入学資格試験 を受 け られ る よ うになった2'。 数多 くの 請願書が連邦議 会 や州議 会 に送 られ ,長 時 間 にわた る議論 が あ り,数 多 くの小 冊子類 が 出 された 後 に,1899年 4月 24 日連邦参議 院 は,医 師試験 ,歯 科医師試験 ,薬 剤 師試験 が男性 と同等 の条件 の もとに女性 に も解放 され るべ きであ る と決議 した2"。 「全 ドイツ女性協 会」 ADFは. ,ほ とん ど数 え切 れ ない ほ どの請願書 を各方.

(8) ル イー ゼ 。オ ッ トー =ペ ー ター スの生涯 (Ⅲ. 148. ). 面 に送 り続 けたが ,そ の 間 1879年 には 大学 で 学 びた い 女性 の ための 奨学金 制度 を設 け,そ れ は 1889年 まで に 13万 マ ル クに達 した とい う。 1885年 に は特 に医学 ,化 学 ,薬 学 を学 ぶ 女子学 生 のための奨学金 も設 け られ ,ま た女 子 ギ ム ナジウム設立 の ための募金 も行 われた。. 1894年 ,こ の資 金 に よってつ くられ た ラ イプ ツ イヒ女 子 ギ ム ナ ジ ウ ム コ ースの 開校式 が行 われたが ,そ の式典 へ の 出席 が ル ィーゼ ・ オ ッ トー =ペ ー タースが公 け の場 に姿 を現 わ した最後 の機会 であ った。 そ して この 学校 の初 代校長 はハ イデ ルベ ル ク大 学 で哲学博 士 の学位 を得 た最初 の女性 であ ったケ ー テ ・ ヴ ィ ン トシ ャイ トKathe Windscheidで あ った。 また テ ュー ビ ング ン 大学 で 学 んだ最初 の女性 ,1896年 に理 学博 士 の 学位 を得 た マ リア ・ グ レー フ ィン・ フ ォ ン・ リ ンデ ン Maria Grain vOn Lindenは ,「 全 ドイツ女性 協 会」. ADFの. この奨学金 の 奨学 生 だ ったので あ る2● 。 主 言 Ncustatter,Dr.Otto:Das Frauenstudium im Ausland.Ein Ucbcrblick uber dic zu― lassung der Frauen zu Mittel― und Hochschulen, sowic zu dcn akadernischen Bc― rufen in den ausserdeutschen Kulturlandern",sonderdruck aus der lBcilage zur“. gemeinen Zeitung" Nr. 237,258,263,264 vom 19。. 1898(Munchen,August Schupp,1899)に. All―. Okt., 19. Novo und 21。 Nov。. よる 。. この 資 料 には ヨー ロ ッパ 14ケ 国 ,そ の 他 16ケ 国 の 女 性 の 大 学 勉 学 の 歴 史. ,. 現 状 に つ い て 記 され て い る 。 日本 に つ い て も記 載 が あ る 。 た だ し数 字 に 関 し て は 他 の 資 料 との 間 にや や異 同が あ る 。 Louisc Otto=Pcters:Das Recht der Fraueno Neuc Bahnen XXVH,19。. (1.Oktober. 1892), in:Johrcs,Ruth― Ellen Boetcher(Hg。 ):Die Anね nge der dcutschen Frauenbewegung Louis Otto=Pcters(Frankfurt am Main,Fischer,1983)P.216221. なお ,拙 稿 :ル イー ゼ ・ オ ッ トー =ペ ー タース の生 涯―一 ドイツエ 業 化時代 にお け る女 性 就 業 問題. (Ⅱ. )一 一 (甲 南女子 大学紀 要 第. 27号 ,平 成 2年 )P。. 117-119参 照。 エ ー レンラ イ フ,B。 /イ ング リッシ ュ,D.著. ,長 瀬 久子訳 「魔女 ,産 婆. 看護婦―― 女性 医療 家 の歴 史一― 」 (東 京 ,法 政大学 出版 局 ,1996)P。 Schwarbe, Prot.E)ro J.: Uber das medizinische Frauenstudiunl in Deutschland。. 3. ,.

(9) 采 女. 149. 節 子. (Lcipzig,Georg Thicme,1918)P.7.. 5)PrOgramm der Frauenzeitung Nr.1,21.Apri1 1849,Gerhard,Ute/Hannover= Druck,Elisabeth/Schmitter,Romania(Hg。 ):“ Dem Rcich der Freiheit werb'ich Burgerinnen"Dic Frauen― Zeitung von Louisc Otto。. (Frankfurt am Main,Syndi―. kat,1979)P。 37. 6)女 性 の 医 学 ,医 療 へ の 参 加 を求 め る こ とに 関 す る あ らゆ る 資 料 に ,多 か れ 少 か れ この 状 態 及 び理 由 に つ い て の 言 及 が あ る 。. 7)Gerhard,Ute:Unerhё. rt。. 一一一Dic Geschichte dcr deutschen Franenbewegung―. (Rcinbeck bei Hamburg,Rowohit,1990)P。 160. 8)Lchmann,Prof,Dr.K.B。 :Das Fraucnstudium.gestatteter Sonderabdruck aus der “ Bdlage der Allgemcincn Zeitung"Munchen,Nr.141,142.(Wien,Verein erwdt― erte Fraucnbildung, 1899)P。. 9)Schiebinger,Londa:Schё Wissenscha■ ― ―. 4. nc Geister。. (Stuttga■. 一一―Frauen in den Anfangen der modernen. ,KIctta Cotta,1993)P。 350-360. The Mind has No Sex?一 一―一Women in the C)rigins of Modern Science―. 一一―. (Boston,Httvard Univ.Press,1989). 10)Gerhard前 掲 書 7)P。 160-161 11)同 上 書. P。. 160. た だ し数 字 的 に はや は り多 少 の 異 同が あ る 。. Kronfeld,H.:Das Frauenstudium der Nationalё kononlieo Sonderdruck aus dcln Ar― chiv ir soziale Gesetzgebung und Stadstik。. (Berlin,Karl Heymanns,1899)P。. 13. -14 に よれば ,女 子学 生 9o人 ,そ の うち 88人 が ロ シア女性 となって い る。. 12)ロ シアの 反政府運 に加 担 す る左 派 の ロ シア人 は ,男 性 で あれ女性 で あれ ,外 国 で暮す許可 を得 るため に大 学 に登録 を したのであ る。 13)Tiburtius,Franziska:Erinnerungen einer Achtzi』. ahrigen.(Berlin,Schwetschke,. 1923). 14)Bischoff,Theodor L.W.v.:Das Studium und die Ausubung der Medた in durch Frauen。. (Munchcn,Riedel,1872)P。 45. 15)当 時 の ,反 対 論 を紹 介 して い る本 。 O Schwarbe 前 掲 書 4) O Neustatter前 掲 書 1). O Bernatzik,Edmund:Die Zulassung der Frauen zu den juristischen Studien. (Wien,Selbstverlage des Vereins ttr erweitene Frauenbildung,1900) O IIerkner, H.: Das Fraucnstudium der nationalё Archiv mr soziJc Gcsctzgebung und Statistik。. konorrlic. Sonderdruck aus dem. (BcJin,KaJ Hcymann,1899).

(10) ル イーゼ 。オ ッ トー =ペ ー ター スの生涯 (Ⅲ. 150. ). O Kronfeld前 掲書 H) O Lasser,O.:Das medizinische Studium der Frau.(Berlin,S.Karger,1897). O Lchmann,K.B。 前掲書 9) O Kleinwachter,Ludwig:Zur Frage des Studiuins der Mcdた. in des Weibes。. (Ber―. lin,Hcuser's,1896). 16)解 剖学 の教授 た ちの感想 が , しば しば女 子学 生 の 能力 につ い てで は な く,女 子学生 の感情 的反応 に向 け られて い る こ とは興味深 い 。 Kronfeld前 掲書 ‖)P。. 14. 17)Lchmann前 掲書 9)P.4 18)Kronfeld 前掲書 ‖)P.14-15 19)Nachrichten.Zentralblatt des Bundes Dentscher Frauenvereinc.Ausgabe xxlx Jahr―. gang,Nr.5,MJ 1927(BDF― Arch市. in Landesarch市. Bcdin)テ イブルテ ィウス. 死亡 記事 c 20)Berichte dcr Vcrhandlungen des Evangclisch一 Sozialen Kongresscs。 1890-1929。 (Bcrlin_Gё ttingcn,Rcthwisch&Langewort,1890-1929)P.82-136. 21)JOcres前 掲書 2). 22)正 規 の教科 内容 につ いて は. クラ ウル,M。 著. 望 月幸 男他 訳 「 ドイツ ・ギ. ム ナ ジウム 200年 史―一 エ リー ト養成 の 社 会 史―― 」 ミネルヴ ァ書房 ,1986 P.loo― を参照。. 23)こ の 間 の 複 雑 な状 況 に つ い て は Hucrkamp,Claudia:Frauen,Universitaten und Bildungsbiirgertumo Zur Lage studicrende Frauen 1900-1930.in: Siegrit, Hannes (Hg。 )三 Burgerliche Berufe。. (Gё ttingen,Vandenhoeck&Ruprecht,. 1988)及. び, Habeth, stephanic: Dic Freiberuflerin und Bearntin.― Endc 19. Jahrhundert. bis 1945-.in: Pohl, Hans(Hg。 ):Die Frau in der deutschen Wirtschaft. Zeitschrift fur Unternchmensgeschichte Bciheft 35。. (Stuttgart, Franz Steiner,. 1985)を 参照。 24)Junginger,Gabriele(Hg。 ):Maria Grafin vOn Lindeno Erinnerungcn dcr ersten Tub― inger Studentin。. (Tubingen,Attempto,1991). 参考文献 につ い ては次稿 に記 す。.

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参照

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