摂津の一農村における山割方法
一;一矢田部郡奥平野村i
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敏
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摂津国矢田部郡奥平野村に於ては徳川時代から既に村邑山林の分 割利用即ち山割が行われていた。書聖は現在神戸市兵庫区に属する 市萄地の一劃になっているが、徳川時代を通じて、幕府の代官支配 ① 地及び旗本畠山・片桐両氏の知行地からなる三領入組の農村であっ た。現存の山草関係史料は元緑四年︵西暦=ハ九一年︶のものが最 も古いが、その前年元蔵三年︵一六九〇年︶の﹁摂津国矢田部郡奥 ② 平野村諸色覚帳﹂ ︵以下諸色覚帳と略称する︶によると村高﹁四百 七拾石獣予習升﹂の三領内訳が、 ﹁弐百五石七癖五升 畠山民部大輔殿御知行所 弐拾九石九升 片桐帯刀殿御知行所 弐百三拾五石弐斗七升 小堀仁右衛門殿御代官所﹂ となっている。右のうち代官所支配分中の毛付高﹁弐百拾石四斗六 升﹂の作物については同諸色覚帳に、 ﹁百六拾壱石七斗壱升六合 田方 内六反程 凡毎年木綿作 摂津の一農村における山割方法 拾忠宿町六反八歩程 四拾八石七斗四升四合 壱町程 壱町二反程 内五反程 三町弐反弐畝壱歩 七反七畝三歩 とあり、 L 若千の木綿その他の商品作物をも生産したが、その商品化 の程度はその作付面積から推測するにさほど高くはなく、徳川中期 における当村はやはり稲作を主とする農村であったと考えられる。 二 凡毎年稲、 二方 凡毎年木綿作 凡毎年大根作 凡毎年たはこ作 凡毎年蕎麦作 屋敷 元来山々の方法には分配の基準に不平等割と平等割とがあり、前 ③ 者が漸次廃止されて後者が採用される傾向が認められる。山岳制度 の研究に際してはこの変化の過程及びこの変化を交える村落溝造の 動きについての分析が一つの重要な課題である。この点について究, −明する為には先ずもって不平等割が如何なる方法によって行われて いたかを明らかにしなければならない。奥田唱導は明治以後の慣行 の申に見られる不平等割の方法には各戸が持っている如何なる経濱 的な条件に拠るかということによって石高割または高塚・地価割・ 反別割・公租公課割・牛馬割の五種類及びこれらと平等割との併用 形態が存することを指摘された。然し徳川時代の不平等割に関して ⑤ は従来その方法を判然たらしめる史料が殆んど見出されておらず、 六一摂津の一農村における山割方法 ⑥ 管見に入りしものは僅かに西川善介氏が報告しておられる信濃国西 野村︵長野県西筑摩郡開田村大字西野︶の事例があるだけである。 同村の天保元年︵一八三〇年︶八月﹁柳場原割合帳﹂によると同所 の割当山総面積三万六千七百九拾五坪のうち、その半分を十二軒の 家並平等に一戸当り千五百三拾三坪宛割り当て、残る半分を各戸の 石高によって割当てている。即ちここでは石高に基づく不平等割と 家並の平等割とが併用されていたわけである。 摂津国奥平野村では、右西野村の場合とは異る方法がとられてい た。同村に関しては﹁上之山﹂と﹁井手山﹂と称する二箇所の山林 について央々数年次の山多色が現存するが、そのうち上之山につい ⑧ ては元豫四年四月の﹁上之山高打・家打・見取打銘≧割符帳﹂ ︵以 下上之山割符帳と略称する︶と題する文書がある。これによると、 ﹁惣山反数合四町三畝廿七歩﹂のうち冒頭に仁左衛門分七反弐畝廿 三歩が掲げられている。天明元年︵一七八一年︶ ﹁上野山反割名前 ⑨ 改帳﹂に於ては仁左衛門株の同反別が祥福寺分になっているが、こ れは他の各戸の割当面積に較べて著しく大きく、恐らく何らかの理 由により特別に割当てられたものと思われる。右仁左衛門分を別と し忙残り三町三反壷畝四歩は同村のうち代官難燃に属する各戸の聞 に割当てられており、それについて右元豫四年上之山割符帳には左 の如く記されている。 ﹁三町三反壱畝四歩 惣山 此歩九千九百三拾四歩 此御年貢四拾弐匁三分弐厘 六二 此割 ⑩山全十六百七拾三歩 一局打 内 三千百九拾八歩 家打 一石二付 五拾五歩宛 家本役脚付 百子四歩宛 但御年貢之当り歩二四毛弐厘六ツ・ L .右によれば割山は本来﹁早薬﹂即ち星虫の山林であり、その総反別 のうち約三分の二は﹁毬打﹂即ち各戸の持高に応じて一石当り五十 五歩宛の割で、約三分の一は﹁浪打﹂即ち家の役に応じて割当て、 またこの山の年貢は割当山の大きさに応じて分担することにしたこ とがわかる。上之二割符帳には右に続けて、 ﹁ 右銘≧小割 高壱選士斗一升四合 一、百四歩 耳打 清右衛門
合役
一、百弐拾四歩 焼打 〆弐百弐拾八歩 此御年貢壱匁壱厘 ︵中略︶ 高壱石壱斗三合 一、六拾壱歩 叩打 茂右衛門半役
一、六拾弐歩 豆打〆百廿三歩 此年貢五分四厘 ︵中略︶ 高三斗七升八合 一、弐拾壱歩 川副 馳惣右衛門 見取 一、三拾七歩 家打 〆五拾八歩 此身エ貝弐分六厘 ︵下略︶ し というように各戸の割受面積と年貢分担額が掲げられ、そして末尾 に、 ﹁右之逼何財田残参会相談之上高打、以新検打之、里家打・ 見取迄明細二銘≧割符仕上者、自今以後少も申分二者無之、 自然六ケ敷事申もの於有之ハ、其断口之様子望外段≧組中 法度之趣別紙一紙連判書二三鉢叩違背卜者無目座臥、為其 春野砿、以上、 元禄四年未四月廿三日 清右衛門 ㊥ 三右衛門 ㊥ 与右衛門 ㊥ 清 兵 衛 ㊥ ︵外三十名略︶ 庄屋 八郎兵衛殿 摂津の一農村における山割方法 年寄 次左衛門殿 同 助右衛門殿 ﹂ と記されている。 この文書は庄屋・年寄宛になっており、従って彼等の名はもとよ り差出人の中には見当らないが、割山の割受人の中には夫々入って おり、末文に村申残らず参会相談の上で割当てた旨を述べているか ら、右割符帳は村民相互の誓約、即ち村極の実体を持っていると見 てよい。このことは山割が領主側から強制されたものであるよりも 寧ろ村落の自主共同的な山林利用形態であることを示唆している。 ところで右に掲げた三人分の﹁銘≧小割﹂にういて見られるように 手打の方は石高に正比例して黒山面積が算出されているが、他方家 打の場合には先ず﹁本役﹂︵前掲清右衛門の場合︶・﹁半役﹂︵尉じく 茂右衛門の場合︶及び﹁見取﹂ ︵同じく惣右衛門の場合︶の別があ る。本役︵二十戸︶が百廿四歩︵計二千四百八十歩︶に対し、半役 ︵七戸︶はその丁度半分六十二歩︵計四百三十四歩︶を与えられて いる。次に﹁見取﹂というのぽこの場合如何なる意味に用いられて いるか定かではないが、その受けている割山面積は何れも半役の六 十二歩以下のもの許りで、而もその大きさは十二歩︵二戸︶・二十 五歩︵四戸︶・三十七歩︵ご戸︶・四十三歩︵二戸︶の四段階︵計 十戸・二百八十四歩︶になっているから、恐らく半役の資絡をも与 えられない者に対し、右四段階の区分をなしたものであろう。 今この軍役・潮干・見取の区分の性格を明らかにする為、蕗高と 対照させてみると第一表の如くになる。これによると家役の区別と 六三 ,
摂津の一農村における山割方法 〔第一表〕 持高と家役との関係 見取 半切 本役 只U 2 2 1 1 9臼 3 1
4441 3211
認
5斗以下 1石以下1∼2石
2一一3 3一一4 4一一5 5一一6 6一一7 7一一8 11∼12石 21一一22 20 7 10 戸 戸 戸 謝 備考 持高8石以上は便宜上必要な 項のみ設けた。 各戸の持高とは無関係ではない。何故ならば持高一石未満の戸は半 髪又は見取に限られるし、反対に土石以上の石高を有する戸は必ず 本経となっているからである。然し乍ら一石から五霞までの石高を 有する戸は本役・半役及び見取の何れにも存するから、家役の区分 は少くとも当時の持高のみに対応してはいないことがわかる。同様 な関係が見取を尊えられている十戸の受けている割山の四段階と各 戸の持高との間にも存する。 右上之山型符帳に現れた本役・半役及び見取の区分の意味を吟味 するもう一つの材料として前掲元緑三年諸色覚帳の左の如き記載が ある。 コ、.家数合三拾六軒 内 弐拾軒 高持百姓 拾六軒 水 呑 L 六四 この高持百姓数は代官所麦配分のみの戸数であるが、前掲本役数 二十戸に吻合し、残る半役・見取の計十七戸も一戸の差こそあるが 前年諸色覚帳に記載する水呑数にほぼ合致するから、この高持・水 呑の別が三役と半可・見取の別と一致しはしないかということが一 応考えられる。然し半役・見取はすべて水呑であるとすれば、その 中に含まれる戸は高を持っており乍ら、就中孫十郎︵半役︶の如き は四二壷斗余の高を持っているにも拘らず水呑とされることになっ てこの点は若干疑問が残る。 以上の如く奥平野村に於ては石高割と家役割の併用により山割が 為されていた。石高割はもとより不平等を原則としている。また家 役割は家役の同じもの同士の聞では平等であるが、異れるものの間 では差等が存することを原則とする。従って奥平野村における山割 の方法は単なる不平等割でもなく、また前述した信濃国法野村のよ うな不平等割と平等割との併用形態でもない、いわばこれら両者の 中間的な山国方法と見なすべきであろう。 上之山については更に天明元年︵一七八一年︶十一月の﹁上野山 反割名前改帳﹂があるが、これに記載された反別は殆んど元緑の制 を踏襲しており、各筆に元緑四年の割符帳に登録された人名の株が 設定されている。例えば元豫四年割符帳に於て清右衡門の持分であ った分は﹁清右衛門株﹂と称するが如くである。而して天明元年の 上野山反割名前改帳では株名と同名義人が割旧主となっているもの は十株にすぎず、大部分は名義人が変っている。これは此間各戸の 相続人によって割山が相続されたからであることも当然考えられるが、符箋によると天明以後にはこれら割山の譲渡が行われているこ とが知られるから、天明以前における割算名義人の変更もその一部 は譲渡に基づくものではなかったかと推測される。このことは本来 村が各戸に分割利用することを建前とする山割制度が解体へ向いつ つあることを示す一つの指標であるといえよう。更にまた元豫四年 の上之山割符帳には見られなかったことであるが天明元年には、第 二表に示した如く一人で二季以上の株を有する者が現れている。こ 天明元年上之山:二日所持者 〔第二表〕 名 株 山 割
所持
割山所持者 伝三郎株, 忠兵衛株, 伊兵衛株, 与次右衛門株, 市郎兵衛株, 佐治兵衛株, 惣右衛門株, 長右衛門株 助右衛門株 五郎右衛門株 岸右衛門株新兵衛株
八郎兵衛株 三郎右衛門株 喜 八 友右衛門 宇右衛門 与次太夫 市郎兵衛 八郎兵衛 平右衛門 備考 平右衛門はこの外,僅か14歩ではあるが一年 貢山を預っていた。 の外同条作成以後の加 筆によれば、天明元年 以後二十以上所持する ことになった者八名が 認められるが、.中でも 角右足門︵後述参照︶ の如きは、源十郎後家 株・三郎右衛門株・与 三右衛門株の三界を併 せ所持するに至った。 以上の如く、僅か乍ら 集中の傾向が生じてい ることは惣山が日割を 経て私有化の方向を辿っている傾向を示すものとして注目すべきで あろう。しかも天明元年上野山反割名前斗帳に現れる割受人名義中 ⑬ には宝暦七年︵一七五七年︶ ﹁家数人別牛馬員数帳﹂に於て庄右衛 摂津の一農村における山割方法 ⑭ 門の﹁代≧譜代﹂と記されている清三郎と八右衛門、及び八郎兵衛 の同じく﹁代≧譜代﹂たりし角右衛門と字右衛門等の名前が見えて いる。元豫四年の上之山割符帳における割受人三十七戸には﹁代≧ ⑮ 譜代﹂の者即ち家持下人は含まれていないと考えられるから、これ らの家持下墨が独立して割下を取得するに至ることは山割制度変質 の一面を示すものであろう。 他方井.手山に関する現存史料としては元緑十七年︵一七〇四年︶ 三月﹁領内之園山日記﹂という記録が最も古いものである。井手山 の方は奥平野村三諦全体の村民の間で割ったものであるが、壷番役 分弐反宛五十五口、弍番役分壷反騰畝宛十二口、三番役分目畝弍拾 歩宛十二口、四番役分四畝拾弍歩廊九口に分れ、各戸は以,上のうち 何れか一口を受けていた。即ち、この場合にも不平等割がなされて いたわけである。井手山に関してはその後享保六年︵一七二一年︶ ⑯ ﹁井手林村三方銘≧割符預山南﹂及び天明二年︵一七八二年︶ ﹁井 ⑰ 手山名前改之写牒﹂等があるが、山畑方法の詳細については前に述 べた上之山のようには明らかにすることができない。 終りに、これらの山林が徳川時代当村の農家経済に出て如何なる 役割を果したかについて若干の史料を掲げておきたい。元緑三年諸 色覚帳によれば、 ﹁一、高持百姓男ハ兵盧︹ニギ叩ふせこゑ仕取、又ハ山些小草薪田畑 こゑ二仕砿、女ハ作間二少もめん仕切、春二成青草出来砿 ヘハ、ぞうなつミ兵庫へ売二参砿 ’ ﹂ とあり、高持百姓にとって山の柴草は薪や田畑の肥料として重要な 六五 亀摂津の一農村における山割方法 資源であった。また、 ﹁一、無高水呑百姓男下作仕、其間ニハ山之柴草かり、兵庫へ 売二参砿、女ハ少もめん仕立、春二成青草出来砿ヘハ、ぞ トつなつミ兵庫へ士冗二参砿 ︵申略︶ 一、市場 兵庫津青山播磨守殿御領地、但当村より道法弐十 丁、百姓作間ニハ柴草かり付出商売仕、勿論此方へ之調物 何二よらす諸色相調申砿 ﹂ とも記されていて、特に無高水呑百姓にとっては山の柴草は程遠か らぬ兵庫津へ売り出す貴重な商晶ともなっていたことがわかる。 三冒 、 以上摂津国矢田部郡奥平野村の山割慣行につき、現存する史料を もって知り得る限りのことを考察してみた。とくに同村上之山の山 野に関して明らかにされるところによると、その割当方法は不平等 割の原則に基づくものであったが、一部は石高によって、他は家役 に応じて割当てがなきれていた。即ち奥平野村の山割方法は単純な る不平等割と平等割・不平等割併用形態との中間的な位置を占めて おり、従来殆んど明らかにされていない徳川時代における不平等山 口の方法を具体的に知り得る一事例であるといえる。 またこのような奥平野村の山窟制度が徳川時代後期に於て変質・ 解体しつつあることを示す若干の現象について述べたが、明治五年 ⑱ ︵一八七二年︶ ﹁摂津国八部郡奥平野村地券簿﹂には例えば﹁森本 六六 菊次郎L分として、 コ、西山反別九反五歩 量地代金弐拾六円五拾銭 四番 字上ノ山瞼岨 反別五反四畝五歩 但雑木柴草山 此地代金拾六円弐拾五銭 弐拾番 字上ノ山瞼岨 反別壱反壱畝歩 但雑木柴草山 塵地代金三円三拾銭 し と記載されている。これによると﹁上ノ山﹂は地券交付に際して、 個入津として登録されたことがわかる。尤もこのことが直ちに実質 上の割山の個人所有化を表現しているか否かについては疑問がある が、この地券交付を一つの段階として、明治維新以後漸次割山が私
⑲
有林化したものであろう。 現在でも例えば神戸市兵庫区梅元町︵旧奥平野村のうち︶旧山割 施行地域の山林に﹁帯山﹂と称して麓から峰にかけて細長い帯状の 私有林の区分が存するのはかっての山割区分の遺構と考えて差支え ないと思われる。① 徳川時代における当地方の所領関係については神戸市役所編・ ﹃神戸市史﹄別録一所攻﹁近世の兵庫及び附近の沿革﹂九頁、 中西天涯氏著﹃平野懐古物語﹄三−四頁参照。 ② 神戸市兵庫区梅元町、森本家文書。 ③井箆弄氏﹁美濃稲津村小里の割山制度﹂経済論叢第二十八巻 第二号一六五頁。奥田或氏﹁日本林野割替制度の研究﹂、高岡 熊雄先生在職晋五年紀念論文集﹃農政と経済﹄所牧一四二頁。 拙稿﹁近江五個荘にカける山国制度﹂彦根論叢第四十三号四六 頁。 ④奥田氏前掲論文一四〇頁。 ⑤近江国石馬寺村における明和元年︵一七六四年︶以前の慣行 では庄屋・年寄・組頭等の村役人には一口宛、他の者には﹁家 役・夫米﹂に応じて一口の四分の三・二分の一二二分の一及び ‘四分の一の計五等級に不平等割がなされていたが、家役・夫米 の意味内容等の詳細については明らかになし得ない︵前掲拙稿 四六頁︶。 ⑥西川善介氏﹁入会地分割と村落構造﹂社会学評論.第二巻第二 号。 ⑦西川氏前掲論文五四−五五頁。 ⑨⑨ 神戸市兵庫区、平野協議会文書。 ⑩ この内訳の合計は九千八百.七十一歩となり、惣山歩数九千九 百三十四歩との閲に穴十三歩の差があるが、同じく上之山割符 帳末尾の記載によると、このうち三十歩は如何なる理由か不明 であるが﹁年寄重右衛門﹂に与えられ、残り三十三歩は﹁余り 歩﹂となっている。 摂津の一農村における山割方法 ⑪ 元禄三年諸色覚帳に記載されている家数は明和八年︵一七七 一年︶﹁撮津国八部郡奥平野村差出明細温し︵森本家文書︶に、 ﹁一、当村惣竃星合九拾七軒 御料
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@四拾八軒内謁翻持
畠山紀伊守護御知行所@
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@四拾三軒・訴器高持
片桐帯刀様御知行所@
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@六軒 ・講辮﹂
とあるのと比較すれば、奥平野村三親全部の家数ではないこと が推測される。本文中に既述のように元禄三年諸色覚帳には田 畑作付反別は代宮所支配分のみについて記載されているから、 この家数も恐らく同様に代官所支配分のみのもの.であろう。 ⑫平野協議会文書。 ⑬ 森本家文書。 ⑭宝暦七年家数人別牛馬員数帳に見える﹁代≧譜代﹂の者が主 家との間に如何なる身分的関係や賦役負担関係を有したか等に ついては全く史料を欠くため不明であるが、今井林太郎・八木 哲浩両氏の同国武庫郡上瓦林村を中心とした研究︵﹃封建社会 の農村構造﹄︶によると、近世前期の当地方︵西来︶に於ては 家族労働に加えて譜代下人就中元禄以.後は奥平野村の﹁代ヒ譜 代﹂の如き家持下人の労働力による地主手作がかなり広く行わ れていたと思われる︵同上書=二i一四三頁︶。 六七摂津の︸農村における山割方法 六八 ⑮元禄四年の上之山割符帳における割受人の申に﹁代≧譜代﹂ の者が含まれていないことは、第一に宝暦七年における﹁代ヒ 譜代﹂の者の名が元禄四年の割受人名義中に一人も見えないこ と、第二に本交中前掲の元禄三年諸色覚帳の高持・水呑数の記 載が山割の場合の本役と半役・見取の戸数にぽぽ一致すること 第三に宝暦七年家数人別牛馬員数暖に於ては譜代︵八戸︶や抱 の者.︵二戸︶を除いた﹁当歴代≧住人﹂のみで四十笠戸︵うち 高持三十五戸・無高十戸、但し無毒のうち四戸は当時他村に居 住せるもの︶も存すること等から推測することができる。 ⑯⑰ 平野協議会文書。 ⑱ 森本家文書。 ⑲同様な過程を示す事例については、 照。 前. f拙稿五三一五四頁参 ︹後記︺ .本稿に利用した史料の閲覧に際しては、神戸市兵庫区五 宮町・佃良一氏はじめ平野協議会の役員各位及び同区梅元町・ 森本艶言の御厚意と御援助を早くした。薙に記して感謝の意を 表したい。 い