チャム人の失われた呪術書をめぐって<前編>―カ ンボジアのマイノリティ・ムスリムの現在―
著者 大川 玲子
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies
巻 48
ページ 77‑90
発行年 2015‑10‑31
その他のタイトル Lost Magic Book of the Cham: The Muslim Minority in Cambodia
URL http://hdl.handle.net/10723/2558
【研究メモ】
チャム人の失われた呪術書をめぐって<前編>
――カンボジアのマイノリティ・ムスリムの現在――
大 川 玲 子
目次
<前編:今号掲載>
はじめに
(1)
チャム人とは(2)
なぜチャム人呪術師を研究するのか(3)
本研究の射程と方法前編注
前編の主要参考文献・資料
<後編:第
49
号(2016年3
月発行予定)に掲載予定>1
章 チャム人呪術師の現状:現地調査より(1)
クルーとなった経緯(2)
呪術の手法:3つ文化の混交(3)
クルーという職業への視線と自己認識2
章 『占星術の書(キターブ・イルム・アル=ファラク)』をめぐって(1) 2
人の呪術師(2)
曖昧な『書』のイメージ:形態,内容,そして失われた理由 おわりに後編注
主要参考文献・資料
はじめに
筆者は
2013
年度に明治学院大学より在外研究 の機会を与えられ,カンボジアのマイノリティ(少 数民族)であるチャム人ムスリムの研究に従事し てきた(1)。それまでの研究は主に,古典期から現 代にかけての中東のアラビア語圏のイスラーム思 想や,現在活躍する英語圏のマイノリティ・ムス リム思想家たちに関するものであった。よって今回の,クメール・ルージュ期(ポル・ポト期)に 壊滅状態となり,その後急速な復興をとげつつあ るカンボジアでのチャム人の調査研究は,これま での研究をふまえた上での新しい領域の開拓と なった(2)。
本研究メモは,カンボジアで行った現地調査(3)
に基づく知見をまとめ,チャム人ムスリムの呪術 師(クルー)を通してチャム人共同体の現状を叙 述,分析することを目的としている。この「クルー」
というカンボジア語はサンスクリット語の「グル」
地図1 ベトナム・カンボジアとその周辺諸国 に由来し,「先生,達人」といった一般的な意味を
持つ。また呪術は「イルム」と呼ばれ,これはア ラビア語の「イルム(知識)」に由来する。こういっ た用語からも分かるように,カンボジアのチャム 人呪術師の研究は,この共同体の宗教文化の重層 性を考察するということである。
本稿ではまずチャム人の背景と現状を概観した 後,その呪術師を研究することの意味と方法を検 討する。次いで,1章で今回の現地調査に基づい て呪術師の現状について述べる。ここではチャム 人の呪術文化の重層性と共同体内外での呪術師へ の評価の複雑さを示していく。さらに
2
章では呪 術師がかつて用いていたという呪術書『占星術の 書(キターブ・イルム・アル=ファラク)』をめぐ る状況について叙述する。これらを通して,チャ ム人がその出自であるチャムパ王国の記憶を薄め つつ,新しいアイデンティティを模索しているこ とが明らかになるであろう。(1) チャム人とは
カンボジアのチャム人はこの国においては移住 して来た人々で,ベトナムの沿岸部にかつて栄え たチャムパ王国の末裔である。チャムパ王国が海 洋国であったことはその民族的出自に関係する。
チャム語はオーストロネシア(マレー・ポリネシ ア)語族に属し,民族的にはフィリピンやボルネ オなど東南アジア島嶼部と深い関わりを持つとさ れる(4)。2世紀以降はベトナム沿岸部(現在のフ エ付近)に中国に「林邑」と呼ばれた王国を形成 し,海洋交易を土台に繁栄した。この国は「海の シルクロード」の航路として栄え,マルコ・ポー ロ(1324 年没)(5)や鄭和(1434 年没)(6)も立ち 寄り,徳川家康も
1606
年に香木の沈香を求めて チャムパ王に手紙を送ったほどであった(松原2012: 109-110;
桃木・樋口・重枝 1999: 69)。そもそもチャムパ王国はインド文化を受容して いた。世界遺産となったミーソン遺跡が比較的知 られているだろうが,シヴァ神などのヒンドゥー 神を祀る祠堂の遺跡やサンスクリット碑文が多く
地図2 チャム人が多く居住する州
Eng 2013: 39をもとに作成。チャム人が3,000人以上住む州を表示。メコン河やトンレ・サップ湖沿いに多く住ん
でいることが分かる。(注:これは2014年のコンポン・チャム州分割以前の地図である)
現存している。現在のカンボジアのチャム人はム スリムであるが,これは海上交易によって,東南 アジアにイスラームが流入し,改宗が進んできた 結果である。
10
世紀頃にはこの王国にムスリムの コミュニティがあったとされ,チャムパ王国とさ れる「タワーリスィーの国」を訪れたイブン・バッ トゥータ(1368年没)は,この国の王女がアラビ ア語を書くことができたと『三大陸周遊記』に記 している(イブン・バットゥータ2004: 324-327)。
さらにチャムパ王国を経由して現在のインドネシ アにイスラームが伝来したとの伝説が残されてい るように(7),東南アジアのなかで重要なイスラー ム伝達路としての役割も果たしていた。
しかし
10
世紀後半になると,海洋交易に基づい ていたチャムパ王国は農耕国家として力を蓄えて きたベトナムの北からの侵攻によって,南下を余 儀なくされるようになる。1000
年頃には政治的中 心がヴィジャヤ(現クイニョン付近)に移り,1069
年には大越(李朝)にチャムパ北部3
州を割譲す るなど,さらに領土を狭めていった( 8)。そして1471
年に大越にヴィジャヤを奪われ,これ以降,チャム人たちはディアスポラ(離散)の時代に入っ た。
チャム人の多くはメコン川をさかのぼって現在 のカンボジアに逃げ込んだ。Collinsはチャム人の 移住の波を
1471
年,1692
年,1795-96
年,1830-35
年の4
期に分けて説明しているが,それらはすべ てベトナムによる侵攻や攻撃の影響によるもので あった(Collins 1996: 30-42)。チャム人のなかに は現在もベトナムに居住する者たちがいるが,主 に中南部の海岸地域とメコン川デルタ地域とに分 かれている。前者には,「チャム・バラモン」と呼 ばれる土着化したヒンドゥー文化を保持する人々 と,「チャム・バニ」と呼ばれるイスラームを混淆 させた文化を保持する人々がいる。また後者では スンナ派イスラームを実践する「チャム・イスラー ム」が多く,カンボジアのチャム人と宗教文化的 に類似している。その他,タイやマレーシア,さ らには中国の海南島にまでチャム人は移住してい る。カンボジアのチャム人はメコン川沿いとトン レ・サップ湖周辺に住むことが多く,その海洋民
族としての出自やベトナムからの流入経路と関係 すると考えられる。実際,かつては漁業や商業に 従事する者が多かった。チャム人はカンボジアに 定着する過程で民族的にも近いマレーシア系ムス リムの影響を受け,混住しつつ,スンナ派イスラー ムを保持していった。
1642
年には,カンボジア王 がチャム人とマレー人の援助でイスラームに改宗 し,スルタン・イブラヒムと名乗るに至っている(Kersten 2006)。また後述するイマーム・サンと いう集団は,カンボジア王よりプノンペン北方の 古都ウドンに土地を与えられ,現在に至るまでそ こに定住してきた。
しかしクメール・ルージュ期になると,チャム 人はカンボジアの主要民族マ ジ ョ リ テ ィ
であるクメール人では ないことから,虐殺の対象となった。人口減少に 関しては諸説あるが,例えば
1975
年のクメール・ルージュ期前の時点ではカンボジア全体の
10%
(約
70
万人)であったが,同期後の1979
年には20
万人になっていたという推計も出されている。この場合,生存率は約
23%となるが,これは一般
のクメール人の生存率が57-71%とされるのに対
して極端に少ない。またモスクの数は113
から5
へ,ハケム(9)と呼ばれる村の宗教指導者は113
から
20
人にまで激減したとされる(Ysa 2002: 2, 119)
(10)。クメール・ルージュ期やその後も続いた内戦の 後,カンボジア全体が復興の途についたなかで,
チャム人共同体もまた現在に至るまで急速に発展 してきた。これにはチャム人がムスリムであるこ とから,イスラーム諸国の援助が大きな役割を果 たしている(11)。伝統的に関係の深いマレーシアに 加え,アラブの富裕国であるクウェート,サウ ディ・アラビア(12),アラブ首長国連邦(UAE)が,
モスクや学校の建設や自国への留学生のための奨 学金支給などを活発に行ってきている。写真1の 国際ドバイ・モスクはドバイ首長国の援助による ものであり,またクウェートは聖典クルアーン
(コーラン)のチャム語訳書とクメール語訳書の 刊行を援助している(13)。
これらの援助国は困窮した同胞であるチャム人 を助けるというムスリムとしての務めを行ってい るわけであるが,同時に,チャム人にそれぞれの 国で実践されているイスラームの形態を広めると いう役割も果たしている。特に特徴的な外部から の影響のイスラーム実践が,ダクワ・タブリー グである(14)。これはインドで
1920
年代に始まっ た厳格なイスラーム復興運動で,タブリーギー・ジャマーアート(ジャマーア・ッ=タブリーグ)
と呼ばれ,世界各国で熱心に布教がなされている。
写真2 ダクワ・タブリーグの女性たち。旧コンポン・
チャム州(現トボン・クム州)のプム・トゥリアにて。
スカーフをかぶらないチャム人女性も少なくないカン ボジアでは,このような全身を黒い長衣で覆う姿は独特 である。(撮影筆者)
写真1 再建された国際ドバイ・モスク。かつ てはバン・カッ湖のほとりに建っていたが,現 在,湖は開発によって埋め立てられ,周辺にあっ たチャム人集落も離散している。(撮影筆者)
カンボジアにもマレーシア経由で
1970
年代に流 入し,プノンペン南方のプレッ・プラーやトボン・クム州(旧コンポン・チャム州)のプム・トゥリ アに拠点を持っている(写真2)。
現在のカンボジアのチャム人人口は,統計に よって異なるが
40-60
万人とも言われ,カンボジ ア人口全体の2-4%程度を占めているようである
(Eng 2013: 31-36)。カンボジアにはチャム人のほ か,ベトナム系,中国系,山岳諸民族が少数民族 として居住するが,そのなかでチャム人はムスリ ムであるため独特の存在となっている。その生活 レベルはカンボジアのなかでもさらに貧しいとさ れる。マジョリティである仏教徒のクメール人が 土地を持って農業に従事しているのに対して,
チャム人はかつて,土地を持たずに漁業や商業に たずさわっていた。仏教徒は生き物の殺生を好ま なかったため,ムスリムのチャム人が漁業に従事 し,そこから魚介類を購入していたとも言われる。
ただし現在はチャム人が就く職業も多様化してき ている。
さて,これまで「チャム人」と呼んできた人々 のなかにも,実は
3
つの集団が含まれている。そ の最大(約75%)を占める人々が最も一般的に
「チャム人」と呼ばれる集団である。自分たちの 共同体内ではチャム語を話し,その外ではクメー ル語を用いている。チャムパ王国時代の土着的な イスラームではなく,スンナ派化されたイスラー ムを実践し,幼児期にはマレー語やアラビア語を 学習することが多い。この集団に属す人々は,カ ンボジア全土に居住している。本稿で「チャム人」
という場合はこの集団を意味している。
次に「イマーム・サン」(または「ジャーヘド」)
と呼ばれる集団がある(約
5%)。聖者イマーム・
サンを崇め,チャムパ王国時代の土着的なイス ラームの実践を保持する独自の生活様式をもつ。
前述のマジョリティの「チャム人」同様に,共同 体内ではチャム語,その外ではクメール語を話す が,マレー語やアラビア語の浸透率は低いようで ある。礼拝は金曜日のみしか行わず,特別な文様 のお菓子や飾りを用いる祝祭行事(写真3)やチャ ムパ王国に由来する霊に集団で憑依される儀礼な
どが行われている。また後に論じるが,マジョリ ティのチャム人から呪術性の高い集団だと考えら れている。この共同体の中心地は古都ウドン近郊 の「オルセー」と呼ばれる地区で,19世紀半ばに イマーム・サンがカンボジア王より土地を与えら れ,モスクを建てたとされる。
さらにもう
1
つの集団は「チュヴィエ」と呼ば れる人々である(約20%)。その出自はチャムパ
王国ではなく,ジャワ島などのインドネシアもし くはマレーシアだと考えられている。チャム語を 話さず,クメール語を用いるが,この集団もムス リムであることから,「チャム人」に含まれている。実践するイスラームはスンナ派化されており,マ ジョリティの「チャム人」と類似している。チュ ヴィエは主にマレーシアに面する海岸地域に居住 しており,ベトナムからメコン川を経由してやっ てきたチャムパ王国の末裔とは異なっている。
このように「チャム人」という呼称は厳密に
「チャムパ王国の末裔」にのみ用いられているわ けではなく,筆者の経験からしても,ほぼ「ムス
写真3 イマーム・サン共同体の人々の祝祭の様 子。雪の結晶のような形のお菓子が作られ,飾ら れる。ベトナムのチャム人ムスリムたちも同じ形 のお菓子を作っているようである。(撮影筆者)
リム」といった意味で用いられている。またチャ ム人自身に聞いたことであるが,「チャム人」とい う呼称はクメール人の間では軽蔑の意味を込めて 用いられることも少なくないという。
カンボジアの前国王シアヌークは,
1960
年代に「クメール・イスラーム」という呼称を造語し,
カンボジアに居住するムスリムたちを「クメール」
の名の下で統合しようとした(15)。チャム人は対外 的には「クメール・イスラーム」と呼ばれること を望むことが多いようである。American Institutes
for Research
によるカンボジアのチャム人に対する大規模なインタビュー調査によれば,その自己 認識は「クメール・イスラーム」とする者が
83%,
「チャム」が
16.5%,
「クメール」が0.5%という
結果になっている(American Institutes for Research2008: 27)。
しかし,実際にチャム人が「クメール・イスラー ム」という呼称を抵抗なく受け入れているのかど うかには疑問が残る。
1990
年代に,日本に難民と して暮らすチャム人が「クメール・イスラームだ なんて,そんな名前,だれも口にしませんよ。し かたなく使わされているだけですから」と述べて いる(樋口1995: 79)。De Féo
もまた,本当に自 分のことをカンボジア人だと思っているチャム人 は少なく,実際にはチャムパ王国からの避難民と 考え,「クメール・ムスリム」という呼称はほとん ど用いられない,としている(De Féo 2007: 4)。筆者も呪術師への聞き取りの際に必ず,「あなた は自分のことを,チャム人,クメール・イスラー ム,カンボジアのムスリム,その他,どのように とらえていますか」と尋ねたが,大半は自らが
「チャムパ王国から来たチャム人」だと名乗って いた。だが,裕福な家の者や公的な役職に就いて いる者のなかには「クメール・イスラーム」と答 える者もあった。
「クメール・イスラーム」という呼称は,カン ボジアのクメール人共同体との距離の近さを感じ させるため,チャム共同体の外に向けて用いられ やすいと考えられる。しかし共同体内ではやはり チャムパ王国の末裔である「チャム人」がまだ馴 染みがあるのかもしれない。この呼称のゆらぎは
チャム人のアイデンティティに関連する重要な点 であると考えられ,本稿の最後で再度論じたい。
それから本稿での聞き取り情報の表記である が,チャム人共同体内でのクルーたちの立場が複 雑であることもふまえ,名前はイニシャルとし,
年齢・性別をインタビュー日とともに表記するこ とにした。例えば「
AB/60m/20130401」は,AB
という60
才の男性(女性ならf
)に2013
年4
月1
日にインタビューしたということである。(本文に 必要な情報を明記している場合は省略する場合も ある。年齢はインタビュー日のものである。)また 写真についても許可を得た場合のみ用いている。(2) なぜチャム人呪術師を研究するのか
筆者は今回の在外研究ではまず,クメール・ルー ジュ期のチャム人知識人の知的状況を明らかにす る研究を行った(Okawa 2013a, 2013b, 2014)。こ の後,より庶民層にあるイスラーム意識を調査し たいと考えるようになった。そして社会の根底を 流れる庶民の文化やその背景と変化を知るために クルー(呪術師)の調査を開始した。その過程で
「失われた呪術書」の存在を知ることになり,こ の「書」がカンボジア社会におけるチャム人の今 を象徴すると考え,さらに調査を進めたのであっ た。
極めて興味深いことに,カンボジア仏教社会の チャム人に対する通俗的なイメージは「悪い呪術 をする人たち」である。筆者がこの事実を知った 時は大変に驚いた。なぜならばイスラームの公的 見解は「呪術=反イスラーム」であるためである。
(ただし実際には呪術も行われている。)しかしカ ンボジアでは古くからチャム人たちは呪術を用い て人を傷つけると考えられてきたのである。筆者 の研究の契機となったのは
Collins
の次のような 指摘であった(16)。クメール人はチャム人が特別な霊力を持っていると 考えており,これに対するクメール人の関心(そし て躊躇)は,チャム人の毒とチャム人の媚薬に関す る敬意と恐怖として現在に至るまで続いている。
チャム人の呪術師は被害者の胃に針や爪を送った り,伝統的なクメール暦に基づいた生年月日を知っ
ていれば,浮気性でふらふらしている配偶者の気持 ちを変えたりすることができると評判である。チャ ム人がクメール人の個人的な占星術的情報を知って いるとは考えにくいが,クメール人ならば別の対立 しているクメール人について知り得るだろう。この ことはつまり,チャムの呪術師は敵対するクメール 人たちの間での呪術の提供者として利用されている のであり,これはチャムの戦士たちが王座を争った クメール人どうしの間で重宝されてきたのと同じこ となのである。チャム人のクルーは男女ともに予言 や占いの知識を持つという評判のためにも必要とさ れている。今日,[首都にある]ワット・プノン寺院 付近で活動している多くの占い師たちのなかで最も 成功して評判の高い者の1人は,チャム人女性であ る(17)(Collins 1996: 68)。
ここでチャム人クルーを取りまく環境について 述べておきたい。今回の調査を通して得られた知 見の範囲で言えば,「チャム人=呪術を用いる」と いう通説はかつてのチャム人共同体には当ては まったかもしれないが,今はそうではない。チャ ム人の若者たちとクルーについて話をすると,次 のような話をしてくれる者が数名いた。彼(女)
たちが中学生や高校生の頃,クメール人のクラス メートに「お前はチャム人で呪術を使って呪いを かけてくるから怒らせてはいけない,と聞いた。
だから友だちにはなれない」と言われた。そこで
「そのようなことは,今はもうやっておらず,自 分は呪術の使い方など全く知らない」と答えた,
という。またチャム人への聞き取り調査のなかで,
かつては多くの人が呪術を知っていて自分や家族 のために使っていたものだ,という話を何度も聞 いた。
恐らくクメール・ルージュ期以前のチャム共同 体では,呪術を使うことが日常化していたのだと 考えられるが,同時代を経て,現在の若者たちは この伝統を継承しなくなっている。しかし未だク メール人たちはチャム人の呪力を恐れており,例 えばチャムの村やモスクに立ち入ることを嫌がる 年配の人たちの話をしばしば耳にする。
他方,このような認識にもかかわらず,チャム 呪術師のもとに通う相談者の大半はクメール人で
あるという,奇妙な状況がある。クルーへのイン タビューのなかで相談者の出自について尋ねる と,相談者の大半はクメール人で,しかも女性が 多くを占めるという回答が最も多かった。また チャム人の他に,カンボジアのマイノリティであ るベトナム系や中国系住民もそれなりに来ている ようである。チャム人を忌避するクメール人のな かに,実際にはチャム人の呪力を必要とする者た ちが少なからず存在し,かつ,クルーたちはチャ ム人共同体の外部の者たちのニーズに応えること をよしとしているのである。チャム人共同体にお いて呪術師はクメール社会との接点の役割を果た しているとも言えるだろう。
筆者が聞き取り調査において,どのような内容 の相談を受けるのかとクルーに尋ねると,次の
5
つの事柄が特に多かった。1.
浮気,結婚,離婚などの男女問題の解決。2.
店を開く時期,客を増やす方法など商売繁盛。3.
他の人からかけられた悪い呪術の解除。体調 不良や不幸が続く者が,その原因を誰かが自 分を恨んで呪術師に依頼して邪術(呪い)を かけたせいだと考え,自分にかけられた邪術 を別の呪術師に解除してもらう,というもの。呪術師は邪術をかける時に,ジンやシャイ ターンを使うとされる。ジンは妖鬼,シャイ ターンは悪魔のことで,どちらもアラビア語 である。クルアーンでも言及され,今なおム スリムに存在を信じられている。ジンには良 いジンと悪いジンがいるとされ,チャム人呪 術師の間でもしばしば悪いジンを念頭に,「ジ ンとシャイターン」が悪しき存在として言及 される。
4.
呪いや民間医療に基づく病気の治療。「病院で 見放されても呪術師のもとでは治る」という 声もしばしば聞かれた。5.
子どもの体調不良や親への反抗の解決。さらに問題となるのが未来に関する占いで,こ れは本稿で論じる「失われた呪術書」を考えるに あたって重要である。クメール人の呪術師はこれ を得意とする場合が多いようだが,チャム人呪術 師の大半は未来を見る占いは基本的にしないと主
表1 聞き取りをしたプノンペンのクルー(呪術師)
人 才代 30 40 50 60 70 80 計
男性 - 5 3 7 4 2 21
女性 2 2 3 1 3 - 11
計 2 7 6 8 7 2 32
% 28 44 28 100%
張していた。これはムスリムにとって運命は六信 の
1
つであるように,アッラーのみが定め,人が それを変えることはできないという信仰が存在す るからだと考えられる(18)。しかし本当は行ってい ても対外的にはしないと言って隠す者もいたと推 測される。例えば筆者が聞き取りをした女性クルーの
LZ(70f/20131029)は,仏教徒であったが
結婚時にムスリムに改宗した(19)。彼女はトランプ や干支で未来を占うが,「同じ村のチャム人は自分 が未来を見るのをよく思っていないので,気をつ けなければならない」と述べていた。クルーのな かには筆者の聞き取りの際には「気をつけて」こ のことを口にしなかった者もいたかもしれない。
このようにチャム人クルーは,クメール人たち によって畏怖されながらも必要とされているわけ であるが,そもそもクメール人社会は呪術師(ク ルー)に深く依存している。カンボジアの人々の 間でクルーに相談することは極めて一般的なこと とされ,都市でも村落でも,また政府高官から庶 民に至るまで,かかりつけのクルーを持っている 人は多い。市場や広場といった人が集まる所でク ルーを見かけることも多いが,個人宅に直接行く こともよくある。クメール人クルーは,チャム人 クルーと同様に民間療法で病気を治療するなど共 通点も多くある。だが決定的に異なるのは,クメー ル人クルーはカンボジアの仏教徒世界で公的に認 められている存在であるが,チャム人クルーはム スリム世界でそうではないということである。ク メール人にとってクメール人クルーに相談するこ とは難しくないにも関わらず,なぜわざわざ忌避 すべきとされるチャム人クルーに相談をするの か,ここはカンボジア社会における,仏教徒クメー
ル人とムスリム・チャム人の関わりを考えるにあ たって興味深い点である。
さらにイスラームと呪術の関係という視点から も,チャム人呪術師を考える必要があることを指 摘しておきたい。聖典クルアーンや預言者ムハン マドの言行伝承であるハディース集を読むと分か るように,イスラームにおいて呪術(魔術・妖術)
の存在は認められている(20)。例えばクルアーンの なかにムハンマドに先んじる偉大な預言者として 登場するムーサー(モーセ)は,魔術に長ける者 として描かれている。現在の中東ムスリム社会に おいても,邪視の概念や聖者信仰,ザールと呼ば れる精霊に関する儀礼など,特に庶民層において 呪術が広まっている(21)。しかし近代化されたムス リム教養層の見解としては「呪術=反イスラーム」
とされる傾向が強い(22)。今回の調査を通してチャ ム人社会もまた,中東や南アジアに由来するイス ラームの見解の影響によって,公的に呪術師を認 めない方向に進んでいることがうかがえた。そし て本稿でこれから扱う「失われた呪術書」は,こ の社会の変遷をよく象徴する存在だと考えられる のである。
(3) 本研究の射程と方法
本研究は,ディアスポラ後のカンボジアに居住 するチャム人ムスリムに関して,呪術師という存 在を通してその宗教文化に焦点をあてるものであ る。これまでのチャム人研究は,チャムパ王国滅 亡の前と後,つまりディアスポラの前後で大きく 分けることができる(23)。チャムパ王国研究はベト ナムがフランスの保護国だった
19
世紀に,王国の 歴史,建築物や言語,宗教といった文化を対象と地図3 プノンペンのチャム人居住地区 して始められた(24)。チャムパ王国滅亡後に関して
は,ベトナムに残ったチャム人に関する研究(25)
に加え,カンボジアに移住したチャム人の研究も 展開されているが,これらは当然ながらマイノリ ティ研究となっている(26)。カンボジアのチャム人 研究も多岐の分野にわたり,歴史(27)や国際関係・
政治(28),さらに宗教文化(29)といった成果が発表 されている。本稿はこの宗教文化の分野に属し,
筆者が元来,アラビア語文献を用いてのイスラー ム研究を専門としていることから,チャム人のイ スラームの独自性に着目することになった。それ がここでは呪術師の存在ということになる。
チャム人の呪術師(クルー)の研究としては,
イマーム・サンを対象としたものがあり,その呪 術がチャムパ王国の伝統に基づく独特のものであ ることが指摘されている(Trankell 2003)(30)。し かし多数派の「チャム人」共同体におけるクルー に焦点をあてた研究は未だなく,本研究がようや くその端緒となる。ここでは「失われた呪術書」
を通して,チャム人共同体というマイノリティ・
ムスリム社会が,外部のイスラームの影響によっ てどう変わりつつあるのかを検討することを目的 とする。そしてチャム人共同体が自らの出自であ るチャムパ性を喪失しつつあり,クメール社会の なかでスンナ派イスラーム化する方向に進んでい ることが明らかになるであろう。
本研究は,主に
2013
年5
月から12
月にかけて 断続的に行った聞き取り調査から得られた情報に 基づく。インタビューはクルーの家を訪問して行 い,事前に半構造化した質問項目を準備し,それ に沿って尋ねた。クルー以外の人たちへのインタ ビ ュ ー は 質 問 項 目 を 限 定 せ ず 行 っ た 。 イ ン タ ビューの際には常にリサーチ・アシスタント(大 半はチャム人)を同行することで,チャム人共同 体内での調査の壁を低くし,かつチャム語やク メール語の通訳もしてもらった。本稿で調査分析 の対象としているのは,プノンペン在住のクルー32
名である。表1にあるように,男女はほぼ2
対1,世代は 50-60
才代が44%と最多であるが, 30-
40
才代と70-80
才代もそれぞれ28%であった。こ
こから,クルーという職業が高齢者のみによって 続けられている過去のものではないことがうかが えるであろう。
プノンペンにはチャム人の集落が主に
4
つあ り,すべて河川沿いにある(地図3)。その最大の ものはプノンペン北方のチュラン・チャムレで,次いでメコン川とトンレ・サップ川の結節点にあ る半島先端のチュロイ・チュンワーである。プ レッ・プラーとプレ・リエンは比較的小さい集落 となる。いずれの地区にもモスクがあるが,プノ ンペンで最大のモスクは前述した国際ドバイ・モ スクで,これはさらに中心地にある。またプノン ペン中心にはもう
1
つサアド・ビン・アビー・ワッ カース・モスクがあり,ドバイ・モスクに次ぐ規 模の大きさで,こちらはかつてアラブ人商人が建 てたとされる。どちらも金曜日の集団礼拝には大 勢の人々で賑わう。これに対してチャム人居住地 は,プノンペン郊外の川沿いに広がっており,高 床式の家々が並ぶなか,小さなモスクが点在して いる。次いで,クルーの立場と本調査の性質を明らか にするためにも,筆者のインタビューを断ったク ルーたちについて述べておきたい。筆者は調査で ベトナムのカンボジア国境の町チャウドックを訪 れたことがあるが,それはこの町にチャム人が多 く住んでいるためである。そこである女性呪術師 に聞き取りをした際,警察の目を恐れて自分の仕 事について述べることをずいぶん躊躇していた
(S/47f/20130714)。これに対してカンボジアのチャ ム人呪術師たちは聞き取りの際,警察などに対す るためらいを見せることはなかった。警察を引退 した後にクルーになった者(MM/51m/20131126)
や息子が警官だという者もいたほどであった(TS/
73m/20131029)。しかし,カンボジアで聞き取り
を断るクルーが数名いたことも事実であり,この 断る意識の背後には躊躇を引き起こす何らかの理 由があったと考えられる。インタビューを断った者たちの特徴としては,
明らかに裕福な家に住むクルーの場合と女性ク ルーの場合が見られた。裕福な家のクルーたちは
「自分たちは研究とは関係ない」「以前テレビに
出た後,嫌なことがあったし,今月は月が悪い」
と言って聞き取りを断っていた。周辺の住民やク ルーたちに尋ねたところ,反イスラーム的な行為 をしているため,または,政府高官や富裕層など 高額な謝礼を出す人たちにしか対応しないため ではないかとのコメントが得られた(TU/67m/
20131203
など)。聞き取りを拒んだ女性クルーたちは,初回は受 け入れたが,それ以降は約束をしていたにも関わ らず,あまり説得的ではない理由によって拒否し ている。女性クルーS(43f/20131128)は初回の聞 き取りの途中に急に買い物に行くといって中断し たため,次回の日時を約束した。しかし当日訪れ ると,「前日の夜中に体が急に痛み出した。霊が 怒っているからだと思うので,もう話はできない。
自分は別にしてもいいと思っているのだが」と言 い,聞き取りを行うことはできなかった。S は初 回のインタビューで憑霊による呪術を行うと述べ ていたが,このような霊を用いる呪術はイスラー ムに反すると批判するクルーもいた(DM/62m/
20131218
など)。また
SR(70f/20131027)は初回のインタビュー
では愛想良く対応してくれ,次回の日時の約束を した。しかしその当日,家を訪問したところ不在 で,携帯電話に連絡したところ,その時は家から 離れた場所にある市場に買い物に来ており,いつ 帰宅できるかは分からない,と言ったのであっ た。この後,SRの近所に住むクルーRM(60m/
20131225)にこのことを話してみると, SR
はソヘアル(黒魔術のこと。アラビア語の「シフル」に 由来すると考えられる)を用いる呪術師で,反イ スラーム的な存在であるため,聞き取りを嫌がっ たのであろう,しかし自分はイスラーム的な呪術 しか行っておらず,聞き取りにも応じている,と いう返答であった。
このようにチャム人呪術師に関する本調査は,
外部の研究者に話してもよいと考える者が,話し てよいと思う範囲で語った内容に限られている。
聞き取りを完全に拒否した率に関して言えば
13%
程度(回答率約
87%)であり,別の調査では回答
率が
91%であったことを考慮すると,拒否率が多
少高いかと言える程度ではあった(31)。
前編注
(1) 本 研 究 は 2014 年 度 か ら ,JSPS 科 研 費 ・ 基 盤
(C)26370069の助成を受けている。
(2) 2013年度の前半にはクメール・ルージュ期のチャ ム人知識人に焦点をあて,クメール・ルージュに破棄 されることをおそれて土に埋めて隠されたイスラー ムに関する文献(アラビア語などで書かれている)を 分析した(Okawa 2013a, 2013b, 2014)。
(3) 現地調査を行うことができたのは,在外研究の受け 入 れ 先 研 究 機 関 で あ っ た DC-Cam (Documentation Center of Cambodia,現Sleuk Rith Institute)の支援の 賜物であり,深く感謝の意を表したい。特に所長の Youk Chhangと所員のFatily Saには大変にお世話に なった。リサーチ・アシスタントを務めてくれたカン ボジアの若者たちにもお礼を述べさせていただきた い。そして何よりも,インタビューに応じてくれた呪 術師や関係者の方々に感謝申し上げる。
(4) 筆者の見聞や聞き取りからも,チャム人の容貌がカ ンボジアやベトナムのマジョリティの人々と異なる ということはうかがえた。両国のマジョリティの人々 に問うと,チャム人の容貌について肌が褐色で目が大 きく二重,髪が直毛ではなくカールしていると描写し ていた。8世紀の中国の百科全書『通典』には林邑人 は「彫りの深い目,高い鼻,ちぢれ毛に黒い肌」とあ り(重枝・桃木編1994:66),興味深い一致を示してい る。
(5) 『東方見聞録』に「チャンバ王国」として記述が見 られる(ポーロ 2000: 199-204)。
(6) 通訳として鄭和の遠征に同行した馬歓が記録した
『瀛涯勝覧』に「占城国」として記述されている(小 川編1998: 7-20)。
(7) インドネシアにイスラームを伝えたとされる九聖 人(ワリ・サンガ)のなかにはチャムパ王国に深い由 来を持つ者たちがいる。
(8) 1177年にチャムパ軍がメコン川をさかのぼって,
カンボジアの都アンコールを攻めており,チャムパ王 国はまだ力を持っていたことが分かる。この時の戦い の様子が,アンコール・トム遺跡のバイヨン寺院の壁 画に描かれている。
(9) 「ハケム」という用語はアラビア語起源と思われる が,アラビア語では「ハーキム(法官)」または「ハ キーム(賢者)」となり,カンボジアでの用法とは少 し異なっている。北川は「ハキーム」と表記している が,プノンペン周辺のモスクでは「ハクム」と発音し ていたという(北川 2009: 206)。
(10) 当 時 の 人 口 に つ い て 調 べ る の は 容 易 で は な く ,
Kiernanは別の数字を算出している。それによれば,
約25万人いたチャム人がクメール・ルージュ期の虐
殺によって,17.3 万人まで減ったとされ(Kiernan
1988: 30),この場合生存率は約7割となる。
(11) チャム人への海外からの援助に関しては,Osborne 2004を参照のこと。
(12) サウディ・アラビア系の厳格なイスラームを追求す る団体が1990年後半にカンボジアに入り,プノンペ ン郊外にウンム・アル=クルアーンという寄宿学校を 設立した。だが2003年に,アル=カーイダと深い関 係を持つとされるハンバリーが潜伏しているとのレ ポートがFBIより出され,学校は閉鎖となった。現在 この学校施設は,カンボジア・イスラミック・センター という名の学校となり,政府が任命したチャム人ムス リム指導者のもとで運営され,イスラーム教育と世俗 教育を併存させている。筆者はウンム・アル=クラ時 代の英語教師のチャム人や,卒業生,現在の教員など から話を聞いたが,アル=カーイダに関しては一笑に 付 す と い う 態 度 で あ っ た 。(Cf. Blengsli 2009; Eng 2013: 314-355)
(13) 2001 年にそれぞれ別の翻訳書として刊行された。
その中心的人物であったアフマド・ヤフヤーに筆者が インタビューしたところ,彼は当初サウディ・アラビ アにも援助を打診したが,クウェートの返答が早かっ たため,そちらからの援助を受けることにとなったと 述べていた(2013年2月3日)。
(14) 写真2にあるように,ダクワ・タブリーグの人々は
「厳格な」イスラームを実践する(Cf. Bruckmayr 2006,
2007)。筆者が2013年7月8日にプム・トゥリアを訪
れた際,家族内にこの教えを信奉する者とそうでない 者が住んでいるケースが多く見られたため,この点に ついて尋ねても「特に問題はない」という答えばかり が返ってきた。
(15) 本来的には「イスラーム」は宗教名であり,「クメー ル・ムスリム」となるはずだが,ここでは「イスラー ム」を信徒の呼称として用いているようである。
(16) 他にも研究者によって,クメール人がチャム人を呪 術性で規定していることがしばしば指摘される。例え ば「多くのクメール人は,チャム人を恐れと畏敬の入 り混じった目で見ていた。彼らは黒魔術に長けている と信じられていた。かつてプノンペンの女性たちは,
メコン川とトンレ・サップ川が交わる半島にあるチュ ロイ・チュンワーというチャム人集落を訪れ,未来の 予言,夫や愛人への惚れ薬,さらにはライバルへの毒 薬を得ようとしたのだった」(Vickery 2000: 194)。筆 者が研究拠点としたDC-Cam(Sleuk Rith Institute)の 副所長Engも筆者との会話とのなかで,チャム人が魔 術を使うと親戚が言っていると話していた(Cf. Eng 2013: 2)。
(17) 筆者が2013年5月31日に確認したところ,現在は ワット・プノンやその周辺にはクルーはいなくなって いる。ワット・プノンの警備員やプノンペン在住者に 聞いたところ,かつてはクルーたちが集まる場所が ワット・プノンのすぐ隣にあったが,退去させられ,
そこは現在,児童公園になっている。
(18) クルーたちは「未来を見るのは神のみ」(RM/60m/
20131027),「未来も見られるが反イスラームなのでし
ない」(MA/67m/20131030)などと述べ,未来を占う ことを認めていない。ただし若手のなかには手相で未 来を見ると公言する者もおり,意識の違いがあると考 えられる(IBA/40m/20131226; MR/31f/20131226; SN/
36f/20131128)。
(19) チャム人男性と改宗したクメール人女性との結婚 はカンボジアではしばしば見られることで,Ysa 2010 に詳しい。また,チャム人女性とクメール人男性の結 婚も耳にするが,イスラームは改宗もムスリム女性の 異教徒との結婚も認めていないため,ごくまれなケー スである。
(20) 大川 1997は,クルアーンの第113・114章が呪術 的な力を持つものとして用いられていることに焦点 をあて,関連するハディースやクルアーン解釈書を分 析したものである。
(21) 例 え ば エ ジ プ ト に つ い て は Sengers 2003, サ ウ ディ・アラビアについてはDoumato 2000を参照。
(22) ムスリム社会における呪術の可否は,Sengersも指 摘するように長きにわたって議論の対象である(Sengers 2003: 43-51)。ただ大塚が指摘するように,昨今のイ スラームの「近代化」の動きなかで,社会は脱呪術化 の方向にあると言えるだろう(大塚2000: 221-281)。
Al-Sha‘rawi 1994やSheikho 2014など呪術を批判する ための書籍もムスリムによって著わされている。前者 は呪術と悪魔(シャイターン)とのつながりを非難し,
後者は呪術を信じることは多神信仰であるとして,一 神教であるイスラームに反すると指摘している。本論 で後述するように,チャム人もこれらの呪術批判と同 様のことを述べている。
(23) 研究書ではないが,写真家の著者による樋口 1995 も貴重な資料である。
(24) 研究史の詳細は Marrison 1985: 46-48; Lafont 1994;
桃木 1996: 67-87; Eng 2013: 8-9などを参照のこと。
(25) 中村 1999や桃木 2010,吉本 2010,Taylor 2007な どを参照のこと。
(26) Farouk & Yamamoto, eds. 2008にはベトナムやカン ボジアなどインドシナのチャム人に関する論考が多 く掲載されている。
(27) 遠藤 2002や北川 2009など参照のこと。
(28) Eng 2013; Kiernan 1988; Bajunid 2002b; Ysa 2002, 2006などを参照のこと。
(29) Collins 1996やSo 2011を参照のこと。DC-Cam
(Sleuk Rith Institute)関係者のYsaやEng, Soが,Kiernan の後継者として,クメール・ルージュ期のチャム人に 焦点を当てた論考を発表している点を指摘しておき たい。
(30) ベトナムのチャム人の呪術に関しては Taylor 2007 の第3章を参照のこと。またクメール人のクルー研究 は少なからずなされてきたが,民間医療の関心に基づ
くものが多い(Bertrand 2005, 2006; Collins 2000;
Ovesen and Trankell 2010)。
(31) インタビューに応じたクルーが 32 人,当初から 断った者が5人であるため,12.8%が拒否したという ことになる。またAmerican Institutes for Researchによ るチャム人全体の調査の際は,回答率が 91%(非回 答率 9%)であったという(American Institutes for Research 2008: 18)。
前編の主要参考文献・資料
(全体の主要参考文献・資料は後編に掲載する)
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