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里芋とアイヌ語地名
はじめに 安野真幸
日本文化に関する包括的な展望の提供者、民族学・文化人類学の大林太良は、著書﹃東と西海と山﹄の中で、日
本の文化領域の中での九州の位置を述べ'中でも南九州は一つの下位地域をなしているとして一小野重朗や下野敏兄
の努力により'おそら‑古代の隼人に遡ると思われる習俗や民具'そしてそれらの分布地域も明らかにされ」たとし
た上で「これに反して古代蝦夷系の民俗とは何かということは、今日まで明らかにされて」いないとしている。
図
1
アイヌ語 の川 をあ らわす語に由来す る地名 (東北地方)
古代蝦夷の民俗に関する大林のこの発言は、実は'
井上辰雄・谷川健一との座談会(﹃歴史公論﹄一九
八
四年十二月号)の際、述べたものの繰返しである。こ
こから'大林の目から見て「古代蝦夷の民俗は何か」
の問いに答えるべき研究は、一九八四年、八六年まで
も'またおそら‑は一九九〇年までも存在していない
ことが分かる。ところで大林は'同書の五頁前で、山
田秀三のアイヌ語地名の研究により明らかとなった
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「東北地方を南北に両分していた境界線」を取り上げ、次のように述べている。
内(ナイ)とか、別(ベツ)という、アイヌ語の川をあらわす語に由来する地名は、東北地方では、東は仙台の
北の大崎平野、西は山形・秋田県境をなす線の北に、集中的に分布している(図1参照)。そして、この線はほぼ奈
良時代における北の蝦夷'南の和人の境界でもあった。おそら‑蝦夷は今日のアイヌ語に親縁の言語を話していた
ことと思われる。
ここで大林は「奈良時代に東北地方を南北に両分していた境界線は、その後どうなったのか」を問い、さらに「こ
の線は、今日の民俗においても大きな意味をもっているのであろうか?」と問い直している。蝦夷の民俗を明らかに
しょうと願うわれわれにとって、この問いは魅力的である。しかし大林は、前述した「古代蝦夷の民俗」をテ
ー
マとした民俗学関連の研究蓄積のなさを踏まえてであろうか、「私は今のところ、そのような区分を支持するような例を
思い出さない」としているのである。
一方、大林が「東北地方を南北二つの下位領域に区分する根拠はない」「私の利用した分布図は、むしろ東北地方が
一つの大きな領域に属していることを示唆している」として挙げた例は、①「民家の形式」や②社会観織として
「本
分家集団をエド‑シと呼ぶ」ことや「隠居が分住・別居」する慣行である。大林はここから、むしろ「東北地方にお
いては、太平洋側と日本海側とに二分される傾向がしばしばみられる」とし、「古代蝦夷の段階においても'生活様式
においては'奥羽山脈の東と西では、ある程度の相違があったことを予想させる」と述べている。
確かに太平洋側は夏の間北の海から吹き付ける冷たい「やませ」の影響で低温が多‑、冬は少雪なのに対し、
日
本1 7
海側は日本海流の影響で夏温か‑、冬は雪国となるなど、東北地方を東西に二分することには充分な根拠があろう。
しかし大林は、さらに「文化領域や境界線は時代を超えて持続する傾向が見られるものだが、東北地方の北半と南半
の区分については認められない」「蝦夷と和人の対立する文化的伝統が東北地方を二分して今日まで継続しているわけ
ではない」「全体的に見れば、東北の民俗は和人の民俗だ」とまで断言しているが、はたしてそれで良いのだろうか。
大林自身も認めているように、少な‑とも歴史学・考古学の世界では、古墳時代・奈良時代のおよそ五百年間'こ
の線が現実に東北地方を南北に両分しており'「蝦夷とは何か」を論ずる際大いに注目されているのである。古墳時代
を象徴する「前方後円墳」や大化前代の「国造」の分布の北限は共にこの線であり'また同時代の東北地方に見られ
る北海道式土器の南限もこの線なのである。
図
2
弥生式時代文化地図(江坂埠弥氏原図)大林が言うように「文化領域や境界線は時
代を超えて持続する」のが一般なのに、本
当に「東北の場合は認められない」のだろ
うか。
これに関連して話題となるのが稲作の問
題である。江坂輝弥の「弥生式時代文化地
図」(図
2
参照)に見られるように'かつて東北北部は北海道と同様稲作の伝播しない
地帯と考えられていた。しかしながら、津
軽平野の田舎館村垂柳遺跡からは、今から
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二千年以上も前の弥生中期の、また続いて砂沢遺跡からは弥生前期の水田が発掘されたことから、水田稲作が東北北
部に及んでいたことは確実となった。このことは新聞でも大き‑報道され'北東北はこれまで北海道のアイヌ世界に
近いとされてきたが、それは誤りで'北東北は南東北と同様、古‑から日本に属していることが強調された。
現在、津軽地方を含め秋田・山形・宮城など東北は全体として稲作の盛んな日本の穀倉地帯である。これに対して、
かつて北東北には稲が出来なかった・弥生文化は及ばなかったとの学者の説は、現在の在り方と異なっているので、
北東北の人々には北東北異質論を意味し'認めたくない過去であった。それゆえ'垂柳・砂沢遺跡から水田遺構が発
見されたことは、学術的に大きな意味を持つばかりか、一般の人々には、北東北は弥生時代から水田稲作地帯で、
異
質ではなかったことの証拠となり'一種の劣等感からの解放をもたらすニュースとして、歓迎されたのである。Zしかし、I九七四年に行われたシンポ.,,hウム「北方の古代文化Jの中で、考古学の石附喜三男は「弥生文化の北∩J限」について
A
のように述べている。また最近「蝦夷論」で活躍している考古学の工藤雅称も'B
のような主旨のことを述べている。
A
最初に弥生文化の観点から申しますと、だいたい伊勢湾'若狭湾のあたりをつなぐ線まで'弥生式時代の前期にかなり急激に伸びてきますね。そこでいったんストップしてしまう。そこからさらに東のほうに展開するのは、
かなり縄文文化のにおいの濃い弥生文化として伸びてい‑わけですが、仙台平野まででやはりそれがいったんス
トップする。だいたい宮城県の北部ぐらいまで、それと山形県の範囲まででストップするということはいえるだろ
うと思うんです。(中略)だいたい仙台平野までの弥生文化の遺跡ですと、たとえば収穫具としての石包丁とか、糸
によりをかけるのに使った紡錘車が出てきます。機織技術というのは弥生文化のまた一つ大きい特徴で、そういう
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ものが仙台平野までは見られるのですが、田舎館の遺跡なんかからはぜんぜん出てこないんで'やはり田舎館の遺
跡が稲作を行ったとしても、仙台平野までの弥生文化とはかなり異質な感じがするんです。
B
この重刷遺跡からは縄文文化に連なる土偶や石鋲も同時に出土するので、垂柳人は稲作によって従来の生活を一変し、弥生文化に帰依したのではな‑、狩猟・採取の縄文的な生活・信仰をしていたと考えられ、またその後の
気候の寒冷化で、稲作前線は一挙に南下し、古墳時代の五世紀頃には日本海側では新潟平野、太平洋側では仙台平
野、大崎平野を北限とし、内陸部では会津盆地・米沢盆地、山形盆地が北限となった。
工藤の考えに従うなら、南東北に、水田稲作や畑作などの農耕に生活を大き‑依存する弥生文化が見られるとき、
津軽など北東北の人々は縄文時代とあまり変わらない生活を行い'一時期稲作をその生活の内部に採り入れたが、
そ
の後の寒冷化の中で、稲作を捨てて再び縄文の世界に戻っていったと纏めることが出来そうである。古墳時代・奈良
時代の東北の蝦夷たちが北海道と同じ続縄文人なのか否かは、大きな問題であり、工藤説についていろいろ考えてみ
なければならない。
それはともあれ、今私がここで問題として取り上げ、論じたいのは、大林の立てた問い「奈良時代に東北地方を南
北に両分していた境界線が、その後どうなってしまったのか」「この線は、今日の民俗においても大きな意味をもって
いるのであろうか‑」なのである。私は専門的な民俗学の研究者でなく特別学問的な訓練を受けた経験もないが、
二十年近‑津軽に生活するものとして、南九州で小野や下野が行ったと同じような北東北の民俗を研究することは、
出来ないだろうか。
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芋煮会
「東北の秋は︽芋煮会︾で一色だ」などと言われ、「芋煮会」は東北の秋を代表するものであるという。仙台に長‑
いる私の友人は、東京で遇うたびにこの「芋煮会」の楽しみを語って‑れた。気の合った仲間たちと河原で鍋を囲み、
酒を汲み交わすのだという。「芋煮会をやったか」と尋ねることが秋の挨拶で、いろいろな仲間と何度も鍋を囲むとい
う。山形県・宮城県・秋田県横手出身の弘前大学の学生に聞‑と、「芋煮会」とは、町内会の行事であったり、遠足や
運動会と並ぶ秋の学校の公式な行事で、どこの鍋がおいしいか、味比べをした経験を皆持っている。
こ の
「芋煮会」はもともと山形で盛んだったものだが、最近仙台地方にも及んだものだそうだ。鍋の中には里芋・こんにゃく・肉・ねぎなどを入れるのだが、何でも仙台と山形では鍋の中味が違い、仙台が味噌味で豚肉を使うのに
対して、山形が醤油味で牛肉とのことである。この「芋煮会」について、作家の戸川幸夫は昭和七年旧制山形高校入
学当時も盛んだった山形名物の芋煮会の思い出を、「わが山高時代の芋煮会」と題し﹃日本の食生活全集⑥﹄﹃聞き書4
き
山形の食事[(以下﹃山形の食事﹄と略す)の
「月報」に小文を寄せている。その中で一番関心を呼ぶのは「︽男女七歳にして席を同じうせず︾といった風習が厳然として守られていた」ころな
の に
「秋の行事として行われるこの芋煮会の時ばかりは例外で、男女交際が大目に許されていた」として、次のように述べているところである。
場所取り役の忘れてならないのは女子師範学校の生徒たちが屯する場所の近‑を占拠する事だった。不思議なも
ので以心伝心と言うか敵もわれわれの近‑に陣取るのが通例だった。やがて煮炊きが始まり酒が回って‑ると、口
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が う ま ‑ て 強 心 臓 の 奴 が 物 見 の 役 に 選 出 さ れ る 。 こ れ が 女 子 師 範 生 徒 た ち の 陣 営 に 乗 り 込 ん で 、
「う ま そ う だ な 、 や っ ぱ り 女 子 で な け れ ば 駄 目 だ 、 俺 ら ん と こ ろ は さ っ ぱ り 味 悪 ‑ て ‑ ‑ 」 と 、 切 り 出 す 。 敵 に も
勇 敢 な の が い て 、
「だ ぼ 俺 (そ の 頃 の 山 形 女 性 は こ う 言 っ た ) 味 付 け て や っ か 」
「頼 む 」 と 物 見 役 は 彼 女 を わ が 陣 営 に 連 れ 込 む 。 そ れ が き っ か け で 両 陣 入 り 乱 れ 、
「 い っ そ の こ と 一 緒 に な ん べ や 」 と な る 。 そ の 後 ど う な る か っ て ? 時 代 が 時 代 ゆ え 日 暮 と 共 に 「面 白 か っ た ス や 」 と 一 言 遺 し て 右 ひ だ り 。 翌 日 か ら ほ 町 で 合 っ て も 知 ら ん 顔 の 半 兵 衛 で あ っ た 。
芋 煮 会 の 場 所 が 「河 原 」 で 、 そ こ で は 普 段 許 さ れ な い 「男 女 交 際 」 が 大 目 に 見 ら れ た と あ る こ と か ら 、 こ の 芋 煮 会
の 場 に は 網 野 善 彦 の 言 う 「無 縁 」 の 原 理 が 働 い て い る こ と は 明 ら か で あ ろ う 。 と な る と 、 こ う し た 会 食 の 習 慣 は か な
り 昔 か ら あ っ た と 思 わ れ る 。
例 え ば 、 日 本 の 古 代 社 会 の 有 様 を 記 し た ﹃ 風 土 記 ﹄ に は 、 人 々 は 春 秋 に 温 泉 や 磯 、 泉 、 丘 な ど に 集 い 「う た げ 」 を l.︻J 行 っ た と あ る 。 ま た 伊 藤 幹 治 は ﹃宴 と 日 本 文 化 [ の 中 で 、 こ う し た 野 外 の 祝 宴
=「う た げ 」 の 古 俗 を 「 カ ガ イ ・ 歌 垣
・ 山 遊 び ・ 磯 遊 び ・ 花 見 」 等 々 と 数 え 上 げ て い る 。 現 在 の 「芋 煮 会 」 が 古 い 時 代 の 「う た げ 」 の 有 様 を
想像さ せ
るこ
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