街道を歩く
19 電子版
─シニア世代の退屈しのぎと 健康のために─
長崎街道
(下関ー山家ー長崎)
中山高安著
は じ め に こ の シ リ ー ズ
﹁ 街 道 を 歩 く
﹂ は
︑ ど ち ら か と い え ば 今 ま で 余 り 書 か れ て い な い 街 道 に 光 を 当 て
︑ し か も 古 い 街 道 に こ だ わ っ て 道 筋 を 記録することを主眼にしてきた︒
も ち ろ ん 消 え て し ま っ た り 歩 け な く な っ て い る 旧 道 も あ る か ら
︑ そのときは近くの代替路を歩かざるを得ない
また題名のように
歩
︒
﹁
く
﹂ と い う 以 上 は
︑ 一 日 に 歩 け る 適 当 な 距 離 の 間 に 宿 泊 設 備 や 鉄 道
︑︒
の駅があって
野宿せずに歩けるという前提
で街道を選定してきた さ て 定 年 退 職 後 に 街 道 を 歩 き 始 め て か ら
︑ 当 面 こ の シ リ ー ズ の 目 標 を 二 十 巻 に し て き た
︒ そ し て 昨 年 ま で に
︑ 本 州 最 北 端 の 龍 飛 崎 か ら 最 西 端 の 下 関 ま で 歩 き つ な ぎ
︑ 更 に 太 平 洋 側 か ら 日 本 海 側 へ 二 本 の 道 を 歩 き
︑ 日 光 へ の 道 を 五 本 も 歩 い て
︑ つ い に 十 八 巻 ま で 完 成 さ せ た
︒ そ こ で 今 年 は 九 州 の 古 い 街 道 を 歩 い て 目 標 を 達 成 す る こ と に した︒
そ の 一 つ は 長 崎 街 道 で あ る
︒ こ れ は 何 冊 か 本 が 出 て い る も の の 五
ー 十 年 前 の も の が 多 く
︑ 当 時 は 歩 け な か っ た 所 が 歩 け た り
︑ 歩 け た 所 が 歩 け な く な っ た り
︑ 変 わ っ て い る 所 が あ る は ず だ か ら 書 く 意 義 は あ る だ ろ う
︒ し か も 古 く か ら 九 州 を 代 表 す る 街 道 で
︑ 途 中 の 山 家 か ら 薩 摩 街 道 が 分 岐 す る た め
︑ こ の 街 道 を 取 り 上 げ る こ と に し た
︒ 各 県 の 教 育 委 員 会 の 資 料 に よ れ ば
︑ こ の 街 道 の 起 点 と 終 点 が 何 処 な の か は 定 説 が な い よ う で あ る
︒ た だ 起 点 と し て は 多 く の 本 や 途 中 の 掲 示 に 小 倉 の 常 盤 橋 と し て い る が
︑ こ こ で は 山 陽 道 で 歩 き 終 え た 赤 間 ヶ 関 か ら ス タ ー ト す る こ と に し て
︑ 長 崎 は 出 島 の 手 前 に あ る 長 崎奉行所西役所跡で終わることにした︒
ま た
︑ ど の 本 も 小 田 か ら 嬉 野 ま で は 武 雄 経 由 の 道 筋 ば か り で
︑ そ れ 以 前 の 長 崎 街 道 だ っ た 成 瀬
・ 塩 田 を 経 由 す る 道 筋 は
︑ 地 図 と し て 記 載 し た も の が 見 つ か ら な か っ た
︒ そ こ で こ の 道 筋 を 何 冊 か の 文 章 と 経 験 か ら 推 測 し て
︑ 寄 り 道 と し て 記 載 し て み た が
︑ 関 心 が あ る 人 は検証して欲しい︒
目 次 長崎街道とその里程
七
山陽道から長崎街道へ
一九 小倉から黒崎へ
三四 黒崎から勝野へ
四八 勝野から桂川へ
六六 桂川から山家へ
八一 旧道を間違えて歩く︵閑話︶
一〇〇 山家から鳥栖へ
一〇六 鳥栖から吉野ヶ里へ
一一九 吉野ヶ里から佐賀へ
一二八 佐賀から肥前山口へ
一三九 肥前山口から武雄へ
一五三 武雄から嬉野へ
一六九 享保二年以前の街道︵閑話︶
一八一
嬉野から彼杵へ
一八九 彼杵から大村へ
二〇三 大村から永昌へ
二一八 永昌から肥前古賀へ
二二九 肥前古賀から長崎へ
二四二 旧道を捜す苦労と楽しさ︵閑話︶
二六六 終わりに
二七二
長 崎 街 道 と そ の 里 程 長崎街道の起点と終点が何処かは定説がないようである︒
長 崎 街 道 と い う か ら 長 崎 が 終 点
︵ 起 点
︶ で あ る こ と に 間 違 い な い が
︑ 長 崎 の 何 処 で あ る か が 明 確 で な い ら し い
︒ 例 え ば
︑ 長 崎 奉 行 所 だ と し て も 立 山 役 所
︵ 今 の 歴 史 資 料 館 辺 り
︶ と 西 役 所
︵ 今 の 県 庁
︶ と 二 つ あ る
︒ ま た 早 朝 に 出 島 を 出 発 し た オ ラ ン ダ 人 一 行 は
︑ 桜 馬 場 天 満 宮 で 別 れ の 盃 を 交 わ し た と あ り
︑ 一 ノ 瀬 口 の 蛍 茶 屋 で 長 崎 を 旅 立つ人と別れを惜しんだともいう︒
こ の よ う に 何 処 が 起 点 で あ る か が 明 確 で な い と い う か ら
︑ こ こ で は出島オランダ商館の手前にある
長崎奉行所西役所跡にした︒
ま た 起 点
︵ 終 点
︶ は 小 倉 城 下 の 紫 川 に か か る 常 盤 橋 と い う 説 も あ れ ば
︑ 小 倉 か ら 大 里 ま で 延 長 さ れ
︑ 九 州 の 大 名 の 休 泊 を 西 生 寺 が 請
だいり
け た こ と や
︑ 大 里 は 一 里 塚 の 基 点 で 赤 間 ヶ 関 か ら も 近 い と い う こ と か ら
︑ 門 司 の 大 里 と い う 説 も あ る ら し い
︒ た だ 他 方 で 山 陽 道 の 終 点
︑︑
が赤間ヶ関だということにも異論があるらしく
異論ばかりだから
ここでは昨年歩き終えた赤間ヶ関からスタートすることにした︒
〇
こ の 街 道 の 周 辺 の 経 済 活 動 で 特 筆 す べ き こ と は
︑ 明 治 時 代 に 入 っ て 日 本 の 近 代 産 業 の 必 要 性 か ら 官 営 の 八 幡 製 鉄 所 が 開 業 し
︑ 石 炭 需 要 の 激 増 か ら 筑 豊 炭 鉱 の 大 規 模 化
・ 機 械 化 が 行 わ れ た こ と で あ る
︒ こ の 石 炭 産 業 で は
︑ 初 め 福 母 山 で 採 炭 が 行 わ れ
︑ 長 崎 街 道 に 沿 っ て各地で杵島炭層が採掘されるようになったが
これは文久元年
一
︑
︵
八六一︶イギリス駐日総領事のオルコックも見聞している︒
従 っ て
︑ こ の 近 代 化 に 伴 う 繁 栄 と エ ネ ル ギ ー 政 策 の 変 換 に よ る 衰 退 か ら
︑ こ の 街 道 も 大 い に 影 響 さ れ た と 見 て も 間 違 い な い は ず で
︑ 今その石炭産業の痕跡は長崎街道にほとんど見られない︒
ま た
︑ こ の 街 道 は 佐 賀 の 穀 倉 地 帯 を 通 過 し
︑ 海 に も 近 い か ら 海 産 物 に も 恵 ま れ て
︑ こ れ ら も 経 済 活 動 を 支 え て い た だ ろ う
︒ も ち ろ ん 長 崎 が 唯 一 の 海 外 に 開 か れ た 港 だ か ら
︑ そ の 交 易 に よ る 経 済 活 動 へ の貢献も忘れられてはならないだろう︒
〇
こ の 街 道 の 名 称 に な っ て い る 長 崎 は
︑ 元 亀 二 年
︵ 一 五 七 一
︶ 戦 国 大 名 の 大 村 純 忠 に よ っ て 開 か れ た 港 町 で
︑ 現 在 の 長 崎 県 庁 付 近 に あ る六つの町で成り立っていた︒
そ の 後
︑ 天 正 八 年
︵ 一 五 八
〇
︶ に は イ エ ズ ス 会 領 と な り
︑ 更 に 天 正 十 五 年
︵ 一 五 八 七
︶ に は 豊 臣 秀 吉 に よ り 天 領 と な っ た
︒ 慶 長 十 年
︵ 一 六
〇 五
︶ に は 大 村 藩 の 長 崎 甚 左 衛 門 を 天 領 に 組 入 れ て
︑ 長 崎 を 内町と外町とに分けられた︒
と こ ろ で 街 道 と い う 立 場 で 見 る と
︑ 中 世 以 前 は 九 州 管 内 諸 国 へ の 道 も 平 城 京 や 平 安 京 へ の 道 も
︑ 太 宰 府 が 起 点
・ 終 点 に な っ て い た
︒ と こ ろ が 近 世 以 降 に 長 崎 は 西 洋 や 東 洋 と の 窓 口 に な っ て
︑ そ こ か ら 江戸や京都と結ぶ最短経路が長崎街道であった︒
特 に 江 戸 時 代 の 幕 藩 体 制 と 参 勤 交 代 制 の 確 立 や
︑ 鎖 国 で 出 島 が 唯 一 の 外 国 と の 窓 口 に な っ て か ら
︑ こ の 街 道 は 活 況 を 呈 す る よ う に な っ た
︒ そ れ は 長 崎 か ら 江 戸 へ 異 国 の 産 物 や 文 化 を 運 ぶ 道 と な り
︑ 参 勤 交 代 の 諸 大 名 や 奉 行 所 の 役 人 の 他 に
︑ 文 人
・ 医 者
・ 留 学 生
・ 商 人
︑︒
・芸人など
他の街道では見られない多
彩な顔ぶれが上り下りした
そ の こ と は 多 く の 著 書 や 映 画 や テ レ ビ で
︑ 近 世 の 長 崎 街 道 を 往 来 し た 人 た ち が 多 い こ と を 知 っ て い る
︒ そ の 中 で も 紀 行 文 な ど が 残 る
︑︒
人たちを取り上げることで
この街道の歴史を垣間見ることにする
一
室町時代の連歌師飯尾宗
祇は一生を旅に送り
文明十二年
一︵︶︑︵
四 八
〇
︶ に は
﹁ 筑 紫 道 記
﹂ を 記 し て い る
︒ こ れ は 大 内 政 弘 の 招 請 を 受 け て 周 防 山 口 に 下 っ た と き
︑ 九 州 に 入 っ て 念 願 だ っ た 太 宰 府 入 り を し た
︒ こ の と き 木 屋 瀬 か ら 飯 塚 辺 り ま で は
︑ 近 世 の 長 崎 街 道 に 近 い道を通ったものと思われる︒
︵ 二
︶ 大 和 田 重 清 は 常 陸 の 佐 竹 義 宣 の 家 臣 で
︑ 豊 臣 秀 吉 の 大 陸 派 兵 に 従 う た め 肥 前 名 護 屋 に い た が
︑ 文 禄 二 年
︵ 一 五 九 三
︶ 名 護 屋 を 発 って水戸へ戻る道中が﹁大和田
近江重清日記﹂にある︒
︵ 三
︶ ド イ ツ 人 で 外 科 医 兼 博 物 学 者 の ケ ン ペ ル は
︑ オ ラ ン ダ 東 イ ン ド 会 社 に 入 社 し
︑ 元 禄 三 年
︵ 一 六 九
〇
︶ 来 日 し て
﹁ 日 本 誌
﹂ を ま と め た
︒ 元 禄 四 年
・ 五 年 の 二 度 に わ た り 江 戸 参 府 し た が
︑ そ の 様 子 を
﹁日本誌﹂から抄訳したものが﹁江戸参府旅行日記﹂である︒
︵ 四
︶ ス エ ー デ ン 人 で 医 学 と 博 物 学 を 修 め た ツ ュ ン ベ リ ー は
︑ 東 イ
ン ド 会 社 所 属 の オ ラ ン ダ 船 の 外 科 医 と し て 安 永 四 年
︵ 一 七 七 五
︶ 長 崎 に 到 着 し た
︒ 翌 春 オ ラ ン ダ 商 館 長 の 侍 医 と し て 江 戸 参 府 に 随 行 し たことが﹁江戸参府随行記﹂にある︒
︵ 五
︶ 古 河 古 松 軒 は 備 中 の 人 で
︑ 家 業 の 薬 種 業 を 営 み な が ら 医 術 を 施 し た
︒ 地 理 を 好 ん で 各 地 を 旅 行 し て 多 く の 旅 行 記 を 残 し
︑ 交 通
・ 風 俗
・ 物 産
・ 史 跡 な ど を 研 究 し た
︒ 天 明 三 年
︵ 一 七 八 三
︶ 五 十 八 才 の と き が
﹁ 西 遊 雑 記
﹂ の 旅 行 で
︑ 豊 前
・ 豊 後
・ 日 向
・ 薩 摩
・ 肥 後
・ 筑 後
・ 筑 前 へ 入 り
︑ 長 崎
・ 唐 津 を 回 り 筑 前 に 入 っ て 福 岡
・ 太 宰 府 を 経て下関に戻っている︒
︵六︶大槻玄沢は奥州一関藩の藩医の息子として生まれ
︑杉田玄白
・ 前 野 良 沢 の 教 え を 受 け
︑ 天 明 五 年
︵ 一 七 八 五
︶ 長 崎 に 遊 学 し た 蘭 学 の 先 駆 者 で あ る
︒ こ の 長 崎 行 き で 記 し た も の が
﹁ 瓊 浦 紀 行
﹂ で
︑ 瓊浦とは肥前長崎の異称である︒
︵ 七
︶ 内 山 真 龍 は 元 文 元 年
︵ 一 七 三 六
︶ 遠 江 国 に 生 ま れ
︑ 庄 屋 を 勤 め た 人 だ が 賀 茂 真 淵 門 下 の 国 学 者 で あ る
﹁ 出 雲 行 日 記
﹂ は 天 明 六
︒ 年︵一七八六︶京・出雲から九州へ赴いたときのものである︒
︵ 八
︶ 司 馬 江 漢 は 延 享 四 年
︵ 一 七 四 七
︶ 江 戸 に 生 ま れ
︑ 洋 風 画 家 と し て 知 ら れ て い る
︒ 蘭 学
・ 地 学
・ 天 文 学 ま で 幅 広 く 啓 蒙 的 な 活 躍 を し て い る
︒ 天 明 八 年
︵ 一 七 八 八
︶ 江 戸 を 発 し て 長 崎 に 向 か っ た の が
﹁江漢西遊日記﹂である︒
︵ 九
︶ 長 久 保 赤 水 は 常 陸 国 多 賀 郡 の 陸 前 浜 街 道 沿 い に 生 ま れ
︑ 農 業
せきす
い
の か た わ ら 朱 子 学 や 漢 詩 文 か ら 地 理 学
・ 天 文 学 な ど も 学 ん だ
︒ 明 和 四 年
︵ 一 七 六 七
︶ 近 村 の 漂 流 民 を 引 き 取 る た め
︑ 水 戸 藩 士 に 従 っ て 長 崎 往 復 の 機 会 を 得 た が
︑ そ の と き の 記 録 が
﹁ 長 崎 行 役 日 記
﹂ で あ る︒赤水は後に藩主の侍講となり
﹁大日本
史﹂の編纂にかかわり︑
︑ 伊能忠敬に先駆けて日本図を作成した︒
︵ 十
︶ 菱 屋 平 七 は 本 名 を 吉 田 重 房 と い う 尾 張 の 商 人 で
︑ 家 業 に 専 念 し て い た が 四 十 才 で 隠 居 し て
︑ 享 和 二 年
︵ 一 八
〇 二
︶ 名 古 屋 を 出 立 して九州を巡ったのが﹁筑紫紀行﹂である︒
︵ 十 一
︶ 野 田 成 亮 は 日 向 佐 土 原 の 修 験 山 伏 で 泉 光 院 と 号 し た
︒ 日 本 全 国 の 名 山 霊 跡 を 巡 拝 す る た め 文 化 元 年
︵ 一 八
〇 四
︶ か ら 六 年 以 上 を か け て 諸 国 を 巡 る が
﹁ 日 本 九 峰 修 行 日 記
﹂ に は 長 崎 を 含 め た 九
︑
州 の 街 道 を 歩 い た 記 録 が あ る
︒ 尚
︑ 九 峰 と は 英 彦 山
・ 石 鎚 山
・ 箕 面 山・金剛山・大峰山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山である︒
︵ 十 二
︶ 大 田 南 畝 は 江 戸 時 代 中 期 の 幕 臣 で
︑ 文 人
・ 学 者 と し て も 有 名 だ が
︑ 晩 年 は 蜀 山 人 の 号 で 狂 歌 を 詠 み 有 名 で あ る
︒ 文 化 元 年
︵ 一 八
〇 四
︶ 長 崎 奉 行 所 へ 赴 任 す る た め 江 戸 を 出 発 し
︑ 長 崎 に 到 着 す る ま で を 記 し た 紀 行 文 が
﹁ 革 令 紀 行
﹂ で
︑ 一 年 後 の 復 路 を 記 し た も の が﹁小春紀行﹂である︒
︵ 十 三
﹁ 長 崎 紀 行
﹂ の 伊 沢 蘭 軒 は 備 後 福 山 藩 士 の 家 に 生 ま れ
︑ 儒
︶ 学
・ 医 学
・ 本 草 学 を 学 び
︑ 文 化 三 年
︵ 一 八
〇 六
︶ 五 月 長 崎 奉 行 に 随 行 し て 長 崎 に 赴 く
︒ 長 崎 か ら 戻 っ て 福 山 藩 の 侍 医 と な り
︑ 頼 山 陽 や 菅茶人や大田南畝とも深い親交があった︒
︵ 十 四
︶ 伊 能 忠 敬 は 延 享 二 年
︵ 一 七 四 五
︶ 上 総 国 山 辺 郡 に 生 ま れ
︑ 衰 微 し て い た 家 業 を 挽 回 し 五 十 才 で 隠 居 し て 天 文 学 を 学 び
︑ 全 国 的 な 測 量 作 業 を 文 化 十 三 年
︵ 一 八 一 六
︶ ま で 続 け た
︒ 文 化 六 年 以 降 に は九州の測量も進め︑そのとき﹁測量日記﹂が記載された︒
︵ 十 五
︶ オ ラ ン ダ 人 フ ィ ッ セ ル は 古 典 語
・ 文 化 人 類 学
・ 中 国 語 を 修
め︑通訳官として来日した
﹁フィッセル参府紀行﹂は文政五年︵一
︒ 八二二︶商館長の江戸参府に随行したときのものである︒
︵ 十 六
︶ シ ー ボ ル ト は 南 ド イ ツ に 生 ま れ た 医 師 兼 博 物 学 者 で
︑ 文 政 六 年
︵ 一 八 二 三
︶ 長 崎 オ ラ ン ダ 商 館 付 の 医 師 と し て 着 任 し
︑ 我 が 国 の 動 植 物
・ 地 理
・ 歴 史
・ 言 語 を 研 究 し た
︒ 文 政 九 年 に 商 館 長 の 江 戸 参 府 に 従 い
﹁ 江 戸 参 府 紀 行
﹂ を 記 し て い る が
︑ 文 政 十 一 年 い わ ゆ る シ ー ボ ル ト 事 件 が 起 き 翌 年 日 本 を 追 放 さ れ
︑ 後 に 再 来 日 し て い る
︒
︵ 十 七
﹁ 薩 陽 往 返 記 事
﹂ を 著 し た 高 木 善 助 は
︑ 大 阪 天 満 の 商 人 で
︶ 薩 摩 藩 と の 関 係 が 深 く
︑ 文 政 十 一 年
︵ 一 八 二 八
︶ か ら 六 回 に 及 び 薩 摩を訪れて︑瀬戸内海は航路で九州内は陸路をとっている︒
︵ 十 八
︶ 吉 田 松 陰 は 思 想 家
・ 教 育 家 と し て 知 ら れ
︑ 嘉 永 三 年
︵ 一 八 五〇 二十一才のとき平戸・長崎に遊学したが
この間の日記が
西
︶
︑﹁
遊日記﹂である︒
︵ 十 九
︶ 川 路 聖 謨 は 豊 後 に 生 ま れ
︑ 嘉 永 五 年
︵ 一 八 五 二
︶ 勘 定 奉 行
あきら
に 任 じ ら れ
︑ 海 防 掛 を 兼 ね た 江 戸 末 期 の 幕 臣 で あ る
﹁ 長 崎 日 記
﹂
︒ は嘉永六年の長崎行きの往復を書き残したものである︒
︵ 二 十
︶ 越 後 長 岡 藩 士 の 河 井 継 之 助 は 安 政 六 年
︵ 一 八 五 九
︶ 三 十 三 才 の と き
︑ 備 中 松 山 の 山 田 方 谷 の 門 下 生 に な り
︑ 長 崎 に 出 向 い た と き の 日 記 が
﹁ 塵 壺
﹂ で
︑ 後 に 郡 奉 行 な ど を 勤 め て 目 覚 ま し い 業 績 を
︑︵︶︒
上げたが
慶応四年
一八六八
官軍との交戦で重傷を負い没した
︵ 二 十 一
︶ 医 師 の オ ー ル コ ッ ク は 安 政 六 年
︵ 一 八 五 九
︶ 来 日 し て
︑ イ ギ リ ス の 初 代 駐 日 公 使 を 勤 め た
︒ 文 久 元 年
︵ 一 八 六 一
︶ 香 港 に 赴 い た 後
︑ 長 崎 に 帰 着 し て 陸 路 で 江 戸 へ 向 か っ た が
︑ こ の と き の 見 聞 記が﹁大君の都﹂である︒
こ の 他 に も
︑ 江 戸 前 期 の 儒 教
・ 教 育 家
・ 本 草 学 者 の 貝 原 益 軒 や
︑ 江 戸 時 代 後 期 の 草 双 紙
・ 滑 稽 本 作 家 の 十 返 舎 一 九 や
︑ 江 戸 後 期 の 儒
︑︒
者・史家の頼山陽など
街道を利用した人はいるようだが省略する
〇
さ て
︑ こ の 街 道 の 里 程 も 資 料 に よ っ て 差 異 が あ る
︒ こ こ で は
﹁ 日 本 街 道 総 覧
﹂ を 中 心 に 他 の 資 料 で 修 正 し た
︒ た だ し 歴 史 書 で は な い か ら 里 程 に つ い て は 余 り 追 求 せ ず
︑ 歩 く 人 の 参 考 に し て 貰 う た め 取
︑︒
り上げたが
他の資料との大きな相違点
や疑問点は最後に注釈した
尚︑一里は三・九三キロで換算した︒
︑︑
また ここでも一回を二十キロ足らずで
区切ることにしているが 適 当 な 場 所 に 最 寄 り 駅 が な か っ た り
︑ 宿 泊 場 所 が な か っ た り
︑ 途 中 の 行 程 が 厳 し か っ た り
︑ 見 所 が 多 か っ た り
︑ 色 々 な 理 由 か ら 行 程 間 の距離としては短い所が多くなった︒
宿場名
里程︵キロ︶
小倉より黒崎︵福岡県北九州市八幡西区︶三里︵十一・八︶
黒崎より木屋瀬︵北九州市八幡西区︶
三里︵十一・八︶
こやのせ
木屋瀬より飯塚︵飯塚市本町︶
五里︵十九・七︶
飯塚より内野︵筑穂町内野︶
三里︵十一・八︶
内野より山家︵筑紫野市山家︶
三里︵十一・八︶
やまえ
山家より原田︵筑紫野市原田︶
一里五町︵四・五︶
はるだ
原田より田代︵滋賀県鳥栖市田代本町︶
二里︵七・九︶
田代より轟木︵鳥栖市轟木町︶
一里︵三・九︶
轟木より中原︵みやき町︶
一里半︵五・九︶
中原より神埼︵神埼市神埼町︶
二里一町︵八・〇︶
神埼より境原︵神埼市千代田町︶
一里︵三・九︶
境原より佐賀︵佐賀市︶
一里半︵五・九︶
佐賀より牛津︵小城市牛津町︶
二里︵七・九︶
牛津より小田︵江北町上小田︶
二里︵七・九︶
小田より北方︵武雄市北方町︶
二里︵七・九︶
北方より塚崎︵武雄市武雄町︶
二里︵七・九︶
塚崎より嬉野︵嬉野市嬉野町︶
四里︵十五・七︶
嬉野より彼杵︵長崎県東彼杵町︶
三里︵十一・八︶
そのぎ
彼杵より松原︵大村市松原本町︶
三里︵十一・八︶
松原より大村︵大村市本町︶
三里︵十一・八︶
大村より永昌︵諫早市永昌町︶
三里︵十一・八︶
永昌より矢上︵長崎市矢上町︶
四里︵十五・七︶
矢上より日見︵長崎市宿町︶
一里︵三・九︶
日見より長崎︵長崎市︶
二里︵七・九︶
合計五十八里六町︵二百二十八・六キロ︶
これ以外に壇之浦から小倉の常盤橋まで約十四キロがある︒
① 合 計 が 五 十 七 里 と い う の が 多 い よ う だ が
︑ 学 術 書 で な く 目 安 と し て取り上げたから余り追求しないことにする︒
② 資 料 に よ っ て は
︑ 木 屋 瀬 ー 飯 塚 は 二 里 と い う の も あ り
︑ ま た 松 原
︑︒
ー大村は二里というのもあり
諫早ー矢上は三里半というのもある 尚︑諫早宿は永昌宿ともいう︒
いさはや
③ 冷 水 峠 は 難 所 だ っ た が
︑ 今 は 当 時 よ り 約 四 百 メ ー ト ル 南 を 通 る よ
ひや み ず
うになっている︒
④ 慶 安 二 年
︵ 一 六 四 九
︶ 頃 ま で の 長 崎 街 道 は
︑ 小 田 か ら 塩 田 ー 鹿 島 ー 浜 ー 多 良 ー 湯 江 を 経 て 諫 早 に 出 て 長 崎 に 向 か っ た よ う で あ る
︒ 後 に 小 田 か ら 成 瀬 ー 塩 田 を 経 て 嬉 野 に 向 か っ た が
︑ 成 瀬 と 塩 田 の 間 が 毎 年 水 害 で 不 便 な た め
︑ 享 保 二 年
︵ 一 七 一 七
︶ に 北 方 か ら 塚 崎 経 由 に付け替えられた︒
⑤ 江 戸 時 代 の 初 め の 頃 は 彼 杵 ー 時 津 ー 浦 上 ー 長 崎 と い う コ ー ス が 一 般 的 で
︑ 後 に 彼 杵 ー 大 村 ー 諫 早 ー 矢 上 ー 長 崎 の コ ー ス が 定 着 し た
︒
山 陽 道 か ら 長 崎 街 道 へ 山 陽 道 の 終 点 は 壇 之 浦 を 経 て 赤 間 神 社 の 先 の
① で
︑ こ の 亀 山 神 社 門 前 に は
﹁ こ こ は 山 陽 道 の 基 点
︑ 九 州 渡 航 の 起 地 な り
﹂ と あ っ た か ら
︑ こ こ か ら ス タ ー ト す る こ と に し た
︒ た だ
︑ 亀 山 神 社 か ら 向 か い の 九 州 に 渡 り た い と も 思 う が
︑ 今 は 歩 く 者 の た め に 関 門 国 道 ト ン ネ ルができているから︑これを歩いて九州に渡ることにした︒
亀 山 神 社 は
︑ 貞 観 元 年
︵ 八 五 九
︶ 神 託 に よ り 国 主 が 宮 殿 を 造 営 し て 以 来
︑ 朝 廷
・ 大 内
・ 毛 利 藩 主 の 崇 敬 が 厚 く
︑ 下 関 六 十 ヶ 町 の 氏 神 と し て 奉 斎 さ れ て い る
︒ 昔 こ の 神 社 地 は 島 で 関 門 海 峡 か ら 九 州 連 峰 を眺める景勝地だった︒
〇
赤 間 神 社
関 門 自 動 車 道
国 道 ト ン ネ ル
② の 前 を 通 り
︑
を く ぐ る と
︑
③ は 壇 之 浦 で
︑ み も す そ 川 町 交 差 点 の 脇 に あ る
︒ 人 と 自 転 車 の 入 口 は 地 下 十 四 階 ぐ ら い ま で エ レ ベ ー タ ー で 下 り て
︑ 全 長 三 四 六 一 メ ー トルというトンネルのうち七八〇メートルの人道部分を歩く︒
ト ン ネ ル を 抜 け て 九 州 側 の エ レ ベ ー タ ー で 地 上 に 出 る と
︑ 和 布 刈
めかり
神社の鳥居が目に入り︑その先に関門海峡の海が広がっている︒
右 側 に 神 功 皇 后 の 創 建 と さ れ る
④ が あ り
︑ 左 側 に 殉 職 和 布 刈 神 社
じ んぐう
船 員 無 縁 塚 が あ っ て
︑ そ の 後 背 の 山 が 和 布 刈 公 園 で
︑ 向 か い が 海 に 門 司 関 面 し た 和 布 刈 観 潮 公 園 で あ る
︒ そ の 先 で 右 へ カ ー ブ し た 所 に
⑤がある︒
址︑︑
門司関址とは
門司が都と太宰府を結ぶ重要な地であることから 大 化 二 年
︵ 六 四 六
︶ 海 峡 往 来 の 人 や 船 な ど を 調 べ る た め 門 司 関 を 設 け
︑ 九 州 第 一 の 駅 と し た
︒ 昔 か ら 詩 歌 な ど に 数 多 く 詠 ま れ て い る
︒
〇
左 側 の
⑥ の 前 を 通 る が
︑ こ れ は 貞 観 二 年
︵ 八 六
〇
︶ 甲 宗 八 幡 神 社
こう そう
神功皇后ご着用の
甲
をご神霊︵ご神体︶に奉じて︑創建したため甲
かぶ と
宗八幡神社という︒
そ の 先 の 右 側 に
︑ 大 正 十 三 年 建 築 の N T T 門 司 営 業 所 や 福 岡 中 央 レ ト ロ な 建 物
門 司 港 駅 銀 行 門 司 支 店 な ど
⑦ が あ り
︑ 更 に 右 側 に J R がある︒
る通を脇の社神址刈関布司和門
右 側 に 機 関 車 が 格 納 さ れ て い る
⑧ を 見 て
︑ J R を 九 州 鉄 道 記 念 館 ま た い で い る 清 滝 高 架 橋 を 渡 ら ず に 直 進 す る
︒ 左 側 に 門 司 区 役 所 を 見 な が ら
︑ ゆ る い 坂 を 上 る と 左 側 に 料 亭 山 水 園 が あ り
︑ そ の 階 段 の 入口に御堂がある︒
ゆ る い 坂 を 下 り 始 め る と 左 側 に
︑ 更 に
と 続 き
︑ 門 法 音 禅 寺
妙 教 寺 司 風 師 郵 便 局 と す ぐ 先 に
が あ る
︒ T 字 路 の 風 師 二 丁 目 交 差 点 慈 雲 寺
かざし
を越えると︑すぐ
があり︑風師登山道の道標がある︒
法華寺 小 森 江 東 区 民 館 と 消 防 団 を 過 ぎ
︑ す ぐ 葛 葉 一 丁 目 交 差 点 を 渡 る と 左 側 に
⑨ が あ る
︒ こ の 辺 り か ら 下 り 坂 で 更 に
が あ り
︑ 西 照 寺
徳 念 寺 慈 眼 寺 右 側 に 門 司 葛 葉 郵 便 局 が あ っ て
︑ 葛 葉 三 丁 目 交 差 点 の 左 側 に が あ る
︒ 二 タ 松 町 交 差 点 を 過 ぎ て
︑ 更 に 進 む と 左 側 に ハ ロ ー ワ ー ク があり︑風師登山道小森口の道標がある︒
小 森 江 三 丁 目 交 差 点 を 過 ぎ た 辺 り か ら
︑ 本 来 の 旧 道 は 右 斜 め に 進 ん で
︑ 小 森 江 駅 辺 り で J R を 突 っ 切 っ た よ う で あ る
︒ た だ 今 は そ の 道 が な い の で 次 の 南 本 町 交 差 点 で 右 へ 曲 が り
︑ 左 へ カ ー ブ す る と J
R
に達する︒
小森江駅
こ の 先 で J R の 反 対 側 に 出 て 国 道 一 九 九 号 線 に 合 流 す る
︒ す る と す ぐ
を 渡 る が
︑ こ こ の 住 所 は 大 里 元 町 で あ る
︒ こ こ か ら 街 道 大 里 橋 の 両 側 は 製 糖 会 社 で
︑
か ら 国 道 と 分 か れ る
︒ 大 里 本 町 一 丁 目 交 差 点 大 里 本 町 一 丁 目 交 差 点 を 渡 っ て 振 り 返 る と
︑ 国 道 の 方 が 右 へ カ ー ブ し て 旧 道 は 真 っ 直 ぐ だ っ た こ と が 分 か る
︒ 旧 道 を 進 む と す ぐ 右 側
に
⑩があり︑その向かいに大専寺の幼稚園がある︒
西生寺 西 生 寺 は
︑ 康 正 二 年
︵ 一 四 五 六
︶ に 創 建 さ れ た
︒ 江 戸 時 代 に は 徳 川 幕 府 の 宗 門 改 め の 政 策 に よ り
︑ 当 寺 は 企 救 郡 に お け る 判 行 寺
︵ 踏
きく
絵 寺
︶ と し て 毎 年 三 月 に 踏 絵 が 行 わ れ た
︒ ま た 小 笠 原 小 倉 藩 歴 代 藩 主はたびたび当寺を参詣された︒
〇
庄 屋 こ の 辺 り は 旧 道 ら し い 落 ち 着 い た 道 で
︑ 次 の 四 つ 辻 の 手 前 に の 石 標 が あ り
︑ 四 つ 辻 の 右 角 に レ ン ガ 倉 庫 な ど も 港 石 原 宗 佑 屋 敷 跡 町 ら し い
︒ 石 原 宗 佑 と い う 庄 屋 は 江 戸 期 凶 作 に 苦 し む 農 民 を 救 済 す るため︑私財を投じて門司小倉に新田開発した功績者である︒
︑︒
右側の山崎鉄工から海を見ると
右角に御番所跡の石標に気づく
︑︵︶ そのすぐ左側に
⑪があり
その脚下に本陣
お茶屋 八坂神社の鳥居 跡 の 石 標 が あ る
︒ 本 陣 は 九 州 諸 大 名 や 長 崎 日 田 代 官 や オ ラ ン ダ 使 節
︑︒
などが江戸へ往復の途中
休泊した小倉藩の施設があった所である こ の 通 り の 海 側 に 御 番 所 が あ っ て
︑ 本 土 の 赤 間 ヶ 関 へ 行 く 渡 海 口 にあたり︑船の出入や人馬の改めや抜荷の取締りを行っていた︒
八 坂 神 社 の 三 十 メ ー ト ル ほ ど 先 右 側 に
の 石 標 御 在 番 宅
・ 浜 郡 屋 跡 があり︑四つ辻を越えると左側に門司大里本町郵便局がある︒
次 の 四 つ 辻 の 三 十 メ ー ト ル ほ ど 手 前 に
の 石 御 高 札
・ 南 部 郡 屋 敷 跡 標 が あ る
︒ こ こ は 幕 府 や 藩 の 通 達 を 掲 示 し た 高 札 場 で
︑ 隣 接 の 南 郡 屋は藩役人が各村庄屋に通達と打合せを行った所である︒
次 の 四 つ 辻 の 百 メ ー ト ル ほ ど 先 左 側 に
が あ る が
︑ こ 一 里 塚 標 石 跡 の地点は門司口門から計測したものと思われる︒
︑
右側に建つ赤レンガの建物の終わりに
の石標があり 豊前大里宿跡 そ の 先 は 左 右 に 赤 レ ン ガ の 建 物 が あ る
︒ 右 側 は 倉 庫 ら し い 建 物 で
︑ 左 側 は 大 正 十 四 年 の 今 上 陛 下 銀 婚 御 式 記 念 の 石 碑 と 街 道 松 の 名 残 が 一本あり︑その後ろに
⑫がある︒
門司赤煉瓦プレイス
こ の 赤 煉 瓦 プ レ イ ス は
︑ 大 正 二 年
︵ 一 九 一 三
︶ 帝 国 麦 酒
︵ 株
︶ と し て 工 場 を 竣 工 し 醸 造 を 開 始 し た が
︑ 幾 多 の 変 遷 の 後 サ ッ ポ ロ ビ ー ル 九 州 工 場 と な り
︑ 平 成 十 二 年 に 工 場 は 閉 鎖 さ れ た
︒ こ こ に は 戦 前 の ド イ ツ 製 の 機 械 な ど ビ ー ル 製 造 に 必 要 な 施 設 が 残 さ れ て い る
︒
〇
次 の 四 つ 辻 で 左 手 を 見 れ ば J R
で
︑ 右 手 を 見 れ ば 国 道 の 向 門 司 駅 こ う は 海 で
︑ 国 道 沿 い に ボ ー リ ン グ 場 や レ ス ト ラ ン が 並 ん で い る
︒ 旧 道 は 間 も な く 四 つ 辻 を 越 え て 広 い 道 は 狭 く な る が
︑ そ の 左 角 に 小 さな大里本町公園がある︒
を 渡 る と 大 里 本 町 三 丁 目 か ら 松 原 一 丁 目 に な る
︒ 右 側 に 丹 中 原 橋 平 製 菓 と 左 側 に 第 一 交 通 が あ り
︑ 国 道 の 向 こ う に サ ン マ ル コ と い う 結 婚 式 場 が 見 え る
︒ そ の 先 左 側 に 冨 田 鉄 工 が あ っ て
︑ そ の 向 か い に 小屋のような建物の中に
⑬がある︒
戦没者無縁供養塔
︑︒
松竹橋
高架橋 を渡ると松原一丁目から二丁目になり
の下を通る 次 の 橋 を 渡 る と 松 原 三 丁 目 だ が
︑ そ の 二 百 メ ー ト ル ほ ど 先 の 右 手 に
⑭ と い う 会 社 が あ り
︑ そ の 先 で 旧 道 は J R で 行 き 止 プ リ ン テ ッ ク ス
まりである︒
従 っ て 少 し 戻 っ て J R の ガ ー ド を く ぐ り
︑ 国 道 三 号 線 に 出 て 右 へ
︒︑︒
曲がる
西新町一丁目交差点を越え
西新町二丁目交差点を越える す る と 右 手 に 先 ほ ど の プ リ ン テ ッ ク ス の 建 物 が 見 え て き て
︑ 前 方 に 手 向 山 ト ン ネ ル が 現 れ る
︒ 旧 道 は 先 ほ ど 消 え た 所 か ら
︑ ト ン ネ ル の山すそを走るJRの辺りにあったのだろう︒
ト ン ネ ル を く ぐ っ て 進 む と
︑ 山 す そ の 暗 闇 に た く さ ん の 地 蔵 ら し い も の が 見 え る が
︑ こ れ が 水 か け 地 蔵 だ ろ う か
︑ 車 が 多 く て 怖 い た め 国 道 を 渡 っ て 確 認 で き な い
︒ そ の 先 に 長 州 騎 兵 隊 の 墓 が あ る と い うが︑見えてきた石造物群は伊崎明翠園のものである︒
国 道 が 左 へ カ ー ブ す る 辺 り で
︑ J R で 消 え た 旧 道 は 右 へ 折 れ て い た よ う だ か ら
︑ 国 道 か ら J R の 向 こ う 側 に 出 ら れ る 道 を 捜 す と
︑ 次 の赤坂一丁目東交差点で右
折する道がある︒
猿 田 彦 J R を く ぐ っ て 少 し 右 へ 戻 る と
︑ 文 化 二 年
︵ 一 八
〇 五
︶ の
︒︑
太神
⑮があるから旧道に間違いない
その道を小倉の方向へ進むと 川を渡って赤坂五丁目から高浜二丁目になる︒
る返るりれ振現をがス道イ旧レらプか瓦神煉太赤彦司田門猿
そ の ま ま 進 む と 捜 し て い た
⑯ が 左 側 に あ る
︒ こ 企 救 の 高 浜 の 掲 示
きく
の 小 倉 か ら 門 司 の 大 里 に か け て の 海 岸 は
﹁ 企 救 の 高 浜
﹂ と か
﹁ 企
︑ 救 の 長 浜
﹂ と か 呼 ば れ て
︑ 長 い 海 岸 線 に は 白 浜 と 美 し い 根 曲 が り 松 が 群 生 し て い た が
︑ 今 は 臨 海 埋 め 立 て に よ り 全 く 姿 を 消 し て い る
︒ 万 葉 の 昔 か ら 太 宰 府 に 往 来 す る 貴 人 や 防 人 た ち の 心 を 慰 め
︑ 数 々
さきも
り
の 歌 に も 残 さ れ て
﹁ 豊 国 の 企 救 の 長 浜 ゆ き く ら し 日 の 暮 れ ゆ け ば
︑ 妹 を し ぞ 思 う
﹁ 豊 国 の 企 救 の 高 浜 た か だ か に 君 待 つ 夜 ら は 小 夜 ふ
﹂ けにけり﹂とある︒
〇
そ の 先 の 旧 道 は 行 き 止 ま り だ か ら
︑ や む な く 戻 っ て 国 道 一 九 九 号 線 を 進 む
︒ 左 側 に ア ル カ デ ア 小 倉 と い う
が あ り
︑ そ こ の 末 結 婚 式 場 広 町 交 差 点 で 左 へ 曲 が る
︒ 次 の 四 つ 辻 で 交 差 す る 道 が 旧 道 で
︑ 右 へ 曲 が る と 小 倉 の 方 向 だ が
︑ 念 の た め 左 折 す る と 行 き 止 ま り で あ る
︒
︑︑
間もなく国道に接すると
並行する中間地の
が新しいのは 松並木 昔 の 姿 を 復 活 さ せ よ う と い う 意 志 だ ろ う
︒ 松 並 木 が 切 れ る と 国 道 か ら 離 れ て 行 く が
︑ こ の 地 は 高 浜 で す ぐ 右 側 に
⑰ が あ り
︑ そ の 閻 魔 堂
反対側に
とある︒
岩松助左衛門翁生誕家跡 岩 松 助 左 衛 門 は
︑ 文 化 元 年
︵ 一 八
〇 四
︶ 長 浜 に 生 ま れ 代 々 庄 屋 の 家 を 継 い で
︑ 後 に 海 洋 御 用 掛 難 破 船 支 配 役 を 命 じ ら れ た
︒ 小 倉 沖 は 暗 礁 が 多 い た め 難 破 船 が 絶 え ず
︑ 自 費 を 使 っ て 灯 台 建 設 を 嘆 願 し て きたが︑やっと明治六年︵一八七三︶に白色灯台が点灯された︒
〇
貴 布 祢 大 明 神
企 救 更 に 進 む と 右 側 に
が あ り
︑ 新 幹 線 を く ぐ る 所 に
⑱ が あ る
︒ 江 戸 時 代 の 九 州 諸 藩 の 大 名 は の 長 浜 の 掲 示 と 門 司 口 門 跡 常 盤 橋 周 辺 の 本 陣 で 一 泊 し
︑ 明 朝 は 京 橋 筋 を 通 っ て 大 里 に 向 か う と き
︑ 最 も 重 要 な 道 で あ る た め 昼 夜 常 に 開 門 し て い て
︑ 番 所 に 数 人 が 交代で勤めていた︒
砂 津 川 を 渡 り
︑ 向 か い に 交 通 安 全 地 蔵 を 見 な が ら 左 へ 曲 が っ て 川 沿 い に 進 む が
︑ こ こ に 掲 示 し て あ る 古 地 図 の よ う に
︑ 昔 の 道 は 川 沿 いより少し西側にあったようである︒
今 は J R を 踏 切 で 渡 り
︑ ガ ー ド を く ぐ り
︑ ま た 踏 切 を 渡 っ て
︑ 車 が 多 い 道 と の 新 砂 津 橋 交 差 点 で 右 へ 曲 が る
︒ す ぐ 次 の 四 つ 辻 で 左 へ
︑︒ 曲がる道が旧道で
この右手の延長線上に旧道があったのだろうか す ぐ 右 へ 曲 が る と 右 側 に 生 往 寺 南 門 と 並 ん で
⑲ が あ り
︑ こ こ 西 顕 寺 には先ほど生誕家跡があった岩松助左衛門の墓がある︒
車 が 多 い 道 と の 交 差 点 を 越 え る と
︑
⑳ で 旧 道 は 消 え て い る 伊 勢 丹
小
か ら 左 回 り で 旧 道 に 戻 る こ と に す る
︒ す る と 伊 勢 丹 の 正 面 に J R を 見 て 旧 道 に 戻 り
︑ そ こ か ら は ア ー ケ ー ド の
で
倉 駅
小 倉 中 央 商 店 街 ある︒
伊 能 忠 敬 測 量 二
〇 商 店 街 を 抜 け る と 紫 川 に 突 き 当 た る
︒ こ こ に は が あ り
︑ 少 し 右 側 に 木 造 の
が あ る
︒ 左 手 に N H K
〇 年 記 念 碑
常 盤 橋 の 建 物 が 見 え
︑ 右 手 を J R が 走 り 抜 け る が
︑ こ の 常 盤 橋 は J R か ら も見ることができる︒
伊 野 忠 敬 は 五 十 才 で 家 業 を 長 男 に 譲 り
︑ 天 文
・ 暦 学 を 学 び
︑ 寛 政 十 二 年
︵ 一 八
〇
〇
︶ 五 十 五 才 の と き 蝦 夷 に 向 け て 測 量 の 第 一 歩 を 踏 み 出 し た
︒ 九 州 に は 六 十 四 才 の と き か ら 二 度 に わ た り 測 量 作 業 を 行 ったが︑この小倉城下の常盤橋が起点となった︒
小 倉 か ら 黒 崎 へ 常 盤 橋 の た も と に は
︑ こ の 橋 が 長 崎 街 道 の 起 点 だ と あ り
︑ 橋 を 渡 る と
① が あ っ て
︑ 常 盤 橋 を 象 が 渡 っ た 話 が 長 崎 街 道 茶 店 と き わ ば し 掲示してある︒
常 盤 橋 は 江 戸 時 代 の 初 め 頃
︑ 小 倉 の 城 下 町 の 東 曲 輪
︵ 主 と し て 町
くるわ
人 が 生 活 し て い た 地 域
︶ と
︑ 西 曲 輪
︵ 主 と し て 武 士 が 生 活 し て い た 地 域
︶ を 結 ぶ 重 要 な 橋 と し て か け ら れ た
︒ こ の 橋 の 西 詰 め が 長 崎 街 道の起点として幕府役人や旅人の宿が建ち並んでいた︒
常 盤 橋 を 象 が 渡 っ た の は
︑ 享 保 十 四 年
︵ 一 七 二 九
︶ 八 代 将 軍 吉 宗 の 命 に よ り ベ ト ナ ム か ら 送 ら れ た 子 象
︵ 七 才
︶ で
︑ 陸 路 を 苦 労 し て 江戸城に参上したという︒
〇
右 側 の 小 倉 室 町 郵 便 局 が あ り
︑ こ こ の
は 初 め て 目 に す 黒 い ポ ス ト る も の で 次 の よ う に 記 し て あ る
︒ 長 崎 街 道 は 江 戸 時 代 に 小 倉
・ 長 崎 間 で 二 十 五 の 宿 場 を 結 び
︑ 海 外 へ の 窓 口 を 開 く 文 明 ロ ー ド と し て 発
トスポ橋い盤黒常のる前え局見便も郵ら町か室R倉J小
展 し た
︒ 明 治 四 年
︵ 一 八 七 一
︶ 十 二 月
︑ 九 州 で 最 初 の 長 崎 郵 便 役 所 と 十 六 の 郵 便 取 扱 所 が 街 道 沿 い に 設 置 さ れ た
︒ 物 流 と 情 報 の 伝 達 手 段 と し て 役 割 を 果 た し て き た 長 崎 街 道 を 振 り 返 り
︑ 歴 史 文 化 を 活 か し て 地 域 の 活 性 化 が 更 に 進 む よ う に 黒 い ポ ス ト を 設 置 し た と あ る
︒ そ の 先 で 広 い 道 に 突 き 当 た る が
︑ 右 手 を 見 れ ば J R
が あ 西 小 倉 駅 る
︒ 駅 前 交 差 点 で 向 こ う 側 に 渡 り
︑ 先 ほ ど の 位 置 に 戻 る と
と
大 門 跡 あ る が
︑ 長 崎 街 道 の 室 町 の 通 り を 西 に 進 む と 最 初 の 門 が 大 門 で
︑ 特 別 に 大 き な 門 で は な か っ た と あ る
︒ 江 戸 時 代 こ の 北 側 は 海 岸 で
︑ 潮 の 流 れ や 北 風 で 山 の よ う に 海 藻 が 打 ち 上 げ ら れ
︑ そ の た め こ の 付 近 を大藻と呼んでいた︒
大 門 跡 の 右 側 の 道 は
② に 突 き 当 た り 左 へ カ ー ブ し て
︑ ま た 妙 乗 寺 突 き 当 た っ て 右 へ 曲 が る
︒ 次 の 四 つ 辻 を 左 へ 曲 が り
︑ 国 道 一 九 九 号 線 を 渡 っ て 直 進 し て 右 へ カ ー ブ す る
︒ 県 道 二 七
〇 号 線 を 渡 る と 二 股 に な り
︑ 右 の 道 は
③ に 突 き 当 た る が
︑ 旧 道 は 左 の 道 を 進 む
︒ 安 国 寺 安 国 寺 は
︑ 足 利 尊 氏
・ 直 義 兄 弟 の 発 願 で 全 国 に 建 て ら れ た 寺 の 一 つ で
︑ 慶 長 五 年
︵ 一 六
〇
〇
︶ 細 川 忠 興 の 小 倉 城 築 城 の 折
︑ 現 在 地 に
移 っ た
︒ 元 和 八 年
︵ 一 六 二 二
︶ 最 上 藩 の 内 紛 で 細 川 家 預 か り と な っ た 最 上 光 直 や 寛 文 十 一 年
︵ 一 六 七 一
︶ 伊 達 騒 動 に 連 座 し て 小 倉 に 配 流中に没した伊達宗興や小倉藩の儒者篠原級長の墓がある︒
〇
こ こ か ら 旧 道 は 県 道 二 七
〇 号 線 に 並 行 し て 南 進 す る が
︑ そ の 五 ー 六
〇 メ ー ト ル 先 で 県 道 を 越 え た 小 倉 城 の 方 に
︑
④ と い 三 ノ 丸 の 土 塁 う 掲 示 が あ る
︒ 土 塁 が そ の ま ま の 形 で 残 っ て い る の は こ の 付 近 だ け だとある︒
︑︑︑
突き当たって右へ
すぐ左へ曲がると
左側に
斎場があり 心光寺 直 進 し て 大 通 り を 渡 っ て 田 町 に 入 る
︒ 田 町 交 差 点 で 高 架 橋 を く ぐ る と 右 角 に
⑤ が あ る が
︑ こ れ は 慶 長 七 年
︵ 一 六
〇 二
︶ 細 川 忠 神 明 神 社 興が小倉城を築いたとき伊勢神宮を勧請した︒
こ こ で 右 へ 曲 が っ て
︑ 百 メ ー ト ル ほ ど 先 の 二 つ 目 の 辻 を 左 へ 曲 が る
︒ す る と す ぐ
幼 稚 園 が あ り
︑ 前 方 の コ ン ビ ニ で 広 い 道 に 合 萬 徳 寺 流 す る
︒ そ の 左 側 に
⑥ が あ り
︑ 西 日 本 新 聞 と 小 倉 到 津 口 門 跡 の 掲 示 郵 便 局 が あ る
︒ 到 津 口 門 と は 長 崎 街 道 の 出 入 口 で
︑ 門 の 外 は 左 右 に
土 手 と 堀 が 連 な り
︑ 内 側 に 三 角 形 の 約 千 坪 の 広 場 が あ り
︑ 昼 夜 開 門 していた︒
X 字 型 の
で は 直 進 す る 感 じ の 左 の 道 を 進 む が
︑ こ の 左 金 田 交 差 点 側 に は 裁 判 所 が あ る か ら 分 か り や す い
︒ 昔 は 左 へ カ ー ブ す る 手 前 で 左 折 し た よ う だ が
︑ 今 は 消 え て い る か ら 道 な り に カ ー ブ す る
︒ そ し
︑︑
て次の原町交差点を横切る道が旧道で
この左角に
⑦があり 善龍寺 この交差点で右へ曲がる︒
原 町 か ら 本 町 に な り
︑ 日 豊 本 線 の 踏 切 を 越 え て 清 水 に 入 る
︒ す ぐ 清 水 小 学 校 の 裏 門 が あ り
︑ こ こ に は
が あ る
︒ 右 側 に 長 崎 街 道 の 掲 示 小倉清水郵便局があり︑清水小交差点を渡る︒
次 の 国 道 三 号 線 を 横 断 し て 直 進 す る 道 は 消 え て い る か ら
︑ ど の 道 を 進 ん で も 良 い の だ が
︑ 清 水 三 丁 目 交 差 点 で 右 折
︑ 次 の 交 差 点 で 左 折︑すぐ左折して︑四つ辻の真ん中の旧道は
の前を通る︒
法輪寺
水 か け 地 こ の 先 に 大 満 寺 裏 参 道 が あ り
︑ そ の 百 メ ー ト ル ほ ど 先 に
⑧ と 旧 長 崎 街 道 の 石 標 が あ っ て
︑ そ の す ぐ 先 に
の 山 門 が 蔵 尊
大 満 寺 あ る
︒ 水 か け 地 蔵 尊 が あ る 場 所 は
︑ 湧 き 水 が 出 て い て 昔 の 旅 人 は 休
尊蔵地け寺か満水大
息し︑旅の安全を地蔵に祈願して︑冷たい清水を飲んでいた︒
大 満 寺 は 天 正 年 間
︵ 一 五 七 三 ー 九 一
︶ に 創 建 さ れ
︑ 昭 和 二 十 八 年 現 在 地 に 移 っ て き た が
︑ こ こ の 本 尊 の 十 一 面 観 音 は 行 基 作 と も い わ れ る
︒ 或 る 年
︑ 雪 が 連 日 降 り 積 も っ て 外 に 出 ら れ ず
︑ 寺 に 塩 が な く な り 調 理 が で き ず 困 っ て い た と き
︑ 商 人 が 塩 を 担 い で き た の が 不 思 議 で
︑ こ の 本 尊 が 行 っ て く れ た の だ ろ う と い う こ と で
︑ 以 降 こ の 本 尊を塩買観音と呼ぶようになった︒
〇
左 側 に 泉 台 小 学 校 が あ り
︑ 右 側 に 小 倉 金 鶏 郵 便 局 が あ る
︒ 右 へ カ ー ブ し て 点 滅 信 号 機 が あ る 四 つ 辻 で 左 へ 曲 が る
︒ 昭 和 三 丁 目 交 差 点 茶 屋 川 橋
九 州 鉄 道 茶 を 渡 り
︑ 槻 田 川 を
で 渡 る と 左 側 に レ ン ガ 造 り の
⑨ が あ る
︒ 九 州 鉄 道 は 明 治 二 十 四 年
︵ 一 八 九 一
︶ に 開 通 し 屋 町 橋 梁
︑︒
た後に国有化したが
支線の大蔵線は明治四十四年に廃線となった 左 側 に 八 幡 茶 屋 郵 便 局 が あ り
︑ 次 の 辻 を 直 進 す れ ば 左 側 に 商 店 街 が あ る が
︑ 旧 道 は 直 進 せ ず に 右 斜 め に 進 む
︒ 昭 和 か ら 荒 生 田 に 入 る
あろうだ
と
︑ 右 側 に 小 さ な 御 堂 と 彫 刻 が あ り
︑ 広 い 県 道 五 一 号 線 を 越 え る
︒
六 条 橋 交 差 点 で 県 道 二 九 六 号 線 に 出 て
︑ 板 櫃 川 沿 い に 進 む と 向 こ
いたひ
つ
う 岸 に 大 き な 商 店 の 建 物 が あ る
︒ 旧 道 は 荒 生 田 一 丁 目 交 差 点 辺 り で 右へ川を渡ったようだが︑今は消えて分からない︒
そ こ で 三 条 橋 交 差 点 で 三 条 橋 を 渡 る 道 は
⑩ の 方 向 で
︑ 橋 高 見 神 社 を 渡 っ て 二 つ 目 の 辻 を 右 へ 曲 が れ ば
が あ り
︑ 次 の 辻 を 左 へ 曲 国 境 石
長 崎 街 道 の が っ て 進 む
︒ す る と 上 り の 途 中 に 二 股 が あ り
︑ そ の 角 に
⑪があるから右へ上るが︑この後の道も消えているらしい︒
棒標
九
最 後 は 石 段 を 下 り て 広 い 県 道 に 合 流 す る と
︑ 向 か い 側 の 公 園 に
⑫ が あ り
︑ 合 流 し た 右 側 に は 紫 雲 閣 が あ る
︒ 州 鉄 道 大 蔵 駅 跡 の 掲 示 T 字 路 の 上 本 町 交 差 点 を 過 ぎ て
︑ 中 央 一 丁 目 交 差 点 の 二 股 で 右 が
︑︑︒
旧道だが
その右高台に
があり
隣に八幡小学校がある 高炉台公園 高炉台公園は明治三十四年︵一九〇一︶初出
銑してから︑日本の近
し ゅつせ
ん
代産業を支えてきた八幡製鉄所を記念するものである︒
戸 橋 バ イ パ ス 西 交 差 点 か ら の 旧 道 は
︑ 向 か い の ベ ス ト 電 器 の 方 向 だ っ た ら し い が
︑ そ れ は 消 え て い る か ら 国 道 三 号 線 を 進 ま ざ る を 得 な い
︒ こ の 北 側 に J R ス ペ ー ス ワ ー ル ド 駅 が あ り
︑ そ の 東 側 一 帯 が
明 治 三 十 年
︵ 一 八 九 七
︶ 設 置 が 決 定 し た 官 営 八 幡 製 鉄 で
︑ 現 在 の 新 日本八幡製鉄所である︒
を く ぐ り
︑ 春 の 町 五 丁 目
・ 四 丁 目 交 差 点 を 越 え
︑ 西 本 町 一 高 架 橋
旧 百 三 十 銀 行 八 幡 支 丁 目 交 差 点 で 左 へ 進 む が
︑ こ の 角 に 赤 レ ン ガ の
︑︵︶︒店
⑬があり
これは大正四年
一九一五
に建てられたものである そ の 先 の 西 本 町 交 差 点 を 渡 り
︑ 尾 倉 二 丁 目 交 差 点 を 渡 っ て 直 進 す る
︒ 右 側 に
と 公 園 が あ り
︑ 向 か い 側 に
⑭ が あ る 図 書 館 光 隆 寺
国 境 石 と市民会館があって︑ここから北上すればJR八幡駅である︒
こ の 国 境 石 は 上 下 が 欠 け て い る が 東 豊 前 国
・ 西 筑 前 国 と あ る
︒ 古 く か ら 北 九 州 市 地 域 は ほ ぼ 中 央 か ら 東 西 に 豊 前 国 と 筑 前 国 に 分 か れ て い て
︑ 小 倉 藩 と 福 岡 藩 に よ っ て 立 て ら れ た 国 境 石 が 多 数 あ っ た
︒
〇
広 場 の 銅 像 と 市 民 会 館 の 間 の 道 を 進 み
︑
⑮ を 右 側 に 見 な 八 幡 病 院 が ら
︑ 次 の 辻 で 右 へ 進 み 広 い 道 を 横 断 す る
︒ 前 田 二 丁 目 か ら 少 し 左 へカーブして右側の
の前を通る︒
真照寺 左 側 の 八 幡 歯 科 医 師 会 館 と 道 を は さ ん で 公 園 が あ り
︑ こ の 公 園 に
は
⑯ が あ る
︒ こ の 一 里 塚 に は 松 が 植 え ら れ て い た が
︑ 前 田 の 一 里 塚 五 街 道 の 起 点 は 江 戸 日 本 橋 で
︑ 長 崎 街 道 の 起 点 は 豊 前 大 里
︵ 門 司 区 大里︶だったとある︒
間 も な く 左 右 に 蛇 行 し て
︑ 桃 園 二 丁 目 交 差 点 で 国 道 三 号 線 に 合 流 す る
︒ こ の 辺 り は J R と 並 行 し て 陣 山 一 丁 目 交 差 点 を 過 ぎ
︑ 二 丁 目 交 差 点 か ら 本 来 の 旧 道 は 国 道 の 左 側 だ っ た よ う だ が
︑ 次 の 紅 梅 一 丁
︑︒
目交差点まで進んで
右へ曲がってJRを渡
り県道を斜めに横切る 右 側 に 自 在 院
︑ 左 側 に
⑰ が あ り
︑ 右 奧 に 光 圓 寺 が あ る
︒ 海 海 蔵 庵 蔵 庵 に は 東 構 口 の 掲 示 が あ る か ら
︑ こ こ に 番 所 が あ っ た の だ ろ う
︒ 次 の 辻 を 左 へ 曲 が る と
︑ す ぐ 右 側 に 大 正 時 代 か 昭 和 初 め の 二 階 建 の 建 物 は 趣 が あ り
︑ 県 道 と J R を 渡 る 寸 前 右 側 に 御 茶 屋
︵ 本 陣
︶ が あったという︒
す ぐ 先 の 国 道 三 号 線 を 渡 る が
︑ そ の 寸 前 の 右 側 に 江 戸 時 代 の 旅 籠 の 一 つ で あ る 桜 屋 が あ っ た と い う
︒ 国 道 を 渡 る と 春 日 通 り と あ り
︑ 前 方 の
⑱ ま で 行 く 手 前
︑ 右 側 に ア ー ケ ー ド の 商 店 街 が あ っ 春 日 神 社 て︑そのすぐ右側に
とある︒
人馬継立場跡
寺蔵海街る店あ商との口宿構崎東黒
た だ し 春 日 神 社 に 突 き 当 た っ て 右 に カ ー ブ す れ ば
︑ 右 側 に 新 四 国 癌 欠 け 地 蔵 第 四 番 札 所 の 薬 師 如 来 と 延 命 地 蔵 菩 薩 願 か け と あ る が
︑ だというから面白い︒
旧 道 だ と い う ア ー ケ ー ド の 銀 天 街
に 入 る と
︑ す ぐ 右 側 に 黒 商 店 街 崎 宿 の 掲 示 が あ り
︑ 御 茶 屋 跡 と あ る か ら 本 陣 だ っ た の か
︒ そ の 先 左
︑︒
側に
⑲があり
更に左側のミニパークに
がある 正覚寺
黒崎宿の掲示 黒 崎 宿 は 長 崎 街 道 東 端 の 宿 駅 と し て
︑ 江 戸 時 代 に は 福 岡 と 小 倉 両 藩 の 境 界 に あ り
︑ 福 岡 藩 で は 唯 一 の 上 方 へ の 渡 海 船
︵ 乗 合 貨 物 船
︶ が 発 着 す る 港 が あ る 宿 場 町 だ っ た
︒ 対 馬 と 五 島 を 除 く 九 州 西 半 の 全 大名や多くの旅人がこの宿場を利用した︒
〇
自 動 車 の 通 る 道 を 渡 り
︑ 次 の ア ー ケ ー ド に 入 る と 左 側 に
⑳
興 玉 神 が あ る が
︑ こ の 御 祭 神 は 猿 田 彦 大 神 で
︑ 永 禄 八 年
︵ 一 五 六 五
︶ 熊
︒ 手 街道の守護神として伊勢国渡会郡の
猿田彦大神総本社から勧請した
上 市 く ま で 通 り そ の 先 で 横 切 る 大 通 り の 手 前 辺 り が 西 構 口 跡 で
︑
︒︒
商店街 のアーケードは終わる
ここを右へ行けばJR黒崎駅である
黒 崎 か ら 勝 野 へ 大 通 り を 越 え る と 熊 手 三 丁 目 と あ り
︑
を 渡 る と 筑 前 六 宿 街 道 乱 橋 の 石 碑 が 立 っ て い て
︑ こ こ を 左 へ 曲 が る と 左 側 が 熊 手 三 丁 目 で
︑ 右 側が菅原町である︒
曲 里 の 松 並 長 崎 街 道 入 口 交 差 点 を 渡 る と
︑ 筑 前 六 宿 街 道 の 石 標 と
まがり
① が あ る
︒ 長 崎 街 道 は
︑ 鎖 国 時 代 に た だ 一 つ 外 国 に 向 か っ 木 の 掲 示 て 開 い て い た 長 崎 に 通 じ る 重 要 な 街 道 で
︑ 黒 崎
・ 木 屋 瀬
・ 飯 塚
・ 内 野
・ 山 家
・ 原 田 の 六 宿 は 筑 前 六 宿 と 呼 ば れ て い た
︒ 黒 瀬 宿 か ら 木 屋 瀬 宿 に か け て 昭 和 二 十 年 頃 ま で は 多 く の 松 が 残 っ て い た が
︑ 今 は わ ずかにこの曲里辺りにのみ面影を残している︒
曲 里 の 松 並 木 を 進 む と 途 中 に 古 街 道 の 石 柱 が あ り
︑ ま た 休 憩 所 と が あ る
︒ こ ん な 松 並 木 が 残 さ れ て い た の だ と 感 激 し
︑ 松 並 木 の 石 碑
︒︑
廃車が捨てられているのにガッカリする
車が通る大通りを越えて また松並木が続く︒
間 も な く 並 木 の 最 後 に
② が あ る が
︑ こ れ は 古 く 鞘 の 神 大 明 幸 の 神
木並松の神里の曲幸