江戸時代、日朝外交の一側面 : 対馬以酊庵輪番制 度と関係史料について
その他のタイトル An Aspect of the Diplomatic Relations Between Japan and Korea in the Yedo Period
著者 泉 澄一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 10
ページ 23‑44
発行年 1977‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16076
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
本稿でのべる﹁以酎庵﹂とは江戸時代︑日朝外交のために対馬の
は じ め に
このあと慶長十四年︑朝鮮と対馬宗氏との間に慶長条約︵己酉約 ところで朝鮮との国交回復は容易のことではなかった︒朝鮮側で ーー対馬以酎庵輪番制度と関係史料についてーー
江戸時代︑
日 朝 外 交 の
府中︵厳原︶にあった幕府の外務機関である︒その開創は天正から慶
長年間にかけて︑日朝交渉に名高い博多聖福寺の禅僧景轍玄蘇︵聖
福寺第百九世︶による︒景轍玄蘇は天正七年︑対馬島主宗義調の請
をうけて︑朝鮮への使者となった︒景轍の師︑頗賢碩鼎︵聖福寺第
百五世︶は天文八年︑大内氏経営の遣明船の正使︵副使は天龍寺妙
智院の策彦周良である︶をつとめ︑その法系は世に幻住派とよば
れ︑海外への業実に富んでいた︒景轍はその後文禄・慶長の役にか
けても︑対馬島主宗義智とともにたびたび朝鮮へ渡り︑日朝間を斡
旋した︒しかし宗氏らの努力にもかかわらず︑秀吉の対外侵略策は
文禄・慶長の役を招いてしまった︒
秀吉が死に役が終わると︑家康は和平交隣を基軸とした外交を展
開した︒文禄・慶長の役でとだえた日朝関係を回復するため︑家康 の方針をうけた対馬の宗氏は必死の努力を傾けた︒むろんその交渉に景轍玄蘇も参画していた︒
その間宗氏の援助をうけて︑景轍は慶長二年︑府中に庵を建てた︒
﹁以酎庵﹂の名はその後︑景轍の生年﹁天文二︑丁酉年﹂にちなん
で︑朝鮮宣慰使李志完によって命名されたといわれる︒以酎庵開創
の目的は当初より日朝交渉のためであった︒
は駐留する明軍の意向もあって日本の真意を認めず︑宗氏がたびた
び派遣する使いも︑ことごとく幽死していた︒しかし宗義智は諦め
なかった︒宗氏の態度が必死であったのは︑朝鮮に依存せざるをえ
ない対馬の歴史的・地理的条件を考えれば容易に首肯できよう︒そ
(‑
1^
0七 ︶
の間ようやく朝鮮側にもその真意が伝わり︑慶長十二年将軍秀忠の
襲職を祝して通信使が派遣されてきた︒ここに日朝国交回復が実現
した
ので
ある
︒
側 面
泉
澄
条︶が結ばれ︑国交回復と同時に貿易も再開された︒その間︑単に
外交交渉のみならず︑外交文書の作成や解読に以酌庵主景轍玄蘇の
た︒それは対馬からの歳遣船に﹁以酎庵送使︵景轍の功績のため︶﹂
として一船をもうけることを許可したことによってもわかる︒
以後︑以酎庵は幕末に至るまで二百数十年︑日朝交渉のかなめと
なった︒景轍寂後︑弟子の規伯玄方が庵をついだが︑寛永十二年︑
有名な国書改甑事件に連座し︑南部へ配流となった︒そのあと幕府
は京四山︵南禅を除く︑天龍・相国・建仁・東福︶の碩学僧をもっ
て︑交代制で庵の任務をつがせた︒世にこれを﹁以酎庵輪番﹂とよ
んでいる︒これまで対馬に委ねられていた対朝鮮外交が︑幕府の統
制下におかれたのであり︑輪番は幕府外交の最先端にあった︒
今日一般に江戸時代は﹁鎖国﹂という概念でとらえられているが︑
朝鮮とは対馬藩を介して正式の国交があり︑両国の往来は頻繁であ
った︒朝鮮使節の来朝も実に十二回を数える︒またそれに比例して
彼我の貿易も盛んであり︑それは長崎でのオランダ・中国との貿易
量をはるかに凌駕するものであったことが︑最近明らかにされつつ
①
ある
しかし︑今日︑この日朝関係はむろん︑これを支えた以酎庵の歴 ︒
史や︑歴代輪番僧の事蹟も十分明らかにされていない︒それは一っ
に以酎庵が幕末の混乱期に廃庵となったため︑関係史料が散侠して
しまったことにもよる︒また明治以降の不幸な日韓関係の中で︑江 働きは大きかった︒朝鮮側も景轍の功績の大なることを認めてい
け
一︑以酎庵輪番制度について ればこの上なく幸いに思う︒ 戸時代の日朝関係の研究が遅れたことも理由の一っに指摘されよう︒
本稿では江戸時代の日朝関係において基本課題である︑今日不明
に近い以酎庵とその輪番制度について若千の考察を加え︑かつ筆者
管見の関係史料の所在を紹介していきたい︒本稿が未開拓ともいえ
る江戸時代の日朝交渉史に︑また以酎庵史に一灯を掲げることにな
以酎庵輪番制度について︑これまでこれを真正面からとりあげた
論考はない︒輪番制度については今日︑大体つぎのような見解が一
般的
であ
る︒
R 日﹃長崎県史ー藩政編ー﹄﹁対馬藩﹂
︵幕府は︶京都五山の僧侶を一
l ‑
︱一年
の輪
番で
対馬
に居
住さ
せ︑
外交文書を管掌させる制度をとることにした︒これを以酎庵輪
番と呼んでいる︵居住地はこの事件︵国書改章事件︶を契機に
西山寺に移して以酎庵とした︶︒R ⇔田中健夫﹃中世対外関係史﹄
以酎庵輪番の制とは︑京都五山の僧を一年ないし一一一年の輪番で
対馬府中︵厳原︶の以酎庵に居住させ︑朝鮮との往復文書のこ
とを管掌させた制度である︒
これらの定説に近い以酎庵輪番制の解説は︑おそらくつぎの史料 ニ四
によっているものと思われる︒
﹃通航一覧﹄巻三十には出典を﹃諏海﹄として︑
五山長老輪番に対州へ詰て︑朝鮮国より到来の書翰返書等を認
める役に定らるるか故に︑五山僧徒は学文なくて成かたき事
也︑五山長老の中順番にあたりて︑対州へ発行の仁定る時は︑
先関東へ下り登城致し︑五山和尚位に任ぜられ︑謁見の礼あり︑
時服其外拝領物例ありて過分の事也︑其後上京︑対州へ着船の
上︑都て朝鮮の書翰を司る︑別館有て饗応丁寧也︑寒暑に人参
壱斤ツ︑対州より賜はる事とそ︑朝鮮より来書あれは︑封の侭
長老へ渡す︑長老開封して事の次第を和語に写し︑関東へ伝達
し︑御下知を得て︑漢字返翰に認め︑対州役人へわたし︑則朝
鮮へ送る事也︑此勤役三年と也︑三年事済て︑後の長老に委託
し︑出船上京して︑和尚位を辞し隠居する也︑和尚生涯公儀よ
り年々百石ッ︑下し給ふ事とそ︑
ついでにこのもとの﹃諏海﹄の記事をあげておこう︒﹃諏海﹄と
は寛政七年︑江戸の歌人津村正恭によって書かれた随筆集で︑その
巻之十四に﹁京都五山長老対馬御用相勤る事﹂という一項があって︑
つぎ
のよ
うに
ある
︒
国初より京都五山の長老一人づつ対馬へ相詰︑三年づつ逗留し
て︑朝鮮人御用相勤る事也︑三年の期に及べば︑交代の長老一
人先関東へ下向し︑独礼御目見得仕︑右御用仰付られ︑時服拝
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
述さ
れて
いる
︒
つぎのように記
二五
領ありて︑翌年夏京都より対馬へ発足する也︑尤勤役中公儀よ
り御あてがひ︑年々百石づつ給り︑御用相済帰京の後も︑長老
生涯は百石づつ被下事なり︑対馬勤役中は︑宗氏よりも寒暑見
舞として︑朝鮮人夢一斤づつ送ることなり︑担勤方は朝鮮より
宗対馬守殿へ書翰来れば︑そのまA長老受取開封して︑其次第
を和語に訳し江戸表へ注進申上︑宗家の家司へも用の趣長老よ
り申渡す事なり︑是は室町家の時︑五山長老書翰の役を仰付け
られしより例になりて︑今は対州の目附を兼て相勤る事なり︑
されば五山長老は訳学なくては︑ならぬ事に成てあり︵後略︶
この﹃通航一覧﹄および﹃諏海﹄の記事の中にはいくつかの誤り
もある︒しかし︑一応これが以酎庵輪番制度を説明する基本的文献
であり︑今日の諸書の解説はこれに従っているものと思われる︒
以酎庵といえば日朝外交の第一のかなめであり︑その輪番僧は五
山和尚位をもつ碩学僧である︒禅僧としても第一級の存在であり︑
その地位は高い︒﹃通航一覧﹄という幕府官撰ともいえる外交関係
一歌人の随筆集の記事をひいて重要な以酎庵輪番の解説を
行っているのは︑少しく解せない点でもある︒しかし﹃通航一覧﹄
編纂の動機は十九世紀初頭︑頻繁におこる西洋諸国との外交問題へ
の対応と海防策に重点があった︒それに較べて︑十七世紀から十九
世紀初頭にかけての日朝関係は実に安定していた︒従って︑幕府と
してもさほど日朝間に緊張感をもたなかったし︑加えて外交の実務
はすべて対馬藩に委任していたから︑以酎庵に十分な配慮が及ばな 史
書が
︑
輪番制度の始まりは寛永十二年からである︒先にも少しふれたが︑
同年対馬藩の国書改策事件が発覚し︑当時以酎庵第二世であった規
伯玄方がこれに連座し︑南部へ配流となった︒幕府はこれに代えて
以酎庵に五山碩学僧を派遣し︑日朝外交を自己の統制下においたの
であ
る︒
ところで幕府はこれ以前︑つまり国書改頸事件以前に以酎庵に五
山碩学僧を派遣することを考えていたふしがある︒いまこれについ
て十分な資料はないのだが︑幕府はこの前年寛永十一年に玉峰光
瞬.棠陰玄召・洞叔寿仙の三人を同時に碩学に任命している︒この
三人が順次輪番に︑しかも再任︑三任をくり返していることからみ
て︑幕府では国書改策の事実を早くから知り︑その対応策をたてて
いたのではないか︑と私は考えている︒
いらい慶応二年︑廃庵に至るまで︑二百三十年間にのべ百二十六
人の輪番僧が以酎庵へ赴任した︒再任・三任の輪番がいるので︑実
際には八十七人である︒
輪番の任務は朝鮮外交の文書を司どり︑彼我漂流民の送迎に当た
っての事情聴取︑朝鮮使節来朝時の接待などがその主たるものであ
った︒従って︑以酎庵輪番のことを﹁朝鮮修文職・対州修文職・対
州書役﹂などともよんでいる︒文字通り朝鮮修好の最高責任者であ
り︑なにより漠文︵真文とよんでいる︶に通暁していなければ任務
は勤まらなかった︒今日的にいえば︑以酎庵は大使館としての役割 かったのかもしれない︒
の一限界といえるかもしれない︒ を負っていたといえよう︒しかし︑輪番は私の知る限り朝鮮語に通じることはなかった︒朝鮮信使来朝の時など︑使節との応対はすべて筆談であった︒対馬藩の記室︵朝鮮外交担当の藩儒︶雨森芳洲が︑藩に朝鮮語通詞がいるにもかかわらず︑朝鮮語のみならず中国語にも通じていたのと好対照である︒これが江戸時代における幕府外交
綸番は幾人かの五山碩学僧の中から︑五山住持の推挙をへて総録
南禅寺金地院によって任命をうけ︑対馬へ下向した︒碩学僧とは幕
府から碩学料をうける学問僧である︒五山の学問興隆と奨学のため︑
かつて家康が金地院崇伝にはかってもうけた制度であった︒従って︑
もともと碩学僧に任ぜられることと︑以酎庵輪番僧に選任されるこ
とは別であった︒それがのち必らず碩学僧から輪番僧が選任される
ようになり︑碩学僧に選ばれることが︑以酎庵輪番僧に選任される
条件となり︑その候補者になることになった︒
輪番制とはいえ︑その制度が整ったのはほぼ元禄ごろからである︒
当初は一年交代が原則であったが︑それも実際にはそのように運営
されていない︒建仁寺十如院の鉤天永洪︵以酎庵第六世︶は第八︑
十一︑十四番と一二任であったが︑最初の時は交代のないまま︑足か
け四年対馬に滞在し︑不幸にも任地で示寂している︒
また建仁寺清住院の茂源紹柏︵以酎庵第八世︶も第十︑十三︑十
七番と三任であったが︑最後の時はこれまた足かけ四年︑実質三年
の対馬滞在であった︒
二六
輪番制度が整ったのちでもこういう例はままある︒明和九年︑第
七十八番岱宗承嶽の場合がそうで︑交代の輪番が対馬に到着しなが
ら病気のため帰京してしまい︑二年十か月の滞在を余儀なくされて
輪番の勤務年限を﹃諏海﹄などは三年としているがこれは誤りで︑
当初一年︑明暦元年より二年交代が基準であった︒一年の交代では
鉤天や茂源のように一二任の場合︑一年か二年おきに対馬へ下向せね
ばならないからである︒しかも当時対馬への旅は大変であった︒中
にはつぎのような極端な例もある︒
第九十八番相国寺光源院の大中周愚は︑前任者の死去のため急に
輪番に任命された︒その時︑大中はすでに腹を患っていたが︑それ
をおして京を出発し︑文化九年九月二十六日︑大阪から乗船した︒
ところが瀬戸内は海向き悪く︑加えて大中は腹潟︵下痢︶に悩まさ
れ︑苦難の道中となった︒一行がようやく九州の呼子に着いたのは︑
その年の暮であった︒ところがさらに対馬まで一か月を要し︑二月
二日厳原へ着いた︒実に四か月かかっているのである︒
大中は着任したものの病状は悪化し︑回復の兆もなく︑
代を請うた︒大中はその帰途︑下関で遷化した︒
こういう不運な例は大中に限らない︒宗家文庫蔵﹃︵以酎庵︶輪
番和尚衆下向覚書﹄によれば︑在任中の遷化者は十人を数える︒全
体の八︒^ーセントに当たる︒また病気による中途交代を加えると︑
+︒ハーセソト以上の輪番が不測の事態に至っているのである︒ ︑
る︒
し
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
ついに交
二七
とくに初期のころには外交方式も整わず︑輪番には相当の外交知
識︑学識︑漢文の素養などが要求されたためか︑老年僧が多く︑健
康上の不安はかくせない︒若年僧から輪番がでるようになったのは︑
ようやく元禄ごろからであった︒また輪番の対馬下向︑上京の道中
にも整うようになったのは︑ に藩より医師が派遣され︑随伴するようになったのは元禄十一年か
④ らである︒こういう点からも︑以酎庵輪番制度が形式的にも内容的
ほぼ半世紀をへた元禄ごろと考えてよ
いであろう︒これはのちにのべる以町庵関係記録の作成ということ
にも
関連
があ
る︒
在任中輪番の手当として︑年米百石のほか︑寒暑見舞として朝鮮
人蓼一斤ずつが対馬藩より支給されるという︒実は輪番の諸手当︑
以酎庵の必要諸経費についてはよくわからない点が多い︒
輪番が京をたって京に帰るまでの諸費用はすべて対馬藩のまかな
いであったらしい︒これについて五山と幕府および対馬藩との間で
どのような折衝がなされたのか︑具体的な史料がなく詳細は不明で
ある︒しかし以酎庵輪番制度成立の一因が対馬藩からの申し出によ
ることから︑当初よりこの方式であったらしい︒
輪番への手当という米百石が手当そのものであるのか︑以酎庵の
中心的な維持費なのかもよくわからない︒輪番は在任中も碩学料
︵年百石ほどの禄米である︶が支給されているが︑やはり手当とし
て理解すべきであろう︒
道中の費用についても詳細は不明だが︑対馬藩がすぺて配慮をし
五月五日︵端午の祝儀︶
六月十五日︵暑中見舞︶ 五月一日 正月五日︵年頭の挨拶︶二月十五日三月三日四月十五日 の折々の到来ものがあった︒
菰粽一折人夢一斤 杉重一組︑手柳一荷草餅一折覆盆子一箸︑芍薬二瓶白帷子弐 太刀一腰︑馬代 一応恒例化していたものをあげよう︒ ていたらしい︒大韓民国国史編纂委員会所蔵の﹃以酎在役中日件﹄︵享保七年︶という対馬藩の記録によると︑輪番の対馬下向に当たり︑出迎え役人の道中旅宿︑船頭︑引船衆中︑荷船衆中などへの諸心付についての覚書を認めている︒道中雑費に至るまでの配慮をみると︑全額対馬藩の負担であったのであろう︒また輪番の帰京に当たっては対馬藩より道中肴用として銀二十枚のほか︑朝鮮の焼物な
先述のように以酎庵の年間諸経費は不明だが︑
明細
帳だ
が︑
る︒むろんこれも対馬藩の負担である︒
このほか対馬藩から寒暑見舞の人華を含めて︑ ど土産品が贈られるのが例であった︒
やはり国史編纂委
員会所蔵文書に﹃以酎庵炭松通帳﹄
がある︒これは対馬八郷より年々以酎庵へ納入する炭松についての ︵文久二︑万延二︶という記録
これによると大体銀七百匁相当の炭松が届けられてい
これはほんの一例だが︑こ
ういう必要物資の納入明細帳がかなりあったのではないかと思う︒
つぎのような季節 衣服などは輪番だけでなく︑随伴の弟子衆へも贈られるから︑藩の負担はかなりのものであったと思われる︒
ところで対馬藩から朝鮮への歳遮船の︱つに﹁以酎庵送使﹂とい
うのがある︒歳遣船というものの︑その実は舶戴品については公・
私貿易が行われ︑これが対馬藩の大きな収入源であった︒
送使﹂はもともと景轍玄蘇の日朝外交における功労に対し︑朝鮮よ
り許可されたものである︒景轍死後︑それが規伯玄方につがれ︑規
伯配流後もずっと続けられたものであった︒これによる収入のすべ
てか︑あるいは一部が以酎庵の必要経費にあてられたことも考えら
れるが︑今後の調査にまちたい︒
なお輪番には任終えてのち︑終身年米百石の禄を賜わる恩典があ
ったと﹃謡海﹄は伝えている︒これも従来の﹁碩学料﹂と重復して
与えられるのか︑あるいは﹁永年碩学﹂という恩典を表わすのか︑ 十二月二十八日︵歳暮の祝儀︶鏡餅など
紗綾十巻︑樽代千疋 十一月一日十二月二日 九月九日︵重陽の祝儀︶十月二十二日
口切の茶一袋
杉重一組︑手柳一荷 人藝一斤 開山︵景轍玄蘇︶忌
米三俵 七月一日
帷 子 ︱ ︱
︱
白小袖弐
ニ八
﹁以
酎庵
三任は全期間を通して四人しかいないが︑
茂源の三人が当たっている︒しかも初期には東福・建仁両寺に輪番
が集中している︒京四山の碩学とはいいながら︑実際には相国寺か
らは第十八番まで輪番がでていない︒全体的にみても︑相国寺から
の輪番が少ないのは何らかの理由があると思われるが︑よくわから
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
八人の碩学が当てられ︑
この時期に玉峰・鉤天・ 一人平均二回の任爺を受けたことになる︒
二九
ここで妙智院とその法系について若干ふれておきたい︒まずその つまり十七回の輪番にベ九人となっている︒
を試
みた
い︒
とじ込みの以酎庵輪番についての図表は︑筆者が﹃輪番和尚衆下
向覚書﹄をもとに作成したものである︒この図表から輪番制度につ
いて︑いくつかの特徴が見出せる︒以下︑図表によって若干の考察
輪番の勤務年限は明暦元年より二年交代となった︒従って︑寛永
十二年から明暦元年までを一応初期の時代と考えてよいだろう︒
この時期には再任︑三任が集中している︒
⇔
る︒ここでどのような指示などが与えられるのかよくわからないが︑現存の記録は﹁碩学新加入御礼﹂というもので︑必らずしも﹁輪番﹂に着任するという意味を含んでいない︒先にみたように︑碩学に任命されることが輪番の候補者となるのと同義であったのは︑この辺にもみられるのではなかろうか︒ れは次番に決定後︑つまり着任の一年前︑江戸へ登城するものであ ﹃諏 海
﹄ に よ れ ば
︑ 一 た ん 江
戸へ下向して将軍の謁見をうけ︑時服などを拝領する﹂とある︒こ その点不明である︒
﹁輪
番は
着任
前︑
ともかく初期にこのような集中的傾向がみられるのは︑まだ輪番
制度についての一定の法式も整わず︑制度的にも不備な点が多かっ
たからであろう︒さらに対朝鮮外交に対する重責から︑適任者の人
選やその養成等の問題があって︑容易に人材を得難かったのであろ
五山中︑輪番が最も多出しているのは天龍寺ののべ三十七人であ
る︒つづいて東福寺一︳一十三人︑建仁寺の三十二人︑相国寺のみ二十
四人と少ない︒とくに中期ごろには天龍寺に集中的に輪番が輩出し
ている︒加えて同時期︑天龍寺は再任されているものが多い︒
輪番の出身塔頭をみると︑各山とも大体十一
l + ‑
︱︱
か院
乎で
均化
している︒これはおそらく碩学料と関係があったためであろう︒碩
学料は各山に出されるが︑
から
であ
る︒
塔頭別にみると︑最も輪番回数の多いのが天龍寺の妙智院で︑
法系をあげよう︒
一 七 七 一 九 九 二
0 0
虞竺雲等連ー②心翁等安ー③策彦周良ー④三章令彰ー⑤補仲等修
▲ ︱
10
四
▲ 二
0九 ニ
︱ 五
▲ ニ
︱ 六
Aニ ニ
ニ
ー⑥蘭室玄森ー⑦中山玄中ー⑧大圭全統ー⑨瑞源等禎ー⑩湛堂令
▲ 二 二 六
& 二 三
0
︵ 数 字 は 天 龍 寺 歴 代 )
椿ー⑪別源周注ー⑫龍巌周績以下略︑▲印は以配庵出仕
妙智院は開山以来そうそうたる住持が法を嗣いでいる︒妙智院は
゜
"9 なtヽ
゜
それを碩学出身の塔頭に均等に割当てる
の
年は正使として二度にわたって入明した業績はまことに大きい︒
ういう策彦の海外への行実も︑竺雲の学問的業績とともに︑
として長く妙智院歴代にうけつがれたのである︒
一伝
統
享徳年間の開創と伝えるが︑建立の由緒など詳細は不明である︒
開山竺雲は夢窓国師の法孫で︑妙智院を開くまで相国寺第四十世︑
南禅寺第百五十世などを歴任し︑そのほか等持院︑蔭涼軒︑鹿苑院
など数か院に出世していた︒この経歴は室町幕府に重用されたこと
を示しているが︑同時に朝廷にも重用された碩徳である︒竺婁は当
時すでに五山文学僧としても著名であり︑﹃繋雲集﹄などの著作も
あったと伝えている︒
ところで竺雲は﹃漢書﹄など外典に通暁していた︒竺雲は一時︑R 天龍寺塔頭華蔵院に住持したが︑﹃綿谷艇禅師行状﹄によれば︑そ
こで先師・大岳周崇より﹃漢書﹄の講義をうけ︑師の教えを嗣いだ
のは竺雲一人のみであったと伝えている︒﹃碧山日録﹄には当時そ
ういう竺雲を指して︑別名﹁漢書漣﹂とよんだことを伝えている︒
以酌庵にあって朝鮮への文書を司どる時︑外典に通じる学識はい
わば必須の条件であり︑竺雲の遺業が妙智院に一伝統として歴代に
嗣がれていたといっても過言ではない︒妙智院からのべ九人の以酎
庵輪番を輩出した背景に︑竺雲の学問への造詣という功績が高く評
価されねばならないと︑私は考えている︒
妙智院歴代の中で海外への行実をみる場合︑最も人口に謄炎され
るのは︑第三世策彦周良であろう︒天文八年は遣明船の副使︑十七
こ 以酎庵輪番の輩出では︑妙智院につづいては天龍寺の寿寧院が多い︒寿寧院にも妙智院のようなすぐれた伝統があったと思われるが︑元治と大正年間に焼失し︑記録類のすべてを失った今日︑まった<不明である︒図表から各塔頭ののべ人数などをみると︑つぎのよう
︿ 表
1﹀からみると︑各塔頭で輪番が一
i
三回というのが最も多い︒すなわち︑全体のほぼ八十パーセントを占めている︒従って︑
妙智院や寿寧院は特例といってもよい︒
その理由は妙智院のように︑単に伝統があるというような簡単な
ものだけではあるまい︒例えば経済的な理由があろう︒
輪番は対馬下向に当たり︑弟子衆・会下・若党・中間など︑大体十人
i
十五人を同伴したから︑道中はむろん以酎庵滞在中も相当の費用を要した︒それのみならず︑朝鮮使節来朝の時︑加番役︵当番の輪
番を助けて大阪より江戸往復をともにする︶を仰せつけられた役僧
の負担もかなり大きかったらしい︒その時の輪番僧の対馬
i
江戸間の往復費用はむろん対馬藩の負担であったが︑加番役についてはそ
ういう規定がなかったらしい︒享保四年︑朝鮮使節来朝の時︑加番役
となった東福寺即宗院石霜龍菖はつぎのような訴え状を認めている︒ 院—|>塔頭数︳
1 2 1 6 9 3
‑ 4 1 0 1 1
ー
~ 回
1 2 3 4 5 6 7 8 9
回数輪番 儘
く表 2〉
にな
る︒
1 0
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
百両とは大金である︒ たことを記している︒ ︵加番役︶拙僧二相定リ申候様子二承︑迷惑至極二存候︒左候ェ者改衣料且者加番之雑用銀三拾貫目余茂入可申与存候︒過分之儀故手前二而才覚難仕︑差当難儀二存候間︑右之入用銀御拝借仕度奉願候︒︵東福寺霊雲院蔵﹃享保四年己亥︑韓使接伴井再住檀方江訴状之認︑即宗院︶
朝鮮使節の接伴ともなれば︑僧位も陸り︑当然に改衣となり︑多 くの経費を必要とする︒借入銀の返済については︑碩学料より年賦
で支払うことを申し出ているが︑こういう当然の必要経費について︑
まった<幕府や五山側で配慮を加えていないのは何とも解せない︒
石霜の苦衷も察せられる︒なお文書にはのち銀弐拾貫目が支給され
しかしのちになると︑五山でも重なる経費の負担にだまってはい
⑥
なかった︒桜井景雄氏によれば︑天明四年︑五山衆が鹿苑院に集会 して︑以酎庵へ輪番として赴任の節︑支度料として金三百両を下賜 されるよう請願したという︒現在以酎庵への赴任に当たり︑どれほ どの経済的負担があったのか︑詳細は不明だが下賜を願い出た金三
R R
⑨
例えば妙智院の場合︑堺の乎野屋・指吸氏︑大阪の絆屋︵西脇氏︶
などの豪商が大檀越であり︑寺院経済も相当豊かであった︒従って︑
その経済的負担にも充分耐え得たのであろう︒近世の寺院経済︵と くに五山の︶という点からも︑今後こういう点の調査が必要である と︑私は考えている︒ともかく︑幕府外交を司どる以酎庵輪番の赴
任や朝鮮使節接伴に当たる加番僧の︑その経済的基盤が十分確立し ていなかったのは注目すべきことで︑経済面を含めて︑輪番選任の
経緯など今後の調査の課題としたい︒
︿ 表
2﹀をみると︑再任者は二十九人で︑ほぼ全体の三十バーセ
ントに当たっている︒先述の経済的負担のみならず︑対馬への赴任 という苦労からみて︑再任︵三任も含めて︶にはよほどの事情があ ったに相違ない︒その︱つに五山の学問の衰退があげられる︒これ
⑩ についても桜井氏は︑つぎのようにのべておられる︒
江戸時代も中期に至ると五山の学も漸く衰微の兆をみせ始めた︒
享保十二年︵一七二七︶の僧録乾厳元雄が五山に申渡した学問 奨励に関する覚書には︑五山の人材が減少し︑碩学の吹嘘︵推 挙︶を受けても﹁或いは病と称し︑或いは言を飾って逃れんと
要す︒﹂と述べ︑その原因は畢覚﹁学道の拙による者なり︒﹂と
結論して︑向後昼誦夜禅し︑筆碩の業に孜々として精励すべき
ことを厳命している︒
図表をみれば明らかなように︑江戸の中期ごろに再任がふえてく るのは︑この桜井氏の説明を裏付けている︒やはり碩学僧が得難か
った
ので
ある
︒
江戸時代︑朝鮮からの使節来朝は十二回であったが︑寛永十二年︑
以酎庵が輪番制となってからは八回であった︒使節来朝の際︑先述 のように輪番は対馬から江戸まで往還をともにし︑その接待に当た る︒接待とはいえ︑実質は外交官の任務であり︑江戸時代の唯一の
輪番は在任中請われて対馬藩主や宗氏一族の死去に際し枯香法語
を依頼され︑またその忌日などには菩提寺︵万松院︶への参詣を行
なったりしている︒このほか歴代藩主の五十年忌︑百年忌などにも
括香法語を求められていることが記録に散見される︒それは対馬に
あっては京五山位をもつ輪番僧は最高位の僧侶であり︑対馬藩でも 到
着ま
で︑
この一老が臨時に輪番を勤めていた︒ の製述官に対応して︑相応の学識ある碩学僧を輪番に選任したことと思われるが︑その詳細はまだわからない︒使節来朝の際︑大阪から加番役が同伴するのは︑先述のようにむろんその任務の重要さを考慮したためである︒﹃輪番和尚衆下向覚書﹄によれば︑加番役に任じられたものは九人である︒が︑この中には妙智院蘭室玄森のように任につきながら︑病気のため途中から辞退した例もあった︒
また使節帰朝の際︑大阪で輪番を交代し︑加番のものがそのまま
対馬へ赴任していった例もある︒
使節に随行して輪番が不在の間は︑弟子の最上位のもの︵一老と
よばれる︶が最高責任者となり︑外交文書の作成などに当たり︑以
酎庵をとりしきっていた︒また輪番の不慮の死などの時も︑代番の 門閥を問わず︑すぐれた人材を抜擢していた︒むろん日本側でもこ 外交僧の活躍の舞台であった︒しかし︑その責務はなみ大抵でなかったと想像される︒加えて使節同行の製述官︵学士︶との交渉には相当の漢文の素養が要求される︒朝鮮側でも日本側の事情︵日本の文人が製述官との文化交流を盛んに求める︶を考慮し︑製述官には
一任
1 0
9 9
人再任
1 0
‑ 1 0 3 1
三任
1 0 東 福 天 龍
︱ 建 仁 相 国
17
その法徳を求めたのである︒
3 7
︐
図表には明示できなかったが︑最後に以酎庵の所在についてふれておきたい︒﹃長崎県史﹄は
﹁居住地はこの事件︵国書改策事件︶を契機に西山寺に移して以酎
庵とした﹂と記しているが︑これは誤りである︒以酎庵は当初現在
の国分寺の地︵厳原町天道茂大字客館︶にあったが︑天和三年︑山
の手の国分寺︵厳原町日吉︶と地を代えた︒その後享保十七年︑厳
原の大火で日吉の以酎庵が焼失︑以酎庵は現在の西山寺︵厳原町国
゜
416
計 4人 52人
八十七人の輪番僧のうち実に七十
八人︵九十︒ハーセントに当たる︶は︑五山の住持を歴任している︒
これからみても輪番僧は五山中でも相当の地位を得た人たちであり︑
その学識は高く︑教学的にもすぐれた才能を有していた︒従って︑
近世禅林にあって︑禅僧として特筆すべき行実をつんだ人も多い︒
それなればこそ以酎庵輪番という大任に推挙されたのであるが︑本
来の禅僧としての活躍も十分考慮されねばならないと思う︒
なお一任︑再任︑三任を各山別に表示するとつぎのようである︒
分︶へ移転した︒以来慶応二年︑廃庵まで西山寺に仮居したままで
あった︵西山寺は瑞泉院へ移っていた︶︒現在の西山寺は明治三十
八年焼失︑以酎庵の遺構はその山門にのみ残り︑往時を伝えるもの
二百三十年の以酎庵史をつづるに必要な史料は相当にあったはず
だが︑今日それらはほとんど散侠してしまっている︒かつて以酎庵
に関して記録をのこした所としては︑まずつぎの三か所が考えられ
この三か所以外にはまず考えられな今日史料がのこるとすれば︑ る ︒
い︒しかし以酎庵そのものはすでに廃庵になっているので︑⇔回の
ほかにはないと思われる︒
⑬ かつて﹁以酎庵の研究史料﹂と題して白石芳留氏が大正三年︑史
料の所在を紹介したが︑氏はそのすべてをとり上げたわけでもなく︑
またその所蔵者を明確にされなかった︒従って︑白石氏の報告は今
日充分活用できるものではない︒しかしその中には私の管見に及ば
ないものもあり︑それらについてはのちに紹介したい︒
以下︑私が今日まで知り得た以酎庵関係史料とその所在について
江戸時代日朝外交の一側面
日 以 酌 庵
⇔ 対 馬 藩 笛五山及び輪番出身の各塔頭
二︑以酌庵関係史料について
壱番
弐番
参番
四番 る略記
はまったく残っていない︒ 紹介し︑若千の解説を加え︑今後の調査研究の活用に供したい︒なお調査の及ばなかった関係史料︑また詳細にわたる解説については︑
,
対馬宗家文庫に所蔵されるもの
9 9
ィ
9 ,
1以酎庵輪番記四番
寛永十二年より宝暦十二年に至る輪番和尚の対馬下向次第の略
記
2輪番和尚衆下向覚書
寛永十二年︵第一番︑玉峰光瞬︶より慶応二年︵第百二十六番︑
玉潤守俊︶に至る略記
3以酎庵輪番記迎使送使ともに五番
開山︵景轍玄蘇︶より第五十二世︵第十六番︑天岸覚莞︶に至
︵藩
の公
日
4以酌庵
以酎庵に関する記録の方式を決め︑藩で﹃毎日記﹄
記︶をもとに編集し︑のち以酎庵への対応の検索の便にしたも
の︒その内容の目録はつぎのとおり︒
新古交代着発
和尚入来
迎送使附役M
定式不時御使者 対馬藩による以酎庵関係史料 つぎの機会にまちたい︒
同 同 + ︱
︱ 一 番
5以酎庵勤記一番︵元禄六
i
十五︶
以酎庵に関する﹃毎日記﹄の記事一切を日次順に記載したもの︒
対馬藩の以酎庵関係記録の根幹となるものである︒
五番︵正徳五
i
享保
二︶
六番
︵享
保︱
︱︱
i
享保五
︶
6以酎庵御届記二番︵元禄十五ー宝永二︶
藩主および宗氏一族の慶弔︑藩主参勤の着発︑以酎庵輪番の着 発などの祝儀行事に関する以酎庵への報告の記録一切を﹃毎日
記﹄を中心に収録したもの︒
7以酎庵手紙抜書︵元文三
i
文政
十二
︶ 藩の朝鮮方が朝鮮への書契︵書簡︶に関する以酎庵との応答書
状を控えたもの︒
8以酎庵関係書状︵仮題︶四通 十一番十二番 和尚病気死去法事御見物御歩行和尚講談井御注文事
四番︵享保五ー寛延四︶
2以
酎庵
不時
御届
記︵
享保
九ー
寛政
一︱
‑)
同 り
の
4に同じ 1以酎庵
5
大韓民国国史編纂委員会に所蔵されるもの 表書札方の記録︒ 9に同じ 五番六番七番八番九番拾番 ︵殿様︶御出年寄中参上共御書契付御応答和尚御仏詣1 0 以酎嶽長老御病気二付輪番不時御交代始終之記録属候書状控︵天
使僧代僧定式不時被遣
到来
延享五年︑朝鮮使節来朝時︑以酎庵輪番と藩家老との往復書状
9以酎嶽長老御病気二付輪番不時交代始終之記録︵天明一︱‑︶
第八十︱︱一番岱宗承嶽︵相国寺養源軒︶の不時交代に関する藩の
表書札方の記録︒
明三
︶
1 1 以酎愚長老就病気輪番不時交代始終之記録︵文化十︶
第九十八番大中周愚︵相国寺光源院︶の不時交代に関する藩の
1 2 以
酎庵
応対
控︵
天保
十一
︱
‑ i
慶 応一 ︱ ‑ ︶
藩の朝鮮方頭役が朝鮮往来︑朝鮮への書契などに関して以酎庵
との応対を記録した克明な覚書︒
この史料はかつて大正十五年と昭和十三年の二回にわたり︑朝 鮮史編集会が宗家より購入し︑その後国史編纂委員会の所蔵と
なったものである︒
︱︱
一番
︵宝
永元
!享
保四
︶
四
同 同
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
同 同 同 同 同 同
い の
5
に同
じ︒
4以酎庵勤記
輪番への病気見舞︑藩主御家督の祝縁品の控など臨時の以酎庵
への応対および書状控などの記録︒
3以酎在役中日件︵享保七︶
以酎庵輪番の送迎使の記録︒
壱番︵明和九ー寛政二︶
二番︵寛政三ー寛政十︶
――一番(寛政十マ~享和四)
四番︵享和四
t
文化
十一
︶
五番︵文化十二
i
文政
七︶
六番︵文政八ー天保五︶
七番︵天保六ー天保十四[)
八番︵天保十五
i
安政
二︶
九番
︵安
政一
︱︱
i
文久二
︶
5以酎庵へロ上の写︵仮題﹁以酎庵関係記録﹂︶︵明和九し安永四︶
主として漂民送還の吹嘘︵渡航証明︶作製についての以酎庵ヘ
の依
頼の
控゜
6御在国中以酎庵御届定式︵安永四︶
藩主在国中の以酎庵との公式交渉の格例の記録︒
7御留守中以酎庵御届定式︵安永四︶
藩主留守中の以酎庵との公式交渉の格例の記録︒
8以酎庵諸覚︵寛政五
i
寛政
十︶
筆者管見の以上の史料のほか︑金鍾旭氏によると︑つ苔のような 以酎庵関係記録が報告されている︵以酎庵輪番︵交代︶叫 吋﹂ー朝鮮後期日本徳川幕府斗
S l
交渉史
資料
ー︶
︒
1以酎庵︵享保八ー寛政二︶ 1 6
以酎庵炭松通帳︵万延二︶
︵文
久二
︶
同 1 3
以酎庵来手紙︵弘化二︶
第百十五番北潤承学に関連の書状約四十通︒
五
1 4 以酎庵阿須御屋舗江被遣候二付御巽応御献立︵年次不明︶
藩主の阿須屋敷︵お茶屋がある︶へ輪番招請の記録︒
以酎庵江遣候手控︵年次不明︶1 5
釜山倭館内での事件に関する報告︒
叫計
第百十三番全室慈保に関連の書状約七十通を収録している︒
1 0 以酎庵御会釈且掛合向等之次第書綺︑そのほか︵文政八︶
以酎庵輪番への不礼に関する掛合一件の記録︒
以酎庵口上書下書︵天保七︶1 1
以酎庵来手紙︵天保十二︶1 2 同 以酎庵に関する一切を記録した詳細な覚書︒
9以酎庵御掛合清書役︵明和四
i
寛政十
二︶
釜山倭館の東向寺勤番役の書僧に関する朝鮮方の記録︒
︵寛
政十
ニー
文政
元︶
しかし輪番制度開始以来︑半世紀も経ると庵の日常にも一定の方
その最も早いものは︑朝鮮往復書状の控であり︑正保年間以来のも
け 天 龍 寺 本 山
1以酎臨時雑録
記 録 者
( 0
印は
在本
︶
輪番僧及び五山側の記録
対馬藩の記録作成に対し︑以酎庵側でも公式記録をのこしている︒
のが今日保管されている︒しかしこれ以外の記録となると︑
ど記録らしいものはなかったのではないか︒ ほとん
寛文十一年︑第二十五番の江岳玄策.︵天龍寺南芳院︶は輪番和尚
⑱
の住籍を作製することを慣例化した︒その後元禄十一年︑第四十番
⑬
中山玄中は住籍に忌簿を加えることを慣例化させた︒以酎庵輪番は
再任︑三任はあっても︑以酎庵に永住持することはなく︑従って︑
永久的な記録にまで配慮が及ばなかったらしい︒
( 二
)
2以酎輪次雑記︵宝暦七
i
九 ︶
3丹叔帰京以酎雑記︵明和元︶
4以酎臨時雑録︵明和元ー寛政九︶
5以酎公用記写︵寛政八
l + )
6以酎績長老御病気二付輪番不時御交代始終之記録︵嘉永六
i
八 ︶
7以酎庵晏席之御式︵年次不明︶
対馬藩による関係史料は以上である︒宗家文庫も国史編纂委員会 も目下︑史料の整理中である︒今後関係史料がさらに検出される可 能性もあり︑整理が終われば︑本稿のもつ不備も多く補われるであ
ろう
︒
式が定まり︑対馬藩の﹁以酎庵﹂や﹁以酎庵勤記﹂の作製に対応し て︑永式の記録作製への機運に恵まれた︒これがほぼ十七世紀の末
石氏が調査対象とした寺院はつぎの通りである︒
︵ 本 山
︶
︵ 本 山
︶
相国寺宗務院︑天龍寺宗務院︑弘源院︵天龍︶︑慈済院︵天龍︶︑
大機軒︵東福︶
残念ながら私は天龍寺本山のほか︑これら諸寺院に赴く機会がな
く︑史料の所在を確認していない︒
以下︑本稿では私が調査できた天龍寺本山︑相国寺長得院︑東福 寺霊雲院︑建仁寺両足院に所蔵される史料を報告しておきたい︒な お余日︑白石氏が調査した諸院の史料を確認し︑改めて報告したい
と考
えて
いる
︒
白石氏は全五十五巻を紹介されているが︑今日十四巻が失われ︑
四十一巻しかない︒しかし﹁以酎臨時雑録﹂はまだ他寺院にも蔵せ られ︑その欠本部分は補うことができる︒いま一応全五十五巻を紹 介しておく︒これは輪番の随伴者が日常を書きとめた日録で︑以酎
庵の記録として貴重なものである︒
1宝暦十年五月
i
天龍寺周竺ところでこれらの記録は五山及び塔頭に分散保存され︑かつて白 で︑忌簿の充実などこのよい例であろう︒
← 」 ノ
2宝暦十二年四月
i
3宝暦十四年四月
i
4明
和一
︳一 年六
月
i
⑤明和五年六月
i
⑥明和七年五月ー
⑦明和九年六月
i
⑧安永四年三月
i
⑨安永六年八月
i
⑩安永八年五月
i
⑪安永十年五月ー
⑫天明三年五月
i
⑬天明四年五月
i
⑭天明六年五月
i
⑮天明八年四月
t
⑯寛政二年四月
i
⑰寛政四年三月
i
⑱寛政七年四月
i
⑲寛政九年四月
i
⑳寛政十一年四月
i
⑳享和元年四月
i
@享 和一 ー一 年四
i
月⑳文化二年四月ー 東福寺春披玄津東福寺義山通節天龍寺大塔梵量東福寺漁陽龍育建仁寺道林覚禎相国寺宜堂承休建仁寺宗猷天龍寺拙庵中誠建仁寺統芳慈胤相国寺橘州祖剖相国寺波川雲波天龍寺龍泉昌彰東福寺柏庭義純建仁寺孝谷紹簾天龍寺龍渾周禎相国寺圭峰義築東福寺周陽守釈相国寺大中周愚東福寺霊岩龍根天龍寺月江承宜東福寺慧周
相国寺以中玄保
江戸時代日朝外交の一側面
i
2 4 文化四年五月i
2 5 文化六年四月⑳文化八年二月
i
⑰文化十年二月
i
⑳文化十年十月
i
⑳文化十二年四月
i
i
文化十四年三月3 0⑫文政四年四月
i
R文政六年四月
i
⑭文政八年四月
i
R文政十年四月
i
R文政十二年四月
i
i
3 7 天保二年四月3 8 天保四年四月
i
i
天保六年四月3 9R天 保八 年︱
︱一
i
月@天保十年四月
i
@天保十二年四月
i
⑬天保十四年四月
i
⑭弘化二年三月
i
⑮弘 化四 年=
︱‑
月
i
相国寺恭道玄確 建仁寺圭州東障天龍寺清隠周臣 天龍寺霊淵英琉建仁寺誠中通宗 相国寺秀峰玄確天龍寺香林周錬建仁寺竺卿通敵相国寺養沖中挺東
福寺 一︳ 一岳 守護
相国寺宗逸
建仁寺荊畏東攻
相国寺景岳中泰
東福寺三岳守護
3 1 文政二年関四月
l
東福寺教海龍訓 天龍寺天隠周鉤 建仁寺道林玄梁 天龍寺南海英款 相国寺元章 東福寺願海守航 天龍寺剛中周侃 建仁寺則堂通詮七
1櫨事提覧
以酎庵における年中定例などの記録︒ (=)
⑲嘉永七年四月
t
R安政三年四月
i
⑪安政五年四月
i
⑲安政七年四月
i
⑬文久二年四月ー
⑭元治元年四月ー
55
慶応
二年
四月
ー
相国寺長得院 建仁寺峻崖東恰東福寺先敬令恕相国寺軌道承範東福寺先敬令恕天龍寺玉渾承燐建仁寺朴宗東循東福寺舜田守孝
2対韓書契︵本邦朝鮮往復書︶
第五十八番藍破中向が輪番時代のもの︒
3対韓書契︵天明三年︶
4碩禄記︵享保十七年︶
碩学評議に関する記録︒
5太虚師接伴韓使書︵天和二年︶
朝鮮使節来朝時︑輪番太虚顕霊︵相国寺慈雲庵︶の記録︒
6朝鮮尺陵行︵寛永十七年︶ ⑯嘉永二年四月ー4
7嘉
永四
年四
i
月i
嘉永六年四月4 8 東福寺玉澗守俊 建仁寺甚叔慈円天龍寺興宗周宏
︵享
保十
九
i
二十
一︶
3遣朝鮮国歳条書契目録
4日韓書契分類附録 朝鮮における通交上の物品の呼称︒ 筈
東 福 寺 霙 雲 院
類本
四冊
あり
︒
7馬島朝鮮贈答書忠︵寛文五年︶
類本
四冊
あり
︒
8対州贈朝鮮之書井朝鮮回答文︵寛文五年︶
類本
四冊
あり
︒
9対州贈朝鮮之書︵寛永十八年︶
類本
四冊
あり
︒
櫨山住籍序︵寛政九年補修︶1 0
第二十五番江岳元策作の住籍の写︒
1 1 書契御用以酎参勤用諸具品目︵年代不明︶
付︑対州書契渡海約規
1以酎臨時雑録
全五十五巻のうちつぎの巻がある︒
12 34 56 78 91 01 11 21 61 71 81 92 02 12 22 32 42 52 62 72 93 03 10
2朝鮮物件名目
書式の解説書
5本邦朝鮮往復書︵宝暦十二
i
十四
︶
八
1 7 韓使接伴日録
延享五年使節来朝時の記録︒ 6韓使接伴井再住檀方江訴状之認︵享保四︶
東福寺即宗院石霜龍菖の訴状の写︒
7碩学要誌︵嘉永二︶
8碩学新加御礼参府雑記︵享保十︶
東福寺即宗院雲崖道岱の参府府記録︒
9入社新加御礼参府雑記︵文化七︶
東福寺未雲軒月耕玄宜の碩学加入御礼の参府記録︒
1 0 日韓往復秘書
元禄九年までの訳官往来などの記録︒
1 1 本
邦朝
鮮往
復書
︵安
政一
︱‑
!五
︶
第百二十一番春扁光宜︵東福寺即宗院︶時代のもの︒
日韓書契1 2
宝暦十四年使節来朝時の秘録︒
1 3 議聘録︵天明七︶
全六冊︑碩学︑以酎庵関係の記録︒
1 4 以酎代番記録︵安永二
i
文化
十四
︶
全三冊︑京における記録︒
日韓書契編年考略︵明応元ー安政三︶1 5
i
本邦朝鮮往復書︵延宝七1 6九 ︶
第三十番南宗祖辰︵東福寺本成寺︶時代のもの︒
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
8即位賀表 このほか朝鮮使節と輪番との交歓の︑つぎのような詩篇がある︒.
橙客
通筒
集巻
︱ニ
︱︱
‑︵
正徳
元年
︶
・善隣凡雅後編︑善隣凡雅附集︵延享五年︶
・東西唱和︵延享五年︶
建仁寺両足院
両足院の所蔵史料は目録もあり︑一部は﹃国書総目録﹄にも紹介
され︑周知のものが多い︒まだ筆者未定のものもあるが︑中には以
酎庵と無関係の記録も混入しているようで︑今後の調査にまちたい︒
いま一応目録に従ってあげておく︒
1出世吹嘘状草稲井返簡
2対馬輪番之次第
3以酎代番記
4歳条遣書
5韓使来聘一件雑記
6秋渾百五十韻
同
1 8 遣朝鮮歳条送使往来書式次第
書式についての覚書︒
一 九
7朝鮮向御用対馬国渡海日記
第百十四︑百二十︑百二十五番荊畏東攻の記録︒
2 8 遣礼曹参判書︵天明ー寛政年間︶
2 9 位官井寺格書 2 6
馬島不時之簡抜幸
2 7 朝鮮国歳条回翰︵安永八
i
九 ︶
2 1 規外企
2 2 遣朝鮮国歳条書︵安永八
i
九 ︶
2 3 遣朝鮮国歳条書契
2 4 遣礼曹参判議聘使書︵天明
i
寛政
年間
︶
2 5 碩学新加私記 1 9
歳条書契2 0
歳条回翰 1 8
以酎記 1 5
使韓来書写
1 6 以酎代番記案
1 7 雑記 9礼曹書加番答書
延宝ー宝暦時代の書翰゜
日韓書契1 0
1 1 朝鮮国書啓之
1 2 参判答書
1 3 御返簡渡之次第
1 4 対州書役渡海約規
附第一船之時令
47
雛林
記事
朝鮮官位次第︑信使・訳官来朝之次第
3 2 参判回書
3 3 日韓書契分類附録
3 4 宣西堂出府雑費簿
朝鮮麟繹御用願筋記録3 5
馬雛往復書3 6
3 7 対州再渡記録
3 8 対州渡海記
3 9 訳官一件雑録︵安永九︶
4 0 韓
使来
聘一
件雑
記︵
文化
一︱
︱
i
六 ︶
4 1 対韓使船要説
4 2 訳官記録井不時用段
4 3 対州土産物控
4 4 慈雲呈略記控
4 5 朝鮮書翰往復之留
4 6 雷首江関封事
4 8 睛譴山住持籍
4 9 朝鮮密件
対馬藩家老平田隼人の記録︒
3 1 腱事訳要 3 0
参判
四〇
対州渡海記6 3
6 4 朝鮮来書抜幸
第一番玉峰光班から第二十八番蘭室玄森までのもの︒
6 5 碩学一件︵享保十七︶
碩学加入御礼の江戸参府記録︒
6 6 朝鮮国王斃去記録︵安永五︶
6 7 再渡睛山公用考略井号牌
6 8 以酎輪住勤行簿
江戸時代日剌外交の一側面
6 0 議聘
6 1 朝鮮国規外回翰
6 2 規外契書︵安永八
i
九 ︶
5 0 歳条遣書
5 1 年条回翰
対州御在番中日記︵安永十︶5 2
5 3 馬嶋歳条使船和解附住持籍
5 4 信使来聘記録之略
5 5 先格︵享保十七︶
碩学加入御礼の江戸参府記録︒
5 6 先行出訴願書
5 7 瞳山輪住日簿
5 8 参判使到朝鮮事例
5 9 古徳遣藁
ものをつぎにあげよう︒ まずかつて白石氏が紹介した史料のうち︑直接以訂庵に関連ある むすびにかえて
7 0 在島雑記
7 1 東上船程日簿
7 2 対州渡海記
7 3 八部之冊子
遣鮮簡︵寛文年間︶7 4
7 5 鼠事雑誌
7 6 対州下向諸入用
朝鮮畔螂御用願筋雑記7 7
7 8 遣朝鮮国規外書契︵安永八
i +
)
7 9 馳山滞在日簿
8 0 遣礼曹告訳使渡海記.
8 1 雑録
朝鮮虹蝉御用願筋雑記8 2
8 3 遣朝鮮規外書契
8 4 騒山滞在日簿
8 5 遣礼曹告訳使渡海書 6 9 以酎雑志
四
0
朝鮮通信録一巻0
朝鮮尋文事略一巻0
朝鮮国歳条回翰目録一巻︵写︶安永十年五月記0
朝鮮延聘使書翰一巻︵写︶天明八年記〇延公用記一巻︵写︶
0
以酎︵庵︶諸道具新調物帳五冊︵写︶寛政一︳一年八月記
0
馬島以酎庵諸道具残配当一巻︵写︶0
朝鮮信使一行坐目一巻0
朝鮮交際始末一巻0
韓使来聘視聴簿一巻︵写︶寛延元年記0
五山碩学井朝鮮修文職次目一巻︵写︶0朝鮮人来朝書上帳一巻(写〗)〇考事撮要二巻0
朝鮮人来朝之記二巻0
信使件伺書並日記抜書一冊︵写︶0
韓官記録一巻︵写︶0
信使御礼式冊子並以酎︵庵︶什具諸配当帳一冊︵写︶の ︶
0
以酌庵当住寄附簿一巻︵写︶0
朝鮮人来朝記録一巻︵写︶ 〇睛繍山編年考略一巻︵写︶0
対馬の国以酎庵へ五山長老差つかはされ井客使の館伴たる事一巻0
学禄恩賜井朝鮮修文職対馬渡海次目一巻([与︶
0
五山碩学対州書契相勤之訳書一巻0
超海雑録一巻︵写︑延享二年記︶0
以酎道具記一巻0
以酎新調諸具料四山︵麟砒亨疇︶配当之簿一巻︵写︶
0
以酎庫司再造絵図一禎寛政二年誌0
以酎
庵住
持籍
一巻
︵文
久四
年迄
の世
代あ
りて
営︑
て本
誌に
掲戴
あり
しも
0
江雲随筆0
交隣考略0
異国使僧小録一巻︵写︶0
以酎交代道具目録一巻︵写︶文化四年七月記〇辛未聘礼書翰井社中通信記一巻︵写︶
0
文化八年辛未来聘四度御礼式絵図四帳0
文化易地聘使録第二十四0
文化信使記二巻︵写︶東福︑願海守航記︵内題︶信使来聘当番日記二巻〇諸道具覚一巻︵写︶諾首座慶応三年三月記
0
日韓交通年表一巻以上であるが︑先にものべたように︑白石氏はこれら史料の所在
を明確にしておられない︒これだけでも相当の史料数であるが︑氏
0
以酎諸道具新調費用配当一巻︵写︶0
以酎新調諸具簿一巻︵写︶四
はさらに﹁これらの史籍を列挙すれば︑蓋し無数にあるべく⁝⁝﹂
と付記されている︒氏はそれらを一見されているにちがいない︒そ
してそれらの多く︑あるいは一部はすでに散侠してしまったかも知
れないが︑まだ五山及び諸塔頭に所蔵せられている可能性も多い︒
すでにのべてきたように︑近世日朝交渉史の研究にこれら以酎庵
関係史料は不可欠のものであり︑その収集は今日焦眉の急であろう︒
そのために︑早く以酎庵関係史料の総合的調査が行われることを望
さて以酎庵及び輪番制度についても問題は多い︒
するいくつかをつぎに掲げ︑むすびとしたい︒
であ
ろう
︒
江戸
時代
日朝
外交
の一
側面
んでやまない︒
いま本稿に関連
まず以酎庵の執務について︑幕府がどれほど関与していたのであ
ろうか︒執務の中心は遣鮮簡の作製が中心であるが︑それも殆んど
は礼曹参判・参議への年例書簡であり︑その形式と内容はほぽ定式
化していた︒時に朝鮮王家の慶弔や漂民護送など例外の書簡もある
が︑およそ書簡の種類は多くない︒ただ対馬藩と朝鮮の東莱府・釜
山鎮などとの直接交渉及びその間に往復する書簡について︑どの程
度以酎庵が係わっていたのか︑詳細はわかっていない︒つまり︑幕
府は対馬藩が独自に展開する朝鮮交渉にどれほどの情報を得︑それ
に対応していたのか︒江戸時代の日朝関係は対馬藩が介在するとい
う特殊な状況での外交である︒その間にある以酎庵の存在︑また以
酎庵と対馬藩との関係は今後さらに解明されねばならない根本課題
はな
かっ
た︒
四 一
また対馬藩では朝鮮外交のため雨森芳洲など記室を擁していたが︑
彼らと輪番僧との公私における関係も︑ひいては以酎庵と対馬藩と
の関係に及ぶ︒芳洲の朝鮮外交における見識はその多くの著書に充
分うかがえるし︑おそらく二年ごとに代わる輪番僧の及ぶところで
しかし幕府からの命令によるとはいえ︑輪番僧の中には以酎庵の
重要性をよく知り︑むしろ積極的に任務にのぞんだものもいたに相
違ない︒そういう意味で輪番僧の中にも芳洲などと進んで交渉をも
ち︑外交に関する意見を求めたものもいたと考えられる︒今日詩文
における両者の交歓はよく知られるところであるが︑今後こういう
点をより重点的に調査の対象にあててみたいと思っている︒
註①﹁近世日鮮私貿易における数抵的考察ー対馬藩の貿易収支帳をめぐっ
て﹂
昭和
4 9 年
﹃中
央大
学大
学院
年報
﹄第
3号 ︒
﹁徳
川時
代に
おけ
る銀
輸出
と貨
幣在
高ー
一六
八
0
年代
降以
朝鮮
・琉
球
への
銀輸
出を
中心
にー
﹂昭
5 0
数﹃
量経
済史
論集
ー﹄
日本
経済
新聞
社︒
など
︑近
年田
代和
生氏
によ
る業
績が
これ
を証
明し
てい
って
いる
︒
② 同 書 5 1 p 8
③ 同 書
P加
④宗家文庫蔵﹃輪番和尚下向覚書﹄による︒
⑤﹃大日本史料﹄第八編之四︑
P 3 4 9
⑥同
氏﹁
対州
修文
職に
つい
て﹂
︵﹃
禅文
化﹄
第三
九号
︶
⑦拙
稿﹁
近世
初頭
の堺
商人
・平
野屋
道夏
とそ
の一
族﹂
︵﹃
日本
歴史
﹄第
三
0
一号
︶参
照︒
⑧拙稿﹁天龍寺塔頭・宝徳院についてーその建立と再興ー﹂︵﹃史泉﹄第
四七
号︶
参照
︒
⑨拙稿﹁大坂十人両替・締屋善左衛門とその一族﹂︵﹃日本歴史﹄第三一
六号
︶参
照︒
⑩同氏前掲論文︒
⑪﹃禅宗﹄第二三七号︒
⑫江岳玄策﹁朧山住籍序﹂による︒﹃通航一覧﹄巻三十゜
⑬中山玄中﹁忌簿後序﹂による︒﹃通航一覧﹄巻三十︒
付記
本稿作成にあたり︑大韓民国国史編纂委員会はじめ︑史料所蔵者各位に は多大の御理解と御協力を賜わった︒ここに記して厚く御礼申しあげた
︑ ︒
四四
対馬•以酎庵輪番対照表 (宗家文庫蔵 『以酎庵輪番記』 による)
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33 1 3 22l3S245"322.222lb//22 /(/2213/
D
は在任中示寂凡例
1
●は庫合番在任2.e‑‑‑e
は再任、三任3 .
在任年月は何年何ヵ月を示す。4 .
備 考 欄 の { (0)は信使来朝時、加番の示寂 を示す。I
は病気による交代}
9r