はじめに 親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)「行巻」末尾の「正信念仏偈」(以下、正信偈)は、とりわけ一四七三年の蓮如の開板以降、親鸞を宗祖と仰ぐ人々にとって格別の地位を得てきた偈文である。存覚『六要鈔』
(一三六〇年)等の『教行信証』注釈の中で論じられるのみならず、正信偈そのものを『教行信証』から抜き出して 課題とする著作も多く、近代に至るまで膨大な数の講義録等が遺されている。本稿では、それらをふまえ、正信偈の構成について考察する。 まず、正信偈の本文に立ち入る前に、いわゆる「偈前の文」について、その範囲と意を確認する。次に偈文の構成に深く関係する初二句または三句(帰命無量寿如来 南無不
可思議光 法蔵菩薩因位時)の解釈について、近年の議論も参照しながら考察を加える。先に記すように、正信偈の注釈書は数多あるため、本稿では、近代への影響に照らして、 《研究論文》
「正信念仏偈」の構成についての一考察 ──主に初三句をめぐって──
親鸞仏教センター研究員
東 真 行
特に確認すべきものを取り上げる。それらを読解の手がかりとしつつ、試みに正信偈の構成について論じる。
一 正信偈の範囲
1
「偈前の文」という問い まず確認しておくべきは、科文という学びである。『教行信証』または正信偈についても、文に随って解釈を加えていく際に、科を区切り、その科において何がいわれているのかを問うかたちで文意が探究されてきた。科を分けて立てることが従来の学問の基礎であり、分科によって学識が競われた。
近代は科文をそれまでほどには重要視していないようにも見受けられるが、後に確認するように金子大榮(一八八
一─一九七六)や安田理深(一九〇〇─一九八二)等の思索は、その影響下にある。彼らも文を区切りつつ解釈を述べるのであり、偈文を読み解く示唆を先学の科文より受けている。真宗大谷派の『真宗聖典』(一九七八年)においても科文の 学びは踏襲されており、科文によって改行等がなされている。 『真宗聖典』では、正信偈は『教行信証』
「行巻」の第二章「重釈要義」という科の後に第三章として置かれている。「重釈要義」では「他力」「一乗海」という言葉があらためて論じられ、そして次の文章が続いている。ここでは『真宗聖典』の科を参照し、改行しつつ引用する。
おおよそ誓願について、真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行願は、諸仏称名の願なり。その真実の信願は、至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり。その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり。往生は、すなわち難思議往生なり。仏土は、すなわち報仏報土なり。これすなわち誓願不可思議・一実真如海なり。大無量寿経の宗致・他力真宗の正意なり。
ここをもって知恩報徳のために宗師の釈を披きたるに言わく、それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず、出没必ず由あ
るがごとし。恩を知りて徳を報ず、理宜しくまず啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまわずは将に何をもってか達せんとする。神力を乞加す、このゆえに仰いで告ぐ、と。已上 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。 法蔵菩薩の因位の時、〔……〕
(『翻刻』一三四─一三七頁)
この「おおよそ誓願について」(凡就誓願)で始まる一段について、先の「重釈要義」中「一乗海釈」の結びと見る説と、後に続く正信偈の「偈前の文」と見る説がある。この一段について香月院深励(一七四九─一八一七)は、一八〇三年の講義の中で「是より下は正信偈の偈前の文なり。即ち正信偈一部の大意と来意とを述べるなり」(『大系』二
頁)と述べる。つまり、偈文の前に、偈の「大意」「来意」が述べられている箇所として解している。深励が、この一段以降をそれより前の文脈と区別するのは、この一段 の直前に「良に奉持すべし。特に頂戴すべきなり」(『翻
刻』一三四頁)という一文が置かれているためである。
「証
巻」は「仰いで奉持すべし。特に頂戴すべしと」(『翻刻』三八二頁)、「真仏土巻」は「仰いで敬信すべし。特に奉持すべきなり、知るべしとなり」(『翻刻』四六一頁)という文で締め括られる。故に「行巻」の場合にも、一旦の締め括りの表示として同様の文言が配置されていると読むのである。「この証巻と真仏土巻との終の言で見れば。真実行文類を明す事は。上の段ですんで居るなり。そこで是から下の正信偈は。別に離れたものなり」(『大系』二
頁)と深励は述べる。
そもそも、なぜ「偈前の文」の範囲を考える必要があるのだろうか。それは正信偈が『教行信証』の本文だからである。『教行信証』の中で正信偈を見る場合、「ここをもって知恩報徳のために」(是以為知恩報徳)の一段があり、『浄土論註』の引用後、「しかれば〔……〕正信念仏偈を作りて曰わく」(爾者〔……〕作正信念仏偈曰)という文に続くかたちで正信偈は記されていく。ここには「是以」「爾者」という接続詞が置かれており、この言葉遣いに着目す ()1
る時に、どのような文脈を受けて偈文が記されることになったか、記されている箇所が問題となる。それが、すなわち「偈前の文」の範囲を推定するという問題なのである。そのため、『真宗聖典』においても、正信偈は偈文本文から始まるとは見なされておらず、「凡就誓願」の一段等のいわゆる「偈前の文」も含めて「正信念仏偈」という科を立てている(『聖典』九九二頁)。
深励も同様であり、「凡就誓願」以降を「偈前の文」と見る。そして、「凡就誓願」の一段に偈文の「大意」「来意」、「是以」以降には正信偈の「造意」すなわち「知恩報徳」のためという意が述べられる科と分ける。「大意」とは「綱要」ともいわれるように偈文の肝要であり、「来意」とは、円乗院宣明(一七四九─一八二一)の言葉では「偈の依りて来るこころ」(『大系』一頁)といわれている。
これに対して、異なる了解を提示するのが開華院法住
(一八〇六─一八七四)の『教行信証金剛録』(一八四二年、
以下『金剛録』)である。法住は次のように述べる。
但しこれ〔「凡就誓願」の一段〕よりを偈前の文とし 『正信偈』の大意を明かすとみる説あり。其の義は『文軌』より始まれり。下の偈前の文とするも又よし。今私には一乗海の総結の文と窺ひ奉る。(『続大系』三二一頁)
法住は上記の説に言及し、それを容認しつつ「凡就誓願」の一段を「重釈要義」中の「一乗海」を解釈する「総結」とする。法住によれば、深励等の説は離塵院若霖(一
六七五─一七五三)の『正信念仏偈文軌』(一七三五年)に端を発する。若霖はまず偈文の要を検討すべきと述べ、「凡就誓願」の一段に「由叙」があり、そこに偈文の「要領」「一宗の玄旨」もあるとする。この一段の「一実真如海」という語について、「仏教の極趣にして万法の本源なり」(『文軌』一頁)と解する若霖にとって、この箇所が重要視されるのは当然だろう。また、「由叙」という言葉に深励等がいう「来意」と等しい意を読み取ることもできよう。
とはいえ、法住も「来意」「大意」「造偈意」を偈文以前の文言に確認することは同等である。「来意」は「是以」の一段にあり、それは「為破邪顕正故」「為讃名号故」「為
自行化他故」「為知恩報徳故」の四意とされる。「大意」については「正信念仏偈」という題号がそれをあらわすとし、「爾者」の一段に「造偈意」があると述べる。すなわち、「「大聖真言」とは、『大経』なり。「大祖解釈」とは、其の『大経』を解釈したる七祖の論釈を指す」(『続大系』三
二五頁)と述べ、それらの教説による仏恩への信知が偈製作の意であると説く。
2 正信偈の「来意」
これらの了解では「凡就誓願」の一段、すなわち『真宗聖典』では『教行信証』「行巻」「三章 正信念仏偈」「一節 来意」中「一項 真宗の綱要」という科が分かれ目となっている。親鸞は「真実の行信」と「方便の行信」を分け、「真実の行信」の根拠である第十七願、第十八願を挙げて「真実の行信」を「選択本願の行信」と述べる。さらに「機」「往生」「仏土」についても『無量寿経』に依拠して了解を記しており、「行巻」のみならず、『教行信証』中の重要な箇所である。この文はいかなる筋道の下にあるだ ろうか。 ここで試みに「おおよそ〔……〕について」(凡就)という文言に注目したい。たとえば「行巻」には「おおよそ往相回向の行信について」(「凡就往相回向行信」、『翻刻』一
〇八頁)という文がある。また「化身土巻」においても「おおよそ一代の教について」(「凡就一代教」、『翻刻』五〇
五頁)とある。これらは前文を受けながら、「往相回向の行信」「一代の教」等の言葉を以て視点をあらためつつ、各々の文脈における課題に迫る箇所である。そうであるなら、この「凡就誓願」の一段は、法住が「一乗海の総結の文」というように、これまで「行巻」が明かそうとしてきた文脈に位置づけられるべき側面を有している。同時に、この一段に「是以」「爾者」という接続詞で始まる文章が続くことを考える場合には、正信偈が依拠する一段という側面を見出すことができる。
山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』(一九一三年)では、「行巻」を「凡就誓願」の一段より前で「全部終つたのである」(『山赤』四六四頁)と見るのは深励と同様だが、「凡就誓願」の一段以降の「偈前の文」を「来意」と読む。こ
の「来意」をさらに二段に分け、「凡就誓願」の一段を「綱要」、「是以」「爾者」の段を「『正信念仏偈』を作り給う所以を説明し給う」科、すなわち「生起」という名の科としている(『山赤』四六九頁)。これら二つの意が「来意」にはあり、この「来意」と偈文本文とを合わせて、「結前生後の偈文」という科と見る解釈である。
先に確認したように、「凡就誓願」の一段には「行巻」のこれまでの文脈を引き受けて結ぶ側面と、後続の偈の基盤となる側面がある。また、「凡就誓願」の一段を「綱要」と見るのはおおよその先学が採用してきた説であり、「是以」「爾者」の段を偈文の「所以」を述べるとする分科については適切ではないだろうか。「知恩報徳のために宗師の釈を披き」「大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して」と親鸞の文にあるように、偈文製作の「所以」がこの箇所に存するのは確かであろう。
ただし、深励同様に「行巻」の終結を、「凡就誓願」の一段の前文に見ることについては疑問が残る。というのは「偈前の文」以降、正信偈そのものは、あくまでも「行巻」の末尾に配置されているためである。「良に奉持すべ し、特に頂戴すべきなり」という文に「行巻」における、これまでの文脈を締め括る意図を読み取ることができるとしても、近似する文が巻の最末に置かれる「証巻」や「真仏土巻」とは異なり、「行巻」は実際に終結していない。むしろ親鸞が正信偈を「行巻」に収めた意を考慮すべきではないか。 その際に参考となるのは、法住の師である妙音院了祥
(一七八八─一八四二)の指摘である。先に法住にとっての偈の「来意」を述べたが、法住が「為破邪顕正故」を「来意」として挙げるのは了祥の影響であろう。了祥は次のように述べる。
ときに古来の説、この『正信偈』の来意は仏恩報謝という義、なるほどこの『正信偈』の前の文に「知恩報徳のために作る」とあるで仏恩報謝にはちがいない。さりながらそれきりでしまうには何の益にはたたぬ。そこで全体この『正信偈』ばかりの来意を弁ずるというは甚だつまらぬことで根本は『御本書』だから『御本書』の来意を知って、それをこの『正信偈』へあげ
て弁ぜねばならぬ。〔……〕後序には聖道はすたれ浄土は興り、自力の教行証はすたれはて他力の行、教証ときにさかんなり、それを知らずに坊主も在家も元祖や門徒を流罪にあわせ、また元祖の正意をでんと得る他力念仏を信ずるもの難し、このゆえに知恩報徳のために作るとある。〔……〕詮ずるところ『御本書』の来意は破邪顕正。その『御本書』の中にある『正信偈』なれば聖道浄土の邪を払い、七祖元祖の正意を顕わし、破邪顕正がこの『偈』の来意なれ。
(『聞書』六〇─六一頁)
了祥は「来意」という言葉を、ここではほぼ「造意」と等しい意で用いている。そして、正信偈の「来意」を一旦は「知恩報徳」とした上で、さらに「御本書」つまり『教行信証』の「来意」の下であらためて把捉しなければならないと説く。了祥にとって、『教行信証』の「来意」は「破邪顕正」故の「知恩報徳」であり、正信偈の「来意」も同様に解される。
正信偈があくまで『教行信証』「行巻」中に置かれる意 を考える時、『教行信証』の「来意」から、あらためて思索すべきという指摘は卓見である。また、何故の「知恩報徳」なのかをさらに問う了祥の探究に学ぶべきだろう。しかし、正信偈の「来意」として「破邪顕正」を第一義とする解釈には再考の余地がある。 確かに『教行信証』には「主上臣下」(『翻刻』六六六頁)等、末法に生きる道俗への批判が記される。そのことは『教行信証』の「来意」のひとつとして重く受けとめなければならない。しかし、法然と値遇し、『選択本願念仏集』等の書写を許された親鸞の歓喜についても同様に受けとめる必要がある。つまり、「知恩報徳」は何故かといえば、ただ法然が説く教説に値遇する故ともあらわし得る。親鸞は『教行信証』後序に次のように述べる。
深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。
(『翻刻』六七一─六七二頁) ()2
「如
来」と「師教」の恩徳を仰ぎつつ、「真宗の詮」「浄土の要」を経論釈より抜き出だし、自身を通して表現することは『教行信証』における主要な営為のひとつである。そして、それはとりもなおさず、正信偈における親鸞の営為でもあろう。正信偈は『無量寿経』、そして七祖発揮の教説の肝要を讃嘆する。第十七願「諸仏称名の願」を巻頭に掲げる「行巻」、正信偈においては「信巻」のように問答によって真実を顕にするよりも、自身にまで到達する教法の顕揚が、まずは課題となっている。それ故に「大聖の真言」「大祖の解釈」に応答する「帰命」を偈の劈頭に表白する親鸞には「破邪顕正」のみを第一義とは言い難い意図を見出し得ると考えられる。
二 正信偈の構成
1 偈の構成における初二句
次に偈文の構成について考察していく。まず存覚『六要鈔』は次のように述べている。 次に「正信偈」百二十句、行数六十。これ三朝高祖の解釈に依りて、粗一宗大綱の要義を述ぶ。偈の初の句より「無過斯」に至るまで四十四句二十二行は、これ『大経』の意。「印度」以下四句二行は、総じて三朝の祖師同じく浄土の教を顕す意を標す。(『全書四』一〇八五頁)
偈文冒頭の「帰命無量寿如来」より「難中之難無過斯」までは「大経の意」と区分されている。続いて「印度西天之論家」より四句を七祖顕揚の指標として表示した後、七祖各々への讃嘆が続き、最末の四句を「結讃」と見る。この『六要鈔』の説と異なり、初二句をそれ以降と別とする独自の科文を深励は提示する。
帰命無量寿如来。南無不可思議光已下入文解釈。この一部の分科諸註異義あり。或は序正流通の三分とするあり。私記は初め二句は序分。法蔵已下は正宗分。弘経已下流通分とす。又仏法僧の三宝に約するあり。或は総別に約するあり。初めの二句は総。第三句已下は
別釈と。如此諸註一準ならず〔。〕今一一不評之。先輩の義を聊潤色して分科す。先づ此一部大分為二。初二句挙所讃体帰敬。二〔に〕第三句已下は広讃仏徳。正明これ一部の大科なり。其第二科の中に二。初依経分。二に依釈分。 (『大系』六八頁)
たとえば慶秀『正信念仏偈私記』(一六〇五年)は、初二句、すなわち「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を「序分」として分けるが、あくまでも以降を「正宗分」、最末の四句を「流通分」として偈文の構成を見るものであった。つまり、所讃の体を挙げて帰敬する箇所として、初二句を完全に別立てとしたのは深励が最初である。第三句以降は「広讃仏徳」とされ、広く仏徳を讃嘆する中に「依経分」「依釈分」という科があると述べられる。すなわち深励は、第三句「法蔵菩薩因位時」より「難中之難無過斯」までを「依経分」、「印度西天之論家」より「唯可信斯高僧説」までを「依釈分」と分科する。おそらく山辺・赤沼『教行信証講義』は、この説をふまえている。最末の四句を「結讃」として分ける点は異なるが、初二句を「帰敬」とし、 「依経讃嘆」(第三句より「難中之難無過斯」)、「依釈讃嘆」(「印度西天之論家」より「必以信心為能入」)が続く分科である(『山赤』四七四─四七五頁)。
先学の科文に対して、法住は次のように述べて批判する。
さて此の『偈文』の科文、古来の説は一向に取れぬ。よつて今は古人の説によらずして直ちに吾祖の真面目を顕はさんと欲す。先づ古来の科文では或は仏法僧の三宝と分ける科あり。或は四法に約して分科するあり。或は『正信偈』を二段に分けて依経分、依釈分と云ふ。是れ皆末学の私に立てた科文なれば依用し難し。吾祖既に自ら偈前の文に「大聖真言大祖解釈」と御ことはりなされた名目あれば、此の外に新名目はいらず。よつて此を直ちに大科の名目として、経文の下は大聖真言、七祖の下は大祖解釈、これがただ『正信偈』の科文ばかりにあらず、遠く三経七祖を窺ふ眼目となるなり。(『続大系』三二七頁)
法住は先学の説をいくつか挙げ、「私に立てた科文」と ()3
批判する。ただし、法住はここでは深励のように、初二句を別する理解については等閑視している。故にあくまでも「名目」を問題としたのだと考えられる。法住は「偈前の文」にある「大聖の真言」「大祖の解釈」というふたつの言葉で偈文全体を二分し、把捉すべきと述べる。つまり、「帰命無量寿如来」より「難中之難無過斯」を「大聖の真言」、続く「印度西天之論家」より「唯可信斯高僧説」までを「大祖の解釈」と読む。この法住の了解もまた、了祥に由来する。
了祥は正信偈について「吾祖の御言葉で科が分かれている」として、「この偈一部、初めが大聖の真言、次に大祖の解釈、二段と分かつ」と、同様の説を述べる(『聞書』三
三頁)。この了祥の了解は、法住の『金剛録』を介して近代にも影響を与えている。たとえば、金子大榮は主として深励や法住等の講義録を参照しており、『正信偈講話』(一
九三九年)では「大聖の真言」「大祖の解釈」という科を採用している(『金子』一八二頁)。あるいは、安田理深も同様の視座である。 「正信偈」の前に「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して… 〔ママ〕…作りて」とあるから、前半は大聖の真言、後半は大祖の解釈に依って制作されたものである。(『安田』六二頁)
しかし、安田は法住がそうであったように、深励が初二句を「帰敬」をあらわすとして別した点に注目せず、「依経分」「依釈分」という言葉も用いている。いずれにしても、このように初二句をいかに読むかという点において、まず了解が分かれている。
2
「曰わく……といえり」による構成 さらに上記とまた異なる了解が、出雲路修『親鸞〈ことば〉の思想』(二〇〇四年)において提起されている。出雲路は「偈前の文」にある「曰わく」が、偈文中の「……といえり」にそれぞれ対応するとして、次のように偈の構成を見る。 ()4
()
5
正信念仏偈を作りて曰わく「帰命無量寿如来〔……〕大悲弘誓の恩を報ずべし」といえり。「天親菩薩〔……〕生死の園に入りて応化を示す」といえり。「本師曇鸞〔……〕諸有の衆生、皆普く化す」といえり。「道綽〔……〕安養界に至りて妙果を証せしむ」といえり。「善導〔……〕すなわち法性の常楽を証せしむ」といえり。「源信〔……〕大悲倦きことなく常に我を照らしたまう」といえり。「本師源空は〔……〕必ず信心を以て能入とす」といえり。弘経の大士宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし、と。(『出雲路』一二一頁を元に作成) このように、出雲路は「曰わく……といえり」という形式が偈文を一貫していると見る。この了解については後ほど再考するが、ひとまずは初二句の読解如何を超えて偈全体の構成を提示していることに注目しておきたい。つまり、初二句と「依経分」「依釈分」という深励の説、そして「大聖の真言」「大祖の解釈」と読む了祥等の説が共に批判される。出雲路の説では、初二句はいかなるかたちにおいても分科されない。しかも「印度西天之論家」以降をそれ以前と区分しないため、先述のどちらの科文も成り立たないことになる。 この説は加来雄之によって批判されている。加来は、出雲路説の「親鸞自身の訓点によって、その構造を理解すべきだという視点」(『加来』一八一頁)を高く評価しつつ、偈前の「曰わく」に偈文中の「……といえり」が果たして対応しているのかを問う。
まず『教行信証』(坂東本)における「正信念仏偈」以外の箇所も検討してみると、引用導入語「言・曰・云」の結びの訓点は「……と」が圧倒的に多く、必ず
しも「といえり」という訓点で結ばれない。
(『加来』一七六頁)
加来によれば、親鸞においては「……といえり」によって文が結ばれる箇所は例外的であり、基本的に『教行信証』では「……と」によって文が締め括られるという。正信偈においても「……といえり」のみでなく、「……と」の訓も用いられており、加来は偈文中の「……と」の用例を次のように確認している。
重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえん、と。
(『翻刻』一三七頁)
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく〔……〕歓喜地を証して安楽に生ぜん、と。
(『翻刻』一四〇頁)
天親菩薩、論を造りて説かく〔……〕すなわち真如法性の身を証せしむ、と。(『翻刻』一四一頁) ただこの高僧の説を信ずべし、と。(『翻刻』一四四頁)
このうち、前の三例については「誓うらくは」「告命したまわく」「説かく」に「……と」が対応するが、最後の一例については偈文中に対応する導入語を見出すことができない。故に偈前の「曰わく」に対応するのは最末の一句における「……と」ではないか、と加来は述べる。
確かに出雲路の指摘通り、七祖については「……といえり」と結びが統一されているけれども、「印度西天之論家」以降を分科する見方が否定されることにはならないだろう。それ故に偈文をおおまかに二分すると、ひとまずは「帰命無量寿如来」に始まるいわゆる「大経の意」または「大聖の真言」と、「印度西天之論家」以降の「……といえり」の形式に統一された七祖への讃嘆がある、と解することができる。しかし、この了解において初二句と第三句以降の関係はいかに考え得るか。そもそも初二句はどのように読まれてきたのだろうか。
三 初三句を流れる意
1 方便法身としての初二句
初二句について、深励は次のように述べる。
初めの二句甚だ六ケ敷なり。これは慧空の略述に二義あり。一には此両句は標弥陀仏名。吾祖この偈を述し給ふに付いて。先づ弥陀に帰敬する為に。初めに仏名を標し給ふ。二には三句已下に広く弥陀の因位果上の徳を讃ぜんが為に。先づ初めに果上の名を置いて。この一部は弥陀を讃ずる為に作ると云ふことを顕すとなり。爾れば一には帰敬の為に名を標し。二には一部の所讃弥陀の仏名にある事を顕すと云ふ二義なり。時に初めの二句はこの二義より外なし。(『大系』七五頁)
深励は先学の解釈を紹介し、初二句にふたつの意を読む。「帰敬」のために仏の名をあらわすという意と、第三句以 降の法蔵菩薩の物語に先立ち、あらかじめ「果上の名」を示して「一部の所讃弥陀の仏名にある事を顕す」という意である。「依経分」「依釈分」は、このように共に阿弥陀仏の名号を讃嘆すると説く。そして、「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」の仏名は第十二願、第十三願の成就した方便法身であると述べ、第一句に「体」、第二句に「用」の意を見ていく。
若干の異なりを見せるのが、次の宣明の了解である。
唯信文意に「阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧の形と知るべしとなり」と。無量の智慧の相は光明なり。よつて阿弥陀仏は光明なり。天親菩薩力を尽して帰命尽十方なりと顕す。是をば曇鸞大師南無不可思議光と宣ふ。依て一多証文に曰く。「此如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧光明の形なり等」と。〔……〕此意を以て南無不可思議光は智慧なり。法蔵菩薩因位の時。これが不可思議の徳用なり。衆生を摂化し給ふなり。
(『大系』六九─七〇頁) ()6
宣明は蓮如『正信偈大意』(一四六〇年)等に依拠しながら、第一句を智慧の「体」、第二句を智慧の「相」、第三句以降に智慧の「用」を見る。そして宣明もまた、これらに方便法身の顕現の意を読む。深励、宣明共に第一句から第二句または第三句まで、たとえ科を分けるとしても、「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」「法蔵菩薩」という連なりに「体」「用」等の意を読み込み、文脈を見ようとする。
あるいは、若霖は第一句と第二句との間に法性法身から方便法身へという展開を見出そうとする。若霖は次のように述べる。
今更に詳かに解すれば、無量寿如 〔ママ〕とは法身真如の総体なり(所謂法性法身なり、〔……〕)、是故にまた我等衆生の仏性なり(『唯信鈔文意』に曰く「法性といひ、真如と
いひ、一如といひ、仏性といふ、仏性即ち如来なり、この如
来微塵世界に充ち満ちたまへり、即ち一切群生海の心なり」
と)、然るに、法蔵菩薩は我等衆生の一如より来生して(『一念多念証文』に曰く「この一如宝海よりかたちをあ
らはして法蔵菩薩となのりたまひて無碍のちかひをおこした まふをたねとして阿弥陀仏となりたまふ乃至これを尽十方無碍光如来となづけたてまつるなり、この如来を南無不可思議光仏ともまうすなり」と)、我等衆生の為に無上の誓願を発し、無量の妙行を修して南無不可思議光仏(所謂
方便法身なり)と成りたまふときは、我等が心性既に成仏し竟る、是を自利利他円満の仏体仏号と為す、『讃』に所謂「塵点久遠劫よりもひさしき仏」とは無量寿なり。(『文軌』二一─二二頁)
若霖は第一句を法性法身、第二句を方便法身と解する。仮名聖教等を典拠として、法蔵菩薩が「我等衆生の一如」
(仏性としての法性法身)より来生し、「南無不可思議光仏」(方便法身)となることによって、衆生の「心性」の成仏を説くという特異な了解が示されている。深励は、これに対して「無量寿如 〔ママ〕より来り給へる南無不可思議光に帰命し奉ると点ずるなり。甚だ不爾」(『大系』八七頁)と批判しており、『一念多念文意』の同文を引きつつ、あくまでも初二句は方便法身を説くと述べる。
2 初二句から第三句へと動くもの 了祥や法住の場合は、初三句を「大聖の真言」という科の中に見るため、初二句から第三句への展開を深励よりも読みやすいのではないか。しかし、実際にはそう単純ではない。了祥の科文では、「大聖の真言」は「弥陀の願海」(「帰命無量寿如来」より「必至滅度願成就」まで)と「大聖の正意」(「如来所以興出世」より「難中之難無過斯」まで)の二科とされる。さらに「弥陀の願海」の中に分科があり、初二句と、第三句「法蔵菩薩因位時」より「必至滅度願成就」までを分けるため、最終的にはやはり初二句と第三句は別の科となる(『聞書』二二頁)。
法住は、初二句について「帰敬標宗」「兼影久成報身」の意があるとし、次のように説く。
初めの「帰命無量」等の二句は弥陀に帰敬し奉り、然も偈文一部始終の宗たる名号を標す。偈文ただ名号を讃嘆するより外なしと顕はし給ふ二句なる故に帰敬標 宗と云ふ。さて此の二句兼影久成報身と見る証拠は、此の『正信偈』をやわらげたが『和讃』なり。大聖真言が『浄土和讃』となり、大祖解釈が『高僧和讃』となり、其の『浄土和讃』の中に別して此の大聖真言の下と合するが『大経和讃』。その『大経和讃』の「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫とときたれど、塵点久遠劫よりも、ひさしき仏とみへたまふ」等と無量寿仏に就て、久遠実成報身なることを明かし給ひ、次に「南無不可思議光仏、饒王仏のみもとにて十方浄土のなかよりぞ、本願選択摂取する」等とある。ここが「帰命無量」等の二句に合せて見ると、この無量寿如来不可思議光仏とあるところは十劫正覚の新仏に非ず、久遠実成の報身の仏なりといふことを顕はし給ふ意を含むであり。但し文の当相は帰敬標宗にして久遠実成の義は其の影にあり。裏より顕はし給ふ故兼影の二字を下す。(『続大系』三二八頁)
法住はこの二句について、帰依すべき名号をあらわした箇所とまず見る。さらに「浄土和讃」の第五首、第六首を
典拠として阿弥陀仏が「十劫正覚の新仏に非ず、久遠実成の報身の仏」であると明かす。しかし、あくまでもその意は「帰敬」の「影にあり」とする。
『金
剛録』は、初二句を読む際に「浄土和讃」を参照する。金子大榮、安田理深も同様であり、その影響下にあると考えられる。金子は次のように述べる。
『大無量寿経』の『和讃』を読んで見ると、「南無不可思議光仏、饒王仏のみもとにて、十方浄土のなかよりぞ、本願選択摂取する」とあつて、南無不可思議光仏と仏の名前を出し、その阿弥陀仏が饒王仏のみもとで本願を選択摂取されたといふことになつてをります。あそこでは法蔵菩薩と言はないで、南無不可思議光仏と言はれている。〔……〕そこらあたりを参照しますと、此処もまづ仏を呼んで帰命無量寿如来、南無不可思議光と申し上げ、その帰命無量寿如来、南無不可思議光仏が法蔵菩薩と言はれた因位のときに本願を建てられたとこういふ風に述べらるる思召でないかと思ふのであります。(『金子』一八六頁) また安田理深も次のように述べている。
「南無不可思議光」から「法蔵菩薩因位時」という移り変わりは、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を体として、弥陀の因位である法蔵菩薩としての因位が述べられるのである。「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の因位である。(『安田』六九─七〇頁)
安田はこう述べて、同じく「浄土和讃」第六首を引き、和讃でいえば初二句が「南無不可思議光仏」に、第三句「法蔵菩薩因位時」より「重誓名声聞十方」までが「饒王仏のみもとにて 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する」に当たるのではないかと推究する(『安田』七〇頁)。金子や安田はおそらく法住の説を手がかりとしながら、初二句から第三句への動きを読み解こうとしている。
このように、初二句から第三句への文脈を「浄土和讚」第六首を典拠として解釈する説は、光遠院慧空『正信念仏偈略述』(一七〇三年)にすでに認められる(『真全』四三頁)。しかし、法住については先の場合と同様に了祥の影響であ
ろう。初二句について、了祥は「帰敬兼彰久遠実成」の意があるとし、「この科目が古今に異なること。それは帰命無量寿如来南無不可思議光の二句が解しにくい二句なり」(『聞書』三七頁)と述べて、次のように続けている。
しかるにここをまた吾祖に聞いてみるに、それはもっともなことであるがそれが知れまいと思うて『略文類』と和讃に知れるように書いておいたと仰せられる。なるほど『略文類』を読んだところが西方不可思議尊と一句になりて極楽の弥陀を呼び出してあなたに帰依敬礼し奉ると申しあげさせらるるすがたが知れておる。しかれば帰敬という科は動かぬ。またこれを『和讃』でみると、「弥陀成仏のこのかた」は『大経』に依ってみればいまに十劫と説きたれど、法華等の諸経でみると、塵点久遠劫よりも久しき仏とみえたもう、そのすすだらけの古仏が南無不可思議光仏、十劫の昔に『大経』では世自在王仏、『平等覚経』では饒王仏のみもとにて、十方浄土の中よりぞ本願選択摂取したとある。〔……〕古い古い仏が二度法蔵菩薩となりて出 たのだ。この和讃によりてみよ、帰命無量寿如来とあげておいて、その仏が法蔵菩薩因位のときとうつる、しかれば帰命無量寿如来南無不可思議光には久遠実成の古仏という義をこめてみねばならぬ、これを悪いといえば、先に吾祖に「大経和讃」を書き直してもろうてその上に論にござれ。これによって兼彰久遠実成というなり。(『聞書』三七─三八頁)
典拠とする和讃は法住と同じ「浄土和讃」第五首、第六首である。このことから考えても、『金剛録』の説は了祥から派生したものだろう。了祥はあくまでも初二句を第三句以降と区切るのだが、「帰命無量寿如来とあげておいて、その仏が法蔵菩薩因位のときとうつる」と述べるように、第三句への展開を明確に読み解いている。
初二句または三句における諸注釈は、如来が顕現する様態を偈文から読み取ろうとしている。深励等にとって、それは方便法身であり、また了祥等にとっては法蔵菩薩であった。ここでさらに注意しておくべきは、深励もまた第二句から第三句への動きについて注目する点である。深励は
「依経分」の初句である第三句を注釈する中で次のように述べる。
全体古来の学者この一句と次の在世自在王仏所と同じ事にみるなり。これは誤なり。これは法蔵の一句は別にすべきなり。夫れ故に私には科を分つにも爾り。故にこの一句は上の二句を承る句なり。上の二句は所讃の体。この句はその弥陀の法蔵たりし因位の時と云ふ事なり。(『大系』一一二頁)
深励は「依経分」を二科に分ける。第三句「法蔵菩薩因位時」より「必至滅度願成就」までを「約弥陀明本願」、「如来所以興出世」より「難中之難無過斯」までを「約釈迦勧応信」とし、二尊を讃嘆している。次に、この「約弥陀明本願」を第三句より「重誓名声聞十方」まで、「普放無量無辺光」より「必至滅度願成就」までと分け、前者を「明因位本願」、後者を「明果上摂化」とする。
深励はさらに「明因位本願」について第三句と、それ以降とに分ける。第三句は一句のみで「標因時」という科と なっており、第四句「在世自在王仏所」以降「重誓名声聞十方」までが「正明本願」と分科される。深励が第三句について「法蔵の一句は別にすべき」と述べたように、「この一句は上の二句を承る句」であり、初二句であらわされた「所讃の体」たる阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった因位の時をあらわす箇所と解される。山辺・赤沼が第三句について「弥陀如来、因位法蔵菩薩にていらせられし時」(『山赤』四七九頁)と講じるのも同意であろう。つまり、たとえ科を分けたとしても、初二句から第三句に至る文脈を見出さなければ、第三句の読解は困難である。 ここで先の出雲路の説を再検討するべきではないだろうか。出雲路説において初三句は、先述のように、いかなるかたちにおいても分科されない。出雲路は正信偈の初二句を「以下に続く文の主語として解すべき」(『出雲路』一三
一頁)として次のように述べる。
坂東本が「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と訓読するのも、「「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」という名の仏」とい ()7
う意であろう。(『出雲路』一三一頁)
「無
量寿如来に帰命し不可思議光に南無したてまつる」という名の仏が、かつて法蔵菩薩であった因位の時、と、このように初二句を第三句以降の「主語」として読むべきと出雲路は主張する。その根拠のひとつは、法住や了祥同様、「浄土和讃」第六首である。
南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する (『全書二』三六五頁)
このように親鸞には、南無または帰命を冠して阿弥陀仏または無量寿如来をあらわす例がある。故に初二句は単に帰敬の対象を指し示すのではなく、阿弥陀仏そのものを南無阿弥陀仏としてあらわしていると出雲路は述べる。この解釈には如来そのものが偈を通して示現するような躍動感が認められる。
深励や了祥はあくまでも初二句と第三句とを分科しつつ 文脈を読もうとしており、そこで抽出される内実は、実際には出雲路の説と近接する。つまり、初二句は帰敬の対象として名号をあらわすと同時に第三句への文脈を確実に有している。 しかし、出雲路自身が「……といえり」という訓読を重んじるように、この場合には「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」という訓読を同等に重んじるべきである。たとえば正信偈では天親を讃嘆し、「天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる」(『翻刻』一四一頁)とあり、ここで文が結ばれていると考えざるを得ない。この例と同じく、初二句についても「南無したてまつる」と文が結ばれていると読むべきである。そうであるにも関わらず、初二句から第三句への文脈が認められるならば、第三句にいかなる内実を読むかが問題となる。
3 第三句の「法蔵菩薩」について
深励は第三句について、「今は果上なり」と、法蔵菩薩
が既に成仏したことを述べた上で、「故にこの因位は仏果へ望めて修行の間を因位と宣ふなり」(『大系』一一二頁)というように、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった時、と読む。あるいは、了祥等の場合は、初二句にあらわされる「古仏」が法蔵菩薩として示現するという動きのある説だが、法蔵菩薩そのものについて、若霖のように積極的な解釈を施すわけではない。その際に、示唆となるのは、宣明の次のような言葉である。
只今法蔵菩薩は果後の方便。塵点久遠の昔の阿弥陀如来となり給ふ。仏衆生を救はんために法蔵菩薩となり給へり。(『大系』九九頁)
阿弥陀仏は遥か過去に既に成仏しているのだが、衆生救済のために「果後の方便」として菩薩の身を現じるという。「果後の方便」という言葉は、存覚『浄土真要鈔』(一三
二四年)の次の文章に基づいている。
それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体な れば、久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。(『全書四』四九四頁)
近代教学において独自の法蔵菩薩論で知られる、曽我量深(一八七五─一九七一)は代表的論考のひとつ、「地上の救主──法蔵菩薩出現の意義──」(一九一三年)に次のように述べる。
あり体に白状すれば、法蔵菩薩の御名は私が久しい間、もてあまして居つた所の大なる概念でありました。〔……〕小児の時に『正信偈』を教はり、「法蔵菩薩因位時、乃至、五劫思惟之摂受、重誓名声聞十方」の諸句は分らぬながら難有かつた。(『曽我二』四〇九頁)
曽我は長い間、法蔵菩薩をどのように解すべきか苦悩してきたと率直に語り、正信偈の第三句以降を引きつつ訳も分からぬが有り難かったと記す。しかし、時を経て「因位の願行」ということに「興が醒めて来た」。その次には、成仏の姿である「「尽十方無碍光」の御名が面白くなつて ()8
来た」。そして、「因果の大法など云ふ無意味なる範疇を借り来りて、人間は因果の軌範を脱して考ふることが出来ぬ故、如来は亦彼の本願を人間に知らせる為に、人間の思想の法則なる因果の法則に依りて、彼の御心を顕示し給ひたのである」等の了解に至ったと述懐する。しかし、この了解において如来は憧憬の対象に止まり、自身の救主となることが叶わないと曽我はいう(『曽我二』四〇九─四一〇頁)。 論考の中で曽我は、この苦悩を超えようとして自問自答する。「法蔵菩薩とは何ぞや。他でない、如来を念ずる所の帰命の信念の主体がそれである」(『曽我二』四一四頁)と。さらに次のように述べている。
誠に五劫永劫の願行と云ふも、十劫の成仏と云ふも、皆大現在の信の一念中に摂められて仕舞ふ。法蔵菩薩は昔の神話ではない、現在の信の事実である。
(『曽我二』四一八─四一九頁)
「果後の方便」としての法蔵菩薩ではなく、
「現在の信の事実」としての法蔵菩薩を曽我は語る。これは若霖のよう に衆生の仏性として法蔵菩薩を説くのではない。曽我は次のようにも述べる。
かくて念々に新しく創作せられ行く所の若不生者の仏心は久遠の仏心なると共に新しき仏心である。旧にして又新である。此旧なる所変らぬ所を法性法身と云ひ、念々に新しく創作せられ行く所を方便法身と呼ぶのである。(『曽我二』四二〇頁)
曽我は「念々」という言葉を強調し、衆生が『無量寿経』の教説に思いを致す「信」の一々の動きを述べていく。若霖は法性法身から方便法身の動きを見、「我等が心性既に成仏し竟る」ことを終極とした。曽我の思索にはそうした終わりがなく、法性法身と方便法身とが常に現実の衆生にはたらきかけるという。このような法蔵菩薩解釈は近代教学における、ひとつの画期であろう。
曽我と相互の影響関係にあった金子は、第三句の「法蔵菩薩」について次のように述べる。
仏なればこそ本当の仏にならうとする、仏であるといふ自覚が仏にならなければならぬといふ姿を取られたのが法蔵菩薩であります。これが従果向因と申しまして、仏が人間の姿を取られる、人間を救ふ為に人間の姿を取られるのが法蔵菩薩であります。〔……〕多少解り易く申しますれば、法蔵菩薩は本願の擬人である、本願を人間になぞらへて人格化したもの、本願を擬人化したものが法蔵菩薩である。(『金子』一八八頁)
本願成就の阿弥陀仏を「仏なればこそ」と表現しつつも、法蔵菩薩を「果後の方便」としてのみ解さず、その解釈を通して発願の現場にまで肉迫しようとするような視座がある。こういった曽我等の解釈をふまえつつ正信偈の第三句を見る時、偈文の前半部は、単に『無量寿経』における法蔵菩薩の物語を概説する箇所と解するべきだろうか。そこに示されるのは曽我がいうように、親鸞に現に生きてはたらいていた信仰の事実とも考えられる。
濱田耕生(一九二三─二〇一四)は正信偈の冒頭について綿密な関係の下に読まなくてはならないと指摘する。そし て、初二句には帰敬の対象のみならず、親鸞自身の「実感の言葉」が表白されると述べ、第三句以降に示される『無量寿経』への讃嘆について「そのこころは文句を並べるものでもなく、物語を語るものでもない」という。親鸞は「法蔵菩薩が因位の時、阿弥陀如来になられるもとのときはこうであったと、いい出されたのではなくて、経文にみられるような〔世自在王〕仏と〔法蔵〕菩薩の姿に心打たれ」たのである(『濱田』一八頁)。さらに次のように言葉を続けている。
この法蔵菩薩因位時以下の句は弥陀浄土のできてきた原因と結果をのべられるとして、前の二句〔帰命無量寿如来 南無不可思議光〕との間に区切りがつけられています。前の二句は仏の名を出して帰敬するところ、ここのところからは阿弥陀如来のお浄土の因果をのべられて信ずることをいわれる、とする見方があります。あまりにも常識的ではないでしょうか。二つ〔初二句とそれ以降〕の関係をよく味わうべきであって、前二句が浮きあがったものではなく、そこから自然にこの ()9
句〔法蔵菩薩因位時〕が出ていることに気づかねばなりません。前の二句は仏の名号を出されましたが、それよりも帰命するところに重要な意味があります。帰命するにはそれだけの実感が充満しなければならないでしょう。そうした実感をもたらした具体的な事実をここで出していかれるのであります。単なる経の上の文字ではなくて、それをとおして帰命せざるを得ないようになった自分の心の内にひびいてきたところであります。(『濱田』一九─二〇頁)
深励は、第三句を『無量寿経』における法蔵菩薩の因位の時をあらわすとし、「標因時」という科として立てる。この科は、経典の物語を表示する以上の効能を発揮していない。濱田は第三句が生じる所以を、親鸞によって実感された「帰命」の内実に求める。この了解は、曽我が正信偈の第三句以降を元に法蔵菩薩を論じた思索と併せて、偈を再解釈する筋道となるだろう。
濱田が指摘するように、初二句にあらわされる「帰敬」「帰命」は親鸞自身の「実感」の表明である。そして、そ の信仰から第三句以降、「それをもたらした具体的な事実」が記されることになり、讃嘆されていく。先に確認したように、深励も初二句から第三句への展開を認めていた。つまり、初二句における「帰敬」と第三句の「法蔵菩薩」とは、たとえ科を分けるとしても、その間の連絡を明らかに確認できるといえよう。
おわりに
これまで検討してきたことを以下にまとめたい。まず考察したのは「偈前の文」である。『教行信証』の文脈の中に正信偈の位置を確認すると、「凡就誓願」の一段については、これまでの「行巻」の文脈を受けた結びであり、同時に正信偈の「綱要」を見ることができると考えられる。また、偈製作の意については「是以」「爾者」の段に求めることができよう。偈文は、「凡就誓願」の一段にある「綱要」を「知恩報徳」「信知」の念を以て讃嘆するところに生まれてくるのであろう。
構成については、初二句を偈の前半部に組み入れるか否
かで了解が分かれていた。深励は初二句に「帰敬」すべき名号、偈全体が讃嘆するところをあらわすとして重んじ、第三句以降と別して科を立てる。ただし、深励ほどに初二句と第三句以降の別を際立てずとも、多くの講義録で初二句と第三句以降とは分けて解釈されていた。
深励の説と対立する出雲路の説では、偈の後半部の構成が明らかになったが、「曰わく……といえり」に注目するあまり、他の区切りとなるべき訓読に十分な注意が払われているとは言い難い。しかし、初二句を第三句以降に連絡させて読解する了解については、実際には当の深励等、様々な講義録に確認できる。あるいは、そう読まなければ第三句の内実を読解することができない。このように考えるなら、初二句を第三句以降と分科するか否かについては、どちらの見解にも意義を見出すことができるため、一方のみを重んじる必要はないのではないか。後学として双方の解釈より学ぶべきである。
しかし私見を述べるならば、加来の指摘のように、「偈前の文」の「曰わく」に「ただこの高僧の説を信ずべし、と」(唯可信斯高僧説)の「……と」が対応する場合、初二 句について偈文を一貫する意をあらわす科と読むことができ、また偈文全体を最末の四句が引き受けていると考えることができる。つまり、初二句については一旦、第三句と別として、しかし初二句より第三句以降の前半部が生じることは明確に認識しながら、同時に初二句を第三句以降と別に立てる故に「印度西天之論家」以降の後半部についても、初二句にあらわされる親鸞の信仰より生じると見ることが可能となる。換言するならば、初二句について一応は科を別とし、「法蔵菩薩因位時」以降、または「印度西天之論家」以降を読む際にあらためて連絡を見出していくべきである。偈文の前半部と後半部は、濱田が述べるように親鸞の「実感」によって一貫する内実を有すると考えられる。それ故にこそ、初二句を第三句以降と別に立てるかたちではあっても、初二句と第三句以降の連絡を重んじる解釈は成り立つだろう。このような理解は慶秀『正信念仏偈私記』と近いが、慶秀のように序・正宗・流通という科の名目が果たして適切なのか、最末の四句をいかに解すべきか、現在の筆者には明らかではない。
以上、試みに正信偈の構成について推察してきた。本稿
では初三句の読解に集中したため、それ以外の偈の文言、また後半部の展開について十分に考察していない。また、先述のように科の名目についても十分な検討を加えてはいない。それらは今後の探究としたい。
凡例一、漢文は引用に際して原則として書き下し、句読点を付すなど適宜整文した。また、和文については仮名をすべて平仮名に統一した。一、旧字体は現行の字体にあらため、誤字脱字と考えられる箇所は訂正した。一、引用文の中略は〔……〕と表記した。
参考文献の略号『真全』……妻木直良編『真宗全書』第三九巻、蔵経書院、一九一五年。『山赤』……山辺習学・赤沼智善『教行信証講義 教行巻』、法藏館、一九五一年。『曽我二』……『曽我量深選集』第二巻、彌生書房、一九七〇年。『濱田』……濱田耕生『正信偈新解』、真宗大谷派龍明寺、一九七五年。 『続大系』……真宗典籍刊行会編『続真宗大系』第七巻、国書刊行会、一九七六年。『大系』……仏教大系刊行会編『仏教大系 教行信証・第四巻』、中山書房、一九七八年。『文軌』……『正信念仏偈文軌』、真宗叢書編輯所編『真宗叢書』第四巻所収、臨川書店、一九七八年。『聖典』……真宗聖典編纂委員会編『真宗聖典』、真宗大谷派宗務所出版部、一九七八年。『金子』……金子大榮『阿弥陀経講話 正信偈講話』、コマ文庫、一九八四年。『聞書』……濱田耕生『妙音院了祥述『正信念仏偈聞書』の研究』、同朋舎出版、一九九四年。『出雲路』……出雲路修『親鸞〈ことば〉の思想』、岩波書店、二〇〇四年。『加来』……加来雄之「方法としての『教行信証』(坂東本)──「正信念仏偈」解釈の試み──」、『真宗総合研究所研究紀要』第二八号、大谷大学真宗総合研究所、二〇一一年。『翻刻』……『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』、真宗大谷派宗務所、二〇一二年。『安田』……安田理深『正信偈講義』第一巻、法藏館、二〇一四年。『全書二』……浄土真宗本願寺派総合研究所編『浄土真宗聖典
全書』第二巻、本願寺出版社、二〇一一年。『全書四』……浄土真宗本願寺派総合研究所編『浄土真宗聖典全書』第四巻、本願寺出版社、二〇一六年。
その他の参考文献
『金子大榮選集』続第三巻、在家仏教協会、一九六三年。
『曽我量深選集』第一二巻、彌生書房、一九七二年。
『金子大榮著作集』別巻一、一九八五年、春秋社。濱田耕生 『正信念仏偈の研究』、法藏館、一九八五年。
『『正信念仏偈』釈要・科文集』、同朋大学出版部、一九八六年。宮下晴輝 「大乗経典における般涅槃の概念の展開」、『真宗総合研究所研究紀要』第二一号、大谷大学真宗総合研究所、二〇〇三年。藤田宏達 『真宗における本尊』、真宗大谷派宗務所出版部、二〇一二年。池田行信『正信念仏偈註解』、法藏館、二〇二一年。
註『仏教大系』の深励による「教行巻」講義は一八〇三年のものだが、偈文については一七九七年の講義が収められていると推測できる。そのため、『大系』四三頁の十一行 目前は一八〇三年の講義、後の引用については一七九七年の講義のものとなる。池田行信『正信念仏偈註解』(九頁)では、正信偈の「来意」に「破邪顕正」を見るのは、了祥以外にない独自の解釈であるとして高く評価されている。異義研究者としての一面が著名でもある了祥ならではの読みなのだろう。濱田耕生『『正信念仏偈』釈要・科文集』(六頁)の指摘を参照。濱田は『正信念仏偈の研究』(二八四─二八五頁)において、慶秀『正信念仏偈私記』等、一七世紀の著作で初二句は「一部の大旨であり綱要であるとされている」と述べる。一八世紀半ばから深励の影響が顕著となる以前は、初二句については阿弥陀仏への讃嘆の一部として「帰敬」をあらわすと解釈されてきたという。初二句の従来の解釈については、池田行信『正信念仏偈註解』(一七─一八頁)も参照。金子大榮「正信偈講読」『金子大榮著作集』別巻一(二五七頁)を参照。「正信偈講読」は一九四六年の講義草案をまとめたものだが、その「序」で「香月院・開華院その他の講録を坐右に置き」と金子は記している。おそらく『正信偈講話』の際にも、金子は同様の著作を参照していたと推測する。濱田耕生『正信念仏偈の研究』(一七四─一七五頁)も偈文中の「……といえり」に着目するが、出雲路のように ()1
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偈文全体の構成に及ぶものとは解していない。深励は「無量寿」が「不可思議光」に先んじる理由について「無量寿」が「体」であると解釈するが、このような了解は『無量寿経』において阿弥陀仏が「般涅槃しない仏陀」として説示されるという内実とも適う。宮下晴輝「大乗経典における般涅槃の概念の展開」(『真宗総合研究所研究紀要』第二一号、七頁)を参照。この了解は藤田宏達『真宗における本尊』(四八─五〇頁)でも参照されている。「果後の方便」については、池田行信『正信念仏偈註解』(四九─五一頁)を参照。金子は次のように回想する。「初めて真宗大谷大学の教壇に立つた時、寄宿舎の階上で学生に囲まれての座談会があつた」。この時、議論が「法蔵菩薩」に及び、金子は「「法蔵菩薩とは何か」といつただけで、何の解明もしなかつた。ところが会が終ると学生が、控室へ来て「今日は有難うございました。自分は今まで、この大学では、法蔵菩薩とは何かというような問いは、許されないものと思うていたのです。しかるに、今日は先生の口からその問いが出されたので、われわれにもその問いが許されていることが解り、真宗学に明るい希望が出てきました」と語つたのである」(「法蔵菩薩について」、『金子大榮選集』続第三巻、五五頁)。あるいは曽我量深は米寿記念講演「法蔵菩薩」 で次のように語る。「法蔵菩薩ということにつきましては、明治時代なんかには、そういうことには触れないのが安全だというようなことになっていた。ただ阿弥陀如来さまと言い、仏さまのお慈悲と言うだけであって、本願というような言葉でも、明治時代には大体年の若い方々は使わなかったんですよ」(『曽我量深選集』第一二巻、一〇六頁)。法蔵菩薩の解釈が忌避されていたという。その一因として「果後の方便」から逸脱する法蔵菩薩解釈が疎まれるということがあったのではないかと考えられる。 ()6
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