はじめに
一九世紀末から︑士大夫や庶民たちの国外への流出が常態化し︑とりわけ生活のための集団的な移動は︑清末以降において中国が大きなディアスポラの時代に入ったことをあらわしている︒この文脈のもとで︑詩という文学作品を再検討すると︑詩の域外創作が移動者の流動の過程で極めて重要な文学的実践になったことは明らかである︒そして中国の精粋である伝統文学が︑必然的に遭遇した海外の異質な世界と文明の体験︑文学形式の保護や改造に直面して生みだした修辞方法や表現内容といったものがはっきりと浮かび上がってくる︒このような移動や流動の状況││主 体的あるいは強制的な近代の境遇││によって︑伝統文人が最も熟知している古典詩詞は︑必然的に近代世界の創作段階に入っていくことになったのである︒ 我々が
「
漢詩」
︵漢語による詩歌︶と呼ぶ︑域外において創作された旧体詩は︑域外の漢字文化圏の古典詩詞の伝統を備えている︒しかし同時に一九世紀末以降の域外漢詩には︑音訳による新語が多用されるなど︑「
新しい情緒︑新しい言語︑旧い風格」
といった創作の傾向があることは明らかである︒漢詩は近代の域外創作とディアスポラの状態││中国に不在でありながら︑漢語の文化想像を備えているだけでなく︑漢語の表現世界と言語の混合現象をもつ実験と思考││に近づいたのである︒ 文人の漢詩創作や漢詩に表出している域外視 ビジョン域││植民近代漢詩と南洋 視
ビジョン域
高 嘉 謙
︵訳=羽田朝子︶●●●●● 論 説 │││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││中国近現代文学研究
地︑都市空間︑文化衝突︑ディアスポラの境遇︑二つの故郷体験︑民族と言語の断裂と融合││からは︑漢詩が一九世紀末から二〇世紀初めにおける近代の大きな変化に直面したのであり︑古典文学ジャンルが遭遇した近代の衝撃とそれがもたらした変革と不変について理解を深めることができる︒言い換えれば︑詩はモダニティに遭遇したのであり︑そしてディアスポラの境遇は詩の世界と視野に変化を与えたのである︒ 古典詩詞の近代創作を再検討するにあたって︑じかに近代体験に触れた時空の場について見過ごすことはできない︒このため︑中国から南洋へ︑あるいは太平洋へと向かう二つのルートは︑異なる漢詩創作の脈絡を一つのディアスポラ詩学の視 ビジョン域に統合することが可能であることを証言している︒ 南シナ海と太平洋は︑清末の域外漢詩を生んだ二つの流動の場である︒帆船から汽船の時代に至ると︑南洋や太平洋の国々との接触や文化交流はますます頻繁になった︒東アジアの漢字圏の地域的な文化交流は︑長い歴史をもっており︑従来から漢詩研究において重視されてきた︒しかし東アジアの思想や文化の研究はこれまで東北アジア地域に力を入れており︑いわゆる漢詩研究はさらに長いこと日本︑朝鮮半島︑ベトナム︑台湾にのみ注目し︑南洋あるいは太平洋といった外交や経済︑文化の流動ルートについて は︑東アジア地域の外に追いやられてき ﹀1
︿た︒明らかに︑東アジアは地理の上では東北アジアの範囲に限定され︑あるいは漢字圏の文化的背景を持つ地域だけが注目されてきたのである︒しかし実は︑清末以降の国外への流動は︑南洋への移動こそが官民において途絶えることなく続いたルートであった︒一八七七年に清はシンガポールに最初の外交領事館を設置しており︑また鄭和の大航海はいうまでもなく︑あるいはさらにそれ以前の秦漢典籍までも︑南洋は中国の対外交通史に記載されてい ﹀2
︿る︒とりわけアヘン戦争以後は︑西洋の工業発展とアジアの植民地が大量の華工を必要としたことから︑多くの庶民が海を渡り︑華人大移動のブームが形成された︒南洋への移動は華工の輸出の主要ルートの一つであり︑知識人もまた貿易や私塾︑新聞社の需要にともない南へと渡ったのである︒このため漢詩体系において東アジアをとらえる上では︑移民史の流動とともに形成された文化伝播の文脈も含むべきである︒中国沿海の郷紳や庶民が国境を越え移動したことによって︑東アジアから南洋︑あるいは太平洋へ渡るルートが拓かれたのである︒ 南シナ海あるいは南洋に越境するといった︑中国使節や文人の南下によって︑シンガポールとマレーシア地域における初期の文学生産が形成されており︑そのなかで漢詩創作の規模は最も見るべき価値がある︒これら知識人の南下
は︑士大夫階級のディアスポラと文化伝播を鮮明にあらわしている︒とりわけ一部の南下文人は詩人と政治的身分を兼ねており︑彼らが南洋に流寓した時期の文化的影響や文学的実践は︑直接的あるいは間接的に植民地時期のシンガポールとマレーシアにおける最初の文学風景を形成したのである︒左秉隆・黄遵憲・楊雲史・康有為・丘逢甲・梁啓超・邱菽園・陳宝琛から︑ひいては第二次大戦期の郁達夫まで︑数々の外交官や詩人の南下と︑その精彩を放つ南方の漢詩の系譜には注目させられる︒新聞雑誌や文学団体といった文学機制が清末から第二次大戦後まで普及したということは︑それら新聞雑誌が中断も廃刊もせず︑そこに絶えず無数の漢詩と世に知られぬ無名の詩人が集まったということであり︑その漢詩生産が決して無視できない規模であったということがわかる︒漢詩に形成されている海洋イメージ︑中華帝国とその周辺国家の朝貢貿易の歴史や世界体系の変革︑ディアスポラ華人社会の脈動︑中華文明の教化や文化伝播︑アイデンティティや郷愁︑植民地体験︑近代中国の地理・外交・政治経済における国家的危機といったものが︑独特の面目を備える域外漢詩の特色となっており︑これは東アジア漢詩体系を論証する新しい視点を構築するはずである︒ 本論は海域概念の南洋ルート ﹀3
︿を︑海洋を基点とする観察視野を通して︑漢詩自身の視 ビジョン域に重ね合わせようとするも のである︒歴史学の研究では海域に焦点をあてるものは少なくなく︑フェルナン・ブローデル︵
Fer nand Br audel
︶の著名な地中海世界の研究や︑東アジア海域をテーマとする東アジア歴史研究があ ﹀4︿る︒しかし本論は海域を実体の空間としてみなし︑海洋に基づいた詩学を宣揚して漢詩生産に対して通時的な説明をするつもりはない︒南洋への移動が域外漢詩の流動ルートとして注目する価値があるのは︑近代の国外滞在記が
「
世界へ向かう」
研究として有名になったほか︑漢詩生産の脈絡によって近代知識人の国外での文学経験と視点を検討することができるからである︒これは時代の変動期における言語や感覚の構築といったテーマを直接的に反映しており︑新旧の言語や価値体系︑世界観の衝突を明確にあらわしている︒この種の域外漢詩は︑近代以降の知識人の移動に呼応しており︑隠喩的な海洋空間によって漢詩と文明︑境界と自然の弁証を語っているのである︒さらにこれは同時に東アジアの漢詩の範囲を広げ︑かつ民族や国家を中心とする境界を打ち破るものであり︑近代の流動によって変化した漢詩の生産意義を高めている︒このため南洋は叙述的枠組みとしてみなすことができ︑これは知識人の様々な移動ルートやその漢詩創作に潜在している相対する特徴︵いくつかの漢詩は帰国後に補作されているけれども︶を解釈するのに効果的である︒さらに従来著名な作家に限られていた海外詩や華僑詩の範囲を飛び越え︑流動の期間やその前後における詩学の交錯︑そして取り上げる意義のあるディアスポラ詩学の脈絡を構築することができるのである︒
一 詩、地図、南海 視
ビジョン域
一八八五年末︑黄遵憲︵一八四八
−一九〇五︶はアメリ
カのサンフランシスコから故郷の嘉応に帰り︑外交官の職務から離れた︒一八七七年に日本公使に任ぜられた何如璋に従って参賛︵大使館参事官︶となった時から数えると︑一八八二年にサンフランシスコ総領事に転任したのを経て︑すでに八年が経っていた︒しかしこれが彼の外交官生活の短い休息にすぎず︑その後イギリス大使館の参賛︵一八八九
−一八九一︶︑シンガポール総領事︵一八九一
−一
八九四︶を歴任し︑視野が大きく開かれ︑清末における
「
新派詩」
の経典作品を生みだすことになることは︑黄遵憲はまだ知らない︒彼の外交官生活における駐在地を見てみると︑東アジア︑アメリカ︑南洋からヨーロッパまで︑東洋と西洋を股にかける豊かな異国経験をしており︑それぞれの地で後の世まで伝わる詩作を残している︒このように詩人と官僚の身分を兼ねた流動ケースは︑清末においては決して多くない︒モダニティ体験ともいえる異国詩のほか︑アメリカから故郷へ帰ったばかりの黄遵憲には「
小 女」
という詩があり︑それは自身と一〇歳の幼い娘との団欒の情景を描いたものである︒ 一灯に団 まるく坐して話 わすること依 いい依︑簾 れん幕 ばく深く蔵して
未だ扉を掩 おおわず︒ 小女
鬚 ひげを挽 ひき
争いて事を問う︑阿 あじょう娘語らず又た衣を牽 ひ
く︒ 日光は定めて是れ頭を挙ぐれば近からん︑海の大きさは両手もて囲むに何 いかん如ぞ 地球の図を展 のべ
指して看 しめさんと欲すれば︑夜灯
風 ふう幔 まん
に
伊 い威 い落 ﹀5
︿つ︒︵燈火近く車座になって︑懐かしくも和やかに語らう宵︑カーテンは奥深く私たちを包むが︑扉はまだ開けたまま︒幼い娘は︑私のあごひげを引っ張って︑次から次へと問いかける︒その母さんである妻もまた︑ものを言わないけれども︑私の着物の端に手をおいて聞いている︒お日様はきっと頭をあげればすぐそばなんでしょう︑海ってこれくらい大きいの︑と両手で輪を作ってたずねる娘︒世界地図を広げて︑ここだよと指し示そうとすれば︑燈火のそばの風にあおられたカーテンから︑しけ虫がこぼれおち ︶1
︵た︶
懐旧談を楽しみ︑娘が外の海洋世界について次から次へ
と問いかけると︑父親は地図を広げてその位置を指し示そうとする︒これは明らかに地理的知識の伝承の意味をもっている︒しかしこの詩は︑にわかに室内の薄暗い灯の下の一角に生息するしけ虫に収束し︑地図のどこを指さしたのかは︑はっきりと表されていない︒ここでは対立した状況││ものを言わずに着物の端に手をおく母親と︑外の世界に好奇心を抱き︑次から次へとたずねる幼い娘││が描かれている︒ものを言わない母親は保守や慎みといった伝統女性を暗示しているが︑その一方で母親は娘が外の世界に憧れるのを止めることができない︒しかし地図を広げたとき︑室内の灯や帳︑小さな虫に視線が落とされる︒最後の句の結びは︑蘇軾の詩句を用いてお ﹀6
︿り︑宋詩の典故を配置して一種の伝統回帰の衝動を強調している︒地図を開こうと
「
欲」
すると︑視線が壁の片隅のしけ虫に「
収」
束するのである︒黄遵憲はここである状況││地図と閨房に潜在する外と内の対立性││を作りだしている︒なぜ地図という地理的知識によって伝統的な家におけるのどかな生活に衝突を引き起こす必要があるのだろうか︒黄遵憲の態度は明らかに意味深長である︒研究者の田暁菲は次のように解釈している︒「
その閉鎖された自足した家庭空間は︑民族主義と国際主義の時代がやってくる前の中国を最もよく象徴している」
と ﹀7︿︒ これが指摘するのは︑このような家族とよもやま話をし ているシーンにおいて︑黄遵憲が外部の世界││地図││を組み込んで︑田舎の生活の安定した状態を揺るがしていることである︒とりわけ首聯は
「
簾 れん幕 ばく深く蔵して
未だ扉を掩 おおわず
」
としており︑開けたままの扉は表面上︑幼い娘を閨房に入らせ夫婦のよもやま話をさえぎらせている︒実はそれと同時に「
語らず」
の妻と「
争いて事を問う」
幼い娘といった︑対立のなかで外界への可能性が明示されているのである︒黄遵憲は帰国したけれども昔の彼とは違っており︑外界の視野と感覚を身につけて戻ってきた︒このため同時期の詩作には︑類似した詩句が多く見られる︒例えば「
旧識新交天下に遍し︑親戚の如く話すること依依たるべし
」
︵世界中の新旧の友人たちは故郷の親族のように親しく私と語らい︑異郷の孤独を慰めてくれる︒「
郷人以余遠帰争来詢問賦此誌感」
四〇八頁︶︑「
一たび酔いて瞢 ぼう騰 とうし夢の裡の如くして︑此の身
飄泊して又た天涯
」
︵酒に酔って夢の中にいるかのように朦朧とし︑この身は天地の果てに漂泊しているかのようだ︒「
即事」
四二二子供を呼んで飯を炊かせる︒
「
今夕」
四〇八 すことができない︒この黄粱一炊の夢から覚めるために︑ 炊ぎ黄粱を熟せしむ」
︵わが身の境遇は茫洋として言い表 かしに 頁︶︑「
身世茫茫たりて何ぞ説くべけんや︑児を呼びて飯を −四二三 にかえって帰郷を恐れたり︑外界での経験と田舎の生活と などである︒基本的にいずれも︑海外での長い滞在のため −四〇九頁︶の衝突や矛盾により茫然とする感情を取り上げたものである︒論者はここでこれら黄遵憲の詩がみな宋詩を用いた痕跡があることを指摘した ﹀8
︿い︒このように典故を用いる方法は︑古代の詩人によく見られるが︑海外から帰ってきた黄遵憲についていえば︑七言律詩の風格によって外部への転換といった旋回する空間を描いており︑旧詩の形式に対する弁証や思考を解き放っているのである︒ 黄遵憲が詩のなかで広げるにいたらなかった地図は︑一種の外部や外界︑ひいては外に対する思考としてみなすことができる︒そこに潜んでいる変革や破壊は十分には展開されず︑ついには日常の田舎の生活に収束した︒そのため︑この詩は清末の海外使節が中国に帰国した後︑伝統的な日常のなかで感じた一種の矛盾した感覚を際立たせているのである︒地図の配置により伝統生活に一つの窓口が組み込まれたことが隠喩されており︑新旧の並列により閨房の安定に視野の分裂がもたらされたのだとしよう︒ならば︑おそらく黄遵憲にとって︑最後の外交官として楊雲史︵一八七五 に題す
」
︵題五洲地 9﹀ の職務を辞職して中国へ帰った後︑民国元年に「
五洲地図 −一九四一︶がシンガポール領事館から書記官︿図︶という詩を創作し︑豪邁な勢いでもって︑最初の句から
「
門に入るに屋大にして乾坤窄 せまし︑八荒四極我が室に在り」
︵家に入ってみると︑家屋は大きいものの︑縮小された世界地図がそこにある︒世界の八方 四極が私の部屋にあるのだ︶と詠み︑壁にかけられた世界地図を直接的に題詠したことは︑思いもよらぬことであっただろう︒楊雲史は清末の宗唐派の詩人で︑常熟の人であ ﹀10︿る︒彼は晩年に香港に避難し︑異郷で客死したが︑そのほかでは一九〇七年から一九一一年にシンガポール領事館で職にあったことが︑その一生のなかで唯一の外交官と海外の経験である︒外地で大使館の職についたのは︑清が崩壊寸前の時期であったため︑彼の観察や感情はとりわけ複雑であった︒この帰国後に地図を取り上げた作品からは︑その地図の製図が早期に洋行した黄遵憲の地図よりも精緻で︑示されている世界陸海の位置もさらに正確であったと推測できる︒しかし楊雲史は明らかに別の視点を持っている︒彼が着目する地理的視 ビジョン域は︑中国に焦点をあてており︑
「
東南の諸国大水に臨み︑西北の川原
豈に終極たらんや
」
︵東南の各国は広大な海に面しており︑中国の西北の高原や平野はどうして世界の果てであろうか︶と︑中国の南の海に点在する東南アジア諸島や中国西北を地の果てではなく︑さらに広大な北方の国土があることを強調している︒続けて詩人は次のように言う︒「
関塞古今形勝を称うるも︑我自 より之を視るに皆智力なりと︒⁝⁝世上の沿革
血染まりて成り︑此の図の変更
乍 たちまち朝夕︒人 じん間 かんに日として干 かん戈 か無きは無く︑一万年の後何れの色なるかを知らんや
」
︵古今より関所や要塞の自然の地勢を讃えているが︑私がみるところ人類の知恵によるものである︒⁝⁝この世の歴史の移り変わりは血で染められており︑この地図は朝夕の間に変化してきた︒人の世に戦いがなかったことは無く︑地図の国ごとに塗り分けられている色が一万年後にどのように変わっているかは到底分からないのだ︶と︒これが意味するのは︑地図が表すのは人類による権力の競争強奪であり︑長い歴史の中で︑各国の版図がどのように変化するかは実に測りがたいということである︒こうした楊雲史の感慨には︑それだけの理由がある︒彼がシンガポール領事館に駐在していた時︑シンガポールとマレーシアはイギリスの植民地になってすでに長い間たっており︑インドネシアやベトナムもオランダとフランスの植民地となるなど︑南洋全体の版図に西洋の勢力がすでに進駐していた︒彼は西洋帝国主義の拡張や植民地の乱立に対し不満を抱き︑奮起してその詩において次のように言う︒
「
起来し図を取りて裂きて粉砕し︑地の身を存する無く亦た得んことを計る」
︵立ち上がって地図を粉々に破りすて︑身を存する土地がないのでまた取り戻そうと考えをめぐらす︶と︒彼が地図を破り捨てたのは世界の情勢に対する憤慨を表している︒地図はここに清末民初の内的視 ビジョン域となっており︑その背後にある地政学的な観察が地図の全体を満たしているのである︒ここから︑楊雲史が地図を破り捨てた行為には積極的に政治に介入していく姿勢が表れていること が容易に理解できる︒ 事実︑楊雲史の詩における中心的な視点は︑「
易幟」
︵敵に鞍替え︶した南洋地域である︒楊雲史がその詩において表現した地理的「
要塞」
は︑彼が一九一〇年に南洋にいた時期に創作した「
新 シンガポール嘉坡感懐」
と対応している︒詩には次のような長い序が付されている︒ 南洋の各諸島は︑フィリピンからインドに至るまで星のように連なり︑実に中国の属国であった︒シンガポールに至ると形勢は一たび収束し︑自然の要塞の地が生まれており︑中国への門戸︑ヨーロッパへの要路となっていた︒もし中国がしっかりと関を守っていれば︑ヨーロッパの船はその一歩を踏み出すことができなかったであろう︒残念なことに徐福も陸賈もやって来ず︑古くより中原に通じておらず︑マレー人が愚弱で怠惰で無知であったために︑今やイギリスやオランダの属国になってしまったのである︒︵七二頁︶明らかに︑彼は南洋諸島の各国が西洋帝国の植民地になったことにとても不満を感じており︑ひいては中国が朝貢制度により勢力を握っていた範囲であったにもかかわらず︑それをうまく維持することができずに︑現在のように西洋の植民地になり下がったと考えている︒楊の歴史観には
はっきりとした地政学的な観察があり︑とりわけここに彼が民族主義的な保守の立場をとっていたことが明示されてい ﹀11
︿る︒ しかしながら楊雲史による南洋の情勢を批評する詩は︑南洋視 ビジョン域のもとでの詩学ルートを明らかにしている︒楊雲史が外の視角を配置したことからは︑漢詩と大移動時代の依存関係を改めて確認できるのである︒楊雲史の外交官としての政治的焦燥と︑民族主義の宣揚︑華人移民史観の再構築といったものが重なり合って漢詩を形作っており︑詩と序の間テクスト性からは︑南洋詩の感覚的構造を見出せる︒その中でも︑楊雲史が一九一〇年に書いた
「
南溟を哀れむ」
︵哀南溟︶は︑南洋漢詩の意図と︑そこに構築された世界観が最もよく表現されている︒二 外交、 移民史、 場所の感覚
「
南溟を哀れむ」
が成立したのは辛亥革命のころであり︑政治的現実の脈絡がある︒詩題を見てみると︑その主旨がありふれた客愁ではなく︑自身の南溟視 ビジョン域を構築することにあると標榜しているのがわかる︒とりわけその長い序では南洋ルートにおける移民史の脈絡が説明されており︑南洋に対する嘆き︑つまり中華帝国が南洋に対する布石の機会を失ったことが強調されている︒ はじめ楼船が海を渡り︑大魚を分割しているのを知らないでいた︒四百年の間︑南洋を支配していた者には大いに偉人が存在していたが︑いたずらに鎖国令は解除されず︑役人は海賊とみなして上聞しなかった︒言うことには︑漢代において珠崖は放棄すべきとされ︑夜郎は新興し滅びるがままにされた︑と ︶2︵︒現在に至って︑侵されてはならない領土に︑龍がとぐろを巻き虎が居座っている︒時機を失ったからには︑どうして取り戻すことができようか︒︵六七頁︶
序では各地の華人移民の偉大な功績について書き連ねることも忘れておらず︑ひいてはそれを誰も讃えず︑史籍にも掲載されていない窮状を嘆いている︒
我が国の人間が割拠し王を称し︑海外で覇権を握ったのは︑一人や一日ではない︒その者たちはみな豪傑で︑中国で志を得ず︑亡命して海を渡り︑ついに異民族を駆使して君主となったのであり︑これもまた偉大なことではないか︒腕を振り上げて一人前進し︑頼るところもなく︑ただその体と血と汗を振るったのであり︑大海を縦横するなかで︑どれだけの苦心を払い︑その偉業を成し遂げたのか︑現在に至っては誰もこれを伝える者はいない︒なんと嘆かわしいことだろうか︒︵六八頁︶
詩においては︑叙事と抒情を兼ね揃えた風格によって︑さらに南溟の風土の内面を批評している︒華人が王となり︑征服し︑開墾したという︑新たに構築した南洋史観は幾分壮大な気概をもっている︒
其間
王を称すること十余伝︑或は数十年或は百年︒一二の故事は但だ口述のみ︑之を考うるに文字殊に茫然たり︒当時百蛮
皆懾 しょう服 ふくするは︑或は兵力を以てし或は賢を以てす︒洪氏・葉氏の最盛たるは︑洪武の以後
嘉道の前なり︒其の人類
皆雄俊にして不遇を悲しみ︑頭を掉 ふりて海に入り回顧せず︒⁝⁝伏波の銅鼓
南に征して服せしめ︑瀘を渡りて深く文身の俗に入る︒但だ地角に干 かん戈 か有りと聞くも︑天上何れの年月かを知らず︒南荒の阡 せん陌 ぱく
人煙起ち︑棘を斬り荊を披 ひらくこと年を計らず︒大沢
雲深く象陣を駆け︑春山
日暖かにして桑田を種 うう︒︵六九頁︶︵その間に王を称した華人の統治が十余代興亡し︑あるものは数十年︑あるものは数百年続いた︒いくつか口述の事績や伝説が残っているが︑文献によって考証することができない︒当時彼らが南洋の異民族を服従させたのは︑その軍事力や優れた統治によるものであった︒洪氏と葉氏の勢力が最も盛んだったのは︑明の洪武年間から清代の嘉慶・道光年間以前のことであ る︒彼らはみな俊才の持ち主だったが不遇に置かれたことから︑思い切って南洋に下り二度と戻らなかったのだ︒⁝⁝光武帝の命でベトナムを平定した伏波将軍︹訳注=馬援のこと︺のように南洋を征服し︑異民族の未開な習俗に溶け込んでいった︒どこか遠い地で戦いがあったと耳にはしても︑それがいつの事だったかも分からぬぐらいになった︒彼らの開墾によりしだいに南洋の荒地に人煙が立ち上り︑イバラを除いて道を切り開き︑すでに長い時間が過ぎた︒彼らは奥深い森林のなかで象の群れを駆り立て︑熱帯の暖かな気候のなかで桑田を植えたのだ︶
ただし楊雲史は開拓者の形象を宣揚するほか︑華人植民者の抱負や胸の内をあらわにしている︒
当年馬を躍らすは亦た天意にして︑志を得るは全て蒼 そう莽 ぼう
の気に憑 よれり︒異族を鞭笞 むちうつに牛羊の若くし︑前に仆 たお
れ後に起つも一再にして厲 ふるう︒聞くに似たり
北に向かいて星辰を望み︑物外の田園
世外の身︒︵当年馬に乗って南洋を征服したのもすべて天意であり︑蒼茫たる勇気によって勝利したのである︒牛や羊を鞭うつように異民族を厳しく管理し︑前後してやってきた者たちもますます厳しくとりしまった︒しかし
ながらやはり北方の星を仰ぎ見て郷愁にかられ︑開拓した田園を前にしていても自分が異郷にあることを忘れられない︶
これは詩の想像であり︑楊雲史が最後の王朝の外交官として西洋の植民地において抱いた焦燥感があらわれている︒しかしこの清の滅亡時における外交の想像は︑単なる過客の視点ではない︒楊雲史は力を尽くして序と詩によって中国の立場における南洋の全景を展開しており︑その意義は詩の最後の部分にあらわされた失意や感慨││
「
鯤鵬南に徙 うつるも黯 くらく神を傷ましむ︑一片の興亡
水浜に問う
」
︵たとえかの北冥にいるという鯤鵬が南洋に飛んだとしてもこの状況に意気阻喪し︑この国の衰亡に何もできはしまい︶にあるのではない︒「
南溟を哀れむ」
が取り扱っている外交や地理の意識はむろん注目するべきものであるが︑同時にまたほかの注目すべき脈絡に気付かされる︒さかのぼること一八九〇年︑黄遵憲は参賛に任ぜられて薛福成に従いイギリスへ向かう旅程で︑同じように南洋航路を通っている︒その道中で経験した南洋諸島の見聞によって︑はじめて彼の南洋史観が形成された︒
大風西北より来たりて︑天を揺らし海波黒く︑茫茫たる世界の塵︑点点たる国土の墨︒中国海と曰ふと雖も︑従 よ りて禹の跡を問う無し︒近くは唐の南蛮に溯 さかのぼり︑遠くは漢の西域に逮 およぶに︑旧時の職貢図︑依稀として猶お識るべし︒明の鄭和を遣りしより︑使節
馳せること絡繹たり︑凡百の馬流
種 しき︑各各重訳を設け︑金葉
多羅を鋳し︑玉環
摩勒を献じ︑毎 つねに仏の光明を以て︑帝の威徳を表頌す︒︵
「
錫 セイロン蘭島臥仏」
四五一−五〇六頁︶
︵大風が西北から吹き︑天を揺るがし海を黒く波立たせ︑果てのない世界のなかで︑国土は点点とした墨のようである︒中国海といっても︑従来華人が移り住んだ形跡はなかった︒華人の海外移住の記録は︑最近では唐代の南蛮︑遠くは漢代の西域にまでさかのぼり︑当時の職貢図︹中国朝廷に対する属国の進貢の状況について記した絵図︺からわずかにそれを知ることができる程度だ︒明代に至って鄭和の西洋下りによって︑各国の使節が絶えず行き来するようになり︑様々な華人集落が各地に生まれ︑各国の通訳官を置いて意思疎通をはかった︒金で作られた多羅葉︑玉環や紫金といった貴重で珍しい品々が献上され︑仏の光明によって皇帝の威徳を顕彰したのである︶
もしこれが中国と南洋の島国との交流の歴史の脈絡を説明しているにすぎないなら︑この後に続く黄遵憲の朝貢外交についての説明は︑おそらく楊雲史
「
南溟を哀れむ」
の序の背景になっている︒
蘇 スー禄 ルー
群臣を率い︑浡 ブルネイ泥
尽く室を挈 たずさう︒闌 らん班 はんとして繍縵を被 こうむり︑扶服し赤帟を拝す︒是れ蛮夷の長と雖も︑公侯伯を窃称するは︑古 いにしえの小諸侯に比 なぞらへ︑尚お蒲璧と称するに足る︒其の他の鳥了部︑争いて亦た商舶に附く︒詔有りて
鎮国山︑碑立つること高さ百尺︑此れを以て得意を明らかにするは︑之 しふ罘石に刻むに比 なぞらう︒明の中葉に及びて後︑朝貢漸く失職す︒豈知らんや
蕞爾国︑既に三四摘を経るを︒鉄囲薄くして福龍︑大半を鳥の食らうに供す︒我行きて九真を過ぎ︑其の次に息力に泊す︒婆 ボルネオ羅を左右に望めば︑群島
嘰蝨に比せり︒咸 みな西の道主に帰し︑尽く漢の赤幟を抜く︒日夕興亡の涙︑海水の滴より多し︒行き行きて復た行き行きて︑便ち獅子国に到る︒︵スールー国王は群臣を引き連れ︑ブルネイ国王は一族を帯同して朝貢にやってきた︒彼らは色とりどりの刺繍がほどこされた絹を身につけ︑ひれ伏して皇帝に拝した︒これら異民族の長が中国の公・侯・伯といった階位として自負したのは︑ちょうど古の各地の諸侯と同じようなものである︒そのほかの部落も争うようにして中国と交易を行うようになる︒詔によって鎮国山に碑を建てたのは︑始皇帝の之 しふ罘石のように︑皇帝の徳意を示すためだった︒明の中期になって朝貢外交 が中断すると︑中国でこうした南洋の小国のことは忘れ去られていった︒南洋の地を守る堅い守りがなかったために︑その大半を奪われることになったのだ︒私は九真を過ぎてそして息力に泊った︒ボルネオを左右に望むと︑その群島は虱のように小さい︒皆西洋の勢力に属し︑中国の属国ではなくなった︒日夜国力の衰退のために流す涙は海水よりも深い︒ずいぶん進んでいくと︑スリランカにたどり着いた︶
「
錫 セイロン蘭島臥佛」
は黄遵憲の重要な五言の長篇古体詩であり︑ここにおける視 ビジョン域は中華帝国が南方の主導権を西洋の帝国に譲渡した経緯を比較的客観的に記載しているが︑そこには深い憂慮が現れている︒これは洋行した使節が必ず遭遇する現実であった︒吁 ああ嗟
古の名国︑興廃
殊に無常なり︒羅 ローマ馬は法律を善くし︑希 ギリシャ臘は文章に工なり︒開化は埃 エジプト及を首とするも︑今亦た淪亡に帰す︒念うに我が亜細亜︑大国
中央に居 お
り︑堯舜四千年︑聖賢の代 よ相望む︒大いなる哉
孔子の道︑上継するに皇なる哉唐なるかな︑血氣
悉く親を尊び︑声名
八荒を被う︒今に到りて四夷
侵され︑尽く諸辺の防を撤す︒天
若 もし中国に祚 さいわいすれば︑黄帝
衣裳を垂れて︑海に浮かびて三軍を率い︑載書
四方に使し︑
王威
象主を鎮め︑鬼族
狼荒を馴らし︑帰化して赤土を献じ︑徳を頌し白狼を歌い︑共に天可汗を尊び︑化外
胥 みな来航す︒遠く牛賀洲に及び︑之を鞭うつに群羊の若し︒海に烈風の作 おこる無く︑地に甘露の祥降らん︒人人
震旦を仰ぎ︑誰か黄種の黄なるを侮らん︒弱きは万国の役に供され︑治するは則ち天下の強ならん︒明王久しく作らず︑四顧して心茫茫たり︒︵ああ︑古代の名国の興廃は全くもって無常である︒ローマは法律に優れ︑ギリシャは文芸に巧みであった︒文明の始まりはエジプトであったが︑現在はすっかり淪落している︒おもうに︑我がアジアは大国である中国が中央にあり︑堯舜から四千年の間に無数の聖賢が登場した︒大いなる孔子の道は盛んに行われ︑その祖先崇拝の観念やその名声は地の果てまで行き渡っている︒現在に至って四方の蛮夷が中国を侵し︑すべての辺防を撤退させることになった︒天がもし中国に味方するなら︑皇帝は無為にして天下を治め︑海を渡って全軍を率い︑載書は四方の各国に送られ︑王威はインドまでを懼れさせ︑辺境の少数民族はその地を献上し︑帰化して中国の属国となるだろう︒皇帝の徳を称頌し︑みな共に天可汗︹異民族の君主である可汗の上に立つ君主のこと︺として尊び︑辺境からも来航する︒遠くは仏教の伝説である四大部洲のひとつ西牛 賀洲にまで及び︑羊の群れのように自由に使役した︒海に激しい風が立つこともなく︑地には天下泰平の吉祥である甘露が降る︒人々はみな中国を尊んで︑だれも黄色人種と侮ることなどない︒弱い国は他国に使役され︑統治するのは天下の強国である︒賢明な君主は久しく現れず︑周りが西洋の植民地となったのを見るだに︑茫然とした思いに襲われる︶
黄遵憲の詩における
「
若し中国に祚 さいわいすれば」
の仮説や︑帝国の威厳が遠くにまで及ぶことを願う想像は︑目前の朝貢外交の失敗や衰退への懸念によってもたらされたものにほかならない︒黄遵憲は南洋諸国が西洋の植民地となった現実に対して多くの議論をしなかったが︑彼は外国に滞在する華人として「
四顧して心茫茫」
としていたのであり︑南洋の域外創作の潜在的風景を拓いたのである︒ただし「
詩の世界のコロンブ ﹀12︿ス
」
と称賛された黄遵憲は︑あきらかに南洋の情勢に対して明晰であった一人であった︒彼の上司である薛福成は使節として外国へ向かう道中で日記を書いているが︑そこには天朝の大臣として︑南洋諸島の人種に向けられた揶揄と蔑みが窺える︒香港を過ぎてから︑サイゴン︑シンガポール︑セイロン島の諸港町を見てみると︑西洋人が熱心に運営している
市場が雲のように連なり︑珍奇な品々が山のように積まれている︒しかし︑その土民たちはみな姿が醜く︑鹿や豚と何ら変わりがなく︑未開の雰囲気をまとっている︒ベトナム︑ビルマの人々や︑インド︑マレー︑アラブの各民族を見てみると︑その顔つきは真っ黒で︑小柄で粗野で愚かであり︑中国人の上品さや端正さ︑ヨーロッパ各国の人々の白い肌や壮健な体つきを見てみると︑その相違たるや天と地もの違いがあ ﹀13
︿る︒
薛福成は黄色人種の優越感に満ちた高飛車な態度により︑他民族を蔑視しており︑ひいては各地がヨーロッパ帝国の植民地に陥った原因を
「
南洋諸島の国々は昔から傑出した人材があったとは聞いたことがなく︑いつも人の支配を受けている」
ことに帰している︒さらには気候や環境のせいにして︑次のように述べている︒「
土地が赤道の下にあり︑暑いだけで寒くなく︑精気が漏れて一年中収斂することがない︒そのため筋力が働かず︑精神や知恵も生まれず︑散漫で惰弱であり︑自ら奮い立つことができな ﹀14︿い
」
︑と︒このような主観的な異郷に対する判断や感想は︑黄遵憲の詩の世界とくらべると︑明らかに中原中心主義の思考回路をもつ︑猟奇的な域外経験である︒ 官僚使節の南洋における視 ビジョン域は︑孤高で傲慢な態度から︑朝貢外交の敗北と西洋勢力の進駐に対する憂患へと︑ 視点が次第に移り変わっていったのである︒しかし民族主義的な外交の視点は︑総じて保守の一面を脱することは難しかった︒薛福成による南洋民族を貶める言論から︑楊雲史による中国が南洋諸島に対し外交の影響力を失ったことへの嘆きにいたるまで︑その植民地になり下がったことについては「
マレー人が愚弱で怠惰で無知であったために︑今やイギリスやオランダの属国になってしまった」
と揶揄することを忘れていないのである︒ しかし非常に興味深いのは︑ディアスポラ華人︵chinese diapor a
︶が南洋経験の重要な一部としてみなされ始めたことである︒楊雲史の「
南溟を哀れむ」
は︑南洋華人の発展史と開拓史に対し︑最も政治や外交の意識を備えた叙述であろう︒これは一八六六年に使節団が洋行するのに南洋ルートを経由するようになって以来︑詩の世界では最も明晰に華人の南下移動︑開拓︑移植の生態と歴史を叙述している︒ただし楊雲史は結局︑清滅亡の時に身を置いており︑「
南溟を哀れむ」
には歴史への嘆息や︑現実に対する無力感と不満が込められている︒彼のこのような地政学的な要素に着目した叙事創作が︑異郷の生活のなかで自分の思いを表す抒情の下地になったようである︒憂患の創作と比べ︑彼には風格の異なる︑唐詩の美しい経典を模倣した閑適詩が多くあるが︑そこには自身の現地生活の断片が記されている︒楊雲史の「
南溟系列」
の作品は︑南洋を観察する視 ビジョン域の詩学的視点を再構築し︑国家的危機の時代に南洋世界に向かい合う複雑な心情を拓いたが︑これを確信するさらなる理由がある︒それはつまり中国版図の外においては︑南洋が最も多くの華人が集まる地域であったということである︒こうした歴史叙述の面において︑すべての南下経験の漢詩創作に歴史の一章を補ったのである︒それはすでに失われた一章であったけれども︒こうなると理解に難くないのは︑一九三五年に出版された
『
新亜細亜』
に楊雲史の「
南溟を哀れむ」
が再掲されたことの意味であ ﹀15︿る︒
『
新亜細亜』
は新亜細亜学会が発行する刊行物の一つであり︑この学会は一九三〇年に南京に成立し︑おもに「
全中国の建設のために中国の辺境問題を研究」
し︑「
中国を建設するためには中国の辺境を開発するべきである」
と主張していた︒ここに南洋は中国版図につづく「
辺境」
となり︑改めて視野に入れられ︑「
南溟を哀れむ」
が再読される価値があるものとなったのである︒西洋の勢力がアジアに侵入して以来︑中国が政治において反応を示さずに︑一頁が抜け落ちていた南洋朝貢史と南洋華人の開拓史が︑ここに南洋ルートの詩学想像をよみがえらせたのである︒三 ディアスポラ華人と場所の感覚
「
南溟を哀れむ」
の序は︑中国人が南洋で覇権を握った 者たちの系譜を明らかにしたかのようである︒しかし特定の人物から洪某や葉某といった無名の人物までを記載しており︑その歴史的事実についてそれほど把握しているわけではないことがわかる︒とくに序に挙げられている数人の著名な人物について細かくみていくと︑梁道明はシュリーヴィジャヤ王国で商売を行った最大の商人であり︑林道乾はシャム王に協力して安南を破った明代の海賊である︒そして羅芳伯はボルネオで金鉱を掘り︑蘭方公司︵ko ngsi
︶を設立した指導者である︒商人や海賊から華工にいたるまで︑これは華人の南下身分の史実に一致しており︑さらにディアスポラ華人社会を構成する形態である︒このため南洋ルートは︑南洋視 ビジョン域における華人移民社会の縮図にせまらなくてはならなかった︒従来︑黄遵憲の最も称賛された海外華人についての詩篇は︑「
番客篇」
︵六〇八頁︶であっ 16﹀−六四〇
︿た︒この詩篇はのちに補作された長篇の五言古体詩で︑民俗採集者と使節の視点を兼ね揃えており︑南洋の土着の華人︵ババ︶の婚礼儀式とそれに集まった各民族の賓客たちについて描写している︒詩全体に取り合わされた民俗採集と使節の観察は︑黄遵憲の二重の関心となって体現されている︒まず民俗学の視点で婚礼の場を集中的に表現しており︑ババの新婚夫婦の寝室の外観から内装までを述べ︑物質的な配置や装飾を細かく描き︑また賓客たちの風情を模写している︒こうした表現は︑客観的な民俗記
録者のようであり︑日常生活の重要な儀式によって︑異郷の風土を探求する視点を拓いたのである︒黄遵憲がわざわざ長篇によってババの風俗を浮き上がらせたことは︑選択的な視角としてみなすことができる︒ババは早期に南洋に移住し現地の原住民と通婚した華人の末裔であり︑その生活や言語︑習俗は一九世紀以後に南下した華人とは完全には同じでなかった︒ババは最も早くその土地に根を下ろし︑現地の風俗や習慣に従った南洋華人の状況を体現することができたのである︒黄遵憲は清朝政府に対してはこの地の華人が
「
暦や衣服の色は中国風を維持しており︑婚礼や葬式は記録に従い︑また旧俗に沿ってい ﹀17︿る
」
ことを特に強調している︒しかし詩においてはババの婚礼の混じり合った色彩や︑中国と西洋が折衷し︑異民族が共存する場の特色を大いに宣揚しているのである︒黄遵憲にはほかに意図するところがあり︑彼が主張する民歌の風俗採集の趣向のほか︑様々な様式の風俗創作を取り合わせている︒例えば各民族の女性が足をあらわにし︑草履をはき︑靴下をはいているといった化粧や衣服の描写は︑これら異国情緒の創作にモデルを示したのである︒さらに重要なのは︑黄遵憲の視野がより大きなディアスポラ華人世界に及んでいることである︒これら現地に根を下ろした土着の華人は︑英語やマレー語に精通しており︑商人であれ職人であれ︑植民地における身分は低くなく︑華人移民史の実情を表し ている︒それは清の使節のお高くとまった猟奇的な視点によるものではなく︑ひとつの核心的なテーマを投げかけている︒「
近来出洋するもの衆 おおく︑更に水の壑 たにに赴くが如し︒南洋
数十島︑到る処
便ち插脚す︒他人の殖民地︑日び見る版図の廓 ひろきを︒華民三百万︑反って叢 くさむらの為に雀を駆 か
る
」
︵近ごろ海を渡る者たちが多く︑まるで水が溝に流れ込むかのようだ︒南洋の数十の島々は︑いたるところに足を踏み入れられている︒西洋の植民地は日に日に版図を広げている︒それとは反対に︑華人三百万はますます不利な状況におかれている︶と︒中国文学において︑海外華人の集体的形象が正式にその視野に入ったのである︒ここでの南方は経済や外交といった地理的な意味だけでなく︑人類学や社会学における文化的移動の意味をもっており︑ディアスポラの南方の叙事となっているのだ︒このため︑「
番客篇」
の深遠な意味は︑番︵異郷︶に住む華人が生きる境遇や︑南方の荒遠の地に流浪し骨を埋めた無名の移民の集団を描きだしたほか︑中西折衷の生活と習俗をもつババのコミュニティについて語っていることである︒ここでの「
番」
とは複雑な意味が付与されており︑薛福成の日記のように狭隘で偏見に満ちたものではない︒
「
番客篇」
を取り上げるときに忘れてはならないのは︑黄遵憲が使節としてサンフランシスコに滞在した時︑アメリカの排華事件に遭遇して書かれた「
逐客篇」
である︒この二つはどちらも海外華工と華人移民について描いた詩であり︑歴史叙述の意味を兼ねている︒事実︑
「
逐客篇」
も後期の補作であり︑また五言古体詩で︑使用されている言葉や修辞が「
番客篇」
と似たところがある︒二つの詩はおそらく同時期に完成したものであろう︒おもしろいのは︑「
番客篇」
は南洋の移民史についての観察を︑「
逐客篇」
は太平洋を渡った華人の姿を描いていることだ︒黄遵憲は尊くも使節でありながら︑その視点には外在の環境に対する敏感さと深い観察力があらわれているのである︒ただし黄遵憲自身は結局のところ彼の描くディアスポラ華人ではなく︑移民自身の存在感については︑やはり民間詩人の自己叙述にかかっていた︒ この時期︑シンガポールの雑誌や新聞に散見する民間詩人の蕭雅堂 ﹀18︿は︑一八九九年に
「
番客婦 ﹀19︿吟
」
という五言古体詩五首を創作している︒創作時期はおそらく黄遵憲が戊戌の年︵一八九八年︶に帰郷した後に補作した「
番客篇」
と同じ頃であろうが︑二人がお互いの作品を読んだことがあるかどうかは証明できない︒「
番客篇」
が使節詩人によってババの婚礼を通して明らかにされたディアスポラ華人史の一頁であったなら︑「
番客婦吟」
は異民族との婚姻に思い悩む夫の独白に焦点を当てている︒五首で構成される「
番客婦吟」
が強調するのは以下のようなものである︒海外で発展し蓄財する「
番客」
は︑玉の輿を願う故郷の女性 を魅了した︒しかし番客は遠く海を越えて何年も帰らず︑異郷でほかに嫁を娶り︑故郷の妻は怨婦となったのである︒連なりあう五重の悲吟は平易で直接的な表現であり︑芸術的な完成度はもちろん「
番客篇」
と比べものにならない︒しかし竹枝詞︹その土地の風俗・人情を民謡風に詠じたもの︺の特色のある作品であり︑現地の雑誌や新聞に散見する民間詩篇としての意義を備えている︒蕭雅堂は厦門から南下した後︑インドネシア各地を漫遊し︑後にシンガポールに逗留して私塾教師を務めており︑この期間中国と南洋の両地を往来している︒蕭雅堂は典型的な流寓者とみなしてよく︑番客が故郷にあって財産を持っていたが︑外国に長く滞在して零落し︑その寂しさの中でほかに嫁を娶るのは︑様々な華人移民の境遇に重なる︒蕭雅堂はこのテーマに着目し︑現実を投影したほか︑自身の肖像を描いたのである︒ディアスポラ自身の手による閨怨詩は︑憂いを抱えた妻の哀怨を繰り返し語り︑また夫の国内外を往来する生活経験について多く言及している︒詩には南下した華人が生活に奔走する︑いかんともしがたい現実が数多く表現されている︒「
床頭金尽きんと欲し︑謀生も又た逼迫す︑新婚の席
未だ暖まらざるに︑婦と別れて番舶に下る
」
︵有り金が尽き︑生活も逼迫して︑結婚して間もないというのに妻と別れて南洋へ下る船に乗る︶と︒もちろん出国がもたらす無限の閨怨も繰り返し語られており︑「
君今異
国へ適 ゆくに︑妾自 おのずから涙
腮 あごに盈 みつ︒古諺に云う
番に去れば︑十たび去りて九たび回らずと︒人前敢えて泣かずして︑強いて笑言を作して陪 したがう
」
︵あなたが今異国へ行ってしまおうとし︑私は頬を涙だらけにしている︒古諺が言うには︑異国へ行けば十人行って九人が帰らない︑と︒人前では泣けず︑無理やり笑い話をしてすごしている︶という︒さらに残酷な現実が次のように述べられている︒「
聞 きく道 ならく番婆を娶ると︑私心
疑猜を費やす︒郎の心
薄幸と雖も︑且つ膝前の孩 こを撫づ
」
︵異国の妻を娶ったと聞き︑私の心は猜疑心に苛まれている︒あなたの心が薄情でも︑膝下の子供を慈しむ︶と︒ここにおいて︑番客は薄情な男の形象を背負わされている︒「
屢 しばしば約して家に回らず︑望夫石に上るを怕 おそれる」
︵何度も約束したのに帰ってこず︑このままでは望夫石︹貞婦が出征する夫を見送った後︑化したと伝わる石︺になってしまう︶︑「
縦 たとい帰来する日あるも︑会合は時多からず︒依然として出洋して去り︑悠悠として期定まらず
」
︵たとえ帰って来ても︑一緒に過ごす時間は長くはない︒また海に出ていき︑いつ帰るか分からない︶と︒怨婦は結局︑棄婦︵捨てられた妻︶となり︑次のように言う︒「
薄命にして姑嫜を失い︑帰寧して父母に依る︒父母相継いて亡くし︑良人況んや辜負す︒妾をして情為し難く︑万事独り消受せしむ︒螟蛉亦た子有りて︑鴛鴦
字偶を成す︒遠く郎を尋ねんと思量するも︑書来たり て道う
曰く否と︒歳歳
妾の期するを誤り︑春秋の久しきを覚えず
」
︵不運にも舅姑を亡くし︑実家へ帰って父母に従う︒父母も相次いで亡くなり︑いわんや夫に背かれた︒そのせいで私は恥ずかしい思いをし︑万事一人で耐え忍んでいる︒螟蛉であっても子を産み︑鴛鴦でさえ対になっているというのに︒遠く南洋へ夫を訪ねていこうと考えたけれど︑夫から手紙が来てだめだという︒毎年毎年私の期待は裏切られ︑どれほどの歳月がたったのかも分からない︶と︒「
番客婦吟」
の写実は︑移民集団の生活の境遇を補足しており︑番客の二つの故郷に対するコンプレックスを描いているのである︒こうしたことから︑次に引用した蕭雅堂「
有懐」
の深い抒情の余韻は︑南洋華人の精神構造の複雑さを改めて考えさせられる︒ 異郷の花草故園の春︑帰去来の時
只だ此の身のみ︒安んぞ得ん
多情なること明月の似 ごとく︑夜来
両辺の人を長 とこし
えに照らすを︒故郷の消息
梅花に問う︑客を以て家を為し又た家を憶 おもう︒即 たと使い家に帰すとも翻 かえって客に似たり︑去来
処として天涯ならざるは無 ﹀20
︿し︒︵異郷の花草と故郷の春︑帰ろうとするもこの身は一つだけ︒なんとか明月のような多情者となって︑夜には郷里の女人とこちらの女人の両方をともに照らしたいものだ︒故郷の消息が気がかりで梅の花に問うてみ
る︑よそ者の身で家庭をなし︑その一方で故郷の家を思う︒たとえ故郷に帰ったとしても︑すでによそ者のようなものであり︑どこへ行っても安住の地はないのだ︶
「
安んぞ得ん多情なること明月の似く︑夜来
両辺の人を長えに照らすを
」
には︑ディアスポラのやむを得ない苦衷があらわれており︑異郷が故郷となるのも道理になっている︒これはすでに単なる旅愁ではなく︑さらに複雑な場所の感覚︵sence of pla ce
︶の表現である︒これは黄遵憲の「
番客篇」
が触れることのできなかった流浪の主体であり︑蕭雅堂によって南洋漢詩に補われた異郷風土のもう一つの側面なのである︒ 南海視 ビジョン域から漢詩の場所の感覚について論じるにあたって︑以上の黄遵憲と蕭雅堂の民俗採集や写実創作のほか︑自然創作は観察する価値のあるもう一つの側面である︒とりわけ楊雲史は唐詩の構成によって南洋の山居の生活を取り上げており︑この南溟風土のある種の詩学策略については注目させられる︒楊雲史には「
西渓行」
という詩があり︑これは王維「
桃源行」
を模倣したものであるが︑「
桃源郷」
のイメージによって︑自分がマレー半島のジョホール州の奥深い山や大きな沢を遊歴し︑華人農民に出会ったことを描いている︒ 争いて問う中原今何れの世なるかと︑乍 たちまち戦伐を聞きて長嗟を共にす︒此の間歳月
前朝の歴︑治乱
幾たび更易するかを知らず︒自ら言う
世を避け人 じん寰 かんを隔て︑海上の田園
消息無し︒世外に相逢せし両つの無心︑何 いかん如
此れ従り雲林に宿するを︒⁝⁝先人世世
農父為り︑山中の子孫
今無数なり︒外辺呼びて武陵渓と作すも︑居人
桃源の路を識らず︒客を送りて情を含み後期を問う︑重ねて来るに自ら津渡に迷う莫かれと︒平明
日出でて山村を照らし︑門を開ければ地に満つ榕花の雨︒︵五四
−五五頁︶
︵︹その華人は︺現在の中国の状況を次から次へと尋ね︑戦乱のことを聞いて共に長い溜息をついて嘆いた︒これまでずっと前朝の暦を使っており︑この間にどれだけの王朝が興亡したのかも知らない︒私が尋ねたことには︑俗世間から離れたこの海に面した田園にあっては何の知らせも届かない︒私たち二人は偶然この俗世間外の世界で出会ったわけだが︑どうしてこのような密林に身を置いているのか︑と︒⁝⁝︹華人が答えるに︺祖先は皆農民であり︑この山中には子孫がすでに無数にいるのだ︑と︒外の世界ではここを
「
武陵渓」
と呼んでいるが︑住人は桃源への道を知らないのである︒彼は私を送り届け︑情をこめていつまた会えるかを尋ね︑その時に渡し場で迷わないようにと言う︒夜明けに日が出て山村を照らしており︑門を開けるとガジュマルの花が雨のように散って地を満たしていた︶
楊雲史が華人の南下に対して生みだしたロマンチックな想像とは︑あきらかに寓言的な自然景観である︒この詩は︑災害を避けて移動し︑その地に定住して何代も続いたことを描きだしており︑その一句一句がディアスポラ華人の世襲の生活状況と符合している︒しかし
「
津渡に迷う」
や「
榕花の雨」
は桃花源の情緒に収束しており︑伝統的な美学のもとの風土に立ち返っている︒ディアスポラ華人は山林の農夫に縮小され︑楊雲史は桃源に迷い込んで幽玄や奇を探索する武陵の人となっている︒このような幻想的な詩学の操作は︑華人移民社会を審美の対象に昇華しており︑「
南溟を哀れむ」
における「
残棋を数著するに猶お未だ了えざるも︑風生まれ日落ちて更に人無し」
︵盤面の動かぬ碁石をみつめながら︑なお決着をつけられないでいるが︑風が吹いて日が落ち︑人 ひと気 けもなくなっている︶といった落莫や心痛を排除している︒言い換えれば︑桃源の旧詩学系 システム統によって南溟という地理的境域の移民集団を新たに定義づけようと試みており︑その風土は詩の言語の適応と順化のプロセスにおいて︑「
居人桃源の路を識ら
」
ぬ︑蒼然たる世俗を離れた世界︑悠然と忘れられた自然風景を確 立したのである︒「
桃花源」
が楊雲史による南洋の地表を覆う詩学の想像だとしよう︒蕭雅堂には山野の農村を対象とする詩で︑同じように桃花源の典故を用いた作品がある︒しかしここでは︑桃花源は農村の実景のアイロニーになっており︑南洋における荒地の開墾の現実はロマンチックというべきものはなく︑ただただ過酷な政治や無常の世︑世間の薄情につきる︒ 郭を繞 めぐりて樹扶 ふそ疏たり︑江に臨みて亦た廬を結ぶ︒園有るも偏 ひとえに菜少なく︑水に近くして恰も魚多し︒地瘦せて人何をか業 なりわいとするや︑家貧しきも子は読書す︒桃源の風景遠くして︑誤りて武陵漁と作す︒︵城郭を巡って樹が生い茂り︑川に面して庵を構えた︒畑地はあるものの思いのほか作物はとれず︑川にちかいのでちょうど魚がたくさんとれる︒土地はやせており何を仕事にすればよいのか︑家は貧しくとも子には読書をさせる︒ここは桃源郷とはかけ離れた暮らしで︑私は間違って「
武陵の漁人」
となってしまったようだ︶僻壤
荒境を成し︑山隈
復た水涯︒野
平らかにして
田に種うる有り︑林
密にして樹は花の如し︒活計して工
みなるは女為り︑生繁して客は是れ家す︒此の郷
古意多くして︑門巷
寂しく嘩 か無し︒︵辺境にあって荒れ果てた風景をしており︑山隈は海にせまっている︒野には平らかな田畑が広がり作物が植えられており︑林には密に樹が生い茂って花のようである︒うまく生計をたてて女たちは針や機の仕事をし︑後代がたくさん生まれ︑よそ者だった者がしだいにここを故郷とするようになった︒この地はいにしえの趣が多く︑門港はひっそりと人声がない︶
四隣
遠近に分かれ︑一郭
東自 より西す︒椰
瘦せて天に参じて直し︑蕉
高くして屋に及びて斉 ひとし︒籬を隔てて尨 むくいぬ也 また吠え︑樹を穿ちて鳥頻りに啼く︒尽日橋路を横ぎり︑輪と蹄とを銷磨す︒︵四方の家々が遠近に隣り合っており︑城郭が東から西へと続いている︒ヤシの木は細く真っ直ぐに天高くそびえ︑バショウの木は屋根の高さと同じくらいまで伸びている︒垣根を隔ててムクイヌが吠え︑樹をつついて鳥がしきりに鳴いているのが聞こえる︒一日じゅう橋の上の道では往来があり︑車輪や蹄をすり減らしている︶
此の間
楽土に非ずして︑寥落として自ら村を成す︒煙 火
千家共にし︑青黄
四野に繁る︒政苛 きびしく斯の地苦しみ︑俗は樸にして古風存す︒尽く道 いう
滄桑の変︑澆 ぎょうり漓は論ずるに足り ﹀21
︿ず︒︵ここは決して楽園ではなく︑零落したところで自然に村を形成したのである︒多くの家が共に生活をしており︑色とりどりの植物が四方の原野に繁っている︒苛酷な政治によって苦しめられているが︑素朴で古い趣を残している︒世の中の移り変わりが激しいということはすでに言いつくされており︑この世の薄情は言うまでもない︶
楊雲史と蕭雅堂の
「
自然」
創作からは︑詩と自然の対応/離合によって︑地理的境域に境界線を引く想像から解き放たれたことがわかる︒その境域はもはや外交と権力の空間ではなく︑感覚や情緒︑生活様式︑文字記号の配列や転換を指し示している︒このため自然は南溟の境域にはめ込まれた一部分として︑「
西渓行」
と「
森村」
は対照をなしているのであり︑ここから異なる詩学の方向をもつ南洋漢詩の景観︑そして異なる場所の感覚を備えたモデルを見いだすことができる︒詩人の重なり合い流動する場所の感覚は︑詩の言語が相互に交錯する網の目のなかで︑南洋のディアスポラ漢詩体系を構築したのである︒原注︿
︿ 社︑二〇〇九年︒ 二〇〇四年︒王暁平
『
亜洲漢文学』
天津天津人民出版 厳明『
東亜漢詩的詩学構架与時空景観』
台北聖環図書︑1
﹀厳明『
東亜漢詩史論』
台北聖環図書︑二〇一一年︒︿ 研究中心︑二〇〇三年︒
2
﹀陳佳栄『
隋前南海交通史料研究』
香港香港大学亜洲︿ を改めて論じる予定である︒
3
﹀太平洋ルートがもたらした漢詩の実践については︑稿︿ 域
』
北京中華書局︑二〇一一年︒ 二〇〇九年︒復旦大学文史研究院編『
世界史中的東亜海『
明清時代東亜海域的文化交流』
南京江蘇人民出版社︑ 北商務印書館︑二〇〇二年︶︒松浦章著︑鄭潔西ほか訳 耿・唐家龍訳『
地中海史││集体的命運和総的趨勢』
︵台Fer nand Br audel 4
﹀フェルナン・ブローデル︵︶著︑曽培︿ 下︑出典については省略し︑詩題と頁数だけを示す︒ 憲の詩篇については︑基本的にこの版本から引用する︒以 海上海古籍出版社︑一九九九年︑四二二頁︒本論は黄遵
5
﹀黄遵憲著︑銭仲聯箋注「
小女」『
人境廬詩草箋注』
上 るを」
を用いている︒注︿6
﹀ここでは︑蘇軾の詩句「
臥して聞く風幔に伊威落ちている︒黄遵憲の詩の首聯の
「
簾幕深く蔵して未だ扉を男の名︺儋守の召に赴く︑獨坐感有り
」
の境地と呼応し たんしゅ 照︒その実︑詩全体が蘇軾の詩「
上元の夜︑過︹蘇軾の三 か5
﹀で挙げた文献の注釈6
を参 ︿る何ぞ妨げん独り扉を掩うを
」
の表現を用いている︒ 掩わず」
は︑上記の蘇軾の詩における首聯の一句「
舎を守歴史
」
︵『
南方文壇』
二〇〇九年六月︑一二 ている︒田暁菲「
隠約一坡青果講方言││現代漢詩的另類 の末句に対する解釈については︑筆者は異なる意見を持っ7
﹀田暁菲はこの詩に対して優れた分析をしているが︑詩︿ −二〇頁︶を参照︒
〇一〇年︑九六 境廬内││黄遵憲其人其詩考
』
上海上海古籍出版社︑二Jerr y D . S chmidt , 8
﹀施吉瑞︵カナダ︶著︑孫若丹訳『
人−九八頁︒
︿
︿ 省略し︑詩題と頁数だけを示す︒ ついては︑この版本から引用する︒以下︑出典については 海上海古籍出版社︑二〇〇三年︒本論は楊雲史の詩文に