梁啓超の歴史的役割とそこにおける日本の意味
教科・領域教育専攻 社会系コース 佐藤利憲
【はじめに]
清末民国の思語家・政治家・学者である梁啓 超については、これまで実に多く論じられてい る。とくに変法運動期の活動と「新民説jを代 表とする彼の著作、その思想、を支えている進化 論については、当時の革命派は言うまでもなく、
胡適・毛沢東らにも大きな影響を与えただけに、
多くの研究が行われている。これらの新しい思 想が世に出されたのは、梁が戊成政変(1898 年)により日本へ亡命した後の時期にあたる口
これらの思想、には、彼が日本での文化状況を体 験、摂取したことが大いに影響している。言い 換えると、梁啓超のこのような考えを育てたの は、明治日本にあるのではなし、かc
よってこの論文は、彼が中国に対して果たし た歴史断婚!とそれに関連した明治日本の意味 とを、彼が書き残した文章をもとに明らかにす ることを目的とする口
【第1章梁啓超の生涯と思想]
この章では、梁の生涯と政治体制に関する思 想、の展開過程について概観する。彼の生涯は五 つの時期に分けることができる。すなわち、生 まれてから 1890年に康有為に出会い、彼の下 で学んだ幼少年期 (1873‑‑1895年)、変話通謝 を開始し、園内で、改革運動を行った変法運動期 (1895'"'‑'1898年)、日本に亡命してそこで独自 に西成思想、を研究し、活発な言論活動を行った 立憲運動期(1898'"'‑'1912年)、辛亥革命後に帰
指 導 教 官 小 浜 正 子
国して主に政治の舞台で活動した政党運動期 (1912'"'‑'1920年)、政界から身を引き、学術文 化面で活動を行った晩年(1920'"'‑'1929年)で ある。
梁は特に日本亡命中の立憲運動期に様々な政 治体制に関する影響力の大きな言論を残した。
その主張は、短い聞に大きな変化を見せており、
内容は共和制から開明専制まで大きな隔たりが ある。
【第2章 日本亡命初期の梁の思想】
この章では、梁の日本亡命初期 (1899年頃) の文章である「自由書J・「国民十大元気論」に ついて考察する。これらの文章は、福沢諭吉の
『文明論之概略』の翻案として書かれたもので あった。よって梁と福沢の文章を比較すること で、福沢諭吉を代表とする明治日本が梁の思語、
形成の上で果たした役割について明らカヰこする口 検討の結果、梁と文明開化時期の福沢とが、「国 民国家」建設のための「国民」の創出とし、う共 通の一課題を負っていたことが分かった。そして 梁の日本亡命初期の文章は、その目的を遣する ための萌芽で、あったといえる。
【第 3章梁啓超の歴史的役割における日本 の意味】
この章では、梁啓超の書き残した文章でもと りわけ重要な「新民説J、中でも特に人々に影響 を与えた 1ω2年頃iこ書カれた文章に焦点を絞 って考察するO そしてその後に書かれた「開明
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専制論J(1906年)との比較を行ない、どのよ うな違い、または共通点があるかを考察するD
さらに第2章で考察した日本へ亡命した初期の 梁の思想との比較も試み、そこから読みとれる
ものを明らかにする。
まず「新民説J と「開明専制論J との比較を まとめると、この二つの文章において、梁の政 治 榊IHこついての主張が変化している口すなわ ち「新民説Jにおいては立憲君主制を主張し、
「開明専制論」においては開明専制を主張して いる。この変化の理由としては、1902年頃に「新 民説」で梁啓超i訪朝、主謝句な考えを持ち論じ ていた。しかし、その考えが実際には効果がな いということがわかり、訪米後その打開策とし て打ち出したものが「新民説Jの後半部で、あっ た。そして梁は、その現実的な考えをさらに発 展させ、「開明専制論Jとして、最も現実的な論 文を発表したのである。そのように考えると、
梁啓超の思想の変化は、急進的なものではなく 漸溺句なもので、あったと言うことができるD
さらに梁の日本亡命初期の文章と「新民説j
との比較であるが、梁の日本亡命初期の文章は、
まだ西洋世界についての概謝句な紹介の域を越 えていなし Lよって1899年段階の梁の思想は、
まだ確立しているとは言えず、日本における新 思忍を吸収することに車京を置いていた。とし、
うことは、彼は確かに中国人に対して西洋の新 思認を紹介する役割を果たそうと様々な文章を 書いたのであるが、それを行なうことが同時に 彼の思忍にも何らかの影響を与え変化させてい
ったとは考えられないだろうか。
このことから、梁啓超にとっての明治日本の 怠味はというと、私は、そこにはただ亡命先と いうのではなく、そこで、の様々な経験によって 生まれた梁オリジナルの,官思の源流で、あると言
っても過言はないと考える。
【おわりに】
最後に、梁啓超の歴史的役割とそこにおける 日本の意味についてまとめておしまず、彼の 果たした歴史的役割とは、ジャーナリストとし、
う立場から、近代中国を改造させる試みを行な ったということであるc しかし、これらの文章 が全て彼独自の理論によって書かれたもので、は なかったo そこで現れて来るのが、日本の役割 である。つまり梁啓超は日本に亡命することで、
まず伝統的な中華の考え自体を捨て、当時、日 本に存在していた新しい理論をそっくりそのま ま受け入れたのである。よって彼の考えは、日 本の専門家にとってはありふれた考えだ、ったで、
あろう司しかし、日本にある理論が当時の中国 では一般的には存在していなかったG そう考え ると彼の文章を読んだ、中国人にとっては、目に する理論そのものが新しかったので、ある口それ ならば、彼の文章から影響を受ける者が多数存 在したとしても、不思議はないであろう。
しかし、彼が日本の影響を受けたことは事実 であるが、その新しい理論をそっくりそのまま 受け入れた後に、それを彼独自の考えで取捨選 択して、近代中国に必要な理論を打ち出したD
このことは高く評価できるであろう。
そのことからまとめると、梁啓超は近代中国 最大のジャーナリストで、あったし、その彼のバ ックボーンには日本の存在が見え隠れしている のである。
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