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児島惟謙の法思想と司法権の独立(1)
一一大棒事件を中心として 「
緒 方 真 澄
H 問題の提起
日 児島惟謙と大津専件
(a)大津事件の発端
(b)司法処理過程H(以上本一弓)
(c)司法処理過程目
(d)司法処理過程∈)
巳)児島惟謙の法思想
姻 司法権の独立と大審院長の立場 田)結
(・一っ 問題の提起
司法権の独立ほ,一・方では,裁判官の職権行使の独立と身分保障に大別さ れ,他方でほ,司法権の独立を脅かすものとして,内閣からの干渉,国会から
(1) の干渉,司法行政としての内部からの干渉に大別することができよう。
大審院最児島惟謙ほ,明治24年(1891年)の大津事件の際,忍法と法律の存 在を抹殺しようとした当時の政府の干渉を断乎排除して,司法権の独立を確立
\ユ、 したことほ.,司法権史上特筆すべきものである。しかし,政府からの干渉排
除の過程で,大審院長児島惟謙が,その干渉で政府の主張に・傾いた大審院判 事を説得,翻意させたことについて−,大審院長の立場から干渉したのであっ
(1)和田英夫・「司法」(「資料コンメソタ−・ル恕法」17貢)。長谷川正安教授は「『司法権 の独立』というとき,ニつのちがった観念を思いうかぺる。・その−・は,国家の統治権の 一分肢としての司法樅が,立法権あるいは行政権から分離され,独立の国家機関庭与え
られるという理論および制度である。‖…他の−・つは,個々の裁判が他のいかなる樅カ・
勢力からも干渉されヂ,独立して行なわれるぺきだという要請およびそれを保障する制 度であり,この観点からは,『裁判官の独立』といわれることが多い。…∴前者は,■『司法 樅の独立』の権力に.重点がおかれているが,後者は司法=裁判に.力点がおかれてい
る。」と言われる。
(2)宮沢俊義・「法律史・公法編」(「現代日本文明史第5巻」35貢以下)。間藤重光・「近
代的司法制度の成立.」(「刑法の近代的展開」27頁以下)。
第43巻 第5弓
一一 ご・一 462
て,自ら司法権の独立を侵害したのでは.ないかという問題がある。とりわけ,
最近二,国会におけ皐裁判官訴追委員会の処分をはじめ,最高裁判所を中心とし て裁判所内部の司法行政上の立場から裁判官紅対する干渉がみられる。このこ
(4)
とは現在司法権の独立の危機の問題にまで発展しているが,これらの問題を考 察するための前提としで児島惟謙の法思想と司法榛の独立について検討するも のである。
帝国憲法57条は,「司法権ハ,天皇ノ名工於テ法律二依り裁判所之ヲ行フ」
と規定して,一応,司法権の独立を保障すると同時に,第61条が,行政裁判所 を設置していた関係で,通常裁判所としての大審院,控訴院,地方裁判所,匝 裁判所(裁判所構成法(以下構成法と略す)1条)紅よって,司嘩権を行使す る建前をとっていた。帝国憲法ほ.,かかる裁軸制度を樹立し,併せて,裁判官 の任命及び監督を,天皇の大権下に置き,司法大臣紅その権限を附与し(構成 法67条),「司法大臣ハ各裁判所及各検事局ヲ監督ス」(構成法135条)と規定し た。かくして司法大臣.は司法行政の監督権を一㌧手に掌握したのである。このよ
うに,裁判官その他裁判所職員の人事権を司法省が掌握した姑果,司法権の行
(5) 使について,行政権(司法省)の大きな圧力が加えられる条件があった。現実
にほ.「司法大臣ノ、司法行政ノ全権ヲ掌握レ,司法官タル判事ノ、訴追ノ原告宮ク ル検事並二司法大臣二直属スル次官,局長以下ノ司法省官吏卜共ニー・体ヲ為シ デ所謂司法部ヲ構成シ,共二司法大臣ノ監督二服スルノ結果,一面ニハ司法行
倉富勇三郎・「裁判所構成法施行前後の回顧」法曹会雑誌(鼓判所構成法施行50年記
(3)
念号)41貫。染野義信・「司法制度(法体制確立期)」(「日本近代法発達史2」164貢)。家 永三郎・「司法権独立の歴史的考察」68貢:〜69頁。
(4)司法行政内部把.おける行政監督権からするものであり,とりわけ人事行政紅関連す る。最高裁の司法行政の発動としてほ.吹田黙祷事件の通達(昭和28年9月),長谷川判 事再任拒否事件(昭和44年6月),岸最高裁事務総長の青法協裁判官任官間琴紅関する 発言(昭和45年5月),石田最高裁長官の発言(昭和45年4月),又,同劇裁判所におい て,札幌地裁所長が,同庁の民事一・部の平田総括裁判官紅長沼ナイキ訴訟の問題点とそ
れに対する見解のメモを渡した(昭和44年8月),同庁の担当福島裁判長紅対しても同様 な趣旨の書簡を送って干渉した(昭和44年8月)等の問題が起きこれ紅関連して,国会 の裁判官訴追委員会が,平賀所長を不訴追,福島判事を訴追猶予とした(昭和45年lo 月)。札幌高裁は福島判事に対して注意処分にした(昭和45年10月)。
(5)長島毅イ裁判所構成法」(「現代法学全集12数」179貢〜193貫)。
児島惟謙の法思想と司法権の独立 ・− J ▲一
463
政トハ互二妥協干渉う許スモノノ如ク,+膚−・面又司法ハ全ク司法行政ノ下二属ス
(6)
ルモノノ如キ観無キ能ハズ」とさえいわれ,あるいは,裁判所構成法の性格は
「絶対主義の下における国家の裁判権行使の必要から,種々の面で制限を受け ざるを得ないのである。これらの制限ほ.,一応独立した司法権の行使の範囲の 制約,司法権の独立の相対的な制限,司法大臣すなわち行政権の司法権に対す
(7) る優位性等として表される。」と指摘されるのである。
小鴨でほ,大津事件の概要,児島惟謙の有した法思想及び,大津事件におけ る司法権の独立を確立するための大審院長としての立場を現在司法権の独立に ついての危機の問題甲前提として若干の試論を展開するもめである0
(ニ)児島惟謙と大津事件
児島惟謙ほ,明治24年(1891年)5月6日,山県内閣に・より,大阪控訴院長
(8)
から大審院長に任命された。その直後に松方内閣が成立している。大審院長就 任後僅か5日後の,5月11日紅発生した大津事件紅際会し,政府の干渉をみご
と排除して,司法権の独立を確立した。すなわち司法細江藤新平によって方向 づけられ,帝国憲法によって樹立された司法権の独立を確保したのである。も ちろん児島は法学者ではなく,、億律学を履修したわけでもない,ただ実務に・よ
って法律を学び,近代的な法思想を深く白己のものとしていたのである。ここ で大津事件の概説を試みる前に,児島惟謙の経歴をみでおこう。
(9) 児島惟謙は幕末の天保8年(1837年)2月に,愛媛県宇和島で生まれ,間もなく
実母の離縁のため,不幸な環境に育つことを余儀なくなされた。少年時代,父 の実家の酒造業を手伝いながら,勉学と剣道を習得したといあれる。かくして 青年時代に,剣道指南の免状をえて先ず剣道家として成功し,これを機会に㌧土 佐を始め各地を遊学し,また脱藩すること数回に及び,土佐藩坂本龍馬,薩摩藩
(6)家永三郎・「司法権独立の歴史的考察」20頁〜21巽。
(7)染野義信イ司法制度(法体制確立期)」(「日本近代法発達史」66貫)。
あまねみつくりりんしよう l81大審院長の前任者は,西周であり,その鱒没によって箕作麟祥,三好退蔵,松岡康
毅,児島惟謙の4名が候補に上り,たまたま内閣ほ公正剛直の判事児島惟謙を任命し た。沼政教音・「護法の神児島惟謙」16巽。
(9)沼波吸音「護法の神児島惟謙」12貴。
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.ノ・・・・・・・ 464
五代友搾らと長崎で知り合い,尊王倒幕の運動に参加した。明治維新の後,鹿 北征定の参謀楠田英世の幕下にあって従軍し,その後,新潟県および品川県
(東京都)の地方行政官に就任した0明治4年(1871年)司法省の設置に伴っ て明治頑となった楠田英世の推薦で司法省に・出仕し,司法卿江藤新平に嘱目さ れてその指導を受け,明治5年(1872年)判事に転任した。そして,江藤司法
(10) 卿の命令で大阪に出張して,大阪府事件を担当して,大阪府知事の違法な行政
処分を抑圧したのである0次いで明治9年(1876年)にほ,福島上等裁判所に
(11) 勤務した。その在任中,鶴岡事件を裁判して不法の行政権カを押えた。この裁
判によって,公正にして有能なる裁判官としての名声をえたのであるが,後 年,児島ほ「自分の扱った裁判中鶴岡事件が最もむつかしかった。自分ほ全く
(12)
殺される覚悟で鶴岡へ出張した」と語ってこいる。この年9月名古屋裁判所長と
(1籾 大阪府事件は当時長州藩閥を背景とする大阪府知事渡辺昇は,旧幕時代の御用金に.な
らって国益という名の下に法令紅基づかないで府民に献金を強要し,府民ほ過大な負担
に苦しみ,不公平であり,財産没収に等しいものであった。知事渡辺は,児島の取調を 中止させようと迫害と威圧を加えたが,断乎これを排除し,府民の数多い出訴を審理
し,その願末を司法卿と太政官に報告した。その結果,政府も渡辺知事の措置不法なる
ことを認め,計画の中止を命じた。原田光三郎。「児島惟謙と其の時代」79京〜84頁。
rll)鶴岡事件は,鶴岡県(元庄内藩)が一・体となって,在来の封建制を固執して一新政府の 地方行政政策を受け容れず,同県人森藤右衛門なる者が,他県同様の行政改革を要望す
る告訴状な宮城控訴院に提出したことに端を発した。内務卿大久保利通は,同県は西郷 の私学校党と気脈を通じて魔起することを恐れて,司法卿大木存在紅はかって−,森の出
訴を却下させた。折から任地にいた児島は,虐按大久保内務卿に建白沓を呈し,鶴両県 の施策は不当であり,森の出訴を受理すべきであると主誠した。この建白に動かされた 大久保は,児島に.命じてこの事件の審理を一任し,児島は同県民の敵意のなかで死を覚
悟して森の提訴を勝訴とする判決を下し,被薯行政庁(鶴岡県知事)の非を裁癖したあ である。原田光三郎・「児島惟謙と共時代」99頁〜117貢。
(1勿 沼波教官・「護法の神児島惟謙」206鼠。
(1謝 三重事件ほ,純然たる百姓一腰で,この事件の原因は,地租改正より起った,従来租
税は穀納であって米価の騰落いかんに拘らずその収穫の−・部を上納してきたのである が,地租改正の結果金納となったので米価が高けれほ農民紅苦情はないが,反対に米価 が安ければ金納は農民にとって甚だ苦痛である。館−・の原因は,この年ゐ収観は別紅豊
年というのではなく平年作以下であった紅も拘らず,米価が安かった,第二紅,土地調
査の結果地価紅変動を生じ,上田は皮当り幾分高値に検定せられ,したがって金納琴が
高くなったのが,その原因であった。第三に,地租100分の3と規定せらかたのは余りに
苛酷であるというのであった。この事件に参加した農民12万1千8首余人のうち,主謀者
12人ほ2年の懲役,暴行者1千8百余人は筈刑に処せられたが,参加した12万余人に対し
体刑・罰金を課そうというのが,担当判事の意見で,どんな小さい軽微な犯罪でも罰しな
児島惟謙の法恩恵と司法権の独立 − 5−
465
(13)
なる。そ・して12月に三重暴動(百姓・一腰)が起きたのである。この事件ほ,日本 警察機構を整備する契機となった暴動である。児島惟謙ほこの暴動に附加随行
した12万の農民を不論罪として無罪にした。どんな小さな軽微な犯罪でも罰し ないではおかない裁判官のなかにも,児島のキうな法の運用と政治上の関係に
(14ノ
おける大局に.眼を注いだのである。その当時,「法律ハ国家ノ精神ニシデ,庶
(15)
属凝ヲ得ルノ根源ナ・リ,然リト拙モ法猫り行ハレス。英行ノ\ルル人工由ル,」
は児島の信条であった。
更に,そののち,明治18年(1885年),大阪控訴院長として.,大阪圏事犯事
(1(〜ノ 件で;法津不遡鱒.の原則を堅持して,伊藤内閣が意図する「爆発物取締規則」
の新法適用を認めなかった。児島ほとの暗から既に行政権の意向に屈しなかっ 卑のである。
(a)大津事件の発生
明治24年(1891年)5月11日午後1時50分頃,滋賀県大津呵大字下唐崎町の路
いでおかないという考えが強かった。しかし児島所長は,これ等の意見に反対して,彼 等を全部不論罪として蘭罪とした事件である。当時名古屋裁判所の判事であった田健準
は,児島惟謙の判決指示にあって献言をのべている「刑法の正条は,情理を以てこ・れを
如何ともすることができない。、しかし附加随行者は不論罪として呵茸の上放免すべきも のである」「田健次郎伝」33京〜38乱平野養太郎・「官僚法学(法体制確立期法思想)」
(「日本近代法発達史3」217頁〜218貫)。
(1劇 中江兆民は,のら紅児島大審院長の「法胃」稜々たる大見識を選扮した。平野義太郎.
「日本資本主義社会と法律」31頁。
(15)鹿田光三郎。「児島惟謙と共時代」122克。
(姻 大阪国事犯事件とは,自由党左派の頭領大井意太郎は同志の新井章菩,景山景子等と ともに.,当時の韓国は滴国側阻組みする大党の勢力が強く,親日政策を是とする独立見 が圧迫さかていた。そこで独立党を助け,事大党を願覆させようと計画し,そのための 爆発物を製造所持して,渡韓しようとするところを捕えられ,爆発物取締規則違反で
もって起訴した。この爆発物取締規則は,伊藤内閣が藩閥政治に反対する自由党を機会
があれば弾圧しようとしていた時で,大井等を死刑に処する目的で,俄かに制定した規 則で,既遂,未遂を問わず,すでに爆発物を製造し所持した者に死刑を科そうとしたの である。大井等−・派の犯行はこの規則制定前であるから法律不遡及の原則によって,こ
の規則を適用して処罰す;ることはできない。内閣は裁判所が内閣の意向を容れ,大井等 を死刑に.処する判決を言渡すものと信じていた。立会検事は内閣の意思にしたがって新
たに制定した爆発物取締罰則を適用し死刑をもって処罰すべく趣旨の論告をした。児島 は部下の判事に法律適用の誤りないことを命令し,犯人達を新罰則を適用せず,事件発 生当時の旧法とド慧匿非により軽く処断した。原田光三郎・「児島惟謙と共時代」13、7鼠
〜142貢。
籍43巻 簾5宅 467
一 6 −
上において,当時,ジベリヤ鉄道起工式に出席のため,ロシア艦隊を率いてク ラジオストック港に赴く途中,わが国を訪問旅行中であった,ロジャ皇太子ニ コラス・アレクサンドログイッチ親王(Aleksam郎0Vuich)を,路上警備中の 巡査津田三蔵が,皇太子の来遊は国情視察を名目とした侵略の野望をもつ準備
(17) 工作のための来日であると確信して,突然抜剣しで人力車で除行されるところ
(18)
を後方から襲い,後頭部を2回にわたり斬りつけるという事件が突発した。同 行のギリシャ親王ゲオルギカ■ス(Geo柑ios)及両親王の車夫の機才で犯行を防 ぎ止めたけれども頗る危険なことで,傷は二.箇所で幸に軽かった。当時日本国 内に.ほ.,ロシヤの対韓進出政策に.対して,少なからず脅威の念があり,国防 上の観点からする強い警戒心と緊張感とがみなぎっていた時でもあり,この事 件は日本中を靂憾とさせた。すなわち,強大なる陸軍を有するロンヤ帝国を激 怒させることによって,侵略戦争を仕掛けられは.しないかという恐怖感を政府 のみならず−・部国民は持っていたのである。以下,その司法処理過程について 考察する。
(b)司法処理過程H
事件は直ちに大津警察署から大津地方裁判所へ通報され,まもなく同裁判所 予審判事土井,同三浦及び検事種野,同山本等が現場に行き,津田の訊問や検証 に当った。津田の予審は,通常の手続と異なり,予審判事が検事の予審請求を
(用 予審判事の訊問によかほ,その犯行の原因は,鰭一・,露国皇太子来遊されたのは,我国 の地理形勢を察する為である。其他種々露国軋悪意あることを新聞紙上で読み之に速い 非憤の情を生じた。第二,殿下が三井寺の記念碑前に登りつつ四方を眺望せられるゝを 見て:益々自分の感念の誤なきを確信し非憤に・堪えず遂いに今回の挙動に及んだのであ る。尾佐竹猛・「湖南事件」110頁。
(18)巡査津田は露国皇太子に敬礼を終るや否や突如皇太子を追い抜鋤し右方から頭部龍・斬
伺くること再度皇太子驚愕埴上より左へ飛降り右手もと傷口を押えつ」声を立て」走ら せ給う。御顔先に染る。三蔵猶も追撃せんとするをギリシャ皇太子魯を飛降り竹鞭を以 て三蔵の背部を目掛けて乱打せられ,ロジャ皇太子壊夫向畑三蔵の両脚を捉えて其場に・
引倒した。ギリレヤ皇太子の速夫北市は三.蔵の落せし鋤を拾い三蔵の頚部と背部に斬付 けた。木村警部駈来り三蔵を押え,江木巡査部長,藤谷巡査をして三蔵を縛せしめた。
尾佐竹猛・「湖南事件」32貢。原田光三郎・「児島惟謙と其時代」157貢〜158貢。
(19)旧刑事訴訟法142条,143条によれば)予審判事は,「其事件急速ヲ要スルトキノ、検事 ノ請求ヲ待タズ刷予審・手取掛ルコトヲ得」「犯所二臨検ン・予審ノ処分ヲ為スコトヲ得▼l
「検事ノ起訴ナント雌モ予審判事枚証調書ヲ作ルヲ以テ公訴ヲ受理シタルモノトス」と
児島惟謙の法思想と司法腱の独立 岬− 7 − 467
またず,現場において白から検証調書を作成し,津田に勾留状を発することに
(19)
よって開始された。−・方,政府ほ儲Ⅰ前会議,緊急閣議が相次いで開かれた結 果,内閣ほ津田の犯行に適用すべき法条を重視し,叫致して津田を死刑軋すべ
(20)
きであるとの結論を出し,その場合には,刑法116条「皇室に対する罪」を拡 張して外国皇族にも適用すべきであるとの説をとったのである。このよう紅し
て−,松方首相等は,津田の犯行ほ「皇室に対する罪」を適用するよう,事件の 翌12日,大審院長児島惟謙に対し強く要請した。しかし児島院長は,法律の解 釈は政治上の理由に.よって左右すべきでないとして,内閣の要請を拒否した。
児島は,刑法116条の草案にあった「日本国天皇」という文字から「日本国」
の3字を削除した趣旨は,同条がまさしく日本皇族以外を指すものではないこ とが明白である。決して「天皇」の字句を外国の皇族にも適用するためであり えないと論じ,最後紅,「任紅大審院紅あり,内閣如何に議決するも,法津の
(21)
精神に反する解釈に償断じ七応ずることを得ず」と言っている。
司法省は,山田法相肖ら,内閣の決定を検事一周に通告してこの趣旨に・沿う よう説得し,刑法116条の適用を承認させようとした。ところが,このような 説得にもかかわらず,司法省の内部に.も,刑法116条の通用を不可とする意見 が大勢を占めていた。法律顧問 /(テルノストロウ(PaternosteI)は,刑法292
(22) (23)
条以外に適用すべき韮条はないと論じた。尚,検事総長三好退蔵すら当初はこ の意見であった。
翌13日,児島院長ほ.,大審院判事一・同に対し,津田の犯罪に関する法条紅つ いて意見を求めた。判事達ほいずれも刑法116条ほ外国の皇族に.適用すべきで
規定しており,土井判事等の措置はこの規定によったものである。田中時彦・「大津事 件」(「日本政治裁判史録明治・後」151異)。
鋤 旧刑法116条「天皇三后皇太子二対レ危害ヲ加㌣又ハ加ヘソトレタル者ハ死刑言・処ス」
と規定していた。
位封 児島惟謙・花井卓蔵・「大津事件顛末録」23頁。
爾 旧刑法292条「予メ謀デ人ヲ殺レタル者ハ謀殺ノ罪トナシ死刑二処ス_j。旧刑法112条
「罪ヲ犯サントyテ巳三共事ヲ行フ†・難モ犯人以外ノ障擬若クハ舛錯二因り未夕逐ケサ ルトキハ己二逐ケタル者ノ刑ニー=等又ハニ等ヲ減ス」とある。
脚「伊藤博文秘録」52頁〜55貢。
一− ざ・・・ 箆43巻 第5弓 468
はないと評定したので,児島院長は山田法相を訪れ,大審院判事一・同の見解 は,「通常謀殺未遂鼎」を適用すべきであるとの説を主張した。この日,児島 院品の下に.,千葉大津地方裁判所長から,津田の犯行を「通常謀殺未遂罪」に 該営するものとして,既に予審に着手したとの報告に対し,児島院良ほ,今回 の裁判に対して−ほ.,内閣が裁判所に・圧力を加えることを予測して,直らに電報 をもって千葉所長に「法律ノ解釈至当ナリ,此際他ノ干渉ヲ顧ミズ予審ヲ進行
(24) セヨ」と指令をしたのであ卑0
一・方,内閣ほ,津田が刑法116条の適用されない場合ほ,刑法292条の通常 謀殺未遂罪を適用するはかない。この場合に.は津田ほ死刑にならないので,
この点を考慮して,内閣等は,あくまでも津田を死刑にするカ■策を考えてい
(25) た。第⊥・の方策ほ戒厳令説である。すなわち,元老伊藤,山田法相は,戒厳令
を発布して,これを事件当日にさかのばって適用して−津田に・死刑の宜言をする
(26)
方法で内閣に提案した。第二の方策ほ.詔勅利用説である。すなわち青木外相 ほ,「皇室に対する罪」を外国皇族に適用する緊急勅令を発布するという案で,
伊藤が加筆し,枢密院書記官長伊東の意見を求めたところ,伊東が反対したの
(27)
で,この方策ほ取り止めになった。第三の方策ほ,外交利用説である。すなわ ち,青木外相は事件発生の壇後,駐日ロVヤ公使i73=.ゲイッチ(Sch6vitch)
を訪れて,法律をもってしては津田を死刑に処することをえないので,同公使 から日本政府に.対して津田を死刑に処するよう要請してはしい,その場合には 外交上の必要ということでもって−,津田の死刑を実現する措置をと/りうるであ 伽)児島惟謙・花井車蔵「大津事件顛末録」32克。
(2罰「万一・異説百出ニソテ処罰二困難ナルニ際セバ不得止戒厳令ヲ発スルモ可ナリ国家ノ 危険ヲ防禦スル為メェハ非常ノ処置二亦施ササルヲ得ザル旨ヲ述プ各大臣モ別二男論ア ルヲ聞カズ…り」「伊藤博文秘録」251頁。尾佐竹猛「湖南事件」126貫。
鯛 (青木子爵ハ詔勅ヲ発レ外国ノ皇帝及其継嗣二対レタル罪犯ノ\法律上二於テ之ヲ我皇
室二対シタルモノニ擬セントノ意ヲ以テ勅書案ヲ提出ス余(伊藤)英文案二加筆ス青木 子(爵)伊東枢密院書記官長ヲ呼ピ其意見ヲ問伊兎ノ所論大工反対ス詔勅ノ論蕊二於テ止
ム・・」平塚簡・「伊藤博文秘録」254貢。
授7)信夫藤平・「大津事件ゐ回顧」(「立教授還暦祝賀外交史論文集」45貢〜亜頁)。尾佐竹 猛「湖南事件」122貢〜123貢。
し28)「後藤陸奥両大臣来訪セリl]裁判ノ事困難ナレノト十策アリ金ヲ投ジ刺客ヲ使ヒ犯人
ヲ殺ン以テ病死セリト為スコト容易ナラン魯国ニニ於テハ往々是等ノ処置アルニアラズヤ
児島惟謙の法思想と司法樅の独立
−− ク ー−−−469
ろうと依頼したが,、シェゲイッチはこの依頼を拒絶した。算四の方策ほ.,刺殺
(28) 説である。閣内の後藤逓相や陸奥農商務相は,金を出して刺客を使って収監中
の津田を殺害してロンヤには犯人ほ病死したと報曽すること紅より,事態の藩 化を避けようとする非立憲的なカ法である。戒厳令の発布を考え,緊急勅令の 発布咋賛成した伊藤でさえ.も,この説を断乎として阻止したといわれる0
この他,内務省では,西郷内相ほ国内に対して1津田の犯罪ほ.,「皇室に対す
(29) る罪」を適用するこ.とが既に.閣議で決定されたとの通達を出し,内務省警保
局主事大浦は,大津地裁の予審も終結していないにもかかわらず,膳所監獄署
(30)
に.行き,津田の死刑執行の設備を注意したといわれる。
以上のごとく,政府の意図は,hこの事件に・よって,ロジャの対日感情の悪化 を恐れ,津田を死刊に処することに.よってその緩和を図ろうとした。このこと ほ,松方首相が児島院長に対して「法律ノ解釈ハ左モアルカハ知ラサルモ,和 国家アツタノ法律ナヅ。国家ヨリ法律ノ重キ謂ノ、レハナ・カルへシ。故二法律ノ 文字ノ、如何ナルモ,場合ニヨリデハ法律ヲ顧ミ.ス,国家ヲ維持スルノ道ヲ採ル
(31)
事緊要ナルへシ」と言っている。又,元老伊藤ほ,ロジャ側から癖田の死刑を 要求してきた場合に裁判のやり直しほ出来ないから「■然らば彼必ず代償として
−・島の割与,又は他の要求を為すべし。而して其要求に応ぜざらんか兵端を開か ざるべからざるや明なり。故紅初めより他の満足すべき橙刑に処せざるべから
(32)
ず」と言っているのである。内相西郷が「礪二国ノ軍艦ハ江戸湾二来ルベント放
しこミ3)
言シテ非吸」に.くれたともいわれる。
いわゆる,「外交ノ問題二於テ,政府ハ実二今ヤ噴火口頭二立ツモノトレチ
ト余日是レ決シテ為スべキコトニアラズ筍モ国家主権ノ存スル岩二如此無法ノ処置ヲ容 サンヤ人二向テ語ルモ悦ヅ ペソ…」「伊藤博文秘録」251頁。
捌 児島惟謙・花井卓蔵「大津事件穎末録」37真。
(30〉 大浦警保局主事へ 西郷内務大臣ガ津田三蔵ヲ極刑二処レ度キ意思ヲ迎へ,自ラ膳所
監獄署二臨ミ,死刑執行ノ設備迄注意シ,尚ホ語リテ日,死刑ノ執行ヲ受ケタル遺骸ヲ 請フモノアレハ之ヲ給スト云刑法附則ノ存スルハ不都合ナリ,将来ノ、斯ノ如キ法律ノ、廃 レタレト」尾佐竹猛「湖南事件」124貫。
飢 児島惟謙・花井単機「大津事件廠末録」23鼠。尾佐竹猛・「湖南事件」128貫。
13功 尾佐竹猛・「湖南事件」133貢〜134真。
(33)児島惟謙・花井卓蔵「大津事件踵未録」4頁二。
籍34巻 第5号 470
− ∫〃 −
戦懐セルト同時ニ,国家3千年ノ生命,此二重リテ或ハ断滅ノ厄道三遭遇スル
(33)
モノ」であるとして「国家ノ危険ヲ防禦スル為メェハ,非常ノ処置モ亦施サル
(34)