『人文コミュニケーション学科論集』22, pp. 33-42. © 2017茨城大学人文学部(人文学部紀要)
糟谷 政和
要旨
江戸時代の朝鮮通信使来日に合わせて出版された通信使見学情報誌でもある行列記は、当 時の人々の朝鮮通信使理解に影響したと思われる。さらに神功皇后伝説記述の根拠としたも のを探求したい。
1.はじめに
日本と韓国・朝鮮との交流の歴史は長く複雑であり、友好的な時もあれば、そうでない時 もある。その中でも、豊臣秀吉の朝鮮侵略を含めた
16
世紀末以降の東アジアの大変動に対 応して、日朝関係の新たなあり方として江戸時代の朝鮮通信使が始まり、計12
回の使節が 来日した。朝鮮からの使節は日本各地において様々な文化交流を行った。さらに文化交流の 結果、現在も各地の民芸品である郷土人形や神社等の祭礼の中の行列や踊りの中に朝鮮通信 使と関係の深いものもある。一方で通信使の往来は、幕府や藩そして地域社会にとっては負 担でもあった。最近の歴史研究では、朝鮮通信使は善隣友好の文化交流使節と評価されることが多いので、
歴史教育においても秀吉の朝鮮侵略後の江戸時代の日朝関係は善隣友好関係として学ぶこと が多い。
しかし一方で江戸時代には、神功皇后の「三韓征伐」伝説・神話に基づいて、江戸時代の 朝鮮通信使をこの伝説・神話に言う「朝貢使節」とみる考え方もあったという。
この朝鮮蔑視の朝鮮認識の存在も念頭に置いて、改めて朝鮮通信使を通じた文化交流につ いて考えてみる。
現在では、朝鮮通信使を通じた文化交流を日朝の善隣友好関係の証とみる見方が
1970
年 代以降次第に一般的になっている。このことは現在の日韓(朝)関係を未来志向的に考える 上でも意味のあることであるといえる。しかし、別の研究成果として、江戸時代の日本にお ける朝鮮認識の中には神功皇后伝説(神話)が存在していて、結果として、朝鮮通信使を対 等の外交使節・文化使節と見るのではなく、神功皇后「三韓征伐」後に新羅・百済・高句麗 から来た朝貢使節の再来と見る考え方もあったという1。これは、例えば神田明神祭礼の出し物に
11
番目の豊嶋町の朝鮮通信使行列を真似た「朝鮮人来朝」と
31
番目の三河町四丁目の神功皇后の山車である「三韓攻出陣」が同一の祭礼 出し物として行われていることをどのように考えればよいのであろうか。近世日本の朝鮮観に潜む朝鮮蔑視観の存在に注意する必要があるといえる。
また歴史教育において、江戸時代の朝鮮通信使を善隣友好の使節と見て、秀吉の朝鮮侵略 の後の対等な善隣友好的な交流として見るのは、現在の私たち歴史教育者の理解の仕方で あって、必ずしも江戸時代の人々の朝鮮認識とは同一ではないのではないか。
2.朝鮮通信使見物の案内書としての行列記について
江戸時代の朝鮮通信使の来日に合わせて、来日した通信使に関する情報誌としての性格を もつ行列記(行烈記)、またはそれに類似するものが刊行された。この行列記の刊行は、当 時の人々の朝鮮認識とも密接に関係するものと思われるが、行列記の分析を行った箕輪氏に よれば、行列記は「行列を見物する際の説明書とでもいうべきものであり2」、また行列記が
「実際の行列を記録したものではなく、行列を見物する際の案内書の役割を果たしている3」 という。
箕輪氏は、行列記
14
種類、内容に行列記などを含むもの3
種類、計17
種類について検討し た4。それらの中から、ここでは、宝暦13
年(1763
)に来日した通信使に合わせてか刊行さ れた行列記のうち、早稲田大学図書館所蔵の行列記5を対象に内容分析を試みたい。この行列記(「朝鮮人来朝物語」)は、箕輪氏によって次のように紹介されている6。
『清道朝鮮人大行列記(外題)』、序題『朝鮮人来朝物語』、柱題「宝暦」、奥付「宝暦 十三年
/
癸未三月吉日/
京寺町上ル町/
菊屋七郎兵衛板」半紙本、早稲田大学図書館。[
備 考]
本書は、第10
回戊辰の菊屋七郎兵衛板を一部埋木して訂した再版本であるが、頭書 には正使の姓名があるが、絵には「名」の次が埋木で黒く塗りつぶされている。又、2
箇所にわたって宗氏家老の名が埋木で黒く塗りつぶされている。早大本は情報を得る前 に刊行した書であろう。なお柱題について箕輪氏の紹介では「柱題「宝暦」」とだけであるが、早稲田大学図書館 古典総合データベースでの解説では、版心書名(柱題のこと)について次のようになってい る7。
朝鮮人来朝物語の書名は序による朝鮮人来朝物語の版心書名:来朝 朝鮮人行列次第 の版心書名:宝暦(以下略)
このふたつの紹介を踏まえて、柱題(版心書名。以下柱題とする)について詳しく見てみ ると、文字のカスレ等で判明できないものもあるが、早稲田大学図書館所蔵の宝暦
13
年刊 行の「朝鮮人来朝物語」全体の柱題を整理すると以下のように、(1
)から(5
)の5
つの部 分から構成されていることが分かる。(この行列記の成立を考えるうえで参考になると思わ れるが、詳細な検討は今後の課題である。)
丁数 内容 柱題
(
1
)1
丁表 「朝鮮人来朝物語序」と文章 「来朝」
1
丁裏 「朝鮮人来朝年代記」と文章 「来朝」(
2
)2
丁表~6
丁裏 「抑朝鮮国我朝へしたがひし事」で始まる文章 「来朝」(
3
)7
丁表~18
丁裏 「朝鮮人行烈次第」と文章と絵 「宝暦」(
4
)19
丁表~20
丁裏 「朝鮮人持道具圖」と文章と絵 カスレ・欠損で不明(
5
)21
丁表~23
丁裏 淀川での諸大名御馳走御座船の絵と吹き出し 「ふね」3.宝暦13年刊行の「朝鮮人来朝物語」(早稲田大学図書館所蔵)と神功皇后伝説
宝暦
13
年刊行の『朝鮮人来朝物語』(早稲田大学図書館所蔵)は、通信使見物の案内書で あるだけに、文章だけでなく、絵入り部分もあり、その内容は多岐にわたる。その内容は前 述の「柱頭」分析で示したものの繰り返しになるが、紹介するとつぎのようである。まず「朝鮮人来朝物語序」では神功皇后の三韓征伐と三韓と高麗(高句麗)新羅百済の国 名について略記する。「朝鮮人来朝年代記」は応神天皇の時から今回の宝暦までの
17
回の朝 鮮人来朝年表である。「抑朝鮮国我朝へしたがひし事」で始まる文章では、いわゆる神功皇 后の三韓征伐とその後の三国からの貢物・来朝の伝説や宇多天皇の時の新羅賊の対馬来襲と その撃退さらに秀吉による朝鮮攻破と貢物・来朝が今回の宝暦13
年の通信使来日の背景と して語られている。「朝鮮人行烈次第」と文章と絵では、各1
頁分を上半部と下半部に二分し、上半部をさらに上段と下段に二文し、上段には主に対馬から江戸までの行程の宿泊地・休憩 地と各行程の接待担当大名名と賄い代官名、通信使持参の贈答品名、御馳走御座船を出す各 大名の家紋、日本語・朝鮮語対照表など通信使見物の基本資料が掲載されている。「朝鮮人 持道具圖」と文章と絵で通信使の道具類を紹介していている。最後に、淀川での諸大名御馳 走御座船について絵入りと文章で紹介している。
これらの項目のすべてが当時の人々の通信使に対してどのように理解していたかを考える 上で興味深いが、ここで本稿のテーマである神功皇后との関係するのは、
1
丁表「朝鮮人来 朝物語序」の文章と、1
丁裏「朝鮮人来朝年代記」の文章、2
丁表~6
丁裏「抑朝鮮国我朝へ したがひし事」で始まる文章であるので、以下、この3
つの部分について検討してゆく。(
1
)1
丁表「朝鮮人来朝物語序」内題「朝鮮人来朝物語序」で始まり、次のようになっている。
朝てうせん
鮮人じんらいてうものがたり
来 朝 物 語序 朝てうせんこく
鮮國むかし乃高かうらい麗國こくしんらこく新羅國百はくさいこく濟國なり。此三國をむかしハ三韓と称す。三國ともに各をのをの々 國かく
王わう
ありて。たかいひに國をせめ。位くらゐをあらそいて。我朝へもしたかわず。又大唐もそ むきしに。神じん功くうくわうぐう皇后 始はじめて三韓を責せめて。日本へしたがへ給ふ其そののち後 唐とうのかうそう高宗 皇くわうてい帝 李り責せきと いへる名めいしやう将を遣つか㋩し高麗を責せめしたかへかうらい王を朝てうせん鮮王わうと號ごうす大たいみん明の代よニ高麗新羅百濟 皆みな
一いつとう
統して三國をすべて朝鮮國と名づく。むかしハ三韓といひ。今ハ朝鮮と称す是なり。
又いにしへハ高かうらい麗をこまといひ、新し ん ら羅をしらぎといひ百はくさい濟をくだらといひけるとなん。
此この
後しかへ
に三韓といふは則すな㋩ちてうせんなり。新羅高麗はくさいといふハてうせんの内としる へし
「神じん功くうくわうぐう皇后 始はじめて三韓を責せめて。日本へしたがへ給ふ」とあり、いわゆる神功皇后による三 韓征伐説話が明記されている。
(
2
)1
丁裏「朝鮮人来朝年代記」の文章ここは上段と下段に二分されている。上段は応神天皇の時から秀吉の時までの
7
つの来朝 について年代順に示しているが、それは次のようである。
朝鮮人来朝年代記
▲人王十六代應をう神しん天王ハちまん大□なり 此ときはしめて来朝して高き物さし上候間 其れより毎年ミつき物
▲人王三十代欽きん明めい天皇の御宇来朝 ▲人王三十一代敏ひたつ達天皇の御宇来朝 ▲人王三十二代用よう明めい天皇の御宇来朝 ▲人王五十九代宇う だ多天皇の御宇に
来朝ス此間 中ちゆうせつ絶 此本に物かたりくわしくあり ▲太閤秀吉公の時代来朝 今
宝暦十三年迄百七十三年に成る ▲天正十八庚寅年来朝
此間六年
さらに下段は、いわゆる慶長から今回の宝暦
13
年までの10
回の来朝を年代順に示してあるが、それは次のようである。
▲慶長元丙申年来朝
此間十一年 ▲同十二丁未年来朝
此間二十九年 ▲寛永十三丙子年十一月来朝
此間七年 ▲同二十癸未年六月来朝
此間十二年 ▲明暦元乙未年九月来朝
此間二十七年 ▲天和二壬戌年八月来朝
此間二十九年 ▲享保四己亥年九月来朝
此間八年 ▲寛延元戊辰年五月来朝
此間二十九年 ▲宝暦十三癸未年 来朝
此間十五年
(
3
)2
丁表~6
丁裏「抑朝鮮国我朝へしたがひし事」で始まる文章全部で
6
丁分になるこの文章の特徴は、つぎのようにまとめることができる。ここでは神功皇后伝説及びその後の三韓・三国と日本との関係について、主に降伏、来朝、
貢物などの表現を多用して記述することによって、この行列記の読者に、三韓・三国が日本 へ貢物を送る国であったことを強く印象づけることになる。そして行列記の末尾には、宇多 天皇の時に対馬に来襲した新羅を撃退したこと(いわゆる
894
年の新羅賊の対馬来襲とその 撃退)、その後は朝鮮からの貢物があったりなかったりしたことを述べている。そして文禄 元年(1592
)にそのような状況の中で豊臣秀吉が朝鮮を攻め破ることによって、朝鮮から の貢物が捧げられるようになったこと、さらに慶長の頃から、その貢物が善美になったこと を述べている。上のように、伝説や歴史的事件を「来朝」という観点から記述することにより、やはりこ の行列記の読者に、今回の宝暦
13
年の通信使が貢物を捧げるための朝貢使節であることを 強く印象づけることになっている。この行列記の刊行が、当時の人々が宝暦13
年の通信使 を朝貢使節と考えることに対してどのような影響があったかを考えてゆく必要があるが、ここでは宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝物語』の中の、特に神功皇后伝説とその後の三韓・三国と 日本との関係に関する記述のもとになったと思われる、『日本書紀』の中の記述を紹介した い。まず冒頭部分にある、神功皇后が神託を受けて、熊襲よりも先に新羅を討つべしと仲哀天 皇に主張したとして、宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝物語』では次のようになっている。(2
丁表)きさき后あらたなる神しんたく詫をかうふり給ひしかバ后きさき天皇をすすめのたまふハ熊く ま そ襲は此國くにの小せうてき敵 にて何なにほどの事ことやさふらふかゝるふしぎなる神しんたく詫にまかせてまづ熊く ま そ襲をさしをきいそぎ 新し ん ら こ く羅國を責せめしたがへ給ハゝ(以下略)
これは、『日本書紀』仲哀天皇
8
年9
月条の次の内容と類似している8。秋あき九ながづき月の 乙きのとの亥いの 朔ついたちつちのとの己 卯うのひに、群まへつきみたち臣 に 詔みことのりして、熊く ま そ襲を討うたむことを議はからしめたまふ。
時に、神かみ有まして、皇き さ き后に託かかりて誨をしへまつりて曰のたまはく、「天皇、何なぞ熊襲の服まつろはざること を憂うれへたまふ。是これ、膂そ宍ししの空むなくに國ぞ。豈あに、兵いくさを擧あげて伐うつに足たらむや。茲この國くにに愈まさりて寶たから 有ある國、譬たとへば處を女とめのまよびきの如くにして、津つに向むかへる國くに有あり。 、此これをば麻ま よ び き用弭枳と云うふ。
眼ま炎かかやく金こがね・銀しろかね・彩うるはしきいろ色・多さはに其その國に在あり。是を𣑥たくぶすま衾新しらきのくに羅國と謂いふ。若もし能よく吾われを祭まつり たまはば、曾かつてやきはに血ちぬらずして、其の國必かならず自おのづから 服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も爲ま つ ろ服ひ なむ。
次に、神功皇后が、肥前松浦の河で新羅征討をアユ釣りで占ったとして、宝暦
13
年刊『朝 鮮人来朝物語』では次のようになっている(2
丁裏-3
丁表)。
すなハち神しんたく詫にまかせ新し ん ら こ く羅國を討うたんとおほしめし肥ひぜんのくに前國松ま つ ら浦の河邊にて大神宮をはひし 給ひ事かなふべくんバ魚うをこのゑばをはむべしとつりばりをなげ給へハたちまち大きなる あゆの魚うををえ給ふ(以下略)
これは、『日本書紀』仲哀天皇
9
年4
月条の次の内容と類似している9。夏なつ四う づ き月の 壬みずのえ寅とらの 朔ついたちきのえ甲たつのひ辰に、 北きたのかた、火ひのみちのくに前國の松まつらの浦縣あがたに到いたりて、玉たま嶋しまのさと里の小を が は河の側ほとりに進みを 食しす。是ここに、皇き さ き后、針はりを勾まげて鉤ちを爲つくり、粒いひぼを取りて餌ゑにして、裳みもの縷いとを抽と取りて、
緡つりのを
にして、河かはの中なかの石いその上うへに登のぼりて、鈎ちを投なげて祈うけひて曰のたまはく「朕われ、 西にしのかた、財たからの國くにを求もと めむと欲おもほす。若もし事ことに成なすこと有らば、河の魚いを鉤ち食へ」とのたまふ。因よりて竿さをを擧あげて、
乃すなは
ち細あ鱗魚ゆを獲えつ。」
さらに神功皇后が大魚等に助けられて新羅まで一気に進んだとして、宝暦
13
年刊『朝鮮 人来朝物語』では次のようになっている。(3
丁裏)御船ふね和わ餌え乃津つより出るとき波風はなはだあるに海かいちう中より大たいぎょ魚 龍りやう蛇じゃのたぐひあまた浮うかひいで出 御船を守し ゅ ご護しけれバいく程もなく新し ん ら羅へつき給ふ
これは、『日本書紀』仲哀天皇
9
年10
月条の次の内容と類似している10。冬ふゆ十かむなづき月の 己つちのと亥のいの 朔ついたちかのとの辛 うしのひ丑に、和わ に珥津のつよりたちたまふ。時に飛かぜの廉かみは風かぜを起おこし、陽うみの侯かみは 浪なみ
を擧あげて、海うみの中なかの大おほいを魚、悉みつくに浮うかびて船みふねを扶たすく。則ち大おほきなる風 順おひかぜに吹ふきて、帆ほ舶つむ 波なみ
に随したがふ。櫨かじ楫かいを勞いたつかずして、便すなはち新し ら ぎ羅に到いたる。
それ以降の記述も類似した内容の記事を『日本書紀』に見出すことができる。
以下列挙すると次のようである。
新羅国王は降伏して日本の奴となり、毎年
80
艘の船で貢物を捧げることを誓った。高麗 と百済も日本に降伏して年々の貢物を怠らないことを誓ったという記述は、宝暦13
年刊『朝 鮮人来朝物語』では次のようになっている。(3
丁裏-4
丁表)ミづから囚めしうと人となり降かうさん参して今より後のちはながく日本のやつことなり年〻の貢㋯つぎもの物を捧さ〵げ奉 るべしと申す(中略)新し ん ら羅王わうすなはち人ひとじち質を奉り金きんきん銀 珠しゅぎよく玉 綾あやにしき錦さまざまをふね八十艘そう につミて奉る是より毎まいねん年八十艘そうの貢みつきもの物をさゝげける高かうらい麗王わう百はくさい濟王わうひそかに人をつかわ して日本の軍ぐんぜい勢をうかゞひ見せしむるに敵てきたい對なりがたく見へければ各ミづから皇くわうごう后の御 陣に来り頭をた〻き平へいふく伏し今より以い ご後ながく日本へしたがひ年〻貢㋯つぎもの物おこたる事ある へからずと申(以下略)
これは、『日本書紀』仲哀天皇
9
年10
月条の次の内容と類似している11。(前略)卽すなはち 素しろき旆はたあげて自みづから服まつろひぬ。素しろきくみ組して 面みづから縛とらはる。 圖しるしへ籍ふみたを封ゆひかためて、王み船ふねの前まへに 降くだ
す。因よりて、叩頭のみて曰まうさく、「今いまより以の ち後、長ながく乾あめつち坤に與ひとしく、伏したがひて飼みまかひ部と爲な らむ、其それ船ふねかぢ柂を乾ほさずして、春はるあき秋に馬うまはたけ梳及および馬うまの鞭むちを獻たてまつらむ。復また海わたの遠とほきに煩いたつかずし て、年としごと毎に男をとこをみな女の調みつぎを貢たてまつらむ」とまうす。(中略)爰ここに新羅の王波は さ む沙寢錦きむ、卽ち微み し叱己こ 知ち は波珍とり干かん岐きを以もて質むかはりとして、仍よりて金こがね・ 銀しろがね・うるはしきいろ彩 色、及および綾あやきぬ・羅うすはた・ 縑かとりの絹きぬを齎もたらして、
八や そ か は ら十艘の船ふねに載のせいれて、 官みいくさ軍に從したがはしむ。是ここを以もて、新羅の王こきし、常つねに八やそ十船ふねの調みつぎを以て 日わ が み か ど本國に貢たてまつる、其それ是この 縁ことのもとなり。是ここに、高こま麗・百くだら濟、ニふたつの國の王こきし、新羅の、 圖しるしへ籍ふみたを
収とりおさ
めて日やまとのくに本國に降まつりぬと聞きて、密ひそかに其の 軍みいくさのいきほい勢を伺うかがはしむ。則ちえ勝かつまじきこと を知りて、自みづから営いほりの外ほかに來まうきて、叩頭のみて款まうして曰まうさく、「今より以の ち後は、永ながく西にしのとなり蕃と稱い ひつつ、 朝みつきたてまつること貢 絶たたじ」とまうす。(以下略)
神功皇后が帰国して筑紫で王子(後の応神天皇)を産んだという記述は、宝暦
13
年刊『朝 鮮人来朝物語』では次のようになっている。(4
丁表)皇后筑紫へかへり皇子誕生し給う
これは、『日本書紀』仲哀天皇
9
年12
月条の次の内容と類似している12。 十二月の戊戌の朔辛亥に、譽田天皇を筑紫に生まれたまふ宣化天皇の時に大伴狭手彦が任那を征伐した。出発する狭手彦をひれふし山で佐用姫が見 送ったという記述は、宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝物語』では次のようになっている。(4
丁裏-5
丁表)人王廿九代宣せんく㋩化天皇の御宇に任㋯那まなといふ國より新羅を責せむるよし告つげ来きたるにより大おほとも伴の狭さ手で 彦ひこ
を大たいしやう将として任㋯那まなを伐うたせ給ひしかバ任㋯那まな國も又降けうさん参して日本にしたがう(中略)狭さ手で 彦ひこ
日本□かつ浦らがたより出しゆつせん舩の時に日頃てうあいせし佐用姫といへる女わかれをおしミ山に のほり狭さ手で彦ひこの舟ふねをはるかに見おくり(以下略)
これは、『日本書紀』宣化天皇
2
年10
月条の次の内容と類似している13。二年の冬ふゆ十かむなずき月の 壬みづのえ辰たつの 朔ついたちのひに、天すめらみこと皇、新し ら ぎ羅の任み ま な那に寇あたなふを以て、大おほともかなむらの伴金村大おほむらじ連に詔して、
其その子こ磐いはと狭さ で手彦ひことを遣わして、任那を助たすけしむ。是の時ときに、磐、筑紫に留とどまりて、其の 國の 政まつりごとを執とりて、三みつのからくに韓に備そなふ。狭手彦、往ゆきて、任那を鎭しづめ、加また百濟を救すくふ。
欽明天皇の時、 膳かしはでのおみ臣 巴は提す便ひを大将として百済任那救援に向かわせたが、その時、
膳かしはでのおみ
臣 巴は提す便ひが新羅高麗の手飼いの虎を退治したという記述は、宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝 物語』では次のようになっている。(5
丁表-5
丁裏)欽明天皇の御宇に新羅高麗ひとつになりて百濟任那を責けれは日本より膳臣巴提使とい へるものを大将として百濟任那の加勢につかはされけるに新羅高麗より手かいの虎とらを出いた しけしかけけしかけせめたゝかふ 膳かしはで手すこしもおどろかず向むかい来きたる虎とらの細くひ中ちうにうち
おとし或あるひハ虎とらにひらりと打うち乗のりさしころししめころし見せたれバ(以下略)
これは『日本書紀』欽明天皇
6
年11
月条の次の内容と類似している14。(欽明天皇)六年の春はる三や よ い月、 膳かしはでのおみ臣 巴は す ひ提便を遣つかはして、百く だ ら濟に使つかひせしむ。(中略)冬ふゆ十し も つ き一月 に、膳臣巴は す ひ提便、百濟より還かへりて言まうさく、(中略)旣すでにして其の虎、前まへに進すすみて、口くちを 開あきて噬のまむとす。巴は す ひ提便、忽たちまちに左ひだりの手てを申のべて、其の虎の舌したを執とらへて、右みぎの手をもて 刺さし殺ころして、皮を剥ぎ取りて還かへりぬ。
狭手彦が高麗の宮に入って悉く宝物を奪う活躍をして現地の人に鬼彦と呼ばれたという記 述は、宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝物語』では次のようになっている。(5
丁裏)又狭だ で手彦ひこを大将としてかうらいを攻せめめ給ふ狭さ で手彦無むニに無む ざ ん三に高かうらい麗の王わうぐう宮へ乱㋯だれ入てせめ 戦た〵かひ
たれバ高かうらい王わうかなハず俄にわかにまぬかれ出て逃のがれさる去國の繪圖幷 数あまた多の宝ほう物を天皇にさゝ げ奉る是によりて其頃狭さ手て彦の事を朝鮮にてハ鬼おにひこ彦と名付けて恐れおのゝきたるとかや
(以下略)
これは、一部だが『日本書紀』欽明天皇
23
年8
月条の次の内容と類似している15。狭手彦、遂つひに勝かちに乗のりて、 宮みやのうちに入いりて。 盡ことごとくに珍た寶から も の賂・ 七ななえのおりもののとばり織 帳 ・鐡くろがねのいへ屋 を得えて還 來り(以下略)
百済が丈六の仏像と仏経を奉ったという記述宝暦
13
年刊『朝鮮人来朝物語』では次のよ うになっている。(5
丁裏-6
丁表)此時百はくさい濟王わう使者を獻けんじて丈でうろく六の佛ぶつざう像幷佛ぶつ経きやうを奉る是我朝にて佛法の始じまりなり(以下略)
このうち、丈じやうろく六仏像に関する記述は『日本書紀』欽明天皇
6
年3
月条の次の内容と類似し ている16。(欽明天皇六年)(秋あき九月に)是の月つきに、百濟、丈ぢゃうろく六の 佛ほとけの像みかたを造つくりまつる。
高麗が烏の羽に文字を書いてきた、いわゆる「烏羽之表」を読んだという記述は、宝暦 13年刊『朝鮮人来朝物語』では次のようになっている。(6丁裏)
敏達天皇の御時日本の智恵を計らんとて高麗より烏の羽に文字をかきて送りけるに黒く して見わくへき様なかりしを則飯の上に置て是をむして紙を持ちてからすの羽のうへを おしたれバ文字ことごとく紙にうつりて是をよむにより異国人皆我が朝の人智勇をかね たる事を大きにかんじけるとなり(以下略)
これは『日本書紀』敏達天皇元年
5
月条の次の内容と類似している17。又また高こ ま麗の上たてまつれる表ふ み疏、烏からすの羽はに書かけり。字な、羽の黑くろきに隨ままに、旣すでに識しる者ひと無なし。辰爾、
乃すなは
ち羽を飯いひの氣けに蒸むして、 帛ねりきぬを以もて羽に印おして、 悉ことごとくに其その字を寫うつす。
3.おわりに
本稿では、朝鮮通信使来日に合わせて出版された行列記の中に示された神功皇后の三韓征 伐伝説は、『日本書記』の神功皇后伝説等との類似性が強いことを示した。今後とも行列記 の内容分析を続けてゆきたい。
注
(1)塚本明「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」『史林』79巻6号、1996年11月)。
(2)箕輪吉次「通信使の行列と行列記-朝鮮像の変遷-」『日語日文研究』第72輯2巻、韓国日語日文 学会、ソウル、2010年、231頁。
(3)同、231頁。
(4)同、231-236頁。
(5)早稲田大学図書館古典総合データベース「朝鮮人来朝物語」、2016年2月19日閲覧。
(6)箕輪前掲論文、234-235頁。
(7)注(5)と同じ。
(8)坂本太郎他校注『日本書紀』上、岩波書店、1967年、326頁。
(9)同、332-334頁。
(10)同、336-337頁。
(11)同、338-339頁。
(12)同、340頁。
(13)坂本太郎他校注『日本書紀』下、岩波書店、1965年、59頁。
なお、坂本太郎他校注『日本書紀』下巻(岩波書店、1965年)の59頁頭注30によれば、狭手彦の 出発に際しての肥前国松浦郡での佐用姫(さよひめ)との別離の伝説に関連する記事が『肥前国風 土記』松浦条に、歌が『万葉集』国歌大観番号871~875にあることがわかる。
(14)同、92-94頁。
(15)同、126頁。
(16)同、92頁。
(17)同、134頁。