七二
アンドレ・ジッドの方法(1)
1生命の美学
陶 山
畦
﹁いいや︑この手記の終りとともに︑すべてがとじられ︑すべてが終るとは︑断言できない︒たぶん︑私はまだ
何かしらを書き加えたいのだろう︒⁝⁝最後の瞬間にも︑なお何かを書き加えるだろう︒⁝⁝眠い︑ほんとうに︒
けれど眠りたくはない︒眠りは︑もっと私を疲れさせるかもしれないような気がするから︒⁝⁝まだ何か言うべき
(1)
ことが︑あるのだろうか?それが何であるかわたしにはわからないが︑なお何か言うべきことがある︒﹂
生涯に︑彪大な作品を遺したジッドが︑死の床にある一九五一年二月十三日︑なお彼が書きつづけるだろうことを
しるしている︒
しかし︑﹁今ひとつの世界﹂死に旅立つ直前まで︑書き思索しようとした作家が︑つねに文学の破棄への誘惑に付
き纒われていたとしたら︑それは︑しごく奇異なことだろう︒だが︑彼の文学には︑その破産をみちびく︑内的矛盾
を秘めていた︒それは︑彼の生命の発見が︑必然的に︑彼を陥れた自己憧着である︒芸術作品は︑その本来の意味か
ら生と対立する︒この彼の芸術創造の矛盾に関わる諸問題を︑死の悲歌である﹃ヴァルテルの手記﹄︑生の讃歌であ
る﹃地の糧﹄の周辺から︑考えてみたいと思う︒
零
ミ
目次
一︑アンティーーヴィタリスムー神・鏡・ナルシス
ニ︑アンティnヴィタリスムー芸術の方法
三︑ヴィタリスム!官能主義と主体の崩壊
四︑ヴィタリスムー芸術の崩壊
一︑アンティHヴィタリスム神・鏡・ナルシス
へ2)﹁聖処女たちの悲しく︑すばらしき祈濤書﹂である︒﹃ヴァルテルの手記﹄のアランは︑なぜ︑狂気のうちに死ぬ
ことになったのだろうか︒二つの理由が考えられる︒ひとつは︑彼のエマニュエルへの恋の破綻であり︑他方彼の信
仰への絶望である︒しかし︑聖処女との恋愛小説と宗教的苦悶の祈薦書とを重ねあわせたこの作品の底に︑この二つ
を結ぶ共通な心理︑死をみちびく﹁幾何学的な線﹂が隠顕している︒
自己の魂が彼女の魂との共感のなかで︑融合することで︑ヴァルテルの恋は︑結晶するはずであった︒この結晶作
用は︑はじめ︑﹁理性﹂﹁精神﹂と表象される彼女の知性により浸蝕され︑つねに結晶を遮られているようにみえる︒
知性と感情が対立する︒やがて真実は︑エマニュエルの方には︑この愛の障害の原因はなく︑彼自身の肉体にこの
﹁愛の不可能﹂が見出される︒エマニュエルとの共感を求めてはばたいた天使的愛の飛翔は︑その羽毛の重み︑自己
アンドレ・ジッドの方法(1)七三
アンドレ・ジッドの方法(1)
の肉体の重みのゆえに︑失墜する︒
く︒ そして︑この愛の破綻は︑ 七四
その責を負う自己の肉体の破産にヴァルテルをみちび
﹁肉体により魂を結ぶこともできず⁝⁝欲望をいだくのは︑魂ではあるまいか︑あるいは肉体がひとつの憧憬の
ようなものに仮装しているのだろうか︑もう私には︑わからない︒魂は︑たがいに知り合うことが︑もうできな
へ3)い︒いちばんよく似た者どうしでも︑平行のままなのだ︒﹂
(4)このような︑ある﹁青春の本質﹂は︑魂と肉体との対立から︑宗教的苦悶をともなう︒この二元論は︑天使的なも
のと獣性︑天国と地獄︑純潔と肉欲との対立という宗教上の数々の教義に纒いつく︒ヴァルテルは︑複雑に錯綜する
スクリムピュル信仰の問題の綱の目にからまれる︒しかし︑くもの巣のようにはりめぐらされた﹁疑悩﹂のあいだに︑彼の恋愛の
定理と共通な心理の糸がとおる︒
はじめ︑宗教的苦悩は︑理性と信仰︑知的な推論と﹁心情に感じられた神﹂とのあいだにある︒
(5)﹁少しでも理性がまだ反抗するかぎり︑ときとして信ずることは不可能だ︒﹂
理性は︑明晰に働くが︑真実は︑相対性と多様性のなかに︑消えてゆく︒疲れはてた彼は︑真実の存在は︑自己の
裡にのみとどまり︑﹁ひとつひとつの精神が︑ひとつひとつの真実を創る﹂と︑主観性のなかに︑信仰を隔離する︒
しかし︑パスカル的心情の神も︑その有形な存在を彼に示しはしない︒はじめから︑彼の神は自己の投影であるから
だ︒サヴァージュによれば︑﹁その本質が︑自己の心理と矛盾する神の存在を受けいれることは︑彼にはできなかっ
た︒⁝⁝客観的な神への信仰は︑彼の主観的様相にたいして従属関係にある︒彼の信仰は︑彼の自我に従属してい
馬
へ る︒彼のもとめていたものは︑自己の喜びであった︒﹂
そして︑自己とは︑つねに肉体の重みを荷なうものだ︒彼の信仰は︑狂気と肉体の死によって購われるだろう︒
﹁魂が想像によって幻想を抱くことになるとき︑何も抱けず︑絶望するのは︑肉体だ︒⁝⁝主よ!私は︑あな
たにふれなければならない︒肉体の全てが︑あなたを願う︒⁝⁝私の腕は暗の中にのぼされる︒しかし︑何も抱け
ずに︑閉じられる︒絶望の裡に︑くみあわされる私の手⁝⁝﹂
(8)(9)ヴァルテルの恋と﹁神との友情﹂は︑ともに死への﹁論理的帰結﹂への道をたどる︒恋は魂の融合をもとめ︑理性
との対立をへて︑自己と肉体にぶつかり︑破れる︒同様に信仰は︑神との魂の同化をもとめ︑理性と肉体に阻まれ
る︒全ては︑自己から生れて︑その内部で増殖する︒神は︑彼の魂の投影であり︑彼女は︑魂の投射として︑﹁永遠
の存在﹂を獲得する︒彼は︑内部の鏡に映した純化された映像・理想像としての彼女をもとめたといえる︒ナルシス
が︑水鏡にうつる自己の姿を恋するように︑﹁あらゆる汚れから純粋な﹂エマニュエルに仮装した自己の映像を︑も
とめたのだ︒神も︑ヴァルテルの魂が投射した今ひとつの魂︑彼の内心で演じられる鏡の前でのっ身振り﹂に似る︒
﹁私の思念のなかに︑あなたは存在し︑思念は︑私の前にあなたの影像を投影する︒⁝⁝きみの存在は︑私の心
初濾かにしかない︒きみを夢みるときだけ⁝⁝きみは不滅の存在だ︒きみが生きているのは︑私の思念のなかだけ
だ︒﹂
そして︑
﹁それは︑まるであの伝説の中の恋する男(水の精)オンディヌを恋慕う男さながらだった︒ある夜のこと︑こ
アンドレ・ジッドの方法(王)七五
アンドレ・ジッドの方法(1)七六
舅は︑オンディヌを追い求めてい登つちに︑池の面に導つ鬼火に︹ア簾した彼女の姿を認めたさつ叢がして︑ゆれ動く幻に魅せられてとびかかるが︑夢破れたその指のなかで︑幻影はぼろぼろに崩れ︑彼は泣いた︒﹂
厳㈱訟
自分のものである魂を︑他者のなかに追いもとめる恋は︑ナルシスの行為に他ならない︒そして︑このような愛
は︑水の精や泉の水面とともに︑ふたつの像を﹁平行状態においている壁﹂︑﹁そこにぶつかり魂が傷つくし硬質なガ
ラスの鏡を想起させる︒鏡は︑映すものと︑映されるものとのあいだに︑硬い冷たい壁をなす︒鏡のなかの︑想像さ
れ純化された﹁今ひとつの世界﹂に︑肉体は入ることができない︒ヴァルテルは︑美しい彫像を前にして︑そこに自
我が溶けこめず苦悩する︒対称におかれ︑まじわることのない︑肉体と魂︑自己と純化された自己︑現実と第二の現
実とのあいだにあるブ滋ンズの覆いの固さ︑泉のなかに何も得ることのできないオンディヌの虚しさ︑鏡をこなごな
に砕いたとき︑そこに空虚な︑がらんどうの世界がひろがるだろうことを︑知る虚しさのなかで︑ヴァルテルは︑
鏡の冷たい感触を想いながら死ぬ︒﹁⁝⁝すがすがしいiー雪のなかでは︑美しい夢をみるといわれる︒雪は純潔だ
(12)
⁝⁝︒﹂
﹁夜︑鏡の前で自分の影像に眺め入った︒⁝⁝私は︑自分の目を︑その旨(鏡に映っている像)のなかに︑沈み
こませる︒すると︑わたしの魂は︑二重の外見のあいだを定めなく漂い︑頭がぼうっとしてきて︑どちらが反映な
のか︑自己は影像︑ひとつの非現実的な幻影ではないかと疑わしくなってくる⁝⁝いらだって︑彼は影像を壊しか
ねないがi幻影に穴をあけはしないかという恐れが︑破られた外観の後から︑虚無があらわれはしないかとい
(13)う恐れが︑彼をひきとめている︒﹂
鏡に関わる問題の終局は︑ここに見出される︒自己意識の分裂が生む影像︑現実の像を第一の現実とすれば︑第二
気
の現実をもとめる結果︑この幻影の世界が破られたときには︑のこされるものは︑無の空間︑心理的にいえば虚無︑
人格喪失の悲劇である︒鏡に自己を映す︒彼の認識のなかに︑その映された自己が︑エコーのようにもどってくる︒
彼は自己が虚像であることに気付く︒自己は虚像︑現実には存在しない︒自己は失われるi死︒このように︑ヴァ
ルテルの死は︑﹁幾何学的な線﹂のように明瞭な﹁論理的帰結﹂となる︒
二︑アンティUヴィタリスムその芸術の方法
へ14)死をまねく﹁生の稀薄の味﹂は︑ジッドの文学に色濃い影響をあたえている︒大かたのジッド研究家G︒プレ
(15)ー︑J・ドレーなどの指摘するように︑作品は︑彼自身の死を救う﹁エグゾルシスム﹂(悪魔ばらい)﹁ピュリフィカ
(16)シオン﹂(清め)となる︒ここでアンティーーヴィタルな芸術方法が生れる︒この方法は︑彼の生涯のある時期︑宗教
的存在と象徴主義的存在を調和させるという幸福な未来を約束していた︒
このナルシス的な芸術とは︑どのようなものだろうか︒ナルシスの自己愛は︑意識の内部にとざされる心理である
と同時に︑世界を視る形でもある︒P・アルブイは︑これを﹁認識の神話﹂と名づけている︒
﹁錫のはっていない鏡︑底には空虚なアンニュイが拡がる︒水の流れにしたがって︑うねってゆくイマージュ︑
しかしイマージュを波が拡散する︒ナルシスは魂が波を導くのか︑波が魂を導くのか︑わからなくなる︒彼が見つ
ゆ トルめる時︑それは現在である︒未来から︑虚像であるイマージュが存在にむかってひしめく︒イマージュは︑過去の
(17)なかに流れこむ︒しかし彼は︑すぐにそれが同じものだとわかる︒﹂
アンドレ・ジッドの方法(1)七七
アンドレ・ジッドの方法(1)七入
そして
﹁詩人とは︑視るものである︒それではいったい何を彼は見るのか楽園である︒
詩人は⁝⁝様々な象徴の上にかがみこみ⁝⁝不完全な形式を支えている存在(国窪Φ)の内的調和の譜調をつか
む︒⁝⁝存在の調和の譜調を︑おおっている仮の形を気にかけないで︑その形に永遠の形式⁝⁝外観の影にある真
実の形式(男o瞬ヨ①)を与えることができる︒
へ19)⁝⁝なぜなら作品としての芸術は結酷である︒そしてこの結晶は︑部分としての楽園なのだ︒﹂
水鏡に映るイマージュをみる︒それを﹁波が拡散してし︑世界は︑無限に多様に変化する︒しかし︑イマージュは
虚像だ︒虚像の世界をながめるうちに︑実像は失われる︒自己は影の影となる︒この空間には︑時問の観念は︑存在
しない︒鏡の意識のなかに︑時間は凝集する︒過去も未来もその認識の一点としての時‑現在のなかにのみ存在す
る︒波がたてば︑イマージュは散乱し︑鏡のむきをかえれば︑それはきえる︒その後には︑鏡の底にある空虚なアン
ニュイが拡がる︒しかたなく︑認識者は︑永遠に同じ姿勢で︑永遠の現在のなかで︑永遠の虚像をみつめることにな
る︒彼は﹁見る者﹂という永遠の認識の円環の裡に閉じこめられる︒しかし︑静諦の状態を破る行為﹁身振り﹂は︑
愛すべきイマ⁝ジュを拡散させる︒現実の抱擁は︑そのエクスタシーを荒廃させる︒だがナルシスの状態を続けるこ
とは︑アンニュイ入格崩壊︑狂気と死をもたらすだろう︒この二様の﹁楽園喪失﹂から︑彼を救うもの︑それは
芸術である︒永遠の認識者であることに倦んだナルシスは︑自己の映像である﹁不完全な存在の︑内的調和を幻視
し﹂真実の形を創造し︑永遠の客体として結晶させる︒ジッドは︑彼の人間としての存在のあり様である﹃ナルシス
賛鏡﹄を︑言語という客体のなかに再構築し︑その虚構を永遠に定着することで︑自己を救う︒
このような︑彼の芸術論を反映して︑﹃ヴァルテルの詩﹄の恋は︑﹁ふたたび眠るようにしょう﹂と結ばれる︒この
獣
へ20)詩は内面の孤独な﹁魂の状態﹂夢から始まり︑夢にもどる旅の環を結ぶ︒また﹃ユリアンの旅﹄の終りは︑﹁⁝⁝脆
︒・︒︒(21)いたままで︑私たちは︑暗い水の上に︑私が夢みる空の反映を探しもとめた﹂と︑とじられる︒﹁私たち﹂と﹁私﹂
と二つの主語が重ねあわされていることは︑作中の旅人たちも﹁私﹂の心理の多様な分身であることを示唆する︒全
ては﹁私﹂の主体の内部のできごとなのだ︒極北まで続けられた旅は︑私の夢から覚醒することなく︑無への旅をと
じる︒作者は︑彼の内的世界において︑内部の無数の鏡に乱反射するカレイドスコープのイマージュのように﹁自動
増殖﹂する心象風景の旅をくりひろげる︒しかし鏡の前での自己喪失と同様︑それは永遠の円環をなし︑文学形式へ
の執拗な探究の形でのみ︑作者は自己の確固とした存在を得ることができる︒
ジッドの作晶創造の方法は︑認識の一形式として︑理解される︒外界の対象の反映が︑彼の意識のなかでの対象と
なり︑それは理想的に形式化されたイマージュとなる︒このばあい︑ジッドにあっては︑彼の内部における主体と客
体の関係も︑その関係と作品のあいだも︑距離が近い︒ほぼ︑主体と客体は同一であり︑その密着した関係を︑直接
作品に転移しようとする︒このような︑主体の直接表現は︑文学史的にいえば︑ロマン主義に近づくが︑ジャンルの
(22)上では︑野情詩の広義な意味での概念に近づく︒J・イチエは︑彼の作品を﹁詩的あるいは好情的作品﹂であると︑
彼の認識方法の作品への反映を認める︒彼は︑詩人になるべきだったのだろうか︒A・グレは︑その問にこう答えて
いる︒﹁ジッドにとって詩を書くとは︑魂のささやきに⁝⁝身を浸すことである︒⁝⁝外界が彼に与えるものは︑苦
悩し陶酔する魂の状態に養われる印象と感覚だけ︒彼の詩は︑インスピレーション︑すなわち思考と文体のシステム
(23)の拒否という原初的段階に︑とどまる︒(マラルメと対蹄点にあるとマラルメの時代に生きたジッドは︑当然︑彼の
エグゾルシスムの容器として散文を選ぶ︒
アンドレ・ジッドの方法(1)七九
アンドレ・ジッドの方法(1)
﹃ユリアンの旅﹄と﹃愛のこころみ﹄を書いた直後︑彼の方法について︑こう記す︒ 八〇
﹁現実のものとすることのできない喜びの夢が私を苦しめていたので⁝⁝私はその夢を物語にする︒⁝・私は自
分の夢が呪縛を解かれることで︑喜びを感じる︒⁝⁝どの様な行為も⁝⁝客体から行為する主体に対する逆動的な
動きがある︒私が表現しようと思ったのは︑その相互関係の作用である︒他のものとの関係におけるものではな
く︑自己自身との関係作用でもある︒行為する主体は︑自己であり︑反作用として働くもの︑それは︑想像された(24)テーマである︒﹂
ジッドは︑内部の主体客体の相互関係を︑主体との永遠の絆にからませたまま︑外部の客体としての作品として︑
定着しようとした︒
このような主体と客体との距離の喪失は︑当時の伝統的な意味での文学形式Hロマンでは不可能だった︒その主要
な伝統が想起させる手順は︑体験する自己(主体内の自己と客体)を︑体験の行なわれている世界から︑全く別の客
観性である虚構の世界のなかに︑テーマという主観性として︑ほとんど無意識のように︑忍び込ませることだ︒これ
にたいして︑ジッドは︑自己の認識形態とその経験全体を︑直接︑作品のなかに客体化しようとする︒主体と客体
(人間と世界)は心の内部のイマージュのまま︑美学的客体化目形式の力によってのみ︑架空の距離をおかれて︑定
着する︒いいかえれば︑現実を描写しない彼には︑自己の変形11変奏曲という野情的方法だけがのこされていた︒し
かし彼には︑好情的韻文形式に︑自己を投影すること︑同時代のヴァレリー︑クローデル︑ジャムに開かれていた自
(25)己描写の方法は︑とざされる︒いわば︑﹁できそこないの詩人﹂となる︒にもかかわらず︑散文により︑彼は︑ほぼ
完全に︑自己の翻訳をなしえた︒ラルフ・フリードマンによれば︑ジッドの散文作品は︑散文における因果律と時間
の動きというわく組を逸脱してもなお︑人間の諸性格や︑モラルのドラマ化された形(認識と経験)を︑表出できる︒