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一 岡山県苫 田郡上斉原村 ‑ : ‑ ‑ ‑} C ・

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(1)

3 t F U ‑姐 k) 河原昔J f

^LG

地 域 研 究 第 1 9

一 岡山県苫 田郡上斉原村 ‑ : ‑ ‑ ‑} C ・

岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会

ソー4044

(2)

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(3)
(4)

(昭45・d月)上斉原村歯道一七九号 上声原村小学校

(本校)

上斉原村役場(中央)と生活改巷センター(左)

:;>.ir・..Lr1I

(5)

動力炉・核燃料開発事業団 人形峠鉱業所'製錬所 恩威貯水池

恩原牧場

(6)

崎谷スキー場 国民宿舎自軍髄 岡山県森

(7)

村営人形峠

量雷重量ホ叫嘉一雷JLJ̲・久

‑州別仙川uMm開MHH

r拍皇'‑.IIJ・阜・̀.キ苦

言‑7i払=)・IJd正一

心火がC.章.ぁ山々.〜まう・

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り七号・:・ナノ.管主一捗1いt1.‑i‑..5・・.‑

ヰム741ヽゴ「ルlS埠山「l丘穐

⊥7壷‑‑レ・・*1.1まて̲・;h:ノーよ阜・蓑止11.人′川・‑.brJ1‑・4隻∴JrLJJか、ilhり1一・7‑dT

近世封超時代の上層曲氏住宅様式を伝える民家

(母屋・長足・土蔵)

(昭和49・7・写) 一托柚・海生考もェ鼻主t一≠・い・p‑:が1‑・‑一一惣むごや危題‑;人1ムー・qAJ・iP・AちL・⊥∵山号・17け1‑.り一月■りーt‑ー{ノ

暮・、iL.抄.チ維{.uT蔓JihlTJハト・・tと〃i苫暑吐けけT・JL・・・3蔓3̲チエ号∫.r・‑・・.L・=・.I.・▲.・・ILE..L

鉄 山硬惑 定証文 天保5 ( 1 8 54 )年 (上斉原村 田淵仁亀夫氏所蔵 )

韓L

(8)

は し

岡山大学教 育学部社会科教室 内地域研究会第19集報告8 として

,

「中国山地の村一岡山県苫EI] 郡上帝原村

」を公刊す る。

調査の対象地域である岡山県苫田郡上斎原村は,タrl苫田郡加茂町 と.Pv一取県八頭郡佐治町 に,頂 壮苫田郡奥津町に, 南壮奥津町 と銀野町に,北は鳥取収束拍都三朝町 K:それぞれ境を接 してい るO 中国山脈の南面に位置す る村だけ忙人形仙 (標高1,ロ0 4

m

),堵 ケ

(同1,0 7IE),三 ケ上 山 (同1.0 55 ),花知山 (同 1.2 4 7TIT)などの 一・iLilか四万にそびえ,北のLFTl<

至 削

′⊂取 持水筒LR, 村内東北

に恩原高原が平間 モ地形を広げてお b,書井 川とその軒経である各支流 (恩厨川,逮藤

,中枠河川,赤和瀬川,池河川,木緒川,人ヲ

山川,舟の谷川

)

に沿 って大/」、の処帝が散在 して いるC

村の開拓は過払 鉄山稜,木地娩某の 5娘印に よって市 をわれ,鹿耕集EB壮主 として本村,石払 大木LLI,天王の よう

I h)

l悔 いの盆地を開銀 して新作に努払 鉄山襟のIJjiEfl性砂鉄の所在地 を求めて 功主原,人形仙,,池河,鶴南庶,遠藤 に工場 を移転 し,遠藤を叔後に明治末 棚まで活動が続いた。

木地挽菜の集団は赤和瀬,中酔河,′J、#,恩原など馳托咋沿 )利便の地を追 って明治中期 までの井 に従‑察 し,副

に耕作 もしていたが,その後次第 にその菜栄えて,現在では全 く姿を消 して しまっ た8

上兼原村枚往時宮庄中の1村であった

「作阻

慈」

に鞄税5 0 7石6斗,戸数1 0 2,人数5 7 9人と記 されてい る。森氏除封後,元練 1 1年 に執 」膚 主松平家の所 儀となったが'草保1 2年の 渡封に エb鞍府直属の地 と在D,維新当時I.A:#府領di山背預 bになっていた. 明治22年6月村制 を施行 して上斎原村 となD,村役場を字本村に恩 くO同年頓 1mの地方道 (現在の国道1 79号級 . の 前身 )が開通 し,美作 .伯者安逸に新時代 を迎え,大正14

には県道 に認定 されたo その後中

l

池が同年5月に竣功, さらに上斎原

(

格原 )発・愁軒が昭和5年7月に運転開稗 したo 第2次世界大 概後昭和5 01 1月になると人形暗に ウラン鉱が発見され,昭和5 2年 8月 には原子燃料公社人 形峠出張所 (動力炉 ・ 核燃料閑党争英EB人形締鉦 空所の前身 )が開設 され,Ffq・L15 4年 5月か ら 採鉱試版 が開始 されたO従来の県道は昭和3 8年に国道1 7 9号線に昇格 し,交通の俵は一層改歯 I

されることとなったo しか し,昭和50年代後半か らのわが国軽折の高鑑成長の なかで,従来 よb l 鹿林業を主賓 夜産業 として きた当村 において も都市周辺への就職に よる人 口流出がみ られ るよう

( , ・ E

(9)

在 9,人ロは年 ととに減少頃向をた どり.澱近では過疎化現象を里 し, しか も残留村民は,彪林弟 の 低/生産性の もとでの妓林家所得を, 日屈などの不安定 を兼業 に よって補 ってい るO 上斎原村 では,

この ようを過疎化の進行過程で人 口の減少を食い止めるべ く,林業 ・畜産 ・観光を行政の5本柱 と し

,

「患1・れた 自然を此林業 と観光に活か し,健康で明 るい丑か在村」の建設 に努めてい る.

当地域研究会払 岡山県の最北端に位置す るこの山村が,いかなる歴史的過程を経 て今 日にいた 少,新たな時代にいかに対応 し変貌 しつつあるかを歴史 ・地嬰 ・蕗英経済 ・社会 .教育 ・文化の諸 分野か ら総合的に明 らか托 したい と周 った.調査 は昭和49年7月25日か ら29日までの5日間 を本調香 とし'教官8名,数垂所属 5年次学生全員54名,それに卒業生有志 d名の応援を得てこ れに=き1‑̲'は った。 こうして教科の調査 と収集を終え,散発 ・前集の段階 にいたった昭和50年2月7 日, これまで精力的に指帝に当たってこられた藤沢晋教授 (日本史担 当 )が,突然 と逝去 され,当 初の刊行予定から大

に遅れることとなったものの, ようや くこ

に発刊の運び托なった ことは故 茄沢教授正 も荘んでいただけるもの と思 う。 しか し,開査経験の洩い 5年次学生が調査の主体 であ ったことなどか ら,不備 な点 も多 々あることと考 え られ る。 この点かゆるLを願いたレ、。 ともあれ この ささやか な研究労作が公刊で きたのは,炎暑 を もの ともせず,孝ほ うとして昼夜頑張 った学生

J

諸君の努力 もさること夜が ら'‑嗣賓を通 して懲 始暖かい と魅力をいただいた村長,教育長をは じめ とす る役執 教育委 員会'曲協'商工会'学払 村民の各位のお琴 である. 心か ら厚 くも・・礼申 しあ げる次第であるO ‑ J・、1、 .1.

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(10)

発 刊 に よ せ て

上斉 原村 長

三 船 続

昭和49年7月 よb2年余の 歳月をかけ, l対係者の一 方 ならぬ ど努力に よb. ここに 「中国山地 の村一岡山県苫田郡上斉原村 ‑」が発刊の運びにな bましたことは喜びに堪 えませんO 関係者に対

し衷心 より謝意を衷す る もの であ ります。

わが上斉 原村は古 くか ら院陽連 絡の要所 と して栄えてそし・,少Iiした。 殊 に千古の原始林 と きじ師, 砂鉄の採取等か ら現在の林業,畜産,観光等への移 り変わ

b

が,本番 を通 じて広 く村民各位(/r̲紹介 され ることになb,郵土 に対す る識 靴と愛情が

探せb

,私 たちの村の 伝統 と歴史 お よび現状 を十分 理解す ることに よって将来の発展に較す ることがで きると思い ますo

この ような意味 において,本音が エ̲b多 くの かたがたに愛流 され,健康 で豊 かな郷土 を轟 く心の 礎 と もなれは辛い と搬 うもの であ bTiして,関係省各位の ご惨 力に感謝 し発

に よせ ることば とい

た し

ますo

1

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(11)

調 査 . . 参 1 加 者

藤 沢 筈 虫 明

机 三

道 三 郎

米 村 昭 二 高 速 進 高 橋 達 郎

田 中 史 郎 宗 田 克 己

森 元 辰 昭 在 間 宣 久 中 野 莫 智 子

平 方 英 子 井 上 八 重 子 岩 城 安 子

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三 宅 '

陸 中

玲 子 西 山 ひ と み

井 上 悦 子 鈴 木 澄 子 姫 汲 保

藤 井 裁 加 藤 百 合 子 田 村 啓 介

美 智 子 横 EB 輝 子 三 宅 日 出 彦 治 飾 丸 彰 子 山 本 由 美 子 生 本 季 太 郎

藤 沢 永 . 片 岡 晃 奥 田 充 代

大 略 陪

宇 都 宮 瑞 患 山 崎 明 子

須 夫 子 藤 原 美 佐 硬 浜 田 久 倭

国 田 倫 子 松 原 忠 子 難 波 英 重

商 石 和 子 池 EB 裕 子 福 森 敦 子

西 原 英 子 藤 井 洋 子 鎗 浅 美 智 子

国 定 節 子 参 加 指 導 教 官

参 加 卒 業 生

参 加 学 生

(12)

中国山地の村 一 上帝原村 一 目次

第1葦 自 然 環 境 ‑

1 上斎原村の地形 ・地Jj5 2 気候 一恩原観 測所の デー タ

窮 2牽 人 口 と 集 落 I‑‑‑.I.‑̀‑ ‑一一一一‑1・‑I‑‑‑・▲・‑ 17 1 人 口柵成 と人 口移動 ‑‑‑‑J‑一一1 ‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑一一一一一一 ‑ ‑ 17 2 過疎化集落

第5肇 古代 ・中世の上斎原 1 番 庄 ‑ 一・

2 戦 国勅 Z)争 乱

策 4葦

近世の上斎原 一一1 1 領主の系譜 2 支配の組織 と内容 5 村高 と年 貢 4 度:民の生活 5 旗民佳 肴 ‑‑

54

占 8

‑‑ ‑ 9 0

‑1‑‑‑‑‑‑ 一・一一一‑‑‑

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(1) クタラ製鉄 ・一一・

‑一 一 一 ‑

‑‑‑一一・一‑‑・‑‑‑ 一一一一一‑‑‑‑一一一一一一‑ 156 (2)木地師の生括 一一‑‑一一一一 ‑一一‑ 二一一1‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 1dd

第5輩 交通 と通信 ‑‑‑‑ ‑一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・一一一一‑一・一‑‑‑・‑‑一・一 176 1 近代の交通 ‑‑ .一一一一一̀一一‑一一‑一一 ・一一‑一一一一‑1一一一一一一・‑一一一一一一一一一一一17d 2 郵便 と電信 一・一‑一一一‑‑一一‑ ‑‑‑‑‑一一…‑‑‑‑I‑一一一一・一一一‑・一一一‑195

(13)

1 農業の発展 一一一一・1‑‑‑‑‑‑‑1‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑L1 201 d

(j)曲集生産力の発展

(I) 鹿民屑の分解 一一一一..一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑i‑‑‑‑‑‑」ニー=t‑1I‑‑‑ 210 し 2 典 薬 構 造 一一一一一‑ 一一一一一・一一一一一一1‑‑‑Li・一二一JiL!iL‑J‑・I‑‑∴ 219 (1)土地利用の変化 と農地転用 ‑‑‑‑一一一一1‑l二二 一二 一 L工‑‑‑ALJL一 一一・一219

(I) 土地所有権の移転 と頻発経営の変化 '‑ ● ‑ I‑‑‑IN‑… 222

・ ケう 労働 力の変化 と兼業化 一一一一一一‑‑ ‑∴ ‑‑‑‑‑rJ ‑‑‑‑I‑ IL∴ ‑‑ 226 日 桁 の盛発 一一一T一一一一一‑ 一一・一一‑M J il‑ ⊥「亡 こ'JjE‑‑‑‑ 252 (7h) 畜産の勅向 ・一一小 一‑‑ ‑一一一一一一一一一一一一一一一‑1‑J1‑Jユキ ‑‑‑‑IL 258 5 林 薬 ‑‑‑‑ ‑一一‑一一‑I‑‑‑‑‑・一一一一‑‑一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・一一‑‑ 245

(Jl)山林原野の存在形態 と歴史的発展過程 ‑・一一一‑一一・一‑Fit誌も ‑ゝi:牡 7漣 ‑‑・ 245 (p) 林産物の生産 とその変遷 ・一一一‑一・一一 ‑一一一一一一一一‑‑‑エ ー‑1TT‑r‑エ ー254 ぐう 森林組合 一一一一一一一‑I‑‑A‑‑一一一一∴ 一一1‑‑‑‑‑.・i・Li:17TTC‑i・:i‑ニ 258 4 鉱 = 韮 一一一一一一一一一一‑‑I‑ ‑.‑‑‑‑‑‑‑一一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑ 26?

(I)鉱 業 一一‑一一一一一一一‑ ‑‑一‑ ‑‑ 一二 一一‑一一

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262 (I)エ 秦 一一一一・一‑‑‑‑‑‑一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑L・‑:‑I‑>'‑‑⊥一・ 267 I 5 商 雅 一‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑ 一一一一日 ‑‑‑ユ ー.:‑‑‑r L‑:士一十・ 275 H) 商業の推移 と現況 ‑一一一一一‑一一一一一一‑I‑‑‑‑I‑‑一一ユ ニ「一一∴ ・‑・ニー 275

(I) 上斎原村 とその商圏 一一一一一一一一一一一一‑ ・‑‑‑・‑‑‑一㌦ トニiI.ri二」 288

‑ ←う 上斎原村 と観光 ‑ ‑‑∴‑‑‑.‑〜‑・‑‑‑I‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑ 三 ーL ‑‑‑ 511

・ (j 商工会の活動 ‑‑1一一一「一一一一一一.‑∴ ‑‑‑‑‑‑‑‑一一一二‑: I‑}‑‑一一 521 L d 上斎原村 と水力発電 一一一‑ 一一一一一一一一一一一‑ ‑.一一‑1=:EI:JL 一一一一一一一555

Lr■I T ・

第7茸 社 会 構 造 一一一一一一一‑‑ニー‑一一一‑‑一一一一‑I‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 545 1 調査地の概況 ‑‑‑・一一‑ エ ーー一一一一一一一一一一‑ ‑ ‑‑‑一一一一二 ‑1・主45

15 家族構成 ‑‑‑‑」 .‑‑m ‑‑‑‑一一一一一一一一‑ ‑‑一一‑‑‑一・二一rL,‑‑∴1 一 550

(14)

4 同族と親族 ‑一一一一日‑̲一一一̲̲̲Iー̲̲̲̲̲̲【ー̲̲̲I̲" .̲.̲ ̲ 亡̲̲小 一.̲̲574 5 上斎原Bt美協同組合 一一一一一一‑一一‑‑ ‑一一‑一一一一一一一1‑‑‑‑I‑‑‑‑…一一417

4 名所旧跡 と伝説 ‑・1‑‑一・一・一一‑‑一一1‑一・一M r.‑ ‑・‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑4日

第9茸 教 育 ‑ll‑‑‑‑一一・一‑一一‑一一一‑ ‑‑一一一・一.一・一一一一一一‑I‑‑一 一一一‑‑‑ 476 1 近代小学校教育の成立 と発展 ‑1.一一一・一一‑‑‑〜‑‑‑一一一‑‑一一一・一‑‑一一 一一一一‑‑一一 474

4 社会教育の展開 ‑・一・‑一‑ ・1‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑・一・一・一一‑ 一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑520

以 上

(15)

第 1

自 然 環 境

1 上 斎原村の地形 ・地 史

(1)地形 ・地質の概観

人形峠か ら,明るい林間の山道 をあえ ぎあえ ぎ登 ると,芝生 と疎 らを林 が広が る。そこtA=泉が ある.

高滑水 高原で ある。 さらに山道 をたと って.郁 9 7 占mの山頂に達す るo腺墳 ^d̲・なす標高1.0 0 0

m内外の山嶺 が東

西

に適 ってのぴる.)南を附観す ると,凍境 の時 々か ら枝分かれ した稜線は 次第に低 め られ ,谷 に よ って

刻みこまれ ,吉井 川 の河谷にむか って下 ってい くO左手かな たに 望まれ る高原 状 山地は恩原高原であ ろ う。吉井 川の谷 を へだてて再ひ山 々が 重な ̲b,そのか なた に花知仙 ,三十人 ケ 仙 をは じめとす る1,

0 0 071Lを越す 山顔 が東西に連 を 9

,

風の ように南 を限 る。 写 l‑ 1‑ 1 高柿水高原山頂面

上斎原村の全貌は一望の うち(,Cある。ふ bかえる と

,

山陰の山 々が う

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続 き,は るかに 日本海がか すむ。

上斎原村は,中国脊梁山地の内iJC位思す る山村でせ る。 面研 89ki, うち山林原野が98帝を占め るO最高所は1.2 5 5717(三国山 ),点低 所は440桝毎度 (吉井 川の谷 )。周縁,,ll.0 0 0〜 1.2

0 0

m

の山嶺で あり,中央 に向 って次第 に低 く去 る。 高庇区分別の面棟比は,右心 ‑iかに計井す ると, 1,0 00m以上 約15肇 .80 0‑ 1.0 0 0m約5 5車 .4 0 0‑ 8

8

0m約5 9, 占 0 0〝似 下 約11多であるo

行政区域か らケ ると,岡山県の壌北端に位促 し,北の村界は鳥取 県 との県境 とな るO村域は大雑把 にいえば三角形で,南辺は岡山娘奥津町 と鏡 野町 とに,東辺は 岡山県加 茂町 と鳥取児佐治町 とに,北 西辺は鳥取県三朝町 に接するO県境は 中国脊梁 山地 の分水界 と一 致 してい るO

中国脊梁 山地 ではそれ 自体が北偏 してい るのみな らず ,分水裾 もまた ,中国脊梁山地 内で北偏 して い る。その北偏の 仕方は一様でな く,か trb・)タザク状に入 りこん でいる. 岡山 ・鳥取脱境では ,

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計 上一58l ) 二452

(18)

「鳥取北部 ・南部 」 (村LLl正郎 ・一色直記 ・坂本 lF, 1965)に詳細に記叔され ている。それ らを 要約す ると以下の ようで ある0

本村域の地質は ,生成 時代の古 い ものか ら,(1)三郡変成岩類,(2)後期 中生 代火山岩類 ,(3)後期 中生 代進入 岩軌 (4)鮮新世初期 (あるいは 中新世末期 )の人形峠層 ,6)鮮新世火 山岩類 ,お よび(6)第四紀 河岸段丘堆積屈 および神棚届か ら碗成 され てVlる。 これ らの地質馳係 を表1‑ 1 ‑ 1に示す。ま た地 貿概略 図を凶 1l l1 2に示す0

本村の大半 の地域は ,中生代送入岩類 に よって構成され てVlるOこめ附近の迷入岩は大別 して 5期 に分け られ るが ,本村では ,比較的小 さな岩体 (文象斑岩 ・花 樹斑岩 など )として点在す る第1期の ものを除い て,窮 2期に迷入 した ,中粒矧 pR]石鼎蛋僧花 闇閃緑岩 ,粗粒角㈹石挺率母花 硯岩 ,中粒恩 韻母花 岡岩 などで ,底盤状 に拡が ってい る。本村域 で澱古 の岩層 は三郡変 成岩類で ,奥津町 との境界 に沿い ,吉井 川の両津に約0,5× 1.5kガの小岩 体と して昇出す るもの と恩原の北柏に分布す るものと が あ。古生代後期の地 向斜堆棟物が低臥 高圧の条件 下で広域変成作用 をうけ て生成 した もので あ 少.北九州か ら中国地方東部に まで広 い牛

匪】

忙わた って分布す るもので,本地域 のそれ咋 砂岩 と枯坂 岩 の互膚 よb夜 !),中生 代花臓岩類の環人 を うけホノフェ スル化 しているo

後ル仲 生代火山岩朝は人形イ山以西の

境山地 を籾 成す るもの と,.J、岩 体 として点在す る ものとかあ るo紛岳 は後者に属するO安山岩 および同火 山砕府岩 を主体 としてい る。 .

人形 峠層は:,人形峠 を複式地 と して命名 された鮮新世初期 (奉るい/ji中新 姓末期 ).の陸 成堆積屈で あ9,前述の後期 中生代 の花 組岩 類 を基盤 として ,その上に東西方向 にのぴ る狭長 な分布 を示 してい るO この堆械 当初に'ji,いわゆ る中国準平 原はすで にか な りの程度まで開析 され ,準平原 面上には 比 較的経 やか な河 谷地形が発達 し,人形峠 よb恩原 を経 て康己峠 .VTLVlたる旧河谷 を埋め て堆荷 した もの が人形峠

J

dで あ り,幌式地では下位か ら上位へ ,含 ウラノ基底T#岩層 (厚さ 2‑ 5/〟),泥岩砂岩互 解 (Jgさ10 〝日 ,砂岩嫌 岩泥岩五感 (厚さ 5 0nL士 )で あD,その上に鮮新 世火山岩類が盤合 的に 被津 しているo辰 己峠付近では泥岩が著 し く卓越す るようになるO珪藻土 も含 まれる。従 って静水域 的 な環境 の時代が あ った と推察 される0

人形峠朋 中の ,)ラノ鉱 沫/jjl, 1 9 5 5年地質調査jyTの放 射能探査で強い放射能 異常が検 出‑3れた

とに端 を発 し,花(.q岩 を不凍合に揮 う傑老 中に燐灰 ウラン石が発見 され ,日本ii初の水成 ウラノ鉱床 として任 目を浴びた0 1 9 5 7年原子燃料 公社が人形峠 出張所 を踊殻 して探鉱 を/d じめ,1 9 5 9年 度か ら試験採掘が開始 された。

鮮新世 火山岩類は ,三国山 を頂点 として,県境

折 って高滑水高原‑ ,または赤和瀬 と中津河 との 間 の峰‑ ,恩原高原 へ と伸 びる分東嶺 示 して いる.主 として花 絢岩類 を不整合 に倭 うが ,一部は人形 峠層の上に塵合的VL,重 な っているO下半部は安山岩賓の擬灰角硬岩 (丹 戸艇灰角錬老聴 ),その 中//e 普通輝石かん らん石玄武岩熔岩 と凝灰角練岩 (高清水玄 武岩瀬 )を挟んでい る。・上半部は輝石角閃石 安山岩 の熔岩 (中津河安 山岩廟 )であるO

在か,仲秋屑の地域を除 くほ とん どの地域 にわた って ,礎石属 ・火山灰府が存在するo これ らは大

山火山Pn出物 と推定されている。 (高橋適 郎 ・三 宅 隆 )

‑ 4‑

(19)

51世親

.,IT?Yと皿JCt)rLTYT:H

t.官Yソ十iL,

(.7V甘ヤ専)

tY頼3'剖各

論;7.絹錯L削..,])

r< :8

‑ 5‑

NY剖各■

(凍)

Y3'各.S

Y'寸nt常食催)

草薮境港札屯.帆

繁雑rT]琳定食*.〜

世帯夏.i

qEq環等qr「串提車5'」「仲軸」「慣脚」「奇瑞」皆固執葛LQ虫Rs芯榊寛鞘賓Lfl普峯村者Nli‑L

(20)

参考 ・引用文献

山田直利 ( 19 4 1 ) 二5万分の l地質図幅 「奥津 」も‑‑よひ同説明=3. 地質調 査所 山田直利(19 4 6 ) :5万分の1地質 凶幅 「智頭 」および 同説明現 地質調査所

村山正郎 ・大沢 瀕 ( 19ム 1 ) :5万分の1地負図幅 「官省 ・倉吉 」もLよひ同説明苛. 地粥調査 所

村山正郎 ・一色 直記 ・坂本 苧 (19 6 5 ):5万分の 1地質図偏 「鳥取北部 ・南部 」および同説 明帯.地質調 査所

高橋達 郎他( 19 75‑ 75 ) :岡山県の地形計測 とそ の結果 か らみた地形の特色(1)‑(4).岡山大 学教育学 部研究集録 5 5, 58 , 4 0, 4 5

(2) 山地小起伏面

木地域 の山地V(=Qi,い くつかの小起伏面が認め られ る。山地小起伏面 の区分 と対比のために(i ,棉 密な調査 と ,より広域にわたる追究 とが必要 であるが ,い せの ところ十分を的査・trl行 ってい孜い。 し か し,′」、超 伏面の分布高度 を区 分の主 な基鞠 として ,一応の 区分を試み る と,(イ)10 0 0

m

両群 (。)

8 0 0717面秤 目 ム 0 0wl面群 の 5群 になる。 ji‑・のおのについて以下 で述べ るD

夜も・,鹿島音別 (19 7 4 )に よって,本地域の東部か ら佐治谷 を中心 とする地域 ('Eつい てIji,也 形面 区分か試み られ てい る,,

(イ) 10 0 0

m

面群

漂高9 D 0mb、ら1 1 00〝Lの磁針n=存在す Jも′」、起 伏簡 k・‑指 した。そ れ らIji,梢成岩 と面の成因 とJK応 じて ,さ らに 2種の面に区分で き る。 1つは 中生代 火山岩演 もL(vi中生代花 (;初老頻 を切る侵 蝕′」、起伏面で ある.人形仙 台東端 と LLlIl<境 を南西 L,'C田代峠 を‑ て津黒 山 にのひる侵 蝕小ノ担伏面 ,花知 仙周辺 の娃蝕′」、起伏面および三十^仙 ・天狗 岩東 方の侵蝕′」、起伏面 f(どが それで ある。いずれ も90 0‑ 1 10 0,JLの水 準に拡か ってい る。いわゆる中国脊梁山地面 と もい うべ きもので ,西村鹿助 (1 965 )の道後 山面に相当 し,中新 世以前

V L r

准平原 と して形成 された もの と見 るのが妥当 と考え る。

本地城(,L一かいて も中新世以降の唯 砧物 (人形峠 屑 )が この面 を刻む偵蝕谷 に堆析 Lているとい う弟架 紘 ,その考え を支持す る証拠であるO花知仙 し 12 4 7 //り ,天狗宕 ( 1 19 77Jl)fL・どは ,隼平 原 上(/Cわず かな高 ヰ少として残丘状I・'C存在 した もので あろ う.

以上 の位蝕小起 伏面と(,‑iとんど同高で あるが ,その形 成の要 因や時期 の展 なろ小起伏 面が存在す る.

三国山か ら県境 を西

. ' g

i冊水筒原山頂付近までにかけて連 なる小起伏面と,三国山か ら南西に風炉高 原 スキー場面 (9 08m以上

)

にのぴ る′」、起伏面などで あるOその標高は9 0 0771か ら1 10 0〝J前 後 である。構成岩は安 山岩 もし くは玄武岩J.Dなる。 これ らの火山岩は 中生 代花 崗岩加 i̲・不鹿合に , 一部鮮新 世人形峠屑 を澄 合的に啓 う火山岩類 の上部 をなす ものでも b,鮮新 世の噴 出と推定 され てい るoこれ ら熔岩 よ9なる台地状の小起伏 面は ,前述の小起伏面 と(rl奥種の もので ,山田直利 (1 9 6 I, 6ム )の指摘す るよ うに,熊砦高原 ・有梅原高原 など と同 じく,一種 の メサ とい って よから う。

人形峠屑の基底 は,山田( 19 6 1, 6 6 )I,,Cよれば人形峠 で72 0 m,辰 己峠 で6 70‑ 6 88

‑a‑

(21)

m

で,西か ら東へ 向 う河谷状で あるとい うO その方 向は 佐治谷の 方向にほ とん ど協 和的であ り,人形 峠Jiの 分布は佐治谷の谷南部jiにまで及んでい るので, 1 0 0 0m面 (中国脊梁 山地 面 )が 深 く下刻 され,その谷 に人形峠屈 の堆耕 した当時の河谷は ,佐 梅谷の方 向にのぴ,山陰側 水系に属 していた と 考える可能性が ある。 しか し^形峠柄 に対応 する下柾の准 軌屑の存否は わか らないO現在の水系 の方 向が この旧河谷 と全 く臭 ってレゝる理由,また, もしこの 旧河谷が山陰側水系 であ った と して ,その地 域の山陽側水系への編入 された理由とLては,当然三

山 を中心とす る鮮新世火 山岩類 の噴 出に求め

られる。

(p) 8 0 0m面群

標高7 0 0777か ら9 0 0mの間にひろが る′J、起 伏面を一指する。^形仙の東 に一段低く 8 0 0m前 後に広が る小起 伏面 (^形仙牧場面 ),高清水高原 山頂′J、起伏面の下に 8 0 0‑ 8 5 0771程度の綻 頓 斜面 (高神水高原 スキー場面 ),池河 と赤和 潮間 の小起伏面 (池河牧場 面 ),恩原貯水池の周辺に 8

0 0m前後か ら9 0 077Zまでの高にひろが る高原面 (恩原高原牧場面 )夜とで あるり これ らの面q:i, 中生代花 揖岩類 ,新第三 系の^形峠層か よひ丹戸凝 死角康 皆済 を削刺 した小起伏面 であ るが ,新第三 系の削劇の様相には地域差がある ようで,すべ てを同棲 を綬蝕面 として一括 できるかは 疑問で ある。

面 の高度 も2つ以上のレベルに区分されそ うであ る。 しか し,いまの ところ精査が進ん でh fEレlので, ひと‑,!とめに して も.くOただ し,豊島音別 (197 4 )打[,佐治谷付近の地形 面区 分で,この '‑I.弓さの 平坦面 を三原冶膜面 (8 0 0 ‑ 9 0 0wJ)と人形峠面 (7 0 0‑ 8 00 nE)2つに識別 した. 前者 には人形仙牧場面 ・高満水高原 スキ ‑場 面が ,蛍者(/I.托地河牧粉面 ・恩原高原牧観両が含まれ るD

中国LLJ地の形成過程に関 して,吉川虎雄 ら (1 9 75 T)紘,太郎 日上流部で8 0 077L以内の高さi: 示す八幡高原に ひろが る侵蝕小起伏 Ib‑i:^幡高原面 と

ひ ,中新統堆筑後 中簡脊梁山地に深 く入 bこ んだ谷 にそ って形成 された侵蝕面 とみ た。たた L,守山 たjjB面 との鮎係 につ いては,同時炎高 とす る 考え と,異 時のもの とす る考 え方 と2つの可能性 を訂 ddLThる0本地域の8 a 0nl両群 は ,高度や 面の配置の順序か らみて ,八幡 高原 面相当 ない し(Jまそ hと近 似の もの と見 なせ よ う。 8 8 07〟前後の 侵蝕小起伏面につ いては ,かつてはほ とんど注 目さ,f■'..1か ったが ,広 島県 内の 中節 梁山地 で しば し ば見Etjされる ことJi・,藤原健蕨 (19 76 )も指蹄 してしつる。 ただ し,藤原は これ らを吉備高原 面の 高位面に対応す るもの とみているO

(J) 60 07TL面群

占 0 0‑ 7 0 0nzに ある侵蝕小起伏面で ,上斎原 姓等の周辺('C丘陵状に 分布す るO三 ケ1原や岩 崎 谷牧場の面 などで ある. 中生代花 樹岩類 を削刺 Lた侵蝕 画であ るo 金島(19 74 )紘,人形峠 面よ り一段低い侵蝕平坦 面ir̲・津無高原 面 と呼 び,よi)高位の地形Ji・切 り,入 り組 んで発遷す ろ新 しい侵蝕 面 とし,吉備高原 面相当の もの とみた。 そ して本地域 の三ケ 上原を,津無 高原面 L/C対比 している 。

以上 ,本地域の山地小起伏面 についてのべたが ,中国山 地の地形発達 史の夜かでの ,それ らの位暦

づけ忙ついては,夜か今後の研究に残されてレlる。 (高橋 達郎 )

17‑

(22)

参考 文献

豊 島音別 ( 1 9 7 4 ) :佐治谷 を中心 とした兼 中国 山地の地形 ,東 中国山地 自然環境調査報告 PP 1 1‑ 16

簡 村甚助 (19 65 ) :ChugokuMollnL払in8 aS a Staircase morDhot()gy.

Sci.fiept.Tohoku Univ'. ,Ser .7(G90gr.), 12, l‑19

山 田直利 (19 6 1, A a ) :5万分の1地質 図幅か よび同説明苛 「奥津

」 ,

「智頭 」 地質調査 所

吉川 虎雄 ・杉村新 .月額舛千 ・太田陽子 ・阪口 豊( 1975 ):日本地形論 藤原 髄液 (19 7占 ) :広島県の地形 特性 とそ の形成過程 (印刷 中 )

(5) 河津段丘 吉井川('C沿 って , 本 手雅夫でtrlほぼ2段 の河津 段丘 が発 達 し てい るO河谷の平 坦 面結 ,ほ とん どが段 丘 面 を・それ i・卦 お う

JW ・扇状地 とより なるO 上斎原 ・寺ケ 膜 の将 付近 で ,良 丘面紘収 も幅広 ho

「 一一 ‑ ‑‑ 一一L‑ ・・‑ 一一一1‑I‑ i‑‑ ‑

段丘 の益盤は花 組岩 、噂 t. であ り.そ の上に帝 iヽ\

V,砂傑 J勧 ;のる侵蝕

段丘で ある。上位の 写央 1‑ 1‑ 2 上兼腺炎落付近 の河岸段丘

段丘 面は河 床 よ り5 ‑ 87Jlの此拓 で ,山際 では扇状地や虚錐がの るO 水が か Dが良い の で,多 くは

田として利川 されてl/tろ。中心免落上斎 原',iこの段丘 南 にの

b

,相投掛 や生活改普 セ/クーな どが mLLt か れてい るO下 位 の段丘面は ,上 位の もの を切 り込んで

,

河床 よD 1‑ 2mの比高 を もち,段丘 面は L・%とん ど水 EElとして利用 されている.寺 ケ原如啓 の大部分は ここに立地 す るo

水利 のよい この段丘 面 の土地 利用はな ら水 田であ ったが ,舟近では 高冷地 とい う地理 的条件 を生か した長期冷蔵抑 制 イチゴの栽培 などの計 画が進め られ ,畑作に よる収 益 ともあげ よ うと試み られ てい

る 。

l こコ

(4)鉄穴 (かんな )地形

中国山地はか ってたた ら鉄の産 地で あ った。花 伯岩 ・L月経岩か 風化 し尭砂化 した ものか ら砲鉄鉱 い

‑ 8‑

(23)

わゆる砂鉄 を採取 し, それ を原料 として鉄

を生産 していたO鉄 大蛇 Lとは ,風化花 組岩 ・風化

放岩 な とを切崩 し,水路 を ひいてその水 で美砂 を水洗い し,砂鉄 を 沈澱 させる簡単な比 重辿鉱のことである

花I‑3

i

岩の深層風化 は, 地形的にみ ると剥離 的な俊蝕か働 かな く な り,侵蝕速鑑のお そレ一,あるい/ji平衡 LrL適 した緩 かな山地‑ 斜 面に 多くみ られ , その深さは Lば しげ 故 10717にi塁する と いわれ るこの風化 花 油岩の山地の切fyl

Lは事舶LH'rよって 行われた。

化 した やわ らかレゝところが 削 り取 られ,風 化の む くれた堅い岩石の 部分だけが 取 i)残さ れたo こうして長年

写 真 I‑ 1‑ 3 鉄大 地形

写 ̲T 1‑ 1‑ 4 鉄穴地形

LP=わた る翫 舶真

東'

oため ,山 まその形 をま った く変 え,不 自然 な形を皇す るに至 るo これ を鉄大地形 と⊥ぷo鉄穴地形は花 尚岩が広 く常在す る中国山地 ')・.1‑,1・ちとT̲ろでみ られ ,比願 的容易'K判別 で き る人工地形で あるo上斎原村で も人J糾山峠

,

′」、林谷 ,遥 拝部落の梅の木 と杉古 屋などに 明瞭 な鉄穴地 形がみ られ る。

鉄穴 流 しに よって放 托された抄紙川 に流れ込 み,釦 恥 の うちに河床は高 く在 り,谷結埋放 され る

そ こで谷に柵をつ くって砂を堰止 めるととも!亡,その塵立地 を水田 としたo Lか し,そ うJd Lても下 流では流砂に よって河 赦 高め らh .出水時 K,吐 たえ 危晩にさ らされ,被署 をこ うむった0 時 では

‑ 9‑

(24)

\ ̲

訴訟 となったこ ともある。

こ うみ ると ・たた ら製鉄は壬 として近世 において,山地の み ならず平野にtで 自然の人=改変 をも た ら した産楽 といえ るO

参考文 献

宗 田克 己( 1 474) :高梁川

‑‑一一一 ( 14 75) :吉井川

(5) 賃頭の 観察 上斎原村 内のい く つかの 銘東につ い て 観察 したので ,その 層序 を記載す る。

① 人 形峠 か ら国道 1 79号,*沿Vlに約 1km帝に下 った とこ ろの蕗廟 (写其 1‑

1‑ 5 )

G)巣 色火山灰屑 伺 輿栂 色火山灰屑

③褐色風化軽石屑

④茶鴇色粘土層

⑨濁色風化軽石屑

⑩ 茶利 色粘土層

⑦梱包 風化巌石屑 (Ia)花Jl.BJ岩

花 抽岩 を不整 合

お去、う凝石屑 ・火 山 灰屑は大 山起 源 と思 われ るo⑩ ,(夢(J7=gj: クラ ックが認め られ るO③に著 しvl・o

◎ 人 形峠 よb核燃 料牌免 許薬価の方 へ 50 077・Zの ところの 席頭 (写 英一 1‑i)

写其 1‑ 1‑ 5

て ; l

写真1‑ 1‑ 6 ‑

' L

‑10

(25)

① 黒色火山灰屈

④改発梱色火山灰届

⑩ 扱黄褐色火 山灰層

④褐色風 化軽石届

㊥茶褐色粘 土層

⑯ 褐色風化軽石届

⑦ 茶褐色粘 土層

㊥ 褐色風化軽石層

㊥ 果舶色粘 土層

㊨ 風化花 紬岩

花崩岩は東砂化 が・著 しい。 軽石層 ・火山灰Idは④ と同様 ,大山起源 と思われ る。④にはク ラックが 著 しい。

赤和瀬一中津河周の峠の店頭 (写其 1‑ 1‑ 7 )

①黒 色火 山灰眉 C21安 山岩貿稚岩

③扉 死角蹄岩層

花1.g岩 花 閲岩の上に不整 合に安山岩賓の凍 灰 角嫌岩がのるO 部に'ji花 紬岩健 も含

まれ ているO⑦(丑は 丹戸虞灰角峻岩類 ( 山田直利, 19占り

と呼ばれる もので , 角嫌は紫蘇輝石角閃

石安山岩や両輝石角 1‑ 1‑ 7

閃石安山岩 を主 体 とし,角裸の間 を・充ナ ものは茶 栂色,塊 状の凝灰岩で ,全 く屑憩 を・'示 していないo

中津河 一風原周 の蛋虜

①無色火 山灰屑

/

L二 ③安山岩嫌岩層

⑩凝灰角凍岩層】(丹戸凝死角錬岩類 )

⑤ 恩原湖東岸の序薗

⑩ 黒色火 山灰屑

一11‑‑

(26)

⑳ 井褐色 火 山択層

③ 灰 白色 火 山灰JG

④鎌屈

⑤ 赤縄 粘

1(/uB峠層 ) Ll花1‑.g岩

⑩ の枯二上層の上 に大 きさの不揃 いを雑多の円錐が堆耕 しているo この錬

屈は

水成堆横に よるもので あるo この付近の^形 峠届撤 岩

ら木 の葉の化初 壌 見 され る。 (三宅 隆 )

参考文献

山田直利( 19 日 ) ‥5万分の1地質師 「大枠 」か 1び同説明昔.

党調査所 チ

2

気 候 ‑一息 原観 測所 のデ ー タ

上京原村 I,'Eおけ る 気象研測 gj:中国電 力 恩原観測所で若干 行 われてい るのみで あ る。標高占 2 07〟程 度の恩腹貯水池畔に

叫 ナる気象 デー;Pで あるO とのデ‑3を もって上斎原村 の気 鋲を代表 させ ること 什 できないが ,他

科が ないので, こ

のデーJJqと,瀬戸 内 気 虞に属す る岡山 ̲&

上び内陸的 な東侯の 熟し」のそれ と比厳 し

なが ら,その特色 を 述べてみたレ、O

岡 山腺の気候区 分 (,i,吉野正 敏 (1 9 占 8

)

によれば図1 12‑ 1の‑1こうで あ る。 各地域 l・'Cつい て

図1‑2‑ 1

岡 山膿 の曳 候 区分 (吉野正 敏 による )

‑12‑

(27)

次の ように説明 されていろ。

上9

1 ‑日 1月 の降水iTi.の他 ,夏の陣水温 も多L0

192・‑ rliZも冬 も捧水止比北側 の地域上b少1‑レ一. しか し

,

健雨 日数は やや多.'l o I93・・‑

19

1 と同 じO低甑がてる。

Ih

・・‑ 山 地的特性やや現われ る.すなわ ち低温 ,多雨.,a・P.lJなど.

cl ・・・・ 夏 ・冬 と もに降水iiは 少女く,冬暖う・く定は b・)忍で ある。

] l c5

‑‑

口C5

と同 じだがrrB向Jはさ ら忙強い. 瀬戸内気膜の壕 も代表的地域O 咋 日脚 印il(rf 2 4 り 0時rtiJを超す。

] l l

L) ・・・・ 夏 も冬 も降水i丘比少 か ‑0

uc ‑・ ・ 山

F'より漸戸内気候 の特徴が鮒.、U

この気候区 分に よれば ,恩軌 岡山 ,砂山,i ,そ tLそ れ

Ir l

,

mC.

Ⅰ92

l

p,E拭す るo

IR原 ,岡山,津山にかけ る気温.降水inl,桃 雪のデ ータ を比較す ると ,衷 1‑ 2‑ 1‑ 4の とか i)であるO

東 1‑ 2‑ 1 S.44‑S.4 8 5fFrHjの月別平均最高気温 (℃ )

衷 1‑ 2‑ 2 LC3.4 4‑ LLl.4 8

5

年帆 の 月別 平均土副氏

臥 (Jc)

9 . 1 日 2 2

5 1 . 4 i

LU

I ‑ l . 5 1 ‑0 . 9

0 . 41 5 . 9 1 0 . 5

ー‑15‑

(28)

表 1‑ 2‑ 5 S.4 4‑ S.4 8 5年 間 の 月別 平均 降水丑 ( 〟 )

.,

I

. 6 丑 1 ‑

顛 1‑ 2‑ 4 3 4 4‑ S 4 8 5年 周 の月別 平均戯雷nt (cld )

T 「

〔気象 データ

中国馬力 恩庶 観測 所 岡山 地 方気象 台蜘「岡山脱気粂月報

(1) 気温

月)}Tlj平均赦 みJ気温につい て,5地域 を比叔 す る と ,赦寒 月 (1月 )では 恩原 2.4

● C

,阿山 9.

i. C.

評山 b・4'Cであ ・),岡 山 ・津山 に くらべ ‥阻原は7'C融後 腹いく.蛸 月 (8月 )では 恩原2 7.1'C, 榊LU5 1・8℃ ,津山51・7℃ と恩原が IPはb 4C前後低 い 値 を7T:ナ0

月別 平均堤低 気温Iハて も, 1月でqL鼠原 ‑5・1'C,岡山1 0.7fc

,

坪 山‑ 1.5℃ , 8月で は ,Ll原1 7・9'C,阿LLj25・111C,斡山2 1・7℃ とな り

.

貰 ・冬 と も剛 山との差 は5‑C前後 ,坪山 との 産れ

4C

前後 で ,,LR原が!,iるか

低い 他 を示 してい るO

平 均 点高気温 と平均

l

J丘低気温 の差 を

j‡す る と ,恩折 で1月75℃, 8月9,2℃,f靴 」で1月1

05C , 8月a 7

L c

,tALr山で l月?・9℃, 8月10・D'Cとな る。恩原 では 冬期 の 昼 と夜 との 乳温差 F:lPt・iLLl.樺山 に・く らべ て少 な く,定期 のそ れ比 比較 的大 きい値 を示すO 坪 山の8月の平均最 高気 配 I̲.平均 搬低 気温 の差が18・

D

Icと大 きい 値を示す のは ,韓山 が山間 盆 地ljr̲位思 し, El中暑 く夜間 冷 え こip円陸 的 な気候 であ るととを示す B

以 上 の J:うに ,恩 原総 岡 山

距山 と くらべ て ,年間 を通 じて数庇 C低 い気 温 で ある. 恩原初洲所 は標高 約6 2 0mrL位澄 してい るか ら ,気温 て.い汲率 を10 0nlにつ き0.6℃ とす れ ば海

抜om

の 地点 よ りJ・iう・

℃低 温 と計井 され る。 さ らに 中国脊梁山 地 内に位際 して しハるとい う地形的 環境 な ど

‑ 14

(29)

忙 よって,その差が拡大 されてい るので あろFJ o

(2)降水混 お よび粉雪

際の年 間降水

E

iは2

.

0

a

OJrnrを越すo 岡山,D 2嬢 て あ り,維 山 と比 較 して も1・5倍 であ ろ.,棉 徴的 をことは ,冬季の降水丑が 他 と比 Lて特 r/t多vtことであろ o冬季5ケ月 (12‑ 2月 )の降水 i之紘 ‥矧原で52 9.4arRで

あり.

「靴山の12 2.Oqf.繰山の1 70.1肘に比 して ,それぞ れ4倍 , 5倍 もの肺 を示 してい るっ これは ,い う・iで もた く陣雪に 幽係するn冬季に は,大陸 か らの乾映 し た寒冷 高気圧 か 日本伸 上で水 盛気 を多 く含み . 口不 列蛙」二空 rLきて, rfT国山 地 VEはげ まれ .山地 を こたる時に水 菜/xlvj;冷却離船 して ,雷や雨 に/.7‑,iL,.,中

す柴 u」地 を こえると,降雪 ・降雨QTJ:少 な く

lL・るo Lか し津山 あた ,)では ,まだ微雨 口教は 多

1

/ltうで あ匂.

r ' W

jに な ると,冬季は柵 天 の乾

Lた 日が続 き .降水,!j出 様めて少 な く売るハ 昭和4 I ‑ 4 8年の5年間の平均C

E ' 三 '

,l

i

Ji‑Qi,,LA灰で1 8 9.4L初,樺山 で4 5.4C7',岡山で1 5.4m と.きわだ った対 照 を示すO恩原 の1‑5月iy]・7)

楓 f f

飛5:1大 きい。恩威指広さスキー一切 をけ じめ ,^形峠 スキーJg,̲= ケ山スキー場 ,岩 崎省 スキ ー場 たど, 上兼原村(":はスキー場 が 多 く,冬季には に ぎわ う。 喝原 と上斎 原 役場 付近 とでは 榔 vL勘 ;あ り, 恩脱 の方が雷が深いo RLJ和5 4年 の上兼 原村誌に .r.れ :ィ,昭和

5

0年 鮭の巌深爪 雪は ,,野原の 方が i')2倍の深 さで,山高 1.5771とある. また,樵 ITの感応 としては,昭和5 1年の

7 ・

0〃吻 :吉聴 され てL・lr)"

恩軌は冬季たけに触 らず ,夏季の8, 9月に も,防水L に岡山 ・他 山よ り大 きい値 を示す oそれ LIC対 Lて, 6, 7月は さは .t'大 きい差 を示 してレlか Jlか これ妊 6 , 7月が榔 符の畔地 にあた り,オ ホーツク海 と太平洋 の高気圧の間 に細 両前故が 発生 し,この前線か 日本列 島の上空 J.{停耕 し, 日本 全土̲tJ,C雨 を降 らせるた め‥ 殴凪 岡山 ,津山 の降水

こ差が あま りみ られ なvlのて あろう。 ただ し,

・一般にVj:,平野

取 り

山杓いの地域 に降/kEtは 多lハエうで あO 8, 9月 に入 ると,日本島は小 笠原高気圧̲Vr̲甘・・p・われ るため ,恭 し類い 繭か らの季節風が 吹 轟,冊天が 涜 く日が 多い。 しか し中岡 山地 で^/・L,強 い El射のた め暖ま った空 銭が急 に上汁 .tるの で,新し甥 を生 じ,'前雨の発生す ること が 多いOこのたk.)平野部 の岡山 ,津山 に くらへ て ,過払ipICおい て!rJtR 孝 もまた ,降水謎が記 しハ値を 示す ことt'E‑'1るt.

t

Lか」二蒲 原何誌に 伯和= 年の気 旗デ ‑クが 記 されているへ抜 きヨlrSす ると次の通 りで みろ‑

/■平 均JLt高気温 2dqc

1...く.

.〜温気

平 均収低気7匂.m CLaJc 年 平 均 気 忘L]u 1

5. C

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(30)

天 候 日数 約 116日 食 1 5 6日 雨65日 野 2 8日 ' 初端 10月ld日 滞船 日 518

初雪 1 2月15日 暫終 E1 5月1 5 日 降水

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■ 参考 ・引用文献

jd・野 正敏 (19占8 )‥中国 ・【唱同地方の気銃区分 地理科学 厳木姓江 (191 2)‥上斎原村蓋 (革渦 )

( 中 、も 玲 + )

(31)

第 2 葦 人 口 と 嬢 落

1

、 人 口構 成 と 人 口 移 動

(1)総人口 とそ の推移

1・.訴ノ

主 , 7

村の総人口比僻和4 561:‑( I9 70 )i"J国勢調査 に よると, 1,2 09人 (男5 9 5人, 女6 1 4人 )であ る。昭和4 9年7112日u硯 tflの人「11.1 72人 (935 6 6ノ\.女 dn 6人 ) で. Lt5年度 r.I)3・1飾減 少 してい る

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LMrf法虻 5 5 5附帯 ‑//tら2 9 0u̲用

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i), そ の班少零(,い う・4aFt,で あ く,.

次fhr.総^ 口

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推 移 をみてい って7>ようO 村1エ二(.=丈 久元年 (1ら a 1 )5月 rL)^ 口,戸数

.近 収 され てい るカ㍉ これ

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,"I:上ると人 口は4 9 9人 (【12 48人 .女 2 4 1人 ),戸数(A:1 2 0戸で

ある。 付譜 または現勢iB奄h,に エろ人口の推 移キムてい くと. 明治15年 (1 8 8 0)の^ Ll紘 510人 (1325人,女 2 4 7人 ),明治55年( 19 0 2)には94 1人 (

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j4 9 0人,女 d 5 1人 )明 治4u年 (1907)には 981^(男5 55人 ・女41 8人 )・大正元年 (1 9 12 )に比 1 19 6^ (;VldJO人,女5 5d人 )大 正5年 (1 9 16)にはl,2 9 9人 (男 d 75^.女L524^ )で・i:,るof粥治55年か ら息 虹:亡増加 を してい ろのは, ft科 の ら力丸

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差 火 もみ ろで,あろ う7();, との I.うPE理血^=よる もの1あ ろ うか。 明治初 期 か ら大正時代 に量 る

の時脱比 . 日子!11‑・日露軟 争 iLL・‑て,iLt代郎 ーが勃興, 発展 し, さ ら('こ約 1次政界大 戦JI

F

にL‑い て 飛燕的(,C獅 生した Iu本姓折の.・Lj度化 rJ時 代 であ る。 こ:i)r軌 日本の人 口は' し/たいに増加 してい

る机 それ と同 じく,上斎原村 の^ LjもifuflJJTJして t.I‑1もo

l . 大正9年 (1 9 20)か ら(rl.LLj勢調査l亡上る人 口の変 化 i̲・み てみ よう。 (表2‑ 1‑ 1 ) rr‑ 大IE 14年 (1 9 2 5)に, 人U, Lq稲敷 とも忙か な bの縮 少 を示 してい るO これは.農村恐慌

亡A=よるものて あろ うかO再びu綱 Lr5年 (1 95 0 )に 人口, 世帯数 ともに増 加 を示 してい る。 こ れは此界恐慌 の一環 と して E]不相済が不 況に お

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に拡 大 して きた都 市産業 が救 艶合理 化 ・C{れ たため, 郡市 の人 口が流入 したため と考 え られ る。 さ らに,上誘L= St‑村 では,性原 jZ‑ム租誠 の ための人夫 f=ど7h', 流 入 した ことも考 え rっylもOそのモ別封部 1 5年まで(rl, 人 口, 牡背教 とも減 少 を示 してい .73がこれは・窮 2次吐罪人触 ‑ と前進 1 る托 し7tがい・ユ巨石F;=エ選 の拡 大強化/J;行

rlわれ 車 ‑人 口が()7L出 したため と男 :iられ るo なれ ^ 口eIJ拭 少E,eくらべ て,

芹;;訂{

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の滅少 壮少ないo これ虻家族の うちの一一邦 が流出 した ことを示 してい る。 岬和2 0年 の調査 で81, 人 Ll. 昭 F,・孝女とも増加 を示 してい ろ。 これ仕,萄 2次 世辞大椴 の放 化托 と もない,疎 開の ための肘 に人

r

lの流入yCよるもの と考 え られ る。 これ らの人 LjIl,不毛後 拝辞の稚興 とともに都 市 に中流 してい くのであ る。DfJJ和2 5年 ( 19 5 0)の調査 では 昭和 25年 (1 9 48)の 渦流 よ り, わず か1・7 碑では あ ろが増 加i̲.示 してい る。 これ虻職後 19 4 7か ら4 9年に かけ てのベ ビー ブー ムの現象.

‑17‑

(32)

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上 斎 原 村 の 人 口 変 化

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「岡山県統計年 報」 昭和4 9年 度は住民票の7月28日現在エb作成

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lc上る増加 と考え られ る.昭和5 0年(1 95 5)に仏 前 の調査 より, 2・5多減少 してか b,昭和 55年(19d 0)に払 再び増加 に転 じ.その増加率壮 7.1席であ るo この時代 は,昭和 25年 ( ・ 19 5 0)の朝鮮戦争特黙忙 よる日棉 帝 の復興咋つづ く日本 の高庇経済成長 の始 まる時代で あ iI. 肋 U村 の人 口は減少 を示 すのが全国的傾向であ ると想われ るO ところ が,上斎原村 では様子が異 なっ てい うのであ る。 とい うのは'昭利 50

年(

19 5 5)V^C,村 の北部の人形峠で ウラン鉱が発見 され その後,調査採鉱等 ウラン鉱山掬係者 の維人 があ ̲r), その教 が流出缶 を上岡 .,,たため と考 え られ る。

ところ机 昭利 46年( 196 5)の明証 では或少 に転 じ,・その汲少事は̲8.9序であ b.昭和4 5年 春の国会 で成立 した 「過敢

出 城

対 策緊急槽駐法」 の適用を うける要件 である5年 iJnrjの減少率100i以

」こ椎は遷 しなか った。 しか し,人 口娩少峯 7・5飾臥 ヒを過敏地域 とす る考え方 もあb, この考 え方 によ ると・.す でiG=この時点において過疎地城で あ 13允 とvlえ るO昭和4 5年( 19 70)の調査 で壮大 巾 にuwk少 しておb'その減少率 は25・9卓で あるoこれ拙,岡 山煤下 で救大の値 であ る.昭和42年10 月一凱 」の兵務が厨子核燃料開尭郡集団‑拙 配され ,砕鉱部門の終了,施設,設備の近代化等 に よ

D.

同鉱 山関係者が牢 を追 ・3て淑少 した こと,それ VE加えて,同部英 田の 宿舎れ 隣県9 特攻腕骨貴市E・r 完成 し・/t九め,f盟係者や,その家族が流は‑1した ことVE原田が あると考 え られ るo この ことは後に述べ

‑,18‑

(33)

̲i: 茄 原 村 の 人 口 変 化

二‑ 一 人 口 H T一一 世帯数 図21 1‑ 1

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る髄 落別人 口の変化か らも明 らか であるO ‑J升に もi〆 たが, 附和4 9年7月現在 の^ ロ払

D

I=i和4 5 年 の国勢弼査 と比救す ると.5.1虜の滅少寄 金示 してい る. しか し狭少は してい ろもの Orjその減少寒 は低 くたって きてい るようであ るD

以上 lZ)ように, この村 ULrj八 川 (i,高鹿成長 a)酪tiをI: Jけ ちと同時 に, 人 rjの少かJlこの村 で(・1, 那 菜所 の慨係 に より,大 きく酪怨 を うけ て,他 とは発 たった推移 をみせ てい るo

次に,一 也帯 あた bの平 均人月 をみ てみ ろ と.今 国的櫛 向 と同 じく†哨和 5 5年( 1 9 6 0 )以降, 急激 に稲少 してい るo この よ {)在地帯jA嬢 の著 しvl拍少 (‑I,子 供数 の相少 と,核家 族化の促進 に ヱる もの と考え られ る. また核 家族化 と関係 し,老人 を威 し.て若 者が都 市へ 流出 して、ハ13た ことも考 え ら れ る。

(2)産諸別人 口牌成 とそ の推移

国勢調 査に よる附和5年 (1950)か ら昭和 45年く 1 9 7 0 )め̲上斎原村 の就非 人 Ljを

第1 次(

‑1 9‑

(34)

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呈・林 ・水産粂 ),窮 2次 (= ・盛設 ・製造典 ),荊 5次 (商 ・適職 ・通信 ・サー ビス英 )に分類 し てい るのが表(2‑ 1‑ 2 )であ る。

衷 2‑ 1‑ 2

箆 某 別 人 rj と そ の 割

昭和2 2年極 和2

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71868 792 6567 車言 T l冒 5‑

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「開uJ収統計年俄」b作成 ) ̀

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批讃人 Ljか ら九 てみ ようO意摘呈人 口比脚部 2 2年 ( 19 4 7')までは増加 してい る/'㍉ 剛 n 2 5'1‑'・( 1 9 50 )I/Cは減少 InI態 Ll.総人 口の減少率が 1‑1・解であろのUL‑対 し10.6啓と大 きい

れ虻戦後の特殊

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19 5 5)まで減少 してい るが,帽 和55 午 (19 d U)の・捻人 口の増加 ほともJ

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していO ところれ 昭和4 0年( 1 9 5 5 )耶 l」45

年( 19 7 u)の10年間の渡少率壮 2215席と,非常K言いハ値 を示 してい るo

L):'rL'・昭利 4 5'JT:・の渡英別人 。をみ ると,窮 1次産#^ l「が5 占.1%,窮 2次産薬人 口が15 9飾,

;3'JJ5次藷芸人 [ー榔 28解であ る0 日本全体

で綻,そ

llLそれ 1 ?.

5飾

, 55.9

, 1 6.7海 で あ り,

‑i)0‑

1

図 5 ‑ 1‑ 2 古 庄
表 4 ‑ 5‑ 2 姓 民 住 宅 の 階 層 類 型 持 高 階 層 住 宅 類 型 母 屋 長 屋 土 蔵 ;建坪総数 戸 数 比 率 1 8石以上 戒 持 上 層 41

参照

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