博士(教育学)逸見勝亮 学位論文題名
師範学校制度史研究‑15 年戦争下の教師教育
学位論文内容の要旨
1.序章では,先行研究の分析視角と方法の批判的整理を行い,師範学校制度史研究の課題と方 法にっいて提示した。
師範学校は,高等専門教育の系と峻別された「国民教育体系」における頂点に位置した。「国 民教育体系」は初等教育と中等教育の代替物から成り立っており,その教育内容は「兵役義務ヲ 全ウスル」ことに主眼があった。その故に師範学校制度の改革は,相対的に高い普通教育を基礎 と し た 教 育 課 程 を 求 め , 「 袋 小 路 」 を 打 破 す る 方 向 を も っ て 展 開 し た 。 従来の研究は,実定法の変遷の解説にとどまり,各種諮問機関議事録への依存が強く,制度の 改革の過程と改革の基盤を醸成した制度の実態の分析を欠いているという点で大きな不備があ る。
研究方法は,政府・文部省の施策を示す資料により,政府・文部省の政策とその具体化の過程 および制度の実態を可能な限り明らかにしようとした。
2.第1章でtま,1931年「師範学校規程」改正の過程と,地方貝オ政緊縮方針下における師範学校 制度の実態にっいて解明した。
より高い普通教育を基礎におく教員養成構想が,師範学校本科第二部制度の発足(1908年)を 直接的契機として,また第二部制度の拡充の過程で現実的基盤を形成するにいたり,第二部修業 年限延長構想として「一九二八年師範教育令改正案」中に盛り込まれた。しかし,師範学校制度 の改革は,より高い普通教育を基礎とした第二部制度の飛躍的発展としては実現せず,地方財政 緊縮方針・思想事件対策と結合して,ようやく1931年「師範学校規程」(文部省令)改正によっ て,従来1年間であった本科第二部の修業年限を2年間に延長して具体化した。「師範学校規程」
改正に伴う第二部制度の比重の増大は,師範学校規模の縮小を可能とし,学資支給額の削減とあ いまって,道府県財政の削減に多大の貢献をもたらした。また,第二部修業年限の延長は教員養 成観の根本的転換の結果ではなかったがゆえに,第一部と第二部との相剋に一層拍車をかけた。
改正「師範学校規程」下の師範学校制度の実態は,両者を止揚して相対的に高い普通教育を基礎
‑55
に した師範学校制度 の改革が最も基本的 課題であることを 鮮明にした。
3. 第2章 では , 満支 方面 日 本人 小学 校 教員 養成 第 二部 特別 学 級の 設置 の 過程と制 度の実態を解 明 した。
侵 略戦 争の 展 開に とも な い日 本人の植民地 への移住も増加し ,植民地における日 本人子弟の教 育 の ため に, 朝 鮮総 督府 ・ 台湾 総督府.「満 州国」の要請に基 づく植民地派遣教員 の募集が頻繁 に 行 われ るよ う にな った 。 総督 府・軍にとっ て割増金で募る植 民地派遣教員の低劣 な「質」は大 き な 隘路 であ っ た。 これ を 打開 するために, 政府は,1939年10師範学佼に植民地向 け教ほの組織 的 養 成を 目的 と する 満支 方 面日 本人小学校教 員養成第二部特別 学級(大陸科)を設 置した。翌40 年 にはさらに10師範学校に言殳置した。この特弓IJ学級では,小学キ交教員としての素養のみならず,
「 満 州」 移民 の 紐帯 ・宣 撫 工作 者たるべく, 排外主義的・ファ ッショ的教育を徹底 した。特別学 級 はその位置づけの 高さにもかかわらず ,充分な志願者を 得ることができず に不振のまま推移し,
1944年には廃止とな った。
4. 第3章 で は , 傷 痍 軍 人 小 学 校 教 員 養 成 所 の 設 置 の 過 程 と 制 度 の 実 態 を 解 明 し た 。 1937年 以降 の 侵略 戦争 の 拡大 にともなって 増大した戦傷者の 職業保障政策の一環 として,厚生 省 ・ 軍事 保護 院 の主 導の と もに ,1939年,師 範学校に高等小学 校卒業で兵または下 士宮の戦傷者 を 対 象に した 傷 痍軍 人小 学 校教 員養成所が設 置をみた。当初, 傷痍軍人教員養成所 は尋常小学校 准 教 員養 成講 習 科・ 尋常 小 学校 正教員養成所 が別個の制度とし て発足したが,いず れも入学者が 定 員を満たすことは なかった。軍事保護 院は,充分な志原 頁者を得ることを 企図し,また十全な職 業 保障を考慮して,1940年には小学校本 手斗正教員養成科 を設置し,傷痍軍 人教員養成所に師範学 校 本 科第 二部 と 同等 の位 置 を与 えた。また, 同年,准教員養成 所修了者に尋常小学 校本科正教員 養 成 科受 験資 格 を認 めた 。 この 措置によって ,戦傷者である高 等小学校卒業者は, 師範学校に入 学 す るよ りも 短 期間 で小 学 校本 科正教員資格 を取得できること となった。傷痍軍人 小学佼教員養 成 所 は, 小学 校 本料 正教 員 資格 を取得できる ように,一貫した 制度に整備される過 程として展開 し た 。 敗 戦 後 は , 特 設 国 民 学 校 教 員 養 成 所 と 改 称 し ,1947年 に 廃 止 と な っ た 。 5. 第4章 では , 師範 学校 に おけ る勤 労 動員 の勤 労 奉仕 から 通 年動 員へ と いたる過 程と実態とを 解 明した。
国 民精 神総 動 員運 動・ 労 務動 員計画の一環 として,1938年以 降,師範学校におい ても集団勤労 作 業 が実 施さ れ た。 当初 , 勤労 動員は「援農 」に過ぎなかヮた が,1941年には国家 的な労務動員 計 画 が組 み込 ま れ, 学生 ・ 生徒 は労働カ補給 源として重要な位 置を占めるにいたっ た。動員先が 農 業 から 軍事 工 業へ と拡 大 する にともない, 動員期間もしだい に長期化し,1944年 以降っいには
56ー
遠隔地 への通 年動 員体制 へと移 行した 。授業 を行 わない で労働 に従事 する 勤労動員は,学校教育 にとヮ てはす でに 矛盾で あった 。にも かかわ らず ,勤労 動員は ,天皇 制公 教育の崩壊という状況 のもと で,あ くま でも教 育政策 として具体化したのであり,その故にこそかえって「皐閤勤労観」
「勤労 即教育 」な る教育 理念を 実現で きた。 勤労 動員は ,天皇 制公教 育の 最大限の発露・最高度 の達成 と呼ぶ こと ができ る。し かも, 通年動 員は ,燃料 ・原料 の途絶 ・空 襲被害により軍需生産 は麻 痺 し , 勤 労 動員 自 体 がそ の意味 を急速 に失う 過程 として 展開し ,勤労 動員 中の死 者は2万2 F人 を超し た。
G. 巻 末の参 考資料 には ,各章 で用い た資料 のうち ,一 般に入 手する ことが 困難 あるい は重要 だ と半l亅断 したも のを復 ・亥0して 掲載 した。
学 位 論 文 審 査 の 要 旨 主査 教授 竹田正直
副査 教授 寺崎昌男(東京大学教育学部)
副査 教授 高村泰雄 副査 教授 小出達夫
本論文 は, 戦前日 本の師 範教育 におけ る歴 史像を ,師範 教育と その 背景を為す軍部教育政策と の関連 で把握 すると いう 視点か ら再構 築する こと を課題 とした 。この 視点には,著者の国民の意 識形成 におけ る教育 史学 の責務 が合意 されて いる 。
本論文 のか くのご とき視 点と課 題から ,そ の研究 対象を 「15年 戦争下 の師範教育」とし,その 研究方 法を教 育政策 史研 究とし て措定Lた 。帥範 教育政 策史研究の方法としての拙創性は,第ー・
に戦前 日本の 教育制 度を 小学校 から「 高等専 門教 育に連 なる系 」と, 小学校から実業学校や高等 小学校 を経て 兵役義 務に 終わる 「国民 教育体 系」 と規定 し,師 範教育 を後者の「最高学府」とし て,か っ,両 者の環 とし て把握 したこ とにあ る。 第二は ,資本 主義的 発展のもたらす普通教育年 限の延 長と, 上記二 っの 休系の 並存が もたら す矛 盾と弥 縫策の 解明で あり,第三は,教師教育の 全体系 の変貌 を,戦 争, 植民地 政策, および 軍事 的要求 等の広 義の政 治的要請との関連で分析し たこと である 。
これら の方 法は, 従来の 教員養 成史研 究が ,対象 として は明冶 期を 中心とし,方法としては,
57
実定法 の変遷 や諮問 機関 の審議 の分析 に止ま り, 制度改 革の基 盤や諮 問機関の審議にいたる実質 的過程 の解明 を軽視 した ことに 対する批判を内在するものであり,史料的にも政府・文部省関係,
各地方 史料, 師範学 校史 料を新 たに発 掘し, これ を駆使 してい る。
第1章では ,1931年 「師範 学校規 定」 改正の 過程を 師範学 校制 度の実 態とと もに解 明し,1928 年改正 案でよ り高い 普通 教育を 基盤と した第 二部 制度の 発展と して構 想されながら,その本旨と は 耳IJな 要 因 に よ っ て , よ う や く , 二 年 間 に 延 長 さ れ た こ と を 明 ら か に し た 。 第2章では ,15年 戦争の 展開と 植民地 の拡 大に伴 う,「 満州国 」およ び植 民地下 の中国 におけ る日本 人子弟 教育の ため に,1939年から1944年ま で,全 国20の師 範学 校に設置された「小学校教 員 養 成 第 二 部 特 冐lJ学 級 ( 大 陸 科 ) 」 の 創 設 過 程 及 び そ の 実 態 の 解 明 を 行 っ て い る 。 第3章では ,戦傷 者の 増大に 伴い厚 生省と 軍事保 護院 の主導 で1939年 に師範 学校に 設置さ れた
「傷痍 軍人小 学校教 員養 成所」 の設置 過程と ,戦 後,「 特設国 民学校 教員養成所」と改称し1947 年に廃 止され るまで の実 態を解 明した 。
第4章では ,国民 精神 総動員 運動・ 労務動 員計画 の一 環とし て,1938年以降 ,師範 学校に おい て も 行 わ れ た 「 勤 労 動 員 」 の 政 策 立 案 と , 矛 盾 を は ら ん だ 実 施 過 程 を 解 明 し た 。 以上の 研究 によっ て,本 論文は ,師範 教育 史のみ ならず 日本教 育史 研究に対しても教々の新た な学間 的貢献 をなし た。
第一に ,1931年 の「師 範学 校規程 」の改 正が, 定説 のごと く一部 と二部 の「対等化」や「普通 教育の 重視」 として 行わ れたも のでは なく, 地方 財政緊 縮と思 想事件 対策にその真の要因が存在 したこ とを実 証した 。
第二に ,教 員養成 の全体 系とし て傍系 的な もので あろう が,15年戦争 下の師範教育としては質 的に典 型的制 度とも いえ る第二 部特弓fJ学級(大陸科)と傷痍軍人教員養成所の新たな解明を行つ たこと である 。とく に既 往研究 では, 軍人援 護教 育,「 銃後」 教育と してのみ分析されていた軍 事保護 院の活 動を軍 事行 動によ って傷 病を負 った 軍人た ちその ものを 国民教育の教師にするとい う 極 め て 構 造 的 か っ 複 雑 な 回 路 を 持 っ た 軍 と 教 育 の 関 係 を 明 ら か に し た 。 第三に ,師 範学校 におけ る勤労 動員に っい て,本 格的研 究を行 い, 当初の「援農」から「軍需 工業へ 」,短 期から 通年 動員へ と,そ して「 勤労 奉仕」 から「 勤労即 教育」へとする実態と理念 の変遷 を実証 的に解 明し た。そ して, 通年勤 労動 員を天 皇制公 教育の 「崩壊」としてのみとらえ る従前 の定説 を克服 し, 「天皇 制公教 育の最 大限 の発露 ・最高 度の達 成」,とする規定を行い,
日本教 育史研 究への 新た な貢献 を為し た。
なお,1932―37年の第 一部第 二部の 展開過 程,1943年師 範教育 令制定 の意義などが今後の課題
とされているとtまいえ,日本教員養成史研究における独創性と拓野性,そして新たな学問的貢献 は多大なものがある。
よって審査員一同は,本論文提出者逸見勝亮は博士(教育学)の学位を受ける資格があるもの と認定した。
‑59