ネイボッブの弁明
浅田實
一︑はじめに
先に本誌に発表した論文﹁S・フットの﹃喜劇﹄とネイボッブたち﹂のなかで︑主としてとりあげた人物はリチャー
ド・スミス将軍であった︒喜劇﹃ザ・ネイボッブ﹄(三幕)の主人公サー・マシウ・マイトのモデルとされたこの将軍に
ついては︑当時悪名の高かったネイボッブの典型としてよく知られていた︒しがない﹁チーズ売り﹂の出自でありながら
巨万の富をインドから持ち帰った﹁成り上り者﹂で︑﹁御大尽﹂にふさわしく地主となり高級クラブに出入りし︑人びと
の墾歴を買ったことなども︑話題にした︒﹁御大尽﹂そのままに舞踏会︑夕食会に出入りしたほか︑莫大な富を背景に国
(1)会議員として活躍したこと等についても︑そこでふれた︒
一八世紀の比較的静止的な社会にあって︑その分をはるかにふみ超えた﹁成り上り者﹂の典型であっただけに︑スミス
に代表されるネイボッブたちは︑世間から批判され非難された︒軽蔑され︑椰楡されたりもした︒わずかの年月をインド
で暮らした結果︑そこで身体中一杯に派手な生活を身につけて来た︑というので︑人びとの冷やかな嫉視の眼を免れるこ
とはできなかった︒一八世紀末当時の英国では最上級のジェントリーでも︑平均所得が年三五一〇ポンドといわれていた
(2)その時に︑二〇万ポンドとも三〇万ポンドともいわれる資産をもって帰って来たのである︒しかもアジアの虚飾と虚栄を
身につけての帰国であった︒人びとの眼にもはなはだ傲慢に写ったし︑﹁許せない﹂との感情を隠しきれなかったのも当
然と思われる︒
しかしフットの﹃ザ・ネイボッブ﹄上演(一七七二年六月初演)とともに︑いよいよ悪名の高くなったリチャード・スミ
スだったとはいえ︑このようなスミスを弁護し︑支持する声もないわけではなかった︒ここでは︑そのようなスミスを弁
護した一七八三年公刊の一史料を典拠として︑先稿とは異なった角度から﹁ネイボッブ﹂の一側面をみていきたいと思う︒
(3)ありていにいえば︑﹁下院選抜委員会の議長であるリチャード・スミス将軍の擁護﹂というこの史料は︑ただ単に﹁にせ
(4)のネイボッブ︒・崔二︒ま葛げ︒げ﹂の代表と酷評されたスミス将軍一人を擁護したものではなく︑もっと広く︑ネイボッブ全
般を弁護し擁護したものであった︒さらにいえば︑東インド会社とその代表であったウォーレン・ヘイスティングズをも
擁護したものであった︒あるいはスミス将軍の擁護は一部で︑へースティングズと東インド会社を擁護し︑さらに産業革
命を迎えた当時のイギリスで︑東インド会社がどのように活路を見出すべきかを提示した意欲的な論文と︑みることがで
きる︒
二︑スミス将軍と史料の著者
この史料﹁スミス将軍の擁護﹂は︑一七八三年三月二二日にロンドンで刊行されたと末尾に記されているが︑パンフレ
ットとしては重厚な一四五頁から成っている︒ロンドン︑ピカディリーのジョン・ストックデイルという書店から著者の
ために印刷されたというが︑著者名は記されていない︒しかし大英図書館のカードによると︑この史料の著者はジョセ
フ・プライスとなっている︒同目録力ードによると︑ジョセブ・プライスは少なくとも一二点以上もの﹁パンフレット﹂
を出している︒なかには︑﹁無名の著者により発行されている︑だが(実際には)東インド船の船長であった著者は借財の
(5)ために投獄中である︑﹂と断ったものまである︒しかし少なくともここにとり上げたものは︑J・プライスによると明記
されている︒
ところがこのJ・プライスという人がどういう人かが︑つぶさにはわからない︒もちろんD・N・Bなどには記載がな
い︒プライス自身が書いた﹁ヨーロッパ︑アジア︑アフリカ旅行と題して最近刊行されたものについての若干の観察と所
見﹂によれば︑かれは一七七〇年頃自由商人としてカルカッタで活躍していた︒そして言うには︑﹁かつて私は私自身の
(6)信用で︑海上を航行する二四隻の船︑スノゥ型小帆船(横帆装置)︑スループ型帆船(一本マスト)をもっていた︒﹂またウ
ォーレン・ヘースティングズは一七七三年に船主であったプライスに︑カルカッタから広東へ航行していく三隻の地方船
(7)の積荷を担保として三ラーク・ルピー(三万六〇〇〇ポンド)を貸している︒同じ一七七三年にオランダ・アヘン協会は公
的認可を受けて︑カルカッタ船主ジョセブ・プライスと契約し︑サラi号というかれの船でバタヴィアのアヘンニ○○箱
を運んだ︒こうしたことから︑一七七〇年代当時ジョセブ・プライスは多分ベンガル最大の船主であったと︑考えられて
(8)いる︒
回顧録作家ウィリアム・ヒッキイが記述しているところによると︑プライスはまた海軍提督として︑対フランス︑ポン
ディシェリー攻撃艦隊の指揮にも従事していた︒﹁リゾリューション号とロイヤルシャーロッテ号という二隻の非常に立
派な商船が︑戦艦として装備され礒装された︒これらは海軍を支持するためにマドラスに送られることになっていた︒こ
れらの船の指揮はジョセブ・プライス氏がとった︒この紳士は以前には海上勤務をしていたが︑それを辞めて商人として
大きい財産をつくった︒いつもへースティングズ氏の愛顧をうけていた︒かれは提督の称号をもっていたので︑リゾリ
ューション号の甲板に提督旗をかかげた︒かれの下に船長が乗船していた︒﹂こうして一七七八年四月中頃プライス提督
(9)とその艦隊とはマドラスに向けて南下していった︒マドラス艦隊のために重要な貢献をしたと思われる︒
このように船主︑商人あるいは海軍提督として一七七〇年代頃までベンガル方面で活躍したジョセブ・プライスであっ
たのだけれども︑﹁借財のために投獄中﹂との先の記述でも知られるように︑祖国に帰ってからの晩年は生活がきびしく︑
(10)﹁生涯を破産で終った﹂という︒生没年代も明らかでないし︑年令もわからない︒
それでもL・S・サザランドは︑その著書のなかで︑プライスがウォーレン・へースティングズに送った通信文史料を
引用している︒その日付は︑一七八一年一月一三日︑同年六月一日︑一七八三年九月三日となっている︒このうち最初の
プライスの手紙にはこうある︒﹁いつも下院で多数党の側に投票している多くの人たちは︑︹ベンガル︺最高法院の司法権
旨二ω岳︒二8︒{芸︒ωξ冨ヨ①Oo⊆詳が非常にせまく限定されているのをとても喜んでいる︒しかし下院での仕事を力で押
し進めようとして︑自発的に申し出た出しゃばりのスミスは︑⁝⁝﹂と︒また六月一日の手紙は︑﹁ここにいるすべての
穏健な人びとがどれほど平和を熱望しているか︑あなた︹へースティングズ︺には想像もできますまい︒閣下︑神の愛と
閣下御自身のよき名声とのために︑インドを一つにしてかれらに与えてやって下さい︒ほとんどいかなる条件であっても
(11)インドの全般的平和が閣下に与えてくれる以上の名誉をあなたにくれるものは︑他に何もないのです﹂と述べている︒こ
うしたことから︑少なくとも一七八一年には史料の筆者ジョセブ・プライスはロンドンに帰っていたと考えられる︒手紙
の相手であるヘースティングズは一七八五年までベンガルに滞在していたが︑プライスの方は一七八〇年ごろに帰国し︑
インド問題が論議されている下院の状況をへースティングズに伝えていたわけである︒先述したようにプライスは一二点
以上ものパンフレットを書きのこしたが︑そのうち﹁ベンガル在の自由商人からウォーレン・へースティングズへの五通
の手紙﹂が一七七八年に書かれた以外は︑すべて一七八一年以後のものである︒八二年に書かれた﹁エドマンド・バーク
(12)への手紙﹂二点を除いて︑他すべてが一七八三年付けとなっている︒
時あたかもイギリス国内では︑一七八二年三月のノース内閣の崩壊から︑一七八三年一二月の小ピット内閣成立にかけ
ての政界の混乱期であった︒ロッキンガム内閣︑シェルバーン内閣︑ノースとフォックス連立内閣と続くこの間︑東イン
ド会社もまた︑財政難と会社内部でのへースティングズ支持派と政敵フィリップ・フランシスとの相剋とで混沌をきわめ
ていた︒そうした中︑東インド会社批判の急先鋒であったエドマンド・バークが中心となって一七八一年一二月四日︑東
(13)インド問題を検討する﹁選抜委員会目冨ω巴Φ90︒ヨ巨§①﹂がつくられ︑一七八三年一二月まで活動を続けていた︒こ
の委員会は︑はじめまず﹁ベンガル︑ビハール︑オリッサ各州での裁判行政の状態を考慮すること﹂をひき受けた︒その
後更に﹁東インドの英国支配地がこの国にとって最高に安全で有利に維持され統治されるには︑どういう風にすればいい
のか︒そして現地住民の幸せが最善に助長されるには︑どういうやり方で統治すればよいかを考慮する﹂ようにとの指示
(14)がつけ加えられた︒
ヨーロッパ人たちがこんな遠い国の岸辺に足場をもち︑かれらの意志をこのような外国人社会に押しつけることは歎か
(15)わしい等々の意見が︑下院で表明された︒バークが中心となってかきたてた人道主義的怒りの表現であったが︑そのバー
ク自身がマドラスにいた甥のウィリアム・バークとか︑へースティングズに敵意をいだいていたフランシスとかに︑最初
から強い肩入れをしていたのであるから︑その人道主義も言葉だけのものとなるきらいがあった︒いずれにしても建設的
なインド問題の政治的改革をやるというよりも︑現地に行った人たちの乱用をさらけ出し︑個人を攻撃することに︑バー
ク自身もはるかに大きい興味をもっていたと思われる︒
それでもとにかくこの委員会は一七八三年末までの間に︑ベンガル行政の様々な局面に関する一一の報告をまとめて発
表した︒そのほとんどがへースティングズの非難をのせているのは︑バークの意図をあからさまにみせるものであった︒
(16)やがてはじまるへースティングズの弾劾裁判を予知させるものでもあった︒ところがこの﹁選抜委員会﹂は︑当時すでに
悪名の高かったリチャード・スミス将軍を議長に選出した︒一七八二年二月五日﹁委員会﹂は第一次報告書を発表したが︑
(17)その後間もなくスミスを議長に選出する法案を可決した︒それから間もなくして執筆されたと思われる史料﹁下院選抜委