• 検索結果がありません。

江戸時代の興津 (現静岡県静岡市清水区興津) と朝鮮

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "江戸時代の興津 (現静岡県静岡市清水区興津) と朝鮮"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

江戸時代の興津 (現静岡県静岡市清水区興津) と朝鮮

− 地域の中の朝鮮 を学ぶための教材研究−

糟 谷 政 和

1. はじめに

筆者は勤務校での日韓 (朝) 交流史を扱う授業では、 秀吉の朝鮮侵略 (文禄・慶長の役、 壬辰倭 乱) の後、 江戸時代の朝鮮通信使を善隣友好の時代の事例として取り上げることにしている。 この 朝鮮通信使は近年、 善隣友好の使節として積極的に評価され、 かつ現在の日韓の交流事業にも活か してゆこうとする自治体もある。 同様に日韓 (朝) 交流の歴史教育の教材として朝鮮通信使はふさ わしいものとされることが多いが、 それは現在の私たちが朝鮮通信使を日韓 (朝) の交流事例とし て肯定的に評価しているからであろう。 しかしその肯定的評価の根拠を江戸時代から現在までの各 段階で確定することはむずかしい。 この問題に対する一つの解答として、 倉地克直氏は、 元禄5年 (1692) に岡山藩領内の船が漂流して朝鮮に漂着した際に、 乗船員たちにとって地元岡山での朝鮮 通信使見聞が漂着先の朝鮮でのコミュニケーションに有利に働いたのではないかと推測している ここで倉地氏が挙げたような事例は、 江戸時代に朝鮮通信使が通行した各地にありうると思われ るが、 静岡県の興津 (現静岡県静岡市清水区興津) ではどうであろうか。 合計12回とされる江戸時 代の朝鮮通信使の往来のうち、 慶長12年 (1607) と寛永元年 (1624) の2回は清見寺に宿泊し、 第 3回目の寛永13年 (1636) 以降、 宝暦14年 (1764) までの計8回は興津宿の隣りの江尻宿に宿泊し

いずれにしても、 これら10回の朝鮮通信使は東海道を往来したのであり、 清見寺前や興津宿を通っ たのであった。 この清見寺は朝鮮通信使の宿泊場所にもなったことがあり、 また通信使揮毫の扁額 や漢詩文などが多く現存することで有名である。 (写真1)

しかもこの興津に明和7年 (1770) に朝鮮船が漂着したのだが、 この朝鮮船漂着取り扱いの経過 の中で、 当時の興津の人々にとってそれまでの朝鮮通信使見聞と朝鮮認識との間に何らかの関係性 があったのか否かを明らかにすることが課題である。 しかし今回は、 その課題解明のための準備と していくつかの関連史料を検討したい。

(2)

2. 朝鮮船興津漂着に関する史料的検討Ⅰ−郷土史関連刊行物

まず自治体図書館等 (静岡県立中央図書館、 静岡市立清水興津図書館) で比較的容易に調べるこ とのできる刊行物の中にはつぎのように記述されている。

興津地区年表 (清水市合併20周年記念実行委員会編集発行、 昭和56年6月) につぎのように まとめられている。

1770

明和7 5. 5 大風雨により夜に朝鮮国の船が興津駅の海浜に漂着。 代官巡見の上江戸表に 言上、 鮮

13人逗留

6. 6 漂着鮮人の一行、 大坂に向け出発

11. 朝鮮人漂着の賄方について中宿町百姓衆より名主達へ、 連印で一札を書く 1772

明和9 1. 一昨年の朝鮮人漂着の折り、 逗留中の賄金25両を役所から借用したが、 その 返納金の割合につき中宿名主へ問屋年寄衆が一札を入れる。

東海道興津宿物語 (川崎文昭 [清水市史編さん室勤務] 発行、 1978年) に江戸時代の興津宿 についてつぎのような解説がある。 (同書、 2頁)

興津宿は、 この峠 [薩

峠−引用者注] の麓の洞村から清見寺門前までをいい、 中心部は本宿 (現興津本町) と中宿 (現興津中町) の二町から成り立っていた。

写真1 清見寺 (静岡県静岡市清水区興津、 2003年10月13日筆者撮影)

(3)

興津町誌 中巻 (興津公民館、 1950年)、 第7章 「口碑伝説」 中の 「朝鮮人」 の項につぎのよ うにある。 (同書、 246頁)

朝鮮人 (駿國雑志巻之四十一)

傳云。 明和七年五月五日、 大風雨、 朝鮮國領厳縣の船一艘、 庵原郡興津駅海濱に漂着す。 御代 官柴村藤三郎某、 巡見の上、 江戸表に言上する処、 大阪に送り、 長崎に遣べき旨仰出さる。 同 年六月五日、 漂人等興津を発して大阪に送らる。

興津町誌 別巻 (興津公民館、 1950年) の 「興津町史年表」 中の1770 (明和7) 年の記事とし てつぎのようにある。 (同書、 200頁)

5月 大風雨あり、 朝鮮船興津海浜に漂着す

興津町誌 第4巻 (静岡県興津町役場、 1913年)、 第7章 「口碑伝説」 中の 「朝鮮人」 の項 (静岡県静岡市立清水興津図書館所蔵本:2005年4月23日確認)。 (本書の当該部分を若干修正し引 用したのが③の 興津町誌 の記述と思われる。 なお 「明治七年」 は 「明和七年」 が正しい。)

朝鮮人 (駿國雑志巻之四十一) 傳云。 明

七年五月五日、 大風雨、 朝鮮國領厳縣の船一艘、 庵原郡興津駅海濱に漂着す。 御代 官柴村藤三郎某、 巡見の上、 江戸表に言上する処、 大阪に送り、 長崎に遣べき旨仰出さる。 同 年六月五日、 漂人等興津を発して大阪に送らる。

上記刊行物の中で参考文献とされている 駿國雑志 における当該部分の記述というのは、 駿 國雑志 巻41の 「外夷 朝鮮人」 の項目につぎのように記されている。 なお引用は、 活字版 駿國 雑志 3 (吉見書店[静岡市]発行、 1977年。 静岡県立中央図書館蔵) によった (同書、 354頁)。

傳云。 明和七年五月五日、 大風雨、 朝鮮國領厳縣の船一艘、 庵原郡興津駅海濱に漂着す。 御代 官柴村藤三郎某、 巡見の上、 江戸表に言上する処、 大阪に送り、 長崎に遣べき旨仰出さる。 同 年六月五日、 漂人等興津を發して大阪に送らる。 其破船は浦傳ひ長崎に送る。

さらに 駿河國志 巻4に、 明和7 (1770) 年の記事として 「朝鮮船興津へ漂着」 と題してつぎ のように記されている。 なお引用は、 孔版印刷版 駿河國志 上巻〈駿河叢書第26篇〉(編者:北 村三郎、 発行者:飯塚傳太郎、 発行所:志豆波多会 [静岡市]、 1935年発行。 静岡県立中央図書館 蔵) によった (同書、 47頁)。

(4)

同七年五月五日大風雨有之候処當國奥津宿之浦朝鮮國之内領巖懸と申所之船一艘漂着、 駿 付御代官見分、 従夫江戸表言上有而大坂送り夫より長崎送り届け候様下地有之、 六月五 日奥津より出立致し申候、 朝鮮人都合拾三人なり、 損じ候船は浦傳ひに送り申候

3. 朝鮮船興津漂着に関する史料的検討Ⅱ− 通航一覧

すでに池内敏氏は、 日本側史料 (「両国往復書謄」 「漂民被仰上」 「朝鮮人日本国江漂流記」) と朝 鮮側史料 ( 同文彙集 辺例集要 ) に基づいて、 漂着年月日が明和7 (1770) 年5月5日の朝鮮 船の日本漂着記事として出身地・漂着人数 (職業) ・漂着地・経過・ (典拠) などについてつぎの ようにまとめている

全羅道霊岩 済州 、 37人1艘 (途中24人死亡) 34人1艘 (うち21人溺死) 、 駿河 興津、 1 月28日に霊岩を出帆して同道所安嶋へ商売のため向い漂流。 6月25日対馬廻着、 護送使・藤公 通〈根〆吉兵衛〉

この池内氏の整理を念頭におきつつさらに考慮しなければならないのは 通航一覧 に収録され た関連史料である。 通航一覧 巻136 (朝鮮国部112漂流) の明和7年の項に、 当該興津漂着朝鮮 船の取り扱い経緯についてつぎのようにまとめられている (なお史料中の 「同七庚寅」 は明和7 )。

同七庚寅五月、 駿河國興津に廬原郡、巌縣の商船漂着、 雑商十三人生存す、 御下知によつて駿府御 代官小田切新五郎

、 陸地大坂町奉行所に時に守奉行たり、谷大和差送る、 空船は遠江國海上にて破船せり、 同所において、 こ れを宗對馬守義暢陽家人に引渡し、 かの國に護送す、

そしてこの記述の後に、 根拠となった史料の引用が続く。

まず 「明和七年庚寅五月、 駿州沖津駅朝鮮人漂着一件覚 (寅六月)」 (出典は 続談海 ) が引用 されていて、 朝鮮船興津漂着の5月5日から生存者13名の大坂到着までの経緯や漂着人名など記さ れている。 さらに5月5日夜の漂着朝鮮人3、 4人が 「ちょせん」 と言いながら興津宿の百姓清兵 衛の家に助けを求めてきた状況と漂着朝鮮人姓名年齢や漂着船の形状などが記された史料が引用さ れている (出典は 落穂雑談 一言集 )。 さらに漂着朝鮮人に対して興津の町医者が筆談でおこ なった質問と答えが引用されている (出典は 視聞草 )。

そして最後に、 興津漂着の生存者13名が無事に対馬経由で朝鮮に送り届けられたことを示すもの として、 通航一覧 の当該項目編者は 「按するに、 是前年駿河國興津に漂到せし朝鮮人を護送せ し回答なるへし」 として礼曹参議の回答が引用されている (出典は 続談海 )。 たしかにこれは通 例、 日本に漂着した朝鮮人を対馬経由で送還した際に、 それに対して出された謝辞と贈物目録にあ

(5)

たる 礼曹参議答書 だと考えられなくもない。 ただし、 通航一覧 での当該 「回答」 引用は日 付が 「明和八年辛卯年」 「辛卯年七月日」 となっていること、 さらに当該 「回答」 引用部分が 文彙集 巻33附編漂風の辛卯条 [1771] に収録の明和7年12月28日石見美濃郡漂着の朝鮮船生存者 送還時礼曹参議答書に極めて似ている。 これらからみて 通航一覧 引用の当該の礼曹参議の回答 なるものは今後再考の余地があるように思う。

倉地克直 近世日本人は朝鮮をどうみていたか 角川書店、 2001年。 特に第4章 「漂流民の朝鮮 体験」 (同書、 165-198頁) 参照のこと。

なお元和3年 (1617) 通信使は京都止まり。 そして文化8年 (1811) 通信使は対馬止まりであっ た。

池内敏 近世日本と朝鮮漂流民 臨川書店、 1998年。 なお引用は同書巻末付録の 「近世朝鮮人の 日本漂着年表」 該当年記事の一部である (同書、 61頁)。

なお 通航一覧 からの引用および検討対象となった明和7年の項は、 1913年初版・1967年復刻 (清文堂出版株式会社) の 通航一覧 第4巻によった (同書、 17-20頁)。

参照

関連したドキュメント

として派遣され韓国の防衛に努めたのであったが、北朝鮮軍に対抗できなかっ

はじめに 朝鮮半島では朝鮮戦争が「停戦」してから60年、南北分断体制が持続する。南北分断体 制の「生命力」は非常に強い。にもかかわらず、朝鮮半島を取り巻く国際関係は大きく変 容した。南北の力関係は韓国優位へと大きく変容したし、朝鮮半島冷戦を取り巻くグロー バル冷戦は基本的には終焉した。今や、韓国にとって最大の貿易相手国は日米ではなく中

に同時代の画家としてはかなり戦争に対する批判的な眼差しをもっていた小杉も、残念ながら

『朝鮮』は国籍を示すものとして用いているもの

朝鮮半島は、1945年に日本の植民地から解放さ

8%の人が 日本名 を本名 として, あるいは通称 として登録 したのである。 この事実 は在 日韓 国 ・朝鮮人 に とって, 日本 の敗戦がかな らず Lも日本帝国主義

と北朝鮮を敵対国として認識する日米韓の三国同盟を東アジアの安定化装置として重視するア

2 1 世紀は文化産業の発展が国家経済発展に 大きく寄与する時代になると予見されてい