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万葉集巻三・三五八番歌の解釈

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(1)

万葉集巻三・三五八番歌の解釈 

︱﹁粟島﹂と羨しき小舟﹂の視点から︱

The Interpretation of the Song No.358 in Manyoshu Vol.Ⅲ 

From the View‑point of Awashima and Tomoshiki‑obune

Takashi KATSUMATA

  武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島を︵青龍 ︶背向に見つつ羨しき

   小舟

 これは︑万葉集巻三・三五八番歌で︑山部宿禰赤人の歌六首の中

の一首であるが︑解釈上種々の問題を含んでいる︒一つには︑﹁粟島﹂

の所在は何処かという問題︒これは︑単なる地理的な問題ではなく

して︑この歌を正しく理解するためには︑重要な点であると考える︒

というのは︑このことは︑もう一つの問題であるところの﹁何故︑

羨しき小舟か﹂という問題と密接に関係しあっていると推測される

からである︒本稿では︑この二つの問題を中心にして︑当該歌の解

釈を行ってみたい︒そこで︑先ず︑﹁粟島﹂の所在を考えるに当たっ        ユ  て︑万葉集における﹁粟島﹂の用例を一瞥してみることにする︒ 一︑﹁粟島﹂の描かれた万葉歌

 万葉集の中で︑

である︒ ﹁粟島﹂の描かれた歌は︑当該歌を除き︑次の通り

①右四・五〇九 舟比真人笠麿︑筑紫国に下る時作る歌一首

   ・⁝天さがる 夷の国辺に 直向かふ 淡路を過ぎ 粟島を

 ︵粟嶋乎︶ 背に見つつ⁝⁝⁝

② 巻七・一二〇七 羅旅にして作る︵の一︶

 粟島に︵粟嶋ホ︶漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒げ

 り ③巻一二・三一六七罵旅に思を発す︵の一︶

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第四七号 一七〜二九︵一九九三︶

(2)

勝  俣

一八

  波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の︵粟嶋之︶逢はぬものゆゑ吾に寄

  する児ら

 ④新羅に遣はさえし使人ら別を悲しびて贈答し︑また海路にし

  て情を働み思を陳ぶ︒所に当たりて記する古歌を井せたり

   周防国の玖河郡の麻里布の浦を行きし時に作る歌八首︵のこ

  巻一五・三六三一

  いつしかも見むと思ひし粟島を︵安波之麻乎︶外にや恋ひむ行

  くよしを無み

 ⑤同上︑巻一五・三六三三

  粟島の︵安波思半能︶逢はじと思ふ妹にあれや安眠も寝ずて吾

  が恋ひ渡る

 以上︑当該歌を含めて六首ある︒問題としては︑これらの﹁粟島﹂

が同じものか否かが先ず問われることになろうが︑本稿では︑取り

費えず︑便宜上︑同一のものとして扱うことにする︒そこで︑これ

らの歌の存在を踏まえて︑当該歌の﹁粟島﹂を︑如何なる島と考え

るべきか︑次節で検討してみたい︒

二︑﹁粟島﹂に関する諸説

当該歌の

a︑ b︑

C

d︑

e

 ﹁粟島﹂については︑

淡路島の属島︒

大阪湾内の小島︒

四国︒ 四国の阿波国︒

淡路島︒ 次のような諸説が行われている︒   f︑香川県屋島沖の阿波島   9︑友ケ島   h︑水没した小島  先ず︑aの説であるが︑淡路島の属島として︑はっきり存在して いる島は︑沼島ぐらいしかない︒敢えて挙げれば︑紀淡海峡の友ヶ 島︵沖ノ島と地ノ島︶を含めても良いかもしれないが︑武庫の浦か ら離れすぎているし︑沼島は︑淡路島の影になって︑武庫の浦から みることは︑事実上不可能である︒  bの説も︑大阪湾内に﹁背向に見つつ﹂と言ったような小島を見 いだすことは困難である︒hの説のように︑水没した島を想像する ことは可能であるが︑現実に存在しない以上︑説得力に乏しいと言 えよう︒さらに︑a・bの説は︑武庫の浦から見える範囲というこ とで︑実質上︑淡路島の東側の大阪湾内に﹁粟島﹂が存在している ことになろう︒しかしながら︑前説の用例に示したように︑①の歌 は︑舟比真人笠麿が︑筑紫国へ下る時の歌であり︑﹁淡路を過ぎ 粟 島を 背に見つつ﹂という描写から判断して︑淡路島の西側から﹁粟 島﹂を見ていることが明らかである︒それ故︑淡路島の西側からは 見ることができない沼島や友ケ島︵沖ノ島と地ノ島︶と言った紀伊 水道や大阪湾内の島を﹁粟島﹂と比定することは困難であろう︒そ れ故︑9の友ヶ詳説も採ることはできない︒逆に︑fの阿波島は︑ ①の歌のように︑淡路島の西から見ることが辛うじてできそうな島 であり︑名称的には確かに﹁粟島﹂として通用はするが︑武庫の浦 からは全く見えず︑これを﹁粟島﹂とすることは︑ほとんど無理と 言ってよい︒

 それでは︑cやdの説はどうであろうか︒﹁粟島﹂を阿波国を中心

(3)

とした四国の呼称と考えれば︑名称の由来は︑良く説明できる︒ま

た︑①のように︑淡路島の西側からも見ることができるから︑その

点においては問題はない︒しかし︑肝心の武庫の浦から四国を望む

ことは︑淡路島と紀伊半島に邪魔されて極めて難しいし︑そもそも

距離が離れすぎている︒勿論︑天候などの条件が良ければ︑紀淡海

峡の背後に四国を望むことは︑全く不可能ではないであろう︒﹁波の

間ゆ雲居に見ゆる粟島の﹂という前節の用例③巻十二・三一六七の

歌の描写は︑遥か彼方に見える四国の様子を歌ったものとも思えな

くもない︒一つの可能性としては︑確かに考えられよう︒

 だが︑よほどの好条件でなくては見えないような位置にある遠方

の四国を︑手前の淡路島や紀伊半島を差し置いて︑﹁背向に見つつ﹂

と言う表現で表すことがあるだろうかという疑問が浮かぶ︒そこで︑

次に︑万葉集において︑﹁背向に見つつ﹂という表現がどういう状況

の描写に使われているか︑次節で検討してみたいと思う︒

 なお︑eの説は︑地理的位置からは︑最も合理的な考えである︒

但し︑﹁淡路﹂という地名との重複についての説明が必要である︒詳

しくは︑後述したい︒

三︑﹁背向に見つつ﹂の用例

 万葉集において︑﹁背向に見つつ﹂またはそれに類似した表現とし

ては︑上述の﹁粟島﹂の二例以外に︑次のような例がある︒

  ω 巻三・三五七 山部宿禰赤人の歌六首︵の一︶

   縄の浦ゆ背向に見ゆる︵背向ホ所見︶沖つ島漕ぎ廻る舟は釣

   しすらしも 図 巻三・四六〇 七年乙亥︑大伴坂上郎女︑尼出願が死去れ  るを悲しび嘆きて作る歌一首   ⁝⁝佐保河を 朝川わたり 春日野を 背向に見つつ︵背  向ホ見栄︶ あしひきの 山辺を指して⁝⁝⁝ 圖 巻六・九一七 神亀元年甲子冬十月五日︑紀伊国に幸しし  時に︑山部宿禰赤人の作る歌六首    ⁝雑賀野ゆ 背向に見ゆる︵背ヒホ所見︶ 沖つ島 清  き渚に⁝・ ㈲ 巻七・一四一二 挽歌︵の一︶  わが背子を何処行かめとささ竹の背向に塾しく︵背向ホ宿之  久︶臭し悔しも ㈲ 巻︼四・三三九一 東歌 常陸野相聞往来歌十首︵の︺︶  筑波嶺に背向に見ゆる︵曽我比ホ美由流︶葦穂山霧しかる各  もさね見えなくに ㈲ 巻一四・三五七七 東歌 国を勘へぬ挽歌一首  愛し妹を何処行かめと山菅の背向に嘉しく︵曽我比ホ三思久︶  今し悔しも ω 巻一七・四〇〇三 立山の賦に敬しみ和ふる一首  朝日さし 背向に見ゆる︵曽我比﹄小見二流︶ 神ながら 御  名に帯ばせる 白雲の 千重を押し分け 天そそり 高き立  山⁝  右は︑橡大伴宿禰池主の和へなり 圖 巻一七・四〇一︼ 放逸せる鷹を思ひて︑夢に見て感悦び  て作る歌一首

 ⁝⁝⁝鷹猟すと 名のみを告りて 三島野を 背向に見つつ

万葉集巻三二二五八番歌の解釈 一九

(4)

勝  俣 隆 二〇

   ︵曽我比ホ見都追︶ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去

   にきと⁝⁝⁝守大伴宿禰家持

  働 巻一九・四二〇七 二十二日︑判官久米朝臣広縄に贈る審

   公鳥の怨恨の歌一首

   此間にして 背向に見ゆる  ︵曽我比ホ所見︶ わが背子が

    垣内の難に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁

   みに 遥遥に 鳴く審公鳥⁝⁝⁝

  圃 巻二〇・四四七二 八日︑讃岐守安宿王等の︑出雲橡安宿

   奈墨池の家に集ひて申する歌二首︵の一︶

   大君の命畏み於保の浦を背向に見つつ︵曽我比ホ美都︾︶都

   へ上る

 以上の十例である︒これらの用例を検討してみるに︑次のことが

言えよう︒

 基本的に﹁背向に見つつ﹂も﹁背向に見ゆる﹂も︑背後または斜

め後ろの方向に位置し︑視点からそう遠くは離れていない︑良く目

立つ地形を見た状態を指していることがわかる︒

 そして︑その地形も﹁春日野﹂﹁三島野﹂や﹁於保の浦﹂など︑か

なり広い範囲に広がる地形を指すことがあったようである︒

 具体的に見れば︑qDでは︑縄の浦︵現在の相生湾︶から沖つ島︵蔓

島︶を背後に見ていることになるが︑湾の最も奥の那波からの距離

も球趣キロメートルで︑遠い距離ではない︒︵﹃萬葉集全量﹄の説に

よる︒︶  図では︑佐保河を渡った地点から︑背後の春日野を見ているので

あって︑距離的には︑一キロ前後の極めて近い位置関係にある︒

 圖も︑雑賀野︵和歌山市雑賀崎付近︶から沖つ島︵玉津島︶を見 ているのであり︑極めて近距離にあると言える︒  ㈲は︑﹁背向に寝しく﹂とあり︑背中合わせに寝たことを意味して いるので︑他の例とは同列に扱えないが︑背向にという言葉が︑背 中合わせのような密着した場合にも使用されることが分かる︒  ㈲は︑葦穂山︵足尾山︶が︑筑波山の背後に見えることを言って おり︑日本古典文学大系本﹃萬葉集﹄に拠れば︑﹁真北約七キロ﹂の 距離に位置していることになる︒これもかなり︑近い距離である︒  ㈲も︑回同様に︑背中合わせに寝たことを言っており︑密着した 場合の例と言えよう︒ωは︑越中国の国府から︑立山を背後に見て いる状態であって︑距離としては︑三十キロメートル余りである︒ これは︑やや遠い例となろうが︑立山が周囲の山々よりも一段と高 く云えているので︑良く目立つであろう︒  圖は︑三島野︵射水郡大門町辺り︶を背後に見ながら︑鷹が二上 山を飛び越えて行ったというのであり︑両者の距離は十キロメート ル余りに過ぎない︒  働は︑ここから斜め後ろに見える﹁わが背子︵久米朝臣広瀬︶﹂の 屋敷の中にある谷に雷公鳥が来て鳴いているというのであり︑数十 メートルの距離の非常に近い間隔しかない対象に使用していうこと になる︒  ωは︑於保の浦︵不明であるが︑意馬の海で︑今の宍道湖や中海 のことではないかと言われる︶を背後に見ながら都に上るという意 味で︑作られた場所は︑出雲豫安宿奈将麿の家であるから︑国府近 くにあったとすれば︑せいぜい二・三キロの距離で︑於保の浦から︑ それほど離れているわけではない︒

 このように︑ωから㈲までの用例を見て帰納されることは︑﹁背向

(5)

に見つつ﹂あるいは﹁背向に見ゆる﹂と表現された対象は︑視点か

ら近い地点が多く︑遠くとも数十キロメートルの範囲であるという

ことである︒これは︑﹁背向﹂の語源を考えた時︑﹁背︵そ︶向かい﹂

と推測でき︑ω㈲の例にあったように︑本来︑背が向き合うような

対等に近い関係が必要であったことと関わるのではなかろうか︒つ

まり︑あまりにも遠方にあって︑ぼうっと霞んでしか見えないよう

な島影を﹁背向に見つつ﹂と表現することは︑本質的にあり得なかっ

たのではなかろうか︒それ故︑もし︑﹁粟島﹂を四国だと考えた時︑

少なくとも武庫の浦からは︑条件が非常に良い晴れた日に︑辛うじ

て百キロ以上も遠方に霞んで見えるのであるから︑﹁背向に見つつ﹂

と描かれるには無理が伴うのではなかろうか︒

 勿論︑これは︑辛うじて見える場合には︑﹁背向に見つつ﹂という

表現を絶対に使用しなかったということは意味しない︒しかしなが

ら︑﹁背向に見つつ﹂という表現が四国に対して使われた可能性に問

題がある以上は︑﹁粟島﹂を四国とする説に疑問が残ると言えよう︒

 それでは︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂はどのように理解すべきであ

ろうか︒次節でそれを検討してみたいと思う︒

四︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂の解釈

 前節までに︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂について︑従来の解釈には

問題があることを述べてきた︒

 従来︑最も有力とされてきた﹁粟島﹂を﹁四国﹂と見る説も︑﹁背

向に見つつ﹂という点においては︑疑問が残る︒そこで︑﹁背向に見

つつ﹂が疑問とならない﹁粟島﹂は︑考えられないのか検討してみ たい︒  先にみたように︑万葉集の巻三・三五八︑巻四・五〇九︑巻七・ =一〇七の﹁粟島﹂を同一のものと考えるならば︑この﹁粟島﹂は︑ 淡路島の東側からも︑西側からも︑背後に見ることが出来︑また︑ 対岸の明石側からは︑舟で渡れる島でなくてはならない︒この条件 をすべて満たせる島とは︑如何なる島であろうか︒従来︑有力であっ た四国︵阿波国︶とする考えは︑次の点から︑少し無理があると思 われる︒  一つは︑淡路島の西側から︑確かに四国を望むことはできるが︑﹁背 向に見つつ﹂と表現するには距離的に少し無理がある︒  二つには︑淡路島の東側から︑四国を望むことは︑かなり困難が 伴う点︑少なくとも︑﹁背向に見つつ﹂という表現をするには相当無 理がある点︒  三つには︑巻七・一二〇七の歌にあるように︑﹁粟島に漕ぎ渡らむ と思へども明石の門燈いまだ騒げり﹂というように︑明石側から﹁粟 島﹂に舟で渡ろうという場合︑この歌の状況から判断して︑四国で は遠すぎよう︒この歌は︑どう考えても︑それほど遠くない距離を 小舟で漕いで渡るといった趣きである︒  それ故︑これら万葉集における﹁粟島﹂は︑四国︵阿波国︶であ るとは考えにくい︒  それでは︑﹁粟島﹂とは︑何処であるのか︒  結論を先に述べれば︑﹁粟島﹂とは︑淡路島の別名であると思う︒ それは︑当該の万葉歌三首のどれにも適合する島は︑地理的に考え て︑淡路島以外あり得ないからである︒淡路島であれば︑淡路島の

東側からも西側からも︑当然見えるし︑明石側からもすぐに漕いで

万葉集巻三・三五八番歌の解釈 二一

(6)

勝  俣

二二

渡ることができる︒また︑淡路島と﹁粟島﹂は︑名称が極めて近い

から︑淡路島が省略されて︑﹁粟島︵淡島︶﹂となることは︑十分あ

りうることである︒現在は︑淡路島としか言わないが︑万葉時には︑

淡路島とも︑﹁粟島﹂とも︑どちらも呼称として︑存在していたので

はなかろうか︒

 ただ︑その場合︑巻四・五〇九の歌の一節︑﹁⁝⁝⁝天さがる 夷

の国辺に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を 背向に見つつ⁝⁝⁝﹂を

どう解釈するのかが当然問題となろう︒常識的には︑この場合︑﹁淡

路﹂と﹁粟島﹂を別物と見るのが自然だからである︒

 これについては︑﹁淡路﹂とは︑淡路島の北部︑明石と対峙した海

岸地帯一帯︑あるいは︑文字通り阿波国へ行く通路そのもの︵海路

も含む︶を指し︑﹁粟島﹂は︑淡路島全体の呼称であると考えたい︒

勿論︑単に﹁淡路﹂とあるのではなく︑﹁淡路島﹂とある場合は︑島

全体を指すことは言うまでもない︒それ故︑巻四・五〇九の歌の場

合︑﹁淡路を過ぎ﹂とは︑明石海峡を通った時︑左手に淡路島の北部

の一帯が見え︑そこを通過したこと︵あるいは︑海路を含めた阿波

国への通路を横切ったこと︶を指し︑﹁粟島を背向に見つつ﹂では︑

淡路島の北端を過ぎ︑大分離れてから︑淡路島全体が視野に入るよ

うになってから︑淡路島全体を背後に見ながらと言った心持ちで歌っ

ているのであろうと思われる︒

 ところで︑﹁粟島﹂は︑古事記や日本書紀にも登場する︒﹁粟島﹂

を淡路島と見なす見方は︑記紀の﹁粟島﹂にも適用できるであろう

か︒次節で︑それを見てみたい︒

五︑古事記・日本書紀の﹁粟島︵淡島・淡洲︶﹂ 古事記・日本書紀に﹁粟島﹂が出てくるのは︑次の場面である︒ ① 然れども久美半乾興して生める子は︑水蛭子︑此の子は葦船  に入れて流し去てき︒次に淡島︵淡嶋︶を生みき︒是も亦︑子  の例には入れざりき︒⁝⁝⁝如此言ひ尭へて御合して︑生める  子は︑淡道之穂之狭別島︒次に伊予之二名島を生みき︒此の島  は身一つにして面四つ有り︒面毎に名有り︒故︑伊予国は愛子  売と謂ひ︑讃岐国は飯依比古と謂ひ︑粟国は大宣都比売と謂ひ︑  土左国は建依別と謂ふ︒次に隠見之三子島を生みき︒亦の名は  天之忍許呂別︒次に筑紫島を生みき︒此の島も亦︑身一つにし  て面四つ有り︒面毎に名有り︒故︑筑紫野は白日別と謂ひ︑豊  国は豊日別と謂ひ︑肥国は建日向日豊久士子別と謂ひ︑熊曽国  は建日別と謂ふ︒次に伊伎島を生みき︒亦の名は天比見直柱と  謂ふ︒次に津島を生みき︒亦の名は天之狭手野比売と謂ふ︒次  に佐度島を生みき︒次に大倭豊秋津島を生みき︒亦の名は天御  虚空豊秋津根別と謂ふ︒故︑此の八島を先に生めるに因りて︑  大八島国と謂ふ︒︵古事記・上巻︶ ② 是に天皇︑其の黒日売を恋ひたまひて︑大后を欺きて日りた  まひしく︑﹁淡道島を見むと欲ふ︒﹂とのりたまひて︑幸行でま  しし時︑淡道島に坐して︑遥に望けて嘉日ひたまひしく︑   おしてるや 難波の崎よ 出て立ちて 我が国見れば 淡島  ︵阿波志摩︶ 自島島 棲榔の 島も見ゆ 放つ島見ゆ  とうたひたまひき︒乃ち其の島より伝ひて︑吉備国に幸でまし  き︒︵古事記・下巻︑仁徳天皇の条︶ ③ 遂に為夫回して︑先づ蛭児を生む︒便ち葦船に載せて流りて

(7)

 き︒次に淡洲を生む︒此生児の数に暮れず︒⁝⁝⁝然して後に︑

 宮を同じくして土ハに住まひて児を生む︒大日本豊秋津島と号く︒

 次に淡路島︒次に伊予二名洲︒次に筑紫洲︒次に億岐三子洲︒

 次に強度洲︒次に越洲︒次に吉備熊襲︒此に由りて︑之を大八

 洲国と謂ふ︒︵日本書紀・神代上︑第四段一書第一︶

④ 二の神︑合巻夫婦して︑先づ淡路島・淡洲を以て胞として︑

 大日本豊秋津島を生む︒次に伊予洲︒次に筑紫洲︒次に下層洲

 と煮方洲とを双生に生む︒次に越洲︒次に大島︒次に子星︒︵日

 本書紀・神代上︑第四段一書第六︶

⑤ 淡路島を以て胞として︑大日本豊秋津島を生む︒次に淡白︒

 次に伊予二名著︒次に億岐三子洲︒次に佐度洲︒次に筑紫洲︒

 次に吉備子洲︒次に大島︒︵日本書紀・神代上︑第四段一書第九︶

 以上︑五例である︒このうち︑①の古事記の例では︑﹁淡島﹂を先

に生んでから︑天つ神の命に従って︑男女の順番を入れ替えて︑言

い改め︑結婚しなおして︑﹁淡道之穂之狭別島﹂を生んでいる︒この

点から言えば︑﹁淡島﹂と﹁淡道之穂之狭父島﹂は︑別物であるよう

に思われる︒しかし︑﹁淡道之穂之大別島﹂という言い方は︑よく考

えると︑不思議な呼称であることがわかる︒此の島は︑他の島と違っ

て︑﹁亦の名﹂が無いことが一点︒島の名の中に﹁別﹂という︑用字

が使われている点が二点目である︒他の島の既述を見るとわかるよ

うに︑﹁建依別﹂﹁天之忍許呂別﹂﹁白日別﹂﹁豊日別﹂﹁建日向日豊久

士品別﹂﹁建日別﹂﹁天馬虚空豊秋津根別﹂等のように︑﹁別﹂が付く

名は︑すべて例外なく︑国や島の﹁亦の名﹂︑即ち別名として描かれ

る時に登場しているからである︒このことから判断すれば︑﹁淡道之 穂之狭別島﹂のように︑島の名前の中に︑本来︑別名に使うべき﹁別﹂ という語が含まれているのは︑極めて異例であることになろう︒そ こで︑さらに一歩踏み込めば︑﹁別﹂という語から考えて︑元々は︑ ﹁淡道之穂之狭別﹂が︑淡路島の別名であって︑それに島が付くこと で︑島そのものの呼称と混同されてしまったのではないかという推 測も可能ではなかろうか︒それでは︑本来の島の名前は何かという と︑それが︑当該の﹁淡島﹂でなかったかと思われる︒本来︑﹁淡島 を生みき︒亦の名は淡道之穂之狭別と謂ふ︒﹂とあったものが︑その 間に︑生み直しの既述が入ったために︑﹁淡島﹂と﹁淡道之穂之狭別 島﹂が二つに離れてしまい︑全く別個の島のような表現になってし まったのではなかろうか︒その痕跡が︑﹁淡道之穂孕狭別島﹂の﹁亦 の名﹂が存在しないことと︑﹁亦の名﹂しか使わない﹁別﹂の語が含 まれていることに表われていると考えたい︒  ②は︑仁徳天皇が︑黒日売に逢うために︑淡路島を経由して︑吉 備国へ出掛けた時に詠まれた歌とされており︑物語歌謡としては︑ 淡路島から見た光景ということになるから︑歌に出てくる﹁淡島﹂ は︑﹁淡路島﹂ではないことになる︒しかし︑この歌を独立歌謡とし て見た場合には︑難波の崎に立って︑あるいは︑難波の崎から舟出 して海上から眺めた光景と考えられるから︑そこから見える﹁淡島﹂ は︑﹁淡路島﹂であって︑少しも不都合はないのである︒島の詠まれ る順番としても︑﹁淡島﹂﹁自野島﹂﹁檀榔の島﹂﹁放つ島﹂とあるか ら︑大阪の海岸から海を見渡し︑より近くて大きく見える島から順 番に島名を数え挙げていったとすれば︑﹁淡島﹂は当然︑﹁淡路島﹂ であることになろう︒その場合︑他の島については︑比定は難しい

が︑敢えて挙げれば︑﹁自凝島﹂と﹁檀榔の島﹂は︑友ヶ島︑即ち︑

万葉集巻三・三五八番歌の解釈 二三

(8)

勝  俣

二四

沖ノ島と地ノ島︑﹁放つ島﹂は︑離れ島の意として︑遠くにかすかに

見える四国を指したのかも知れない︒また︑大阪湾内を経巡って︑

かなり南の方まで下って眺めたとすれば︑紀伊水道にある沼島を︑

これらの島のいずれかとして含めて考えても良いかも知れない︒い

ずれにせよ︑独立歌謡としての﹁淡島﹂は︑﹁淡路島﹂を指すものと    ︵2︶ 考えたい︒

 ③では︑古事記同様に︑最初に﹁蛭子﹂と﹁淡麗﹂生まれるが︑

どちらも伊津男伎・伊邪那美二神の正式な子供とは認められていな

い︒それは︑結婚に際し︑女神が先に言葉を発したことが邪とされ

たからである︒そこで︑天神の教えに従い︑結婚しなおして︑﹁大日

本豊秋津洲﹂と生み︑その後に﹁淡路島﹂を生んでいる︒それ故︑

この記事では︑﹁不落﹂と﹁淡路洲﹂は︑全く関係のない別の神のよ

うに思われる︒しかし︑よく考えてみれば︑これは︑何の関係もな

いとは言えないように思われる︒というのは︑﹁蛭子﹂も﹁淡洲﹂も︑

本来なら︑伊邪雲伎・伊邪那美二神の正当な跡継ぎになるべき子供

であったはずだからである︒しかし︑伊邪那美が先に言葉を発した

ことが良くないとされ︑結果として不具の子が生まれたことになっ

ている︒従って︑この本文の場合︑﹁蛭子﹂は︑﹁大日本豊秋津洲﹂

と︑﹁淡洲﹂は﹁淡路洲﹂と対応している島であると考えることがで

きよう︒つまり︑﹁蛭子﹂の﹁蛭﹂は︑﹁大目婆貴﹂の﹁日︵ひる︶﹂

と同じく︑太陽をも表し︑太陽神の支配すべき国としての﹁日本﹂

という意味の込められた名称が︑﹁大目本豊秋津洲﹂であり︑その形

骸化した形が﹁蛭子﹂でなかったかと推測されるのである︒﹁蛭子﹂

は︑太陽を名に持つ国としては︑不完全であったために︑正式なも

のと認められずに︑流されたのであろう︒そして結婚しなおして︑ 正式な子供として生まれる時には︑﹁蛭子﹂から﹁大日本豊秋津洲﹂

へと変化したのではないか︒同様に︑﹁淡路洲﹂の不完全な呼称とし

て︑﹁淡島﹂が出てくるのだと思われる︒不完全な﹁淡洲﹂が結婚の

し直しで︑完全な島﹁淡路洲﹂として誕生してくることになろう︒

それ故︑﹁淡洲﹂は︑この場合は︑﹁淡路洲﹂の原初的な名称であっ

たと言えよう︒

 ④では︑﹁淡路洲・淡洲﹂が﹁胞﹂となって︑﹁大日本豊秋津洲﹂

が誕生している︒この本文は︑﹁淡路洲﹂と﹁淡洲﹂が非常に密接に

関係した存在であることを︑如実に物語っていると言えよう︒勿論︑

﹁淡洲﹂は︑﹁淡路洲﹂の近辺に存在する島であるという解釈も当然

成立しよう︒しかし︑﹁淡洲﹂は︑本来﹁淡路洲﹂の別名であったが︑

それが︑二つの島が存在するように誤解されてしまった︒しかし︑

もともと同じ島であるから︑両者の深い関係はそのまま保たれて︑

並列して登場することになったという解釈も成り立つはずである︒

③との関係で言えば︑そう解釈する方がより納得できよう︒

 ⑤では︑﹁淡路洲﹂が﹁胞﹂となって︑先ず︑﹁大日本豊秋津洲﹂

が生まれ︑続いて︑﹁淡洲﹂が生まれている︒この記述も﹁淡路洲﹂

と﹁淡洲﹂は別の島であるが如くである︒しかし︑これを︑③の第

一の一書の記述と比べると︑面白いことがわかる︒③では︑﹁大目本

豊秋津洲﹂が最初に生まれ︑次に﹁淡路洲﹂︑その後︑﹁伊予二名洲﹂

の順で︑大八洲国が生まれていく︒一方︑⑤では︑﹁大日本豊秋津洲﹂

が最初に生まれ︑次に﹁淡洲﹂︑その後﹁伊予二髪型﹂の順で島々が

生まれていく︒つまり︑島々の誕生の順序から判断すれば︑﹁淡路洲﹂

と﹁淡州﹂が︑対応していることになるのである︒﹁淡路洲﹂と﹁淡

洲﹂が入れ替わることが出来るということは︑本来的には︑両者が︑

(9)

同じ性格のもの︑もっと端的に言えば︑元々同じ島を表わす異称に

過ぎないということが言えるのではなかろうか︒それが︑名称の違

いが︑島自体の違いに変質し︑あたかも二島あるかの如き叙述がな

されたのではなろうか︒もし︑﹁止血﹂が﹁淡路洲﹂の周囲の小島で

あるならば︑﹁大八洲国﹂の一つとして︑登場してくるのは︑あまり

にも不自然であろう︒また︑﹁伊予二名玉﹂が出てくる以上︑﹁淡洲﹂

を四国と見なすのも︑重複という点で困難があろう︒④に見られた

ように︑﹁淡洲﹂は︑﹁淡路洲﹂と対になって登場するのであって︑﹁伊

予二名洲﹂と対になっているわけではないからである︒

 以上の考察から︑古事記・日本書紀に描かれた﹁淡洲﹂も﹁淡路

洲﹂と密接な関係にあり︑恐らく︑本来は︑﹁淡洲﹂は︑﹁淡路洲﹂

の異称であったが︑別個の島と誤解される状態にもあったと言えよ

︸つ︒

六︑万葉集巻三・三五八番歌の解釈

 前節までの考察を踏まえて︑当該の万葉歌の解釈を行ってみたい︒

いままでの考察で推測されたことは︑﹁粟島﹂は︑本来︑﹁淡路島﹂

の異称ではなかったかということである︒そう考えた場合︑当該歌

はどのように理解すべきであろうか︒

 そのためには︑巻三・三五八番歌の作者である山部宿禰赤人が︑

この歌を作った際︑どのような状況にあったのかを考えてみる必要

があろう︒山部宿禰赤人は︑神亀・天平期の宮廷歌人とされている

が︑下級官吏であったらしく︑詳しい経歴は不明である︒万葉集の

歌と題詞で︑その人物と行動を推測するしかない︒この歌と関係す る経歴としては︑瀬戸内海を船で航行して︑明石海峡を一度ならず 通過しているらしい点が挙げられよう︒良馬・三二二番の長歌と三 二三番の反歌は︑伊予の温泉で詠まれているから︑少なくとも︑現 在の愛媛県松山市の道後温泉あたりまで西行したことは間違いない︒  巻三・三五八番歌が︑どのような状況で作られたかという判断は 難しいが︑一つの可能性として︑明石海峡を通って︑伊予国などの かなり西方へ下った時の歌であることが考えられよう︒  例えば︑巻六・九四二番歌には︑次のようにある︒   辛荷の島を危ぐる時に︑山部宿禰赤人の作る歌一首    味さはふ 妹が目離れて 敷拷の 枕も纏かず桜皮纏き   作れる舟に 真下貫き わが漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ   印南端 辛荷の島の 島の際ゆ 黒瀬を見れば 青山の 其処   とも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 漕ぎ廻むる 浦のごと   ごと行き隠る島の崎崎隈も置かず思ひそわが来る 旅   の日長み  ここには︑故郷の我が家と妻に別れて船旅に出て︑淡路島を通り 過ぎて遥々来ると︑我が家があるとおぼしき場所も全く視界から消 えてしまったことの痛切な悲しみが︑描かれている︒  これと同様な場面を︑柿本朝臣人馬は︑次のようんに歌う︒   留火の明石大門に入る目にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず︵巻   三・二五四︶  これらの歌から帰納されることは︑淡路島︑並びに︑明石海峡が︑ 大和出身の歌人達が︑旅において故郷の大和との視界的な繋がりを 意識できる境界であったことである︒それ故︑逆に︑地方での任務

を終えて上京してくる時には︑淡路島の先端明石海峡まで来た時︑

万葉集巻三二二五八番歌の解釈 二五

(10)

勝  俣

二六

故郷大和との視界的繋がりが再び回復される︒柿本朝臣人平の︑

  天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ︵巻落・

  二五五︶

は︑まさにそうした︑帰郷の喜びが如実に表現された作品である︒

 つまり︑万葉時代︑大和からの旅人は︑明石海峡︑もう少し広げ

れば︑淡路島を︑故郷大和を偲ぶよすがとしていたことになろう︒

だから︑たとえ天気が悪くて︑大和を実際に望むことができなくて

も︑それは大した問題ではなかったのではなかろうか︒明石海峡や

淡路島を見ることで︑もう故郷の大和は近いということを感じられ

れば良かったはずである︒

 淡路島が︑故郷の大和を思い出すよすがであれば︑淡路島の異名

と考えられる﹁粟島﹂も︑同様な観点から考察することが可能では

なかろうか︒そこで︑巻三・三五八番歌の解釈をするために︑先ず ﹁粟島﹂が詠み込まれた他の万葉歌五首について検討してみたい︒

 ①の丹比真人笠懸の歌は︑﹁淡路を過ぎ 粟島を 背に見つつ﹂と

あって︑上述したように︑淡路島の西側で詠まれたものであった︒

題詞にあるように︑丹比真人笠麿は︑筑紫国へ下ろうとしていると

ころであり︑﹁粟島を 背に見つつ﹂という描写は︑まさに︑故郷大

和との最後の繋がりの意味のあった粟島︵淡路島︶と別れて︑天物

る夷の世界へと入って行くことを示した︒故郷大和︑そして大和に

いる吾妹子への愛惜の念が︑背後に段々と小さくなって行く粟島に

凝縮されているように思われる︒

 ②は︑﹁粟島﹂に漕いで渡りたいけれども︑明石海峡の波が高くて

渡れないというのであり︑状況から判断して︑明石から淡路島北端

へ︑舟で渡りたいが︑波が穏やかでないので︑渡れないと解釈する のが︑先にも述べたが︑最も自然な解釈でなかろうか︒もし︑そう であれば︑この﹁粟島﹂は︑やはり淡路島を指していることになろ

茅つ︒

 ③と⑤は︑﹁粟島﹂が﹁逢はぬ﹂﹁逢はじ﹂を導く枕詞となってい る︒この﹁粟島﹂は︑一般的な解釈としては︑航海の途中に出会っ た小島︑即ち︑旅先の地名としての﹁粟島﹂を詠み込んだ歌とされ ている︒確かに︑そのように理解することが可能であろう︒実際問 題として︑枕詞であるから︑どこの地名であるかは︑本質的な問題 ではない︒ただ︑逆にいえば︑これらの﹁粟島﹂が︑淡路島であっ ても特にこれと言った不都合はないことになろう︒結局︑所在不明 の小島の名か︑淡路島かは特定はできない︒  ④は︑周防国の並置郡の麻里布の浦を行く時作った歌であるとい う題詞から︑麻里布の海上の島ではないかとも言われるが︑はっき りしないようである︒この島の場合は︑淡路島と見なすことも不可 能ではないと考える︒上述したように︑淡路島は︑大和を思い起こ すよすがの島という存在意味を持っていた︒それ故︑この歌では︑﹁粟 島﹂すなわち﹁淡路島﹂を︑再びいつになったら見ることができる のかという意味合いが込められていると判断できるからである︒つ まり︑この歌の作者は︑故郷の大和を遠く離れて︑これから遠く新 羅の国へ派遣されるところであり︑それは命の保証もない︑辛い旅 路なのである︒だから︑一体何時になったら︑無事に帰還できて︑ 再び﹁粟島﹂つまり淡路島を見て︑故郷に帰ったことを実感できる だろうかと思いながら︑この歌を詠んだのだろうと推測できるから である︒しかし︑船はこの気持ちとは裏腹に︑淡路島を望むことの できない遥か遠くへ来ており︑船の行く先も正反対の方向であって︑

(11)

淡路島を恋しく思っても︑行く術もないことを嘆いている歌である

と解釈できよう︒

 さて︑このように見てくると︑万葉集において︑﹁粟島﹂を﹁淡路

島﹂と解釈すると︑歌意が納得できるものが多いように思われる︒

そこで︑いよいよ当該の巻三・三五八番歌を解釈してみたい︒

 本歌では︑武庫の浦を漕ぎ廻っている小舟が︑﹁粟島を 背向に見

つつ﹂という状態であることを︑﹁羨しき﹂と表現していた︒何故︑ ﹁粟島を 背向に見つつ﹂ある﹁小舟﹂が﹁羨しき﹂なのか︒これも︑

﹁粟島﹂が﹁淡路島﹂であることで説明がつこう︒つまり︑﹁粟島を

 背向に見つつ﹂ということは︑この小舟が︑武庫の浦という淡路

島の東側で活動をしていることを意味するのであって︑淡路島を越

えて︑西側の天離る夷の世界へ踏み込んでいくのではないことを示

していよう︒すなわち︑この﹁小舟﹂は︑常に︑大和という都の勢

力下で行動している船であって︑故郷を遠く離れる必要がない存在

なのである︒一方︑この歌を詠んだ山部宿禰赤人は︑恐らく︑この

時点で︑故郷の大和を遠く離れて西国へと旅立たなくてはならない

状態にあった︒それ故︑淡路島という都の範囲内に留まっている小

舟をとても羨ましく思って︑﹁羨しき﹂と表現したのであろう︒これ

を︑都へ帰る船だとするのは当たっていないと思う︒小舟で都へ帰

るのはそもそも困難である︒それに︑武庫の浦を漕ぎ廻っている小

舟が都へ帰らなければならない必然性は何もないと言ってよい︒確

かに︑山部宿禰赤人には︑もう一首︑﹁羨し﹂と詠んだ歌がある︒

 島隠りわが漕ぎ来れば羨しかも倭へ上る真熊野の船︵雨湿・九四

四︶

 これは︑行幸に従駕したか︑あるいは何かの用事で熊野へ遥々と 下って来た山部宿禰赤人が︑自分がやって来たのと真反対の都の方 向に向かって行く船を見て︑﹁羨しかも﹂と詠じたものであって︑﹁倭

へ上る﹂という表現には︑望郷の思い切々たるものがある︒この場

合には︑自分の船は都の方向から下ってきたのに︑都の方向へ上っ

て行く熊野の船が﹁羨ましい﹂という意味であることは明らかであ

る︒しかし︑だからと言って︑当該の巻三・三五八番歌も同じよう

に︑都の方に向かって行く船を詠んだものだということにはならな

いであろう︒何故なら︑巻六・九四四番歌は﹁倭へ上る﹂と︑明記

してあるが︑巻心・三五八番歌には︑倭や都という言葉は全く見ら

れないのである︒それに何を﹁羨しき﹂と言っているかというと︑

上述したように︑﹁武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島を背向に見つつ﹂と

いう状態を言っているのである︒これは︑具体的に言えば︑武庫の

浦付近の漁師が︑小舟に乗って漕ぎ巡りつつ︑淡路島を背にしなが

ら︑漁をしている状況であろうと思われる︒それ故︑この小舟の漁

師は︑もし家路に就くとすれば︑武庫の浦のある漁師の家に帰るは

ずであって︑都︵大和︶の方向へ帰る必要はないのである︒﹁漕ぎ廻

る﹂という表現は︑どう考えても都に一途に向かっている趣きでは

ないし︑﹁小舟﹂という表現も︑遠方に漁に来ている様子ではない︒

また︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂という表現も︑巻四・五〇九の丹比

真人笠麿の歌﹁淡路を過ぎ 粟島を 背向に見つつ﹂が︑筑紫へ下

る時の歌であることを考えても︑都に向かって船が進んでいること

をすぐに意味するのではないことがわかろう︒﹁粟島を 背向に見つ

つ﹂は︑あくまでも︑﹁淡路島を背景にしている﹂という意味であっ

て︑先に﹁背向に見つつ﹂の用例で考察したように︑見ている主体

が動いている必要性は何もないのである︒この歌の場合︑小舟は﹁漕

万葉集巻三・三五八番歌の解釈 二七

(12)

勝  俣 隆

ぎ廻る﹂動作をしているが︑﹁淡路島を背景にしている﹂状態から判

断すれば︑ほとんど動いていないに等しいほどの小さな動きである

ことになろう︒つまり︑上述したように︑この小舟は︑武庫の浦の

範囲から出ることのない小舟であって︑山部宿禰赤人のように︑伊

予国方面等に行く必要のない小舟なのである︒そして︑そのことの

保証が︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂であって︑淡路島を背景に見る︑

つまり︑どんなに動くことがあったとしても︑大阪湾から出ること

はないことを︑﹁淡路島を背景にして﹂という言葉で示していよう︒

赤人にとっては︑故郷の大和を遠く離れ︑瀬戸内海を西行し︑淡路

島を通過して︑天焦る夷に向かう自分の運命と比べた時︑故郷を離

れる悲しさや旅の辛苦とは無縁に︑家のすぐ近くの海で︑淡路島を

背景にして︑のんびりと釣り糸を垂れていられる武庫の浦の漁師の

境遇は︑この上なく羨ましい存在として目に映ったことであろう︒

そうした山部宿禰赤人の気持ちを端的に表わした言葉が︑﹁羨しき小

舟﹂という表現であったと思われるのである︒

七︑補 説

 以上︑﹁粟島﹂は淡路島であると比定する時︑巻三・三五八等の万

葉歌が最も合理的に解釈できると考えた︒但し︑これは︑あくまで

も︑第四・五〇九の丹比真人笠麿の歌や︑第七・一二〇七の歌など

に出てくる﹁粟島﹂を同じ一つの島であると見なす前提に立っての

論であった︒それ故︑これらの﹁粟島﹂は︑すべて異なるものであ

るという前提に立つならば︑当然結論は変わってこよう︒

 例えば︑神野富一氏は︑巻三・三五八の山部宿禰赤人の歌に出て 二八

      ︵3︶ くる﹁粟島﹂を︑紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島に比定している︒氏の根

拠は︑次の通りである︒

  ① ﹁粟島﹂は︑文献上も現在の地名としても︑広い陸地の側に

   ある小島として︑全国に分布している︒

  ②﹁粟島﹂を友ケ島に比定するのは︑古くからある見方である︒

  ③赤人の行き違った小船が武庫の浦の入江に漕ぎ入ろうとし

   ているならば︑ちょうど友ヶ島を背にすることになる︒

  ④友ケ島は︑その景観から︑大阪湾を行く旅人にとって印象

   深い南方の島であったと思われる︒

  ⑤赤人が﹁そがひに見る﹂のは︑常に沖の小島である︒︵第三・

   三五七︑第六・九一七︶

 これは︑一つの見方として確かに成立しよう︒ただ︑③は︑少し

引きつけ過ぎではなかろうか︒﹁背向に見つつ﹂は︑北砂凧として見え

るということで︑実際に背を向けているかどうかに拘泥しない方の

が良いのではないだろうか︒赤人が描いたのは︑あくまで﹁武庫の

浦を漕ぎ廻る小舟﹂であって︑一直線の方向性をもって航行する船

ではないからである︒

 また︑⑤は︑確かにその通りであるが︑巻三・三五七の﹁縄の浦

ゆ背向に見ゆる沖つ島﹂も巻六・九一七の﹁雑賀野ゆ 背向に見ゆ

る 沖つ島﹂も︑沖の島とは言っても︑上述したように︑せいぜい

六キロ程度しか離れていない極近い距離にある島である︒当該例以

外の万葉集の﹁背向に見つつ︵見ゆる︶﹂の用例十例のうち︑最も距

離の離れているのが︑巻十七・四〇〇三の大伴宿禰家持の歌の︑﹁背

向に見ゆる⁝⁝⁝高き立山﹂とある部分で︑それでも約三十キロメー

トルであったことは先に述べた通りである︒友ヶ島は︑神野氏も指

(13)

而しているように︑武庫の浦から六十キロも離れており︑用例とし

て最も遠距離のものになるし︑巻三・三五七の﹁蔓島﹂や巻六・九

一七の﹁玉津島﹂とは︑やはり異質であると思われる︒つまり︑﹁背

向に見つつ︵見ゆる︶﹂の場合は︑前述したように︑語源的に考えて

も︑背が向き合う様な対等な関係が必要で︑一方があまりにも遠過

ぎる場合には成立しなかったのではないかと思うのである︒

 また︑氏は︑﹁粟島﹂について︑次のように述べられている︒

   粟島を詠む万葉歌は︑︵中略︶すべて興味をひかれつつ遠ざか

  る対象として︑または逢えない嘆きに掛けて詠んでいる︒この

  歌の場合でも︑作者の行きちがう小舟は︑︵妻に︶逢うまい︵逢

  はじ︶という粟島を後ろ見る︵つまり︑前方には逢うべき妻が

  いるのだ︒だから作者はうらやましい︶という含意があると思

  レつ︒

 しかし︑﹁粟島を 背向に見つつ﹂が︑前方に逢うべき妻がいると

いう意味を含んでいるとすれば︑巻四・五〇九の丹比真人還暦の歌

の﹁粟島を 背向に見つつ﹂は︑一体どう解釈するのであろうか︒

笠麿は︑都の妻と別れて︑筑紫へ下るところであるから︑前方にあ

うべき妻がいるというのは︑この場合には当てはまらないのではな

かろうか︒

  ﹁粟島﹂の問題は︑やはり︑難問であることは間違いない︒本稿

では︑万葉集の﹁粟島﹂が﹁淡路島﹂の周辺域に多く出てくるとこ

ろがら︑淡路島を含めた周辺の島であろうと考え︑結論として︑淡

路島そのものが﹁粟島﹂の別名であったのではないかという結論に

達した︒しかし︑﹁粟島﹂が淡路島の周辺にもいくつもあったとすれ

ば︑結論が変わることは上述の通りである︒特に︑古事記・日本書 紀の﹁淡島︵洲︶﹂の扱いには多くの問題を残している︒﹁淡島︵洲︶﹂ と﹁淡路島﹂が併記されているのに︑敢えて同じ島であるとしたと ころには︑無理が伴うことは認めざるを得ない︒だから︑その場合 には︑神野氏の説のように︑友ケ島を﹁淡島︵洲︶﹂としてしまえば︑ 論理的には︑すっきりしたものとなろう︒ただ︑そのことと︑万葉 集の歌の﹁粟島﹂をどのように扱うかは︑必ずしも同じ問題である とは言えない︒少なくとも万葉集の歌については︑巻三・三五八︑ 右四・五〇九︑巻七・一二〇七の﹁粟島﹂を同じ島と見なす解釈が あっても良いと思う︒そして︑その時には︑﹁粟島﹂は淡路島の別名 であると考えるのが︑現時点では︑最も整合性のある解釈ではない かと思うのである︒

︵1︶ 本文中の引用文は︑古事記・二本書紀・風土記・祝詞・万葉集ともに︑ 注

  日本古典文学大系本に拠る︒但し︑漢字の字体は新字体に便宜上統一した︒

︵2︶ これらの島の比定については︑諸説あるが︑比定が無意味だという見解

  もある︒例えば︑西郷信綱氏は︑﹁アハシマ・オノゴロ島同様︑この三島も

 ある特定の島と決めてかからぬ方がいい︒﹂︵﹃古事記注釈﹄︶として︑アヂ

  マサの島も︑さけつ島も︑マヂマサの生えた島︑離れ島の意で︑固有名詞

  ではないと述べられている︒確かに︑一つの見方ではあろう︒しかし︑少

 なくとも︑﹁淡島﹂に関して言えば︑上代文献において︑淡路島を含む︑そ

  の周辺の島と考えざるを得ない描写がなされている︒例えば︑当該の万葉

 集の用例﹁粟島を背向に見つつ﹂の﹁粟島﹂が空想の島であるとは︑考え

 難いのであって︑やはり︑特定の実在の島に比定されるべき性格のものだ

 と言えよう︒

︵3︶ 神野富一氏﹃万葉の歌11人と風土lI⑥兵庫﹄︵保育者︑昭和六十一年

 九月︶に拠る︒

万葉集巻三・三五八番歌の解釈 二九

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