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國策として見たる我が滿洲農業移民(四)-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

圃寛之して見たる幾が′減州農壌移民

国策ヾ︼して見たろ我が清洲農業移民 ︵讐

松 崎 賓 次

第二 序 覗 第二・鱒洲県勢移民め必密梗 墾一血 液幽鬼弛移民わ可能準︵以上夢†芋攣罫〓野望野 弟四 浦渕農染移民計藩樹立の必層と其の大蓼 ︵以上第十三備竺﹂既視範︶ 劣五 構洲農薬移民の沿革 A 描洲番攣以前咋於ける減洲供米移民 方 溝珊事欒以隊に於ける減刑農移艮 刷 天照附∵移民 こ炭鱒射移民 ニー銑路線周移民

四腐潜

︵以上宛十三啓発三鶉鴇戟︺ 五・敵移管農梁白梅移民 やふざ突堤慧晶蕗鱒 ︵三四七︶ 五言

(2)

清洲蕃餐以後に硬施せられた我が藩洲農業移民にほ、大堀閲移民天理村移民、鰻路鯉局移民、銀波壌閑移民等

があるが、之等は何れも其の墟模が小であつて恨令成功を杜るとしても、観策的見地から考察すれば其の麟家へ

の貫飲も少いの.である。従って其の発要件も亦低鹿言止ま

の紛務省許衛移民は、曲者と興り我が政㈲にぬで多年調香研究の舐兼、圃策的瀞民計‡に基いて葦施されだもの

であつ七、移民の教の■多い鮎に於T、政府の之が薦めに支出せる鉾費の太なる封に於て、移民の厳選、従って其 の素質の優秀なる鮎に於て、.婿叉政府の之に対する授助が多い鮎に於て他の何れの移民に比して二廃蠍をぬい

でゐ

こ堅固民からも将来に対して非常な庵期待がかけ㌃れてゐるのである。政船はぼに数次に遭って入線を静狩した

のみならや、将来も射線いて移民途致をなすことに方針が放棄してゐるのである。以下第豪移民上り順次攣ぺ

る事とする0 琴‡ニ巻 男囚駅 乏、、第二次楷薬自衛移箆 五 拓務l省、農薬′自称移民 3 4 第六 籍 弟三次爆発自衛移民 笛出女興業自衛移民 譜 ︵≡四人︶ 山車閤

(3)

備考 本題は拓静省拓務局 機能として見たろ我が浦洲農染移民 繭洲農鞄移民概況忙依る 1 伸仰山次農薬自衛移民 イ 移住地の概況 第・ノ山吹農薬自衛移民の入植 地はヨ江省︵鶴首林省︶樺川願 永豊蹟といふ朗であつて、伐 木斯から面々魂へ練る>こ主 酌十四里即ち∵天魔東経卓二 十鹿二十分北緯囲十六度二十 分に偉置し棟滴三治米爽位の 鳥基であ卓。典の融税は約囲 萬町歩にして、大部分は森林 であるが、内仙萬町歩の可耕 地があ.り、地味は肥沃でぁ る。それ蜂に甥状から簸れば 仙人常卜三十町歩を要すると 〇雲助丸︶ 五五

(4)

郵十三谷 第陸軍 ︵ニ斎C︶ 空ハ すれば東宮人草入植せしめ得ろ経であるい尤も内地移民が入柵する以前に、故に地方土蛇や朝鮮人移民に伐つで 五首町歩粋が開墾耕作されてゐたから、之を其のまゝにして温いでは雅樹移叔を蜜施するのに都合が惑いから、 汲め之を眉牧しておいたのである。哨に宵人のい慧息をひくのは此の地方では此の移民が入組するよりも数年前か ら水野の絆螢が行はれてゎたといふこ是である。単調に闇此の地力は椚の語育斯閥が短く、月つ霜の降るのも早 いかち稲の教育が不充分なa上に霜寒が多い馬めに、凶作を持ることが多いだらうと懸念されてゐたのであるが− 数年紙の寒地経験に依って、之は全く杷安に過ぎないといふことが葦詮されたのである。平均乾溜は八月の三十 叫庭内外が最高であつて、∵月の零†二十七度内外が放低である。降雨巌は九月の百八十∴粍が一番高く、十二 昔の療鮎川粍が汲も少い。初呵明か、ら解氷現に入るがこの時分から累淵が急に高まづて粟て、石月から八 作物が成育するのである。満して此の将期には雲が少くて日照嘩曲が多い矯めに冬籠してゐ十﹂∵切の革木ほ度々 としで杜若を騎げ作物の恐育も間藤首しいのである。斯様に璽り期が短い蔑めに険腐食他の才人れが内地よりは 少くぐすむから蛍光繹常には好都合である。 地形及び交通横軸を見るに周讐帯は旦攫牲の山地であつて、内部ほ盆地を形成しrゐる。そして移≠地硫の 中部から.四椰にかけて寓柳樹河が耽れその西北部には繊嶺河が流れてゐるから、移民はこの∴河を利川しで腱漑 用水をとると北ハに、交通磯閥としてゐるのである。共の他豪通機闘としては、ハルビンとの聞に飛行便も開かれ たしヾ叉有名な松花江を首藤言利用するのでぁる。華王近杏瀾椚から枠木期にポる粗佳線が完成したから、必夢

(5)

備考 同上寄に依る 図篤として見ぁる紺が洒洲農鶉移民 ‖冊の磨入、食滞物の放棄の番 めlこ輸送⊥並に﹂蝦交通上非 常に便利となったのであるカ 道路は⋮蝦によくないけれど も、自動車、里叩等の使用が 可成盛に行はれてゐる。かく て年と北ハに交通運輸の疲袖も 棺僻しっゝあるから、∵之琴の 薔連に作って移民の農事経営 、 も有利になるのは疑かなき所 である。 土質は腐栖に端んだ坤土が 多い関係丑非常に也此度が高 ぐ、無肥でも反骨⋮り椒七川 桁、玄米にしで二心前後の取 ︵〓五こ 五七

(6)

第十三巷 男甲験 ︵≡華こ 車八

穫が得ち雷さいふ懲様である。璃部は古生霊警しあつて、砂金、花崗粛、石衣岩等も療由するから慧は之

撃の搾取も盛になるであらう。

P 移一民 の 黄 葉

整次移民を寡集するに蕾つて政府は次の方針を廃ったものと忍はれる。

︵こ常時凌弊せる農村が多く、之を匡赦することが急啓になってぁたから、雷べく疲弊農村から應遼義を求めきと ︵ニ︶北漁灯寒急が渡しいから之還へ得嘉でなければならぬ。それ忙は東北北陸地腐の賃から移民姦普るのが

法官であるごと

︵亭・箪時移住地附芝は多数の憲が居て治婁が充分保持されてぉなかつ票ら・豊野隊が浩急に驚L、てき

霹の琵、芸の維持に思ってゐた。而して移民乏等蒜との買な晶係阜持たねばなら応㌫ら、漂戯轟圃

管下から塞集をなすこと

︵▼閤︸ 原則として移民は虚栄北緯験を有する既教育在郷軍人たること ︵善徒警票の失敗蒜み芸の登の向1晶羞雷雲健、思想繋管kトて種齢三十歳出†であつて麻蒜芝

軋喝へ痙る老なるホと

︵六︶ 基準に際してほ鰯係魂顎骨雑伸幽在郷軍人討等の.蒲柳憾の協力を求むること

以上の諸鮎を捺合して青森・秋早番→隔串蕗城・用形・群肇栃木姦城・長野及新潟の十姦に警碁紫をな

し、姦・の隠者から音名を辟遅々放して、彼等を加藤寛治虔の質する墓園諾等畢校に造って約三週閲

(7)

ハ 移民の入植及び其の鮮路

︳ 移民は唱和七年十月享8瞥倣指導員後備歩兵中佐市川益平氏が圃長と甘ケ、同大尉熊谷伊三郎・間中尉沓繚林

勒・同工藤俵三郎・岡騎兵中尉狼火良太邸・皆帥堀江奥の諸氏に引率せられ東京を出番し、神戸、大連炉控て奉

天に到着。此研にて北天常日本隠糠高繁華校で訓練針受け→貯たとこ今の七十名も之に加は

賓に着きそれから松花正を下航して任木斯に出たのが十月十四汀であった。而して彼等は入株準備の薦めに此所

に暫ヰ滞寵容顔するこ主・になつ王が、彼等の内宙亙十名接光波陵と心・て㌍八郎こ月†盲1の佳節を卜心で∵悪弊

鋲に洛付き現地で準備をず季夏痙なつたのであ真芯而して北ハの他の者は引経き伐木斯に逗留して、訓顔を受け

にり、洩鞄との連路たよっでその番憐等を研究しでゐたのであるが.、途に準備萬線量ひ、気候も漉くなつて釆た に瓦づ、耳訓練哲施したものであるも

ニ移 民 固 の 編 成

移民地に於ては入梅笛時ほ未だ仕等農命等の建築も不発分であり、農苧昂誼の簑も盤はぎる計りせな

く、轟々酪威の襲撃を受ける有様であつて、人命・財蹄の危険が多分に残ってゐ仁。縫って移民各仰が偶人的に

■量静の蒙・改廃十防儀容に潜つてゐる株では弊葦が多くて効果があがむぬのは音ふ進もない。それ故に臥民囲

で堵衣に託せが如き有効壌切なる締約な作り鞠鰐撃・協同的に精励する法薬点、金概の観潮を1細ることにしたの

ので愈々永麓銭に向ふことに付サり、抑月二目たは会員の入植許無寛恕了することが出来たの・で凍る。

殴常として見た各我が溝洲典薬移民 ︵三五ユニ︶ 五九 竃 J

(8)

であ、冬や

ヽヽ︳.ヽヽ

移民樹木瑚盃義に塘幕爵が中心よ誓て移民囲本部藍昔、金移民の指揮監査を行か、移民菟展に必粟な

る共通事碗を藤牧ず冬のやあつて一之が全称練の顔心となゥ指導的凍要地位をr−−め¢ゐる。

ヽヽ’ヽヽ

嵐鷺豊聖女塀∴此の誓は必苦姦備若して袈粉・毎米等芳し、2を蕗民隼分配する外移民貰旨給眉

書目梼と幸味恰壷準璧萎も誉。扁しセ後には漸次其の設備規模を確天徳僻して生務の増加を閲り、

﹁般ノにふ之等の放資を望£思索込みで始点を髄撤し符ゐるのである。

ヽヽヽ

本十羊∴鱒荒野開拓を意窺込んで入植した移民も入梅憩初は伏宅不足に不自由を忍ばなければならなかつ

た完蓼の寿が甲壷屋に婿撃るこ・とは農柴辟常上に不便があるばかりで苧、叢生活にも差支が少古

いも警震営寄ろ索に菜健が多いのであ毛管、巌雷何々別やに犬上や喜慮瀕しで屋食違警

んとして車内地の様に唾築諭負葉琴大手左官などが慮る諜でもだのだから容易に非の目的は準せられな

い。叉避築の義の仕事は自分で出讐︷ても本職でない彼尊は自分で至や左官の仕事を絶音符ふことの

袋ぬめ▲貰然である。偏りに蛋の仕轟が成る程度蓬為し得る可能怖があるとしても、建築材料の塞から設

計や纂巻島々別々にやつヰ望楼では馨の筈蒜備に蒜急事しとになつでしまふ言れ橡潔

工・宜亨着工等が中心と莞て不義を組織し這の計許に基いて建築番発受蒜つことにしたのセある。而

して位宅造築は昭和九年靡から警し、∴碁蓬遠功せる佳宅が基同家犀五十七斬、偶人篭八姦ト∵梯

常幸≡懸 軍四戟 ︵ニ﹁五附︶ 六〇

(9)

兵製造葉者や修経堂者の屈ない移住磯に於ては共同的にぷっで此の硫の とである。 拓 朽す1ることの招来ぬ性質の 蹄織工班票藩洲盛栄移戌は有歯渥阿幾紫を以姦港のカ針と☆ぁるのであるから、自然馬の使川も墟 ︳ヽヽ︳ に行はれるのである。之袈・菜犠蹄の襲撃修絆′の仕滞覚然的誌やる言㊥仕嘗慧−竃贋告に途

のである。し僻ほ同輩では儀革の療汎論揺に忠言ことになつてゐる。

敬意部鹿莞葉に羞漕旗竿る目・的患て細解され志でぁるが、勝釆は・移民の簑漕外警 ヽヽ

由って版賀する計警告遠民は昔昌給皇冨管しで遡選管享けれども、移民品警藁が進み

裁雷禁増加され儀風土にも馴れて排作法の散華や受蛋の姦化が行はれ、副業も普及礎属し治寄緋

皆慧せらるゝに垂れば、生壁向島加し竿で飴剰薫物の釜が加はり之を外部に向つて版攣芸ば賢

笠慧のは想像に難くは甘い。斯かる時期に到れば此の炊嚢部が中心となつて賽の櫛警‡計警み怒

撃破班移実植潜時にば移株地匿に共襟班食わ他の匪賊が机没し、扁蒜民部落を鹿廃し、治安を乱し ヽ︳ノヽ

でゐたから、我軍た於て嘉防備に常つでゐたけれども車不足讐あつ㌔見放に移民固に於ても自轟備班

一芸 二戸又は土戸−であつて更に十靂鹿に十棟を超築する計思で計る。 鍛卜工 甲この班は鍛冶工を以七組織し、寝具の製造や修締等を ︳ ヽ ︳ 観発として見たる戦が浦洲鹿染杉良 温から、蹄織正雄を糾赦して共同婁として之を分繚せしむる=とになしに 卜十へ l

やぁる。此の鮎につい豆も弼立の幾

許なす班を編成することは必要なこ ︵三恵五︶ 六−

(10)

一一丁ふ 弟十三巷 弟四醜 爪芦濫六︶ 六二 を編成して、武器を備へ警備に覚ったのであるっ而して替勝野はⅠ茅小牧より峨ト、名小腹は約十工鹿瀬東天 十名を鉦て編成し各小敵駐屯の辟離は干二百米衆乃至宇米発としにのである。 ホ 遊 楽 経 常 の状況 移民ほ十二費に分れて属任し畑作奪玉とした。就中大字大挙小藩・粟・ま覇黍等牢王牌とんたが九年度 に水稲の試作を行ひるに新其の成績が優良であつにので、良房は之により辛力を得、丁年度よりは遠百町歩飴 の栽増耕作するに澄そ其の後逐年牽醸し駿近では主要作物にる地位を得るに至つた。 次に昭和八年乃至1義に至る掴ケ年間に於ける作伺面相並に一年壕及1示度に於ける牧穫高を琴苛ん。

年度別作付席費′に十年度救捧膚

(11)

右の表に依りて知らる’が如く、昭和九年度の作付蘭樋がヨ育二十九町歩とな年前⑯の叩軍事上二町歩飴に比

して減少したのは、同年に此併磯方に匹敵の出漁が甚だしく、従って危険も加味卜之が防備に人手を多く要し、

播模作葉を妨げられた嘗めでぁるが、豊年にほ飴梓治安が確立しで斯くの如き障害が少く覧−∴しかも移民の努

力が授けられた結兼前年の二備に▼近き六警吏二町衆飴㌻作付耕作すかこと酢出衆愚に小⋮年度には議千八十

疏 大 滞 高 泰 難 小 水 封 東 藤 夢 染 嘉 豆 絡 こ、昭和八年度には香蓼塩草の作付若干あり 芝、昭和九年度には水絡の試作ありしこと本文記貌の如し て本表は拓務訝拓務周東認課、清洲農染移民概況 朗報として見たろ我が蒲洲虚無移民 lT』 ■ゴ_.一一 、

l1‥_」j

五 慧

、l蔓一√ 豊川__】_.._且∴」_.息.⊥基」」ゝ⊥山Lこ

昭和十一年板によか、侶し順序其の他を多少肇東電p ロー ニュ1 五 ヽヽヽヽ

」__鵬 ふ −一一 〉 二三 (二 ヽヽ 窒 う云\ト∴ ざ 宅、芝蕊、呂 、王立、nO 孟、舌 0ぺ 空、.墨燕窄 菜⋮見 其 馬 他 鈴 ︵三茸七︶ 六≡・

弓空車ミ

.弓 妄‘芸 ⊥盟__._..−__孟__量⊥量」宣こ遷⊥旦⊥

(12)

町歩余に激増したのであつで射水給賛は階調に進んでゐるのは落ばしいことである。 飴は菟に忘じたきは、箪に収穫高が相常よい成織考ポしてゐる封りでなく、n⋮質の如きも呼んて澄静であ▲る よいふことである。亜麻の如きは初めは感質だと忍はれでゐたけれとも、故近では良好であることが知られる様 になつに。北魔道席や届凝晶に比しでも決して劣つてゐない梓の良雄のものが坐挿されるのである千石の率には 湘てゐ互いが砂病夫鹿の如きもよく出来、段常卜よければ千五官質感くても五首買付の取柊が種られるのであ って移民は之を原料として、自家用砂櫓を鹿蒲してゐるのであるが、筆者の聞く桝に依れば、汲沢迄時弊冶淡が 惑い焉め1に結晶柄が出来なトで飴にしかならぬとのこと.である。然し研究が轟ねられてゐるから、1不日成功し得 るもⅥと考へるのである。移民は砂糖の不足を袖ふために蜜蜂を養督してゐるか、之ほ非常に域綜がよく故に自 給自足の樺鑑に達してゐる。又野英の如きも内地で栽増せらる︺ものは殆んど如何なるものでも激増する㌦jとが 山水、西爪∴茄子・トマト・−ヰヤベツ・花椰菓・遍・甘藍尊はよいものが蕉膚されるのである。 次に窮屈餉蕃に放て鱒ぺんに、既に前にも攣ぺた様に移民の蟄柴は家露粗相飽鼎針群数方針として偽るのであ るか轟然家畜の飼育を盛に行ふのである。家畜を飼育する烏濾兇づ牧草が賽︰川に成季Jとを必螢とする。然る に移民地方は軍に永盤鋲のみでなく他の地方に於ても至る所に牧草の濃か笹原野があるから牧畜に強健めで有利 である。家畜の飼料としでは禾本科、一昔科の革が1萩・坤軸革・南天萩・ルーサン等の草十村適してゐるⅥであ る。潤しで之聾の単は此の地方に樺山あり、原野に打然に焦ひ戊つでゐるのであるから餅料を得るのに困難はな 第十二仙容 第 四 壁 ︵ニ仙五八︶ 六囲

(13)

い。叉毅畜飼育に要する土地が充分にあることは富ふまでもない。他方移民村常用に於ても、家畜飼育の奨勘に

努吟、種畜場を設け、指導員脅設親して優良種畜の帝殖を距つた結果、学年・緬芋版・鵜等の家番がよく珪

育してゐるのである。

移民地域に′は山林息常にあっで、建築川・薪炭川・家具製作川木材を採改する外、石牢花⋮開封等の有川触

物も生席されてゐる。

壷に叉冬期に放ける農閑期の労力利用に努あ、畠席加工を行って自給自足経済の確立に邁惑してゐるのであ

る。此の鮎に裁ては前に移民囲の編成の頓に於て爛れせ琶いた如くに、較々の殊に分れてそれぐ必要なる加工

機械・器具を備へて活劇してゐるのである。例へば加工機械を購入して製粉。精米1瓦油製造・陳顧・醤油+酒 の憤造や木炭製造をなしてゐるが如き・族肉加エの馬めに燻煙違を投畳してゐるが如くであつて.、之撃の仕事が

署展し、交通運輸機関が番達するに仰つて有利な販路を求むる様になるであらう。

へ 移民の食物と栄養

移民の常食は米・紫の混合食を童とし、之に野菜・潰物の外、昆布・磐井▲膵鮭等の海産物、牛豚肉・鵜卵等

の副食物暫加へてゐるのであるが、三根持粗食であるヱmしで入樅常初には衛生設備も慈しく、戴候風車にも不 馴であり、しかむ衛生思想も普及徹庶してゐなかった為めに、ナミ1ぺー赤痢・疫痢・太腹カタル・チブズ′等に

取る潜も多く土民聞には天然痘に廃るむのも多少あつたけれどむ、漸次衛生設備の完備、衛生忠恕の普及御底、

図篤とLて見た矛我が浦洲農染移民 ︵三五九︶ 六丑

(14)

弟ナ=惑 第四壁 ︵ニ〓ハ0︶ 六大 範痘預防注射の励行等に依って擢嫡者が減少し、義に栄泰も健艇状態も共に良好に誓て病死者の如きは次表 に示すが如ぐ極めて少数に止ってゐる。男子平均鰻重の如きも十六帖蒜となり硯慧ハ平均鰻重よりも濃くなつた 程である。同時に女子も段々文夫になれ、粕常激しい労働にる堪へ得るに至ったのである。次に昭和九年度に於 ける移民の患者数を月別に表示せん。

唱和九年月別新患者費生表

納経系統疾患 呼 吸 券 疾 患 泊 他 界 疾 患 循 環 券 疾 患 眼 科 疾 患 耳鼻咽咽科疾患 歯 科 疾 患 外科系統疾患 皮 膚 科 泌 尿 器 科・疾 患

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五月一六月伽 七月 六、三 関 九 大 l 九 大 六 ∩ ニ ー ニ 五 三 大 三 三 五 諷 P司 ≡ 五 −・−・

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三 匹l 九月叫十月十一月 l三 嵐 一山 七 大 一・四 五 四 羊“苛一 五 九 ら + 三 瞑 ー・羞 二 大 Pu t 九 九 一ヒ ≡ 入 五・−・五 一一:≡ 五 入 士 月 音I・ (⊃ 五 五 入 三 ニ

(15)

備考一、本来は間上番忙依る 付し疾患別i年の計及び鬼計を加ふ

こ、脚月及び三月は報告を欠く

右によ意人は病欝に考警れば外科系統疾患管多く、之に次ぎ乾膚科泌屁裕科疾患∵洞化鐸疾患、眼科

疾患等の順位と守、品に見れば十月に荒歪も多く、督、十方、十二月、君の順位と誉こと怠

ることが出雪が之によりて之等諸病の預防施設を構す∂参考とすることが出来ると恩ふのである。今試みに昭

和七年乃至十年の病死者教を示せば次の如し。

第 叫 次移民病死者数

ト 家族.の招致と閣員輿動 移民は入梅賞初は何れも単身渡縮写るのである。それは笛時入船地方に甚賊が横行し治安が確保されでゐな かったのと、個人佳宅が不足であつたのと、農事鮮麗の基礎が定まつてゐ先かったなどの事情来依るのである。 昭 和 七 年 度 昭 和 九 年 度 計 商館として見たる我が浦洲農薬移民 昭 昭 和 和 十 人 年 年 度 度 ︵ニニハニ 六七

(16)

舞±ニ巻 罪因覿 ○ニ六二︶ 六人 然るに政府に於ては過去の経験に鑑み、移民を洛付かせて働かす蔑めには家族が同戻することが必要であかとい ふことを知ってゐるから、事情が許すに至れば成るべく早く家族を招致せしむる方針を拭ってゐるのである。第 山次移民にありては入植の年及びその平年即ち唱和七年及八牢には右に述べだるが如き事情であつ仁から家族を 迎へた者はなかったけれとも、唱和九年には審百二十仙名、子四十三名、其の他八名、合計百七十二名の家族を 招致し、同十年には宴七十六名、子仙名、其の他二十仙名、合計九十八名を呼び寄せたのである。従って移民の 数は戦病死者、退園者等があつたに不拘、家族招致老、移民の補充等に依りて、昭和七年来の甥窄貝因習七十︼ 名から同十年宋には六百二名に増加してゐるのである。之を表示すれば次の如くである。 第仙爽移民年度地方別補充者、招致家族、現在員数 庶年八利昭l虔年七耗昭 現 招 致家 族 其後補充者 現 在 招 致 家 族 最初渡航濱数 夜 具 妻 ‡ 責 苛!完 一一 宮城山首鴻頂 + _且」_L ミ≡Il 宅l莞 ■=ゴ

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(17)

庶 年 十 和 昭 庶年 九 和昭 現 家紹 ′其 家招 其 計 劉

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ゞ・岳.三 笠 重言完Ⅰ、l早」 云 = 完1I六 孟l Ⅰ 卜 田 _

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(18)

敢初の抑育九十三名の申から入植後三年間に望ハ十二名即ち約≡分の仙の退園者を出したといふことは、移民 硬風上の仙大障害である。何故斯る多数の週間宥を見るに至つたか。拓務省の示す朗に従へば次の原因に基くも のである。 一健旋不良に関るもの 移民碁盤に際心で備轟亙る身餞瞼査を行ひ、之に合格しに者計りを選抜してゐる上に、照躯の・鍛練にち窟を用 ひてゐるに不殉教病者、窮死者等が鮨出するのは退憾である。病気の馬めに週固の止むなきに至った苛も少くな いであらう。かく病人が相次いで出るのは清洲の気候風土に馴れないこと、生酒様式が欒ったこと、衛生課傭が 不完全なること、自己の健康保持増進に窒息を欠ぎた㌢﹂となどが主因をなすものと考へる。従って之等の別に 鴻應する生前が出来、術珪設備の完備と、移民自身の健康上の白魔と注意とが進んでくれば漸次減少されるに至 るであらう。 移民の移動に放て見逃がすことの出来ないのは退圏封が可成多いといふ事である。即ち次表を見よ。 昭 和 七 昭 和 九 第十≡容 第 四離 彷 岬 次移民退園者未 岬七名 年 度 四七名 年 度 二ハニ名 昭 和 八 年 度 昭 和 十 年 度 ︵ニ〓ハ四︶ 七〇 九八名

(19)

二 あよりに成功を急ぎ過ぎること

移民の中には入植底後から各自の経常が順調に進んで所得も多く、従っでよい生活も出来.故郷への迭金も出

釆ると考へてゐに者もあつたが、簡際移住しで見ると内地で考へてゐた様に順調に辟常が進まない。匪賊の討伐

の蔑めに労費がか∼り、農耕法、粁常淡等に不馴であり且つ群衆不充分であつた等の食めに漁期しで居た様な所

得が得られなくて、故郷への送金も不可能であり、賂釆の我展に封する葡望さへも失ふに至った者が紗くない。

思ふに浦洲移民に限らす南北米移民でも、布唾移民でも、婿叉南洋移民でも成功者は幾年かの開基礎を築く番め

に背弊をしてゐるのであつて、入棺早々から多くの利益を轟げることは至難であるのは常然のことである。兎角

月本人は何事に依らす成功を急ぐ僻があるが、特に満蒙なむへ刑て荒蕪蛾を開拓せんとする者は、束を長くして

将来の大成を期し不断の努力をなす発癌を嘉することが必要である。

三 波滅後故郷に終生したる家事上の都合によるトの

此の理由に放つで幾人退園したか、叉如何なる家事上の都合が教生したかは統計其の他の資料がないから知る

由もないのであるけれとも、骨を濁洲に埋める杜の強い決心をなして移住するなれば、故郷に於ける家事上の都

合などで躍邦する筈はないと考へるのである。恐らく此の理由に放つで退園したる者も前述及び後述の理由を同

時に加味せられてゐるのではあるまいか。

臥 意志沌朗にして移任地耗驚の困難に堪へ得ざりしこと

開発として見たる我が瞞洲牌染移民 ︵ニごハ五︶ 七二

(20)

第十三恕 弟四鮮 ︵ニ〓ハ六︶ 七こ 移民募集に放つでこの期に就ても常局は賞婁祓し、意志軸囲にして如何なる困苦紋乏にも堪へ得るものたるこ とを條件としてゐる位であるのに、入植後間もなくこの坪山に依りて退御する者を珪じたのは週憾千萬である。 移民は何れも嘗て軍隊教育空文けた者計りであるから相常弾い意志のし鍛練を受けてゐる筈である。鷹詮した如く 漁安の確保されてゐない地方で、しかも形茫たる山林原野を開拓する仕事に携はり街建設僻も教育、舛架設僻も 払って屠らす、束候風土も生析株式も興り日川晶さへも忍ふ杖に手に入らぬ遮で隼椚をなし、盛事を絆常するの であるから、幾多の困難が相次いで生することは腐惜しなければならす、耗つで之等の困難に堪へ困背紋乏を 甘んじて受けなければならぬ夢は常然の事である。細線析に於ても此の割に関する教育が施ぎれてゐるに速ひな い。筆者は今日の教育には意志教育が欠げてゐると肇へてゐるのであるが、特に現下の如き非常時局に際しでは 我が帝靭の将来を双屑に抵ふべき帝批年は最も鶴岡なる意志の持主で冤ければならぬと確信してゐるのである。 以上述べた如き原因によつて多数の凝固者を出したとは言へ、何ぼ残留者は其の後補充入概者を合せて三軍二 十除名の多数あり、之に年々招致家族も増加しでゐる有様であっで、陶汰さるペき者は大部分陶汰されてしまつ たⅥみならす、退園稚内も多くは解消してしまひ、辟幣も好域結を示す様になつて釆仁から今後の退園者は僅少 に止まるものと思はれるのである。 チ 村制・教育文化其の他の施設 入棺後三年飴即ち唱和十年十月非公式ながら自治相制をしき摘農村と命名した。而しで村長には移民団長市川

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森平氏が就任し、其の下に助役∴収入役其他の役員を畳き村政を司ることにしたのである。それと同時に従来の 各願別小隊を匿に改め村禽学園をして院長を粂ねしゆたのであつて、之で自治相としでの形態が黎ひ其の内容が 充饗した繹である。他面村の共同的終臍教展に資する薦めに、摘巣材共拗糾合を結成しで、信州・購買・販嶺で 利用・論争事業・加工等の部を設け、合議制を接川して各部槍常客柴を活動せしめる仕軸とし、村政の園浦執 行と組合の経済的清動と相和して、新生移民農相摘基材の教展智期して努力を紺けてゐるのである。 之より兜昭和九年十叫月十川日、移民子弟教化の中心として弼発布常高等小撃校が設立せられ、指導員山崎芳 堆氏が校長となり、移俳者中教餐洗き者が教師となり、移民子弟として必要なる特殊の教育を施すことになつた 愴であそ勿論創立蕾初は設備も髄催されや、竪収数も少て教師の経験も浅い鶉めに教授訓育上欠くる桝の多か づたのは想像に難くはないが■年よ共に招致豪放も檜ん従つで里親数も埼加し、教職員の⋮致協力によりて漸次 紋傭も盤ひ、教師の綴翰も加ってくるに伴づて教育的劾凝も顕著と℃り、摘柴村の繁栄の基礎を築く薦めに⋮大 賀献をなすに奈るものと児はれる。 文化施設としては粁誌﹁北辰﹂が唱和八年十月に創刊された。乏は決して高級なものでもなく、叉専門的壁間 的のものでもなぐ貧窮なる小冊子に過ぎないが∵移民の軍縮せる翰軍用感・研究・小品等が栽せられ固員に配 布されるのであつて、彼等の精輌的・文化的彫埋を輿へることが勘くないのである。娯楽機紬としては特記する 棍のものはなく、只東低のよい時に花摘・ピクニック等に田幼けたり、運動倉を催したり、由良自ら役者となつ ︵三〓ハ七︶ 七三 闘篤として見たる我が喘洲盛典移民

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第十三巻 第四部

︵≡ハ八︶ 七四 で芝居を演じたりして興じてゐる位のものであるd叉信仰の中心として摘発榊祀が建立せられて居り各年十月十

屁日に任木斯上陸記念の意味むを含めて盛大なる祭典が凝げられることになつてゐて、村民は此の日の凍るのを

米しみとして待つ有様である。

2.第二次発覚自衛移民

イ 移 住 地 の 概 況

昭和八年に琴菜食美白街移民五官名が三江筍依蘭麒渦封筒に送ぢれることになっ烏彼等の入梅せる地方は

ハルビンの展東にあつて緯度に於ては永盤癒と大同小異であるが、聞方が閃けてゐる鮎、及び概高百五十米突位

であつて前者よりは五十米爽稗低い位の相違である。地質も腐紙質誉壌土若しくぼ埴土であつて濃度が高いの

は幾民に有利である。降田鹿は⊥ケ征夷言粍門外であつて、紙面魯は約川萬町歩にして、その中可耕地が約二萬

四千町歩を占めてゐる。而して右の中二回に慮って商赦しにのであるが、その両税は合計壷七千二望ハ十二的

にしで、其の金額三十仙籠二千七首九千㈲である。詳細は次表に裁て見られたい。

水田可耕∵地

第 仙 阿南租面積及慣格表

鷹 ︵温故的、開館建︶ 座

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六 五 四 三 ニ 一山 等等等等等等 地 地 地 地 軸 イ地 ニ 五 二 五 ○ 面 園篤として見たる我が浦洲農染移民 備 考一本表は同上啓二八貫k撼盲

二 川的は我が七反〓畝歩に富る

三有乗ろ金東平には税金、商租絆彗建物累放資、基地移時数等を含毒

第二回商粗両税及慣格袈 ︵阻仕胸、開館建︶

︵ニ〓ハ九︶ 七五

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備考 同上寄K依る ︵≡七〇︶ 七六 倍 孝一太東は同上二九貫に依る こ 金紙中には現金其他の附背教を含まぎること酌まと同じ 前記商租借格に税金・諸費川を加須し、邦貨償格に換算すれ ば彷仰回の分は皿町歩常二十八園七十餞、帯二回の分は約三十 八園であつて、両者牟放二町歩革二十囲園飴となり、嘗て大運 幾事株式命赦が移民に射して反首り百聞で賛却したのに比すれ ば如何に安倍であるかが諒解せられるであらう。而して土地購 入費が伴少であることは、移民資金に番犬影響を及ばすのは恩 然であつて、之が蔑めに貧困なる移民の受くる利益は決して抄 くないのである。 侍ほ鼓に附富したいのは七虎力河の上紙で石淡露頭が張見せ られ、之が賂釆移民壊展の鶉めに綬立づであらうといふことで ぁる。如何にして該果鍵が尊兄されたかといふと・或る日土着 の満人撤師二人が狐の狩に肘掛け、七虎力河畔を遡って山林に 這入つた時に蒜︼の狐を賛鬼し、之を追ひ廻しでゐる中に狐が

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穴の中に逃込んだのであるァ守こで鵜師は如何にしで之を捕へんかと考へた末、穴の入口で木の某や樹枝を集め

で鄭火し奥に差込んだ斯、火勢が加はり周圏に燃え戚がった。猛師は此の有様を見て解いたがよく調べて簸ると

英断に着果が堆概して居で、それに火の燃え移って居ることを蟹見したのであった。斯くして偶然に此の米糠が

黎見されたのである。その後調査の結英洪庵は長さ三、肌十軍帽十訝にも及んでゐるらしいとの審驚も知れ、

移民樹箇月を驚かしてゐる有様である。将来交通の僻が閃け利川の遣が斯く菅発掘を繊ける

間接移民固に輿ふる利茶は恭し犬なるものがあると考へられるのである。

ロ 移民募集及渡瀬入植

應幕僚件は前回と興る所はなかったが、凝集地域は節義移民のそれに比し麟犬せられ寒風・千黎崎守山

撃神奈川●宵山・前川・敵井の嘉七騒が新に加へられ嘉十八願となつたが採用人員は彷こ次の場合と同じ

く五官名であつた。両しで選抜せられた彼怨は群馬願相馬ケ原の陸軍演智場撥合に於て約∵ぞ丹問の訓練を受け

たのである。

昭和八年七月農事指導展硯困整莱苧符備指導貞預備陸軍歩兵中佐日揮廃次郎・同曲軍兵中尉島津璽∵闊

歩兵中尉多田≡郎・圏帥大柳久発駅の諸氏に引率せられ宋京を出番し、筑二次移民と同様の。−スを躍て、.同月

下旬七魔力地方に入植しにのであるが、黎九年三月土龍山番件の蔑めに桐せられ止むなく湖南賛地帯に鴨任し、

此所に落付くことになつたのである。光来此の地方は丁超等を頭個とする反浦抗日園の根接地であつで、度々襲

国策として見たる我が清洲農薬移民 ︵三木二︶ 七七

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聾をなし、治安の緋持が容易でなかつた。特に鮎賊の頭目謝文東が部下三千を率ゐて昭和九年三月入植地を攫兇 襲撃し来ったので瞥備圃は必死の防戦をなし、皇貰の援助を得て途に之を撃退せしめたのである。之が布令なる 土龍山番作成は依蘭事件と稲するものである。その後も侍ほ塵賊は度々突撃をなしたことがあるけれども、その 虔毎に撃退し漸く安泰を得るに至ったのであつて、之が馬めに移民の受けた被害と犠牲とは荏し甚大なるものが あつた。 ハ 移 民 固 Ⅵ 編 成 移民樹の編成に就ては祷叫次移民の場合と大同小異であるから之を省鼎する。

ニ幾紫綬螢 の 朕・沈

.恒W 此の移民囲は七虎力入植以来共同宿舎の建築、道路や橋梁の蓮琴警備用埴壁の構築・燃料の探索・土地の測嵐 賛瀕の調査研兜・開墾等部落建設の基礎的工作完成に邁進し仁かひがあつて、漸く其の目的達成の見込もつき、 山岡は更に叫段と仙致協力の度を高め、希望に浦ちで活動を披けでゐ上のであるが、前記せる伽く土龍山番件変 額の蔑めに全力を撃げで之が解決に普らねばならぬ事となり、播櫛さへ充分にすることが出来なかったので、そ の年の秋の取入れは寂しかった。十年に入りて漸く治安も保だれや常に接し仁けれども、餌ほ個人家屋切建築や 家族の招致に力を︰ぴがねばならなかつた輔係上、恩ふ様に農耕に轟念努力することが出来す、従って作付両班の 如きも償に茸富十飴町歩に過ぎす、しかも天候が不順膠で六分作の牧橙に過ぎなかったので、牧立漸く相償ふ投 界十三馨 第四班 ︵ニー七〓︶ 七八

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度に止まり移民をして失望せしめたのでぁる。然るに土牛度に入りで部落橙設基礎工作も出来上ったので眞に

安んじて盤排に専念従事することが出来、従って作付両統の如きも前年度に比し約二偶の千八十町歩飴に上った

のである。詳細は次表の如し。

第二次移民囲作付寓簡及収穫高袈

其 玉 大 疏 水 高 小 大 他 泰 蓼 菜 循 染 蓼 豆 作 二.四 三 付 昭 セ 亨 9 …町 感 セ ニ 九 入 穏和 七 ○ 五 言 七 ′一 ニ セI 一 九 九 セ ニ 一九 八 六 六 三 収年 穫蟹 作 二 三 五 八 三 ○ 付 昭 五・四 四 六 三 ヤ セ!町

● ● ● ●

ニ ニ 八 () ニ 四 牧 =二二・−・一・一一.==ゝ ご一 変

lllll琶 蒜 誓一書 呂

同党として見たる我が瞞洲興染移民 ○ニ七三︶ 七九

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此の外家鴨・鷲・蜜蜂等も若干を養育してゐる。而して洩森は華づ家畜の改良と帝柄4にカを注ぎ、焉めに或 は種畜場を定常し或は豪商指導員忠次澄し、或は飼育汲・接晶の加工淡等に付て講習脅を開催したりして、別業 の語法に努力しでゐるのでぁる。 叉農産加工にも意を川ひ、精米場・製粉場・味喩・皆酒等の轢退場・、麹∴瀾等の製造桝其の他煙草実の乾燥肌 の設備をなしてゐる。 右に述べた藩が如く逐年作付衝税も増加し従つて収穫高も加はり、牧畜方衝も順調に語展してゐるのである 備 考一同上啓三二貫及返報発育〇四既参照 こ 昭和十年度は作付面積と収穫高とは必ずしも鮒致せず 三 昭和十鵬年度k於ては本来の外竺繍鮮人をして水田二束〇町歩、畑地〓、六人四町歩を小作せしめたり 四 水路の収穫高は粗石を以て表す 本移民園に於ても幾事経常方針は彿二次移民の場合と向様である。即ち農耕を主とし之に配するに牧畜を以て してゐるのであるが、就中家畜としては牛・馬・摘草・豚・錐等計主としてむる。唱和十年凍現在に於ける飼育 家畜の頭数は次の如くである。 鍋 緬 牛 第十三舎 弟四壁 羊 一五 ニ ○ 押 二 六 相 羽 顕 鱗 二〇四鱗 仙九四頭 ハ三七拍︶ 入○

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が、現在の桝交通運輸磯囲の不備の焉めに農操物夏期出すにしても、文物品を買入れるにしても運愛高の鶉め に、一枚谷率を引下げられる不利ぉ受けてゐる。仙例を撃げんに現地に放で大軍二十噸稗貨車こ鱒分が峯更二千三 園の安他にしか変れないが、之が大連では二千五官園の相場となつてゐるのである。斯くの如き惜格の開きが大 巾になつでゐるのは、小間商人の利益や、手数料税金等にも拘るのであるが、それは寧ろ小部分であつて、大部 分は現地から大過に搬出される薦めに姿する運食にとられてしまふのである。即ち右貨物の湖南驚から任木斯迄 の運貸が三百二十五園、任木斯から恰輌賓が三日園、恰蘭塞から大連迄が丸首園合計千五官二十五園といふ漠大 な運蟹を賓するのである。それ故に移民の収益を増加せんが蔑めには交通運輸機朗の肇連を腐り運餐を低下せし ゆることが必要である。此の鮎に裁ては箪に本移民圃に朗する計りでなく、他のすべての移民圃に共通する閉で あるから、口端両国政府はもとより、藩絨基地の運輸業者の協力を得なければならぬのである。各移民他店の交 通運輸械幽は年々張達してゐるとは冨ぺ、未だ甚だしく不便であるから、特に政府常用に於ては絨道の敷設、道 路・水路等の建設改修等に封しては意を用か異数の投下をも敢て離せざらんことを切望する次第である。 へ 家族の招致と圃戯異動 家族の招致の必要なることは既にこ述べた通りであるから⋮聴には之を指貫しない。個人住宅の完成を急ぎその竣 功を待って家族招致が相次いで行はれ、昭和九年には六十三名、何十年には仙躇二軍二十六名の多数に上り、両 年に於て約三百名を邦雄したのである。之が焉めに、、移民の生活にほみが加はり洛付きが出来て釆たし叉努力柵 国策とLて見たる我が沌洲農地移民 ︵三七五︶ 八〟

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備 考 本表の詳細に就ては同上番幽三賞及び四gg貴を見よ。 卜 柑.制・教育・其他 タフワ 本移民困は千掠郷を作り共力血致郷の畿展に努めつゝある。千振細と栴するは蕗任地を成るゝ七虎力河の支那 晋よりとりたるものと富はれてゐる。同郷を東より西に三位に分ち第叫湛を山形柑∴附島村・宮城村・帝森村・ 拾も豊になつて盛事経常上にも好都合となつたのである。 退園潜も昭和八年に六十三名、同九年に九十八名、合計空ハ十叫名の多数に上つにけれども十年に入りナ∴人 の進固着もなかったのは意志薄朗者・不健靡者・失望者等が去つでしまつたので蔑儲者は巌早満洲生活にも馴れ てくるし、治安も確保せられたので将来の見透しも出来、健康上にも白海が得られるに至った番めであらう。次 の圏点の異動を示さん。

第二次移民年度別異動表

欠 省 国 主喜 和 苑十≡番 茶四渋 ○デ七六︶ 入こ

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輌奈川村・若狭の六ケ村に細分し、彷二院を湖南蘭町・秋田村・北大常村・新渇柑・石川村・山梨村・富山村の 仙町六ケ村に籍三宮窒桐井村・長野村・栃木村・及び群馬村の川ケ村に認分してゐる。 教育施設としては湖南常に千振小革校あり昭和九年四月二十九日に開設廿られ、宗光濠氏が校長となり、農 薬移民の子弟として必勢なる特殊教官を施してゐるのである。設立樹日成くして未だ設備も欠けたる朋多く、兄 童数も職員数も少く小規模なものであるが、粁釆移民の家族数も多くなり、村の躍碑も発奮するに従つで漸次語 展するであらう。又青年に封し盤柴移民として必須なる訓練を施す薦めに、昭和九年十川月二日に農業移民訓練 所が設立せられ、眈に卒発生を出したのであつて、之等の者が中盤となつて同郷の畿展の馬めに動くことになる のである。 備考 1、千振剰は昭和十一年一月︶日から郷制が押かれたが時勢の遭遇忙伸ひ行政磯崩れ改革を必垂とするK雫り、昭 和†四年一月一日から大改革を断行することK決定してゐる。週報発育四班会照。 2、本稿脱稿校正中に週報筒音四壁の密行あり。中に第二次移民に掬する記事ありて本蔵に改定桶屋したき鮎ある も印刷忙尚K合はぎるに依り之戊盾日に譲る。.誠忠之を落せられよ。

3 解三次鼻糞自衛移民

イ 移 住 地 の 概 況 本移民囲の故初の入植裸足地は梓川麒小七虎力及京間線滑馳の敦化並に大石頭地匿であつたが、其の後預定が 欒威せられ、右より造西方の濱江省絞稜騒北大薄地歯に決定せられたのであるク此の地宙は北緯囲十七度十七分 国策として見たる我が洒洲農薬移民 ︵ニ仙七七︶ 八三

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備考 同上苗忙俵盲 集十三稔 第 四 戟 ︵三七入︶ 八四 の桝にあつて、柁稜願城の常北二邦単に付してゐる。 地形は小典安嶺の文肱をねしてゐる大帝山々腺の酉方の丘 陵地帯を占め平均槙高二百七十米突であるから、永蓋鏡や湖 南螢地置より飴梓高い繹である。驚敏河はその北部を流れ濯 漑の用に便や。之を利用すれば二†町歩の水田を開くことが 出水る見込である。商親衛横は〓鵜九千八百町歩を供さがめ り、中耕作不可能の土地は僅かに千町歩に過ぎぬといふ。人 青山地城からは建築並新果用材を床机し、振放関山からは花 崗岩も生廃される。平均気ほほ七月の三十五度を股高とし、 二月の零下三十二度飴を放伐とし、降水絶息は五百粍と報ぜ られTゐる。土質は多量の腐組物を含有する地土であつて地 味は極のて肥沃であるから、開墾後十数年聞は無肥料で耕作 しても収穫を充分あげることが出来ると青ばれてゐる。かく の如き濃度の高い土地は内地では恐らく求めることが出来な いと思はれる。

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右の土地を南朝するに際しでは日浦両問代表者に依りて土地商胡委員沓が組綾せられ、その商議の結堀金地域 を十皿萬細千園を以丁南朝す㌃ことに決定したのである。尤もこの金額の中には.諸税並に附帯揮発見積覇二萬 雪子園を包含してゐない。即ち咽反廿ちl 五園七十乱伐であつて、諸費肘を合節しても六園八十七餞に過ぎないの である。 ロ 移民の募集選定及び入棺 第∵穴及第二次移民素集の■地域は大健闘東・東北・北陸地方であつたが、今回は山陰・山陽・囲図・九州地方 に及んだ鮎が興ってゐる。即ち山形∴蛸島・宮城・長野・山梨・新鳩・岐阜・鳥取・島根∴聞知・鞘島・山口・ 闊岡・佐賀・熊本・鹿兄鳥の十六願に宵石てゐる。寡集人員は股初の計賓では前回同様五百名であつたが、土龍 旭番付の薦め竺次及び筋二次移民悶に拭藩が多く、之計数僻する鶉めに多初の食用を資したるを以て、経費の 関係上二壱名に減少するの止む甘きに至った。而して應英資絡も今次移民から従来のそれに修正が加へられるこ とになった。次に其の興れる例を記せば、 1 必ずしも既教育在郷客人であること1を勢せざること 2 企象拾胤を預託し得る濱なること 斯くして一冊股より二百五十名一里遺産して彼等を山形願の大高梅山形青年道場、安城願の日本観民高等輩校、兵 庫願の兵庫願立日本囲民高等拳校、佐賀願の紳崎郡≡田川小輩校、熊本願の壁止球磨農業畢校の臨時訓練所に入 岡策として見たる我が浦洲鵜染移民 ︵︼ニ七九︶ 八五

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斯せしめて約叫ケ月間訓練をなしたるト︰波沸せしめたのである。而しで他の五十名は盛岡高農に於ける第刷拓殖 訓練所及三重向農に於ける雛士拓殖訓練所及び日本囲昆高等革校の修了生を採用しで、之を先遣隊として棒杭穐 に先行せしめることとなゎ蔑寄指導員林恭平、間遠藤六郎、同松井奥の諸氏引密の下に九年十月初旬入楷し、拓 捗省移住凌設指導班と協力して、移住地の基本的建設作柴に従事することになつたのである。 二百五十名の本院は訓練を了り十月十六日に警備指導員預傭歩兵中尉樋口孝叫、同少尉辻既卒、感師楯川豊の 諸氏に引率せられ、敦賀赴から滑津に渡り岡椚、蚊河を経て賓北級先音河騨に到着、それより徒歩で北大港ぶ入 梅したのである。しかし入植蕾初にはまだ偶人代宅は出挙しゐぢかったから、三部落に分れて建築されてゐた共 同宿舎に分楕せねばならなかつた。 ハ 農 薬 舵 皆 の状況 絡三次移民の農薬匪僚の方針は前二者と興る所はない。入植後間もなく絞稜開拓細合を組織して移任地の開拓 兵他の建設事柴に主力を注いで活動したのであるが、十年九月に至り、熊本柑・やさか柑・信濃柑・析出柑・北 大僚村。宮城村・常田山形村・︰共和村・及水〓班に別れて生活することになつた。此の地方は第岨炎及び節二次 移民稚苗に比して交通が便利であり且つ匪賊の青も少かったから、入棺早々から農耕は精進することが出来たの は仕合であつた。その為に早くも昭和十年度には次の如き盈期成綺を施、十⋮年度には作付面積の如きも仙躁魂 岬年度の二倍以来に上った程である。 第十ニー髄 質四祇 ︵三八〇︶ 八六

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ぐれば次の如くである。 二八囲頭 朗篤として見たる我が清洲農薬移民 備 考 て其他の申蜜なるものは撃稗二等鷺・線早大麻小粥警馬鈴馨等である。 〓、詳細ほ同上啓五四貰参照。 一ニ、十⊥年度の収穫高は不明K付紐載せず。 副菜としで畜産に力を用ひでゐることは従釆の移民と興る朗は甘い。昭和ヰ養度に於ける家畜の飼育数を蓼

箪二次移民主嬰作物作付面積及放橙高表

四七六頭 ︵ニー八一︶ 八竜

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牛 羊 三川璃

榊・単 三七七頸

家 命 二二六羽

∴農務加エをなす薦めに精米製粉部・髄造部・製材部等を設けたる外J共同廃語として木工部・鍛工蹄織撃自 動車部・土石工部︵後には煉瓦釈を設恕︶軒井部・聯事應等を設け部によりては専任者を置いて活動を盛にした。 有の内郷啓慶には股初専任者二名が露森厳城に駄擁しで荷物の輸送典他連絡の任事をなしてゐたが、後に之を興 亜錦に移特した。

ニ家 族 招 致

聖哀移民が昭和十年度中に家族を招致した数は大人んハ十⋮名小人五十二名計百トニ哀であつて内妻は四千九 名でみる。葡其の詳細は次表の如くである。 唱和十年鹿に於ける第三次移民家族招致数表 第十三番 茶四鶉 へ三八二︶ 八八

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備 考 同上啓五七賞忙依る。服し本末中の腰字と拓帝要覧昭和†二竺欣忙記する数字との間に相違あり。

4 梯川次農柴自術移民

イ 移 住 地 の 概 況

本移民は濱江省密出願内の城子河地常に三胃彗喩連河地帯に二百名に分れて合計五百名人穐したのである。 兜づ城チ河地帯に就て見るに此の地は穆稜河の#拝に位し林密紬鶴田辟を離ること伴に六粁に過ぎす。其の北方 には山岳地帯連なり、南方は碑稜河に至り、西北方から東南方に向って緩斜傾をなし、地味肥え農光軸として好 璃である。東浦は液高七月の三十二度倖、故低音の零下囚十度であつて、十方上旬には結氷を始め、四月下 ︵≡入≡︶ 八九 図篤として見たる我が清洲鹿鴇移民

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第十三巻 第四験 ︵三八四︶ 九〇 旬になりで漸く解氷する。七・八月の頃には降附が多蕊にある璃め南痛の様に草魅の襲は少ないが、穆枚河の低 地には水音を受ける懸念がある。唱和九年末に密山・林口聞に林密紬が開通したから交通の便が開け、同地方の 耗解約惰値が非常に加はつで釆た。 両班は約・こ梅丘千町歩ありて、その内約因子二百町歩は晩餐地である。其他ドも二荒地或は掩荒地と銅せられ る例の事攣別に開墾耕作されでゐたが其の後散薬せられてゐる土地が大凡五官町歩もあり叉放牧採草地の如きも 盈宵であるから三唱戸を容れるに嬰する土地は充分にある。該地宙の南方を耽る㌧趨稜河を利用すれば水田の開 墾耕作も困難ではない。 喩連河地宙では城チ河地懐から約二邦男束方に任しで林密扱が其の附近を通過して東海駆は地宙の中心から二 邦属揮わ斯にあるから貨物の愉学交通等に便利である?地形は東西に長き不正長方形をなしてゐて、西は恰達 河を瞞てて幣聾開に、囁は鍋底山地筒に接し、北は山番地帯に、諒は穆稜河に向つて綬傾斜をなしでゐる。気 候・上平地味等は城チ河地隈と大同小異である。訝地宙の面鶴は約六千町歩であつで、其の中眈墾面的盲町 歩あり、その他にも容易に開墾せらるゝ革地・放牧地・採草地等も豊であるから二百戸を移住せしめるには足る のである。 ロ 移民の募集選定及入梅 今回の碁集地域は北海道及び沖縄を除く全問に及び茶菓地域の贋き鮎に於で従来に其の例を鬼ざる所である。

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乳應某資格にも欒更が加へられた。其の筑なる鮎を撃ぐれば、 l 徴兵検査終了後浦:羊二義迄の着たるとと 2 現在自ら農耕に従容する濱たるとと、伸し移住地の建設弘絆轡忙必要なる塘技を有する者は例外とLて之を認む 3 易髄艶壮にして殊忙呼吸静病、紳経系疾患脇間忽等の既往症無き着たること 4 金ニキ凰を頴託し得る外入相後約山ケ年間の小道錦を携行し轡。者たること 5 移住後故郷忙迭金サる必要なき着たるとと 右の條件に依って全図からの廠碁者につき警次、及些哀詮術に依って五首名を選定した。而しで中約首肯 車名は指導展後備歩兵大尉熊谷仰三郎・同少尉辻蟹年譜民有引率せられて兜遺族として入樵し、移任地の建設基 礎事業に従事した。他の約三百五十名が本隊として敦賀より北鮮種山渡適を兎し昭和十毒三月入棺をなしたの である0

ハ 幾柴経常 の状 況

入楷後日璃きを以で未だ詳細なる報常を見ないから詳しく述べることは不可能であるが、経常方針は従来のも 打と何等攣りはない。串にも医事を蒙ることがなかったので移仕地の建設工作も順調に進行したし叉根付・耕作 琴も妨げなく行はれた。入植後第養たる昭和十二千度には城子河地帯に於て二百九十三町歩、恰達河地直に於 で二百三十町歩、合計五百こ十三町歩の作付をなし其の秋の収穫に依って食粕自給の造機確立の自信を得るに至 囲篤として見たる我が浦洲倦染移民 ︵三八五︶ 九一

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欒者は四回に亙って本間他に就て論じたⅥれども、資料が充分盤はぎる上に研究が不由である蔑めに佃ほ意を 轟さざる所も多く、叉述べんと企閲しながら其の意を果さなかつた問題も決して少くないのであるが、之等に割 に裁ては後日機愈を得て論述したき希璧である。そは兎も角としで以上叙述した所によつて試着諸淳は傑秀なる 帝壮年を渚洲農薬移民としで大泉に迭致し賽圃的に移住せしめることが硯†我が閻の問状から考察して如何に必 要であるかを了知せられた溺と倍やる。而して今日は放早や浦洲︰髭柴移民の可能性があるやなしやの議論秦する 時代ではなく、眈に幾度かの拓務省の聞物移民の驚積から考へても成功に二即の一旗ひなきことも秘め得られた.の であるから可及的速に之が葦行に邁進すべき時であることを知られたであらう。 我が政肘に於ても叫定計戴のもとに年々着々移民賓施に懸命の努力を彿はれてゐるのであるから闊民大衆も政 府の方針に協力し、之が援助に寄であつてはなら椋い。叉自ら移民を志す者は軍に自己白身の偶人の問魔として 丈ではなく、図表的盈質問勉たることを白魔しで満洲に永住する覚悟を以て入相しなければならない。而して移 任した以上は如何なる困嫌が降りか∼らうとも断乎として之を排除し、協力嘲致して語展を期して邁進すること 清 六 結 へるのである。 第十三啓 発四渋 ︵三八六︶ 九こ ったのは成功と言ふべきである。家畜の如きも早くも馬百三十九頭、単二十二期、豚百六十囲頭、獅羊五官十叫 顎家畜七十八網を飼奪し得たのであつて賂来家族鹿致数も加はり努力供給が巣になればその菟展は疑ひなしと考 語

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が肝要である。只目前のことのみ考へて小利に速はされ、二輝子金を歩みて眞両日な努力を快くが如きは大いに 戒めねばならぬ事と児ふ。今や皇軍は陸・海・暴軍協力しで北・小・前文に敬って藩政濯倒壊に必死の努力を韮 ね漠口の格蕗も眼前に迫ってゐる。他方衝天なる占領地滞には群酒工作が着々進められてゐる。而して親日戊北ハ の新支部統町政碇もソ・英等の防寄あるに不掬準備工作が進められ近き勝兼に其の成立を克んとしてゐるのであ って、我が政碑も極力援助に力を注いでゐるのヂのふから之が成就の嵯には我が樹の勢力は彫師として新支那 の天地に磁るでぁらうことは疑ふ換地は少しもない。時が到れば邦人の支那進出は目覚ましきものがあるであら ぅ。かくして日本が指導者となヵ沸立を協力せしめで東洋永遠の平和営碓立し、ソ・英などの耽洋に於ける認動 を断乎として押へてしまはねばならぬ.かく考へ来れば我が浦洲農業移民の韮要件は“段と加はるのである。行 け藩洲の廣野へ。働け皇囲の敬展の薦めに。而して囲民大衆よ助けよ我が藩洲農薬移民を。 ︵昭利十三年九月三十日縞︶ ︵完︶ 圃篤として見たる我が鴻洲農染移民 ︵三八七︶ 九三

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