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[019]史淵表紙奥付等

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

[019]史淵表紙奥付等

http://hdl.handle.net/2324/2340957

出版情報:史淵. 19, 1938-12-10. 九州帝国大学法文学部 バージョン:

権利関係:

(2)

二月廿四日︑五月十六日︑十月八日︑淡調室に於いて

例倉川雌︑長敬授︑小林誹師︑畢生一同出朧︑左記の紹

介があった︒木號では各為紹介老を弧はしてその概要を

記することにする︒︵岡叩︶

一︑詞買﹃⑦g詞目胃小合ロ里︑○2胃①骨○口○冒昼:鼻

の○○巨①号z:○寂○口目胃冨嵐国・Z園○○口.5口

国皇①らぷ中根川郎

本許はナポレオン三樅に對して辨謹的立場に立つもの

であって︑蕃者によれば先づナポレオン三世の純沸的泄

竹的那業は戦争と對外政錐とから切離して別仙に考へ

なくてはならない︒ナポレオン三世は努働新階級に對し

保護的な立場に北って彼竿に鋤する凡ゆる同怖的方錐の

具現に眞而目に邪念した人であった︒更に彼の佛大なる

人物につき一般史家の従来の見方は謀ってゐる︑即ち從

來史家は彼の良く詐佃さる可き鮎を抹殺し︑彼の失敗の

方面のみを非常に誇張して取扱ってゐる・彼は叔父の光

で影は抑くなって兄えるが術糊代の仲大なる人物である

事に異論はない・夢のみを辿ひ疵行の伸はなかった人と

梁報 I 西洋史學研究衝 彙報

1

ニー して見るのは速断であっても変行性をも多分に包談した人であったとする・

一︑戸や︒具①夢伊⑦威昌a︑耳①号の動・Ppo①mQ⑦日︲.

硬の︑R夢巨︻口騨ppn届岸な唖屈目戸丘EFnα厚岸F﹄EafR値nanF

岳と︵詞⑦ぐ口⑦包胃島.弓抑己ロ豊−1蟹︶

辛烏亜義

佛悶悶大茄命に際し惣法談愈に睡莱を決定せる蒋税に

對する新稚は燗後帝政・復古・七〃の諸昨代を通じて疵

施中︑昨日の純過と共に税制常額負推額に種を改良処正

す.へき必要を生じ腿柑脳者川に川池となったが︑スール

ト内側に戦机として入間せるジョルジュ・ユマンは此際

一躍此弊を丑正し他方歳入増加により秩年の財政困難を

父除せんとして渡したる各縣知邪宛迦牒に發端する所

柵﹁三︑ン戸剛洲究﹂の那件は一方には談命他方には

弓○具○口︑①︾国Oa2巨閉︺伊喜①︺Q①吋日○日の韮刺郡件を

繩絲せしめて剛内は年末迄刺描壯態を純徹し︑翌年一〃

吹府の柵衣結果の發表と政府所期の簡明により那件は落

茄したのであったが︑此財政川越に發して途に政治犯動

の渦中に陥った所洲コマン戸︑洲盃﹂の事件を取扱っ

てストラスプルグ大雌教投丈雌仰士ポンテイュ氏は該博

な知識と股汎な交料とにより章を三分して先づ税制の

史を妓今へ次に税制に對する諸新川の柿洲地役に地方騒擾

の顛末を述・へ結論とし玉山岱時諸新聞の反政府的喬諭が

一一一一一 国厘貝畠ロロ貝﹈舟か日2号臨画昌鄙胃巳$①旨

︐lrlF

(3)

■P

粂報

政府派新剛の・両術以上に一般人士の糀抑的昂彌を激化し

②地方機剛の中央統制離脱化伽向切佛剛西人の雌符な諭

皿より川る和税徴收維持埜史の鯏雌代とが此問題に多大

の捌係あり︑皿叫乢耶の飛雄的態座︑秘柑諸川仙による

合布莱の仰播似阿︑共旅主義思想の推腱︑反僻佃迩動汲

の推進力︑一般人士の韮動而從態度とが純財政川刈に一

般吹流川越を捉在せしめたことに棋靴性が生じ此川に鹿

する政府の蒋庭が雌後の成果を得たることを論じてゐ

−︑P.○.冒昌⑦﹃︾ロ⑦吋鱒﹃異口目旨︒胃昌旦︺

︵国圃.国昌昌野口99国津虐のm・計l里︺

辛腸乖義

本論文は極々の駿粋変叱を被ったメッテル一上をめぐ

っての諭蛎杣に雨つの雛が對立することを述筆へる︒元来

古く公の死後既に汁年︑史家は術悪悪意を以て猫かれた

る公の像を新しく公の価界籾の粘祁史祁前拠と公の政治

家としての派動の政論的前捉より理解する公の像を創造

す・へく努力して来︑此虚に一九二五年維納大鯉殺投スル

ピック氏の藩が公に世界槻的に政論的に癒茄純緒する

言胃侭里を明かにして一方の批幟を樹て公に封しての辨

挫者州立場口協諺冒さ男爵島を執ったのであったが︑

之に鋤して同大軽教授ピィプル氏は︑彼の好敵手として

十九世紀より博へられる燕き非難と公の時代の人の砒僻

﹁ F B

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を雑返してゐる︒而してピイプル氏は披近公に鋤して非

難的立場に立つ一新刊番︽︽旨①胃同昌呂︾号︻己山日○口

○○儲﹃且:のどに決った結論を誘導してゐる︒即ちスル

ビック氏が公を美化し郷灌者的立場なるに對してビイプ

ル氏は公への艇對老中の誹誘的態度と公に對する枇度の

痂脇をなしてゐる︒少くとも此審を生み川すビイプル氏

の粘抑は鵬があると呼ばねばならぬ︒此粘艸は換荷すれ

ば役立たざる川兄であり到る虚に材料の逃郷史料及び文

献の利川・間脳の把握︒史的槻塞の拒否︒特に公の行捌

原皿の意義及諏瓶の理解に蕃番の仙人的先入の似向を持

つのである︒公に對しての雨つの立場は政治の巾のみな

らず科雛の中にすら存するとは詔へ︑躍者の川︑釦へき通

が枕れであるかは側明であらう︒

一︑同日⑦黒田豊富局.国狩国画寂ぐ望︵両口軽島国鷺︲

○国︒昌園⑦菖国ぐぐ○﹈.F胃目z○.いSでpごあご

大杉知謀子

これ.はアレヴー︵国囚示ぐもの祇愈主義に州する誹義

恥稲川版計拙に川んで物された論文で︑顯蕃な研究では

ないが而も彼の杢貌を俳へるに十分なものである︒先づ

彼の略仰を示せば左の如くである︒

冨さi誕生︒扇まl伊包弓与毎○国⑦里呉O己g①ロロ⑦号の

mの詩昌8m.旨○○IF画蜀OHg呉旨目F匡幻画島︒四房日⑦固亨

号︑呂匡︒pの①国鈩口但⑦蔚司胃画弓○日の.石81毎年一回

(4)

訪英︒石崗1国四目園①邑届F屋甦⑦シ品冨の・ぬ匡閏目×の

鴎序行.②弓○日の.石巴l両豆さ唱①.s駅1牛派大峰よ

り學位を胸らる︒$母l大戦外交丈番出収委貝就任︒

弓Sll弓胃言日屋○吋貯厨旦石重Iら扇.SSI蕊︒

略傳の示す如くアレヴーはその生涯の多くを英叫研究に

排げたが流者はそれを左の諸側に蹄して鵬る︒一︑父及

びその友人︵弓昌冒①︾2︒︒︶の英叫への關心及び趾︵浦救

徒︶の英文畢愛好二︑一八九二年同国○巨目﹈に招砂

され英叫肚愈主義の識義を行った︒三︑十九世紀の年為

の訪英︒Ⅲ︑彼の酷刑の月的1人狐將來の祇趾への武献

各叫l就中佛英lの文化的提挑︒堆後に論者は此のスト

ア皐的芯耐︑思考の正確︑發表に鋤する鈴才︑皮肉︑辛

辣︑而も鍼砧の商さを以て仰ぐ哲學︑政論︑純濟︑雁史

に暁通して七十右七年の生涯を絡つた彼に對して︑結局

雁史家の名を冠してゐるのである︒即ち彼は深い人川的

淵心を以て︑凡べての問湖の解決を術にその雁史的考楽

に求め︑そこに炎んじたのであった︒

一︑弓︸︼⑦ロー局o3q画︒q号①ロヨ庁&鱒呉巾切.圃

弓房︒p5百口︵弓言ショ⑦骨自国冨︒﹃ざ昌

詞①ぐすぐシで己.石器し中根川郎

佛叫都特政府岬代︵一七九五一七九九︶における佛

米剛剛川の外交状態の悪化とその洲停交渉の純絲につき

述・へられてある︒この郡は配にその大要は川知の郡であ

増﹂11 〃劃鋭祁

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11矼冊1︲1官llll

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J1︲ るが弦には僻にフランス外務街文齊及びP目①骨画口鱒四蔚野胃﹃のを利用して都行政府及タレーラン︵目昌一q︲﹃§eの政紫を詳細に見直さんとするものである︒流者によれば外交淵係悪化の原脚として米似の中立極言並びに英剛L﹂の﹈畠への目R①画qに對する佛叫の不浦と之に對して佛叫の執った報復手段とが眼げられる︒而してそれに依って生じた錬隙の整洲のため凧山川の交渉が州姑されるのであるが都情政府においては初期の︑冒竺①晩己①︲岳︒﹃○舛の對米政錐と後期のタレーランの對米政錐が對照さ九る・ロ島日C賞においては孤雁政錐を以って米叫

に臨み米脚が挑戦せず又英剛の件下に入らざる程度にお

いて對米附懲錐を誰じたがこれは佛脚内の政法的郡幡に

も依って械川失敗に蹄した︒次いでその後を受けたダレ

ーランの對米政鏥は和平的態庇を以って臨んだもの︑

その初期においては所柵XYZ加件を惹起し︑米川派世

の交渉委且の師叫となり︑顔レーランの意の︒ある所が

通じかねた壯態となったが更にダレーランはその特使

F○日mPpQ詠国の言口を和哨において油雌せしめ︑そ

の奏効に依って眺剛アメリカ公使乏筐討日ぐ鈎巨の冨巨︲

目畠の紳旋で訓作交渉・柵州の逆びに至った︒之に至る

には米剛の政筑州係と依って生ずる對佛感術と︑他方伽

岡川がその慨而を維持しつ塁淡歩せんとする態度との複

雑微妙な關係がこの交渉の中に織込まれてゐる︒要する

一 一 一 一 一 一 一

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(5)

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(6)

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1

國史學會

新入生歓迎遠足晁剛土且

得が大躍川校記念日維了機︑漁定の如く︑竹岡︑鏡山

剛先生御引卒の下に︑新入生湫迎迩疋畢行︑Ⅱ的地は太

宰府方而︒此日快哨︑倣風︑絶好の遠足日和︒先づ武荻

寺方而の兄恥を皮切りに二日市を繩︑水城小畢校に於て

その附近の出土砧を籾︑閏分寺跡︑郡府枇戒城院︑籾世

喬寺に於て往岬の筑紫の都の絢燗たる文化の跡を偲び︑

その川可成の躯行瓶たりし咄︑伽か半日にして移大の收

稚をおさめ和娘燃為裡に迩足のⅡ的を逹し︑午後七昨太

宰府町にて解散せり・

研究發表異川九且

午後一吋より三年生群洲大芳氏の﹁岡余天心の藩東洋

の蠅想について﹂と池して研究従表あり︒

春季遠足晁月八8

鏡山誹師︑栴畑助手その他鯉生一行九絹は初里の日咄

を柳河方而の見鯉にすごした︒先づ王垂祁枇に詣で︑銅

鉾や土器を兇たが中でも銅刺の大きなのは珍しく恩はれ

た︒これらはいづれも苛から怖祁肺に伴ってゐるとのこ

とである︒

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宅企銘 劣聖

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王錘祁斌を僻して御塚及び椛現塚を兄醸したが︑御塚

は前方後Ⅷ戦︑椛現塚は側形横で︑どちらも水をたLへ

た堀を以てめぐらされてゐる︒椛現塚には城輪側簡の立

てられし跡が明瞭に籾収された︒

大桙寺の小鯉校の所職州は数も浬山あり︑几つ珍らし

いものも少くなかった︒完令なる青磁や装飾付鋤惑器も

我々の眼を引きつけたが勺殊に袋形拠瓶は斯界に絲介さ

れる佃仙のあるものと恩はれた︒

それより一同は脚史料先雅江n幸雄氏の好意により柳

河藩主︑立花家の庭刑を秤鞭し︑緬竺L大川町の風浪祁

献に詣でた︒

︑宝町岬代の雄立になる本殿や︑派卒十年の鋪のある石

堆萎を兄たが︑更に砒務所に所戦されてゐる土器︑鋼刺

を詐細に籾祭することが出来た︒その巾にあった祈迭の

洲犬は山緒ありげであるp

祁献の附近の北巾には深川の土器が抱合されてゐるら

しく︑八殻も所為に白い屑をなしてぬた︒とに角この地

方一雑には︑古代人が少からず住んでゐたやうに恩はれ

る︒祁多へ蹄つた時には唖に日咄葬れてゐた︒

研究發表兄月並︿日︶

姉二雄雌雄愈所にて︑瑞川辰雄氏の.﹁牽溌生群の風併

科性に就て.一の研究發表があった︒

三一五

1

1 1

(7)

1

卒業論文發表︵六Ⅲ柵二8

午後一時より節六演科謹にて州催︒特淑大芳︑余滴狂

徳の二氏それぞれ卒梁諭文の純Ⅱ及び内容の概略を發表

終って暹淵致挨の誰那及び今後の研究方針に脚する桁導

があり︑三唯に終了した︒

本田副手送別會Q︿Ⅱ朴七§

今川︑刷側縣立戸畑中挫︾枝に赴任することとなった水

川剛手の送別含を︑節二畢生集秤所にて側桃した︒竹岡

敦擬以下多数出席︒一同批食を共にして本多剛手の前途

を呪った︒

︑︑

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︲ 1 I l L l D I l b l b I I B r ト ー l 1 B r I L l

難報

一lIlrrトーlllllllll

研究發表︵九月汁8

午後一昨より節三波褐室にて﹁束洋の班想﹂に就て︑

杵淑大芳氏の僻究發表があった︒

京大閲史科學生来幅?Ⅲ土︿且

藤助教授引率の永大叫史科畢生一行十除潴は︑午前九

時柿崎蒲︑ただちに簡略梅に参拝︑変物伽を兄離したが

それより九大法文雛部にて荘食後︑隈史研究峯︑九州文

化研究所︑岡諜純を訪れた︒一行は虹に︑束光院穆東光

寺︑満湛稚︑及び西新川の元定防幽跡を兄払︶したが︑翌

十七日は對馬地方に向ふ筈である︒︵岡村︶

二一二↓︑|ニーユ〆

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