「忘れられた人びと」から国籍・国境を考える : 無国籍者へのまなざし
著者 陳 天璽
雑誌名 アジ研ワールド・トレンド : 発展途上国の明日を
展望する分析情報誌
巻 16
号 8
ページ 8‑11
発行年 2010‑08‑01
URL http://hdl.handle.net/10502/5270
﹁忘 れら れた 人び と ﹂ か ら 国 籍 ・ 国境 を 考 え る
無 国 籍 者 へ のま な ざ し
●はじめに
無国籍者は︑﹁見えない人びと﹂
または﹁忘れられた人びと﹂と喩
えられることがある︒事実︑われ
われの日常生活において︑無国籍
の人びとが存在することを実感す
ることは稀だ︒
人はおかしなもので︑所有して
いるもの︑既存のものを当然のこ
とと思うきらいがある︒そのため︑
その存在自体に疑問を持つことは
あまりない︒さらに︑それを失っ
たとき︑もしくは︑それがないと
いう状況に考えを及ぼせることは
容易なことではない︒たとえば︑
国籍︒国籍を持っている人は︑国
籍があることが当然であり︑日々
の生活において国籍を意識するこ
とは稀である︒一般的に国籍を意
識するのは︑せいぜい海外旅行の
際に︑出入国のチェックポイント
でパスポートを提示するときぐら
いだろうか︒特に︑日本のように 国境を接する国がない島国で生活
し︑また︑観光目的ならほとんど
ビザなし渡航できる﹁世界一便利﹂
な日本のパスポートを所持してい
ると︑国境の壁にぶち当たること
もなければ︑国籍を疑問視する
きっかけもまずない︒ましてや︑
国籍を持たない人が存在すること
に気づくこともないであろう︒
一般社会のみならず学術研究に
おいても︑無国籍者に関する研究
はあまり行われてこなかった︒法
学が辛うじて無国籍の問題に触れ
ているが︑人類学や地域研究など︑
地域や人びとに密着し︑もっとも
無国籍者の存在を掘り起こすこと
ができそうな学問分野でさえ︑無
国籍者に多くの光を当ててこな
かった︒それは︑人類学が︑民族
の文化や生活様式︑アイデンティ
ティなどに興味を持つ一方で︑彼
らの法的地位にはそれほど関心を
持たずにきたためであろう︒また︑ 陳天璽
地域研究に関して言えば︑研究対
象国・地域がまず先にありきであ
るため︑国に所属しない︑もしく
は国々のはざまにいる無国籍者
は︑対象外となりがちであった︒
ここでは︑国家を基本単位とし
て物を見ることに慣れ親しんでき
た社会が︑忘れてきた無国籍の人
びとに注目したい︒無国籍者は︑
どのような存在なのであろうか︒
なぜ発生するのであろうか︒彼ら
はどのように暮らしているのであ
ろうか︒特定の国や地域に注目し︑
そこを理解するだけでは深い洞察
を得られないグローバルな共通課
題である無国籍者に光を当てるこ
とで︑現代社会を反射程したい︒
●無国籍者とは
無国籍者とは国籍のない人︑ど
の国にも法的に国民として認めら
れていない人をさす︒国連難民高
等弁務官事務所(UNHCR)が二 ○〇七年に行った報告によると︑
世界には無国籍の人びとが︑約一
一〇〇万人いると推計されている︒
これまで筆者が無国籍者に対し
行ってきたインタビュー調査か
ら︑彼らの法的な立場︑身分証明︑
そして︑それによって保障されて
いる権利は︑複雑多岐であること
が明らかとなっている︒パスポー
トやIDなど国籍が記されている
身分証明との関係に注意を払いな
がら分類すると︑無国籍者は以下
の四つのタイプに分けることがで
きる︒
第一タイプ"無国籍であるが︑
居住国において合法的な在留資格(ビザ)をもつ人︒
第ニタイプ"A国の統計上﹁無
国籍﹂とされているが︑他国で国
籍を与えられている人︒
第三タイプ"IDに﹁A国籍﹂
と分類されるが︑当該﹁A国﹂で
は国籍を与えられていない人︒
第四タイプ"どの国にも︑合法
的な在留資格を有しない人︒
まずは︑所在国において合法的
な在留資格を有しているかどうか
というのがキーポイントとなる︒
合法的な居住権がある無国籍者
と︑それがない無国籍者では日常
生活において享受できる権利︑精
神的安定に大きな差異がある︒居
住権がないものは﹁非合法﹂とい
「忘 れ ら れ た 人 び と 」か ら 国 籍 ・国 境 を 考 え る 一 無国籍者へのまなざ し
図1無 国籍者 の分 布 図
う立場上︑﹁法を犯した人﹂とし
て扱われ︑実質的にも精神的にも
厳しい境地に置かれている︒
一方︑合法的な居住権がある人
は︑通常の国民が有する権利を享
受できるわけではないが︑日常生
活を送る上で特に目立った問題は
ない︒しかし︑海外渡航など︑パ
スポートやIDの提示が必要な状
況になると問題が浮上することが
ある︒特に︑上にあげた第二や第
世 界 の 無 国 籍 者
*2006年UNH⊂R調査に基づく。()内は2008年の再集計結果。
■10、000人以上の無国籍者が確認ざれている国 日 多くの無国籍者を送リ出していると見られる国 単位 人
三のタイプの場合︑国によってそ
の人の身分が違っていることか
ら︑混乱が生じやすい︒一方︑﹁無
国籍﹂というIDを持つものは︑
一般の人びとはもちろん︑公的機
関の役人のなかにも無国籍者が存
在すること自体知らない人がいる
ため︑IDを提示した際︑差別や
問題に直面することがある︒
個人の国籍は︑多くの場合︑各
国が発行するパスポートやIDな
どの身分証
明書に依拠
する︒さら
に︑国の人
口統計はこ
うした身分
証明書をも
とにするこ
とが多い︒
以上にあげ
た無国籍者
の四つの類
型からもわ
かるよう
に︑各国が
同一の個人
に与えてい
る国籍や身
分に不一致
があるとい
う事実があ
ること︑そ して︑国々のはざまにおかれ︑ど
の国にも登録されていない無国籍
の人がいるという現実に注意を払
う必要があろう︒無国籍者の存在
は把握しにくく︑正確な人数を算
出することは︑きわめて難しいの
が分かるだろう︒
●どうして無国籍となるのか?
無国籍者となる原因はさまざま
である︒大まかに整理すると︑以
下の理由があげられる︒
まず第一に︑国々の国籍法の不
備や抵触があげられる︒国境を越
えた人の移動が活発化し︑それに
ともなう国々の法の交錯に︑法制
度が十分整備・対応しきれていな
い︒そのため︑法のはざまからこ
ぼれ落ち無国籍になる人がいる︒
個人への国籍の付与は︑おのおの
の国が制定しており︑大きく血統
主義と出生地主義に分かれてい
る︒かつて︑沖縄に多くいたアメ
ラジアンと呼ばれる子どもたち
は︑父の国籍国であるアメリカの
国籍法が出生地主義であり︑母の
国籍国である日本が父系血統主義
であったため︑日本で生まれた子
はどちらの国籍も与えられず無国
籍となった︒一九八五年︑日本の
国籍法が父母両系血統主義に変更
し︑アメラジアンの問題は改善さ
れた︒しかし︑各国間の法の隙間 は依然として残っている︒
第二に︑領土の所有権や主権の
変更︑外交関係の変動などにより︑
個人の国籍が変更︑喪失するケー
スである︒例えば︑一九七二年︑
日本と中華人民共和国が国交を回
復し︑一方で中華民国(台湾)と
の外交関係を断絶した際︑日本に
在住していた中華民国国籍の華僑
たちのなかに無国籍となった人び
とがいた︒ほかにも︑イスラエル
とシリアの国境地帯であるゴラン
高原に暮らすドゥルーズの多くが
無国籍である︒一九六七年に勃発
した第三次中東戦争でイスラエル
はこの村を占領し一九八一年に併
合した︒ドゥルーズは︑イスラエ
ル国籍を取得することに戸惑いを
覚え無国籍者となった︒日本にい
る朝鮮人も︑彼らを取り巻く日朝
関係の変動によって︑実質的に無
国籍となった人が少なからずい
る︒このように︑国際関係に影響
され無国籍となる人びとは少なく
ない︒
第三に︑行政的な手続きの問題︑
行政処理の不備や見落としにより
無国籍となるケースである︒例え
ば︑個人が某国の国籍を取得する
資格があっても︑入手不可能な書
類の要求︑実行不可能な期限設定
によって国籍が取得できなくなる
ことがある︒また︑行政処理の際︑
ア ジ 研 ワ ー ル ド ・ ト レ ン ドNo.179(2010.8)
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サ カ イ ざ ん85歳 無 国籍 と日月記 ざれ たIDカ ー ドを 持つ 日系 フ ィ リピン人(筆 者撮 影)
国籍欄の記入漏れや記入ミスなど
により︑無国籍者を発生させるこ
ともある︒たとえば︑日本では︑
超過滞在者が子を出産し︑自分が
オーバーステイしていることを発
覚されるのを恐れ︑子の出生届を
出さないままにした結果︑法的に
存在していない無国籍児が多発し
ている︒また︑タイの山岳部に暮
らす少数民族は︑国籍の概念がな
い︑行政手続きの必要性を十分理
解していない︑もしくは役所まで
のアクセスが不便であるなどの理
由で届け出ておらず無国籍となっ
ている︒ほかにも︑フィリピンに
は︑六〇年以上無国籍のまま暮ら
している日系人がいる︒戦前︑多
くの日本人がフィリピンに移住し
た︒日本もフィリピンも父系血統
主義であったため︑日本人の父親
から生まれた子は本来日本国籍を 取得する︒しかし︑フィリピンに
在住していたため︑日本の行政に
出生届を出しておらず︑戦後︑子
はフィリピンに残され無国籍のま
ま暮らしてきた︒戦後六〇年を経
た現在︑戸籍を探しに日本に戻っ
てきた彼らが所持するフィリピン
政府発行の身分証明書には︑﹁国
籍"無国籍(Qり計⑤計①一①QoQり)﹂と明記
されている︒
第四に︑人種や民族など政治的
な意見による差別的習慣の結果︑
恣意的に国籍が剥奪され︑無国籍
者が発生することがある︒個人が
ある国と強い繋がりを持っていて
も︑人種的または民族的な差別に
より国籍を剥奪されることがあ
る︒わかりやすい例としては︑ナ
チス時代のユダヤ人があげられ
る︒﹁アンネの日記﹂で知られる
アンネ・フランクも実は無国籍者
であった︒彼女をはじめとする多
くのユダヤ人は︑政治的・歴史的
な背景のもと無国籍となってい
た︒このほか近年︑注目されてい
るのはビルマのアラカン地方に多
く暮らしているロヒンギャの人び
とである︒イスラム教の少数民族
であるロヒンギャは一九七八年︑
多数派仏教徒との対立が先鋭化
し︑ビルマ国籍を剥奪された︒彼
らは世界各地へ漂流し︑庇護を求
めている︒ このほか︑婚姻に関する法律の
不備によって無国籍者が発生する
こともある︒また︑他の国籍を取
得しないまま︑元の国籍を放棄し
た場合も無国籍となる︒旦ハ体的な
例でみてゆくと︑日本国籍の帰化
申請に際して︑日本の国籍を取得
する前に︑まず元の国籍を放棄す
る必要がある︒なかには︑帰化が
許可されると見られ︑元の国籍を
放棄したが︑新しい国籍が与えら
れるまでの間に︑交通違反など法
を犯した結果︑帰化が許可されな
くなり無国籍になったというケー
スがある︒
●無国籍の人びとの暮らし
無国籍者は︑日常どのような暮
らしをしているのだろうか︒
在留資格を持っているか否かに
よって︑無国籍者の生活は生まれ
た直後から違ってくる︒特に乳幼
児の時期︑在留資格を有する無国
籍児の場合は︑予防接種を受ける
ことができる︒その他︑病院での
治療も保険でまかなうことができ
る︒一方︑出生届が出されていな
い子や在留資格を持っていない無
国籍児の場合︑その存在自体が確
認されていないことが多く︑予防
接種の情報を受けることさえもで
きなければ︑健康保険もないため
医療費はすべて自己負担となって しまう︒病気やケガをしても病院
で治療を受けないまま我慢し︑思
わぬ惨事に至ることもある︒
次に︑就学について見てゆきた
い︒在留資格の有無を問わず︑日
本の国籍を有さない子には︑一部
の地域をのぞき就学の通知は送ら
れない︒無国籍児が就学を希望す
る場合︑受け入れるか否かは地域
や学校の判断に任されている︒在
留資格のない子でも︑学校に通っ
ている子はいる︒高校や大学の進
学に際しても︑国籍の有無が障壁
となることは稀であるようだ︒カ
レンの人びとが集住しているタイ
北部で調査を行った際︑かつて︑
出生登録されていない無国籍児
は︑小学校で学ぶことはできたが︑
卒業証明が発行されないため進学
の問題があったそうだ︒近年は︑
こうした身分証明のない無国籍児
の進学や生活問題を解決するた
め︑法学者たちがNGOを結成し︑
子どもたち向けに自分の出生登録
をするために必要な文書作成支援
の教室を開設している︒
無国籍者は︑職を求めるとき︑
結婚するときなど人生の節々で﹁国籍がない﹂ということが理由
で壁にぶちあたる︒青年期にはア
イデンティティの問題を抱える
ケース︑また︑無国籍ゆえに物事
が思うように進まないため自暴自