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明 治 初 年 の 土 地 所 有 権 の 法 的 性 格 に つ い て

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(1)

明治初年の土地所有権の法的性格について

(一一一)

宮 ) 1 1  

はしがき

li

問題の提起

11 1

一徳川期における土地に対する支配関係(以上第二一巻第一二号)

二明治維新における土地立法と土地所有権

一一

一一

八七

二年

(明

治五

年)

以降

の土

地立

法の

変遷

(以

上第

二一

巻第

四号

四泊券制度と土地所有権の関係

五明治初年の地券制度の意味︿以上本方)

1

1以下次号││

四 泊 券 制 度 と 土 地 所 有 権 の 関 係 前 項 (

一八七二年(明治五年﹀以降の土地立法の変遷)で︑一八七二年(明治五年﹀五月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄

(太

政官

布告

第五

O

場)にもとづく土地所有権の法的意味を明らかにしておいた︒そこでは一八七一年(明治四年)の作

付制限の廃止と一八七二年(明治五年﹀

の田畑永代売買の禁令の廃止が土地に対する私的所有の法認に対してどのよ

うに指向していたかを現実の農業生産の発展と結びつけて考察し︑つぎのように指摘しておいた︒すなわち︑

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

(2)

明治初年の土地所有権の法的性格について(云﹀

八 四

﹃一八七一年(明治四年)の作付制限の廃止と一八七二年(明治五年)の田畑︑永代売買の解禁との間には︑法令上の総統性を認めうる左いうよりも︑そこには法令の目的乃至企図との聞に断絶する法的'葱味の転換を認めうるのである﹄(立教経済学研究

第二一巻第四号一

O

六ページ)

と指摘している︒では︑こうした指摘の法理論的根拠をどこに求めえたのか︒それはつぎの点にあると考える︒ずな

わち一八六八年ハ明治一五年)一二月八日の太政官布告第一

C

九六号による土地に対する百姓持の確認から︑

一八七

一年(明治四年)九月四日の大蔵省達第四七号による田畑の作付制限の廃止までの︑

一連の土地立法にもとずく法的 措置のもつ法的意味に法理論的根拠を見出したのである︒それはこれらの土地立法のもつ法的性格が一

八 六 七 年

(慶

応一

二年

)

O

月二五日の﹃京都市中へノ制札﹄によって確認された旧来の封建的諸関係の維持・承継にたって二﹂

れまでの貢粗関係における貢租負担者︿名儀人﹀を確定するために︑土地の﹃百姓﹄持を宣言したに過ぎなかったか らである︒これまでの土地立法にこうした法的意味を与えることは︑

つぎの主張によって例示することができると思

ぅ︒たとえば岩倉具視は一八八二年(明治一五年)七月に﹃具視地所名称ノ更定等一一関スル怠見ヲ二一条実美ニ示ス事﹄

( 1)  

明治三九年九月)のなかで︑

(山

石倉

公実

記︿

下巻

﹀皇

后官

職御

蔵版

つぎのように述べている︒すなわち︑

﹃近来洋学新奇ノ説‑一舷惑シ横議ヲ這フスル者切一一此金瓶無紋ノ旧同体ヲ以テ野安視シ外国君臣争奪比隣博咲ノ間ニ成ル所ノ同

体ヲ以テ文明視シ其甚シキハ則チ天約民約等ノ妄説ヲ信シ国土ハ本来人間ノ共有ニシテ後世力優ル者功ヲ加フル者之ヲ占有スト

謂ヒ:::王朝ノ古国土ハ尽グ皇室ノ所有タルヘキコト見ル可キナリ夫レ当時宅地回国等売買ヲ禁セサリシハ壌土ヲ挙ケテ人民ノ

所有トスルヲ許スニ非スシテ其土地ヨリ収穫スル所ノ利益ヲ所有スル所ノ利益ヲ所有スルノ権ヲ与ヘタルノミナレパナリ而シテ其ノ土地ノ収穫ト謂ハスシテ直ニ宅地困園ト称スルモノハ土地ハ其収穫ヲ産出スル所ノ原良一一シテ土地ナケ

ν

バ数

一一

穫ナキヲ以テ其原質ヲ仮称セルナリ又周ク徳川氏カ寛永二十年二冗買ノ禁ヲ発セルハ豪族ノ兼併ヲ防カンカ為ナリ其幣ヤ密売横占ノ為訟淀ヲ煩フコト甚シク豊次

(3)

健訟ノ者遂一一之ヲ占有スルコト多シト一五フア以テナリ

明治五年ニ孟リ朝議売買ノ禁ヲ解グ其ノ趣意ハ蓋シ古令‑一斉シキノミ然ルニ官有民有ノ名称守用ウルヲ以テ区民そ亦自カヲ有

土ノ権アルカ如キノ恕ヲナセリ:・・.

・::民有地ノ名称ハ速ニ廃止シ復タ用ヰシムへカラス更メテ︑氷一業ノ名目ヲ冠ラシ耕地勺氷業団其他ハ永業地ト称スヘシ地券ヲ

所有スル者ハのホ由主畑︑で地主ノ名目ハ用ウルコトヲ得セシムへγ其地券ヲ売買譲渡シ其田畑ヲ使用七シムルコトハ一切蓋ノ如

クナラシム但英名称ヲ改メテ有土ノ権ナキヲ昭一不スノミ尤其地券ヲ所有久ルモノハ国和法ヲ遵守シテ地租ヲ貢紡スル間ハ自由ニ

其土地ヲ使用スルノ権ヲ有シ政府ト難故ナク之ヲ奪フコトヲ得サルカ故‑一其名称ヲ改ムルモ其実利ハ養日ト異ナルコト無シ﹄

(向

上八

四五

t

八五二ページ)

となしている︒乙こでは土地は本来皇室の所有に属するものであるから︑﹃民布地﹄の名称を

﹃永業回・永業地﹄に

改定すべきだと主張している︒

﹂うした主張それ自体は︑明治政府の一般的理解︑

つまり工人里制絶対主義の法制度的基幹となっていたとなしうる のである︒このことは︑伊藤博文による﹃憲法義解﹄(丸善株式会社

明治二二年四月)が︑

つぎの様に記述しているこ とでも理解できるだろう︒すなわち︑

﹃所有権ハ国家公権ノ下一一存立スル者ナリ故ニ所有権ハ濁権一一服属シ法律ノ制限ヲ受ケサルヘカラス:::維新ノ初一万年十二月大

令ヲ発シテ村々ノ地面ハ総テ目姓ノ持地タルヘキコトヲ定メタリ四年一一各落籍ヲ奉澄シテ私領ノ遺物始メテ跡ヲ絶チタリ五年二

月地所永代売穴ノ禁ヲ解キ又地券ヲ発行シ六年三月地所ノ名称ノ達ヲ発シ公有地私有地ノ称ヲ設ケ七年‑一私有地ヲ改メ民有地ト

シ八年一一地苧一所有ノ名称ヲ記載シタリ融持一誠一畑野砲り砧柑請け此皆欧洲一一在リテハ兵革ヲ用ヰテ領主ノ専権ヲ廃棄シ或

ハ巨大ノ金額ヲ用ヰテ以テ佃戸ノ為ノ権利ヲ償却シタル者一一シテ而シテ我カ困‑一於テハ各藩ノ推譲‑一依リ容易一一統治一一帰シ以テ

之ヲ小民ニ恵問スルコトヲ得タリ﹄(向上回九

t

五一

l

シ)

とされている︒これらの論者の主張自体は︑明治初年の土地立法によって法認された土地に対する私的所有権が︑

明治初年の土地所有権の法的性格についてつ一一)

/¥  五

(4)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一一

一)

八六

まだ近代法上の権利という意味で把握していないことを示している︒いうまでもなく近代法上の権利││従って土地

に対する私的所有権にあってもーーが成立する前提条件は権利主体の法附概念構成と契約関係の法的概念構成が︑具

体的な法的事実の上で定着させられている乙とである︒ところが︑土地に対する四民平等が法令上において宣品一目され

ても︑農業生産自体においては定着されえなかった︒そうした時点では︑権刺日義務関係を構成する土地に対する私

的所有権が︑近代法上の権利として︑いまだ登場しえないことは当然であった︒

だか

ら︑

一八七二年(明治五年﹀二月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)

は︑

内実における近代法上の

権利である︑土地に対する私的所有権を付与する︑法人V上の根拠となるJものではなかった︒との地所売買の禁止を︑

法制上で解除したことは︑現実の土地取引す‑承認したにすぎなかったが︑しかし︑少くとも土地に対する関係におい

て︑土地所有者の四民平等を法認したことを意味している︒なぜなれば︑土地を取引の対象として法認したことは︑

土地が取引・契約関係におかれたことを意味しているためである︒ここでは︑土地に対する私的所有権が︑契約の自

出によって表現される契約関係を媒介として︑主体に帰居することを意味している︒従って︑この場合︑主体は現実

の経済的条件を捨象された︑抽象化された主体H四民平等として︑法人すとで登場させられることになる︒土地取引の

こうした法的構成は︑主体相互間の権利H義務関係を表現するこつの側面をしめすものとして︑把握する可能性を導

くことになる︒ここから︑近代法上の権利として︑土地に対する私的所有権を把握する法的理解が導かれることにな

る︒明治初年の性法(自然法)思想を根幹とする法思想の紹介によって︑土地に対する私的所有権も他の所有権一般

と同

様に

一つの権利として把握されることになった根拠は︑ここにあった︒

明治初年においては︑現実の生活関係を過して法的怠識を具体的に形成させ︑定着させることはできなかった︒

(5)

かし︑農業における商品日貨幣経済の浸透は︑土地取引の自由を要求し︑従って︑契約の自由を土地関係に拡大さぜ

ることになる︒そして前記のように抽象的な法的関係を土地関係に適用する︑一般的条件を導くことになる︒経済的

要求にもとずいて︑士地集中は事実上行なわれていたが︑これを︑法制度の土でも保障することが必要となる︒ここ

では︑これまで紹介きれていた性注(自然法﹀にもとやついて︑土地関係を把握しようとする意味で︑一八七二年(明

治五年)二月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)が重要な法的意味を︑もつものと指摘できるのである︒こ

うした事由にもと守ついて︑明治維新以後︑たんに旧幕時代の士地に対する旧慣を維持したにすぎなかった土地立法と︑

一八七二年(明治五年)二月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)との間に断層の存在していることを指摘

(2

したわけである︒いま︑明治維新以後︑一八七二年(明治五年)二月の円地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)

までの︑土地立法の変遷を表示してみると︑八八ページの表のようになる︒

さて

.八七二年(明治五年)二月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)をとのように把えるならば︑ずく

なくとも法的意味においては︑土地に対する利用・収益・処分?という地位が︑現実の畏業生産のもつ具体的な社会・

経済的条件と結びついて機能することが明らかとなる︒このことを︑農業生産における実際でみれば︑高利貸地主が土

地を集中し︑土地を失った農民が半封建的小作人に転落し︑そこに半封建的小作人制度が支配的に再組織されたという

事実を導くことになる︒これが︑土地に対する絶対的・排他酌な私的所有権の︑法制度酌確認のもつ現実的意味であ

る︒従って︑土地に対する私的所有権は︑農民に対する搾取を︑法的に保障する手段となる︒このことによって農民

は︑地主H小作関係からの経済的強制と︑法制的な私的所有権にもとづく法的強制の一一重の強制を身にうけることに

なった︒従って︑農民の土地関係における法的地位は︑それだけ弱体化した︒こうした法的意味をもっ︑土地に対す

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一一

八七

(6)

明治初年の土地立法の変遷〔そのー)

1867年(慶応 3 年)~1872年(明治 5 年)~地所売買の解禁』まで

年 次 上 E ‑ 2 J 1

1

1867年(慶応3年)

1025 I 京都市中へノjj;~fL 徳川祖先ノ制度美事良法ノゾ毛俵被差 i

置・…・・ 1 

1868年(明治元年)

I  I 

4. 太政官布告 │外国人(地所家{乍貸渡禁止

8.  7  .太政官布告 │諸国税法之儀……妨ク旧慣ニのリ…

12.18 太政官布告第1096号│村々ノ地面ハ素ヨリ百姓持之地タノレ

1  1へキ…・・

1869{F(明治2年)

1東京府町般 東京府干国Jj也譲渡泊券状書継割印願; っ

書案

5.17 東京府町触 東京市中泊券状改正 │ 

6.  4  民部省布告 山林田畑……区々ノ裁判jモ有之…・.

6. 府県ノ専売禁止

7.27 太政官布告 !府県奉職規則(第4項附)

9. 

i

諸藩津畠ノ制ヲ禁止

10. 

I

百姓田J人ノ西洋形船舶ノ所持許可

11.  I大政官布告 1東京府下ノ武家l也ハ自今烹京府ノ管

!搭トスノL

1870年(明治3年)I 

7. 太政官布告 │検見規則

8.24 太政官布告 │数年間検見ノ上其ノ租率ヲ定ムノレコト

187]年(明治4年〕

1. 太政官布告 │貸金銀利息撤廃

8. 一村限リ土地永代売買ノ許可

8.15 太政官達 │東京府中官省用地ヲ土地トセス相対

ヲ以テ掛合フへキコト

9.  4 火蔵省達第,17号 !田畑勝手作リ

10. 太政官布告 I日来ノ由緒ヲ以テ郷土・百姓・町人 1

等所有地地子免除ノ分一切廃止シ白 今相当ニ賦課スヘシ……

11 . 大 政 宮 布 告 !東京府下武家地町地ノ称ヲ廃シ地券

l

発行シ地租ヲ│二納…..

1872年(明治5年)I 

1. 

I

大蔵省達 │地券発行地租収納規則

」 竺 J 樫 竺 ザ

50号 │地所永代売買ノ解禁

入 入

(7)

る私的所有権は︑その存在の具体的表現としての地券と結びつくことになる︒それは︑土地に対する私的所有権が︑

観念的表徴としての姿態をとって表現されるため︑現実的把握を困難とするからである︒土地に対する私的所有権を

持つ者は︑私的所有権に内包される法的権能を現実的に行使して︑はじめて︑法認識できることになる︒明治初年にお

いて︑権利日義務関係の法的思考が︑一般的に定着していなかった当時においては︑地券が権利を表徴するための道

ll

公の証明書ーーーとして登場することによって︑土地に対する私的所有権の存在が︑外形的に明確化されること

になる︒それと同時に︑租税収入を確保するための土地調査を必要としていた明治政府の要求を︑具体的に実現しう

る道具として︑地券発行を利用することができた︒また︑農業生産の実際にあたっては︑土地取引を界易にする手段

として︑地券が役立つことになる︒地券発行は︑こうした多様な役割を果しえたのである︒だが︑地券自体は︑土地

所有と土地取引の自由が前提とされた場合に︑はじめて発行される︒なぜなれば︑自由な土地取引がなされていなけ

れば︑土地所有権の確認は︑土地取引の事実上の公認の結果にしか過ぎないからである︒こうした区別をなしていな

ければ︑徳川封建社会にすでに存在し︑また︑明治維新以後においても旧慣として承認された泊券状と地券との聞に

は︑ただ︑土地に対する私的所有を公認する︑権力的主体が変ったに過ぎないというだけの差異を除いては︑同質的

なものとして理解されることになる︒両者の差異を︑どこに求めえるのか︒泊券状にあっては︑土地取引そのものの

確認││これは貢租負担者を確定しておくために必要であったーーによって︑土地に対する所有関係が︑明確にさ

れるという法的構成をとっている︒ところが︑地券にあっては︑まず土地取引の自由が法制的に確認され︑

しか

も︑

土地取引そのものは︑当事者聞における私法的関係として実現される︒そして︑地券は土地移転の事実を︑対外的に

確認する機能を認められている︒従って︑明治初年の土地立法を法制的にみる限り︑一八七二年

(明

治五

年)

一一

月の

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て会

一)

入 九

(8)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て公

一一

)

﹃地

所︑

水代

売買

ノ解

禁﹄

(太

政官

布告

第五

O

号)!←一八七二年(明治五年)二月の﹃地券渡方規則﹄(大蔵省達第二五号)

とは︑土地に対する私的所有権の法認の意味を︑これまでの浩券状から地券へと転換させる︑法制的な発展として理

解できるのである︒かかる理解は︑土地に対する私的所有権も︑従ってまた︑地券制度そのものも︑これまで発展し

てきた農業生産における現実の関係を確認したにすぎないのであって︑この土地立法によって︑こうした所有闘係が

創設されたことを意味しない︒ここ市﹂は︑こうした農業停庄の発展にたって︑泊券状1←地券という︑法形式上の転

化を導いただけに過ぎなかった︒このように︑泊券状1│←地券への法形式上の転化は︑士地に対する支配的事実の確

認という︑共通の基盤に支えられていると同時に︑地券に表現された︑土地に対する私的所有権の確認は︑権利

nu

務関係という法的概念を導入する契機をなしたという点で区別されることになる︒農業生産の現実にあっては︑かか

る権利日義務関係を定着さぜうる︑一般的条件はもっていなかったが︑すくなくとも︑地券に対する法的意味が︑土

地移転の事実の対外的確認と︑その結果としての︑土地所有の事実の確認であることは︑単なる土地所有の事実の確

認に過ぎなかった︑泊券状に表現された土地に対する所有権とでは︑その法的性格を異にしていると考えられる︒で

は︑地券に表現されている︑土地に対する私的所有権は︑どういう法的性格をもっ︑ものであ

7

たのか︒これがまさ

に︑問題となる︒

A八七二年(明治五年︺二月の寸池所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号﹀が︑なされるこ左になった事由を要約

する

と︑

つぎの点にあったといえる︒徳川封建社会における農業生産の増大にともなって︑上層農の富農化現象が生

じたこと︒そして︑この地主化が︑農業生産に一般化されることになったこと︒ここから多くの有徳田畑(薄租の良

地)が土地取引の対象となり︑土地集中を一一層増大させたことなど︑農業生産における商品H貨幣経済の浸透にもと

(9)

づく︑土地関係の変化が実際に生じたこと︒そして︑これが明治政府の地租改

E

に上る租税収入の増大と確保の財政

的要求と結合したことがあげられる︒これら一切の事実が法制的・財政的要求と結合したことがあげられる︒これら

一切の事実の法制的確認'として︑この布告がなされたに過ぎなかったと指摘できる︒だから︑こうした土地取引の法制

度的確認は︑当然のことながら︑土地集中を増大させ︑下層農の賃労働化・兼業化を導き︑小作農・貧農に転落させ︑

そこに︑地主H小作関係の農業経営

' V二般化する基礎を形成しうる︑法的根拠を提供した︒この場合︑地主日小作関

係は︑地券に表現されている土地に対する私的所有権を法的根拠とし︑小作人の地主に対する経済的隷属を︑農村に

おける半封建的関係として定着きせることになる︒こうして︑地五日小作関係ば︑士地関係における権利日義務関係

を成熟させるための道を切り開くことになる︒もちろん︑当時にあっては︑権利H義務関係を定着させる社会・経済

的条件を︑持つてはいなかった︒だが︑地主にとっては︑こうした外形的な法制度の導入をはかり︑政治的権力と結び

ついて︑国家的な強制││!法的強制│leを背景として︑地主日小作関係を半封建的関係として維持するととに︑利益を

感じたのである︒そして︑これが︑明治政府にと勺ても︑地主を自己に引きつけることができ︑また︑指向された天

皇制絶対主義の政治的支配を︑畏村において強化する︑政治的企図ル﹂も合致した︒一八七二年(明治五年)二月の﹃地

所永

代売

買ノ

解禁

﹄(

十九

政官

布告

第一

1 0

口ワ)は︑こうした法的機能を果すものとして評価されうる︒と同時に︑土地取引

の対象である土地そのものも︑全剰余生産物を地主徳米として収益しうる財産一般としての意味をもつことにたる︒

こミでほ︑土地のもつ財産的価値日土地の価格は︑実際の収益を利砲によって還元して形成するという方法をとって

4

)

確定される︒こうして︑土地そのものが︑財産一般として認識されることは︑所有権一般の対象物に転化され︑所有

権一般の法的概念が︑この土地に対する私的所有権にもあてはめられることを可能にする︒こうして︑

一 八 七 二 年

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

三)

L

(10)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

(明治五年)二月の﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)を媒介として︑一八七二年(明治五年﹀一一月の﹃地所

売買譲渡一一付地券波方規則﹄(大蔵省達第二菩一勺)によって︑これまでの枯券状│す地券への転換がたされた乙王︑

して︑これは単に表示形式の差異だけではなく︑その内容︑つまり法的意味をもつことを指摘した︒そこで︑これま

での泊券状は︑どういう意味をもっていたかを理解しておきたい︒

徳川ゑ府も︑農民聞に実際に行なわれていた︑土地'や二種の商品として流通きせる慣行を︑黙認ぜざるをえなかっ

たことは︑すでに述べた︒その乙とは︑土地に対ずる私的所有の進展を黙認することを意味するわけである︒徳川封

建社会のもとでは︑検地帳に登録されていた本田畑の︑氷代売買禁止にもかかわらず︑実際には︑圧屋・年寄・五人組

等の加判によって︑事実上の土地取引の慣行が公認されていたのである︒これは︑土地取引を公認することによっ

て︑貢租負担半世を明確にし︑午瓦の徴収を確保できるためであった︒この場合︑﹁泊券﹄

を発

行し

て︑

~.1{

上の

土地

取引を証する素材として利用したのである︒井上和夫氏は︑﹃藩法幕府法と維新法﹄(厳南営者出

一九

年七月)四

O

なか

で︑

つぎのような事例を示されている︒すなわち︑

﹃永代売渡申田地之事

一︑高九一心余也田畑障問屋敷士口新田方共

右者私儀去戊ノ御年貢不納候‑一日付所持ノ困地内四半人半前田畑居屋敷古新田共代金四十三両二朱一一而永代売渡申処実正ニ御座

侯尤於此回地白御公儀様拝借者不及中外借書入何一一而モ無御座侯重而御蔵江御願中上御一一裏書証文請取相渡可申候右岡地一一付何様

/異変御応候共請人罷出陥度博明貴殿江少モ御苦労相掛申同敷候為後日之正文如件

田地売主横

七右衛門

興惣兵衛 印

r p  

(11)

同 庄 同 同 組

E貝

九郎左衛門

四郎左衛門

儀 右 衛 門 平 兵 衛 孫 兵 衛

当村︿四郎丸村)

富七

L~~

﹄( 向上 ド冷 ]

こうして︑浩券状は土地取引の事実を証明する‑証書であったが︑たんに︑当事者聞になされた土地取引を証明する︑私 二六八ページ)

印 印 印 Ep印

的証拠としての意味をもつものではない︒こミでは︑あくまでも︑土地取引に対する領主的公認と︑その結果として

ていたとされるのは︑ の土地の所持人の領主による権威的確定であった︒従って︑土地に対する所持を公証する機能を︑この泊券状が果し

いづれも︑領主的権力を媒介としてなされた︑土地取引の公認と公証との反射的結果であり︑

拍車牙状自体が︑そうした法的権威をもつものではなかった︒土地取引の際に︑泊券状の引き渡しを必要としたのも︑

こうした意味においてである︒この志味での泊券は︑相当広汎にわたって全国各地で行なわれていた︒それは︑

日 本

たことを示す事例の多くが︑報告されているミとでも明らかとなる︒﹃全国民事慣例類集﹄(司法省蔵版 民法典編纂の過程でなされた︑全国の民主慣例に対する実体調査によっても︑活券が︑士地取引の際に受渡されてい

一八

七七

年五

一八

O

年七月)第二編﹃財産﹄のなかの﹃財産所有ノ事﹄(第一章)には︑泊券状による土地取引の慣行を

月・

改版

しめす多くの事例が述べられている︒いま︑これを要約してみると︑

ほぽ

つぎのようなもの︑があったことを知りう

る︒いま︑その事例を摘出してみると︑つぎのようになる︒すなわち︑

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一一

一)

(12)

明治初年の土地所有権の法的性格について︿三)

九四

(9)  (5)  (1)  手帳(下総国結城郡)凶下ケ札・配符(山石代同信夫郡)ゆ泊券(北海道渡島亀田郡)凶手札(越前国足羽郡﹀

泊券状(越後国蒲原郡)附売券状(出雲国島根郡)伺泊券状(播摩国飾東郡)附坪付(安芸国沼田郡・安芸郡) 券状・下札(周防国吉敷郡)倒下ケ札(周防国都濃郡)凶小下ケ札(伊予国宇和郡)

などが記載されている︒そして︑これらの泊券状が︑具体的にどのような意味と機能を果していたかは︑つぎの報告

をみれば︑その大要を推知できると思う︒すなわち︑

東海道HQ町方ニテハ地所家屋トモ所有権ヲ移スニハ必ス町頭ノ奥印アリテ官へ届出ル例ナリ︒村方‑一テハ地所売渡ノ名儀ナグ質地ヲ

以テ名寄帳ヲ書改ルノミ官へ届出ル事ナシ︒其質地証文ニハ必ス近年不幸続キニテ貢租上納覚東ナキ旨喜入レ親類ノ連印アルヲ

要ス︒右ノ文言ナケレハ名主一一於テ許可セサル事ナリ︒但宅地ノミハ何等ノ事アルトモ所有権ヲ移ス事能ハサル者トス

O

不動産ハ役場ノ名寄帳ヲ以テ所有権ヲ定メ高付帳ヲ以テ官へ局出ル例ナリ︒耕地ハ永代売買ヲ許サス敷地ト号シ金ヲ得テ十

箇年間譲渡スル事ナリ︒責粗村費トモ金ヲ山セシ者一一テ担当ス︒主ハ別ヲ過テ請戻ササレバ流地トナリ所有権ヲ移ス事ナリ︒敷地

武書一一ハ親類総合/連印一一テ村役人ノ奥印ヲ要ス

Oi

‑‑

‑(

風 早 八 十 二 解 題 全 国 民 事 慣 例 集 日 本 評 論 社 一 九 四 三 年 八 月 一

八二ページ)

南海道H

O

村方ニテ田畑所有ノ権ハ庄岸手一万二名寄帳アリ高反別持︑王ノ名前ブ詳記ス町方‑一テ家屋敷所有ノ権ハ明糾技付阪アリテ間口

奥行持主ノ名前ヲ詳記ス所有権移ル紅一一其名前ニ張紙シテ大午寄ノ検印ヲ受ク︒

︒村方エテ庄屋手元ニ犬下ケ札ト号スル!川収アリ田畑ノ高反別持主ノ名ヲ記シ小下ケ札ト号スル紙一一之ヲ写シ持キ一之ヲ所持シ所

有権ヲ定ム︒皆郡奉行代官ノ印形アル者トス︒町方ニテ町頭手元一一寸検帳アリ家屋敷地ノ間口奥行持主ノ名ヲ記シ所有権ヲ定ム

譲渡シノ時ハ双方組合連印ノ願書ヲ出シ町奉行ヨリ許可書面ヲ渡ス(同上一九0ページ)

西海道H

O

山林田畑ハ村役場一一名寄帳アリ高反別字並一一持主ノ名ヲ記シ持主ハ譲渡一証文ヲ所持シ所有権ヲ定ム︒町方家屋敷ハ其町毎ニ

譲渡帳アザ譲渡ノ書面ヲ書続キ大年寄連印シ町奉行裏印シ所有権ヲ定ム︿向上一九一ページ)

(13)

とされている︒また︑地租改正のための︑租税寮改正局日報をみても︑同様の事例がみられる︒たとえば︑

一八

七二

年(明治五年)一

O

月一二日の青森県伺︿租税祭日報明治五年

第 一 二

O

)に

ほ︑

つおどのような記載がなされている︒

すな

わち

吋地券渡ぃ力之儀今持主ヨリ安価為申出従前之泊券有之分ハ突合セ検査上地券相時間:::﹄(明治初年拍秘改王基礎資料 ︑

七三

一ペ

ージ

上巻

とされている︒また︑同じく︑一八七三一年(明治六年)二月一五日の佐賀県伺(租税寮日報明治六年

第七

号)

には

つぎのような一記述が記載されている︒すなわち︑

﹃貫属医敷売質的守之節地所違乱無之為メ旧藩之問屋敷地四境之屈曲間敷道国堀川等之分課迄泊券状左一一略記之通相渡置候向モ

有之侯処今般御発行之縦形一一者何分右等之筋者難致記載去仲人々一業而心得居候:::﹄(明治初年地租改正基礎資料上巻一主

O

ベI

シ)

とあり︑これらの﹃何﹄に上っても︑各地で相当完備した枯券状が存在していたことが︑推知できるだろう︒

このように泊券状は︑その名称もまちまちであり︑また︑法的性格も一様であるとはいえなかった︒しかし︑民間

において︑たんに土地取引上の慣行として︑事実上なされていた土地取引に対して︑領主的公認をあたえ︑公認する

ことをしめす証書としての意味をもっ点では︑共通した法的意味をもっていた︒つまり︑封建領主の側からも年一員を

確保するために権威が付与され︑土地取引の便宜上の手段と

L

て利用されたのである︒この︑封建領主の側からする

権威の付与は︑都奉行代官ノ印形を押捺・奥書することによって︑たされていたc従って︑こζでは︑枯券状は士地

取引の単なる私的証拠としてではなく︑あくまでも︑土地取引の領主的公認と公証としての意味をもつものであっ

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

L‑

J

4

(14)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

九六

たοそこから︑直接の反射的効果としての土地所有の事実を公証

1l

l租税負担者の確定のためのーする︑公的証拠

として利用されたわけである︒だが︑ここではまだ︑充全的に土地所有の事実を証する︑公的証拠としての法的意味

の付

与は

なされていなかったといいうる︒この泊券状のもつ法的意味は︑明治維新以後の土地立法によって承継さ

れた︒これは︑明治維新以後の土地立法が︑旧慣を踏襲したという法的根拠から︑法論珂的必然性をもって導かれ

る︒そして︑こうした見解は︑裁判所によっても一般的に確認されていた︒これは︑つぎの裁判所の伺によっても︑

明らかであろう︒たとえば︑

一八

七四

年(

明治

七年

)一

一一

月二

二日

の京

都地

方裁

判所

から

なさ

れた

︑ 司 法 省 へ の 伺 に 1i 

つぎのような記述がみえている︒すなわち︑

﹃西京市中ノ如キ元来地租免除一一シテ泊券状ト名付ケ地方官ニテ保護ノ調印ヲナシ下渡有之︑地所売買ノ節ハ時改メ其都度官

ノ押印ヲ請ヶ︑之ヲ仲間券一一継付シ余穀ヲ借用スル‑一為拡当斯ノ浩券状ヲ債主‑一渡シ:::﹄(史守一制法例表纂一一一一

O

八 ペ ー

ジ)

とされている︒また︑﹃大審院民事判決録﹄(一八七九年五月)には︑山形県最上部で﹃士書﹄というものが︑名主の作

成・署名によって︑土地所有者に渡されていた慣行が存在していたことを指摘して︑つぎのように記述されている︒

すな

わち

﹃世間ノ泊券状ト同ノモノテ:::宝謄十三年旧領︑工枚地縄受領内一般改正ジタル節ノ土書一一テ従来地所売買制禁エ付地所譲A

渡ノ節ハ土書一一譲渡一証書相添へ村吏ノ奥印ヲ受ケ領主代官開届ノ書面ヲ添テ地所引渡ヲナシ土書所持セルモノヲ以テ地所所有主

タルヲ証スル一般ノ慣習ナリ﹄(同上二ページ以下)

となしている︒また︑秋田県秋田郡にても︑同様の事例であったことを指摘し︑つぎのように記述されている︒すな

わち

(15)

﹃其所有ヲ証セシメ土書ト称へ検地帳一一登記セル反畝歩取米等ヲ其億写取其他ノ圧屋肝煎之ニ調印シテ渡シ置グ風習:::﹄(向上一八七九年一一月一一一日三九

0

ページ) とされている︒これらの事例によって︑いうまでもなく︑泊券状が土地所有をしめす公的証拠とされ︑従って︑土地

の移転や担保の場合に︑重要な機能を現実に果していたことを知ることができる︒こうして︑徳川封建社会の浩券状

︿5

) 制度は︑明治維新以後においても廃止されることなく存続させられた︒しかし︑泊券状に対する領主的権力による公

刃白争iR

I一八六九年(明治二年)の版籍奉還によって︑明治政府にとって代えられることになった︒これは︑一八七四年

(明治七年)三月二日における︑京都府から内務郷宛の伺によって︑明らかである︒すなわち︑

﹃従

前泊

券帳

ト唱

軒別

一一

地函

井建

家土

蔵等

書載

セ候

書面

於当

府庁

相改

割印

相調

己後

売買

譲与

之節

ハ同

様割

印之

上都

テ持

主一

一下

渡候付右ヲ的証トシテ都合‑一寄建家売買或ハ証券状ヲ質物一二走入レ専ラ融通イタシ居候﹄(内閣文庫所蔵京都府史料第三

四冊)

とされている︒そして︑一八七二年(明治五年)二月二四日の︑﹃地所売買譲渡ニ付地券渡方規則﹄(大蔵省達第二五

円さによって︑地券(壬申地券)が授与されることによって︑これまでの泊券状は︑廃止されることになった︒これ

t土

一八七三年(明治六年)一二月の京都府達第一七八号によっても知ることができる︒同達は︑

つぎのようになって

いる︒すなわち︑

﹃従

前治

券状

室田

替之

節冥

加金

上納

致来

候処

今般

地券

発行

‑一

付テ

ハ自

J W

止候

事 但旧来之泊券状ハ此度銘々地所代価申出候節一同取東ネ其町長へ可差出事﹄(内閣文庫所蔵京都府史料第三回問)

とさている︒同様の事例は︑東京府の一八六九年(明治二年)四月の町触にもとづく泊券状継書にも︑

し め さ れ て い

る︒それには︑つぎのようになっている︒すなわち︑

明治初年の土地所有権の法的性格について(三)

九七

(16)

明治初年の土地所有権の法的性格について(三)

九八

﹃二

年四

東京府下町地譲与泊券状書継割印願書案

東京町触

組々世話掛

中年寄共

町敷譲渡ノ泊券状へ割印致シ可遺旨布告致シ候一一付一アハ以来治券状継書へ印形致シ候節別紙雛形ノ通願書相認印形取揃地所譲受

侯モノヨリ割印之儀願出候様可致侯尤地所譲渡ノモノ並右へ加印致シ候五人組中年寄トモ差漆能出候一一不及候

︹雛 形略

︺﹄

とされている︒また︑一八六九年(明治二年)五月一七日の︑東京府中町名改正に際してなされた︑東京府町触によ

)

つぎのようになっている︒

﹃二

年五

月一

七日

東京市中泊券状改正

東京府町触

町屋敷譲渡又ハ売買之節継書割印其外ノ儀一一付先達而相触候処︑右割印之儀ハ爾来之分而己之処︑今般町銘相改候上ハ在来泊券

面之町銘井地面ケ所付等モ相廻致シ彼是紛敷候問︑府内町屋敷是迄之泊券状不残相廃止別紙雛形之通下地面限泊券状相認写共二

タ通リ来ル六月中‑一差出可申︑右へ見留印之上本紙ハ下一炭可遣︑且継書之度毎モ右同様相心得額出可申︒就而者市中町屋敷之内

東京府下之印無之分泊券状一一ハ不相立候︒其余ハ都而相触候相心得可申侯事︒今般市中泊券状改正一一付而者︑是迄六尺五寸間六

尺間両様一一相成居︑京間田舎間之断書不致侯而者分リ兼︑不都合之儀モ有之侯問︑以来六尺間ニ相改可申候︒右之趣町中無洩可

触知者也︹

雛形 略︺

とされている︒これらの事例は︑いずれも︑徳川封建社会において︑事実上の土地取引に実際に利用されてきた泊券

(17)

状が

︑ 旧慣そのものを承継した︑明治維新以後の土地立法においても︑公認されていたことを示している︒だから︑

一八七

O

年(明治三年)六月に神田孝平が建議した︑﹃回租改革建議﹄のなかで︑﹃先ツ田昌売買ヲ許シ毎回ニ其ノ泊 券ヲ作ラシム可:::﹄となし︑また︑地券発行に関する︑大蔵卿犬久保利道・大蔵大輔井上馨連名の︑﹃地所売買放

禁分一税施設之儀正院伺﹄(大蔵省何)のなかでも︑﹃地所永代売買ヲ許シ各所持ノ泊券ヲ改メ:::﹄

となしている︒

そして︑

一八七二年(明治五年)七月に大蔵省が地租を全国的に改正すべき回目を各地方守口に達し︑地方官の意見を徴

つぎのようになされている︒すなわち︑

しているが︑これには︑

租税改正ノ大旨各地方官へ達

租税者経国之要務政府之大任問ヨリ不待論之処去ル戊辰御一新継テ辛来年廃藩置県之後モ租税法者先ツ旧慣一一従ヒ俣振ムロ候処追

々一時勢文明ニ赴キ侯‑一就而者全国之租税法一途一一出テ偏重偏軽之婁ヲ相改中正公平ノ法ヲ被設候御趣旨ヲ以去年以来追々伺済旧

来之租税法ハ漸々相改メ遂ニ全国一般治券租法施行可相成績一一付猶御規則等者不日御通達可申候待モ爾後之心得振モ可有之候間

比段各位山地申達置候猶御見込ぞ有之候者油者共迄御申持団有之度比段申進候弘

租 税 頭 租 税 権 頭

陸奥宗光松方正義

となしている︒これらの事例は︑

︿8

) いずれも︑﹃泊券﹄という用語を慣用語として︑使用していたことをしめしている︒

︿1

)

この点について︑?右山儀一全集上巻﹄(東洋経済新報往一九四

O

年九月)の﹃正名文明主権之議或ハ宕倉右府建議草

案﹄の解題によると︑つぎのように記してある︒すなわち︑円山石倉公実記﹄の編者によれば︑この全文は︑全く公の意見書と

して掲げられているのであるが︑その真の立案・起草者は︑突は公ではなく︑わが若山儀一氏こそ︑その人であったのであ

る︒即ち︑右の︑﹃﹁岩倉右府建議草案﹂の表紙には﹁儀一起草﹂と特記してあり︑﹁正名分明主権之議﹂(これは︑岩倉右府建

議草案を︑更に清書して︑題目を付したものである︒)の方には︑﹁此楕僅‑二本ヲ存スルノミ佼之御一閲ノ後御還ヲ乞ヒ奉ル﹂

明治初年の土地所有権の法的性格について(三)九九

(18)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

ゴ一

)

。 。

と表

記せ

られ

てい

るの

によ

って

︑這

般の

消怠

は頗

る明

瞭で

ある

﹄(

向上

一一

一ペ

ージ

)と

され

てい

る︒

(2

﹀前項(二一一八七二年(明治五年)以降の土地立法の変遷)で︑この点を明らかにしている

o

(立教絞済学研究

巻第

四号

O

六ページ以下参照)

(3

﹀平野義太郎H本資本主義の機構と法律明善書房一九四七年四月二

O

t

O

五ペ

ージ

(4)田中久隅民間山首要︑福島正夫地租改正の研究有斐閣一九六四年九月一一五ページ

(5

)

福島正夫地租改正の研究有斐閣一九六四年九月六九ページ (6 ) 明治財政史編纂会明治財政史第五巻丸善株式会社一九

O

四年

一一

(7

)

明治財政史編纂会明治財政史第丘巻丸善株式会社一九

O

年一

一月

(8

﹀福島正夫地和改正の研究有斐閣一九六四年九月六六ページ

一一

一一

七ペ

ージ

一 ム ハ ベ

Iジ

五 明 治 初 年

の地

券 制 度 の 意 味

明治維新以後︑土地関係にあっても︑旧慣が承継された︒そして農業における︑商品U貨幣経済の進展によって生

じた︑事実上の土地に対する私的所有が︑法的権利として法制度上で確立されることになった︒それは︑

一八

七一

一年

(明

治五

年)

二月

の︑

﹃地

所永

代売

買ノ

解禁

﹄(

太政

官布

告第

O

号)とそれにもとずく︑一八七二年(明治五年)二月二四日の︑

﹃地所売買譲渡一一付地券渡方規則﹄(大蔵省達第二五号﹀による︑地券(壬申地券)の交付によってである︒すくなくとも︑

地券交付によって外形的・法形式的に︑土地に対する私的所有権は︑完成させられたとなしうるだろう︒では︑この

地券制度のもとで︑地券はどのような法的意味を与えられたのだろうか︒地券に表現された︑土地に対する私的所有

の法的意味を解明するには︑まず︑つぎのことが検討されなければならない︒いうまでもなく︑ここで地券制度のもつ

法的意味を特に問題とするのは︑っ︑ぎの理由にもと守ついている︒すなわち︑筆者はこれまで︑旧民法や明治民法の法

(19)

的性格の解明のため︑若干の基礎的作業をなしてきた︒これらの作業にもとづく諸論文は︑﹃旧民法と明治民法﹄(青

木蓄広

一九

六六

年十

月)

としてまとめられている︒そして︑さらにaそうした解明を深めてゆくために︑﹃近代的所有

権の形成と構成﹄(立教経済学研究

第一

九巻

第四

1

第二

O

第四

︿一

九六

六年

O

1

一九

六七

年一

月﹀

)に

よっ

て︑

治初年の所有権を課題となしたわけである︒そこでは︑旧民法や明治民法の所有権規定の法的意味の確定という視点

に立って︑分析と究明がところみられている︒ところが︑明治初年の所有権規定を問題vとする場合には︑当然のこと

ながら︑歴史的に先行するはずの︑土地に対する所有権が︑いかなる意味において人々に定着されるかを問題とせざ

るをえない︒このため︑明治初年の土地所有権を解明せぎるをえなくする︒こうした視点に立っかぎり︑地券制度が

課題となるのは当然であろう︒だが︑このことは︑地券制度自体の︑たんなる法史的究明をなすということではない︒

さて

前記

の︑

﹃近

代抽

出所

有権

の形

成と

構成

﹄(

立教

経済

学研

第一

九巻

第三

号︑

︿第

O

巻第四号)のなかでは︑

旧 民

法によって規定されていた︑土地所有権の法的性格を︑つぎのように指摘しておいた︒すなわち︑

﹃旧

民法

の土

地所

有権

にあ

一つ

ては

︑用

益権

との

聞に

明治

民法

の土

地所

有権

と異

って

︑従

属関

係を

かな

らず

しも

認め

てい

なか

た︒そこでは現実の土地耕作者としての農民の用益権を︑所有権と放列尉係において把えようとL

てい

る︒

﹄(

向上

第二

O

第 四 号 二

O

一一

ペー

ジ)

と指摘した︒ここでは旧民法と明治民法の所有権規定が︑同一の条文的表現形式をとっていても︑その法的性格は異

った意味をもっているこ?と︒そして︑かかる差異は旧民法と明治民法との制定における︑具体的な社会・経済的条件

の差異にもとづくことを明らかにした︒だが︑それにもかかわらず︑土地に対する所有権規定にあっては︑所有権規

定の法的性格の差異にかかわらず︑たんに土地に対する私的所有権を意味していたという点で︑共通した法的性格を

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

三﹀

(20)

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

もつに過ぎなかったことを指摘しておいた︒ここでは︑旧民法にあっても︑また︑明治民法にあっても︑土地関係に

対して︑明治政府の維持し擁護しようとした寄生地主制と︑農業の犠牲にもとづいて︑日本資本主義を発展させてゆ

くための法的規制として︑土地所有権が規定されたからである︒しかも︑そうした土地に対ずる所有権の法認は︑明

治政府によって承継され︑承認された枯券状を二八七二年(明治五年)二月の︑

﹃地

所永

代売

買ノ

解禁

(太

政官

布告

O

号)にもとづく︑地券制度による地券にとって代えることによって︑法認されたのである︒そして︑これまでの

泊券状のもつ︑事実上の土地取引の公認と公証という性格から︑土地に対する私的所有権の公証という性格に転化し

たのである︒明治初年の地券に段︑こうした土地に対する私的所有権の公証という法的性格を認めることができるc

これは明治維新以後の土地関係の実際を反映したものとして︑表現されていると考えられる︒

こう

して

一八七二年(明治五年)の︑﹃地所永代売買ノ解禁﹄(太政官布告第五

O

号)によって法認された︑土地所有

権の法的性格は︑当然に地券そのものの法的意味を決定する︒そのため︑法認された土地所有権が︑どのような社

会・経済的条件によって導き出されたかを︑解明する必要があった︒これは︑すでに検討したところである︒と同時

に︑地券に表現された土地所有権が︑こうした土地所有権と照応関係にあったかどうかの検討も必要とすることにな

る︒これは︑法制度が現実の社会・経済的条件を土台として規定されること︑しかも︑国家の意思を通過することに

よって屈折したものとなって表現されるためである︒従って︑現実の社会・経済的条件によって形成される土地関係

に対して︑明治政府がどのようにそれを指向するかという︑国家的政策を含んだものとしてあらわれざるをえない︒

このことは︑土地立法のなかで地券制度自体がどのような意味をもっているかという点についての解明を必要とする

こと

にな

る︒

一八七二年(明治五年)以後の土地立法の変遣を嗣示すると︑

つぎ

のよ

うに

なる

(21)

明治初年の土地立法の変遷(その二)

1872年目J;J(治 5 :1:引 ~1873年(明治 6 与)7 J1 

r

地租改正条例』まで

il一次!区 ~~I 名 ‑ j コ

1872年(明治5年)

I  I 

1 . 大 蔵 省 達 │地券発行地租収納規則 j 

2.15 太政官布告第50号!地所永代売買ノ解禁 │ 

2. 東京府達 │地券申請地租納方規則

2.24 大蔵省達第25号 │地所売買譲渡ニ付地券波方規則

3.25 太政官布行 │地所名称区分改正 │ 

4.  :太政官布告第124号│地所外同人へ完渡・地所地券等書入禁止1

(i.太政官布告第 187号|筆土 )j)~ 平氏身代限規則

7.  4 大蔵省迷第83号 1一般ノ地所へノ地券交付

7.25 大蔵省[達第93号 i 社七日~i 低価ヲ以テ払下

7.25 大蔵省述第94号 j也所売質譲渡ニ付J也券渡方規則増補

8.27 太政官布告第240号Itilif¥1百貨諸奉公人給金等ノ事

8.28 

I

大蔵省達第115号

地券渡方規則第1条第2条改正

9.  4 

I

大蔵省達第126号 │地券渡方規則第15条以下相達

9.14 大蔵省達第132号 │地券渡方規則増補達94号中第1条改正

10.30 犬蔵省達第159号 1地券渡方規則一部追加修正

11. 28 大蔵省連第17忌号 │地券波方改正規則(達175号)第2条ノ地

税表波ニ凡例

1873年(明治6年)

1.13  1.17  2.  7  3.  5  3. 

明治初年の土地所有権の法的性格についてさ一)

動産不動産質物ノ:事 地所質入書入規則 貸金銀利息ノ儀

金穀貸付法律上ノ利息ノ儀

従前Ji告券状HH ・地券発行ニ付テハ自今

廃止候事

太政官布告第114号│地券発行ユ付地所名称区別共更正ノ事

太政官布告第194号

I f f l

畑石高ノ称ヲ磨、ン茂男Jjヲ以テ換用ス

太政官布告第195号j金穀ノ借主身代限ニイ、f清人証人ノ区別

│廃止貸借請人証人弁済規則

太政官;{t

i +

Lr第218号!各府県下諸省使寮司御用地有之向ハ坪

!数取調地券ヲ渡ス

太政宮布告第246号│米麦海外輸出ヲ許ス

太政官布告第247号│訴容文例

│地所貸借規則/制定ノ i二申ニ太政官同

│  │ぷノ事;

i

太政官布告第

m

号│地租改正条例

太政官布告第9号

太政官布告第18号

太政官布告第40号

太政官布告第92号

京都府達 3.25 

6.  8  6.  8 

7.15  7.17 

7.28  6.22 

一 O

(22)

明治初年の土地所有権の法的性格について(三)

一 O

これによって︑地券制度は︑一八七一年(明治四年﹀一ニ月二七日の﹃東京府下武家地町地ノ称ヲ廃止シ一般地券発

行地租賦課﹄(太政官布告

) l ψ

一八七二年(明治五年)一一月一五日の﹃地所永代売買ノ解禁﹄

(太

政官

布告

第五

O

号﹀│←

一八七二年(明治五年)二月二四日﹃地所売買譲渡一一付地券渡方規則﹄(大蔵省達第二五号

) 1

1 v

一八七二年(明治五年﹀七

月四日の﹃一般ノ地所へノ地券交付﹄(大蔵省達第八三号)という︑

1

)

ぅ︒すでに明らかにしたように︑農業に商品日貨幣経済が浸透したことによって︑地主け日小作人関係という経蛍形態 一連の土地立法によって実現されたことが解るだろ

が普遍化してきた︒しかも︑この地主

H

小作人闘係は︑これまでの歴史的な社会・経済的条件に規制されて︑種々雑 多な形態をとってあらわれていたのはいうまでもない︒このことは︑土地関係を複雑なものとした︒﹃地方凡例録﹄

(日本経済大典第四巻﹀では︑小作・別小作・永小作・名目小作・家守小作・入小作に分類し︑それぞれについて︑

三コ

ぎのように説明している︒すなわち︑

﹃一

︑直

小作

トイ

フハ

田昌

ヲ賢

一一

入レ

地主

直一

一致

小作

ヲイ

フ小

作証

文年

季ハ

質地

年季

‑一

応ス

尤置

小作

ハ別

ニ小

作一

試文

コレ

ナキ

カ質

地本

証文

‑一

致小

作段

害入

有之

λ出入等ノセツ申訳相立ツヨトナリ

一︑別小作ト云フハ回畠質ニトリ地主一一無構金主ヨリ他ノ者へ為致小作ヲ云証文ハ年季ニテモ一ヶ年一一一アモ勝手次第二イタス一︑永小作トイフハ質地ノ小作一一ハ無之自分所持ノ田昌年季無之数十年小作致サセルヲイフ永小作ハ地主ニテ無謂地面トリ上外

ノ者へ為作儀ハ成難シモツ小作米滞地主ヨリ訴出レバ小作米ハ吟味之上定法通リ済方申付小作ハ前々之通リイタサセル然ドモ年

一只不埼ノセツ有之カ又ハナンゾ格別不持ノ子細有之バ地面トリ上地主へ相渡ス小作定米証文等ハ則一一替ル事ナシ尤永小作ノ団地作人方ニテ質一一入又ハ人ヘ小作一一渡ス事禁制也当時ハ永小作ト云儀少ク十ヶ年ヨリ長年季ニハイタサザルナリ

一︑

名目

小作

ト一

一山

フハ

質地

ノ小

作ニ

ハナ

ク︑

田畠

多所

持イ

タシ

手作

目一

余り

小百

姓へ

数年

為作

賞ヲ

名目

小作

ト一

去フ

二十

ヶ年

以上

ナレ

バ︑

氷小

作一

一准

ズ若

シ及

出入

タル

時一

証文

有之

カ地

主帖

面一

一印

形取

置ケ

ハ及

沙汰

証文

モ無

之帖

一由

一一

印形

無之

パ地

主不

念一

一付

無取

(23)

一︑

家守

小作

ト一

一品

フハ

凹品

以別

多ク

小作

一一

入ル

時地

主世

話局

キ兼

小作

人ノ

世話

人ヲ

立入

レ付

ノ世

話ヲ

為致

小作

地ノ

内何

歩ト

カ極

メ家守給ニ為作年貢諸役ハ地主相勤ル尤請人為立家守請状取之家守給ノ外致小作ハ外並小作証文差出サセル若小作証文ナレハ当

人受

人両

人ニ

済方

申シ

ツケ

於滞

ハ両

人共

身上

限申

付ル

て入小作トハ他村ヨリ致小作ヲ入小作トイフ別‑一小作ノ仕法ハ替ル事ナシ﹄(同上二

0 0

1

O

一ペ

ージ

)

こうした︑複雑な小作関係をともなった土地関係をふまえて︑地券を誰に交付するかは︑重大な問題

とな

して

いる

を提起することになるのは︑いうまでもなかった︒地券が︑地主に交付されることは︑農民のもつこれまでの耕作権

U所持が維持されるかどうかに︑重大な作用を及ぼすことになる︒これ支で︑地券発行は地組改正の準備手段という

視点で︑把握されてきた︒確かに︑一八七二年(明治五年)七月の︑吋一般地所へノ地券交付﹄(大蔵省達第八三号﹀に

よる

一般地券(改正地券)の発行は︑それ以前の一八七二年(明治五年)一一月の︑﹃地所売買譲渡ニ付地券渡方規則﹄

(大蔵省達第二五号)による地券(壬申地券)と異りて︑直接に地租改正の準備という役割を果したことは事実である︒

しかし︑地券を土地関係に対する明治政府の政策に視点をおいて把えることも可能である︒なぜなれば︑明治維新が

政治的変革であるかぎり︑土地改革を必要とする︒それは︑封建的権力関係の物質的基礎となる︑封建的土地関係に

もとづく︑農民に対する収奪関係や領主的土地所有の取分を変革し︑封建的諸関係を再整理することが必要であった

からである︒それなしには︑明治政府は安定した政治権力を維持するこ︑どはできなかった︒ことに︑廃藩置県直慢の

一八七二年(明治五年)の時期においては︑明治政府は自己の政治的基盤の整備のために︑農民の力を利用ぜざる

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なかった︒明治維新直後の土地立法で︑旧慣を継受した立場から︑土地に対する向由処分を法制度上で承認する法待

的転換は︑農業生産における商品H貨幣経済の進展という事実にたって︑封建的諸権力の物質的基盤を掘りくずし︑

新しい政治的権力の物質的基盤を作出するという︑政治的企図を表現していた︒

明治初年の土地所有権の法的性格についてつニ)

(24)

明治初年の土地所有権の法的性格についてつ二)

一 O

こうして︑明治政府による地券制度の導入は︑これまでの封建的土地関係

111

検地帳体制による

1

1ーを打破し︑良

民自身の封建的拘束からの解放を実現した︒地券の一般的発行が公布された直後の︑

一八七二年

(明 治五 年) 八月に

片山︑大蔵省からつぎのような布達がなされている︒すなわち︑

明治万一年八月大蔵省布達一一八号

一︑従前土地ノ風俗ニ依日旧慣ヲ私法トナシ候類間々有之或ハ祖先ノ代目一一位仕候者へ地所ヲ付与致シ侯分其子孫ニ烹ル迄家抱杯

ト唱へ家来同様ノ扱一一致シA村ノ者向輩一一見倣サス或ハ他ヨリ入村スル者ハ水呑ト唱へ是又同輩之交不致ノ類間々有之人民協

和交際之道ニ相反キ候問右等旧慣ヲ以テ家格相立候義堅可令禁止事

一︑古米荒蕪ノ地ヲ拓キ一村ヲ取立候者之ヲ草分ケト名付ケ旧家タルノ故ヲ以テ他人ヲ軽蔑致シ往々非義ノ挙動致シ候者有之趣

円以祖先/功績一一誇リ今日ニ至リ他人ヲ凌グ吋キノ理無之候問自今右等ノ唱へ令禁止暴慢ノ所業致ス可ラサル事

一︑農業ノ傍商業ヲ相営ミ侯義禁止致候向そ有之候処自今勝手タルヘキ事

(中 略)

一︑不定地年季ヲ定メ割替致シ来候向ハ向後持主相定司中事

一︑田畑勝手作ノ儀既ニギ末八月御差許有之儀‑一テ漸々米作ヲ減シ桑茶漆格土地一一相応スル物品或ハ牛馬羊家ノ牧畜等常々心掛

ケ五分物産繁殖ノ方法可相立事

但追々外国ヨリ草木禽獣類勧業寮へ相集候上分配試験可致筈一一付有志ノ者ハ其筋へ可願出事

(2

とされている︒ここでは︑地租改花の杭訟の準備とされる一般地一昨への地券交付にたいしても︑封建的支配体制の未

端機様であった村の再編成がなされていることをみれば︑明らかであろう︒また︑

一八七四年(明治七年)

三 月 四 日

に︑内務省はつぎのように指令している︒すなわち︑

﹃地 券ハ 共家 一一 付与 スル

Eノニ非スシテ共人一一付与スル・::一家ノ一円主一一無之候共一斗ノ私財ヲ以買受又ハ同己私有ノ地ヲ他へ

売渡候儀承届不苦侯:::尤売買共戸主ノ連印ヲ以テ取扱フヘシ﹄(明治七年三月四日内務省指令)

(25)

となしている︒そして︑さらに一八七四年(明治七年)六月二一

O

日には︑内務省はつぎのように指令した︒すなわち︑

﹃戸主ニアヲサルモ自己ノ名前ヲ以テ地券所持苦シカラスト雄モ地券ハ戸主ノ名前ヲ肩書シ授与スヘシ﹄

内務

省指

令)

(明

治七

年六

月一

一一

O

とされた︒空た︑一八七五年(明治八年)一一一月一九日の内務省伺に対して︑太政官は一八七七年(明治一

O

年﹀

四月

七日につぎのように指令している︒すなわち︑

E

f誇:

地券ハ其人一一付与スル者ト難モ養子中ニ得タル地券ハ総テ離縁ノ節持去ルヲ許サス

但実家ヨリ付与スル分ハ此限リニ非一ブス﹄

とされた︒しかし︑一八七八年(明治一一年)一月一六日に︑内務省はつぎのように指令している︒すなわち︑

﹃戸主ノ連署ヲ要スル義ト心得ヘシ:・:但別‑二家ヲ建テ戸籍ノミ家族タルモノノ如キハ此ノ限ニアラス﹄

一六日内務省指令)

(3

となしている︒これら一連の指令の推移によって︑地券に表現された土地に対する私的所有権が︑

(明

治一

一年

一月

一方では個人的な

財産としての法的構成をもって把握されていること︑そして︑他方では︑なお家産としての法認識がつきまとってい

ることを理解させれてくる︒これは︑家政の家父長制的家制度による構成の法想的反映に過︑ぎないが︑土地に対する

私的所有権の法想的構成のためには︑そうした家制度の拘束からの脱却を必要となしていることをしめしている︒し

かし︑土地に対する私的所有権も︑まだ完全な意味では︑家制度による拘束から解放されていなかったことが︑明ら

かである︒これは︑土地に対する私的所有権が︑権利U義務関係を前提条件として構築されている︑近代法上の権利

としての法的性格をもっていないことを意味するであろう︒

これらの法的事実は︑地券交付が地租改正の準備的手段としての役割合}果すと同時に︑そのためだけに企図された

明治

初年

の土

地所

有権

の法

的性

格に

つい

て(

一二

)

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