古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」
における燥音音素とその分布一(1)
福 本 義 憲
1
゚去の時代の音韻組織を知るためにはまず第一に文献資料に現われる表記の
、異同や揺れの観察と体系的な分析が必要であることはいうまでもないが,史的 音韻論はそのような分析にあたっての基本的な枠組みとして自然言語の有する 構造性を理論的な前提とする。共時的な体系としての自然言語のもつ構造的な 特性は,過去のある時期の言語にも当然存在したはずであり,自然言語として 可能な特性をモデルとして表記変種の出現を体系的に分析することが求められ
る。このような構造的な特性として,何らかの相関に基づいて構成される音素 とその異音の出現がある。このような観点からPenzl(1968;1971)は古高ドイ ツ語のいくつかの方言の共時的な記述の試みを行っている。そこでは,もっぱ ら限られた数の音素から構成される全体的な音韻構造の析出と異音関係の記述 が目標とされている。しかし,自然言語の音韻構造はむしろさまざまな部分構 造の複合体である(PhiHpp l974,46)。史的音韻論の課題は,たんに全体的な 音素の体系と異音の分析に終るのではなく,このような分布上の部分構造とそ の相互の通時的な依存関係をも分析の対象としなくてはならない。よく知られ ているように音韻変化は多くの場合位置によって,つまりその関与する部分構 造によって異った進行を示す(たとえば高地ドイツ語子音推移)。歴史的な変化 を構造的に把握するためにも,過去のある時代の言語の共時的な部分構造を明 らかにし,その相互関係を見定めておく必要がある。本稿は古高ドイツ語「聖 ベネディクトゥス会則」(ahd. Benediktinerregel,以下ABR)を資料として,
そこに反映された9世紀初頭のアレマン方言の音韻構造をその分布上の部分構 造とともに取り出そうとする試みである。ここではとりあえず対象を喋音に限 定している。燥音体系は西ゲルマン語期から前古高ドイツ語期に至る間に大き な変動にみまわれたが,この変動の最終段階は文献伝承の始まる時期(8世期
後半)と重なっている。ABRはアレマン方言における文献伝承におけるもっ とも古い層に属している。ABRにおける曝音の共時的な構造がどのような様 相を示していたかを知ることは,高地ドイツ語子音推移という大変動のプロセ スそのものの解明にも重要な示唆を与えるものと思われる。
ABRはごく初期の語彙表(Glossenarbeit)期に続く行間翻訳(Interlinearver一
●slon)期を代表する文献であり,その規模の大きさからこのジャンルの「古典」
(Sonderegger 1970,64)とさえいわれるものである。伝承されている唯一の写 本はザンクト・ガレン修道院写本番号916号として同修道院図書館に保存され ている。行間翻訳の名のとうり,カロリング朝小型字体で書かれたラテン語
「会則」の行間にラテン語の単語に対応させて当時のドイツ語が細かい草書体 1)で書きこまれたものである。この写本の字体の特徴から写本が9世紀初頭にザ
ンクト・ガレン修道院で写されたものであることは間違いないとされる(Son一 deregger I 970,69)。本稿はいくつかの刊本のなかでもっとも信頼性の高い Steinmeyer版(1916)を分析の底本とする。このSteinmeyer版は写本への忠
実さと文献学的な厳密さにおいて「きわめて秀れた業績」(Menhardt l959,22) 2)とされるものである。ほかにDaab版(1959)を参照したが,読み易さを目指
した校訂の性格が強く,Daab自身のいうように文献的な研究にはSteinmeyer 3)
版に戻らなければならない。ラテン語「会則」は前文を含む73章から成るが,
ほぼ完全に翻訳されているのは前文および最初の14章までと31章であり,15章 以降は空白が多くなり第67章の最初の数行に至って翻訳は全く終っている。こ の行間翻訳に含まれるドイツ語の総数は略字形も含めて8623語であり,これが 本稿の分析の資料をなすわけである。
ABRがどこの修道院で起草されたかについては従来議論の分れるところで あった。そこに用いられた言語がアレマン方言に属することは明らかであり,
当時の状況から候補地としてはライヒェナウとザンクト・ガレンが問題になる 4)が,最近の研究成果はザンクト・ガレンが起草地であることを示している。ラ
テン語「会則」の写本第914号の存在や,語彙表の伝統,そしてそこにみられ るABRとの類似性はザンクト・ガレンを起草地とする重要な根拠とされる
(Sonderegger 1970,66;1978,705 f)。起草の時期はカール大帝による勅令の 頃(802年)と考えられ,写本の特徴もその推定を裏付けるものである。これら のことから,ABRには古アレマン方言に属し,800年頃にザンクト・ガレン地 方で一般に通用したと思われる比較的閉じられた言語層が反映していると考え
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布(1)33 5)轤黷驕B
先に述べたように,自然言語のもつ構造性という理論的前提に立って,史的 音韻論は表記の観察と分析のほかにいくつかの方法を駆使する。資料体にみら れる表記だけでは,音価の推定やそれに基づく音素の設定は必ずしも容易では ないからである。まず資料体と同一方言に属する後の時代の表記と比較し,
その変化を見定めることがある。このために本稿ではおよそ200年後(11世紀 初頭)のザンクト・ガレンで活躍した神学者Notkerの用いた表記を比較の材 料とする。これはPestalozzi(豆916),Valentin(1962),Penz1(1955;1968;
1971),Moulton(1979)の研究に多くを依存することになろう。さらに, ABR より以前の表記との比較を行うために,8世紀から保存されているザンクト・
ガレンの古文書の忘備メモ的な性格をもつVorakteについてのSonderegger
(1962)の研究を参照する。そこに含まれるドイツ語はほとんどが人名・地名 であり必ずしも期待する音形は得られるとはかぎらないが,それでもいくつか の点で重要な手掛りを与えてくれる。このような表記の通時的な変化の比較と 並んで音価の推定にしばしば決定的な重要性をもつのは,いうまでもなく今日 のアレマン方言の音声的な様相である。古アレマン方言の連続的な地理的分布
を示す現代方言における音価を考慮に入れないでは,表記の裏にある音価を多 6)
ュなりとも正確に推定していくことは不可能であろう。本稿では現代アレマン 方言の記述としてJutz(1931)を中心にstickelberger(1889), schild(1893)
およびKe11er(1961;1963)を参照する。
2
?骭セ語の音韻構造を構成する部分構造はふつう語頭(Anlaut),語中(In一 1aut),語末(Auslaut)の3つに大きく分けられる。このそれぞれについてさら に先行ないし後続する音の種類によっていくつかの下位区分が可能であるが,
語中位置については,先行する母音(V),流音(L),鼻音(N)をもつ位置を 区別することができる。
(1)(a)V_V
(b)VV_V
(c)1LV
(d)N_V
母音を先行音とする語中位置はさらに短母音(V),長母音および2重母音(VV)
の区分によって(a),(b)のふたつの位置がそれぞれ異なる燥音の部分構造を 構成する。これらの4つの語中位置のうち,まずV_V(a)に現われる喋音の 表記はABRでは次のように示すことができる。
(2) 唇 音 歯 音 軟口蓋音
P/1) d g/k/c pp tt, t ck/cc
ρu s b
ff ss, zz/z/sz hh/ch/hch
zz/z/tz ch/cch
7)
i3)例:lebente(207,24 viventes), erhaban(209,28 exaltatum)/erha一 pener(216,7exa!tatus);vpPigiv(209,130tiosa), upPigi(253,360tio一 sitas);pado(242,20 balnearum), f士idv(193,22 pacem);sitim(201,16 mor量bus), pletirun(248,21 fbliis);dritta(i96,25 tertium), pittames
(190,8rogemus);taga(193,15 dies)/takalihhin(205,26 cotidie), tragan
(234,24reportare), tracan(264,5);untarlicke (253, l l subiaceat)/un一 tarlicce (252,31).
ouanes(196,29 fbrnacis), zuelifin(221,7duodecim);offan(205,17 offan tuan・=patefacere);scd臨nti(225,3creatori);dese (207,10 hii),
kalesan(220,81eganεμr);desses(195,25 hし導us), chnussan(205,16 alli一 dere);mezze(240,14 modum)/meze(231,1), vvizzanti(201,4sciens)
/vvizanti(269,5);kemahhoe(20i,22 aptet)/k五machon(269,15 socia一
re)/kamahchon(223,1、6 iungere);sehan(93,15 videre). 8)
@ kesezzamees(197,26 dispondendum)/kasezamez(221,17 disposuimus),
sizzantem(219,19 sedentibus)/sizanti(217,7sedens), nvtzi(268,・3 usum); intdecchan(253, 16 detegere), chlocchot(280, 14 pulsaverit)/
chlochon亡i(264,2).
軟口蓋音を表わすg/k/cは表記的対立を示さない自由な表記交替である(tra一 gan/tracan)。この交替はほかにもegii(199,19 d三scipljnam)/ehi(200,12),
managero(196,16 multorum)/manakero(201,16), fUrimagan(235,3prae一
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布{1)35
valere)/furimakant三(198,37), forasagenti(199,18 praedicans)/sakee(257,
2suggerat), forasegin(195,3propheta)/fbrasakvn(二forasakin l 94・8)など,
きわめて頻繁にみられる。この9/k/cは音韻的対立とは結びついていないこ とは明らかである。他方同じ軟口蓋閉鎖音を表わすck/ccの交替も語義の変 化と連合していない自由な表記交替であり,音韻的対立はない。しかし,この
ふたつのタイプの自由異表記形はたがいに表記的な対立にある。
(4) 9/k/c : ck/cc
egii/e]kii lecke/lecce tragan/traCan liCke/liCCe
このふたつのグループの区別は正確であり,表記の重複は全くみられないこと から,この対立が音韻的対立を反映したものであることは明らかである。g/k/c の表記の揺れの裏にある音価は何であろうか。古アレマン方言が借用したラテ ン文字g,k/cは有声と無声の軟口蓋閉鎖音を表わすものであるが,それが同一 語に用いられて何らの意味の変化も認められないということは,有声/無声が 非音韻的であることを示していると思われる。この一見有声音と無声音を表わ す表記の揺れはABRには他にも体系的に発見することができるのであるが
(たとえばP/b,f/uなど),この現象自体は今日でも決してめづらしいもので はない。現代方言においてたとえばバイエルン方言域では同一の山岳名がP/b の表記の揺れをみせる(Bal5elhom/Palfelhorn, Boneg9/Poneck;Martens l 979,
9)。同様な表記上の困難は方言辞書の編纂者によってしばしば報告されている
(M量tzka l957,231f)。そしてこのような表記の揺れの起る原因がドイツ語の o
スくの方言において閉鎖音が無声軟音〔b,d,9〕として調音されるところにあ o o
驍ニいうことも知られている(Martens a. a.0.)。このような表記上の特徴は ABRにみられるものと同じであり,このことからg/k/cの交替がABRにおい o
トも無声軟音〔g〕を表わしたものと推定することができる。他方ck/ccは重 複音を示すとともに,ggの表記が現われないことからg/kと音質においても 相違があったと考えねばならない。軟口蓋音における9/k/cとck/ccの対立 oヘ,〔9〕と〔kk〕の対立,単音の無声軟音と重複音の硬音との対立と推定でき よう。同じことは閉鎖唇音にもあてはまる。上にあげたerhaban/erhapenerの ほかにもb/Pの交替はたとえばobana(271,3super), oparorun(270,29 supe一 riore), ubige(256,170tiosi),11pigi(255,320tio)があり, upPigi, vpPigiv
9)
フppと対立している。ただp表記の現われはほとんどこれだけであり,軟口 蓋音のg/kほどには明確ではない。ppも上にあげた例だけであり,しかも
ubige/vPPigiv(adj・)・upigi/uppigi(sw・E)では単音と重複音(p/b:pp)の両
10)
形並存を考えなければならないなど,軟口蓋音に比ぺて音韻対立の設定には 不利である。摩擦唇音においても,今sceffantiを除くとgerm. fに由来する ouanes, zuelifinにみられるf/uの交替とgerm. Pから生じた重複音offan,
およびgerm. fの重複音形であるhe珊anにみられるffとの明確な対立がある。
今日のアレマン方言においてはV_Vでの単音の閉鎖音は無声軟音である
(lebo,きtubo;wage,lege)。摩擦唇音もこの位置では単音の軟音である(ofa,
hafo)。そしてこれらの軟音は重複音の硬音と対立している(rippe,§nappg;
bakko, rukko;offo,§affo;Jutz l 75, passim;keller l 961,48;1963,52;
11)
Stickelberger 417)。これはABRにおけるb/P:PP,9/k:ck, f/u:ffの表記 的対立に完全に対応している。軟口蓋摩擦音ではABRにおいては単音表記h と重複音表記hh/hch/chがみられる。 germ. kに由来するこのhh/hch/chの 交替形は,現代方言の応形(maxxo, woxxo;Jutz 20g f)の示すようにやはり 硬音の〔xx〕と考えるべきであろう。この表記の選択はABRにおいて多分に
恣意的であり,sprehhenでは16例のうちhhは14例, hchが2例であるが,
rahhaでは20例のうちchがもっとも多く10例, hhとhchはそれぞれ5例に 見出される。またmahh一を語幹として含む語例では22例のうちhchが11例,
hhは6例, chは2例,またhをもつものが2例ある。 gemL hに由来するh はA8Rでは常に単音hで示されるが(sehan),2例においてhの消失がみ
られる(fbrakisiit 270,27 praespexerit;fbrak三siit 271,7)。現代方言において はこのhは標準ドイツ語と同様に消失している(n三9,ts三〇, seg)。この消失は hがABRにおいてすでに軟音的性格をもっていたことを示唆していると思わ れる。歯音を除いて今まで見てきた喚音の音価は次のように表わすことがで
きる。
(5) 唇音 軟口蓋音 o
@ 軟音 〔b〕 〔9〕 o
硬音 〔PP〕 〔kk〕
軟音 〔v〕 〔h〕 o
硬音 〔ff〕 〔xx〕
福本:古高ドイツ語「聖ペネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω37
音韻的にはこの表は軟・硬音相関による対立関係として設定できる(/b/:/P/, o
ることができる。
3
負ケはこれまでみてきた軟口蓋音,唇音とは少し事情が異っている。閉鎖音 においてはd/tの自由な表記交替は全く見られない。dとtは表記上の対立 が厳密に保たれており,このことはそこに音韻的対立が存在することを示唆し
ている。
(6) pado (242,20):poto (195,6)
sedalum(220,6):setii(246,20)
Iidi (239,29):ke1三ti(191,33)
これらの語は音韻的にほぼ最小対立項を構成しているものであり,この対立を 形成する相関としてはすでに軟口蓋音・唇音において設定された軟・硬音性が
当然ここでも有効であると解釈すぺきであろう(/d/:/t/)。しかしそれだけで o
はなく,この項の一方であるtはttと明らかに表記的な対立を示している。
(7) pittames(190,6):siteo(265,8)
m三tiuuarii(280,18):mittilodolltera(254,18)
この表記上の区別はやはり正確であり,たとえばfaterに属する語群として現 われる14例には全く例外はない。drittaでは完全に表記された9例のうち誤記 と思われる1例(dritun 220,2)を除いてすべてttをもつ。 pittanne(230,5 supPlicandum)/pitit(236,22 postulat)のtt/tの交替は本来接辞jの存在に依 存するものでパラディグマ内で文法的な位置付けがあり(vgl・BE 282),自由 交替ではない。ここではこれまでの軟・硬音の相関ではなく重複音相関を設定
しなくてはならない。ABRの閉鎖歯音ではしたがって/d/:/t/:/tt/という 0
R項対立があったことになる。この歯音の閉鎖音系列における重複相関を含 む3項対立は,200年後のNotkerにも見出すことができるものである(sito:
mitti;Moulton l 979,244 f)。
歯音の摩擦音系列においてもABRは唇音,軟口蓋音とは異なる様相を見せ
る。sおよびssは異表記を全くもっていない(kalesan:keuuisso l 90,1)。この ことは唇音のf/u:ffおよび軟口蓋音のh:hレ/hch/chと大いに異るが,これ
らの摩擦音において設定した対立〔v〕:〔ff〕,〔h〕:〔xx〕)が歯音においても有 o
効とみるぺきであろう。S/SSは現代方言において他の摩擦音と平行関係にある
(軟音1eso,硬音gesse)。構造的な観点からもABRにおけるこの平行関係の 想定は妥当であろう(〔v〕:〔ff〕,〔z〕:〔ss〕,〔h〕:〔xx〕)。このssはzzとは明白
o o 唇
な表記的対立を見せている(keuuisso:vvizzi 202,6scierit;uuassira.234,30
12)
acrior:pezzira 197,23 meHus)。ここには当然音声的な相違が設定されるが,
zzはふたつのタイプの異表記をもっていることから音価の推定が可能になる。
1uzzi1に属する語群ではzz/z/tcの表記の交替があり,さらに一例だがnvtzi
(268,3)にtzが見られる。 tcおよびtzは明らかに破擦音〔ts〕を示すもの
13)
である。他方wizzanに属する語群ではこのtc/tzは現われず, zz/z/szの交 替がある。この特異なszをもつのは2例(uuiszun 253,15 sciant;k至uuiszida 230,19testimoni)だけである。 Notkerでは特異な表記は消えz/zzだけにな るがzとzzの間に体系的な区別がなされている(uuizen,ω∫∬θη,εzen,8∬θπ;
s6zzen,56銘6π, uufzze,躍耽;Penz11968,144;8E 154)。このz/zzのふた つのグループはgerm. tに由来する摩擦音53と破擦音tsに対応している。
Sと5とは明確に区別されるので何らかの音声的相違があったことは明らかで,
一般にsは歯音または舌尖音,5は硬音蓋音または舌背音的であったと推定さ れる(BE 168;Joos I952,222 ff)。むろん表記からそこまで読みとることは この場合不可能であり,ここではsと5の間に何らかの調音的な相違に基づく 音韻的対立があったことを確定すれば十分である。
摩擦音33を示すzzはしばしばz(単一表記)と自由に交替している。 wizzan に属する語群では21例のうち4例が単一のzで表記され(vvizanti 271,25;
vvizanti 269,5;vvizanti 265,8;k1vv五zidv 262,25), mezの派生形では13例 のうち3例(mezu 233,15;meze 231,1;mezv 267,18)に見られる。この zz/zの揺れはおそらく偶然ではないだろう。 germ. P>ff(およびgerm. fj>
ff)とgerm. k>xxがともに硬音であることと並行してこの55も硬音と考える べきであるが,このZZ/Zの揺れは唇音,軟口蓋音とは異なって単音の対応す
る軟音を持っていなかったことと関係があるのかもしれない(軟音/z/は/s/ o
フ対応音と考えれば)。しかも,この歯音にあっては閉鎖音と摩擦音は奇妙な 構造的類似性をみせることになる。
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω 39
(8) 閉鎖音 摩擦音
軟音 〔d〕 〔z〕 o o
@ /\ / \
硬音 〔tt〕一一〔t〕 〔ss〕−L3(5)〕
閉鎖音においては硬音のtt:tは重複相関によって区別され,摩擦音において はss:53は何らかの調音上の相違に基づく対立によって区別されてそれぞれ 異なる,しかし構造的にはきわめて類似した3項対立を構成していたことがわ かる。この3項対立は現代の方言において(標準ドイツ語も同様に)いずれも
14)
ttとt, sと3との融合によって解消されている(redo:wett9, fattθr;le寧9:
9ess∂, wassor Jutz l 88 ff)。
歯音において設定された破擦音は軟口蓋音でも表記的な対立として見出すご とができる。すでに述べたようにhh/hch/chは硬音〔xx〕を表わす表記であ るが,これは一方でhと対立するとともにcch/chの異表記群とも対立をなし
ている。
(9) hh/hch/ch : cch/ch
rahha (199,30) intdecchan(253,16)
rahcha (238,27) chlocchot (280,14)
racha (201,14) chlochot(264,2)
cch/chはhhと表記的な交替を示す例がひとつあるが(clohhot 255, l l),こ れは写本の際にchとhhの表記重複に起因して生じた誤記と解釈できる(Pes一 talozzi l g l 6,147)。 Notkerではこの対立項はch:cch(摩擦音:破擦音)に統 一されている(Penzl l968,145;1971,97)。 ABRではchはどちらの表記 にも頻繁に用v・られて表記上の混乱の元となっている(erqhuichan 204・11;
eruuechenteru l92,24;いずれも破擦音)。こうした表記混清の結果,さきに あげたcchとhhばかりでなくcchとhchの交替さえみられる(eruuehchit 278,11)。しかし,hh/hch/chの交替を示す語にcchは決して現われない。
現代の南アレマン方言では古アレマンのcchは破擦音〔kx〕と対応している
Gtekxo,5 8 ん6η, wekxo,ωθ6ん6η;Jutz 217)。 Pestalozzi(1916・144 ff)はアレ
マン方言東部および北部の帯気音〔kh〕を根拠にNotkerのcchを帯気硬音 と解釈しているが,ABRの表記cch/ch/hch/hh・にみられる摩擦音との混清は
むしろ古アレマン方言の破擦音を示唆している(vgL Jutz 214)。
唇音ffの表記は自由な交替を全くもたない点で歯音や軟口蓋音とは大きく 異なっている。表記だけから判断すれば,offan(205,17), sceffanti(225,30)
のffは全く同じ音価をもっていたことになる。 しかし, Notkerにおいては 6ffbn:sk6pfenであり, ff:pfの表記上の対立がある(Penzl l 971,96)。現代 の南アレマン方言でのこの対立に対応するのは菖affo:§6pfo(Jutz 71), k§1i一 ffan:§epfan(Schild 318f),っffo:芝φpfe(Keller l 96a 5&62)である。 ABR
で全く同一であったffが,のちのNotker以後ふたつの音,摩擦音と破擦音 に正確に分けられたと考えることはできないから,ABRにおいてoffanとsce一 f飴ntiの間には音価の相違があったとしなければならない。そして,それは歯 音,軟口蓋音においてすでにみられる摩擦音と破擦音の相違と想定するのが妥
当である。
これまでの結果をまとめると,V_Vの位置においてABRの喋音は次のよ うな部分構造を構成していたことになろう。
(10) 唇音 歯音 軟口蓋音
閉鎖音軟音/セ/ / / /§/
硬音 /p/ /tt/ /t/ /k/
摩瀦軟音 /と/ /誓/ /h/ /f/ 硬音 /s/ /5/ /x/
破擦音 /pf/ /ts/ /kx/
ここでは軟・硬音性が第一一義的な相関を構成し,さらに歯音の閉鎖音において はすでに述べたように/tt:t/が周辺的な重複音相関を成している。歯音の摩 擦音では/s/と/5/が閉鎖音系列と構造的には似ているが,重複音相関とは 性質の異る調音位置的な相関を周辺的に形成している。/h/は軟口蓋軟音とし て位置付けたが,調音位置の不明瞭な気音となっていたとすれば,別の位置付 けが必要となろう。破擦音はV_Vにおいてむしろ音素結合と考えるべきかも しれない(Vennemann l 968・70 f)。とすれば破擦音系列はなくなり,いっそ う経済的な構造が得られる。一応ここでは破擦音も含めると17の音素がV_V の位置における部分構造を構成していたことになる。のちに明らかになるよう に語中の他の位置および語頭.語末位置を含めて,この短母音に続く語中位置
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω 41
は最大数の音韻的対立の働く最大「有効位置」(Trubetzkoy 70)として特徴付
15)
けることができる。
4
キ母音および二重母音に続く語中位置(VV_V)をひとつの部分構造として 取り出すのは,この位置において先のV_Vとは異なる喋音の行動が観察され るからである。これはとりわけ重複子音の単音化に明白に示されている(BE 95)。まず,ABRでVV_Vの位置に用いられている喋音表記をその揺れも
含めて示そう。
(11) 唇音 歯音 軟口蓋音
b/p d g/k pp/bp/bb tt/t, t ck
f/u s h
ff/f ss/s, zz/z hh/ch/hch
(12)例:erlaupPe(273,301iceat)/erlaubpan(197,10),1ipPanti(213,
7parcendo)/1ibbe(230,26);haub三t(247,21 caput)/〔hau〕pit(255,
25);midanti(191,231atens), muadee(213,351asiscat);keratte
(202,20consilium)/kirati(202,27);tatim(192,12 actibus), mua一 tum(198,14 mentibus);eiganeem(207,12「propriam)/eikanes(203,
8), statigi (265,17 stabilitate)/statiki (264,20); keauckan (199,9 demonstrare).
zuifa1(203,22 dubio)/zuuiual(202,7), diufa(204,3furtum),
則aua(202,6numerum);slaff6(257,15 somno)/sla制ero(231,25 somnolentorum), kehlavffit(250,160ccurrerit)/kakanlavfit(249,
23);erloso(195,18 erloso tatun:impegerunt), muaso(257,8cibo一 rum);vvissan(202,30 vocare)/kauuisan(262,15);uzzan(211,10 sed)/vzan(207,30), puazzu(251,10 emendationem)/puazu(253,
11);n至erfliuhis(209,3non ef丘1gis), uuiho(191,19 sacrum);spra一 hhu(205,19 eloqio)/sprahchon(255,33)ruahhvn(236,17 curam)
/ruahcha (198,36)/ruachun (233,22).
軟口蓋閉鎖音に用いられる表記g/k,ckについては先にV_Vの位置で確定 したことがここでもそのままあてはまる。むしろ表記変種C,CCがこの位置で は使われていないので,軟口蓋音では表記はいっそう統一的となっている。そ れに比べてずっと複雑な様相をみせるのは唇音の閉鎖音であり,ここでは体系 上硬音〔PP〕と考えられる音価に対してPP/bp/bbが自由な表記交替をして現 われている。もしこの表記の揺れだけに基づいて音価を再構成するならば,軟
音の重複音〔bb〕を想定しなければならないが,これは明らかに体系上の要請 oo
ノ反している。唇音におけるこの表記の揺れは,VVのあとでは硬音が必ずしも 重複音としては実現されなくなっていたことと閥連していると思われる。短母 音のあとでは硬音は/t/および/3/にみられる揺れを除くと常に重複音で実 現された。VVのあとで硬音に関するこの制約がもはや厳密にはあてはまらない ことは,とりわけ摩擦音ff/f, ss/s, zz/zの表記交替に明らかである。−hlauffan に属する語群は11例あるが,そのうち4例が単一のfを示している(kehlaufan 191,4;kakanlaufヒn 223,18;kakanlavfit 249,23;kilaufan 255,14), chaufan ではABRに現われる2例ともにfである(chaufan 260,18;farchaufanne 263,
16)
6)。歯音ではuzzanとそれに関連する語群は47例あり,このうち6例がzを みせていてzzが圧倒的に多い。しかし, heizzanに属する語4例では3例が
zを示している(keheizze 235,21;kiheize 265,16;kiheize 267,16;kiheizant 269,17)。このff/£zz/zはそれぞれgem1. P, tに由来し,本来重複音f£33
として実現されたはずの音である。閉鎖音系列の歯音においても同様である。
keratteのttは西ゲルマン語子音重複による重複音であるが単音をもつkeratc
(202,29)とは自由な表記交替の関係にあり,音韻的対立を反映していない。
keratteのtt/tは全部で8例のうちtt 3, t 5の割合をみせている。 arbejtan(255,
61aborent)とarabeittan(276,221aborare)も何らの意味の区別と結びつい ていない表記変種である。これに対して本来単音であるtat(actus, factum)や cit(hora, tempus)の母音を従える派生形では全く表記の揺れはない。閉鎖歯音 のこのような行動はV_Vの位置で設定された重複相関による/t/:/tt/の対 立はVV_Vの位置では中和されていることを示唆している。いいかえれば,
V_Vの部分構造においては周辺的に設定しなければならなかった重複音相関 は,VV_Vの喋音構造には全く関与していないことになる。
再び唇音の閉鎖音に戻ると硬音/p/は,今までのことから〔pp〕または〔p〕
と実現されたことになろう。このような音声連鎖上の事情のほかに,唇音に特
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω43 有の事情が加わる。これは軟口蓋音9/kでのkの頻度に比べてb/Pのbの 頻度が極端に低いことと関連している。たとえば,eigan(proprius)17例のう ち,9は6例,kは11例に達するが, b/PはVV_VにおV・てはPはわずか に1例(〔hau〕pit)みられるだけである。このような頻度の極端な相違は軟口 蓋音に比ぺて唇音の調音強度が相対的に低かったことを物語っているように思
われる。閉鎖唇音の表記の混乱はこうした事情を反映していると考えら叫炉。
唇音における音素と音価および表記の関係は次のようなものであったろう。
(13) 音素 音価 表記
雛lll{晶}跳肋
VV_Vにおける燥音の部分構造は次のように設定できよう。
(14) 唇音 歯音 軟口蓋音
@ 軟音 /b/ /d/ /善/
閉鎖音瀦 /5/ ル /k/
軟音 /v/ /z/ /h/
摩儲鵬 /f/ /、/°/3/ /・/
破摩音 (/pf/) (/観) (/kz/)
この位置で破擦音に該当する語形はABRにはみあたらないが,おそらくこれ は偶然的であろう。現代の南アレマン方言では全域にわたって豊富に見出され
る (sapf㌫ ε8躯 b直otso,απ∫∂8∬87縞 jukx9,乃聯η;Stickelberger 428・439・
451; §nitsan,∬乃πθαξ6π, ab蓉tre三pfan,∫ rθ顧η, tsekxa!㍉4η106ん8π: Schild 333,
321,360)。この部分構造と(10)にあげたV_Vでの部分構造を比較すると・
相違は(10)の歯音における/tt/:/t/がここではないことだけである。(14)
では閉鎖音系列において軟音と硬音の均斉な対立関係が形成されている。表に はあらわれないが,V_VとVV_Vでは喋音に対する連鎖制約が異ってい る。V_Vではすでに述べたように/t/を除いて硬音は重複音として実現され るが(/3/は揺れがある),VV二Vではこの厳格な制約はゆるめられて,単音 または重複音のいずれも可とされる。現代の方言では,V_Vにおいては/tt/:
44
/t/の対立が消え,一方W_Vにおv・ては,瀦は明瞭に重複音的な性質を
もっている(eido・16肋π・muottgr・醜 87;tsiego1, Z∫6望Z, h6kke,正勉融η;wi:
z9・16ηセη・ri:sso・76ψθη;Jutz l 88£229;Keller l 963,62)。この変化は(10)
の部分構造が(14)の枠組みを受け入れ,逆に(14)は(10)のより厳密な連 鎖制約を受け入れることによってふたつの部分構造が相互に歩みよったかのよ うである。
@ 5
¥ 語中位置はさらに鳴音性の子音を先行音とするふたつの位置に分けられる。
鳴音性の子音とは流音(1・r)および鼻音(m,n)であり,このそれぞれの位置 において喋音組織は相異なる構造をもっている。まず流音に続く位置(L_V)
に現われる表記を示そう。
(15) 唇音 歯音 軟口蓋音 b d g/k
@ t
@ U S ch
@ f
@ Z
i16)例:selbono(202・8ipsarum), kihuuorban(235,20 reverti);
vvaldes(196,20 eremi), vvirdiger(197,30 dignus);hirti(198,28 pastor)・kehaltanne(266,24 conservanda);untarfolget(221,4sub一 sequatur)/vntarfblkenti(241,23);morganlobo(225,19 matutino)/
morkanlobun (222,34).
kihuuoruannissa(272,26 conversationis);sarf6s(190,21 asperum),
helfan(204・14 subvenire);halsa(191,13 colla), vvirsirun(197,22 deteriores);hmarchot(226,22 terminentur), scalcha(192,21 ser一 vos);kahirze (229,32 concordet).
流音に続く語中位置での表記は,今までみてきた位置に比べて驚ろくほど簡潔
である。表記変種は軟口蓋閉鎖音にみられるだけであり,しかもこのg/k交替 o
は軟音〔g〕を表わすものとしてこれまで扱った位置のすぺてにみられたもので ある。この位置においても軟・硬音相関が支配していることはいうまでもない
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布(1)45
が,この軟・硬音性に基づく対立が有効なのは表記をみるかぎりd:t,u:fだ けであり,他では対立が中和している。閉鎖唇音bはこれまでの位置でわずか ながら現われたPとの自由な交替が全くない。摩擦唇音u:fの対立はgerm. f とgerm. Pの発展に対応している。 kihuuoruannissaはABRでのこの位置で のuの唯一の例である。これと同語群に属するkehuueraue(195,32 conver一 tatur)は副次的な母音挿入の結果,共時的にはV_Vの部分構造に関与してい る。germ. Pに由来するfとしては上の例のほかにforauuerfe(252, I l proi一 ciat), vntaruuorfanii(203, l subiectione)などをあげることができる。 1のあ
との例はhelfLの語群に限られるが,このうちffで書かれている例がひとつ ある(helffa 258,13 solatia)。これらのfは決してuと表記交替を示さないの で,uの軟音に対して硬音を表わしていることはまちがいないが, helf{aにみ
られるffは語中で破擦音をあらわすことができ(sceffanti),また単一のfは 語頭で破擦音を表記していると思われるところから(funt 245,41ibra),ここ でも破擦音の可能性がある(BE 120 ff)。しかし,今日の南アレマン方言では 全域にわたって硬音の摩擦音が対応している(helff9, werffe:Jutz l 70)。しか
も,ABRにみられるこの位置での軟・硬音の対立(u/f)は現代の方言では中 和してすべて硬音であらわれている(t6rff9/terffe,4πψπJutz l 81)。こうし
た方言の事情は,A8Rにおいても破擦音ではなく摩擦音を想定すぺきことを 示唆していよう。
音価の推定が困難なのは流音に続くchである。 chの表記は他の語中位置に おいて摩擦音および破擦音ともに表記している(racha/rahha, chlochonti/chlo一 cchot)。この位置では推定の手掛りとなる表記の揺れが全くないが,副次的母 音が生じた例ではch/hchの表記変種が現われる(kestarachit 214,3;uuerah一 che 217・5)。 ch/hcbの交替はここでは摩擦音を示唆するものと考えるぺきだ ろう。Notkerにおける語中ch,語末h(starchen/starh)の交替は摩i擦音を示 していると思われる(Penz11971,103;BE I 34)。 Vorakteには唯一の例だが Acinmarha(800年)があり,このhは摩擦音とみるぺきだろう(Sonderegger
1962・277)。現代の南アレマン方言の西部方言(ザンクト・ガレンを含む)は この位置で摩i擦音をもっている(6terxor, werxo, melxe;Jutz 210)。これらの
ことからABRにおける流音のあとのchは摩擦音〔x〕を表わしたものと解釈 するのがもっとも妥当である。破擦音としてはこの位置ではzのみである(上 例およびherza 193,2cordaなど)。
流音に続く語中位置での喋音音素の部分構造は次のようになる。
(17) 唇音 歯音 軟口蓋音
閉鎖音軟音/セ/ /9/ /ぎ/
硬音 /t/
軟音 /v/摩擦音 ・
@ /f/ /s/ /x/ 硬音
破擦音 /ts/
この位置ではV_Vに現われる17の音素のうちの約半数の9音素を数えるにす
ぎない。軟・硬音相関は/d/:/t/,/v/:/f/によってかろうじて保たれている。 o o
^v/と/ts/はABRには1に続く例がないが,これは偶然的であろう(ahd.owol£holz)。流音と燥音の間に副次的母音の生じた音形は,共時的にはV_V
の部分構造に参加するものとみなしてここでは扱わなかったが,どの燥音との 組み合わせにおいて副次母音を伴う並存形があらわれるかをみておくことは意 味があろう。ABRでは副次的な母音はrと喋音の間に生じるのがほとんどで ある。/11との組み合わせではpifblahan(201,11 comittitur)に属する語群が 11例あるが,これはつねに母音を伴った表記で書かれており一lh一の例は一例
18)
もないので,ここでは除外することができる。/r/は軟口蓋音および唇音との
19)
連鎖で副次母音形の並存形をもっている。
(18) piporgenne (212,22)/piporageen(209,26)
uuerchum(200,8)/uuerahche(217,5)
kihuuorban(235,20)/kehuueraban (213,9)
arbeit (245, l O)/arabe五t (191,31)
/r/と歯音/d,t, s, z/との間には副次的母音は生じない。このことはむしろ 逆に古アレマン方言では/r/が歯音的な調音を持っていたことを示唆している
と思われる(今日のザンクト・ガレンを含む中アレマン方言の/r/は一般に
「のどひごr」(〔R〕)である:G6schel I971, ll5;vgL Pellzl l961)。
次に,鼻音(m,n)に続く語中位置(N_V)での喋音はどのような構造を もっていたか。この位置での喋音表記は次のようである。
福本:古高ドイツ語「聖ベネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω 47
(19) 唇音 歯音 軟只蓋音 b d g/k
@ t
?@ s .ch
@ Z
(20)例:ambaht(225,20fficia);sinda(194,3itinera), chindum(191,
21alumnis);sunta(198,20 culpae), hantum(249,14 man五bus);
singanne(220,18 canendi)/sinkanne (219,14), fbrascauunga (247,
16providentia)/scauunka(239,23 consideratio);fimfim(248,21 quinque), chamfanne(190,4m五1itanta);funser(216,26 promptus);
unzin(191,6usque);kedancha (211,23 cogitationes).
この位置での燥音の表記はUがない点を除くと流音のあとの語中位置での表記
(15)と全く同じである。先行する鼻音は燥音が唇音(b,f)のときはmであ り,それ以外の燥音が続くときはnである。これは機械的な相補分布であり,
燥音の前では鼻音の/m/:/n/の対立は中和している。ambahtでは1例(an一 bahtes 249・ll)jmbiz(refectio)に属する語群では3例(241,6;247,30;
244,28)にbの前のnがみられるが,これはこの機械的な交替の故に生じ たむしろ音韻的な表記である。 dとtは表記上の対立が守られているようだ が,tであるべきところをdと書かれている例もいくつか見出すことができる
(fbrastantan 273,35 intelligitur/fbrastandan 210,16; fUndan 199,14; 255,
31/免ntan 200,9;funtaner 270,13/fhndaner 249,1;256,2のほかにhoren一
do l 93・4;farsuummando 237,7neglegendum)。これらの例は/t/と/d/の o
Z合を示すかにみえる。事実,200年後のNotkerではこの融合はすでに終了 している(1知des, m丘ndes:Penzl l 968,148)。現代方言でもnのあとのdとt は融合している(bindo・find9:Jutz l 91)。しかしABRではまだこの対立は 有効であったとみるぺきであろう(sinda:sunta)。この段階ではnのあとの
/t/の音価が軟音化しつつあったことをこのtとdの表記の混乱は示唆してい ると思われる。
fの表記はmのあとでfimfin, chamfan, kalimfan(competere)の語群に現わ れ,cbamfanには仔で書かれる例がひとつある(chamffanti l 96,9)。 Notker ではchamfanの語群はch6mfヒn, ch6mph五nと書かれ, ph/fの表記変動があ
る(Penzl l 97】,96)。今日の方言の対応音はむろん破擦音〔pf〕である(Jutz 171)。他方fimfinのfの発展形は摩擦軟音であるから, ABRのmのあと のfは〔pf〕とおそらく軟音のfの両音を表わしたものと考えるのが妥当であ ろう。いっそう困難なのはやはりchである。 kedancha(前出), tranches(251,
15potus)の語末位置での対応形はkidanc(194,27)とtranh(257,8)とし て現われている。nのあとの語末での例はこのふたつだけである。 Notkerでは danches/dangという交替があり, chの音価としてPestalozzi(149)は帯気閉 鎖音(〔kh〕)を, Penz1(1968,146;1971,103)は破擦音(〔kx〕)を推定して いる。今日のアレマン方言には最南部のtr五ηxo,高地アレマン方言では一般に
㍗trlx9・中アレマン方言ではtriokxo, triokhoがほぼ梯状分布をなして分布し ており,破擦音と帯気音の境界はザンクト・ガレンの東部を走っている(Jutz 212)。高地アレマン以南の摩擦音(〔x〕)はかつてはもっと北部でも用いられ た形跡があり(Jutz 21), ABRの書かれた800年頃にはザンクト・ガレン地方 も摩擦音域に属した可能性もある。ABRにみられる語末の表記変種c, hから はむろん何らかの決定を下すことは困難である。Notkerのnに続く語中のch が破擦音を表わしたとすれば,ABRでは両形/kx/,/x/が競合していたとい
う推定がなりたとう(この場合kidancをkidanchの誤記と解釈することにな る)・ABRから10世紀のNotkerに至る間に摩擦音は破擦音によって,次第に 駆遂されていったと想定することになる。いずれにしてもこの位置でのchは
/x/,/kx/のどちらも可能であり,一方に決定する手掛りはない。さて, N_.V での喋音音素の部分構造はchを除いて次のように設定できよう。
(21) 唇音 歯音 軟口蓋音
閉鎖音軟音/レ /脅/ /ま/
硬音 /t/
軟音 /v/摩擦音 ・
硬音 /s/ 〈ch>
破擦音 /pfノ ,他/
ノ
アの位置に現われる音素の数は,流音位置と同じ9である。しかし,流音位置 では唇音と軟口蓋音の破擦音はなく代わりに摩擦硬音/f/,/x/がある。鼻音 位置では/f/がなく/pf/があるから,少なくとも唇音の摩擦音と破擦音に関
福本:古高ドイツ語「聖ペネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布(1)49
してはこのふたつの位置で相補的な分布をみせていたことになる。
(22) /fノ /pf/ /x/ /kx/
L V: 十 一 十 一 N V: 一 十 (一) (十)一
一
もしABRのchが鼻音あとで/kx/であったとすれば完全に補い合う分布が 成立していたことになる。あるいは/x/であるか,/x/と/kx/の両形が競合 していたとすれば,9世紀から11世紀のNotkerに至る200年の間の/kx/の 勝利は唇音に成立した補い合う分布が軟口蓋音にも浸透して完全な分布へと向
う構造な要請に合致していたといえるかもしれない。
次稿では語頭と語末位置での喋音の部分構造を扱う。
註
1)Fischer(1966), Sonderegger(1970)およびPiper版に含まれた写真を参照。
2)写本にみられる字体の変動,色合,修正跡なども註に細かく示されている。
3)このほかにPiper版があり,これは写本の特殊な字体をもできるかぎり印刷した ものであるが,誤りも多いとされる。またさらに古い刊本としてはSeiler(1874)
がその分析の底本としたHattemar版(1844)があるが,入手できなかった。
4)起草地をめぐるこれまでの議論にっいてはSteinmeyer(1916,287), Betz(1941,
184),de Boor(1949,21 f), Menhardt(1959,224)らの見解(ライヒェナウ説)
をも参照。ザンクト・ガレン説は古くはSeiler(1874,471 ff), Pestalozzi(1916,
130),最近ではSonderegger(1970;1978)の説に代表される。
5)「会則」のもつ歴史的な意義については今野(1978),宮下(1961)・糸井(1971)
などを参照。
6)今日のザンクト・ガレンは南アレマン方言のなかの中アレマン西部方言に属す る。ライヒェナウもほぼ同じ方言域に入る。ただし,アレマン方言の下位区分法は 学者によって若干の相違がある。Ochs(1921,56 f)・Jutz(1931・18 ff)・Keller
(1961,31f)を参照。
7)例としてあげた語形にはSteinmeyer版の頁数と行数および対応するラテン語を あわせて示した。
8)Steinmeyer版の197頁脚註11を参照。
9)短母音に続く語中位置でbbの表認がabbas(5例)に限ってみられるが,これ はラテン語abbasがそそのまま借用されたものである。
10)ともにubarまたはobaと語幹を共用する。両形並存はこの語源意識に起因し
50
ているのかもしれない(vgL Seiler 1874,419)。
11)アレマン方言の例として示す音形は母音の音声表記が実際と異なる場合がある。
印刷上の問題から母音については正確さを期さないこととする。
12)sとzの混同は語末で頻繁にみられる。たとえば例にあげたkasezamezの語末 一zは本来一sでなければならない。Seiler(1874,416)参照。
13)Kasezzidu(227,38 d量spositionem)の二番目のzはcから修正されている
(Steinmeyer版22頁,脚註7参照)。破擦音的音価の影響とみることができよう。
ユ4)ただし歯音の摩擦音系列ではsk>6の変化が起って新しい音素/首/が生じたた
めに3項対立そのものは保持された(/z/:/s/:/3/〉/z/:/s/:/首/)。 o o15)この短母音に続く位置での部分構造は中高ドイツ語での部分構造と基本的に同一
のものである。Keller(1978,275)から中高ドイツ語のV_Vの部分構造を取り 出すと次のようになる。
/b/ /d/ /§/o o/P/ /tt/ !t/ /k/
/v/ /z/ /h/O O
^f/ /3//s/ /6/ /x/
/pf/ /ts/ /kx/
中高ドイツ語では依然/tt/:/t/,/s/:/3/の対立が保持されている。、唯一の違いは 新しい音素/首/の出現である(前註参照)。
16)軟口蓋音のhhもとくに一1ich一の接尾辞にあってはしばしば単音hがみられる
(potolihha 236,27 apostolicum/potoliha 200,13. Seiler 1874,409参照)。
17)たとえばerlaubanは硬音/P/をもつ/erlaupan/と軟音の/erlauban/の両
形が並存し,それぞれ〔erlaupPan〕,〔erlaupan〕,〔erlauban〕と実現されたと思 o
墲黷驍ェ,ABRにあらわれるarlaube(239,5), erlavbe(270,28)がどちらの 音形に属するかは決定することはできない(−p一の形は1例もない。erlaupta(265,
14)は後続の/t/によって/b/:/P/の対立が中和している)。このことはkelaub一 pamees(212,18 credamus), kilaubames(229,18), kalaubames(254,4)や 1ipPanti(213,7parcendo),1iballto(228,34)にもあてはまる。
18)forahtaに属する語群もABRではつねに副次的母音a(21例)またはi(2例)
を伴っている。erboはeribun(196,4heredes)の形で1例だけあらわれる。
19)/r/と喋音との連鎖のほかに,/r/と/m/および/w/との結合の場合にも副 次母音が生じる(armero 236,30 PauPerum/arame 204,11;kikarvvit 266,21 induatur/ karauuit 213,21 parit)。
福本:古高ドイツ語「聖ペネディクトゥス会則」における喋音音素とその分布ω51 参 考 文 献 ・
Betz, W.1941. Die Heimat der althochdeutschen Benediktinerrege1. In:PBB 65,PP.182−185.
Braunne/Eggers(BE).1975. Althochdeutsche Grammatik.13. Auf 1. Max Nie一 meyer, TUbingen.
Daab, U.1958. Die Schreiber der althochdeut3chen Benediktinerregel im Cod.
Sang.916. In:PBB 80(TUbingen), pp.379−403.
(Hrsg.)1959. Die althochdeutsche Benediktinerregel des Cod. Sang 916.Altdeutsche Textbibliothek Nr.50, Max Niemeyer, T廿bingen.
de Boor, H.1949. Gesch三chte der deutschen L三teratur:die deut6che Literatur von Karl dem GroBen bis zum Beginn der h6fischen Dichtung 770−1170.
7.Auf1. Beck, M廿nchen.
Fischer, H.1966. Schr1fttafeln zum althochdeutschen Lesebuch. Max Niemey一 er, T廿bingen.
G6schel, J.1971. Artikulation und Distribution der sogenannten Liquida r in den europaischen Sprachen. In:Indogermanische Forschungen 76, PP.84−126.
糸井寅一・.1971.「西方修道制の起源と発展一イタリア,フランスを中心に一」 ヨー ロッパキリスト教史皿(中世前期)中央出版社。
Joos, M.1952. The medival sibi!ants. In:Language 28, pp..222−231.
Jutz, L 1931. Die alemannischen Mundartel1. Max Niemeyer, Halle.
Keller, R. E.1961. German Dialects. Manchester University Press, Manchester.
1963.Zur Phonologie der hochalemannischen Mundart von Jestetten.
In:Phonetica 10, pp.51−79.
1978.The German Language. Faber and Faber, London.
今野国雄,1978.修道院 近藤出版社。
Martens, P.1979. Zum normativen Zwang der Standardsprache, Anpassung von mundartlichen Ausspracheformen und Schreibweisen an die hochdeutsche Standardsysteme. In:Zeitschrift f茸r Dialektologie und Linguistik 46, pp.
7−25.
Menhardt, H.1959. Besprechung:die althochdeutsche Benediktinerregel des Cod. Sang 916, hrsg. von Ursula Daab. In:PBB 81(T廿bingen), pp.221−225.
Mitzka, W.1957. FehlerqueHen im Schriftblld deutscher Konsonantenschwa一 chung. In:Zphon 10, pp.231−238.
宮下孝吉.1961.「聖ペネディクトの会則(Regula Sancti Benedikti)について」神 戸大経済学年報8,PP.1−56
Moulton, W. G.1979.トotker,s Anlautgesetz , In:Linguistic Method,』Essays
in Honor of Herbert Penz1, ed. by I. Rauch&G. F. Carr, pp.241−25ユ.
Mouton.
Ochs, E.1921. D1e Gliederung des Alemannischen. In:GRM 21, pp.56−58.
Penz1, H.1955. Zur Erklarung von Notkers Anlautgesetz. In:ZfdA 86, pp.
196−210.
1961. 01d 翠igh german <r> and its phonetic identification. In:
Language 37, pp. 488−496.
1968.Dle Phoneme in Notkers A!emannischem Dialekt. In:Germanic Studies in Honor of Edward Henry Sehrt, ed. by F. A. Raven et a1., pp.
133−150.University of Miami Press.
1971.Lautsystem tlnd Lautwandel in den althochdeutschen Dialek一 ten. Max』gueber, MUnchen.
Pestalozzi, R.1916. Urdeutsch k bei Notker. In:PBB 41, PP.129−162.
Piper, P.(Hrsg.)Nachtrage zur alteren deutschen Litteratur von Karschners deutscher National−Litteratur. Stuttgart.
Schild, P。1893. Die Brienzer Mundart, II. Teil, Consonantismus. In:PBB 18,
PP.301−393.
SchUtzeiche蓋, R.1969. Althochdeutsch6s W6rterbuch. Max Niemeyer, T廿biagen.
●■
reiler, F.1874. Die althochdeutsche Ubersetzung der Benediktinerrege1. In:
PBB 1, pp.402−485.
Sonderegger, S.1962. Das Althochdeutsche der Vorakte der altere籠St. Galler Urkunden. In:ZMF 28, pp.251−286.
1970・Althochdeutsch in St. GaUen, Ergebnisse und Problerne der althochdeutschen Sprach菰berlieferung in St. Gallen vom 8. bis ins 12.
Jahrhundert. St. Gallen.
1978.Althochdeutsche Benedikt三nerrege1. In:D童e deutsche Literatur des Mittelalters, Verfasserlexikon. Bd.1, sp.704−707.
Steinmeyer, E.(Hrsg.)1916. Die kleineren althochdeutschen Sprachdenkrnaler.
T
veidmann, Berlin.
Stickelberger, H.1889. Consonantismus der Mundart von Schaffhausen. In:
PBB 14, pp。381−454.
Trubetzkoy, N. S.1971. GrundzUge der Phonologie.5. Aufl. Vandenhoeck&
Ruprecht, G6ttingen・〔邦訳「音韻論の原理」長嶋善郎訳,岩波,昭和55年〕
Valentin, P.1962. Althochdeutsche Phollemsysteme(lsidor, Tatian, Otfrid,
Notker). In:ZMF 29, PP.341−356.
Vennemann, T.1968 Die Affrikata in der generativen Phonologie des Deu卜 schen.1τ1:Phonetica 18, pp.65−76.
〔付記〕本稿は,「昭和55年度文部省科学研究費奨励研究㈹」の研究成果の一部である。