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Vol.68 , No.2(2020)083吹田 隆徳「三昧経典類に見る特異な三昧について」

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Academic year: 2021

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三昧経典類に見る特異な三昧について

吹 田 隆 徳

「三昧経典」というのは,大乗の三昧を説く経典を指す分類上の呼び名である. 今回はその経典の中から〈首楞厳三昧経〉を取り上げる.そして〈般舟三昧経〉 との比較の上で,本経が三昧を説明する上で不可欠な要素を説いていないことを 確認する.〈般舟三昧経〉は三昧自体(主に実践や定中の内容)を適切に説いてお り,それを説かない本経との対比に相応しい.本経のように三昧自体を説かない 三昧経典は多く存在し,既にDeleanu (2000)やSkilton (2002)によっても問題視 されている.これは,裏を返せば,そもそも経典編纂の目的がそれ自体を説くこ とになかった可能性を示している.では,そのような三昧経典の目的とは何だっ たのか.本稿ではこの点を明らかにするべく,〈首楞厳三昧経〉編纂の目的を考 察する.まずは〈般舟三昧経〉と比較しながら,本経には適切な説示がない,実 践がない,出定がないという三項目の順に見ていく. 適切な説示がない ここでは最初の項目を確認する.下に示す引用が本経におけ る首楞厳三昧の説示箇所である.尚,これ以外にこの三昧を説示する箇所は存在 しない. ドリダマティよ,この首楞厳三昧とは何か.すなわち,(1)生起した心が,虚空界と同じ 様に,清浄になっていること,(2)あらゆる衆生の心に対する理解を現実のものにするこ と,(3)あらゆる衆生の能力の優劣を知ること.…(中略).…(103)菩 たちが胎内に 入り,誕生し,出家し,苦行し,菩提の座に赴き,魔を制し,菩提を現等覚し,法輪を転 じ,偉大な涅槃に入り,身体の滅尽を示しもするが,この菩 としての法性を放棄するの ではなく,完全に無余依涅槃に入るのでもないこと,ドリダマティよ,以上が首楞厳三昧 と呼ばれる.(Śgs P 284a4–286b4, D 260b1–262b4) 本経は「首楞厳三昧とは何か」を103項目を挙げて示している.しかし,その 内容は「首楞厳三昧と呼ばれる」ことに疑問のあるものばかりである.なぜこの ような形式での三昧の説示が成り立つのか不可解であり興味深いが,しかし,そ の内実は項目を列挙しただけのものに過ぎず,三昧の適切な説示たり得ない.こ

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の説示が適切でないことは〈般舟三昧経〉との対比でより明らかとなる. バドラパーラよ,その般舟三昧とは何か.…戒を完全に保った上で,そ〔の行者〕は一人 で閑かな場所へ向かい,座ってから,…そ〔の行者〕は乱れのない心で如来を作意する (*manasi-Kṛ).…一昼夜,あるいは二〔昼夜〕,あるいは三〔昼夜〕,あるいは四〔昼夜〕, あるいは五〔昼夜〕,あるいは六〔昼夜〕,あるいは七昼夜の間,作意すべきである.(PSS 3A–3B) この説示には,戒が清浄であるという前提条件,場所の指定,仏という対象 と,それを作意する(manasi-Kṛ)という実践,さらには一日から七日といった期 間が示されており,行者はこれを手引きとして三昧を修習することができるよう になっている.しかし,このような内容の説示は本経には存在しない. 実践がない 説示がなければ実践と呼べるものも存在しない.念のために,ここ では本経に見られる実践とおぼしきもの二つを取り上げて検討するが,しかし, それらが首楞厳三昧の会得に繋がるとは考えられない.第一には以下のような実 践が説かれている. すべての目的を実現しようと求める善男子と善女人は,まさにこの首楞厳三昧を聞くべき であり,受け入れるべきであり,記憶すべきであり,暗唱すべきであり,〔他に〕解説す べきであり,修習すべきです.(Śgs P 331a8–331b1, D 304b3–b4) このように本経では首楞厳三昧を記憶や暗唱することを説いている.しかし, これは般若経典などに見られる定型句imāṃ prajñāpāramitāṃ śroṣyanty udgrahīṣyanti dhārayiṣyanti vācayiṣyanti. . . (ASP 485, 12–13 etc.)と同類のものであって,首楞厳三昧

(=経典)を記憶や暗唱することを述べたものと理解すべきである.そして,冒頭 を見れば「すべての目的を実現」するために説かれた実践であることがわかる. その「すべての目的」とは,引用部の直前に挙げられる十八の目的(福徳,智慧, 天界,財宝など)(Śgs P 331a6–a8, D 304b1–304b3)を含む一切の功徳のことを指す. 第二には次のような実践が説かれている.以下に示すのは,本経に見出だせる 唯一の実践として過去にも指摘されている箇所である(Deleanu 2000, 73–74). 「また世尊よ,この首楞厳三昧をどのように実践(*pratipatti)したらよいでしょうか」〔と 問われて〕,世尊は次のように答えた.「ジナマティよ,菩 が,一切法を生じない (*apravṛtta)ものと見るとき,そのとき〔その菩 は〕この首楞厳三昧を実践したことに なる(*pratipanno bhavati).(Śgs P 331b1–b2, D 304b4–b5

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ここでは首楞厳三昧を実践したことになるのが「一切法を生じないもの」と見 ることだと言う.しかし,この後には「実践は一つだけではない」(Śgs P 331b4, D 304b6)云々と続く.なぜなら,ここでの発言の趣旨が「この首楞厳三昧を実践 するということが甚だ行い難いこと」(Śgs P 332a2–a3, D 305a4)を示す点にあるから である.およそ本経で具体的に示される実践は以上の二つである.しかし,どち らの実践も別の目的や趣旨で説かれたものであり,首楞厳三昧の会得には繋がっ ておらず,この三昧の実践とは到底呼べない. 出定がない ここで「出定がない」というのは,本経には三昧から出るまでの記 述がないという意味である.〈般舟三昧経〉にはそのような記述が存在する. そ〔の菩 〕は何度も作意することによってかの〔阿弥陀〕如来を見る.この般舟〔三昧 と呼ばれる〕菩 の三昧にとどまって(*sthita),そ〔の菩 〕は,かの〔阿弥陀〕如来を 見てから,「世尊よ,いかなる徳目を具えれば,菩 摩訶 はこの世界に生まれることが できるのでしょうか」と質問する.このように,どのような仏国土であれ,〔そこに〕生ま れたいと思う場合には,如来に〔このように〕質問する.…その菩 は,その三昧を修習 して,その三昧に入る(*samāhita).それから,その三昧から出て(*vyutthāya),バドラ パーラよ,汝のいるところへ向かい,やって来ると,その三昧〔の内容〕を説く.(PSS 3E–3G) このように,〈般舟三昧経〉からは入定から出定に至るまでを記述した部分を 抽出することができる.そしてこのような記述によって,行者が精神集中に入 り,その状態から出るまでの間に何を体験するのかを知ることができるのであ る.ところが本経には以上のような記述が存在しない.したがって,本経では首 楞厳三昧というのが精神集中の類として説かれているのかも不明瞭なままとなっ ている.以上三項に渡って,本経が三昧を説く上で不可欠な要素を説いていない ことを確認した. 首楞厳三昧の力 三昧経典が三昧を説くと一口に言っても,本経では観点が異 なっている.これは三昧にとどまる(sthita)ことを説く部分に注目すると分かり 易いかと思う.前掲の〈般舟三昧経〉では,三昧にとどまって「如来を見てか ら.…」云々と定中の内容を説いていた.これに対し,本経は結果として得られ る力を説く.以下にその例を示す1) ドリダマティよ,首楞厳三昧にとどまったその菩 には,〔他から〕教わらなくとも,あ らゆる生涯で常にこれら六波羅蜜が起こる.足を伸ばしたり曲げたりするたびに六波羅蜜

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が起こる.息を吸ったり吐いたりするたびに六波羅蜜が起こる.(Śgs P 295a6–a8, D 270b1– b2) このように,本経は三昧にとどまった行者にどのような力が起こるのかを説 く.さらに,本経には首楞厳三昧を会得した者たちが手にする圧倒的な力を示す 説話が多く挿入されている2).そこでは文殊師利や弥勒といった代表的存在を例 に首楞厳三昧のもつ力を説く.つまり,本経が三昧を説く観点というのは三昧の もつ力を説くことに置かれているのである. 首楞厳三昧の力と発菩提心 それでは,なぜ本経は三昧のもつ力を説くのか.編 纂目的を検討してみたい.その目的を知る手がかりとして,本経に登場するゴー パカ天子が菩提心を起こす説話に注目する.ゴーパカ天子は,まだ父の王宮で暮 らしていた頃の若き釈尊が,他の世界で既に法輪を転じながら,この世界では菩 として姿を現すという奇蹟を起こしていたと聞かされる(Śgs P 301b1–b8, D 276a4–b2).そして,それが首楞厳三昧の力であると知った天子は,この三昧のも つ力に驚愕して菩提心を起こす.尚,この三昧の力を見た衆生が菩 心を発す説 話は他にも挿入されている3) 善男子(=ドリダマティ)よ,その時,私に次のような思いが生じました.善男子(=若 き日の釈尊)が,このように愛欲を享受し,王族の権威を手にして,三昧をも会得してい るというのは,菩 たちの三昧の力は驚愕すべきもの(*āścarya)であると考えたのです. 善男子よ,私はこれを聞いてから,菩 というものを完全に師であると思うに至り,そし て私は信(*śraddhā)を得てから,深い決意(*adhyāśaya)でもって無上なる正等覚に向か う心を起こして,私もこのような智慧と徳を具えた者となろうと〔考えたのです〕.(Śgs P 301b8–302a2, D 276b2–b4) 本経では仏陀のみならず文殊師利や弥勒が様々な奇蹟を起こして衆生を魅了す る.これは単なる奇蹟の描写ではなく,首楞厳三昧を会得した者が手にする力の 描写にほかならない.このように,本経がその力を様々に説いて強調することに より,首楞厳三昧には衆生を惹きつける神秘的な魅力が具わっている.そして, このような力をもつ三昧は大乗だけにしか存在しない.したがって,本経を見聞 きした衆生は声聞や独覚乗ではなく大乗に注目するようになる.つまり,本経編 纂の目的は首楞厳三昧がもつ神秘的な力を説くことで,ほかでもない大乗に対し て信仰心を起こすよう教化することにある.本経が三昧を説く観点をその力に置 くのはこの目的のためである.ましてや,この目的において三昧の実践や定中の

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内容を設定する必要性は生じなかっただろう.

1)cf. Śgs P 280a6–280b5, D 257a1–257a7, P 294b6–294b7, D 268b5–268b6, P 329a7–329b5, D 302b4–303a2.

2)cf. 持須弥頂Śgs P 299a4–300b1, D 274a2–275a4, 魔界菩 Śgs P 319a5–310a8, D 293a3–

294a5, 文殊Śgs P 327a7–329a6, D 300b7–302b4, 弥勒Śgs P 332a4–333a1, D 305a5–306a1.

3)cf. 獅子座の説話Śgs P 280b52–282b5, D 257a7–258a4, 心臆した菩 の説話Śgs P 330a7–

a8, D 300b6–303b3.

〈略号表〉

ASP: Abhisamayālaṃkār ālokā Prajñāpāramitāvyākhyā. The Work of Haribhadra. Ed. Unrai Wogihara.

Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1973.

PSS: The Tibetan Text of the Pratyutpanna-Buddha-Saṃmukhāvasthita-Samādhi-Sūtra. Ed. Paul

Harrison. Studia Philologica Buddhica Monograph Series I. Tokyo: Reiyūkai Library, 1978.

Śgs: Peking Tripiṭaka vol. 32, mdo sna tshogs, thu 276a4–344a5 (#800)/ The Tibetan Tripitaka Taipei edition vol. 11 mdo sde, da 253b5–316b6 (#132).

〈参考文献〉

Deleanu, Florin. 2000. A Preliminary Study on Meditation and the Beginnings of Mahāyāna Bud-dhism. Annual Report of the International Research Institute for Advanced Buddhology 3: 65–113. Skilton, Andrew. 2002. State or Statement? Samādhi in Some Early Mahayāna Sutras. The Eastern

Buddhist, New Series 34(2): 51–93.

〈キーワード〉 初期大乗,三昧思想,三昧経典,般舟三昧,首楞厳三昧

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