序
本稿は,1927 年 1 月 3 日から 5 日にかけて 生じた漢口租界強制接収事件をきっかけに取 り組まれることになったイギリス租界返還政 策について考察する。
事件直前の 1926 年 12 月 26 日,イギリスは 対華新政策Ȉ12 月覚書ȉを公表した。新政 策は,1925 年の 5・30 事件をきっかけとして 激化する反英運動を中心とした中国ナショナ リズムに対する宥和を目的とし,中央政府が 瓦解し内乱状態にあるにも関わらず,イギリ スが中国に対して地方勢力と条約改正へ向け た交渉を行うとし,さらに列強諸国に協調を 呼びかけるものだった。そして,まずは関税 自主権の承認へ向けての暫定的措置として通 常 品 2.5 % の 暫 定 税 率 の 付 加( ワ シ ン ト ン 附加税)を無条件に承認した(1)。また,イギ リ ス は 同 時 に, 条 約 手 直 し 計 画(treaty alteration programme)を構想し,治外法権 問題,租界返還についても具体的に検討し始 めることになる。だが,まさにその時,北伐 を展開する国民政府による漢口租界強制接収 事件が勃発した。これを受けて,イギリスは その条約手直しプログラムを,まずは租界行 政返還から着手するのだった。
1927 年の漢口租界接収事件ならびに同事
件の結果結ばれた漢口租界合意(陳・オマリー 協定)そのものについては,すでに多くの研 究で,英中間の外交交渉過程を中心に検討さ れている(2)。だが,同事件をきっかけに着手 された長期的なイギリスの租界返還政策につ いては,さらなる考察の余地があると考えら れる。本稿では,それをイギリスの条約手直 し計画(treaty alteration programme)を基 軸として考察し,その租界返還政策構想を明 らかにしていく。
1. 条約手直し計画(treaty alteration programme)
1926 年 12 月 26 日,イギリスの対華新政策
Ȉ12 月覚書ȉの単独公表後,イギリスは中国
における条約関係全般に関するȈ調整ȉを計 画する。プラット極東部顧問は,1927 年 1 月 6 日付けでイギリスの中国における条約関係 全般に関する覚書を作成し,その中で,条約 手直し計画(treaty alteration programme)を示す。この覚書におけるプログラムは,主 に治外法権の段階的撤廃に関するものであ るが,より重要なのは,ここでプラットが treaty alteration(条約手直し)と示している ことである(3)。E. Fung が指摘しているよう に,この時期,イギリスは treaty alteration
イギリスの条約手直し計画(treaty alteration programme)と租界返還政策 1927
古 瀬 啓 之
という言葉を,treaty revision(条約改正)
とは明確に区別して使用している。E. Fung によれば,treaty alteration とは,条約改正
(treaty revision)を必要とせず,中国におけ るイギリス貿易にとって重要でないと思われ る権利や特権を一方的に取り下げる政策を意 味していた。つまり,イギリスは,中国にお ける権利には,他の列強諸国と条約上の交渉 や協議なしに,イギリス当局のみによって直 ちに交渉できるものがあると考えた(4)。その 内容は,1 月 27 日にイギリス政府が公表した 条約改正プログラムに記され,その一つが租 界行政に関するものだった。当該プログラム については後に論じる。
だが,イギリスが,12 月覚書に基づき,上 記のような条約手直し計画(treaty alteration programme)に着手しようとしたその時に,
漢口での租界強制接収事件が勃発した。ここ で事件の経緯について先行研究に依拠して見 ていこう。
1927 年 1 月 3 日午後,漢口税関前のイギリ ス租界との境界地帯で,国民政府中央軍政学 校の宣伝隊が排英演説を行っていた際に,英 兵との衝突が生じた。これにより,3 名の英 兵,5 名の中国人が負傷した。怒った中国人 群衆はイギリス租界内へ進入し始めた。4 日 朝,イギリスは兵力不足と判断し,海軍陸戦 隊,租界警察を自主的に撤退させ,租界内の 治安維持を中国当局に一任した。同日昼,こ れを受けて,漢口イギリス租界は,約 300 名 の中国側軍隊と 200 名の総工会糾察隊が,イ ギリス租界警察に代わり治安維持を担い,結 果的に中国側が租界を支配するに至った。1 月 4 日から 5 日にかけて,中国人の群衆がな だれ込み工部局などの建築物を占拠し,5 日
には,国民政府は,租界内の行政を担う漢口 イギリス租界臨時管理委員会を一方的に設置 した。これによりイギリス漢口租界の強制接 収という既成事実が成立した(5)。
ナショナリズム運動を背景とした民衆よる 突発的な行動が租界強制回収という結果をも たらすことになった。国民政府としては,こ のような異例な形での租界回収を国際的に承 認させるためにイギリスとの外交交渉が必要 となった(6)。
事件は,イギリス政府に衝撃を与えた。12 月覚書を公表し,中国ナショナリズムの軟化 を期待したオースティン・チェンバレン外務 大臣は,漢口租界接収は大きなショックであ り,租界返還はいずれ行われるにしても現段 階でその準備は全くできていない(7),として この結果に失望した。イギリス世論の反応は 様々であった。最も強硬だったのは,在華イ ギリス人たちや保守党系新聞であり,一方,
ロンドンのガーディアン紙は今回の対応が排 英運動激化を防いだとして英租界警察の自主 的撤退を理性的判断と評価した。イギリス政 府は,中国による租界接収という既成事実が 出来上がってしまったということから,武力 によりそれを取り返すことは不可能と判断 し,本件を外交交渉によって解決する方針と するに至った(8)。
上記のような漢口租界強制接収事件によ り,イギリスの条約手直しプログラム(treaty alteration programme)は,まず租界問題に ついて取り組む事になった(9)。喫緊の課題は,
事件勃発直後の漢口租界の外交的解決であっ たが,イギリス外務省は,同時に中国におけ る全租界返還についても具体的な検討を始め た。では,イギリスは,中国におけるイギリ
ス租界についてどのような考えを有していた のだろうか。
2.イギリスの租界認識
イギリス外務省極東部顧問のジョン・プ ラットは,租界について次のように言う。
まず,条約港に設置された租界には,イギ リス政府と中国政府間で結ばれた一定区域の 賃借契約によるコンセッション(concession)
と,現地の中国人とイギリス人の間で賃借契 約を結ぶ形でのセツルメント(settlement)
が存在する。条約港におけるイギリス居留民 の権利は,コンセッションであろうともセツ ルメントで有ろうともほとんど同じである。
これらの権利は 1859 年の天津条約に由来す る。イギリス人は,条約港における租界の内 外に居住しているが,租界の中と外での違い は,中国警察が租界内では行動できないこと,
租界内ではイギリス人ならびに外国人には中 国軍を排除する権利がある点である。だが実 際のところイギリス臣民は,租界,あるいは 条約港における租界外地域にも居住してい る。生活環境面で租界内外には差があり,租 界地域は下水設備や警察が充実しており,そ して良い道路が敷設され,公衆衛生のレベル が高い(10)。プラットは,租界内外の差につ いてこのように述べる。
そして,プラットは次のように言う。
Ȉ初期の段階では,これはかなり大きな
差であった。しかし,近年,中国人は都 市行政の面で著しい進歩があり,実行力 のある警察,優れた道路,電灯といった 文明的な生活には欠かせない全てを備えるようになった。それは租界のない条約 港だけではなく,例えば漢口や天津のよ うな港では租界の外側の地域で中国人自 身が近代的な方法で開発しており,また 内陸の都市でも同様であるȉ(11)
1927 年に至り,中国では外国人居住区で ある租界とその隣接地域において,行政シス テム,社会インフラなどで近代化が進み,以 前ほどの差が無くなっていると評価してい る。特に,天津や漢口ではその発展が顕著で あるという。
そして,
Ȉもちろん租界といっても様々で
あり,鎮江のように全く有用でないものもあ れば,漢口や天津租界のように繁栄し優れた 行政能力のある自治を有するところもあるȉ とし,租界にはそれぞれ,近代化,発展にお ける差があることを指摘する。だがプラット は,Ȉ間違いなく,今日において租界は時代
遅れであるȉ(12)という。イギリスならびに外 国人が租界を維持するその理由は,中国当局 によって外国人の生命,財産,権利が十分に 守られず,いわゆるȈ文明的な生活ȉが享受 できないという状況が存することにあった。だが,現在,租界外の地域において,都市行 政の面で著しい進歩があり,
Ȉ文明的な生活ȉ
には不可欠なものを備えた都市が出現してお り,さらに中国人自身が租界行政の返還を要 求するようになり,租界の存在は必ずしも自 明では無くなったということだった。その上 で,プラットは次のように言う。Ȉもし中国人がこれらの地域における行
政と警察の責務を占有したいと望むのな ら,それが全ての人にとってなお一層良いことなのである。
ȉ
(13)つまり,租界内における行政権と警察権を 中国に渡すことを認めるべき時期にきている ということであった。ここに租界返還につい て,その実現の可能性をイギリスが見ていた ことがうかがえよう。そして,さらに重要な のは,租界返還が実際に可能かどうかの判断 基準が,租界内と租界外地域における近代化,
都市行政の発展の差の大小に置かれている点 である。
一方,最も巨大な租界であった上海租界に ついては次のように言う。
Ȉ上記の見解は上海には適用できない。
上海共同租界は巨大都市である。3 万人 の外国人と 1 万 5 千人の中国人がいる。
それは上海の近隣都市を矮小化する。あ まりに大きな差がある。上海共同租界は あまりに大きすぎるため中国行政に移譲 することはできない。上海市の年間予算 はほとんどの地方のそれよりも巨大なの である。
ȉ
(14)上海共同租界は,あまりに大規模であり,
それゆえ周辺地域との発展,規模の差が有り すぎ,中国当局にその行政を移譲することは 不可能ということであった。ここでも,周辺 地域との発展の差が租界行政返還の可否につ いての判断基準となっているのである。イギ リスが上海共同租界の返還に消極的であった 理由としては,これまでイギリスの中国にお ける権益が上海共同租界に集中していたこと が挙げられてきたが,租界内外地域間におけ る発展の差異の大小という判断基準について
は,あまり指摘されてこなかったところであ る。イギリスの対中国租界政策においては,
この点を理解することが重要である。
こうした租界に関する認識のもと,租界返 還政策の具体化を進めるのであった。それは,
まず,1 月 27 日に中国側に向けて公表された イギリス政府による条約上の権利手直し計画
(treaty alteration programme)の中に表さ れる。その計画は,以下の 7 つの項目につい て示している。
順に見ていくと,1,イギリス人原告によ る訴訟に対して近代中国法廷(the modern Chinese law courts)を法的権限のある法廷 として承認し,そのような訴訟の審理にイギ リス人代表者が出席する権利を撤回する用意 のあること,2,イギリス政府は,合理的な 中国国家法の効力を承認する準備のあるこ と,3,イギリス政府は,中国におけるイギ リス法廷において,実効的である限り,近代 的な中国民法,商法を適用する準備があるこ と,4,イギリス政府は,実効的であるかぎ りにおいて,中国にいるイギリス臣民に対し て,中国全土において中国市民に課せられ支 払われている均等かつ合法な中国税の支払い を義務づける用意があること,5,イギリス 政府は,改正された中国刑法が公布され,中 国法廷で適用されればすぐに中国におけるイ ギリス法廷でその適用を考慮する準備がある こと,6,イギリス政府は,イギリス租界の 都市行政の変更に向けて,各々の港に関する 独特な事情を鑑みながら,議論や準備の用意 があること,7,イギリス政府は,イギリス 人宣教師たちが,もはや内地での土地購入の 権利を主張すべきでないという原則を受け入 れる用意のあること(15)。
1,2,3,5 は,治外法権に関する見直し についてであり,4 は,税についての見直し,
7 は,宣教師の活動の制限であり,そして,
6 が租界行政権の変更についてである。全体 に,条約権利関係の調整,部分的見直しが提 案されている。租界に関しては,先のプラッ トの覚書に示された線で,各租界の事情に合 わせた形での行政権における変更が提案され ている。
当該文書は,1 月 28 日国民政府と北京政府 に同時に送られ,それぞれの政府と交渉する 考えをイギリスは示したのだった。
さて,先に示したように,1 月 5 日には,
漢口において,中国国民政府による租界強制 接収事件が勃発した。事件を受け,イギリス は,上記のような租界返還政策に基づき,ま ずは漢口の租界について中国側とその条約手 直し計画(treaty alteration programme)を 実行することになる。その結果の一つとして 挙げられるのが,陳・オマリー協定,漢口合 意である。
3.漢口合意について
まずここで漢口合意形成の経緯について見 ていく。漢口イギリス租界強制接収事件なら びに漢口合意の経緯については,既に優れた 研究があるため,ここでは先行研究に依拠し て説明したい(16)。
先述のように,漢口イギリス租界接収事件 が 1 月 3 日から 5 日にかけて勃発した後,1 月 12 日,オマリーイギリス公使館参事官と陳 友仁国民政府外交部長の間で交渉が開始され た。17 日,陳友仁は,旧ロシア,ドイツ租 界に倣ってイギリス租界を特別区とした上で
中国に返還する案をイギリス側に通達した。
ランプソン駐華公使は同案に反対し,武力に よる漢口租界奪回を模索したが,イギリス政 府は,陳による案を受け入れるようランプソ ン駐華公使に訓令し,漢口イギリス租界を特 別区として中国に返還する方針を承認した。
21 日からは,同方針について具体的な協議 に入った(17)。
だが,同時に 1 月 17 日から 22 日に,イギ リス政府は,国民革命軍が迫る上海共同租界 の居留民保護を目的としてイギリス軍の派兵 を実施した。イギリスは,漢口での事件を,
イギリス権益の集中する上海では繰り返さな いという強い意志を示した(18)。
1 月 17 日,イギリスの閣議は上海派兵を承 認した。イギリスは 2 月初旬に上海租界を攻 撃するとの情報により,さらなる増兵が必要 とし,1 月 20 日,日本に対してイギリスと共 同で陸軍を追加派兵することを要請した。だ が,幣原外相は,上海租界防衛には現在の兵 力で十分であり,陸軍の上陸は中国における 重大な悪影響をもたらすとしてこれに応じな かった。上海防衛について,イギリスは日米 との協調を求めたが,思うような協力が得ら れず1月24日に陸軍の単独派兵を発表した(19)。 イギリスの上海へ向けた派兵,増派は,中 国国内世論の大きな反発を招いた。これによ り漢口租界に関する外交交渉はより難しく なっていった。イギリス軍の存在は,国民政 府との交渉において威嚇となると考えられた ためである(20)。
1 月 24 日,陳友仁外交部長は,イギリスの 上海出兵に対して公式に抗議した。これに対 して,イギリスは,上海出兵の目的は飽くま で居留民保護のためであるとした。そして
12 月覚書で示された条約改正政策を依然堅 持しているとして,1 月 27 日に先の条約手直 し 計 画(treaty revision programme) を 提 示した。陳友仁は,概ね賛同したが,条約改 正について国民政府のみを交渉相手とするこ と,イギリス軍の威嚇のもとで交渉を行わな いことを条件とした。だが,イギリスは,こ のプログラムを北京政府にも提案し,北京政 府との間で天津租界の返還について交渉を始 めた。これは陳友仁外交部長の態度を硬化さ せ,漢口合意の調印は遅れることになった。
そして 2 月 1 日陳は交渉決裂宣言を出した。
その後,2 月 10 日にオースティン・チェンバ レン外相は下院で演説を行い,派兵は飽くま で居留民保護のためであることと,派兵につ いて譲歩の姿勢を示したため,陳友仁は態度 を軟化させ,その結果,2 月 19 日に陳・オマ リー協定,つまり漢口合意が調印されるにい たった(21)。以上が漢口合意締結の経緯である。
この漢口合意については,イギリス国内か らは譲歩しすぎとの批判もあった。イギリス 外務省は,こうした声に反論する形で漢口合 意についての覚書を作成している(22)。ここ には,イギリス政府の租界返還政策について の認識がまとまった形で示されている。次に,
この覚書の内容を考察し,それを通してイギ リスの租界政策についてさらに見ていこう。
イギリス外務省によれば,中国における租 界返還を含めた権利,特権の見直しについて は 12 月覚書公表後,漢口租界接収事件前に すでに始まっていた。そして次のように言う。
Ȉ12 月覚書によって取り組まれる政策の
主要な目的は,過去から引きつがれた多 くの危険な時代遅れのものを中英関係から取り除くことであり,各々のケースに おいて適切な対策を,手遅れにならない ように講じて,それにより惨事を避ける ことであるȉ(23)
すでにȈ時代遅れȉになった権利,特権を 見直すことにより中英間の衝突を避け,イギリ スが中国において発展させてきた近代的なシ ステムを守ろうとした。その後,漢口九江接 収事件が勃発したため,
Ȉイギリスの条約手直
しプログラム(treaty alteration programme)の主要な項目の一つは,必然的にイギリス租 界の地位にかんするものとなったȉ。ここに及 び,
Ȉ租界地域からの中国主権の排除の継続は,
もはや正当化することはできない。そしてそれ が終局的に中国人による統治に移される計画 を考案したいȉ(24)と言い,租界行政の中国返還 を構想していたという。
では,それは具体的にどのように行われるの か。イギリス外務省は,
Ȉこれから取るべき方
針は,それぞれの租界の環境により様々ȉで あり,租界毎にそれぞれの事情に合った形で 返還政策が行われなくてはならないという(25)。 イギリスは,厦門,鎮江,九江をȈ有用で はない租界ȉとして直ちに廃止すべきとし,他方,
Ȉ上海共同租界の規模はその対極に位
置するため,中国人による統治は,ただゆっ くりと慎重に認められるのみȉという。上海 租界は巨大であり,また国際共同租界である ためイギリス専管租界に比べ事情がより複雑 であるとして,租界行政の即時返還は不可能 と判断した。そして,これら両極の中間に位 置するのが,天津のような都市であるとして,天津租界行政は,中国への返還が可能と考え られた。イギリス外務省は,その理由を,天
津市では,天津当局が高いレベルで都市行政 を行っているためであり,その統治は安定し ており,イギリス人の死活的利益を脅かす事 は無いという。租界内外の都市行政レベルの ギャップの大小が返還の基準となっている。
そして,ドイツとロシアの旧天津租界は,第 一次世界大戦後,中国人に明け渡され,中国 当局によって統治されている(26)。上記のよ うに,イギリス外務省は租界について返還可 能性の観点から三つの区分けをした。
その上で,イギリス外務省は,漢口租界に ついての返還を探り,漢口は,天津とは次の 点で異なると指摘する。漢口の旧ドイツ,旧 ロシア租界には,独,露の撤退後,特別区と して独自の行政機関が設置され,それぞれ租 界章程を有しており,その章程は,
Ȉ我々が
理解するところの自治政府の全ての特質を持 つȉものであり,自治組織である工部局への 外国人の参加が定められているものである。イギリス外務省は,漢口の租界行政の返還に あたって
Ȉイギリスの政策が目的とすべきは,
イギリス租界の政体を,旧ドイツ,旧ロシア 租界と有効に同化するȉことであり,それは
Ȉこれらの領域との終局的な融合,さらに漢
口の全外国人領域の可能な限りの結合ȉへ向 けられるものとなる,という。また,このプ ランは,1 月 3 日から 5 日にかけて漢口租界 強制接収事件が勃発したことをきっかけとし てイギリス側に現れた(27)。租界行政に住民 であるイギリス人と中国人を参加させる形で の租界行政返還政策であった。こうした租界行政返還プランについて,イ ギリス外務省は,
Ȉ現在の犠牲を,イギリス
が展望する,より大きな目的を獲得するため に為すȉものとした。もしȈ中国人が,イギリス租界行政における役割を認められるなら ば,その目的が行政の効率を改善するためも のではなく,英中関係を改善するためのもの であることは明白であるȉとした(28)。現段 階では,イギリス人による租界行政のほうが 効率的に行えるが,深刻化する英中関係の改 善のためには,長期的な視野から中国人に租 界行政の管理を任せることが必要とのことで あった。
漢口の外国人居住区は,英日仏租界と旧独 露租界,そして中国人自身に依って西洋式で 発展させられたそれ以外の地域,といった六 つの異なる領域に分けられる。この中でも旧 ドイツ,旧ロシア租界において設置された行 政特別区は,
Ȉ中国人と外国人との間の協調
の中でも,最も期待の持てる試みであるȉと し,これに倣う形での租界返還を目指した(29)。 イギリス外務省はこうした構想を抱き,中国 との漢口租界返還交渉を行った。そして,先に述べた陳とオマリーの交渉の 結果,2 月 19 日にイギリスと国民政府の間に 漢口合意が締結された。この合意のもと,漢 口イギリス租界は,漢口第三特別区とされ,
Ȉ漢口第三特別章程ȉに基づく都市行政が行
われることとなった。つまり,特別区として イギリス租界の自治行政を存続させながら も,租界行政のトップに国民政府が中国人を 任命したり,中国人スタッフを増員すること により同特別区を中国人管理下に置いた。こ のようにして漢口租界は中国に返還された。具体的には,参事会員を英中各三名ずつとし,
中国人市政局長を議長として加えて計 7 名で 租界内自治組織である参事会を構成すること が認められた。そして,漢口合意に基づき,
3 月 15 日,旧漢口イギリス租界の工部局は解
散し,漢口第三特別区市政局が特別区の行政 を行うこととなった。漢口合意においては,
上記の特別区章程は,暫定的なものであり漢 口における日仏両租界,ならびに独露の旧租 界とイギリス特別区の五区が合併され,中国 側に漢口外国租界全体が返還されるまで有効 とした(30)。
さて,ここでȈ漢口第三特別区章程ȉにお いて定められた行政組織について,先行研究 に依拠しながらもう少し具体的に示しておこ う。
旧漢口イギリス租界を引きついだ漢口第三 特別区の行政機関は,議決機関である選挙人 総会と執行機関である市政局により構成され る。市政局は,旧イギリス租界における工部 局にあたるものである。市政局においては,
まず中国国民政府の承認を経た上で外交部長 が市政局長を任命する。市政局長は,特別区 の全ての行政事務を執行する。そして,局長 を議長とする参事会が設置される。参事会員 は総計 7 名であり,市政局長を除き中国人,
イギリス人それぞれ 3 名ずつである。参事会 は,特別区に関する全ての事項について議決 する権限を持つ。例えば,財政,警察,工務,
衛生,水道などに関することである。そして 市政局長は参事会の決議を執行する権限を持 つ。もし,参事会での決議が,中国の主権に 抵触したり,特別区章程に反するものであっ た場合には,市政局長はその執行を停止する 権限を持つ。また当該決議について中国外交 部の決済を求める事とされた(31)。概ね,特 別区内の住民の自治による行政が実施される 形にはなっているが,執行機関の上に中国政 府から任命された中国人局長が存在し,決定 権は,中国政府側にある形となっている点が
特徴であると言えよう。
次に,選挙人大会についてである。大会に は,毎年 3 月に開かれる通常総会である通年 大会,特別大会(臨時総会),第二次大会が ある。この内重要なのは通年大会であり,
1,市政局前年度会計の討議可決,2,各種税 の議決,改正,3,特別区名義の抵当存続行 為の承認,4,特別区内市政と公共衛生,そ の他の行政上の事項についての計画,決定,
5,新年度の予算案,6,参事会会員の 6 名の 選任,について決議する。選挙人の資格は,
中国人,条約締結国の人民,企業など,特別 区内に土地を所有,または永租して,毎年地 税として 25 両以上納付しているか,特別区 内に居住し毎年家屋税 25 両以上を納付して いることを要件とする。
そして,選挙人大会においては,原則過半 数以上の賛成により決議され,当該決議は,
市政局によって執行される(32)。
このような形で,中国側に漢口イギリス租 界行政が返還されたのであった。これについ てイギリス外務省は,先の覚書において,
Ȉ上
記のように作り上げられた組織(constitution)は,中国における他のイギリス租界ではなじ みの無いものであるȉという。当該覚書によ れば,通常,
Ȉイギリス租界においては,ア
ングロ・サクソンのコミュニティに特徴的な 自由意思による公共サービスの伝統が深く根 ざしており,自治政府の最大の権力は,選挙 による議会に委譲されるȉ形をとるという。だが,
Ȉ中国人にとって,代議制は,全く相
容れない考えȉである。そのため,Ȉもし,
中国人が,租界行政において真の発言権を得 たいのならば,直接中国政府から由来する中 国の公式の権威を通してのみ可能となるȉの
で中央政府の存在しない中国におけるイギリ スの租界返還方針について確認しておこう。
イギリスは,租界返還方針について,次の ように言う。
Ȉイギリス租界に関して,イギリス政府
は各々のケースにしたがって,地方的な 取り決めを為す用意がある。ȉ
34)(下線は 筆者による)Ȉイギリス政府は,それぞれの港に関す
る特定の事情を勘案しながら,イギリス 租界の都市行政の修正に向けて議論し,協定締結に着手する準備がある。旧租界 に設置された特別中国行政(特別区―筆 者加筆)と同様のものにする形式や,現 在は中国当局の統治下にある旧租界への 合併のようなものや,租界地域の警察権 を中国当局に明け渡す方法などを考えて いる。
ȉ
(35)イギリスは,中国に 6 つあるイギリス租界 行政について,それぞれの状況に即した方法 による変更を行うとしている。それは,漢口 のような特別区の設置,あるいは既に中国統 治下にある旧独露租界地域との合併,または 警察権を中国へ返還する方法であった。そし て重要なのは,
Ȉ地方的な取り決めȉを為す
ということである。つまり,イギリスは,租 界行政の変更について,国家間の交渉ではな く,飽くまで地方当局と交渉するという形を とったのであった。この時期,中国は,中央 政府が存在せず,国民政府が北伐によりその 勢力を伸ばしていた。イギリスは,この時点 では中国においてどの勢力も公式の政府とし であり,中国国民政府が任命する市政局長を租界行政機関のトップに置く形となったので ある。12 月覚書で記された,中国人に条約,
権利,行政の権限を可能なものから返還する というȈ約束を履行するために,我々は,中 国人に対して,二つの対極的な考えに基づく システムの間にある妥協点を見つけることが 必要ȉであったのであり,
Ȉ漢口における旧
ドイツ租界のケースȉはそれを具現化したも のだという。そしてイギリスはそれに倣った のだった。中国当局の任命による市政局長と いうポストを作ることにより,中国人に適切 な発言権をその地域での行政において与え,その一方で,選挙人制度のあらゆる利点が維 持された,という。この妥協は,実際に有効 に働き細かい点について改善を為して,漢口 イギリス租界に適用し,漢口合意,漢口第三 特別区章程に至った(33)と言う。このようにイ ギリス外務省は当該合意を,12 月覚書に基づ く条約手直しプログラム(Treaty alteration programme)の実行であり,中国側の政治機 構の特徴と,住民の自由意思に基づく代議制 による自治行政の特徴を巧みに折衷して成立 したものと自己評価した。
4.天津租界交渉
漢口租界ついて,イギリスは国民政府の間 で交渉すると同時に,先述の通り,国民政府,
北京政府双方に対して 1 月 28 日に条約改正プ ログラムを提示をした。それに基づいて天津 租界返還についての協議を北京政府に打診し た。イギリスは,複数の地方政権と同時に租 界返還交渉を行ったのである。
天津租界返還について考察する前に,ここ
租界は中国に返還され,それぞれ特別第一区,
特別第二区,特別第三区として中国管理局に よって行政が担われた(39)。ただし,漢口と は異なり特別区内の住民には,自治権が認め られず,特別区管理局局長のみが当該区域を 統治する権限を持った。したがって,特別区 の住民には,納税の義務はあるが参政権はな かった(40)。こうした状況に鑑み,イギリスは,
Ȉ天津でも,漢口同様のスキームで返還が可
能かもしれないが,現段階では,天津での旧 租界の自治組織の発展が不十分であるので,改善が為されなければならないだろうし,双 方に満足いく解決に到達するにはまだ時間が かかるだろうȉ(41)と考えた。イギリスは,天 津での租界行政の返還には,漢口と同様,自 治組織の存在と発展,ならびに外国人住民の 参政権を条件とした。
先に見たように,1 月 28 日,ランプソン駐 華公使は北京政府外交部長の顧維鈞へ,条約 手 直 し プ ロ グ ラ ム ( t r e a t y a l t e r a t i o n programme)を公式に伝えた。その中で,
租界行政の変更を示していたことは先述の通 りである。ランプソンは,顧維鈞に対して
Ȉこ
れが地方的議論として扱われるのが最善であ るȉといい,それに対して顧も同意した(42)。 その後,天津租界に関する会議は,一ヶ月間 開かれなかった。顧によれば,北伐軍の上海 接近に対するイギリス上海派兵に対して北京 政府外交部が抗議し,それに対する返答を 待っていたためであったという(43)。交渉が 再開するのは,2 月 21 日であり,顧外交部長 は,その場で天津租界問題についてȈ地方的 議論ȉとすることに再び同意した(44)。これ により,北京政府との租界返還交渉は,Ȉ国
家間交渉ȉという形では無くなった。また,ては認めておらず,もし,租界行政変更を国 家間の交渉としてしまえば,その相手を中国 の公式の政府として承認することを意味する ため,それを避けるため飽くまで当該協定が
Ȉ地方的取り決めȉであることを示している
のである。
こうした方式を採るに当たりヒントとなっ たのは,1926 年の漢口旧ドイツ租界におけ る特別区設置である。エリック・タイクマン 書記官によれば,1926 年にȈ漢口旧ドイツ 租界のイギリス人と他国の住民が,納税拒否 を心理的レバーとして,そして漢口領事のサ ポートにより地方政権と交渉を行い,その結 果旧ドイツ租界にある程度類似した自治体制 を認めさせることに成功したȉ(36)という。そ の結果,1926 年 5 月漢口特別区市政局章程が 公布された。そこでは外国人参政権が認めら れ,行政委員は全 7 名で,その構成は議長を 中国人市政局長として,残りの 6 名はそれぞ れ外国人 3 名,中国人 3 名とされた(37)。そし てȈこれは,北京政府に公式に知られる事無 く完遂され,内政による妨害も無かった。そ れゆえに,この取り決めは地方的なものとさ れ,……地方的な取り決めの前例として現在 も存続しているのである。
ȉ
(38)漢口旧ドイツ 租界地域においては,1926 年に旧ドイツ租 界の自治形態をほぼ引きつぐ形の特別区が設 置され,それは中央政府との交渉を介さない 地方的交渉によって達成されたという。この 前例をイギリスは,租界返還政策のヒントと したと考えられる。では,天津イギリス租界の返還については どのように検討されたのだろうか。天津租界 においても,第一次世界戦後,敗戦国である 独墺,そして革命後大戦から撤退した露の旧
増員を行い租界行政の中国への段階的返還に 着手する形となった。
他方,天津イギリス租界地域は,大部分の土 地が英中政府間賃借契約に基づくConcession であったため,イギリス政府と土地使用契約 を結んだイギリス人との間で,その賃借関係,
権利の問題(Crown Lease)に関する調整が 必要となった。そのため,天津租界行政の改 変には約 1 年間を要する事となった。
その後,1928 年 6 月に天津が,北伐を展開 していた国民政府の支配下に入った。そして,
これに伴い同年 6 月 8 日に中国人の行政参与 の制限を撤廃する天津租界章程改正が実施さ れ(51),天津イギリス租界における行政は,
中国返還へ向けて大きく前進した。
では,当該租界章程に定められた行政組織 を見ていこう。まず,議決機関である選挙人 総会と執行機関である参事会,工部局が設置 される。しかし,漢口とは異なり,中国人の 長官は置かず,基本的には,既存の租界行政 組織を引きつぐものである。つまり,天津租 界は,直接中国当局の管理に置かれずに,基 本的にはイギリス総領事の権限による旧来の 行政組織が維持された形となる。具体的には,
天津イギリス租界においては,選挙人総会の 招集,ならびに議長は天津イギリス総領事が 担い,賛否同数の場合は議長が投票を行うと された(52)。しかし,工部局のスタッフに中 国人の採用が認められたという点が大きな変 化である。実際,租界章程の改正後,工部局 の吏員に多くの中国人が任命されるように なった。工部局吏員は,参事会の指揮の下,
警察,財政,公衆衛生,道路建設など行政上 の事務を実際に処理する役割を担うが,特に 租界警察において中国人が重要なポストに就 顧維鈞は,中国政府は租界を廃止し,中国の
領域に編入することが目的であると述べ,中 国全土の全都市が自治政府を持つことが望ま れるのであり,租界はそれに合併されるとい う。それに対して,ランプソン公使は,
Ȉ租
界は,中国のどの都市よりもはるかに高度に 発展している。イギリス租界は,すでに自治 政府を持ったところから始まっており,中国 の都市はそうではないȉと指摘した(45)。イ ギリス天津租界には,高度に発展した租界の 都市行政があるため,その点において租界内 外の差があることを指摘し,租界行政を即時 に撤廃して天津市政と融合というわけにはい かなかった。租界行政返還には,段階的なプ ロセスが必要であり,顧維鈞もそれに向けて の暫定的な措置については認めた(46)。ここ において,天津の租界都市行政組織の存続を 前提とした上で,返還交渉が行われることが 確認された。3 月 1 日に北京政府中国外交部から,租界 返還などについて協議する委員会の立ち上げ について提案があり(47),それをうけて 3 月 7 日 に イ ギ リ ス は 参 加 メ ン バ ー(Sir James Jamieson, Colonel P. C. Young, Mr. P. H. B Kent)について返答した(48)。その後,途中 中断しながらも交渉は続けられた。5 月には,
天津租界の地位の変更について,イギリスと 北京政府の交渉は,細かい調整を条件として,
合意に達した(49)。交渉の過程では,北京政 府側が,漢口と同様,租界行政のトップに中 国人長官を置き,中国当局による租界の統治 を望んだ(50)が,後述するように,そのよう な形にはならず旧来の行政組織が保持され た。しかし,租界行政への中国人の参与が認 められた。これにより,まずは中国人官吏の
利,利権の返還であるが,こうしたプログラ ムを段階的,漸進的に積み重ねて行き,最終 的に条約改正(treaty revision)へと至るこ とを構想していたと考えられる。段階的,漸 進的条約改正政策である。この計画について イギリス政府内には,
Ȉ重要でないものから
返すȉ政策とする見解もあったが,本稿で見 たように天津租界行政のようなイギリスに とって重要な権益についても返還交渉を行っ たという事実は,単にȈ重要でないものȉだ けではなく,重要なものも含めた条約権利,権益の返還政策を,イギリスが有していたこ とを示すのである。イギリス外務省は,先に みたように,そもそもȈ租界はもはや時代遅 れであるȉとして,いずれ撤廃されるべきも のと考えていた。したがってイギリス外務省 にとっては,租界返還をするかしないか,と いう返還の可否ではなく,どのように返還す るかという租界の返還方法が問題なのであっ た。
中国に 6 つあるイギリス租界は,それぞれ 租界外地域との発展の差があり,また共同租 界か専管租界かの違いもある。イギリスは,
したがって租界毎に異なる返還政策が必要と 考えたのであり,本稿で検討した漢口と天津 もそれぞれ異なる対応が為された。しかし,
共通しているのは,租界の自治的な行政を重 視し,まずは中国人との共同統治と言う形か ら段階的な租界返還政策を始めたという点で ある。租界行政を段階的に中国人の手に渡し,
租界が最終的に中国市政に融合された時に中 国への租界返還が完了する。そのためには,
中国市政当局が,特別区における租界行政を 引きつぎ,それを十分に担う能力を有する事 が条件となる。そしてイギリスは,都市にお 任するようになった(53)。
漢口と比べればより慎重な返還政策であっ たが,中国人の租界行政参加への制限が撤廃 され租界返還への一歩を踏み出したといえよ う。
結論
1927年 1月の漢口イギリス租界強制接収事 件は,対華新政策
Ȉ12月覚書ȉを公表したイ
ギリスに,言葉だけでは無くより具体的な条 約改正の実施を迫った。イギリスは,それに 対し,12月覚書をベースにして,1月 27日に 治外法権,租界行政返還などについて交渉す る用意のあることを国民政府,北京政府双方 に 通 達した 。イギリスは ,これを t r e a t y alteration programme(条約手直し計画)と した。租界強制接収という規制事実が確立し た漢口租界に関するオマリー参事官と陳外交 部長との協議,ならびにその結果としての合 意(陳・オマリー協定)は,この計画実行の一 環として位置づけられた。また,同時に北京 政府とも天津租界行政の変更について協議を 開始した。中央政府が存在しない内乱状態の 中国において,イギリスは 12月覚書公表以降,イギリスの利権や権利のうち返還できるもの から返還し,中国各地域の地方勢力と条約手 直し計画(treaty alteration programme)に 基づいて交渉に入った。これにあたりイギリ スは,北京政府,国民政府をどちらも公式の 政府と承認せずに,それぞれと
Ȉ条約手直しȉ
交渉に入りȈ地方的解決ȉを目指したのだっ た。上述のように条約手直し計画(treaty alteration programme)そのものは,条約改 正(treaty revision)を伴わない条約上の権1927
⑻ 前掲,滝口 58―59 頁
⑼ M e m o r a n d u m r e s p e c t i n g t h e H a n k o w Agreement by Foreign Office, June 7 1927, F5349/67/10, Doc. 8, .
⑽ Memorandum by Mr. Pratt, Jan. 15, 1927, F268/67/10, Doc. 9, .
⑾ ibid.
⑿ ibid.
⒀ ibid.
⒁ ibid.
⒂ Text of Proposals for Waiver of Treaty Rights communicated by Mr. O Malley to Eugen Chen at Hankow on January 27, 1927, and by Mr.
Lampson to Dr. Wellington koo at Peking on January 28, 1927, F958/2/10, Doc. 19,
.
⒃ 前掲,滝口,E. Fung.
⒄ 前掲,滝口 60―61 頁。
⒅ 同上,61 頁。
⒆ 同上,62 頁。
⒇ 同上,63―64 頁。
同上,64―65 頁。
M e m o r a n d u m r e s p e c t i n g t h e H a n k o w Agreement by Foreign Office, June 7 1927, F5349/67/10, Doc. 8, .
ibid.
ibid.
ibid.
ibid.
ibid.
ibid.
ibid
Ȋ租界ニ於ケル行政組織並土地制度ȋ外務省条 約局第二課,1930 年,718―729 頁。
同上,720―723 頁。
同上,723―726 頁。
M e m o r a n d u m r e s p e c t i n g t h e H a n k o w Agreement by Foreign Office, June 7 1927, F5349/67/10, Doc. 8, .
Doc. 107, Inclosure in Doc. 105, . ける中国市政による行政がさらに発展し,租
界内行政との差の解消が,租界返還には必要 と考えた。都市行政に基づく道路建設,上下 水道,公衆衛生,電灯など,いわゆるȈ文明 的な生活ȉを享受するための社会インフラ整 備と維持管理がイギリス人租界と同等のレベ ルで実施でき,租界内外で発展のギャップが 解消したと認められる時に,租界地域の中国 市政への合併,つまり租界の返還が認められ るとしたのである。つまり租界返還の可能性 は,中国当局が統治する租界外地域の発展の 進度により決まるとイギリスは考えたのだっ た。このような政策をベースに,イギリスは 租界返還政策に着手するのだった。
では本稿で検討した 1927 年より後におい て,イギリスの租界返還政策はどのように展 開するのだろうか。それについては稿を改め て論じていきたい。
註
⑴ 拙稿Ȉオースティン・チェンバレンとȈ12 月 覚書ȉ(Ⅱ)ȉȊ政治経済史学ȋ第 484 号,2006 年 12 月。
⑵ 滝口太郎Ȉ政治変動期における外交交渉 ―漢 口英租界回収事件をめぐって―ȉ日本国際政治学 会編Ȋ国際政治ȋ66 号,1980 年 11 月。Edmund S.
K. Fung,
― , Oxford University Press, 1991.
⑶ Memorandum Respcting Treaty Revision by J.
T. Pratt, Jan. 6, 1927, F472/472/10, Doc. 2,
( 以 下 .), Vol.
32.
⑷ Fung, P. 112
⑸ 前掲,滝口 57 頁。
⑹ 同上,滝口 58 頁。
⑺ , AC5/1/405, Jan.
ibid.
Minutes of Interview at the Wai-chiao Pu, February 21 1927, at 4 P. M. Doc. 208,
. ibid.
Wai-chiao Pu to Sir M. Lampson, Mar. 1 1927, Doc. 247, .
Sir. M. Lampson to Sir. Austen Chamberlain, Mar. 9 1927, Doc. 248, Doc. 249, . Foreign Office to Treasury, May 26 1927, F4593/1872/10, Doc. 330, .
Memorandum compiled from Notes taken and Observations made by Mr. Vice-Consul George at the first Three Meetings of the British Delegation with the Full Chinese Delegation in the Tien-tsin Concession Negotiations, held on April 11th, April 12th, and April 14th, 1927. Doc. 7,
.
前掲,Ȋ租界ニ於ケル行政組織並土地制度ȋ, 263 頁。
同上,277 頁。
同上,268―269 頁。
Doc. 108, Inclosure in Doc. 105, . Confidential Report on the Hankow and Kiukiang Concession Negotiations, January, February and March 1927, Doc. 269, Mar. 20,
1927, .
前掲,Ȋ租界ニ於ケル行政組織並土地制度ȋ, 680―681 頁。
Confidential Report on the Hankow and Kiukiang Concession Negotiations, January, February and March 1927, Doc. 269, Mar. 20,
1927, .
前掲,Ȋ租界ニ於ケル行政組織並土地制度ȋ, 603―607 頁。
同上,608 頁。
Question of Tien-tsin British Concession, Doc.
110, (Inclosure in Mr. Lampson to Austen Chamberlain, Jan. 29 1927, F1510/2/10, Doc. 105).
Sir. M. Lampson to Sir. Austen Chamberlain, Apr. 23 1927, F5333/1872/10, Doc. 13,
. ibid.
※本研究は JSPS 科研費 JP18K01464 の助成を受けたものです。