十 八 世 紀 後 半 の ド イ ッ 国 民 教 育 と そ の 研 究 文 献
田中昭
徳
十八 世紀後 半 の ドイ ツ国民教育 とそ の研 究文献
一十八世紀後半のドイッ国民教育
﹁国民教育﹂の歴史は︑いわゆる﹁近代的﹂諸国民の歴史から分離され得ない︒﹁国民﹂が単に歴史的範時である
というだけでなく︑﹁一定の時代の︑即ち興隆しつつある資本主義時代の歴史的範躊である﹂というのと全く同様な
意味において︑また﹁国民教育﹂もこの﹁興隆しつつある資本主義時代﹂の所産なのである︒したがって︑﹁国民教
育﹂は﹁市民的﹂諸国民に照応した︑つまり﹁市民的﹂諸国民に典型的な︑教育学的現象ということができよう︒即
ち︑封建制度が解体し︑資本主義が発展して行く過程の中で︑﹁国民教育﹂は個々人を﹁国民﹂に構成すべき機能と
して営為したのである︒
﹁民富﹂(ぐーO一犀ω弓Φ一〇げ甘O目)を近代化の﹁歴史的起点﹂としない︑いわゆる﹁資本主義発展の第二の道﹂と称される破行的
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な近代化過程を辿ったドイッにおいて︑封建制に対する資本制の決定的な勝利の︑無数に分裂した国民より﹁一つ﹂の国民への統一実現の︑身分制﹁封建国家﹂より市民的﹁国民国家﹂への発展の﹁偉大﹂な時期が始まったのは︑十八世紀
の後半であった︒国内市場をめぐる闘争︑国民的経済共同体の確立の為の戦いは︑封建的障害との対決を通じて︑ます
ます明確な形態をとりつつあった︒そして︑これらの闘争において極めて著しい役割を演じたのが教育と学校である︒
当時ドイッでは︑無数の教育学的著作が刊行され︑各地で数多くの学校改革が試みられた︒それ故にまた︑ドイッ
の十八世紀は﹁教育学の世紀﹂とも呼ばれているのである︒これらの教育学的著作家や学校改革者たちの努力は︑こ
の時代においてドイッ教育学を早くもドイッの境界を越えて広くヨ!ロッパ的に有名ならしめ︑ドイッの領域の内外
に﹁教育学的熱狂の時代﹂を導出せしめた︒しかしながら﹁新しき教育者﹂とみずから称した︑これらの教育学的著作
家や学校改革者たちにとっての共通関心事は︑ドイッにおける封建制を解体し︑﹁国民﹂的統一を実現する為に︑教育
によってそれの前提を形成することにあった︒彼等のかかる教育学的努力は︑﹁国民教育﹂の概念に包括することが
できよう︒十八世紀後半のこの偉大なドイッ﹁国民教育﹂運動の先頭に立ち︑これを主導したのが︑汎愛派(雷貯馨穿︒幽
豆ωけ9)とその支持者であり︑なかんずく︑バゼドー︑レーゼヴィッツ︑カソペ︑トラップ︑ラッハマソ︑シュトウ
ーフェ︑ヴィローム︑ロヒョi︑J・メーザー︑グーツ・ムーツ︑シュテファニィ等の人物であったのである︒
教育と教授とを封建的鉄鎖から解放し︑新しい諸要求に適合させようとする彼等の努力は︑ドイッにおける国民教
育に関する一連の進歩的思想を発展させ︑やがてそれがフィヒテやW.v.フンボルトの国民教育理念に結実するに
至ったのである︒
吾々はドイッ﹁国民教育﹂の本質をその歴史的発端から理解する為に︑十八世紀後半のドイッ﹁国民教育﹂を資本
主義興隆期の﹁社会現象﹂として︑したがって一つの﹁歴史現象﹂として促え︑それの形態および内容の本質的構成
要素を分析し︑そしてそれが﹁社会の物質生活の諸条件﹂と如何なる係りをもつものであったか︑を究明しようと考
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十 八 世 紀 後 半 の ドイ ツ 国 民 教 育 と そ の 研 究 文 献
える︒しかしその為には︑先ずその準備工作として︑吾々の対象とする十八世紀後半のドイッ﹁国民教育﹂が︑従来
の諸研究においてどのような視角から︑いずれの方法で︑如何なる範囲にわたって︑どの程度にまで分析されている
か︑を考察しておく必要がある︒本稿では︑ドイツ語研究文献についてこれを試みることとしたい︒以下の行論では
吾々は︑便宜上この研究文献︑(一)ドイッ帝国時代︑(二)ヴァイマール時代︑(三)ナチス時代の三期に分って考
察する︒資料は主として︑倉9坦目窪富勺9︒︒魯σq︒σq8弱"bd9ご昌国α巳︒q・N旨O︒ω昌圃98伽巽Z9けδ昌巴霞虹Φび毒oqヨUΦ暮ω畠・
鼠巳言一g曇窪u葺琶山Φω一︒︒・冒げ}鐸巳・含ρ田集ロ一〇①o︾に拠ったQ
二十八世紀後半のドイッ国民教育に関する研究文献
剛ドイツ帝国時代
ドイッにおいて産業革命が急激な進行をみせ︑独占的産業資本と緊密に結びついた巨大な金融資本のイニシャチブ
の下にユソカー権力がいよいよ﹁帝国主義﹂への歩みを強めた時期︑即ち十九世紀の七〇年代より今世紀の一〇年代
に至る時期に︑吾々はドイッ教育史学の領域で︑十八世紀教育学との最初の強力な取りくみを見出すことができる︒
改めて述べるまでもなく︑当時︑ドイッのユソカー権力はブルジョアジーとの協力の下に︑対外的にはイギリス︑フ
ラソスおよびアメリカを向うに廻して激烈な帝国主義競争を︑対内的には﹁絶対の緊急事﹂であるドイッの統一を完
成する為に︑非プロイセソ的ロ国際的性格を有つ二つの敵と対決せねばならなかった︒即ち︑一方では﹁中央党﹂お
よびカトリック教会のウルトラモソタニズムと﹁文化闘争﹂(国巳け嘆冨目鷺)を戦い︑他方では﹁資本主義の鬼子﹂プ
ロレタリアートの社会民主主義に対し﹁飴と鞭﹂(N口O犀Φ吋び目OけO口α頃O一翫6げ①)の政策︑つまり﹁社会主義鎮圧法﹂およ
び﹁プ冒イセソ的社会主義﹂の実施を以て対決せねばならなかったのである︒ここにおいては︑教育は﹁ドイッ市民
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社会の危機克服の手段として﹂︑国際的方向を有つこれら二つの世界観を超克し︑国家的要求に応じ得る﹁ドイッ国
民﹂︑﹁ドイッ民族﹂を陶冶する任務を課せられた︒教育に対するかかる国家的要求は︑教育史研究の動向に︑特に十
八世紀教育学に関する研究の動向にただちに反映されている︒
十八世紀教育学との取りくみは︑まずライプチヒ大学で着手された︒ここでは︑H・マジウス︑J・フォルケル
ト︑W・ヴェンケ︑K︒ピーデルマン︑M・ハイソツェ︑K・ランプレヒト︑W・ロッシャー︑L・v・シュトユン
ベ︑W・ヴント等の指導と影響の下に︑十八世紀の教育学者および汎愛主義(男巨きけ冨︒且巳ω目易)の個別的問題につ
いての研究が行なわれ︑数多くの学位請求論文が提出された︒例えば︑一九一八年までにはおよそ次のような論文が
受理されている︒
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しかしながら︑かかる新しい研究動向は間もなく︑またドイッの他の大学にも現われ︑ライプチヒと同様に︑十八
世紀教育学の諸研究に対して学位の授与が為された︒吾々はその代表的なものとして︑次の二つの学位請求論文を挙
げることができよう︒
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また︑これらの学位請求論文に拉んで︑F・パウルゼソ︑A・ホイバウム︑P・バルト︑A・シュミート︑A・ピソ
ロッヒェ︑E・シュプランガー等の諸著作を始めとして︑十八世紀の教育学ならびに教育制度に関する数多くの著
書・論文が公表され︑そして︑啓蒙主義時代の教育学者の全集や著述︑或は伝記等も刊行されるに至ったのである︒
もちろん︑これらの著作や論文においては︑﹁国民教育﹂の問題は大抵の場合︑ただ簡単に言及されている程度に
過ぎない︒しかしながら︑これらすべての研究者は︑古い世代であると新しい世代であるとを問わず︑何れも皆ドイ
ツ教育史上におけるこの重要な時期を︑少なくともそれの横への広がりにおいて︑吾々教育学の領域でこれに関心を
有つ者に対して提示しようと努力しているのである︒かく彼等が︑十八世紀の教育学や教育制度の研究に取りくむべ
く︑その心を動かしたところのものは︑彼等がかの教育学遺産の相続者であり︑かの進歩的な教育思想の後継者であ
り︑そしてかの偉大な教育実践の継承者であるという︑自負と確信とであったということができょう︒この点に関し
て︑例えば︑F・ケレーは一九〇七年にライプチヒ大学に提出した学位請求請文﹃M・エーラースの教育改革への諸