論文の内容の要旨
氏名:目 黒 拓 也
博士の専攻分野の名称:博士(文学)
論文題名:水泳指導者としての古橋廣之進について―スポーツ史的観点から―
古橋廣之進は戦後日本における最も代表的なスポーツ選手である。しかし、古橋についての研究は 皆無に等しい。そもそもスポーツ・体育史研究における人物史研究としては嘉納治五郎をみるにすぎ ない。筆者が古橋に着目したのは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け、日本のスポ ーツ・体育に関する制度や組織は更なる質の向上が求められている状況であり、その中で、戦後日本 のスポーツ・体育界を選手としてだけでなく指導者としてもけん引した古橋の歴史学的研究は、現在 に至るまでの日本人のスポーツ・体育観の課題や問題点を明らかにし、今後の日本の体育・スポーツ 界の発展の重要な手がかりの1つとなり得ると考えたからである。
古橋に関しては、練習環境や戦後の活躍など選手時代について述べられてきたが、指導者としての 古橋については、古橋の言説の一部が参考文献として引用されているに過ぎず、指導者としての古橋 に関する検討は皆無に等しい。以上のような問題意識から、本稿は日本近現代史の枠組みの中のスポ ーツ・体育史における新たな視点の提供を目的の1つとしており、研究対象を古橋という人物にした ことにより、対象期間は古橋の生涯の期間である1928年から2009年までとなる。そこで、古橋の生 涯を複数に分け、詳細に検討する必要があるが、その区分は選手時代、指導者期前期、大学教員、指 導者期後期とした。
第1章では、水泳選手としての古橋について、古橋の活躍と社会的影響を先行研究の確認を含め検 討した。選手時代の経験がその後の指導者としての活動に影響を与えたことは十分考えられることか ら、水泳指導者としての古橋に関する検討は必須である。古橋は小学4年生から水泳を始めたが、古 橋を指導した中村桂三などは古橋の泳ぎを無理に矯正しようとはせず、個性を伸ばす指導法を取った。
戦争と学徒動員中の事故により、左手中指の第一関節より先を失い、水泳から離れていた古橋であ ったが、日本大学に進学後水泳を再開した。物資が不足し日々の生活もままならない中、古橋は自ら 練習方法を編み出し、合宿所の隣に畑を耕し食物を栽培するなど、日々工夫と努力をし続け、持ち合 わせた水泳の才能と相まって、世界的な活躍をするまでに至った。その結果、古橋は戦後に世界新記 録を次々と塗り替え、特に1949年の全米男子屋外水上選手権では戦勝国アメリカに勝利した英雄とし て、日本社会と国民に勇気と希望を与え、「復興のシンボル」という日本社会に与えた影響は、その後 の日本水泳連盟競泳委員会委員長をはじめ日本水泳界を背負う立場になる際の1つの要因となった。
第2章では、水泳指導者としての古橋について、1959年に発行された古橋の最初の著書である『水 泳のコツ』を主な史料として、古橋の指導理念および指導方法を検討した。当時、書籍は不特定多数 の人物に自らの指導理念および指導方法を伝達するための主要メディアであり、紙面の制限の多い新 聞や雑誌に比べ、より詳細に著者の指導理念および指導方法を検討することができると考えられた。
具体的記述内容の検討の結果、同書の特徴として、水中動作の可視化による泳動作の詳細な解説書で あり、単に水泳指導書の内容を踏襲するのではなく、読者が日頃から自身の泳ぎを研究し努力をする ことで、読者自身の泳ぎを生み出すことを奨励し、頁全体を使用して競技の写真を掲載するなど、読 者の興味関心を引き立てる工夫をしていることが挙げられた。これらの特徴から、古橋は単に泳法や 練習方法を教示するのではなく、読者自身が自発的に学習し、自身の泳法について省察することので きる水泳指導書を通して、競技力向上と水泳人口の増加を図ったということが明らかになった。
第3章では、第2章の検討を踏まえ、同時期の他者の水泳指導書と古橋の水泳指導書を比較する作 業を通して、古橋の指導理念および指導方法の特徴を検討した。対象期間は、古橋が現役を引退した 1952 年から日本競泳界再建責任者である競泳委員長に就任した1966年までとし、対象期間に出版さ れた水泳指導書として、国立国会図書館蔵書検索・申込システムNDL-OPACおよび大学図書館蔵書検索
システムCiNii Booksにて確認できた44冊のうち、史料収集を行うことのできた42冊の水泳指導書
を主な史料として用い、古橋の著書や新聞、雑誌記事も適宜用いた。
その結果、クロールの内容の各動作を通して、古橋の水泳指導書4冊は陸上練習についての記載が なく、図版・図表および写真を多く用い、頁中に占める割合も大きい水泳指導書の中の1つであるこ
とがわかった。また、クロールの同調動作において、練習方法自体を記載しない特徴が見られた。こ れが意味することは、単に文字による泳法および練習方法を教示するのではなく、読者自身が自発的 に学習し、自身の泳法を省察することのできるものであったということである。
古橋の水泳指導書が最初に出版された1959 年は、1964 年の東京オリンピック開催が決定した年で あり、スポーツの日やスポーツ振興法の制定により、日本全国におけるプール数が急激に増加した時 期とも重なっており、水泳指導書の出版により競技力向上と水泳人口の増加を図るには追い風となる 状況であった。さらに、戦後日本の教育は1947年の教育基本法の制定をはじめ、学校教育法、社会教 育法など民主化政策を進め、天皇のための教育ではなく、個人の尊厳を尊重する教育への転換を図っ たが、1950年代になると、1956年の「地方教育行政の組織運営に関する法律」の制定による教育委員 の任命制の導入、教科書検定の強化など教育の中央集権化が進むと共に、経済発展を支える労働力確 保のためのテスト主義や詰め込み主義による能力主義教育の徹底がなされ、個人尊重から逆行する状 況にあった。このような当時の社会・教育情勢や水泳の状況を捉えつつ、古橋は読者自身が自発的に 学習し、自身の泳法について省察することのできる水泳指導書を通して、競技力向上と水泳人口の増 加を図ったといえる。
第4章では、大学教員としての古橋について、水泳授業を中心として、大学教員としての教育活動 の特徴を検討した。検討の史料としては、古橋の著書や日本大学文理学部体育学科記念誌、また、日 大体育の水泳授業に関する史料を捜した結果、大学教員としての古橋の教育活動の史料として、教職 員・学生に配布された水泳授業に関するテキスト、授業運営に使用された書類などを新たに発掘でき た。さらに、古橋が顧問を務め、古橋の担当した水泳授業の運営に活動の一環として携わっていたラ イフセーバー研究会出身者および古橋の同僚であった日大体育の元教員への聞き取り調査の結果も用 いて検討を行った。
その結果、大学教員として古橋は、着任以前の水泳授業の運営方法を継承しつつ、泳法の模範例の みならず失敗例の見本など、学生にわかりやすい説明を交えながら授業を展開した。また、単に泳法 を教えるのではなく、安全管理やルールの徹底を通し、学生に社会人および指導者としての基本的教 養を学ばせるなど、競技者育成ではなく指導者育成を重視した教育活動を行っていたことが明らかと なったが、指導者育成は、競技者育成の前提としての水泳の普及という意味で競技者育成とも関連し ていたのである。
補章では、第4章で用いた聞き取り調査の内容について解説した。聞き取り調査は、「古橋の人柄に ついて」、「指導者としての古橋について」、「古橋との思い出について」の内容について話をしてもら い、適時質問を行う形式で行った。
第5章では、スポーツ団体指導者としての古橋について、競泳委員長に焦点を当て、新聞を主な史 料とし、その他に雑誌や日本水泳連盟の記念誌、古橋の著書などを用いて検討した。その結果、古橋 は日本競泳界再建のための十年計画の推進役として、若手選手育成強化策の一環として、コーチ陣の 強化や室内短水路選手権、年齢別ジュニア選手権などの取り組みを次々と実施した。その成果として、
1972 年のミュンヘンオリンピックでは16 年ぶりの金メダリストの輩出に成功したが、競泳委員長の 在任期間中に世界と再び肩を並べるまでには至らなかった。しかし、その後古橋が行なった若手選手 育成強化の取り組みは、1990代~2000年代にかけて漸く実を結び、古橋は日本競泳界再建のための土 台作りに大きく貢献したということが明らかになった。
ここまでの検討によって、水泳指導者としての古橋について、おおよそ以下の3点が考えられる。
まず、選手期から指導者期を通して、常に創意工夫を凝らしながら自発的に学習、努力し、自身の泳 法または言動について省察し、そこから新たな課題とその解決策を図る理念を持ち続けていた点であ る。次に、競泳で名を馳せた古橋であったが、競泳の強化だけでなく、水泳の普及という観点を持っ ていた点である。そして、自らの理念や方法を貫き通す、強い精神力と実行力を持っていた点である。
これらの点から、古橋は水泳指導者として反省的実践家であったと考えられ、また、2015 年12 月 の中央教育審議会答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い、高め 合う教員養成コミュニテイの構築に向けて~」では、教員が備えるべき資質の具体例として、「例えば 使命感や責任感、教育的愛情、教科や教職に関する専門的知識、実践的指導力、総合的人間力、コミ ュニケーション能力等がこれまでの答申等においても繰り返し提言されてきたところである。これら 教員として不易の資質能力は引き続き教員に求められる」とされており、古橋は正に「教員として不 易の資質能力」を備えていた人物であったのではないだろうか。