播州一山村における入会地の分割 五八
播州一山村における入会地の分割
一 序 言一神西 郡栗村一
原
田
敏
丸
兵庫県神崎郡大河内一大一斗は、播州の北端、但馬との国境に程 近い山間部に位置している。徳川時代には同国福本藩池田氏の所領 に属し、戸数約二十乃至二十五、天保十五年︵西暦一八四四年︶当 ① 村﹁田畑名寄帳﹂によれば、田総反別七町二反十一歩、畑総反別二 三五畝九歩の一山村であった。当村では安永十年︵一七八一︶に入 会地たる村持山林を分割して個人持とする﹁分ケ山﹂が断行された が、これは決して偶然に行われたものではなく、近世後期における 当村の社会構造や経済状態の動向に密接な関連をもって生じたもの であった。従って分け山実施の動機やその性格を明らかにすること は、単に入会地分割の問題に検討を加えることになるばかりでなく、 近世後期に野村が持っていた社会経済事情の一端に触れることにも なるであろう。幸いに今回当村の旧家前嶋家の御厚意により、同家 所蔵文書及び大字栗共有文書を閲覧する機会を得たが、この中に当 村の前記分け山に関する史料を見出すことができた。小稿ではこれ らの史料によってその概要を述べることにしたい。 二 分け山の動機 先ず安永十年の分け山に際し、同年三月栗村の村役人から大庄屋 ② を通じて奉行宛差出された願書を左に掲げよう。 ﹁ 奉願上口上書 一、當村御百姓近年時節柄悪敷御座砿故哉、殊之外困窮仕、家 来等得抱不申、剰村方二下作仕砿者無御座、無拠手間不相磨 二大作仕手故、年≧不作仕二二困窮二二成、別言難渋至極仕 砿、然ル処是迄そ薪山・炭山共村中入事二御座砿得共、御百 姓困窮仕砿義二御座忽故、分ケ山仕、御年貢・諸役等之差添 二茂仕度段、御百姓二二被串、依二村高小百姓井水呑迄二も 相談仕砿得共、小百姓・水呑不承知ヲ申二付、下二巴訳付不 二、右御百姓共申砿ハ、何分是迄之一二而ハ御大切之御年貢 ・諸役等之差添無之、御百姓相績難成由ヲ申、村方相談二而 相治不申砿二三、御願奉申上子、乍恐御勘弁三二成、御百姓 相績仕砿様、被為仰付被一語ハ・、難有一存砿、以上 栗村 年寄 . 安永十年 源左衛門 丑三月 厨 庄屋 新 四 郎 三奉行 高松弥九郎様 御奉行 ・ 中川左司馬様 ﹂これによると村中の入会地たる出山・炭山を分け山にしょうとする 理由として百姓困窮の状態をあげているが、その百姓困窮の状態は 労働力不足による土地の生産性の低下に基づいて生じたものであっ た。然し乍らこの分け山の計画が百姓の間から提出されたにもかか わらず、同じく百姓中でも小百姓・水呑の階層はこの計画に反対し た。もしも村民全部が同様に困窮していて、而もすべてが分け山に よって同様な利益を受けるのであれば、小百姓・水呑層もあえて反 対する筈がない。ここにこの文書の表現の一見矛盾と思われる疑点 が存する。然るに翌四月に分け山にすべき場所をも具し、村中一同 ③ 連名を以て、村役人奥印の上、大庄屋宛重ねて差出された願書には ﹁一、此度村方高重之者困窮三二二付、卸町惣山を分山二仕度、村 中江話談を仕砿﹂とあって、困窮せる百姓は村でも高重之者即ち比 較的多くの高請地を有する百姓であったことが明記されている。分 け山問題の背景にはこの高輪百姓と小百姓・水呑百姓との階層的対 立関係があって、これが分け山をめぐり刹害必らすしも一致せず、 村中の相談を容易にまとまらなくしていた、 当時の村内各戸の持高は不明であるが、高重之者としては多くの 史料に与吉郎・太平治・甚左衛門・長九郎の四人があげられてお り、彼等はその持高において他の村民に優越していたらしい。この 高・重百姓が分け山実施を要望した理由は前述の如く表向には﹁百姓 分困窮﹂とか﹁御百姓相続﹂のためであると説かれている。然らば 何故に彼等四入の高話百姓のみが著しく困窮の状態に立至り、そし て分け山を主張するに至ったかという点について、その後の分け山 播州一山村における入会地の分割 に関する史料を綜合すると、第一には比較的純然たる経済的な問題 があり、第二には封建的な農村支配に基づいて生ずる農民の負担体 系上の問題がある。 第一の点は更に分ちて二項に要約できる。その一は前掲安永十年 三月の願書に見えているように、土地所持者と直接生産者の間の労 働力もしくは小作地の需給関係に不均衡が生じたことである。当時 高重百姓等は地主手作をするために﹁家来﹂即ち隷属的な労働力を 抱えることもできず、さればといって彼等の土地を村内で﹁下作﹂ へ 即ち小作する者もない、従って高重百姓等はやむなく彼らの家族労 働力を以て、不相応に大きな土地を耕作せざるを得ず、当然その結 果は土地の生産性の低下を招くという状況であった。何故にかかる 状態が生じたかについては、恐らく徳川中期以降都市及び商業の発 達に基づいて、全国的に一般的な傾向として見られる向裏離村の結 果であろうということも考えられる。然し当時における黒黒の宗門 帳もしくは羊雲帳等が現存しないため、この点明らかになし得ない が、安永十年十↓月四人の高重百姓等が書記した分け山に関する ﹁覚﹂に﹁新四郎江御役義渡り砿後、段≧村方も山稼き強く罷成、 次第二下作杯仕砿者も無之様二毒草、御百姓段ミ及困窮二申二付 ︵下略︶﹂とあるから、安永十年分け山実施当時庄屋であった新四 郎が庄屋役を勤めるようになった頃より、山稼ぎ即ち薪炭の生産・ 販売が発達して、高志百姓の土地を借耕する者もいなくなったこと がわかる。こうして労働力不足の結果土地の生産性が低下し、比較 的多くの高請地を持つ極重百姓が特に著しくその農家経営に困難を 五九
播州一山村における入会地の分割 感ずるようになる。そこでその救済策として入会地を分割して分け 山とし、ある程度共同体的拘束から解放された利用の仕方をなし得 る山林を保有せんと主張するに至ったわけ.である。 そ.の二は入会地の利用上高重百姓と小百姓の間の刹害対立であ る。これについては安永十年五月、四人の高重百姓が書記した﹁分 ゆ 山之由来﹂に、 ﹁先年山方余リ切荒シ申二付、他所者ヲ村方江引入堅炭等賞申 事、堅ク三雲筈二相究有之、是ハ炭も焼判工費二も参り、其外 地下方二而駄ちん持等致せぞ、山方も木立可申との事二而砿、 然ル処此度久太夫、和吉・仙治郎等と西脇之久治郎と申者を引 入、堅炭費申二付、︵下略︶﹂ とあり、村民が炭を焼き、これを他へ売出すこと自体を妨げるわけ ではないが、ただ他所の者を村方へ引入れて炭を売ることは禁止し ていたことがわかる。年代不詳であるが、四人の高重百姓が書留め ⑦ た﹁登山之目録﹂には、 ﹁小百姓之衆中山方を切荒シ砿故、向後壱 ケ月之内半分ハ炭を焼キ、又半分ハ岡崎江炭を売二可被参、左すれ 黒山も木立可申と相談之上︵下略︶﹂とある。従って右の禁止は商 品貨幣経済の村内への浸透を部分的に阻止することによって、入会 地たる山林の立木を濫伐から保護せんとする村の共同体的作用であ ったと同時に、また村内より出る一商品たる炭の移出を村民が独占 すれぱ、それだけ村民にとって駄賃稼ぎにもなり、村の繁栄策にも なったのである。このような村掟に違反して、久太全等は川下の西 六〇 脇︵﹁分山之目録﹂には﹁岡崎﹂とある︶より購買人を村内に引入 れ、炭を売るに至った。これらについて﹁常山之目録﹂には、 ﹁︵上略︶又其上久太夫岡崎澄炭買を我か門江引付て炭を費砿得 共、紙面庄屋新四郎殿とがめ不被申砿、依之四人之百姓も甚タ 当量、ヶ皇霊新法数≧発リ次第半被致砿而ハ、連茂高重之百姓 ハ相続も難仕、︵下略︶﹂ とあるが、かかる村掟違反の新規な商売の仕方が生ずると、何故に 四人の高重百姓が相続もできなくなり分け山を主張せざるを得なく なったのであろうか。史料の文面には現われていないが、恐らく一 つには商入が入ってくれば炭の生産量増大し、従って多くの立木が 失われて水源澗渇し、水,田の用水に事欠く結果を生ずるということ もあるであろう。然し他方上述の如く労働力が不足している状態に あっては、入会地の立入自由な利用法の下での炭焼業の発達は、労 働力不足によって特に悩まされている高垣百姓に不利であった。彼 等が分け山により自己﹁の持分を確保し.ようとしたのはこのためであ ⑧ つた。この点に関して安永十年四月﹁村中分ケ山名寄覚帳﹂に、 ﹁此度當村与吉郎・甚左衛門・太平治・長九郎右四人之衆中高 重二付、近年不作五二綾キ困窮二手、村方木山分ケ山雲為仰付 .砿様願書被差上砿処、二又末≧百姓中汐左様相成砿而ハ不勝手 二相成砿と申難相済御座依︵下略.︶﹂ とある。即ち分け山をすると﹁末≧百姓﹂達、即ち小百姓・水呑層 が﹁不勝手﹂になるというわけでこれに反対したという。これは恐
らく彼等.は分け山にするよりも、従来のような入会慣行によった方 がすべての村持山林で自由に採取製炭することにより、多くの牧益 を得ていたからであろう。こうして高商百姓の必要な労働力を入.手 することが困難になったところがら、ひいて彼等が入会地における 立入自由の慣行を廃し、分け山にせんと主張するようになったもの と考えられる。 第二に農民の負担体系の間曲であるが、これはまた更に﹁奉公人 間銀﹂の聞題と庄屋の給米・高役免除の閥題とに分つことができ る。前者については﹁庭山之目録﹂に、 ﹁又不時之御高掛り、叉御奉公人銀ノ手当として、先年内入相 山を壱ケ所・弐ケ所宛とめ置、売払御高掛り・御奉公人間銀等 ヘ ニ仕来り砿、︵中略︶只今庄屋新四郎手記罷成茎長、原野吉左衛 門殿子息弥平治と申江御奉公人御差紙被仰付、是迄御差紙二相 二者ハ壱歩.か拾匁か其人澄弁、村方汐も鼻紙.代として三拾匁か 三拾五匁差遣シ、都合五拾目位問銀二而外人を頼ミ差出来り申 言処、弥平治兄多五郎殿福本触頭足立作助長江参り、御奉公人 ハ私壱人江掛り砿哉、又村方江懸り砿哉と被相尋被申砿所、作 助様被仰砿王道三百無二付壱人宛之割符二丁掛り卑と被仰砿、 依之五拾匁之鼻紙代円高割二可被成砿と被申砿得篭、則新四郎 高二割被申砿、是迄御差紙二相由・者皆≧壱歩か拾匁ハ間銀差出 残銀ハ村中見付割二致来り紘処、三五郎ハ壱匁も出不二申して 被押付穂懸共、四人高重之百姓むねをな.で・了簡仕居申砿︵下. 略︶﹂ 播州一山村における入会地の分割 とある。右のうち﹁見付割﹂というのは如何なることであるか睨瞭 でないけれども、従来福本の領主から課せられる奉公人の義務は、 差紙を受けた人が一部負担し、残りを入会地たる山林の一部の毛上 を売却するか、または村中で﹁見付割﹂にして﹁問罪﹂を調達し、 これを以て誰か他の人を.頼んで義務を果す習慣であった。 ﹁問銀﹂ とは恐らく差紙を受けた人の代りに奉公人として立つ代銀のことか と思われる。然るに新四郎が庄屋を勤めるようになった時、吉左衛 門の子弥平治に奉公人の指名がなされたが、その細面五郎が福本触 頭︵﹁分山之由来﹂には﹁福本大庄屋代﹂とある︶の足立作助の所 へ参り、直接問い糺したところ、奉公人というものは村高百石に一 人宛の割で村に対し賦課されるものであるとの返答を得、従って奉 公入間銀は差紙の如何にかかわらす高割にすべしと主張した。庄屋 新四郎はこれをいれ、それより高話となづた。見付割とは少くとも 高割よりは質量百姓にとって負担軽きものであったに相違なく、こ れが高彫になれば結局奉公人間銀の負担が殆んど高重の百姓達の肩. にかかる.ことになった。これらの成行について﹁分山之由来﹂には ﹁口乳未不落者量ハニ白髪生髭之銘≧が村方之掟を被破三二、甚以テ 心外之至﹂と.述べ、前掲﹁分山之目録﹂の記載にも四人の高重百姓 の花目やるかたなき有様を述べている。 次に圧屋の給米と高役免除の問題であるが、これについては分山 に関する﹁覚﹂に左の如く説明されている。 ﹁抑前方役代を聞伝るに、姫路池田様同率様御時代より又右衛 門方二代≧御役義相動、多郎兵衛江相渡り、其∂嘉右衛門二渡 六一
播州︷山村における入会地の分割 り、次二九郎左衛門、次弥兵衛・太平治迄.役高拾壱石四斗村方 ︵ママ︶ 3諸役雪嶺むめ居申砿、次四五石所持高島相思兵衛御役之時残 り高諸役代米二不足之分を相渡申ハ村方二も不勝手炉、壱様五 歩二而割可仕哉と相談仕紘処、一端得心二而割仕蘇州、晩方二 源兵衛・源左衛門・弥右衛門三人し打つぶし、免高貴石劃して 壱様八歩之趣大庄屋足立仙助様江願出、其に事を寄せ、支配割 方ロハ虚心二六匁五・六分も相掛り申砿、単声弐拾ケ年以前迄門 一二二匁五分や四匁位割付被申砿所、先年之通り被仰付思様右,三 人相願被申、早速其趣御許容被成砿而、門二四匁宛割符可仕様 被仰付、無拠其暮ハ恕罪砿而、翌春高重之百姓足立仙助様江御 願申砿ハ、ケ様二被遊砿而比高重之百姓ハ一切相立不申砿、先 年弐拾ケ年以前門一二二匁五分或ハ四匁位相割註節ハ、御上様御 奉公人銀井大割方・村入用惣敷革びくに御座砿得共、段く御奉 公人銀・大割方・村入用丁重さ高層島井取得ハ、先年汐格式を 見合せ割符仕来り申砿、其を只今左様二無情中張を高隠り二被 仰付砿而、門割斗り先年之通四匁門二御座砿ハ﹀、是を相凌き 可申為手當テと惣入会山を軒別二御割被成砿而、高重之者の由 り.前だけ成り共歴朝砿ハでハ、連茂御百姓相続不仕上と色≧相 歎き申上田﹂ この間の事情については﹁分山之目録﹂にも詳細な記述があるが、 前掲﹁覚﹂の記述と数字その他一致しない点が多い。今この両者の 相違する点について穿繋することは暫く措くこととし、ここでは前 後の論理的な脈絡が比較的明瞭な前掲﹁覚﹂の記述によっておきた 六二 い。これによると、源兵衛庄屋の時代に庄屋役給米の一部を村民が 各戸平等に負担する割合について、一旦決定した五歩という割合を 八歩に引上げることに関連して、年貢の割賦方法を変更し、門割の 分を=月につき六匁五・六分から年貢総額の低かった二十年前の門 生を基準として四匁宛に減じた。かくては当然年貢のうち二十年前 より増加分が、すべて高割に付されることになり、年貢負担率は相 対的に小百姓・水呑層に軽く、高重百姓に重くなってくる。この年 貢負担における門割と高割の比率は﹁覚﹂や﹁廿里之目録﹂の記載 によるとその後改善されてはいるが、それでも漸次高に重くかかっ てくる傾向にあったことは確かである。 かくて奉公人間銀や年貢負担において高重百姓の負担が増加する につれ、彼等の問にこれらを償うべき手当として入会地たる山林の 分け山を達成せんとの要求が生じて来たのである。この要求は上述 の如く小百姓・水呑層の人々によって入会地が勝手気儘に利用され る傾向が発生すると共に一層強められたであろう。 三 分け山の実施 以上のような動機に基づき、高重百姓四人の者が分け山を主張し た。これに対し当初小百姓・水呑層は容易にこの計画を承認しなか ったが、結局は﹁分山之目録しに、 ﹁段ヒ村方惣方江掛合及相談二重処、御田地少茂所持不仕百姓 衆中以加様軒別二山方を分ケて.もらひ申砿得℃、壱反田地之替 り二も成、三拾。五拾目急二借用質物二も罷追申故、我茂く
と得心被致、皆≧惣.方承知田印形質致砿而、 幽居留書願書認被差上︵下略︶﹂ 山方,を何卒御分ケ とあるように、乏しい田地しか持たす経済的基礎の薄弱な農家では 家計の助けにもなり、急に借金の必要が生じた場合には質物にもな ることとて皆次々と納得することになった。高重百姓が分け山を主 張したのも彼等の農家経済の助成とせんがためであったが、小百姓 ・水呑層が分け山に賛成した原因も結局は同じく各戸の経済的な維 持存続に重点があった。従って当村の分け山の目的は村内山林の立 木保護によって、水源林滴養とか、部落経済の長期的繁栄策という よりも、むしろもっと直接的に各戸の当面の経済的困窮を救済せん とすることにあったといえる。 こうして村内の意見がまとまり、四月末になって漸く分け山を実 施することになった。その手順については﹁五山之由来﹂に、 ﹁四月廿三日二奇態村庄屋与治兵衛殿・為信村庄屋甚九郎殿ヲ 御上ミ月並御玉と御上ケ被遊砿処、其夜半過量二村方納得仕り、 先入畑尻なし尾孟こう方迄を御百姓為相続之銘≧四人江被仰付 .砿而、残りハ分山二致筈二相定り、廿四日二尊扱之衆中・村役 人言外皆≧三方より原野∼上ミ坂之上江あかり見定メ、段ヒ割 合仕に.処、早ク山二而拾壱人迄望所被願砿二南分ケて帰り拾四 人もミくじ二時相定り砿、廿六日二御扱人衆と役人衆銘≧四人 之者と大庄屋様迄野相済砿御礼と帳面に入砿内見心後.代不易之 御印をと願置罷帰り砿、廿七日二村中罷.出自方之切分ケ仕り其 播州一山村における入会地の分割 夜半迄二長九郎・甚左衛門両人二而下屋帳面山之字境目等委細 二相認、廿八日早≧犬見村江持参黒蟻砿而、与治兵.衛殿二本帳 面四札二三認被下、廿九日早朝二當村庄屋三江御出被下、惣方 承知之印形取り相済、五月朔日二一≧帳面を大庄屋様迄差上砿 而役人衆帰り被申砿し とあるように、近村の犬見村と為信村の各庄屋等がその取扱役とし て立会うことになった。これはある村方の内部に紛争が生じた場合 の解決方法として普通のことではあるが、天明二年︵一七八二︶十 月、鑑識・為信両村圧思及び栗村民全部の連名を以て大庄屋不死原 ⑨ 平太馬術門宛差出した口上書には、 ﹁當村入会林山之儀、去ル丑之春、當村太平治・甚左衛門・、与 吉郎・長九郎右四人痴者高重二付、近年困窮仕返百姓相績難仕 二二付、村方双方軒別分ケ山二仕度段奉願上世処、村方粗方共 得心二おみては勝手次第可致段被為仰付砿二上、則犬見村・為 信壬午義者古来差分ケ山之義二付、則幕見村与治兵衛・為信村 甚九郎右両人玉野合取納仕砿様御大庄屋所汐被羽付、両人取扱 ヲ以テ分ケ山二重砿︵下略︶﹂ とあり、善言村が粟村にとって至近の村であったばかりでなく、既 に古来分け山の制を採っていたことを、両村庄屋が立会の役人に任 命された理由としてあげている。このことは入会地の分割、即ち分 け山が単に栗村独特の事情によって、栗村にのみ発生した例外的な ものではなく、この地方にかなり一般化した山林利用乃至所持形態 六三
播州一山村に.おける入会地の分割 であったことを示している。 かくてます一部を四人の高重百姓へ与えたが、 ﹁分山之目録﹂に は﹁其載拾歩一之同期を木立置小感、向後不時之御高掛り御奉公入 銀手当テニも仕度由、何卒御上様以御慈悲を惣山を四人分御分ケ被 遣垣下砿様こと、大庄屋不死原平太左衛門玉江達而願上砿﹂とある から、これを以て彼等四人の者が特に高卑負担の重荷を負うことに 対する手当としたことが明らかである。 ﹁村中分ケ山名寄覚帳﹂に よると、残りを右四人の者も含めた村民全部で分け山とした。更に 同末尾には、 ﹁ 字 善 吉㊥ 一、四つ有場之日な 喜 兵 衛㊥ 久右衛門㊥ ゆり汐上へ、ロハ岡切、奥ハさるかい場之谷切、みね ハ大ひろく切、 尤此三人ハ至而困窮之者二御座依、殊二分ヶ山も切荒 シ申砿場所二取判り砿故、依之村方双方得心之上、少 ≧之処永代相野申砿、以上 ﹂ とあり、困窮甚だしくその上分け山のくじ運の悪い者三人に対して は僅少乍ら別口を与えたことが知られる。こうして安永十年四月二 十四日に入会山の現地について分割が実施され、五月一日迄に漸く 分ケ山回を作成して大庄屋迄提出する運びとなった。 四分け山の権利 次に入会山が分ケ山になった場合、各戸が分け山に対して有する 六四. 権利はどのようなものであったろうか。 ﹁村中分ケ山名寄覚帳﹂に は前述した四人の高這百姓及び三人の極貧者に対する別口の分け山 についてのみ、 ﹁永代二分ケル者也﹂とか﹁永代相譲申砿﹂と記し ているから、これは他の一般の分け山が永代のものではなかったこ とを示しているか−とも考えられる。然し分与の年期や割当について はその規定が見当らす、分け山に関するその後の規約も存しないの で詳細は不明である。現行の山導慣行についてみると、規約が存し ない場合は大抵永代割であって、而も最初の分割当時在住者のみが 割山の.牧益を享受して、その後増加せる戸に対しては割当てをしな ⑩ いことが多いから、当村の分け山の場合も永代割であって、分割 以後住民が増加する度に分け山を与えることはなかったと思われ る。 次に当村の戸数に関しては﹁目録﹂に﹁武拾軒之かまど﹂とあり ⑪ 明治四年︵一八七一︶ ﹁戸数人員録﹂に﹁戸数蔵拾五軒﹂とあるか ら、安永十年に分け山を受け﹁村中分ケ山名寄覚帳﹂に登録された 二十五軒が村中全部の戸数であるとみてよい。上述したような分け 山をめぐる高重百姓と小百姓・水呑層との関係から容易に塗せられ る如く、小百姓・水呑層が分け山から除外されたとは全く考えられ ない。 ﹁分山之目録﹂によると高重百姓等が、奉公入間銀や炭売の .件につき、新法続出することを歎いて、 ﹁依之四人之百姓も甚タ忍兼、ケ様二新法数≧発り次第二被致 砿而ハ、連壁高重之百姓ハ相続も難仕、銘≧も弐拾軒之かまど
の内二而御座砿得ハ、御高と門と二惣山を御掛ケ被髪砿と申て ︵何故︶ も、なせとハ思召ますまじきを、無二軒別門司御分ケ被下砿と 穿話さハ、御上様村方共蓋承知可高下筈二言存砿間、是を如何 利ふじん共思召遊されましと四人之者共相談仕、其弐拾歩一之 .分山を木立置砿而、向後不時之御高掛り・御奉公人銀手当テニ も仕度由、何卒御上様以御慈悲を惣山を四人分三分ケ被遣被下 雪曇二と.大庄屋不死原平太左衛門様皇軍而願黒蝿し と述べているところがらみて、各戸の持高に応ずる高割と軒別平等 な門割との併用形態という構想もあったが、結局高重四人の者が年 貢の高徳負担のために与えら九た二十分の一の分け山と上述極貧者 三人分を除いて、他は全部各戸平等に分割されたことがわかる。平 等割についてただ一つの疑問は、前掲史料に見られるように、分け 山決定の際に二十五人のうち十﹁人の者がまず夫々望む所.を先取 し、その後残りを他の十四人の者が﹁もみくじ﹂即ち抽籔で分けた という点であるが、これは何らか特別な理由があって一部の人々に 先取の特権が与えられたことを意味するので.あろうか明らかではな い。 , 分け山の処分権に関しては﹁分山之目録﹂に﹁御田地曳茂所持不 仕百姓衆中以加様軒別二山方を分ケてもらひ置捨得ぞ、壱反田地之 替り.二も成、三聖・五拾目急二借用質物二も罷成申︵下略︶﹂とあ るから、分け山の質入は認められたとみえるゆ恐らく分け山の用益 や処分上には村の共同体的拘束が強く残存したと思われるが、しか し当芸の分け山においては、その質入が許されるということだけか .播州一山村における入会地の分割 らしても、各戸が分け山に対して有する権利はかなり大きかったと 見てよい。﹁高山之目録しには分け山について﹁銘≧之所持林二割 符を垣間、御重ケ被下煮﹂とあるから、恐らく田畑に対すると同様 な所持権が成立したと思われる。明治五年︵一八七二︶ ﹁村方旧記 ⑫ 書類写﹂によると、前述安永十年分け山当時における二十五人の持 分二十落口を僅か十四入で持つに至っており、中でも坂元利左衛門 は五口半幅前鴎九左衛門は四口半とその外に四人の高温百姓に当て られた分とを併せ有した。右十四人の中には他村犬見村の者一人 ︵小松繁太郎︶も含認れている。これは分け山所持権の移転が当部 落の範囲に限られす、かなり自由になされたことを示している。こ れによって入会地たる惣山が分け山院付されて後、私有地としての 実体を有する.ようになったことを知り得る。同時にまた所持権移転 の過程において、集中の傾向を生じていることも見逃し得ない。 五 結 目 以上播摩国神西郡栗村に.おける安永十年︵一七八一︶の﹁分け 山﹂即ち入会地たる村持山林の分割について老察した。当村の分け 山はその山林に対する大幅な権利を永代に各戸に分与するものであ った。これは村落の総有に属する入会地か村落共同体の経済的な紐 帯としての役割を停止し、総有形態が解体むて山林の私的所有が成 立することを意味するものであり、従ってまた村落共同体が解体す る過程の一断面を示すものである。 この場合特に入会地解体の動機が主として経済的な問題にあり、 六五 2
播州一山村における入会地の分割 就中商品貨幣経済の村落への浸透が重要なかかわりを持っていたこ とは注目に値する事実である。更にまた当村の尊重百姓が入会地の 分割を請求し、そして遂にこれを実現したということは、通常総有 という概念で理解されている徳川時代の入会地に関して注意される べき事柄であろう。