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密教文化 Vol. 1974 No. 108 005羽田野 伯猷「永楽刻チベット蔵経おぼえ書 PL92-L65」

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密 教 文 化

永 楽 刻 チベ ット蔵 経 お ぼ え 書

羽 田 野

は し が き 明 の 永楽 年 間 に太 宗(成 祖)は チベ ッ ト蔵 経、 正確 に は チベ ッ ト ・カ ン ギ ュ ル を鑛 刻 印行 した。 鈴 木 学 術 財 団研 究 年 報 の第 三(1966)・ 第 八(1971)号 に お け る拙稿<チ ベ ッ ト大 蔵 経 縁 起>(I、II)に お い て、 た ま た ま 永 楽 刻 カ ン ギ ュル に 関説 し た。 もち ろん それ は永 楽刻 カ ン ギ ュル を主 題 と した も ので は な く、論 述 の 関係 上、 少 し くふ れ た に外 な らな か った。 チ ベ ッ ト内 に お け る蔵 経 刻 板 につ いて 一応 の論 及 をお えた 後 に、 シ ナ に お け るチ ベ ッ ト大 蔵 経 の刊 板鏑 梓 につ い て事 清 が許 され る限 り扱 う手 筈 で あ っ た。 しか し、鈴 木 学 術 財 団年 報 に紙 白 を引続 き えた と して も、 そ れ は今 後 か な りの 歳 月 をへ た後 の こ とに な ろ う。 さて此 度、 日本 西 蔵 学 会 々 報、 第20号(昭 和49年3月31日)に 矢 崎 正 見 君 が、 六 項 目の疑 点 をか か げ て 永 楽 カ ンギ ュル の 刊 梓 を否 定 し、 結 論 的 に は、 『現 在 で は摺 本 を立 証 で き る も のは 一 枚 も存 在 しな い。』 とい う趣 旨 を述 べ ら れ、 現 段 階 永 楽 刊 梓 につ い ての 学界 の研 究 調 査 の現 段 階 の意 味 で あ ろ うか に お け る推 論 を試 み た、 とい わ れ る。 もち ろん年 報 の拙 論 には、 そ の性 格 上 意 を尽 く さな い点 が 多 々 あ ろ うけ れ ど も、改 め て一 読 願 えれ ば、 疑 点 の大 部分 は解 消 す る の で は な い か と考 え て、 私 は 回答 をち ゅ うち ょ した。 しか し同学 の実 地 調 査 報 告 に敬 意 を表 す る た め に も、 ま た 目本 西 蔵 学 会 会 報 とい う 目本 に お け る斯 学 の最 高 の水 準 を示 す機 関誌 に、 指 名 の上 で 提 示 され た 質 疑 で あ り反 対 論 で も あ るか ら、全 く気 が す す まず 不 本 意 な こ とで あ る け れ ど も、提 出 され た疑 点 を ふ ん ま え な が ら、 な お必 須 の未 入 手 の資 料 も あ る こ と を 承 知 の上 で、 拙 論 を試 み ざ る を えな くな った。

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-92-そ の 一 シ ナ はす ぐれ た文 化 の伝 統 を長 くかつ 広 域 に わ た っ て持 ち続 け て きた。 そ し て 国 力、 経 済 力 は い うま で もな い が、 も と も と印刷 の 国、 紙 の 国、 文 字 の国 で あ り、宋 以 来 大 蔵 経 の 国 と して、 そ の刊 梓 の資 材 や 技 術、 経 験 とい っ た種 々 の 点 で も、 チ ベ ッ トと格 段 の差 が あ ろ う。従 っ て チ ベ ッ ト蔵 経 の刊 梓 印 行 が チ ベ ッ トに とっ て困 難 な大 事 業 で あ っ た と して も、大 国 〈 明>に と って 果 た して ど うだ ろ うか。 外 冠 に よ る国 家 の危 機 に 際 して、 仏 の加 護 が柞 られ る。 こ う した 意 図 か ら仏 寺 ・仏 像 の建 立 或 は写 経 ・大 蔵 経 の離 刻 が お こな わ れ た こ とは、 歴 史 がわ れ わ れ に教 え て い る。 た とえ ば、 高 麗 版 初 離 大蔵 経 も再 雛版 も、 何 れ も外 敵 を排 除 す るた め の柞 りを こ め た もの で あ った とい わ れ る。 明 の 永 楽 帝 は チベ ッ ト仏 教 を崇 び、 遺 術 に秀 で た 尚師 を尊 重 し、仏 の加 護 力 を信 じた。 永 楽 帝 の経 歴 井 に 国 家 的 危 機 意 識 が帝 に あ った とす れ ば、 そ れ は仏 寺 の建 立 や チベ ッ ト大 蔵 経 開 離 へ の道 を択 ば しめ た と考 えて も よい の で は な か ろ うか。 ま た明 史 や 実 録 等 の正 史 に記 録 され て い な い か ら とい つ て、 永 楽 カ ン ギ ュル の 刊 梓 を否 定 す る の は い ろい ろの意 味 で 問 題 で あ ろ う。正 史 は特 定 の 関 心 と規 準 の も とに編 集:され て い る。正 史 の 記録 規 準 に よ っ て政 策 上 ま た は文 化 事 業 上 の関 心 をえ た か ど うか。 こ う した意 味 で は永 楽 刻 カ ンギ ュル だ け が例 外 で あ っ た の で あ ろ うか。 私 ど もは、 明 の 王 室 にお け る仏 教、 と くに チ ベ ッ ト仏 教 の推 進 力 が何 に あ った か を明確 に して、 判 断 しな けれ ば な らな い で あ ろ う。 兵 火 や 掠 奪 や 棄 釈 や 政 権 の交 替 等 に よ る危 機 を経 験 した 明 の 京 師 〈 北 京> に お い て、 永楽 カ ン ギ ュル の板 木 や 刊 本 が消 失 し、 これ まで に発 見 さ れ て い な い か ら とい って、 そ の鍋 刻 印 行 の歴 史 的 事 実 ま で を否 定 す る こ とが許 され る で あ ろ うか。 ま た シ ナ の歴 史 的 な 文 化 事 象 は、 よ ほ どの事 前 の周 到 な 準 備 が な い 限 り、速 断 す る こ とは で き な か ろ う。質 も ス ケ ー ル もチ ベ ッ トと は異 な る。 敦 煙 の巨 大 な文 化 遺 産 をは じ め、最 近 の考 古 学 的 発掘 は驚 嘆 とい うの外 は な い が、麦 積 山 や 磧 砂 版 大 蔵 経 等 の発 見 も印 象 的 で あ る。 そ の多 くは偶 然 に よ る。 しか し私 共 は 永 楽 刻 カ ンギ ュル の存 在 を偶 然 や 奇 蹟 に委 ね るわ け に は ゆ か な い。 調 査 を必 要 とす る。 永 楽 刻 カ ンギ ュル につ い て の歴 史 的 事 実 を否 定 し う る 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 ほ どの積 極 的 な判 定 に よ る調 査 が、 綜 合 的 に どの よ うな広 い範 囲 にわ た っ て今 迄 に行 わ れ た の で あ ろ うか。 そ こ で文 書 が必 須 で あ る。 チ ベ ッ ト文 献 の 開拓 は 将来 に 待 つ と こ ろが大 き い。 蒙 古 仏 教 史 や チベ ッ ト仏 教 史 な どの通 史 的 な部 類 に属 す る史 書 に、 そ の記 述 が な い か ら とい っ て、 歴 史 的 事 実 を早急 に否 定 で き よ うか。 直 接 ま た は 包環 的 にそ の刊 梓 を立 証 し、 推 知 させ る資 料 は現 存 す る。 ま た 開 発 され る可 能 性 を 充分 も って い る。 さて、 わ れ わ れ の視 点 を何 処 に しぼ るべ き か。 明 の仏 教、 と くにそ の チベ ッ ト仏 教 に か か わ る歴 史 的残 存 を見 出 し うる可 能 性 を多 分 に もつ と推 定 され る の は、 な ん とい っ て も 山 西 省 清 涼 山、 つ ま り五 台 山 に指 を 届 しな け れ ば な る ま い。 い うま で もな く 五 台 山 は長 い 間 シ ナ ・チ ベ ッ ト ・満 ・蒙 の仏 教 の 一 大 聖 地、 文 殊 の霊 場 で あ っ た。 明 にお い て も太 宗 のみ な らず、 多 くの皇 帝 や 皇 妃 の 信 仰 と外 護 を え た。 こ の場 合、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル が存 在 す る とい う報 告 が ま ず 注 意 され ね ば な ら な い。 ベ ル リ ンの赤 字 筆 写 本 の刊 板 等 に つ い て の海 外 の学 者 の 論 及 は しば ら く 措 く と して、 五 台 山 の菩 薩 頂 真 容 院 即 ち大 文 殊 寺 に は、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル 及 び 康 煕 刻 カ ンギ ュル が あ り、普 楽 院 に は永 楽 刻 カ ンギ ュル が所 蔵 され、 羅 喉寺 に は万 暦 と康 煕 の両 版 カ ンギ ュル が一 部 宛 所 蔵 され て い る。 つ ま り五 台 山 に は永 楽 刻 カ ン ギ ュル ニ 部、 万 暦 刻 カ ン ギ ュル ー 部、 そ して康 煕 のそ れ 二、 乾 隆 刻 カ ンギ ュル の 刊本 一 部 が揃 っ て あ る とい うの で あ る。 こ の報 告 は<華 北五 台 山所 蔵 仏 教 文 献 調 査 概 況、 密 教 研 究 第 七 六 号、 昭 和 十 五 年>に お い て、 畏 友 高 野 山大 学 教 授 酒 井 真 典 氏 に よ っ て 行 われ た もの で あ る。 それ か らす で に三 十 余 年 の星 霜 が経 過 した。 わず か 四頁 ほ どの短 篇 で あ る が、 シ ナ 仏 教 史 は も と よ り、チベ ッ ト大 蔵 経 史、 チ ベ ッ ト仏 教 伝 播 史 の上 か ら い っ て、 た しか に貴 重 な もの で あ る。 酒 井 教 授 が ラ マ教 研 究 の た め五 台 山 に学 び、 治 安 状 態 の よ くな い 中 を可 能 な限 り実 地 調 査 を行 い、 五 台 山所 蔵 の大 蔵 経 につ い て 報 告 を され た も の で あ る。 簡 単 な報 告 で あ り、永 楽 カ ン ギ ュル が ど の よ うな 特質 を も ち、 ど の よ うな 状 態 で保 存 され てい るか、 永 楽 刻 と判 定 され た 典 拠、 五 台 山 に存 在 す る にい た った事事情 等 に つ い て の 説 明 が、 残 念 な が ら歓 け

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て い る。 次 い で昭 和 十 九年 一 月 には<劇 嚇 教 の典 籍>に お い て、 永 楽、 万 暦、 康 煕、 乾 隆 の北 京 系 カ ン ギ ュル につ い て も、 一 葉 宛 で は あ る が写 真 を収 載 され、 そ の か か わ り合 い と特 質 の一 端 に つ い て述 べ られ て い る。実 地 調 査 に よ らな けれ ば 出 来 な い注 意 す べ き含 蓄 を もっ て い る が、 しか し永 楽 刻 カ ン ギ ュル の縁 起 等 の 解説 を歓 い て い る。 た と え ば、 永 楽 ・万 暦 ・康 煕 ・乾 隆 カ ン ギ ュル の系 譜 を古 ナ ル タ ン ・カ ン ギ ュル に求 め られ て い る が、 そ の典 拠 や 経 典 配列 の異 同 の解 説 を歓 い て い る が ご と き で あ る。 矢 崎正 見君 は こ の よ うな実 証 的 解 説 が歓 如 して い るた め に、 酒 井 報 告 を拒 否 され た の で あ ろ う。 そ の 二 永 楽 刻 カ ン ギ ュル をそ の他 の諸 版 か ら区別 し判 定 す る特 質 等 を造 形 的 か つ 視 覚 的 に指 摘 す る の は、 私 の現 在 の領 域 で は な い。 た だ掲 載 の 四 葉 の写 真 と御製 蔵 経 讃 の コ ピ「 に親 しん でい る。 こ の限 りで は各 紙 八 行、 刻 字 は康 煕 ・乾 隆 に く らべ て永 楽 ・万暦 は稚 拙 で あ る が、 永 楽 ・万 暦 と康 煕 ・乾 隆 は す べ て 重 刊 と い うにふ さわ しい密 着 を示 し、各 行 の配 字 の一一致 を もみ と る こ とが で き る。 私 は永 楽 刻 カ ン ギ ュル が どの よ うに して建 立 され、 五 台 山 に所 蔵 され た か、 五 台 山 のそ れ が永 楽 刻 カ ン ギ ュル で あ る こ と を述 べ、 酒 井 報 告 の正 当性 を包 環 的 で は あ る が弁 護 した い。 次 に セ ラ寺 に永 楽 刻 カ ンギ ュル が請 来 され 安 置 され た 経 過 につ い て所 与 の資 料 に よ って 能 う限 り解 説 し、所 要 に応 じて質 疑 に 回答 を試 み るつ"もりで あ る。 包 環 的 とい った の は、 明 の太 宗 永 楽 帝 の御 製 蔵 経 讃 を除 い て は、 永 楽 刻 カ ンギ ュル そ の もの及 び 目録 を現 時 点 で は閲 読 しえ な い か らで あ る。 中国 事 情 が よ り よ く展 開 し、 そ れ を閲 覧 す る機 会 を近 い 将 来 に期 待 した い の で あ る。 五 台 山、 つ ま り清 涼 山 に関 す る資 料 は、 円仁 の入 唐 求法 巡 礼 行 記 をは じめ、 種 々 あ る けれ ど も、 わ れ わ れ の課 題 に と って は、 清 涼 山志、 同新 志(新 志 と し るす)及 び、 明 の太 宗(成 祖)永 楽 帝 の 御製 蔵 経 讃、 同 チ ベ ッ ト文(:Lu血 一gyis mdsad-pabi bkah-hgyur bstod-pa)に ま ず注 意 した い。

清 涼 山志 は、 明 の万 暦 丙 申秋(万 暦 廿 四年、A.D.1569)に 広 応 寺 沙 門鎮 澄 が 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 五 台 山 の獅 子 窟 で誌 した序 を もつ。 テ キ ス トに は 山西 省 五 台 県武 清 臣 印刷 本 を 用 い た。 大 正 大 学 蔵 本 の コ ピー を学 友 立 正 大 学 丸 山 孝 雄、 大 正 大 学 北 条 賢 三、' 川 崎 真 定 の三 君 の好 意 に よ っ た。 清 涼 山新 志 は、 清 の老 蔵 丹 巴重 編、 康 煕 四十 年 五 月 三 日の序 が あ る。 鴻 唖寺 序 班 臣朱 圭 恭 鋳 と記 され て い る。 漢 文 の 永 楽 帝 御製 蔵 経=讃は、 大 明 三蔵 聖 教 北 蔵 目録、 北 蔵 目録 第 一 巻 御 製 序、三通天 字至念 字(大 正、 総 目録 第 二 巻、P、271)に 収 め られ て い る。 清 涼 山 志、 同 新 志(志 四9、 新 志 三6∼7)に も収 め られ て い る が、 後 者 は北 蔵 に対 の す る蔵 経 讃 と して で は な く、永 楽 刻 チベ ッ ト ・カ ン ギ ュル に対 す る御 製 蔵 経 讃 と して援 引 され て い る。 正 確 に は<大 明太 宗 文 皇 帝 御製 蔵 経 讃、 永 楽 入 年 三月 初 九 日><A.D.1410)で あ る。* チ ベ ッ ト語 の同 蔵 経 讃 は訳 出 上 の偏 差 と細 部 の問題 を し ば ら く別 とす れ ば、 漢 文 のそ れ と殆 ど対 応 して い る とい っ て よい。 後述 す る よ うに これ は永 楽 刻 チ ベ ッ ト ・カ ン ギ ュル に附 属 して存 在 す る直 接 の資 料 とい うこ とが で き よ う。酒 井 教 授 か らコ ピー を恵 贈 され た。 誌 上 を か りて御 礼 を 申上 げ た い。 か つ て高 野 山 で開催 され た チ ベ ッ ト学 会 で供 覧 され た こ と が あ る。 さて清 涼 山志 第 四巻 第 五 帝 王 崇 建(新 志、 第 三巻 第 五 崇 建)に は、 明 の太 宗 一がA.D.1401に 使 者 をチ ベ ッ トに遣 わ し、チ ベ ッ ト蔵 経 を え て帰 り、番経 廠 に お い て刊 梓 し、先 ず カ ン ギ ュル ー 蔵 を刷 り、五 台 山 の菩 薩 頂 真 容 院 即 ち大文 殊 寺 に供 養 した、 とい う文 が あ る。 即 ち の 〔A1〕 辛 巳春 上 遣 中官 侯 顕 及 大 智 法 王、 如 西 土 求経、 得 梵 策 蔵 経 帰、 勅 寿 梓 於 番 経 廠、 先 印 一蔵 送 墓 山 菩 薩 頂供 養(四、8、 新、三、6) とい う。輯 要、 そ の他 に も この こ とは 記 され て い る。 こ の援 引文 は、 太 宗 の御 製 蔵 経 讃 に対 応 す る部 分 が あ る。 即 ち 〔A2〕 朕 撫 臨大 統、 仰 承 鴻 毫、 念 …考 皇 考 皇 批 習 生 育 之 恩、 垂緒 之 徳、 働 労莫 報 及 遣 使 往 西 土、 取蔵 経 之 (註)* 北蔵 目録 に収載 されてい るけれ ども、これを北蔵 に対す る蔵経讃 と直 ちに考え る ことにば問題が ある。北蔵ば讃序を永楽十九年に請 うた。

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-88-文、 刊 梓 印 施、 以 資 為 薦 揚 之典、 下 界 一 切 生 霊無 窮 之 福 …(大 正、 目録、2、P272、 志四、8、 新志三、10)

とい う。

太 宗 の チ ベ ッ ト文 蔵 経 讃 は、 次 の よ うで あ る。

C A 3) Red rgyal-khams bdag-pa dan/gdan-sa-chen-po-la gnas-pa ni/ Bdag-gis/

Yab-yum-gyis drin-chen-po dan/rab-rim-las phan-btags-pas/

dehi drin-bsab-par dkah-bahi don-gyis/gser-yig-pa miiags-nas/ nub-phyogs-nas bkah-hgyur gdan-dries-hoes-nas/

par-du-bsgrubs-nas/ kun-la sbyin-bahi phan-yon-gyis/yab-yum gnus hdren-par-bya-ba dan/sems-can kun-gyi mi-hdsad (hjan, sic) -pahi bsod-nams thob-par (tha-ba-par, sic)-bya-bahi phyir-du/

と あ る。 上 引 の<辛 巳春>に 誤 りが な い とす れ ば、 これ は恵 帝 の建 文 三 年(A.D. 1401)、 明 の太 宗(成 祖)即 位 の永 楽 元 年(A.D.1403)よ り二 年 ほ ど以 前 の こ と、 つ ま り太 宗 が ま だ燕 王 で あ った こ ろ の こ とで あ る。 西 土、 西 方 とは西 国、 西 天(仏 子)、 西 僧、 西 番 な どの類≡語 か ら推 知 され る よ うに、 い わ ゆ る広 義 の チ ベ ッ ト(西 蔵)を 指 す の が 当時 の仕 方 で あ った ら し い。 チベ ッ トか らい え ば、 シ ナ は東、 東 方 で あ る。 清 涼 山 志 に記 述 され る二梵策 蔵 経 と は他 の箇 処 で は梵 文 蔵 経、 梵 書 蔵 経 な ど と も表 現 され、 梵 典、 梵 冊 に通 ず る用 法 で あ る。 こ の場 合 は辞 典 的 には そ の理 解 は 多少 動揺 して い る けれ ど も、 わ れ わ れ のイ ン ドの梵 語 仏 典 そ の も の を指 して い る の で は な い。 チ ベ ッ ト文 御製 蔵 経 讃 にお い て対 応 す る語 は、 ま さ し く “カ ン ギ ュル”で あ る。 漢 文 の そ れ で は “蔵経”と い う。 こ の チ ベ ッ ト蔵 経 に対 す る梵 策 等 と類 似 の用 法 は、 清 涼 山志 に お い て もみ られ、 新 志 等 の清 の 時代 にな る とチ ベ ッ ト仏 典 に対 して慣 用 され た ら しい。 方 冊 蔵 経 と区 別 した慣 用 語 で も あ る。

康 煕 刻 カ ン ギ ュル の御 製 番 蔵 経序(Rgyal-bahi mdsad-pahi bod-kyi bkah-hgyur-gyi hbri-hbyan)を 請 うた<請 序 疏>(Mdsad-byan shu-hahi yi-ge)、 <潭 請 序 疏>(Mdsad-byan yah shu-bahi yi-ge)に お い て も、章 表 梵 典(Bod

永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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-kyi lugs-srol-gyi brtags mhon-par byas)と い っ た 用 例 を み る こ と が で き る。 さ ら に 清 涼 山 新 志 に み ら れ る 代 表 例 を み よ う。 〔B〕 康 煕 三 十 九 年 十 二 月 三 日大 劇 噺 清 修 禅 師 老 蔵 丹 奏 請 皇 上 頚 賜 梵 書 蔵 経 全 部 於 四十 年 十 二 月 十 五 日、差 会 計 司 員 外 郎 関 保 費 送 菩 薩 頂 真 容 院 永 遠 供 奉、康 煕 四十 年 十 二 月 初 八 日奉(新 志 三、23) これ は老 蔵 丹 の奏 請 に よ っ て皇 帝 が五 台 山 の菩 薩 頂 真容 院 に梵 書 蔵 経 全 部 つ ま りこ の場 合 は康 煕 刻 チベ ッ ト文 カ ン ギ ュル ー 蔵 を賜 った こ と を誌 した も の で あ ろ う。サ ン ス ク リ ッ ト蔵 経 な どで あ り うる筈 が ない。 黄 寺 真 容 院 と奏 請 者 の 性 格 か ら い っ て も漢 文 蔵 経 で はな く、チ ベ ッ ト経 蔵 で な け れ は な らぬ。 康 煕 四 十年(A.D.1701)の 日付 で あ るか ら、 テ ンギ ュル は 当時未 刊 梓 で あ る。 これ は康 煕 刻 カ ン ギ ュル を指 す と し な けれ ば な るま い。 事実、 康 煕 刻 のカ ン ギ ュル が菩 薩 頂 真 容 院 に一 部 所 蔵 され て い る。 こ の文 書 の記 事 と符 節 を合 す るの で あ る。 さて、 上 引 のA1、A2、A3の 文 に よ って、 明 の太 宗 永 楽 帝 が、 そ の即 位 前 す で に洪 武 以来 の そ の道 のベ テ ラ ンで あ る中官(少 監、 大 監)侯 顕、 大 智 法 王 をチ ベ ッ トに派 遣 し て、 チ ベ ッ ト蔵 経(カ ン ギ ュル)を 請 来 した こ と、 そ し て<番 経 廠>に お い て、 カ ンギ ュル を刊 つ ま り刻、 梓 つ ま り<録 刻 文 字 於 板> をな し、 印刷 を行 い、 供 養 に施 布 した こ と、 そ して そ の最 初 の一 刷 本 が五 台 山 の名 刹 で あ る菩 薩 頂真 容 院 に供 養 され た こ とが知 られ た。 こ の菩 薩 頂 真 容 院(大 文 殊 寺)に 供 養 され た、 い わ ゆ る永 楽 刻 カ ン ギ ュル に つ い て、 清 涼 山志 は、 次 の よ うに伝 え て い る。 大 文 殊 寺 即 菩 薩 頂 真 容 院、 唐 僧 法 雲 自建 殿 堂、 擬 塑 聖 像、 ……七 日忽 光 中見 文殊像、遂図様塑成、名真容院、歴 代人君不擁修飾、国朝永楽初、勅 旨改建 大文殊 寺、勅賜貝葉霊文、梵文蔵経、朱 書横列、御製序讃、毎鉄盛 以錦嚢、 約 以錦 条、 護 以 蒲 毬、 並 欽 造 文 殊 鍍 金 像、 万 暦 辛 巳間、 上 勅 太 監 季 友 重 修。 <貝 葉 霊 文、 梵 文蔵 経>が、 勅賜 の永 楽 刻 チベ ッ ト ・カ ンギ ュ ル で な けれ ば な らぬ こ とは い うまで もない。 こ の場 合 の梵 文蔵 経 は<新 志>で は梵 書 龍 蔵 と 誌 され て い るが、 チ ベ ッ ト ・カ ンギ ュル で あ る こ と に変 りは な い。 清 刻 の漢 訳 大蔵 経 は龍 蔵 の名称 が 用 い られ て い る。

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後 述 す る セ ラ寺 の 永 楽 刻 カ ン ギ ュル は、 表 紙(Gdoh)だ け が金 文 字 で そ の他 は朱 と記 され て い る が、 こ の真 容 院即 ち 大文 殊 寺 の場 合 はす べ て朱 の 印刷 で あ る。 文 字 が横 列 に書 か れ て 現在 み られ る よ うな梵 書 方 式 の書 で あ る こ とは 当然 で あ るが、 錦嚢 で荘 厳 され、 錦 条 で約 し、 さ らに蕎 つ ま り茜 草 染 の毬 で外 装 を され る とい う盛 飾 を も っ て い た。 おそ ら く五 台 山 にお い て歴 史 を生 きぬ い て現 存 す る とす れ ば、 五 百 歳 の外 装 を ま とっ た上 記 の カ ン ギ ュ ル の刊 本 が そ の ま ま み られ る か も知 れ ない。 そ して こ の永 楽 刻 カ ン ギ ュル は太 宗 永 楽 帝 の御 製 序 讃 をは じ めか ら伴 っ て お る こ とが、 上 引 の 清 涼 山 志 に よ っ て知 られ るが、 こ の御 製 蔵 経 讃 を巻 首 に掲 げ る こ とを讃 自 ら も述 べ て い る。即 ち讃 に 用 是 為 管 以 掲 干 巻 首、 且 以 翼 流 通 無窮 焉、

dehi-phyir bstod-pa byas-sin chos-kyi dbu-na bris-pas I chos-kyi

grogs-su phyi-rabs-pa rnams-la rgyud-do 11

(註)康 煕の覆請疏にみ られ る明成祖校刻大蔵真経 またば永楽校刻大蔵真経が、北蔵にあ た るか、 あるいば永楽刻 チベ ット・カンギ ュル にあた るか、あ るいば北蔵 と永楽刻 カ ンギ ュルの両者を ふ くめた表現なのか、見方 によ ってい ろい ろ分れ るか も知れな い。当然の手続 と して永楽 カンギ ュルや北蔵を入手 しえた上で、確認 しな ければな らない。質疑者 のい うように北蔵 ・南蔵 にあたると速断で きない。 差当 って覆請疏を チベ ット文を主 体に して理解すれば、 どうか。 明成祖校刻大蔵真経、有蔵経 讃及正 宗大覚妙経、四部経、華厳経、真実名経諸序 弁諸梵冊但載蔵函(52∼3)

Min-dus-kyi chen-tsu Bkah-hgyur-chen-po shu-dag pan-tan-du byas-nas par-du-brkos/ bkah-hgyur-gyi bstod-thigs darn mkhen-rab gshun-lugs dam-pahi chos gsun-rab glegs-bam bshi/phal-po-che/ mtshan-brjod rim-pahi mdsad-sbyan-gi yi-ge reams chos-kyi dbur hbri-nas bkah-hgyur-gi po-tir bshag-yod

(3-5) 解漢 文 の場 合、 大:蔵真 経 ば漢 文 大 蔵 経 を、 梵 冊 は仏 冊 と も常 識 的 に は理 解 す る こ と が で き るか も知 れ ない。 帝 の 蔵 経 讃 ば北 蔵 で ば 目録 部 にお か れ た。 しか しチベ ッ ト 文 ば大 蔵 真 経 に対 して カ ンギ ュル、 カ ン ギ ュル ・チ ン ポ と表 現 す る。 カ ン ギ ュル ば 蔵 経、 大 蔵、 番 蔵 名経、 釈蔵 名経 と も漢 文 で 表 現 され て い る。 従 って、 大 蔵 真 経、 カ ン ギ ュル ・チ ン ポ、 カ ンギ ュル ば、 永 楽 刻 カ ンギ ュル を さす とみ う る。 この 限 りで い え ば、 蔵 経讃 と 御製 序 の あ る もの ば、 そ れ を 経 典 の は じめ に書 き、 か つ 恢 の 分 け方 もそ れ を も って ば じめ、 また 一 秩 内 に 多 数 の 経 典 を 収 め る場 合 ば、 序 は 別 と して、 讃 ば嫉 の ば じめ に おい た と考 え られ る。 一経 典 で二 軟 以上 に また が る と きば、 第二 秩 目の ば じめ に は、 讃 も序 もおか なか った の で ば な い か。 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 とい っ てい る。 つ ま り最 初 か ら御 製 蔵 経 讃 は附 録 され て お り、後 か ら附 加 され た も の では な い。 ま た上 引 のA及 びBの 文 は、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル並 び に康 煕 刻 カ ンギ ュ ル が、 と も に菩 薩 頂 真 容 院(大 文 殊 寺)に、 そ れ ぞれ 寄 進 され た こ と を 示 し、 ま た <永 楽 刻 と康 煕 刻 の両 カ ンギ ュル が菩 薩 頂 真容 院 に所 蔵 され て い る>と の酒 井 報 告、<永 楽 カ ン ギ ュ ル に お い て は御 製 讃 の ない 秩 も あ っ た が、 ほ と ん ど各 秩 に附 属 して あ っ た と記 憶 す る>と い う酒 井 教 授 の通 知 と一 致 して い る。 蔵 経 讃 も ま た後 か ら補 足 し添 付 され た もの で は な く、は じ めか ら巻 首(秩 の は じめ を 含 め て)に 収 載 され て い た こ と が、 文 献 的 に も事実 と し て も確 認 され た。 以 上 の論 及 に よ って 菩 薩 頂 所 蔵 のそ れ が、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル で あ り、 そ の 最 初 の刊 本 で あ る こ と を、 卒 直 にみ と め て も誤 りを犯 す こ と に は な らな い で あ ろ う。 以上によ って、私は提示 された六個条 の質疑のすべて に対 して基本的にば答えたつ もりである。 しか し、私が提示 した典拠 としての文献 に関す る個別的な質疑があ るの で、以下 においては、それについて述べ よう。 六個条 の疑点を要約すれば、次 のようにな るか と思 う。 (1)永 楽版 カンギ ュルの板木 ばもとより、その摺本 もな く、開版を立証す る直 接の記 述、 またば関説 した記述 もない。現在、永楽版 の摺本 と立証でき るものば一 枚 もな い。 (2)永 楽年間の明ば内外多難 の危機時代であ り、膨大な財 と労力を要す るチベ ット大 蔵経を開版す るほ どに国力ば潤沢でなか つた。 (3)開 発 に協力 したチベ ッ ト僧 の記述が漢文、 チベ ット文の 両資 料に見 出せ ない。 (開版ば疑問) (4)ジ クメーナムカーの記述が唯一の根拠である。そ こにば永楽 版を収めた ことば記 述 にない。 セ ラ寺 に 永楽版があ ることば 疑問であ る。(従 って 開版をみ とめえな い) (5)ナ ル タンー ツ ェルパー 永楽版の 系譜 ば100年 の距離 があるので 伝承不 可能の筈 (?) 1300年代のヂ ャン版、つ まり リタン版 との関係が理解 出来ない。(?) (6)康 煕版チベ ッ ト蔵経 の序文 に重刊 とい うも、永楽版に対 して康煕 版が再度 のチベ ット大蔵経刊行であ ることを意味 しない。

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-84-序文の大蔵真経を南蔵 ・北蔵 とみ ることができ る。 康煕版 カンギ ュルを、これ に対す る重刊 と考 える。 またシ ャラワの故事か らみて、永楽 カンギ ュルば現代のよ うな形態のチベ ット、カ ンギ ュルを指す とば限 らない。 とい うにあ った。 そ の 三 さ て清 涼 山志、 同新 志 に記 され る よ うに、 請 来 され た チ ベ ッ ト蔵経 を、 勅 に よ って 番 経 廠 で刊 梓 して、 先 ず そ の一 蔵 を印 して五 台 山 の菩 薩 頂 真容 院 に送 り 供 養 し た、 と い うこ とは、 実 地 調 査 の報 告 と相互 に保 証 し合 うの で あ る が、 こ の よ うな 事 業 が勅 命 に よ って 番 経 廠 で行 われ て い た こ と、つ ま り番 経 廠 設 立 の 目的 の一 つ を明 らか にみ と る こ と が で き る。 番 経 廠 と漢 経 廠 と の両 者 は、 北 京 の後 の崇 祝 寺 の あ る場 所 に建 立 され た と推 定 され て い る。 最 近 は そ の存 在 の証 をわ ず か に崇 祝 寺 の東 廊 下 に お か れ て あ る 番 経 廠 の字 を鋳 した銅 鐘、 西 廊 下 に おか れ た漢 経 廠 の字 を鋳 した銅 雲 板 に と ど め、 ま た チ ベ ッ トの 釈 迦 也 失(Sakyaye-ses)建 立 の法 渕 寺(Ha-yan-si)は これ に隣 接 して あ る。 明 の永 楽年 間 に劇 瞳 を延 致 し梵 経(つ ま りチ ベ ッ ト仏 典) を伝 写 せ しめ た か ら、番 経 廠 の名 が あ る。 と妙 舟 は そ の著<蒙 古 仏 教 史>(第 七、 寺 院)に お い て述 べ て い る。 そ し て 蕪史、 明陳 際 の天 啓 宮 詞 注 を も援 引 して 解解説 してい る。 即 ち 蕪 史 を援 引 して <番 経 廠 念 習 西 方 梵 唄経、 凡 有 仏 事、本 廠 内官、易 番 僧 帽 衣 紅 抱 黄 領 黄 護 腰、 一 日或 三 昼 夜、 漢 経 廠念 習 釈 家 諸 品 経、 僧 伽 衣 袈 裟 纏 衣 色 衣 与 僧 人 同、 惟 不 剃 髪 耳、 仏 事 畢 乃 易 内 臣 服 色> とい う。ま た 明 の 陳 僚の天 啓 官 詞 注 を援 引 して <番 経 廠 内官、 行 事 遇 万 寿 元 旦 等 節、 於 英 華 殿 作仏 事、 卒 事 之 目、一 人 扮 章 駄、 抱 杵 面北 立、 余 披 理 略、 鳴 羅 鼓 吹 海 螺 諸 楽 器、 替 唱 経 究 至 夜 午、 方 設 仏 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 会、 ……云 々> 等 とい う。 ま た清 涼 山 志(四、20)新 志(三、15)に よれ ば、 漢 経 廠 掌壇 の 御 馬 輩 王 忠 が五 台 山 に し ば しば 使 い し、 大蔵 経 の寄 進、 そ の他 の寺 務 に勅 使 と して 従 事 し て い た こ とが 知 られ る。 こ れ は万 暦 時 代 の こ と で あ る が、 永 楽 の時 代 か ら依 然 と して漢 経 廠 が存 続 し、仏 教 行 事 や 蔵 経 の写 経 や 印 行 刊 梓、 寄 進 そ の 他 の事 に あ た っ て い た こ とが知 られ る。 内 官 が おか れ てお り、そ うし た業 務 に 当 っ て い た こ とが推 定 され る。 万 暦 時 代 の諸 事 象 か ら推 して 番経 廠 も存 続 して い た に違 い ない。 番 経 廠 が何 時 設 立 され、 ど の よ うな機 構 を もっ て い た か の 究 明 は しば ら くお くと して、 設 立 の背 景 の一端 につ い て み た い。 チ ベ ッ ト蔵 経(カ ン ギ ュル)請 来 の使 者 と して 中官(小 監、 大 監)侯 顕 及 び 大 智 法 王 を派 遣 した の は、 辛 巳春 つ ま り太 宗 即 位 前 の 建 文 三年 の こ と で あ っ た。 太 宗 が五 台 山感 応 序 を製 した の が、 清 涼 山志 に よれ ば、 国朝 永 楽 庚 辰 春 と い う。<永 楽 庚 辰>に は問 題 が残 る が、 こ の庚 辰 が正 しい とす れ ば、 そ れ は建 文 二 年(A.D.1400)と な らざ る を えな い。 つ ま り永 楽 帝 即 位 前、 カ ンギ4ル 請 来 使 派 遣 の前 年 に 当 る。 五 台 山感 応 序 に は、 次 の よ うな文 が あ る。 …無 有 不 感 通 者、 朕 統 臨 天 下、 夙 夜 挙 以 化 民 為 務、 凡 有 所 為、 一 出 於 至 誠、 是 以 仏 経 所 至 屡 々獲 感 通 ……具 有 明験 ……作 善 降之 百 祥、 作 不 善 降 之 百 殊、 然 則 人 之 欲 為 善 以 柞 福寿 者 可不 勉 哉、 可不 勉 哉 と述 べ、 感 通 ・明験 に 関心 した。 一一つ に は こ の よ うな仏 教 観 に うな が され、 チ ベ ッ トに蔵 経 を求 め る使 者 を派 遣 した と考 え られ る。 永 楽 刻 をは じめ と し北 京 系 の カ ンギ ュル が、 タ ン トラ部 を最初 に 収載 して、 尊 重 し てい る の も、 この 間 の 消息 を物 語 る もの とい え よ う。 道 術 に秀 で た称 をき き尚 師 恰 立 麻 に太 宗 が 関 心 を寄 せ た の も、 即 位 前 の燕 王 の時 代 で あ り、即 位 と共 に招 請 使 と して 中官(少 監、 大 監)侯 顕 と僧 智 光 とが 派 遣 せ られ て い る。 太 宗 は チ ベ ッ トの僧、 と くに 尚師 を崇 信 した。 顕 通 寺 は五 台 山 の最 も由緒 深 い古 刹 かつ 巨刹 で あ る。 太 宗 は 永 楽 三 年 僧 網 司 を こ こ にお き、 ま た大 監 楊 昇 に勅 して顕 通 寺 の重 建 を行 っ た。

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-82-そ して か ね て育 王 所 置 とい わ れ る仏 舎 利 塔 を修 復 し、 -82-そ こ に は じ めて寺 院 を 建 立 した。 大 宝 塔 院 寺 がそ れ で あ る。 永 楽 五 年 の こ とで あ っ た。 こ の建 立 や 修 復 は、 尚 師 恰 立麻 つ ま りカ ル マ派 の如 来 大 宝 法 王 テ シ ンシ ェ ク パ の顕 通 寺 入 棲 の居 を飾 る た め の もの で あ っ た、 と清 涼 山 志(入 一21)は い う。 尚 師 恰立 麻 は永 楽 四年 二 月奉 天殿 に お い て帝 に謁 見 し、華 蓋 殿 で宴 を賜 り、莫 大 な賜 物 を下賜 され た。 五年 正 月 高 帝后 の 薦 福 の た め 霊 谷 寺 で 普 度 大 斎 を行 い、 帝 自 ら も行 香 した。 恰立 麻 は万 行 具 足 十 方 最 勝 円覚 妙 智 慧善 応 佑 国演 教 如 来 大 宝 法 王 西 天 大 善 自在 仏 に封 ぜ られ、 天 下 の釈 教 を領 せ しめ られ た。 こ の如 来 大 宝 法 王 恰 立 麻 は、 京 師 に お い て禅 業 を妨 げ られ る の を恐 れ て五 台 山顕 通 寺 に入 り、同 六 年 に チ ベ ッ トに帰 還 した の で あ っ た。 永 楽 に お け るチ ベ ッ ト僧 の 二 法 王 の 中 の最 初 の法 王 で あ る。 ま た五 台 山 の大 平 興 国寺 も太 宗 の勅 建 で あ り、大 平 興 国 の額 も下 賜 され てい る。 菩 薩 頂 真 容 院 即 ち大 文 殊 寺 も亦 そ の名 の よ うに文 殊 の真 容 の故 事 に ち な ん だ 文殊 信 仰 の 中心 をな す聖 地 五 台 山 の大 文 殊 寺 で あ り、名 刹 中 の名 刹。 後 に黄 寺 の 統 轄 寺 と な っ た。 この改 建 も亦 太 宗 の勅 旨に よ って 行 わ れ た。 以上 は、 太 宗 が即 位 して 間 もな い こ ろ の五 台 山 に お け る仏 教 事 業 を寺 院 の建 立 や 修 復 に限 っ て清 涼 山 志 に よ っ て誌 した の で あ る。 チ ベ ッ ト ・カ ンギ ュル の 刊 刻 も亦 こ う した一 連 の仏 教 事 業 の一 つ と して行 わ れ た に違 い ない。 菩 薩 頂 真 容 院 の 改建 の 一 環 と して、 い ち早 く 永 遠 供 養 す るた め を意 図 した の もで あ ろ う。太 宗 永 楽 帝 は チ ベ ッ ト仏 教 を崇 め た。 菩薩 頂 真容 院 が後 に黄 寺 の総 本 山 と な った の も、 こ の時 代 か らの か か わ り合 い に よる もの で は な か ろ うか。 しか し、 こ れ ら の場 合、 中官 顕 侯 と僧 智 光、 つ ま り宙 官 と僧 との つ な が りに よ る仏 教活 動 を看 過 して は な る ま い。 つ ま り明朝 の仏 教 事事業 の推 進 に お け る宙 官 の は た し た役 割 に、 改 め て われ わ れ は留 意 す べ きで は な か ろ うか。 太 宗 は チ ベ ッ ト蔵 経 の刊 印 のみ な らず、 永 楽 大 典 とい う文 化 的 大 事 業 を も敢 行 した。 そ れ と平 行 して漢 訳 大蔵 経 の建 立 を も忘 れ て は い な か っ た。 酒 井 報 告 で は、 五 台 山 に 明 の北蔵 が顕 通、 塔 院、 普 済 の三 寺 に各 一蔵 宛 所 蔵 され て い る とい う。 明代 を通 じて、 正 統 十 年 以 降 と くに万 暦 年 間、 五 台 山 に は数 多 くの漢 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 文 大蔵 経 が供 養 され て い る**。 また釈 氏 稽古 略続 集 巻 三 に よれ ば、 (イ)、永 楽 元年 天 嬉 寺 に蔵 経 板 が あ り、 これ を印行 した 旨 を記 し、一 方 で は永 楽 元年 心 渕 法 師居 厳 を し て大蔵 経 を校 さ しめ た。 (ロ)、永 楽 七 年 には 暁庵 禅 師 善啓 を して 永楽 大典 纂 修並 に大 蔵 経 を校 せ し めた。 (ハ)、永 楽 十 七 年 には 道 成、 一如 等 入 人 に命 じて蔵 経 を校 勘 し、新 旧 を対 比 せ し め、聚 僧 を して 写持 せ し め、一 如 法 師 は勅 を奉 じて大 蔵 群 経 を探 討 し、類 偏 を采 輯 して い る。 (ニ)、永 楽 十 入年 御 製 経 序 十 三 篇、 仏 菩 薩讃 践 十 二篇 を各 経 首 と な し、 大蔵 経 板 二 副 を刻 し、 南京 に一蔵、 六行 十 七字、 北 京 に一 蔵、 五 行 十 五 字 とす る聖 旨、 ま た一 蔵 を石 刻 と し、 大:石洞 に安 置 す る聖 旨 を出 し、 北 京 に両座 の大 寺 を建 て た。 (ホ)、ま た十 九年 正 月、 御 製 序 文 を請 い、 正 月光 日上 所 写蔵 経 を看、 寺裏 にお い て刊 刻 に つ い た。 北蔵 御製 序 文 を こ の時 点 で 請 って い る。 永 楽 八年 の太 宗 御製 蔵 経 讃 は 時 差 を もち、 序 文 と して は北 蔵 に必 ず しも密 着 して い な い。 と こ ろで御 製 蔵 経 讃 は、 そ の性 格 上 漢 文 の そ れ は漢 文 大蔵 経 に、・チベ ッ ト文 の そ れ は、 チ ベ ッ ト蔵 経 に接 近 して 理 解 で き る表 現 が 用 い られ て い る。 チベ ッ ト文 の 《Sde-snod gsum dah rgyud-sde bshi》 に 対応 す る漢 文 が《 三 蔵 十 二 分 教 》 と表 現 され て い るが ご と きで ある。 しか し清 涼 山志 並 に前 後 の事 情 を 彼 此 参 酌 して、 チ ベ ッ ト蔵 経 を刊 行 す る の を契機 と して の 永 楽 帝 の御 製 で あ る (註) **イ)正統十年春、上造蔵経送安五 台山普恩禅寺、とも刊 印大蔵経典、頒賜天下 …… 藪以一蔵霊文、送安普恩禅寺 ……ともい う。 ロ)天 順二年 ……勅造五大蔵経安干五頂各有勅 旨護持 ハ)万 暦十三年 勅造大蔵経布諸天下名 山……五台有二蔵焉 ニ)万 歴二十七年春三月 遺御 馬監太監王忠、賓 送仏大蔵経 一蔵於獅子窩、印造仏大 蔵経頒施在京及天下名山 万暦二十七年夏五月 循遺 太監王忠、賓送仏大 蔵経一蔵、安於 中台 夏六月 侃遺王 忠、賓送一蔵、安 置北台 万暦二十八年夏四月 遺太監王忠、賓送仏経三蔵、安置余三台、台山欽賜蔵経 凡 有六蔵

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-80-こ と を示 唆 す る。 い われ る よ うに北 蔵 に密 着 し て作 成 され た蔵 経 讃 と無 条 件 に は 認 め られ ない で あ ろ う。 日付 は漢 文、 チ ベ ッ ト文 の 何 れ も 永 楽 八 年 三 月 九 日で あ る。 チ ベ ッ ト ・カ ンギ ュル の刊 梓 の草稿 が ほ ゴ完 了 し、 い よ い よ鍋 刻 を は じめ る に 当 っ て の も の で は なか ろ うか。 刊 梓完 成 は 何 時 で あ っ た で あ ろ うか。 現 時 点 にお い て は 類 推 の 域 を出 で な い。 目録 等 の 第 一 次 資 料 の入 手 に よ っ て、 そ の 決 定 を また な けれ ば な らな い こ とは い う まで もな い。 尚 師 恰 立麻 は、 数 度 にわ た って莫 大 な賜 物 を えた け れ ど も、 経 蔵 又 は仏 経 を 下 賜 され た とい う記 述 は な い。 永楽 六年 の こ ろ に は カ ン ギ ュル が未 刊 で あ っ た た め で は な か ろ うか。 と こ ろ が 尚師 昆 沢思 巴 に蔵 経 を筆 頭 と した賜 物 を下賜 され た の が、 永 楽 十 一 年 二 月 の こ と、 ま た 尚師 釈 迦 也 失 に永 楽 カ ンギ ュル を下賜 され た の が永 楽 十 四 年 で あ っ た。 従 っ て、 永 楽 十 年 一 杯 で カ ン ギ ュル の刻 錨 が完 了 し、 第 二 第 三 刷 が 番経 廠 で印 行 され て い た の で あ ろ う。つ ま り、 ほ ぼ三 年 間 前 後 で 刻 梓 は完 了 した ので は ない か。 こ の期 間 は チベ ッ トの場 合 と もほ ぼ 見合 う。 つ ま り番 経 廠 は漢 経 廠 とな らん で、 チベ ッ ト仏 教 の受 容、 宮庭 の仏 事並 に上 記 の チ ベ ッ ト蔵 経 刊 刻 や 写 経 そ の他 の仏 教 事 業 運 営、 さ らに仏 教 行 事 の た め に 設 立 され た 一 つ の内 廠 的 存 在 とし て勅 営 され、 内 官 に よ っ て業 務 の 運 営 が主 と して行 わ れ て い た の で あ ろ う。 か くて永 楽 刻 カ ン ギ ュル は文 字 通 りの勅 刊 で あ り、準 備 期 間 を加 算 して前 後 十 年 の歳 月 を費 した こ と に な ろ う*。 こ の場 合、 上 述 した よ うに中 官 つ ま り宙 官 と仏 教 僧 との つ な が りを示 して い る こ とは、 明 の仏 教 理 解解 に重 要 で あ ろ う。 この つ な が りは、 チ ベ ッ トの場 合 中 官侯 顕 と僧 智 光 に よ って代 表 的 な事 例 をみ る こ とが で き よ う。 さて、 明 の太 祖洪 武 帝 と太 宗(成 祖)永 楽 帝 とで は チベ ッ ト仏 教 の対 策 に違 (註) *鋳 刻 ば大 体3∼4年 で ば なか った か と思 われ る。 カ ン ギ ュ ル100峡 に7∼ ・8万 の板 木 を 要 す る と して、 毎 日の錨 刻 数 ば平 均 すれ ば、70枚 前 後 で足 りよ う。 内 廠 に お い て錺 刻 が 運 営 され た。 従 って 錨 刻 の ため の特 別 に国 費 を要 した と して も、 明 の財 政 が 賄 い きれ な い ほ どの 出費 を 必 要 と した わ け で ば あ る ま い。 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 い が あ った、 と明史 は 述 べ る。 太 祖 は唐 の世 にお け る 吐 蕃 の乱 に懲 りに 吐 蕃 を 制 御 しよ う と した。 そ の場 合、 吐蕃 の 習俗 と して 僧 を尚 ぶ。 よ っ て番 僧 を手 なづ け、 化 導 して これ を利 用 し愚 民 を化 して辺 患 を弾 め よ うと した。 しか し番 僧 に対 して 国 師、 大 国 師 を授 け た もの は、 わ ず か 四 ∼五 人 に す ぎ な か っ た。 とこ ろ が太 宗 に い た る と、上 述 の政 策 の外 に、 帝 自 らそ の教 を崇 め た。 か く て閾 化 等 の五 王、 二 法 王、 西 天 仏 子 の二、 潅 頂 大 国 師 の九、 潅 頂 国 師 十 入、 そ の他 禅 師 僧 官 は 数 え きれ な い、 とい う。そ の結 果 は 其徒 交錯 於 道 外擾 郵 伝 内耗 大 官 公私 騒 然 帝不 位也 とい う。次 の 宣宗 にい たれ ば 留京 師耗 消 費 益甚 とい う。英 宗 も亦 は じ め番 僧 を遣 斥 した が、 そ の後 ま もな く方 針 を変 更 し加 封 号者 亦 少 か らず、 憲 宗 に い たれ ば 復 好 番 僧 至 者 日衆 ……封 法 王 其 次 為 西 天 仏 子 他 授 大 国師 国 師禅 師 者不 可 勝 紀、 四 方 好 民 授 為 弟子 輯 食、 大 官 毎 歳 耗 費 鐘 万 とい う。孝 宗 を しば ら く別 と して、、武 宗 に い たれ ば 武宗 盛 惑 俵 倖 ……帝 好 習 番 語 引入 豹 房 由是 番 僧 復 盛 … … 帝 時 益 好 異 教 常 服 其服 諦 習 其 経 演 法 内廠、 緯 吉 些 児 輩、 出入 豹 房 与 権 雑 処気 談 灼 然 等 ともい う。 銭 寧 は禁 内 に豹 房 新 寺 をお くこ とを請 い、 内 に番 僧 及 び 教 坊 司、 楽 人 有 り、 悠 意 に淫 楽 をな す、 と い う。後 に武 帝 は こ こに お い て崩 じた。 こ こ に お い て溺 れ た り とい わ ざる をえ な い の で あ るが、 や が て 明朝 の番 僧 は、 多 くの紆 余 曲折 を経 る わ け で あ る。 とまれ、 太 宗 の一 連 の仏 教事 業 は、 明 が 国難 多 忙 で あ っ た と して も放 棄 され た り等 閑 視 され た り した わ け で は な か ろ う。太 宗 永 楽 帝 は道 術 の 尚 師 に最 も関 心 し崇 ん だ。 仏 の神 通 霊 威 に 関心 した。 こ の傾 向 は仏 教 政 策、 僧 官 制 度、 仏 寺 制 度 等 種 々 な る 形 に み る こ とが で き る。 字 の国、 印 刷 の国 の シ ナ の こ とで あ る。 物 資 も豊 か で あ る。 よ ろ こ び につ け悲 しみ につ け、 安 穏 や 延 命 を希 うにつ

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け、 危 機 に 直 面 す る につ け、 こ の よ うな仏 教 事 業、 寄 進 や供 養 が行 われ る。 そ れ が宗 教 とい うもの で あ ろ う。 ま して明 の宮廷 にお け る宙 官 は仏 教 事 業 の推 進 力 の一 つ で あ り、帝 王 や 王 妃 がチ ベ ッ ト仏 教 の篤 信 者 で あ る場 合、 む し ろ国家 の財 政 をチ ベ ッ ト仏 教 並 にチ ベ ッ ト僧 が消 耗 した こ とは あ りえ た筈 で あ る。 チ ベ ッ ト ・カ ン ギ ュル の勅 刊 を上 記 の よ うな形 で推 進 す る こ とを妨 げ る特別 の事 情 は な か った よ うに思 わ れ る。 そ して勅 刊 で あ っ た が た め に、 天 下 の名 山 に特別 下賜 供 養 され た外 は、 私 版 の場 合 の よ うに、 民 間 に流 行 す る こ とは多 くは あ りえ な か った ので は な か ろ うか、 と推 定 され る。 従 っ て、 五 台 山 とチ ベ ッ トに賜 っ た永 楽 刊 カ ンギ ュル は 貴 重 で あ る。 そ の 四 さて、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル に関 説 す る チベ ッ ト文 献 と して、 鈴 木 学 術 財 団 研 究 年 報 三、 入、 に於 て は 1)デ ル ゲ ・カ ンギ ュル 目録 2)ナ ル タ ン ・カ ンギ ュル 目録: 3)チ ョネ ・カ ンギ ュル 目録 4)タ シサ ム テ ン リ ンの蔵 経 縁 起、 東 北、No.6090

5)ガ ワ ンヂ ャ ムパ 著、Grva-sa-chen-po bshi dan rgyud-pa stod-smad chags-tshul, Pad-dkar bphren, 東 北、No. 6194

(黄 帽 派 の 四大 学 問 寺 及 上 下 両 タ ン トラ学 院 系統 の 草創 記、A.D.1744) 6)庚 煕 カ ン ギ ュル 目録 そ の他 に留 意 した。 永 楽 刻 カ ン ギ ュル そ の もの 及 び そ の カル チ ャ(目 録)を 披 見 し えな い 現 時 点 に お い て は、 こ れ らの資 料 を無 視 す る こ とは で き な い の で は な か ろ うか。 (イ) まず は じめ に セ ラ寺 の永 楽 刊 カ ンギ ュル の刊 本(Par-ma)に つ い て 『ヂ ク メ ナ ムカ ー の 蒙 古史 の記 述 が そ の唯 一 の典 拠 で あ る。 そ れ に は セ ラ寺 に永 楽 カ ンギ ュル を収 め た こ とは、 記 述 され て い な い。 従 っ て セ ラ寺 に永 楽 版 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 カ ンギ ュ ル の あ る こ と は疑 問 で あ る。そ の う らず け と してLam-rimの 伝 燈者 伝 (東 北、5985A.)の 記 述 に も永 楽 蔵 経 を収 め た とい う記 事 が な い。』 とい うの が 疑 点 の 要約 で あ ろ うか。 改 め て い うま で もな く、 この こ とに つ い て ヂ ク メ ナ ム カ ー の 蒙 古 仏 教 史 の記 述 が、 他 の チ ベ ッ ト文 献 の記 述 ま で を も拒 否 す る唯 一 の根 拠 で は あ りえ な か ろ う。 ま たLam-rimの 伝 燈 者伝 は、 論題 が 限定 され、 従 っ て叙 述 も限 定 され た も ので あ っ て、 これ に言 及 が な い か ら とい っ て、 歴 史 的 事 実 を も否 定 す る ほ ど の保 証 は も ち え な い で あ ろ う と思 はれ る。* さて、 ま ず セ ラ寺 の創 立 者 に して太 宗 永 楽 帝 と交 渉 を も ち、 永 楽 刻 カ ン ギ ュ ル を持 ち 帰 った 人物、 潅 頂 弘 善 西 天 仏 子 大 国 師 釈 迦 也 失、 後 の い わ ゆ る大 慈 法 王 釈 迦 也 失(Byams-chen Chlos-rje Sakya-ye-ses)に つ い てみ よ う。

上 述 した よ うに明史 や 明 実録 に よれ ば、 彼 は 明 に入 朝 し、 や が て京 師 を去 る に 当 っ て、<仏 経>を 筆 頭 とす る賜 物 を太 宗 か ら贈 呈 され た(永 楽 十 四 年)。 こ れ よ り先、 永 楽 十 一 年 二 月 に正 覚大 乗 法 王 尚師 昆 沢思 巴 は入 朝 し、帝 に 見 え た 際 に、 賜 物 の筆 頭 と して<蔵 経>を す で に賜 って い る。 ま た 京 師 を去 る に 当 っ て も仏 経 等 を賜 っ た。 釈 迦 也 失 が賜 っ た<仏 経>は、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル で あ っ た。 そ して それ は セ ラ寺 の カ ン ギ ュル 殿 に奉 安 され た とい う典 拠 を以 下 に お い て述 べ よ う。 こ の場 合 の チ ベ ッ ト資 料 と して、 上 引 の5)を 使 用 す る。 ブ ル チ ョ ・ガ ワ ン ヂ ャ ムパ 著 G

rva-sa chen-po bshi dan rgyud-stod-smad chags-tshul, Pad-dkar-hphren, 東 北、No.6124 で あ る。 (註)*ヂ ク メー ナ ム カ ー の援 引 文 に つい て の 読 解 の 仕方 に問 題 が あ ろ う。 bsnamsとbjogs-gnanを どの よ うに 読 解 す るか に よ って、 理 解 が 異 って くる。 わsnams(bstamsで ば な い)ば “携え る”意 味、 従 って、 釈 迦 也 失 が<シ ナか ら携 行 した>と 蒙 古史 の文 は読 む の が 自然 で あ ろ う。Rgya(ギ ァ)ば イ ン ドで も西 夏 で も シナ で もよ い と して も、 この 場合 ば シ ナ で な けれ ば な ら な い で あ ろ う。hjogs-gnahを(秘 蔵 せ る もの を 収 め>と 読 み う るか ど うか。

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-76-標 題 の示 す よ うに黄 帽派 の四大 学 問 寺、 つ ま り、ガ ン デ ン、 デ プ ン、 セ ラ、 タシ ル ン ポ、 お よ び上 ・下(高 地 ・低 地)の 両 タ ン トラ学 院 の草 創 記 と もい う べ き も の で あ る。 例 のPho-lha dsun-dban bsod-nams stobs-rgyas(1728-1747Administration, 1740∼ か らKing)の 再 三 の 要請 に よ って、 甲子(Sin-po-byi-pa)即 ちA.D.1744に ガ ワ ンヂ ャ ムパ が編 集 した も の で あ っ た。 多 くのChos-hbyunやRnam-thar等 を参 酌 して可 な り慎 重 に こ の書 を編 纂 した こ と を、著 者 は 自 ら述 べ て い る。 ま た、 当 面 の セ ラ寺 建 立 者 の釈 迦 也 失 につ い て は、 み るべ き ま と ま っ た大 伝 記 の な い こ と を述 べ、 伝 記 につ き も の の虚 飾 につ い て は興 味 な し な ど と い う。 か よ うに して セ ラ寺 の釈 迦 也 失 につ い て の叙 述 を もま と めた。 当面 の課 題 解 明 の た め に は漢 文 資 料 を も、 これ に加 えて 論及 を し な けれ ば な らな い。 彼 は、 衛 の ダ グ ポ カ ル ギ ウ派 のGdan-saで あ る 有 名 な ツ ェ ル ・ク ン タ ン Tshal-gun-thahの ふ も とに生 れ た。 ツ ォ ン カバ の侍 局 的 な 側 近 の役 をつ と め た 弟 子 で、 ツ ォ ン カバ を仏 と して信 敬 し、そ の奴僕 と して 自 ら を捧 げ た、 と いわ れ る。 大 明 の太 宗 永 楽 帝 か らツ ォ ン カバ 招 請 の使 者 が きた。 ツ ォ ン カバ は 固辞 し、 返 書 をお く った。一 く覆 明成 祖 書>(戌 子 六月 十 九 日、永 楽 六年、A.D.1408) が それ で あ る。 そ し て釈 迦 也 失 を身 替 りと して推 挙 した、 とい う。 しか しシ ナ資 料(明 史、 清 涼 山 志、 同新 志)で は代 行 に はふ れ な い。 次 の よ うに い う。 永 楽 中既 封 二 法 王、 其 徒 争 欲 見 天子、 趣 恩 寵 於 是 来 者 趾 相 接、 釈 迦 也 失 亦 十 二 年 入 朝、 礼 亜 大 乗 法 王(明 史 三 三 一、P.7) と。二 法 王 とは 尚師 恰 立 麻 と尚師 昆 沢 思 巴(大 乗 法 王)と で あ る。 恰立 麻 もそ うで あ った よ うに、 彼 は まず は じめ に五 台 山 に入 った。 十 二 年 春 で あ る。 十 二 年 冬 十 一 月入 内 した。 大 乗 法 王 に亜 ぐ礼 を うけ、 翌 年 妙 覚 円通 慈 慧 普 応 輔 国 顕 教 潅 頂 弘 善 西 天 仏 子 大 国 師 に命 ぜ られ、 印諾 を賜 った。 こ の年 に五 台 山 の顕 通 寺 に還 った。 十 四 年、 帰 還 す るに 際 して、 仏 経、 仏 像、 法 杖、 僧 衣、 綺 畠、 金 銀二・器、 御 製 賛 詞 等 を賜 っ た とい う。 しか しチ ベ ッ トに直 ち に帰 っ た か ど うか。 五 台 山 に駐 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 錫 も した。 とい うの は 永 楽 帝 は五 台 山 の釈 迦 也 失 に 対 して 四 回 に及 ん で制 書 を 下 して い る。 宣 宗 の宣 徳 二 年 夏 に も制 書 が 下 され た。 制 書 は 都 合 五 回 に及 ん だ わ け で あ る。如 何 に永 楽 帝 や 宣 宗 の篤 い信 を えて い た か が 分 る。 そ の 後、 宣 徳 九年 再 び入 朝 し、宣 宗 に よ って 万行 妙 明 真如 上 勝 清 浄 般 若 弘 照 普 慧 輔 国顕 教至 善 大 慈 法 王 西 天 正 覚 如 来 自在 大 円通 仏 と して 冊 封 され た。 宣 宗 が崩 じ英宗 が即 位 し、番 僧 六 百 九 十 人 が清 汰 され た が、 彼 と西 天 仏 子(大 智 法 王)つ ま り僧 智 光 の両 人 だ け が、 そ の例 外 者 と して 特 別 の優 遇 を え た の で あ っ た。 これ は明 史、 太 宗 実 録、 清 涼 山志、 新 志、etc.の シ ナ の資 料 に よ った の で あ る が、 先述 の チベ ッ ト文 献 につ い て み ょ う。 彼 はシ ナ に到 り、大 雪 を降 らせ、 皇 帝 の大 病 を治 療 し、潅 頂 を授 け、 無 量 の 神 変 と神 威 に よ っ て 皇帝、 大 臣 す べ て を して 仏 教 を信 ぜ し め、 法 雨 を 降 らせ た。 そ して 五 台 山 に六 大 寺(dgon-chen)と シ ナ のMe-tog-ldam-raの 近 くに Ha-yan-si(法 渕 寺)と 称 され る寺 院 を建 て た。 大 明皇 帝 に よ っ て

Hphrin-las sna-tshogs mkhas-sin gsal-ba chos-hid dam-pa mchog-tu rgyal-ba ses-rab-rnam-dag snap-ba-cben-po kun-tu khyab-cin rgyal-khams

skyon-ba/ bstan-pa rgyas mdsad rab-tu dge-ba Byam-chen chos-ki-rgyal-po/ とい う名 号 と印 誰 と不 可思 議 の賜 物 を贈 られ た、 とい う。こ の名 号 は、 シ ナ伝 に お け る第 二 回 自に入 朝 した 際 に授 与 され た そ れ と対 応 して い る とい うべ き で あ ろ う。大 慈 法 王 とい うの は この第 二 回 目の時 の名 号 に よる の で あ る。 さ て、 これ に次 い で 《 シ ナ に お い て は じ めて 刊梓 され た カ ン ギ ュル の 同一 の板 木 に よ る刊 本 を携 帯 して衛 に い た 昏れ た。 こ の刊本 は表 紙 を金 文 字 で か い た希 有 な もの で あ っ た。 》 と誌 して い る。 釈 迦 也 失 は、sa-mo-glah(乙 丑、1421A.D.)に セ ラ ・大 乗 寺 を建 立 した。 (註)清 涼 山志、 同 新 志 ば、 これ を天 竺 の 迦 昆羅 国 の人 と誤 って い る。 宣 徳 六 年 西域 に 還 る とい う。 この 年 五 台 山 を 去 った ので あ ろ うか。

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-74-逐 次 に種 々 の建 物 を増 築 し、カ ン ギ ュル奉 安 殿(Bkah-hgyur lha-khan)を 建 立 した。 カ ン ギ ュル 奉 安 殿 に明 の大 王 か ら贈 られ た<Padmaraga>と よば れ る 希 有 な る カ ン ギ ュ ル を奉 祭 した。 しか しこ の シ ナ か ら携 行 した 希 有 な カ ン ギ ュ ル を この と き ま で は 奉 祭 せ ず に 存 置 な され、 二 年 間 に及 ん で 法輪 を転 じ られ た、 とい う。 明確 に 明 の 大 王 下賜 とい う。 当然 永 楽 帝 下賜 で な けれ ば な らな い。 明 史 ・同 実 録 に<仏 経>を 太 宗 永 楽 帝 か ら賜 っ た こ と が 記 さ れ て い る こ と は 先 述 し た。 そ の 記 録 と こ の チ ベ ッ ト文 の叙 説 と は 一 致 し、 そ の 限 りで は 信 頼 す る に 足 る 記 述 で あ る と い え よ う。 そ の 仏 経 と は、 こ の よ う に し て シ ナ に お い て 最 初 に 刊 梓 され た チ ベ ッ ト ・カ ン ギ ュ ル の 同 一 板 に よ る 刊 本、 つ ま り太 宗 か ら 永 楽 刻 カ ン ギ ュ ル の 第 何 号 か を賜 わ り、 チ ベ ッ トに 携 行 し た こ と が 確 か め られ た わ け で あ る。 セ ラ寺 の 大 施 主 つ ま り 大 後 援 者 と し て は、 ネ ウ ゾ ン パ(Snehu-rdsoh-pa) や デ パ ・ リ ン チ ン ツ ェ ル パ 等、 さ ら に そ の 他 の デ シ(Sde-srid)た ち の 名 が み え る。 ネ ウ ゾ ン パ は デ プ ン の 大 施 主 で も あ る。 カ ル ギ ウ派 と セ ラ 寺 と の か か わ り合 い に 改 め て 注 意 す べ き で あ ろ う。 ツ ェ ル パ は、 後 述 す る ツ ェ ル パ ・カ ン ギ ュ ル の そ れ で あ る。 そ の 後、 辛 丑(1433A.D.)に 再 び シ ナ に 招 か れ た。 セ ラ 寺 の 座 主 に ツ オ ン カ バ の 実 弟 子Dar-rgyas bzan-poを 任 命 し、 シ ナ の 王 宮 に 到 っ た。 宣 宗 皇 帝 (Khyad-ner hbyor skabs)が 逝 去 し、 そ の 令 息 の 英 宗(Zon hes yab rgyal-po) か ら非 常 な 信 敬 を え て 衆 生 の 義 を広 大 に な し と げ た、 と い う。 近 侍 の ネ タ ン パ ・ア モ ー ガ と ス ナ ム シ ー ラ プ(Bsod-nams ses-rab)の 両 人 は 帝 師 と な り、 こ の 両 人 の 弟 子Gshon-nu dpalも ま た 帝 師 と な っ た、 と い う。 彼 の 」建 立 に か か るHa-yan-si(法 渕 寺)が、 京 師 に お け る 根 拠 地 と な っ た の で あ ろ う。 法 渕 寺 は 番 経 廠 に 隣 接 し て 存 在 した、 と推 察 さ れ て い る。 五 台 山 に お け る 六 大 寺 院 の建 立 は 確 認 で き な い け れ ど も、 彼 の 手 に な る 聖 寿 塔 碑 は 五 台 山 の 羅 喉 寺 の 近 くに 残 存 し て い て、 大 明 永 楽 十 五 年 歳 次 乙 未 九 月 初 二 日立 と い う 日付 が あ る。 大 明 皇 帝 の 聖 寿 を祝 延 す る た め で あ る。 内 装 盛 擦 々、 井、 無 量 寿 阿 閾 仏 十 五 万 有 余、 上 祝 皇 帝 萬 歳 萬 々 解歳、 云 々 と あ る と い う。 彼 は 五 台 山 と チ ベ ッ ト を往 復 し た ら し い。 五 台 山 を 中 継 基 地 と し 法 渕 寺 を 拠 点 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 と し た の で あ ろ うか。 こ れ に よ っ て 明 の 王 室 と の 接 触 を後 々 ま で も保 つ こ と が で き る こ と と な っ た。 つ ま り明 と チ ベ ッ ト、特 に 黄 帽 派 と の か か わ り合 い に お け る 後 の 展 開 に と っ て、 看 過 出 来 な い こ と で あ ろ う。 さ て、 上 述 の よ うな 人 物 に よ っ て、 上 述 の よ うな 事 態 の 下 に、 チ ベ ッ トの セ ラ 寺 に 永 楽 刻 カ ン ギ ュ ル が 請 来 さ れ 奉 安 され た、 と い う記 述 を と く に 否 定 し疑 義 を さ し は さ む べ き 理 由 は な い よ う に 私 は 思 う。* 永 楽 刻 カ ン ギ ュ ル が チ ベ ッ トの セ ラ 寺 に 請 来 され た こ と は、 こ の よ う に し て 漢 文 資 料 並 に チ ベ ッ ト資 料 の 両 者 に よ っ て 保 証 さ れ た。 そ し て 正 覚 大 乗 法 王 も、 蔵 経 を 賜 つ て チ ベ ッ トに 帰 っ て い る とす れ ば、 少 く と も 複 数 の 永 楽 刻 刊 カ ン ギ ュ ル が、 永 楽 の 当 時 に お い て す で に チ ベ ッ トに 請 来 さ れ て い た こ と に な ろ う。 こ の 文 献 の 著 者 ガ ワ ン ヂ ャ ム パ は、 ナ タ ン 版 カ ン ギ ュ ル の 目録 部 の 願 文 等 に 関 与 した 人 物 で あ る。 黄 帽 派 の 学 匠 と し て、 そ の全 書 は 東 北、 西 蔵 撰 述 仏 典 目 録 に 収 め ら れ て い る。 セ ラ 寺 の 蔵 経 の 事 態 に つ い て も 関 心 を は ら い 熟 知 し て い た こ と が 分 る。 彼 は セ ラ 寺 の カ ン ギ ュ ル ・テ ン ギ ュ ル に つ い て、 か な り精 しい 記 述 を 残 し て い る。 即 ち、 次 の よ うで あ る。

1)Hdu-khah-chen-moのLha-khah hchi-med dpal-sterに は、Sde-prid zans-ri-paの 寄 進 し た 金 銀 混 合 の カ ン ギ ュ ル。

2)Rnam-grol sgo-hbyed lha-khanに は、 カ ン ギ ュ ル 宝。

3)Hdu-khan sbugsのDri-gtsan-khah dbus-maに は、 カ ン ギ ュ ル 宝。 4)Bkah-hgyur lha-khahに は

(イ)大 明 王 か ら賜 っ た 希 有 な る “Padmaraga”な る カ ン ギ ュ ル。 (ロ)Rgyal-shab rin-po-cheか ら賜 っ た カ ン ギ ュ ル と テ ン ギ ュ ル 筆 写 本。 (ハ)Mi-dbah dsuh-dbah-po Lha-gnasの 下 附 の テ ン ギ ュ ル 刊 本(ナ タ ン 刻

テ ン ギ ュ ル を指 す) 5)Smadthos-bsam nor-bu-gl沁 に は、 カ ン ギ ュ ル 宝 が 六 部。 6)Byes-mkhas mah-grva-tshanに は、 カ ン ギ ュ ル 宝 が 四 部、 筆 写 テ ン ギ ュ ル 註(*)ナ ル タ ン古版 の 印刷 本 が セ ラ寺 に あ る とい う噂が あ る とい う。そ れ ば む し ろ永 楽 刻 の刊 本 を 蔵 して い る こ とが、 間 違 って 伝 え られ た ので ばな いで あ ろ うか。

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-72-が一 部、 ツ オ ン カバ 全 書。 これ だ け の記 録 を の こ して い る の で あ るか ら、彼 がセ ラ寺 の永 楽 刻 カ ン ギ ュル に つ い て、 実 際 に確 か め知 っ て い た公 算 が な いわ けで は な か ろ う。 (ロ) す で に私 は鈴 木 学 術 財 団 研 究 年 報 に おい て、 述 べ た の で あ る が、 第 二 の チ ベ ッ ト資 料 と して デ ル ゲ版 カ ン ギ ュル 目録 の 記述 を改 め て指 摘 した い。 デ ル ゲ版 カ ン ギ ュル の 目録 の著 者 は、 デ ノレゲ刻 カン ギ ュル の出 来 栄 え につ い て、 自 ら を反 省 しな が ら も、 しか も永 楽刻 カ ン ギ ュル に 対 して、 デ ル ゲ 刊 本 が 優 れ て い る こ とを 自負 して い る。 デ ル ゲ刻 カ ン ギ ュル 目録 の著 者 は、<昔 シ ナ の国 で大 明 の 永 楽 帝 が カ ン ギ ュル の 刊 板 を建 立 した 云 々>と も 記 してい る (cf. fol. 111)。 この デ ル ゲ 刻 刊 の 目録 の著 者 は、 カル マ派 の学 匠 と して の ベ テ ラン で あ る。 カ ル ギ ウ派、 と くに カル マ派 と明朝 との親 しい歴 史 的 関係 につ い て は、 改 め て 述 べ る ま で もな い。 立 地 条 件 か らい っ て も、 永 楽 刻 カ ン ギ ュル や 万 暦 カ ン ギ ュ ル に近 ず き、 見 聞 す る機 会 に恵 まれ た 可 能 性 は あ る。 永 楽 刻 カ ン ギ ュル を事 実 披 見 し確 か め て い な くて は、上 記 の よ うな デ ル ゲ 刻 カ ン ギ ュル につ い て の 自負 を公 言 す る こ とは、 敢 えて な し得 なか った に違 い な い。 セ ラ寺 の そ れ とは 異 っ た 永 楽 刻 カ ン ギ ュル の存 在 を証 明 す る典 拠 と して、 デ ル ゲ 目録 を改 め て 注 意 し た い。 典 拠 と して の信 慧 性 を無 視 す べ き理 由 は な い よ うに思 わ れ る。 (ハ) 次 にチ ベ ッ ト資 料 と して ナル タ ン刻 カ ン ギ ュル の 目録 蔀 の 記 述 も亦 デ ル ゲ ・ 註 *事 実、 永楽 帝 御 製 蔵 経 讃 の チベ ッ ト文 ば、 私 の み た 限 りに お い て ば、 チ ベ ッ ト語 に 親 しみ の 薄 い刻 字 技 工 に よ って、 稚 拙 な筆 致 で 刻 字 さ れ た。 daとnaの 区 別 やPaとbaの 区 別 ば見 分 け難 い 混 乱が あ る。 デ ル ゲ版 を見 な れ た眼 に ば、 稚 拙 であ り、 ま ぎ らわ し く、誤 字 もあ る。 デ ル ゲ版 カ ン ギ ュル 目録 の 著者 が 自負 す るの ば 当然 とい って よ い。 永 楽 刊 カ ンギ ュル を実 際 にみ た上 で の感 懐 と 自負 で あ ろ う。 永 楽 刊 の 写 真 もみ た 限 りで は、 必 ず しもそ の 例外 とば思 え な い。 こ こに 万暦 版 の要 請 され た 所 以 が あ ろ う。 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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密 教 文 化 カ ン ギ ュ ル 目録 と共 に 看 過 す る こ と は で き な い。 両 目録 と も に カ ン ギ ュ ル の 発 達 史 に つ い て、 要 を え た 展 望 を行 っ て い る。 古 ナ ル タ ン ・ カ ン ギ ュ ル を 原 本 と し て、 シ ト ゥー 切 智 者(Situ-thams-cad mkhyen-pa Tshal-pa Dge-bahi blo-gros)が ツ ェ ル ・ク ン タ ン の 寺 院 で、 ヵ ン

ギ ユ ル を建 立 し た。 原 本 で あ る古 ナ ル タ ン ・カ ン ギ ュ ル に 存 在 し な い 原 典 を 補 遺 し た。 プ トン 宝 座 も ま た こ の カ ン ギ ュ ル の 善 住 に 招 か れ、 シ ト ゥ ー 切 智 者 と 共 に 校 正 を な し た。 こ の ツ ェ ル パ ・カ ン ギ ュ ル は こ よ な き 典 拠 た る も の と し て 称 名 が 大 で あ っ た、 と い う。 ツ ェ ル ・ク ン タ ン は い う ま で も な く、 タ クポ ・ヵ ン ギ ウ 派 の 大 成 就 者 のGdan-saで あ る。 デ プ テ ル グ ン ポ に よ れ ば、 ナ ル タ ン ・カ ン ギ ュ ル を 原 本 と し て、 蔵 経 を 三 部 建 立 し た と い う。 勿 論、 刻 板 建 立 で は な い。 手 が き建 立 で あ る。 ツ ォ ン カ バ が、 こ れ を 披 閲 し校 訂 の 書 き 入 れ を した 跡 が み られ る と も い う。 こ の ツ エ ル パ ・カ ン ギ ュ ル をShva-dmar thams-cad-mkhyen-pa Spyan-sha Chos-kyi grags-paとRje Ye→bzah-rtse-ba等 が 再 び 校 正 し た の で 清 浄 無 比 の

カ ン ギ ュ ル と な っ た、 と ナ ル タ ン刻 カ ン ギ ュ ル 目録 も デ ル ゲ ・カ ン ギ ュ ル 目 録 も述 べ る。 さ ら に デ ル ゲ ・カ ン ギ ュ ル 目録 に よ れ ば、 こ の カ ン ギ ュ ル は チ ン ワ ル タ ク ツ ェ(Hphyih-bar stag-rtse)の ボ タ ン に 奉 安 され た と い う。 い わ ゆ る チ ン ワ ル タ ク ツ ェ ・カ ン ギ ュ ル と よ ぶ も の で あ る。 こ れ を 底 本(Ma-dpe)と し て、 カ ム、 衛、 蔵 に カ ン ギ ュ ル が 生 じ、 高 中 低 地 に カ ン ギ ュ ル が 遍 満 す る に い た っ た、 と ナ タ ン ・カ ン ギ ュ ル 目録 は 述 べ て い る。

上 引 のYe-bzah-rtse-baと は、 い うま で も な くHgos Gshon-un-dpal(1392∼ 1481, A.D.)の こ と で あ る。 デ プ テ ル グ ン ポ 史 の 著 者 と し て 著 名 で あ る が、 大 蔵 経 の 校 訂 者 と し て も 重 要 で あ る。 た と え ば、 大 日経 の 註 の ご と き は そ の 代 表 例 の 一 つ で あ る(cf. No. 2664)。 『こ の ツ ェ ル パ ・カ ン ギ ュ ル と配 列 順 序 を 同 じ く し て、 天 の 命 ぜ る 文 殊 皇 帝 の大 宮 城 に お い て、 カ ン ギ ュ ル 宝 が 梓 板 に新 ら た に 鏑 刻 さ れ た 』 と ツ ェ ル パ ・ カ ン ギ ュ ル が 果 た し た チ ベ ッ ト蔵 経 史 上 の 重 要 性 を、 こ の ナ タ ン ・カ ン ギ ュ ル 目録 は 指 摘 す る の で あ る。 こ の叙 述 に は な お 北 京 に お け る カ ン ギ ュ ル 錆 刻 史 を 詳 細 に 検 討 し た 結 果 を ま た な け れ ば な ら な い 疑 問 点 が あ る。 こ の 大 文 殊 皇 帝 を康 煕 帝 と の み 理 解 す る要 は こ の 場 合 な か ろ う。 康 煕 刻 は 自

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らを重 刊 と よん で お り、 これ は史 実 と して み と め な けれ ば な らぬ か ら、<梓 板 に新 らた に刻 鋸 した>と い う表 現 は、 前 後 の事 情 か らみ て重 刊 で は ない 初 刻 の 永 楽 刻 を意 味 す る、 と考 え え よ う。永 楽 刻 カ ン ギ ュル とツ ェル パ ・カ ン ギ ュル との か か わ り合 い は、 立 地 条 件 並 に歴 史 条 件 か らい っ て も、 さ らに年 代 的 に い っ て妥 当 的 可 能 性 を もっ で あ ろ う。 永 楽 刻 カ ン ギ ュル の原本 テ キ ス トは、 中官 侯 顕 と大 智法 王 に よ って請 来 され た こ とは上 述 した。 当 時 の チ ベ ッ ト通 と して は 中 官侯 顕 と僧 智 光 を あ げ ね ば な る ま い。 智 光 は 能 仁 寺 の僧 で あ っ た。 侯 顕 と共 に西 国、 つ ま り烏斯 蔵 ・西 番 諸 国 に使 い した。 チ ベ ッ トの五 王 は も と よ りネ パ ー ル に も使 い した。 恰 立 麻 に対 して も両 人 が使 者 と して派 遣 され た。 太 宗 は智 光 に対 して 国師 の号 を授 け、仁 宗 は 円融 妙 慧 浄 覚 弘 済 輔 国光 範 演 教 潅 頂 応 善 大 国 師 の号 を加 え、 金 印冠 服 を授 けた。 英 宗 は さ ら に西 天 仏 子 の 号 を加 え た。 大 智法 王 と よぶ の は こ の 時 の勅 号 で は な い か と 思 う。そ うで な くて も洪 武 以 来 の侯 顕、 智 光 の よ うな チ ベ ッ ト通 が あ っ た。 大 明 国 太 宗 皇 帝 の勅 刊 に よ る最 初 の カ ン ギ ュル で あ る か ら、 それ にふ さわ しい テ キ ス トが求 め られ た に違 い な い。<仏 書 甚 多 … 至 万 巻>と 明史 に もい うチ ベ ッ ト 国 内 で、 立 地 条 件、 歴 史 的背 景、 そ の他 に よ っ て取 捨 選 択 も出来 た し、多 数 の テ キ ス トを請 来 す る こ と もで き た に違 い な い。 ツ ェ ル パ ・カ ン ギ ュル と並 ん で著 名 な の は ギ ャ ン ツ ェ ・カ ン ギ ュル で あ る。 さ らに少 し く足 を伸 ばせ ば、 古 ナ タ ン ・カ ンギ ュル も入 手 出 来 た 筈 で あ る。 カ ル マ 派 は 開 祖 以 来 写 経 に 関心 を示 した が、Chos-rje Rah-hbyuh-pa(1284-1339)は、 お そ ら く1335-1339の 問 に カ ンギ ュル、 テ ン ギ ュル の建 立 を行 っ て い る。 こ の系 統 の化 身 転 生 が 恰 立麻 で あ る。 恰 立 麻 招 請 に先 立 っ て、 こ の カル マ 派 系 の もの、 ま た は ツ エ ル パ 系 の も の が請 来 され た こ とが あ りえな い とは 限 らな い。 ナ タ ン刻 カ ンギ ュル は、 自 らの原 本 を古 ナ タ ン カ ンギ ュル と しな い で、 ツ ェ ル パ のそ れ を重 視 し、 そ の発 展 形 態 の上 に 自 ら をお い て い る。 私 は ツ ェ ル パ ・ カ ンギ ュル の歴 史 的 な役 割 の重 要 性 を指 摘 し、 永 楽 カ ン ギ ュル が そ の影 響 外 で は な い こ と を述 べ た と い う限 りで、ナ タ ン刻 目録 の記 述 を承 認 した い ので あ る。 サ ム テ ン リ ン ・チ ベ ッ ト蔵 経 縁 起 も ま た こ の点 は 同 様 で あ る。 永 楽 刻 チ ベ ッ ト 蔵 経 お ぼ え 書

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