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イマージュの哲学一『物質と記憶』と『笑い』を結ぶ思想の糸一

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イマージュの哲学

一『物質と記憶』と『笑い』を結ぶ思想の糸一

石Fプードニ名改プミ

)字巨

1900年にアルカン社から出た『笑い』は、ベルクソン哲学を研究する専門家たちの あいだですら、従来ほとんど注目されることがなかったように思う。この小さな書物 はいわば哲学者の余技に類するもので、彼の哲学の全体的な展望を得ようとする者に とってさえ、あらためて真面目に取り上げるほどのものではない、というのがその理 由であるようだ。ところが、年譜を一瞥してみると、この書の出版年が『物質と記憶』

(1896年)公刊のわずか四年後であり、この本の元になっているのは、単行本になる 前年の二月から三月にかけて、三回に分けて『パリ評論』に発表された原稿であると いう事実が、目に飛び込んでくる。さらにまた、この原稿は、1883年に23才の彼がク レルモン・フェラン大学で行った講演「笑い-何について人は笑うのか、なぜ人は笑 うのか」の原稿が元になっているだろうことも容易に推測がつく。なぜベルクソンは

『物質と記憶』を書いたのちに笑いに関する彼の考えをあらためて書物の形で公にす る気になったのか?『笑い』を『物質と記憶』に結びつけている思想の糸があるとす れば、それはどのようなものなのか?

よく知られた問い、すなわち往来を走ってきて転んだ男を通行人はなぜ笑うのか、

という問いに対して、著者が与えている答えは次のようなものだ。「しなやかさに欠 けていたせいか、うっかりしていたせいか、それとも体が強'情を張っていたせいか、

こわばり、もしくは1惰力のせいで、事'情が他のことを要求していたのに、筋肉が依然 として同じ運動を行うことを続けていたのである。それゆえ彼は転んだのであり、そ のことを通行人は笑うのだ」(R9)。通行人はそれ以外の仕方で笑うことはできない とでもいうかのようにく思わず〉笑う。男はどんな事情があって転ばざるをえなかっ たのか、などという疑問は、この場面で立ちのぼる笑いとは何の関係もない。それは 笑ってしまったあとの反省に属する事柄にすぎない。では、彼が迂闇にも転んだから おかしいのだろうか。つまり、彼のそそっかしさが笑いを誘うのか。だが、迂闇さは いつも必ず笑いの種となるわけではない。工事中の高層ビルの足場を踏み外した場合 のことを考えてみよう。この場合には深刻な結果がおかしさを帳消しにしてしまうの

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だ、などと言ってみても無駄である。結果が深刻でなくても、うっかりやることでい ささかもおかしくないことは山ほどある。パン屑をこぼす。換気扇のスウィッチを切 り忘れる。深爪。だから、男がうっかりしていたというだけでは笑いを引き起こす十 分な理由にはならない。それでは、一体何がおかしいのか。彼が転んだという事実の どこにおかしみの種が隠されているのか。以下では、この問いに対するベルクソンの 解答を、特に次の二点に留意しつつ考察してみることにする。すなわち、

(1)『物質と記憶』におけるイマージュの観念の扱いに上の問いを考察する上での基 本的な指針を読みとることが可能であり、『笑い』において彼が二、三の理論に向け ている批判はその指針に完全に調和するということ。

(2)『笑い』はイマージュ観念がおかしみを生み出す空想力(fantasiecomiqUe)と いう新たな領域に応用された書物であり、その点でこの著作はくイマージュの哲学〉

とでもいうべきものを介して『物質と記憶』と結びついているということ。

それゆえ、本稿ではベルクソンは「何について」人が笑うと考えていたのかを解明 することに重点がおかれることになる。彼が「なぜ」人は笑うと考えていたのかはこ の解明を通じておのずと明らかになってこよう。

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では早速、『物質と記憶』に提示されているイマージュの観念に準拠しつつ、『笑 い』が提示している二、三の論点を吟味してみよう。

『物質と記憶』第七版の序によれば、「常識」は物質について次のような「考え方」

をもっている。すなわち、物質は「それ自体で存在し(existerenluimeme)…それ 自体で私たちが知覚するままに生彩に富んでいる(enluimcmepittoresqUecome nousl,apercevons)」(NM,2)という見解である。ベルクソンはこの序のなかで、

「常識」によってこのように理解された物質、あるいは「哲学者たちの論争を知らな い人」の物質に対するこのような「観点」を、「イマージュ」と呼ぶことにすると述 べている。同書ではこの語によって表される観念は、「実在論や観念論が存在(exi- stence)と現象(apparence)に分けてしまう以前の物質」を指示して、そこに唯物論 的実在論と主観的観念論という「二つの観点」の乗り越えを可能にするく観点〉を探

りあてるためのものであり、この観点を経由して最終的に獲得される物質理解は「常 識の態度」に修正を迫るものなのだが、今はこの点については問わないことにしよう。

ここで重要なのはむしろ「哲学者たちの論争を知らない人」の観点のほうであり、以

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下で取り上げなければならないのは、この観点の下にある経験が流動してゆくその仕 方である。それゆえ、ここではイマージュがもつ半ば実在論的で半ば観念論的な性格 をそれ自体として検討して、この観念そのものの厳密な規定やその発生過程の問題に 取り組むことも問題にならない。ここでの目標はイマージュに基づく意味発生とでも いうべき事態を二、三の例に基づいて素描することに限られる。

「さしあたり私たちは…外界の実在性あるいは観念性に関する諸々の論争について は何も知らないことにしておこう。すると私は今、できるだけ漠然とした意味に解さ れたイマージュ、すなわち私が感覚を開けば知覚され、閉ざせば知覚されない幾多の イマージュを前にしているわけだ(enpr6senced,images)」(NM,11)。第一章のこ の冒頭部分から推し量れることは、イマージュには少なくとも感官の数だけの種類が あり、従ってまたイマージュは物体的なものだけに限られないということである。こ こでは二つの理由から視覚的イマージュに考察の焦点を絞ろう。第一に、走ってきた 男が通行人の注意を引く際に特に中心的な役割を果たすと考えられるのは視覚的イマ ージュだからであり、第二に、ベルクソンのイマージュ論は明らかに視覚経験をモデ ルとして構成されているからだ。そこで、私が今幾多の視覚的イマージュを「前にし ている」として、まず、周囲を見回してみよう。私がどこに視線を投げかけても、私 の眼差しはイマージュによって迎えられるだろう。ベルクソンはこのような事態を視 覚空間の本質的な特徴とみなしている。「空間の本質的特徴は連続性にある。…私た ちの視覚は一度も真の中絶に出会わない」(MN,220)。次に、この空間のうちに現れ るひとつの物体に目を留めてじっくり観察してみよう。新たな発見が次々になされ、

対象はその豊かさを増してゆくだろう。最後に、この対象をもっとよく知るためにそ れに近づいてみよう。イマージュは「大きさや形や色」(Ⅲ,15)を変化させるだろう。

この間、私は私が注視しているこのイマージュがずっと存在し続けていること、言い かえれば、それはさっきも存在していたし、今も存在しているし、このあとも存在す るだろうことを信じている。「私たちは(イマージュの)過去、現在、未来の連続を 肯定している…」(MM,22)。従って、走ってくる男を私の視線がとらえるということ は、私が注視する一個の動くイマージュが他の諸々のイマージュと結ぶ関係を連続的 に変化させつつ自らを連続的に変貌させてゆくことを意味する。「それは他のすべて のイマージュと連帯関係(solidairedelatotalit6desautresimages)にあって、

先立つイマージュを延長(prolonger)してもいるし、また後続するイマージュに連続 してもいる(secontinuer)」(MM,32-3)。

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一個の動くイマージュは動くことによってイマージュを連続的に繰り広げてゆく。

それで、競技場を全力で疾走する一個のイマージュには、それに自然な流れというも のがある。また、野球場で拠物線を描いて落下する球体のイマージュの落ちる先は決 まりきっていて、落ちたあとの動きもあらかた想像がつく。科学が「イマージュの未 来はその現在に含まれているのでなければならず、そこに何ひとつ新しいものをつけ 加えることはないはずである」(NM,11)と決定論的な主張をするとき、科学はたんに 私たちのイマージュ経験の「常識」に含まれるひとつの方向性をく延長〉しているに すぎない。それゆえ、輪郭のはっきりしたひとつのイマージュの確固たる動きは、そ れが向かう場所やそれが遂げるであろう変身を予期させ、期待させさえするわけだ。

とはいえ、予想が裏切られることはままある。このような事態に直面してベルクソン が何よりもまず警戒するのは、予想外の中断をたんなる「中絶」とみなす態度である。

なぜなら厳密に言えば、予期せぬ中断はいつも必ず予想外の始まりでもあるからだ。

さて、カントによれば、「笑いは緊張した予期がまったくの無へと突然転化させら れることから生じる情緒である」。また、ショーペンハウアーの考えでは、笑いは

「概念と、何らかの関係においてこの概念によって思考された現実の対象とのあいだ に突然認められる不一致」から生ずる。「緊張した予期」や「概念」が思わず虚空を つかまされてしまう点に予想を越えた中断の本質があり、突然の無との直面に笑いの 源泉があるというのだ。私の視線がとらえる連続的な出来事を、イマージュの観点か ら把捉しようとするベルクソンにとって、これらの理論ほど認めがたいものはない。

イマージュの哲学者にとっては、イマージュの期待された流れの中断はどこまでいっ ても予期せぬイマージュによる置き換え以外のものではない。また、置換が笑いを誘 うためには、それはいつも必ず「突然」の予期せぬ置換である必要すらない。この点 でカントとショーペンハウアーの理論は決定的な困難にぶつかる。置き換えはなだら かに連続的になされてもかまわないのだ。ベルクソンが挙げている幾つかの例のなか からひとつだけ選んで引いておこう。「ふたりの人物(persomages)が大きな頭をし、

すっかり禿げ上がった脳天で現れた。ふたりとも大きなこん棒を持っている。そして、

かわり番こに、それぞれの頭目がけてこん棒を打ち下ろす。…一撃受けるごとに、身 体(Corps)はだんだん硬直して重くなり、固くなるように見える。反撃はだんだんと 遅れて、しかしだんだん重く、大きい音を立ててやってくる。脳天は静かな場内でひ

どく反響する。とうとう硬直し緩慢になった二つの物体はiの字のようにまっすぐにな ったまま、互いに倒れかかり、こん棒は最後にもう一度、樫の梁木にばかでかい槌が

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振り下ろされたような音を立てて、頭に打ちすえられ、もるとも地上に倒れた」(R,

45)。以上は著者によれば、道化役者における「本来的に道化役者的」なものが「純 粋な状態で」観察された事例(R,44)である。ここではおかしみの効果は用意周到に 少しずつ得られる。それはちょうど「催眠術師が111頁を追ったほのめかしによって徐々 にやるのでなければ、暗示にかけるのに成功しない」(R,46)のと同じである。「人 は笑いを不意打ちとか対照とかによって説明するだろう。ところが…実相はそんなに 単純なものではないのだ」(R,30)。

おかしみの根底にはイマージュの置き換わりの動きがある。だが、イマージュが置 換されるだけではおかしみは生じない。イマージュの置換がおかしさを感じさせるた めには、置き換えられる二つのイマージュ群はどのような性質のものでなければなら ないのか。これが次の問題となる。

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準拠点に戻ろう。私が「前にしている」諸々のイマージュのうちで、他のすべての イマージュとはまったく異なる仕方で私に現前しているイマージュがひとつある。そ れは「私がたんに外から知覚によって知るばかりでなく、内から感情(affections)(1) によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別 されているイマージュ」、すなわち「私の身体」である(Ⅲ,11)。この端的な事実が 暗に示しているのは、「感情」は元来、私の身体と他の諸々の物体との区別を可能に

し、最初の「内部と外部という観念(notionderint6rieureetdel,ext6rieur)」

(MM,46)をつくり出すのに役立つということであろう。ところで、『意識に直接与件 に関する試論』(1889年)の結論によれば、意識の諸状態は共時的にも通時的にも相 互に浸透し合いながら継起するもので、それらが「持続」あるいはそのひとつの瞬間 のうちで相互外在的に見えるとすれば、その理由はそれらがすでに「空間」に投影さ れているからにほかならない。そこで、この相互に内的な多数の意識状態、すなわち

「質的多数'性」の理論に従えば、私が自らの身体について何らかの「感情」をもつと いうことは、例えば、自分が某かの目的のために取ったひとつの姿勢についての内的 意識とその目的について自分がもつ観念との相互貫入を感ずるということである。

「私が窓を開くために立ち上がって、立ち上がるや否や自分が何をするつもりかを忘 れてしまい、じっと佇んでいるとする。…けれども私は再び腰を下ろしはしないで、

漠然となすべき何かが残っている、と感じている。私が動かないのは、ただ何という

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こともなく動かないのではない。私が持している姿勢のなかには果たすべき行為がい わば前駆的に形成されているのだ。それで、一瞬消失した観念を再発見するためには、

この姿勢を保ったままで、それを検討してみるか、あるいはむしろそれを心の底から 感じて(lasentirintimement)みるだけでよいのだ。従って、この観念は下図の描 かれている運動と取られている姿勢との内的なイマージュ(imageinterne)〔=「感 情」〕にある特別の彩色(mecolorationspeciale)を施していたのに相違なく、ま たこの彩色は、もしも達成すべき目的が異なっていたなら、おそらくは同じものでは なかったはずなのだ」(D1,120-1)。

ところが、言うまでもないことだが、私は他人の身体が取っている姿勢についてそ の人がもつ内的意識をもつことができないから、その人がその姿勢についてもつ内的 意識にくおのずと〉〈直接に〉感じうる観念的色彩をおのずと直接に感ずることがで きない。従って、私が他人の身体状態を、彼が自分の身体状態についてもちうる観念 くとともに〉、あるいは少なくとも彼が自分の身体状態について観念をもちうる可能 性くとともに〉意識するには、一定の思考の努力を要する、ということは見やすい道 理である。さて、人格者としての他人の身体というものが一定の思考の努力〈ととも に〉与えられるのだとすれば、このイマージュがその努力の盛衰と運命を共にするこ ともまた明らかだ。備え付けの籠に荷物を-杯に詰め込んだ自転車を咽爽と漕いでき た男が自転車もろとも倒れるとしよう。男は果物や缶詰とともに勢いよく転げ落ちる。

さっきまでは自転車を操り荷物を運んでいた男が、今度はリンゴや魚の缶詰と道行き を共にする。荷物を運搬する男から荷物なみの物体に転落するという意味で、彼は

くそれらの物〉とそっくりになってしまう。彼は突然道端に店を開く気になったのか もしれない、などとは誰も考えない。そのように考えることは可能だが、そう考える ことはまったく不自然かつ困難であり、過剰解釈であり、度を超えた人格主義である。

転げ落ちた彼と荷物とのく類似〉は歴然としており、この類似の発生、つまりは彼の く諸物化〉という出来事によって、見える彼を一個のく人〉たらしめる私たちの思考 の努力は一瞬弛緩させられていよう。言いかえれば、彼の身体は「その糸を必然の手 に委ねた、取るに足らぬ操り人形」(R,60)になってしまっていよう。笑いはこの種 のイマージュを踏み台としているのだ。もちろん、彼が笑われているときでさえ、彼 自身が自らの肉体をく諸物の仲間〉としてイメージする場合も少なからずある。彼が このような場面で自分の身体についてもつこの種のイマージュは、ベルクソンが晩年 に分析する「静的宗教」のひとつの機能を萌芽として含んでいることを付言しておき

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たいが、ここで特に注意しなければならないのは、私たちがこのような場面で彼を く諸物〉なみに感ずるときには、少なくともその間は、私たちは彼が自らをく諸物〉

なみと感じとる彼自身の可能性を彼の中心におくことをやめているという点である。

笑いの本来の環境は、彼を彼の主たらしめる彼自身の内的諸能力に対するつかの間の

「無関心(indiff6rence)」あるいは「無感覚(insensibilite)」(R3)にあるわけ だ。とはいえ、彼の身体を細胞の集まりや分子の合成物くとして〉沈着冷静に見るこ とがいささかも笑いの種をもたらさない事実を顧慮するなら、彼の身体を荷物なみと みなすことのうちには、彼の身体を科学的分析にかけられる物質の塊とみなすことに は含まれていない何かが含まれているのでなければならない。他人の身体のいわば

く擬物化の働き〉は、物体的なものやそれがもつ諸性質をく擬生化する働き〉をこっ そり引き連れていないだろうか。自転車の男がなんなくく荷物の仲間入り〉を果たす 動きの背後には、荷物がなんなくく私たちの仲間入り〉を果たす動きがひそんでいる のではないか。要するに、彼をく荷物なみのものと感ずること〉はく荷物を私たちの 仲間と感ずること〉と相互に浸透し合っているのではないか。もしそうだとすれば、

〈生き物〉としての彼の身体はこの二種の感じ方のあいだで絶えず揺れ動く運命にあ るだろうし、さもなければ、私たちは自転車もろともく転落〉する彼をいわばく落ち ぶれた〉とは感じないだろう。

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「私たちの知覚は宇宙の生彩に富んだ画面の系列(s6riedetableauxpittores- ques)を提供してくれる」(MH,72-3)わけだが、言うまでもなく往来を走ってきて転 倒した男はこのような継起的「画面の系列」の一例をなす。転倒前のイマージュの系 列と転倒後のイマージュの系列のあいだには転倒の事実があり、この事実のうちに看 取されるのは一つの連続的に得られるイマージュ群から別の連続的に得られるイマー ジュ群への置換である。この置換は何を表しているのか。往来を走ってきた男は犯人 を追う俊足の警察官だったかもしれないが、今の彼は犯人をとらえる前に道に脚をと られてしまった人形にすぎない。してみると、この置換が表現しているのは物笑いの 種としてのひとつのく機械-化〉である。しかし、置換がいったん起こってしまうと、

躍動性を表していたかに見えるイマージュ群は「後続する」イマージュ群との関係に おいて機械性をひそませていたイマージュ類となり、現在進行形で機械性を表してい るイマージュ群はそのようなものとして「先立つ」ことになったイマージュ類との関

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係において機械性があらわになったイマージュ類となる。それで、彼はなぜ転倒した のかという疑問は、両イマージュ系列のあいだで瞬時になされるこの相互規定のうち ですでに答えられていることになる。つまり、彼は「事情が他のことを要求していた のに」「しなやかさにかけていたせい」で転倒した、ということになるのだ。ここに はすでにいわゆる「回顧の論理(logiqueder6trospection)」(PM,19)が働いてい る。それは「自己自身の前身を過去のうちに遡及的に(retroactivement)つくり出し、

先立つものを用いて自己自身を説明」(PN,16)する論理である(2)。

私の見るところでは、ベルクゾンのくイマージュの哲学〉が興味深いのは、科学に 不可欠なこの論理の可能性の条件が、イマージュの実際の置換なしにイマージュの置 換を暗示するイマージュ、すなわち想像喚起的なイマージュの可能性の条件でもある ことを指摘しえた点にある。空中にゴム毬のようにほうり上げられるサンチヨ.パン サの挿絵は、ひとつの動かない可視的イマージュが実際には見ることのできないイマ ージュの置換の動きを漠然と想像させるひとつの例だ。『物質と記憶』のうちにすで にイマージュのもつこの機能への言及が見られる。「例えば、ひとりの走者の相次ぐ 無数の姿勢が唯一の象徴的態度に集約(secontracter)され、これを私たちの眼が知 覚し、芸術が再現して、誰にとってもこれが走る人のイマージュとなるようなものだ」

(Ⅲ,234)。ここでは明らかに、無数のイマージュを「集約」し「象徴」するイマー ジュの働きは、芸術家がこれを「再現」するに先立って、「私たちの眼」がすでにこ れを「知覚」しているものとみなされている。確かに、イマージュのもつ集約力を誰 の眼にも明らかなものとするには、特定のイマージュをそれに「先立つ」イマージュ の系列とそれに「後続する」イマージュの系列から切り離して、固定する必要がある。

しかし、芸術がその「再現」に成功するのは、イマージュの集約力がいつもすでに私 たちの身体によって演じられており、ときには偶然の幸運によって私たちの精神によ って感受されるからだ。「今あなたが知覚している部屋の壁の向こうには、隣り合っ た部屋があり、家の他の部分があり、結局、街路やあなたの住む町がある。あなたの 与する物質の理論などはどうでもよい。実在論者であろうと観念論者であろうと、あ なたが町や街路や家の他の部屋の話をするときには、あなたは明らかにあなたの意識 には不在だけれどもその外に与えられているそれだけの数の知覚〔対象〕のことを考 えている(penseraautantdeperceptions)。それらの知覚〔対象〕はあなたの意 識がそれらを迎え入れる(accueillir)〔=それらの知覚対象を実際に知覚する〕の に応じて創造されるのではない。だからそれらは何らかの仕方ですでにあったわけで、

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仮説によりあなたの意識はそれらをとらえていなかったのだから、それらは無意識の 状態においてでないとすればいかにしてそれ自体で存在することができようか」001, 158)。ここで問われているのは、私がかつて知覚し、今も知覚しようと思えば知覚可 能なものでありながら、私が現に知覚も思考もしていないものは、私に対してどのよ うな仕方で存在するのか、という問いであり、それに対して与えられている答えは、

現に私が知覚も思考もしていない「部屋の壁の向こう」は「無意識的表象(represe- ntationinconsciente)」(MM,157)の形で、つまりは「純粋記憶(souvenirpur)」

(MM,156)の形でそれ自体として存在しているのではないか、というものである(3)。

これは言いかえれば、私が今知覚しつつある「部屋の壁」イマージュは、私が「部屋 の壁の向こう」を意識していないそのときには、私が「部屋の壁の向こう」について もつ意識を、自らの見えない縁取りとして「無意識の状態において」保つということ ではないか(イ)。現在のイマージュの意識がこのような仕方で「過去のイマージュの意 識」(MM,90)を「集約」しているのでなければ、私は何げなく隣室に向かうことすら できないだろう。また、私は今日の隣室を昨日の隣室と同一視できる隣室として経験

したり、昨日の隣室と同一視できる隣室でありながらも昨日の隣室とはどこかニュア ンスを異にする隣室、言いかえれば「持続」の相の下にある隣室として経験すること もできないだろう。さらにまた、「部屋の壁」イマージュをそれがおかれる自然な、

あるいはありふれた生成状態から引き抜くだけで、あるいはたんにそれに身をまかせ るだけで、それが孕む潜在的なイマージュ群を潜在的な状態のままに解き放つといっ たこともできないだろう(5)。そこで、往来の走者の躍動感にせよく機械-化〉にせよ、

それらがひとつのイマージュのうちに読みとれるのは、元はと言えば、連続的に与え られるイマージュ群がそれらが与えられるにつれて自ずと(spontan6ment)保存され てゆくなかで、現に与えられているイマージュが「先立つ」無数のイマージュを自ら のうちに「集約」しているからである、と言おう。現在のイマージュが過去のイマー ジュを集約した形で背後に引き連れつつ、見えない過去のイマージュを支えに、自ら を未来のイマージュへの扉となす力こそが、科学に必要な「回顧の論理」の基礎をな すとともに、芸術の一要素をなす「象徴的」イマージュの基礎をもなすのだ(6)。

糸奇とX

最後に、動くイマージュに基づく意味発生の問題について、のちのベルクソン哲学 がどのような見地をとることになるかを簡単に見ておきたい。『創造的進化』(1907

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年)においては、静止するイマージュと運動するイマージュの全体としての知覚世界 は、「創造の内的働き(travailinterieurdecr6ation)」としての生命が物質に

「自分のリズムを押しつける(imposersonrythme)」(EC,11)際の-形態とみなさ れている。『道徳と宗教の二源泉』(1932年)においては、「架空の話をつくる能力」、

すなわち「仮構機能」の存在理由は、社会生活に存在理由をもつ「静的宗教」にある という見地(MR,112)がとられる。前者の観点からおかしみを生み出す空想力をとら え直してみるとどうなるか。生命のリズムを刻印された物質としてのイマージュ、す なわち知覚するという働きに関係づけられた限りでの物質は、くすべての事物〉を

くそれらに働きかけ、それらに働きかけられる人間たち〉とともにく同類〉とみなす 傾向を知覚主体のうちにつくり出すのではないか。そして、〈人間〉とく人間や物質 界〉との個別的な関係のうちにこの傾向のもつ擬物化的側面が充満すると、言いかえ れば軽微に反人格的な、あるいは反生命的な兆候が見てとられると、そこにおかしみ が生まれるのではないか(7)。後者の観点からはどうか。「静的宗教」の結果としての

「仮構機能」はその最も洗練された形においては擬人化の働きとなる擬生化の働きで ある。もし擬物化の働きと擬生化の働きとが同じ一枚の生地から切り抜かれてきたも のなら、前者は後者と同じく元来は社会生活に自らの存在理由をもつ空想力であると いうことになろうか。『二源泉』のなかでベルクソンは「小説家や戯曲家はいつの時 代にもいたわけではない」のに、「人類が宗教なしにすましえたことはかつてなかっ た」(MR,112)と述べている。その彼が『笑い』のなかでは「笑いは必ずやある社会 的な意味をもっているに違いない」(R’6)と述べていたのである。そのとき彼は人間 社会が笑いなしにすましえたことはかつてなかったと言うこともできただろう。

(1)ベルクソンの定義によれば、「感情(affections)」とは「外から私の受けとる震動とやが て私の行う運動とのあいだに挿入されてくる(venirs'intercaler)」もので、「それなりの 仕方で行動への誘いを含みながら、しかも同時に待つことや何もしないでいることさえも許す もの」である。要するにそれは自分の身体において「始められてはいるが実行されていない運 動(■ouvementscomences,■aisnonpasex6cutCs)」を告知するのである(MM,12)。以下 で引用する『意識の直接与件に関する試論』の一節に含まれる「内的なイマージュ」という語 が「感情」という語と等置できるのはそのためである。ペルクソンは身体の局所的な

「痛み」ですらこの定義にあてはまると考えている。

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(2)ベルクソンが『思想と動くもの』(1934年)で挙げている例をひとつだけ引いておこう。古

典主義に見られるロマンチックな傾向はロマンチスムが出現して自らを過去へと遡及させなけ

れば取り出されることがなかったし、そもそも存在しさえしなかったというのである。「回顧 の論理」という言葉は、ベルクソンの著作中一番最後に出版されたこの論文集の第一論文「緒 論(第一部)」(実際に執筆されたのは『道徳と宗教の二源泉』以前であるとの注が著者によ って付されている)で初めて用いられるが、この言葉によって指し示されている思考法それ自 体は、『意識の直接与件に関する試論』以来、一貫して批判の対象となっている。

(3)ヘーゲル研究ではよく知られたイボリットが『物質と記憶』について小さいけれども優れた 論文(‘Aspectsdiversdelam6moirechezBergson,,RevueintematinaledePhiloso- pbie,n゜10,1949)を書いている。彼はそこで「純粋記憶」とは「純粋知(savoirpur)」で あると述べている。「純粋記憶」に暗黙に働く知の側面があることは疑いえない。ペルクソン は「例えば私が自分の部屋を出るとき、これから通るのはどんな部屋かということを知ってい る(jesait)」(ⅡM,161)と述べている。この知を「純粋」な、すなわち「無意識的」な知と 考えることは可能である。しかし、その場合には、それは「知」としての一般性を「無意識の 状態において」そなえているのでなければならないだろう。ベルクソンはこの問題については ほとんど何も述べていない。なお、「純粋記憶」は「純粋知」であるというイボリットの解釈 は、ベルクソンが「夢」と題する論文(『精神のエネルギー』(1919年)に収録)において、

無意識の記憶を「たんなる思惟(simplepens6e)」と規定していた事実によって促されたもの

かもしれない。

(4)とすれば、「純粋記憶」とは、-度は意識として成立した状態の「無意識の状態」における 存在の総称であることになる。記憶されるのは知覚だけではないからである。

(5)ベルクソンの解釈では、故郷の様を「回想する(sesouvenir)」ことはできるが、実際に故郷 に連れてゆかれると何ひとつ「再認(reconnaltPe)」できず、「方向をとる(s'oriente「)」

こともできない精神盲の婦人(ヴイルプラントの症例)(1100,99)は、「純粋記憶」を外界とは 無関係に自発的に「イマージュ化する(inaginer)」ことはできるが、それを外界との関係の なかで身体的に「漬ずる(jouer)」ことができない状態にある。その原因は、脳の損傷によっ て、知覚の呼びかけを聞きとる「純粋記憶」の力が衰弱していることにある。「純粋記憶」が 知覚の訴えに応じて身体の運動装置を即座に作動させることができないと、知覚をその「図式 を描く運動傾向によって完成(completer)する」(MM,107)ことでそれと再認しつつ、習慣性 の行動へと「延長(Prolonger)する」こと、すなわち「非注意的再認(recoDnaisSancePar distraction)」ができないわけだ。だから、彼女には故郷の「すべてが新しく思われ

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る」だけでなく、方向をとることすらできないということが起こる。「純粋記憶」と知覚し運 動する身体との連携が失われた結果、彼女は自分の故郷の同一性を構成できない状態にあり、

従ってまた、彼女にとっては視覚的に与えられるものは「古びる」ことがなく、つまりは「持 続」しないのである。彼女のような患者は何カ月練習しても自分の部屋に向かうことすらでき ない。また、メルロ・ボンティが『知覚の現象学』で指摘しているように、「伝統的な精神病 理学なら精神盲に分類しそうな」シュナイダーという患者(ゲルプとゴールドシュタインの症 例)には、「陽光や雨は楽しげでも悲しげでもない」。これは知覚のもつ「象徴」力が彼から 失われてしまっている証拠と見ることができよう。知覚に全面的に身をゆだねことで、知覚に よって集約される無意識的記憶がその上っ面を機械的に演じ続けるかわりに、自らを深く揺り 動かすようになる可能性については、『与件』においても述べられている。「朝、いつも起き ることになっている時刻が告げられると、私はプラトンの表現によればく心の全体をもって〉

その印象を受けとることがありうるだろう。…しかし、たいていの場合、その印象は池の水面 に落ちる小石のように私の意識全体を揺り動かす(ebTanler)かわりに、いわば意識の表層に 凝固している観念、起きていつもの仕事にとりかかろうという観念を弾く(remuer)にとどま る。…日常の大部分の行動がこのようにして行われるということ、また記憶力のうちにある種 の感覚、感情、観念が固定化するおかげで、外部からの印象が、意識的で知的でさえありなが らも多くの点で反射行為に似ている運動を、私たちに引き起こさせるということが見てとれよ う」(DLl26)。

(6)ベルクソンが想像力の哲学や科学の哲学と銘打たれた部門を自らの哲学の一部として構築す

る道を歩んだとすれば、それらはいずれもイマージュの集約力および相互規定力という観念を 出発点として構想されていただろう。

(7)パスカルの次の言葉は、私たちが少しでも油断していると、私たちがいささかも望んでいない

場合ですら、私たちの知覚のうちに擬物化の働きがたちどころに充満してしまうことを物語っ ているのかもしれない。「別々にはどちらも笑いを誘わない二つの顔も、一緒にすると似てい

るので笑いを催させる」。

文中に略号で引用したテキスト(Quadrige/PUF)は以下の通り。

DI:。Essaisurlesdonn6esimm6diatesdelaconscience刀 MM:MMati6reetmmoire”

R:'Lerire”

EC:T6volutioncr6atrice”

87

(13)

MR:'LesdeuxsourcesdelamoraleetdelareligionP PM:MLapenseeetlemouvant”

本稿は平成9年1月25日に慶応義塾大学で開催された三田哲学会におい て口頭発表した研究原稿が元になっている。

88

参照

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