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妊娠中絶の自由の再定位(二・完) : 身体的統合性 への権利として

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(1)

妊娠中絶の自由の再定位(二・完) : 身体的統合性 への権利として

その他のタイトル Repositioning the Right to Abortion : As the Right to Bodily Integrity (2)

著者 小林 直三

雑誌名 關西大學法學論集

58

3

ページ 374‑405

発行年 2008‑08‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/11955

(2)

序.本稿の目的とその視座

一.妊娠中絶の自由に関する従来の学説胎児の生命と女性の権利の対立図式

‑ . R

・ドゥオーキンの見解派生的利益を巡る論争から独自的利益を巡る論争へ

︱ ︱

. J

・ルーベンフェルドの見解

l

母性の再生産と反全体主義的アプローチ︵以上︑五八巻二号︶

D・コーネルの見解_—「胎児の生命との対立図式」から「女性と胎児に対する見方の対立図式」へ

□イマジナリーな領域と﹁格下げ禁止﹂原理

□鏡像段階論と身体的統合性

□中絶権を否定することの不正の意味

回妊娠中絶の自由に対する規制

固 検 討

身体的統合性への権利として

妊娠中絶の自由の再定位

^  ・ 完

(3)

からである︒ 利﹂と呼ぶ︒ て ︑

コーネルによれば︑女性は︑妊娠したとき︑

D

・コーネルの見解﹁胎児の生命との対立図式﹂から﹁女性と胎児に対する見方の対立図式﹂へ コーネルは︑妊娠中絶の自由に関する議論が派生的利益をめぐるものではないとするドゥオーキンの主張に同意し

コーネルにとって︑妊娠とは︑身体的統合性

( b o d i l y i n t e g r i t y )  

像できなければならない︒加えて︑他者︵とくに大文字の他者である法︶は︑あたかも︑その女性が身体的統合性を 保っているかのように︑その女性を尊重しなければならない︒そうした権利を︑

身体的統合性とは︑自分の身体が自分そのものだと考えられる状態のことをいう︒

だとするのは︑彼女が︑身体的統合性は現実のものではなく︑そのように想像できるに過ぎないものだと考えている しかしながら︑大文字の他者として︑法システムが妊娠中絶を否定してしまうなら︑女性は︑身体的統合性の一貫

れてしまう︒そのため︑

コーネルは︑身体的統合性への権利として︑

ここでは︑こうしたコーネルの見解をみていきたい︒

かなり異なる主張を行っている︒

コーネルがそれをファンタジー オン・ディマンドの妊娠中絶の権利を擁護する︒

コーネルは︑﹁身体的統合性への権

のファンタジーを打ち砕くものである︒したがっ 一貫した身体的統合性のファンタジーを作り直し︑﹁自己﹂を再想

(4)

に関する問題は︑

< 

ロールズの議論に先行する問題のはずである︒

コーネルによれば︑こうした﹁自己﹂と

﹁人格﹂との区別を前提とするなら︑﹁人格は

﹁人格﹂とは︑必ずしも同一ではない︒したがって︑

し︑われわれは︑他者との様々な関わり合いに応じて︑ になるということであり︑少なくとも︑その身体の一部が他者のものとなっていてはならないことを意味する︒しか されていなければならない︒そして︑個体化されるということは︑その者が

さらに︑たとえば病気や怪我で︑激しい苦痛に襲われたり︑身体の自由が利かなくなって︑その身体︵の一部︶が他 者のコントロールにおかれたとき︑それまでのように自分の身体︵の一部︶を自分そのものだと考えられなくなって

つまり︑実際の﹁自己

( t h e s e l f

) ﹂は︑全体として︱つの人格となっていない

のである︒その意味で︑﹁自己﹂と うした﹁人格﹂や﹁個体性﹂は所与のものではないと主張する︒

︱つの可能性であり︑可能性であるがゆえに決して最終的に実現されることはありえない強い願望﹂であり︑

( 1 )  

﹁人格は自己でもなければ伝統的な哲学主体でもない﹂︒そうであるならば︑権利主体として︑ア・プリオリに自由 な人格を設定すべきでなく︑まずは︑そうした人格を形成するための条件が整えられなければならないはずである︒

それにも関わらず︑

J

・ロールズは︑正義の感覚と善へのキャパシティをもつ人格を前提としてしまっているが故に︑

( 2 )  

そうした人格になるためにはどのような条件が必要なのかという問題に取り組めていない︒しかしながら︑この条件

当然のことながら︑法的には︑われわれは︑ □イマジナリーな領域と﹁格下げ禁止﹂原理 関法

︵あるいは︑そのように考え

(p er so n)

﹂として平等に尊重され︑それぞれが個体化

︵身休を含めて︶全体として︱つの人格 ペルソナを使い分けており︑その意味で分裂した状態にある︒

にある何かではな コーネルは︑そ

(5)

妊娠中絶の自由の再定位︵ニ・完︶

とになりかねないだろう︒

しかしながら︑同時に︑ の権利が保障されなければならないことになる︒ ど︑リアリティを持ってしまっている︒だからこそ︑

コーネルは︑﹁人格は自己の置かれている状況と折り合いをつけるための終わりなきプロセスに関わっているとい う私の理解を前提にすれば︑男も女もそれぞれのやり方でこの闘争に乗りだす機会を持っていなければならない︒そ れは︑私の定義では︑想像力を更新し︑それと共時的に︑自分は誰であり︑何になろうとするのか再想像するための

( i

m a

g i

n a

r y

  do

ma

in

﹂を要求するのである︒)

コーネルにとって︑﹁自身を変える自由は︑所与のものではなく︑まし

( 3 )  

て保証されるものでもなければ︑法によってもたらされることもない﹂のであり︑イマジナリーな領域を保障するこ とで︑そうした自由への﹁可能性﹂が確保されることになる︒

こうした自由への可能性において︑特に間題となるのが︑性やセクシャリティである︒性的イマーゴは︑われわれ に深く内面化しているため︑われわれにとって︑慣習的な性やそのイメージは︑それを超えて自己を想像できないほ こそ︑性的なイマーゴを超えて

イマーゴがわれわれに深く内面化してしまっている以上︑他者が︑性に関わる存在としての生き方

( t h e

l i i r

f e  

a s

  a 

s e

x u

a t

e   b e

i n

g )

を否定することは︑その者のアイデンティティーの中核を否定することになるからである︒実際︑

もし︑そうなれば︑

コーネルによれば︑性やセクシャリティに関する場合において

﹁人格﹂になるプロジェクトに参加できるようにするために︑イマジナリーな領域へ コーネルは︑それぞれの性的イマーゴを他者が否定することに反対する︒なぜなら︑性的

かえって︑その者の性やセクシャリティに関するイマジナリーな領域を著しく制限してしまうこ

空間を要求するプロジェクトである﹂

と主張する︒

つまり︑自己を自由に再想像できる

﹁イマジナリーな領域

(6)

第五八巻三号

コーネルは︑性的イマーゴを超えるためのイマジナリーな領域の保障とともに︑他者が︑

イマーゴを否定してはならないという自己尊重の価値も︑非常に重要なものだとする︒

その者の性的

コーネルは︑それぞれのイマジナリーな領域の保障と自己尊重の価値とを︑どのように調整するのだろ コーネルは︑﹁公共的な空間で人のセクシャリティに関する自由な振る舞いに正当に負わせることができる自

己尊重という基本財とも整合性がある│̲'制約として私が提唱したい制約は︑﹃格下げ禁止

d e

g r

a d

a t

i o

p n

r o

h i

b i

t i

o n

( 4 )  

である﹂と主張する︒

コーネルのいう﹁格下げ﹂とは︑ある人を人格性に値しない︑あるいは︑幸福に値しないもの だとしてしまうことである︒

トランスセクシャルな人もゲイやレズビアンの人も︑他の人たちと同じように自由に愛を表現できる べきだとする︒もちろん︑それらのアイデンティティーに嫌悪感をもつ人たちは︑それによって︑自分たちの幸福を 脅威に曝されるかもしれない︒しかし︑それらのアイデンティティーをもつ人たちが愛を表現していたところで︑そ

れらを嫌悪する人たちが幸福に値することが︑脅威に曝されるわけではない︒コーネルにとって︑このように幸福に 値すること︑あるいは︑人格性において平等に扱われるに値することへの脅威こそ︑﹁格下げ﹂

では︑こうしたイマジナリーな領域に関する議論を︑妊娠中絶の自由に関して当てはめたなら︑どのようになるの

n o  

関法

の問題なのである︒

(7)

コーネルは︑妊娠中絶の自由の問題を︑身休的統合性との関連で捉える︒

つまり︑われわれが︱つの人格として個 体化するためには︑自分の身体を一貫して統合された自分自身︑すなわち︑﹁自己﹂として﹁想像﹂できなければな らない︒ここで﹁想像﹂とするのは︑身体的統合性は︑現実のものではなく︑まさにファンタジーに過ぎないからで ある︒普段︑われわれは︑自分の身体を自分そのものだと考えているが︑前述したように︑病気や怪我などで︑激し い苦痛に襲われたり︑身体の自由が利かなくなって︑その身体︵の一部︶が他者のコントロールにおかれたとき︑

解する︒そのため︑

コーネルは︑身体的統合性への権利として︑

的統合の投影とそれを他者に尊重してもらうことが必要てあることを説明する︒

ばしば︑それまでのように自分の身体︵の一部︶を自分そのものだとは考えられなくなってしまう︒しかし︑そうし たときにこそ︑われわれは︑身休的統合性のファンタジーを作り直すために︑自己を再想像できなければならないし︑

そのためには︑われわれは︑われわれが想像する身体的統合性のイメージを他者から尊重されなければならない︒そ

コーネルは︑妊娠中絶の権利を否定することを︑まさに身体的統合性を想像できなくする象徴的暴力として理

オン・ディマンドの妊娠中絶の権利を擁護するので コーネルは︑ジャック・ラカンの鏡像段階論を踏まえながら︑身体的統合性のファンタジーを守るためには︑身体

鏡像段階論によれば︑幼児は神経系が未発達であるため︑自らの身体をコントロールできず︑それを全体として一 つのものとして把握していない︒しかし︑鏡に映る自らの像を観ることによって︑自らの身体を全体として︱つのも のとして把握することができ︑それによってアイデンティティーを形成していく︒ここでいう﹁鏡﹂とは︑実際の鏡

だけでなく︑他者からの見られ方も含まれる︒つまり︑幼児は︑他者からの見られ方を取り込むことによって︑その

妊娠中絶の自由の再定位︵ニ・完︶

(8)

場合︑身体的統合性への権利の法的認知によって自己に対する権原の感覚が保護されることは︑ 多くの研究がある︒自己が︑投影された自らの一貰性の中にありつつ︑病気という分裂作用によって攻撃されている

( 6 )  

つまり︑われわれの身体的統合性のファンタジーが打ち砕かれるような事実に直面したときすなわち︑重要な 転換点において︑他者からの見られ方が︑われわれのアイデンティティーに取り込まれるため︑それが︑そのア イデンティティー形成に決定的な影響を及ぼすことになる︒したがって︑そうしたときにこそ︑われわれは︑

人格として個体化するための必要条件として︑自己の身体に対する自己所有感覚を保つ身体的統合性への権利が尊重 されなければならない︒そのためには︑そうした重要な転換点において︑自己を再想像でぎるイマジナリーな領域の 保障が必要となり︑他者は︑われわれの身体的統合性のイメージを尊重しなければならず︑

すべて︑あるいは一部を他者に引き渡す︵他者のコントロールにおく︶

v

生じるわけではないということである︒

れはしない︒鏡像段階とは︑転換点なのであって︑自己はこの転換点をめぐって︑自己の解体や崩壊や壊滅へと導く

)   ( 5

社会的で象徴的な諸力に対して絶えず防衛しようとして︑繰り返し変転するのである﹂︒

身体の全体性︵のファンタジー︶を否定し︑諸部分に解体してしまう経験は︑すでに述べたように病気などに関連 して多く存在している︒しかしながら︑﹁身体的統合への権利がより尊重され︑患者が単なる病気になった身体でな

であるように扱われるようになるほど︑原初的自己感覚が侵襲されることは少なくなることを示す

ただし︑ここで注意すぺきは︑

関法

第五八巻三号

コーネルにとって︑こうした鏡像﹁段階﹂は︑幼児期という発達﹁段階﹂に限って

つまり︑﹁鏡像段階は決して発達の

アイデンティティーを形成できるのである︒

0 )

かつ︑われわれの身体の ような見方を押し付けてはならないことにな

﹃より高次の﹄段階において乗り越えら

七四

(9)

コーネルにとって︑まさに妊娠とは︑それまで自らの身体を全体として︱つの自己として想像してきたにも関わら ず︑その身体の一部に胎児という自分であって︑かつ自分でもない存在が現れ︑身体的統合性の想像を打ち砕く重要 な転換点なのである︒したがって︑そうしたとぎにこそ︑その女性は︑身体的統合性︵のファンタジー︶を取り戻す ために︑﹁自己﹂を再想像できなければならない︒加えて︑他者︵とくに大文字の他者である法︶

体的統合性のイメージを尊重しなければならず︑かつ︑その女性の身体のすべて︑あるいは一部を他者に引き渡す

︵他者のコントロールにおく︶

ところが︑大文字の他者である法が︑あたかも︑すでに女性から切り離されて独立した人格かのように胎児をみな す見方いまだ女性の身体の内部にあって︑女性の身体の一部でもある胎児を︑すでに女性の人格︵つまり︑女性

り込まれることによって︑女性の身体は︑そうした法を生み出した者の想像に巻き込まれてしまう︒つまり︑女性は︑

身体的統合性を取り戻すために必要なイマジナリーな領域を著しく制限されることになるのである︒このように考え るコーネルは︑妊娠中絶の自由を制限することの﹁不正は︑決定的に重要な瞬間に︑女性をしてその身体を男性の精

E l  

コーネルは︑法こそが︑もっとも重要な︵大文字の︶他者として︑そのあり方を間われなければならない

ものだとする︒ る ︒

中絶権を否定することの不正の意味

ような見方を押し付けてはならないことになる︒

の一部ではないのだとみなしてしまう見方を示したなら︑そうした見方が女性のアイデンティティーに取

(

は︑その女性の身

(10)

( 7 )  

神に引き渡しつつ︑女性を巻き込むという点にある﹂と指摘する︒

( 8 )  

これまで︑バイオリニストに艇がれた者のメタファに代表されるように︑妊娠中絶の自由を制限することの不正は︑

しばしば︑女性が自分の身体を胎児に引き渡さざるを得ないことだと考えられてきた︒しかし︑

た想定を否定する︒なぜなら︑そうした想定は︑胎児が依然として女性の身体の内部にあり︑かつ︑女性の身体の一 部でもあるにも関わらず︑あたかもすでに女性から切り離されて独立した人格であるかのような見方をしているから

コーネルにとって︑胎児のステイタスと女性に対する見方は不可分なものであって︑そうした想定には︑す

でに女性に対する特定の見方が内在しており︑その結果は︑女性を胎児の環境に還元してしまうものなのである︒

コーネルにとっては︑﹁中絶論議のまさに中心にあるのは︑胎児と女性がどんなふうに﹃見られる﹄

そして︑女性の消去︑すなわち︑女性を胎児にとっての環境に還元してしまう﹁男性的な想像界

( m s a c u l i n e

︶ 

1m ag a m ry   から﹃私たち自身﹄を取り戻す作業︑

9 ( )  

が︑権利の再文節化に不可欠なのである︒したがって︑

つまり性差の内にある女性的なものの再イメージ化と再象徴化﹂

コーネルすれば︑妊娠中絶の自由の問題は︑胎児との対立図 式に設定すべきものではない︒それは︑女性とその他者︵とくに︑大文字の他者である法︶

との間における︑女性と 胎児に対する見方の対立図式に位置づけられるべきものである︒そして︑身体的統合性への権利としての妊娠中絶の 自由は︑女性や胎児に対する他者の見方コーネルの表現では﹁男性的な想像界﹂から解放された心的空間︑

すなわちイマジナリーな領域の保障を求めるものなのである︒逆に︑もし︑女性を胎児のたんなる環境に還元してし まう想像界へ引き渡してしまうなら︑それは︑まさに女性は

﹁格下げ﹂されたことになり︑したがって︑そのようなことは許されないことになる︒

関法

︵コーネルの言う意味で︶幸福に値しない存在として

コーネルは︑そうし

(11)

ロー判決では︑トリメスターの枠組みと胎児の独立生存可能性の枠組みとが示された︒

ポスト・ロー判決において︑しばしば︑ともに胎児の生命保護に関わる枠組みだと解釈されてきたが︑

コーネルは︑ロー判決の法廷意見を書いた﹁ブラックマンは︑女性の健康に焦点を置く仕方でトリメスター

( 1 0 )  

を使用している﹂ことを強調する︒なぜなら︑ブラックマンは︑トリメスターの枠組みを用いることで︑第ニトリメ

ロー判決をどのように理解するのだろうか︒

である︒したがって︑個々の妊娠中絶が

七七

コーネルによれば︑妊娠中絶の自由を制限することの不正は︑女性が不本意な妊娠に直面する時期に生じる のではない︒もっと以前から生じるものである︒これは︑他者によって示される像が予期として機能していることに 大文字の他者である法が妊娠中絶の自由を否定することは︑たんに不本意な妊娠をした女性が︑妊娠中絶をできな

いというだけではなく︑母的機能に還元された像︵女性が胎児にとっての環境になってしまう像︑あるいは子宮が身 体の一部でなくなってしまう像︶を予期として女性一般に示すことによって︑そして︑それが女性のアイデンティ ティーに取り込まれてしまうことによって︑女性たちが自分たち自身について想像する余地を﹁予め﹂奪い取ってし

まうものなのである︒ 関連している︒

コーネルにとっては︑大文字の他者である法が妊娠中絶の自由を否定することによっ て︑女性は︑﹁予め﹂身体的統合性のファンタジーを維持するために必要なイマジナリーな領域を奪われてしまうの

︵たまたま︶認められたか否かだけが問題となるわけてはないのである︒

コーネルによれば︑これら

(12)

スタ︶以降︑女性の生命や健康保護のために︑妊娠中絶を行う場所などの制限を認めることができたからである︒

そのように考えるなら︑独立生存可能性の枠組みは︑胎児の生命保護に関連する枠組みであるのに対して︑

このように理解した上で︑

の保障という点から︑胎児の独立生存可能性の枠組みを拒否する︒それに対して︑

肯定する︒すなわち︑安全な妊娠中絶のための条件を整えるための規制は認められるとするのである︒

女性を母性に還元してしまう生産的・積極的行為と関連していることを認めている︒しかしながら︑

体的統合性という観点から妊娠中絶の自由を捉えることで︑独自の見解を主張している︒

トリメ スターの枠組みは︑女性の生命や健康保護︑すなわち︑女性の精神的・身体的危機に対する保護に関連する枠組みだ ということになる︒言い換えれば︑その枠組みは︑﹁安全な﹂妊娠中絶を受けるために必要な制限を認めるものなの

コーネルは︑身体的統合性のファンタジーを作り直すために必要なイマジナリーな領域

トリメスターの枠組みについては

コーネルによ

れば︑﹁子宮と胎児の双方が女性の一部として想像されるならば︑胎児の健康の問題は女性の健康の問題から分離さ れ得ず︑またそうされるべきではないと論じる方が論理的﹂なのである︒

ドゥオーキンと同様に︑妊娠中絶の問題を胎児の派生的利益をめぐるものではないとしている︒また︑

ルーベンフェルドと同様に︑妊娠中絶の自由を制限することの不正を︑たんに一定の行為が制限されることではなく︑

コーネルによれば︑妊娠とは︑女性が︑それまで自らの身体を自分そのもの︵身体を含めた︶自分の人格の一

関法

I I

‑ n  

コーネルは︑身

(13)

妊娠中絶の自由の再定位︵ニ・完︶

ことが︑きわめて困難となるだろう︒ たコーネルの理解を否定できないように思われる︒ な転換点なのである︒少なくとも︑もし︑望まない妊娠に直面したことを想像するなら︑われわれの直観も︑こうし その女性の身体的統合性のファンタジーを打ち砕くものである︒つまり︑妊娠とは︑原初的自己感覚が動揺する重要 部だと想像してきたにも関わらず︑その身体の一部に︑胎児という自分であって︑かつ自分でもない存在が現れ︑

もし︑そうであるならば︑そのときにこそ︑われわれは︑他者から全体として︱つの人格かのように尊重されなが

( 1 2 )  

一貫した身体的統合性のファンタジーを作り直すために︑自己を再想像できなければならない︒しかし︑大文字

の他者である法が︑

いまだ胎児が女性の身体の内部にあって︑その一部でもあるにも関わらず︑すでに独立した人格 かのように扱う見方をするなら︑自己を再想像するために必要なイマジナリーな領域は︑著しく制限されてしまう︒

イマジナリーな領域が︑そのように制限されてしまうなら︑女性は一貫した身体的統合性のファンタジーを作り直す しかし︑法が女性を個体化した一人の人格として扱い︑そうした人格となるための条件である身体的統合性への権

利を他の諸権利よりも先行して保障すべきだとすれば︑その女性の意に反して︑胎児を独立した人格かのような見方

︵ 認

をすることは︑許されないはずである︒

このように身体的統合性への権利として妊娠中絶の自由を位置付けるなら︑

争は︑胎児と女性の見られ方に関わるものだといえる︒そのため︑ ら ︑

コーネルのいうように︑その中心的論 コーネルは︑妊娠︵中絶︶を︑すでに独立したニ

の他者である法が︑そうした図式を用いるなら︑そのこと自体が︑女性のイマジナリーな領域を制限し︑身体的統合

(14)

文字の他者である法︶

な可能性を示すものだと思われる︒なぜなら︑それは︑胎児との対立図式政治的判断を先取りしてしまうこれま

といえるのではないだろうか︒ 深めるにあたって︑現在のところ︑ 方の対立図式に位置づけられるべきものだということになる︒ で︑妊娠中絶の自由は︑女性とその他者︵とくに︑大文字の他者である法︶ 界﹂に巻き込むことであって︑女性の身体的統合性への権利を侵害するものとして許されないことになる︒その意味

コーネルが用いる﹁男性的な想像界﹂という呼称が適切なものかはさておきおそらく︑その是非は︑性差に関 する問題意識をどの程度︑特権的に考えるかによるのだろう︑こうしたコーネルの考えは︑女性の立場を反映し

女性の権利の観点からアプローチしたものだといえるだろう︒そして︑この考えは︑妊娠中絶の自由を憲法論として

コーネルが︑身体的統合性への権利として妊娠中絶の自由を理解することで︑女性とその他者︵とくに︑大

第五八巻三号 性への権利を侵害することになるからである︒加えて︑胎児をすでに独立した人格かのように扱う見方は︑女性のア イデンティティーを胎児のたんなる環境に還元してしまい︑母性を押しつけるものでもある︒それは︑幸福に値しな い存在として︑女性を﹁格下げ﹂することに他ならない︒したがって︑法が︑

する存在だとみなすべきなら︑法がそうした見方をすることは許されないはずである︒

関法

コーネルによれば︑そうした図式を用いることそのものが︑女性を﹁格下げ﹂する﹁男性的な想像

との間における︑女性と胎児に対する見 という特殊な事実の解釈し︑妊娠中絶の問題に対して︑︵妊娠した︑あるいは妊娠するかもしれない︶

︵後述のように修正を加えながらも︶もっとも妥当なものとして評価できるもの との間における︑女性と胎児に対する見方の対立図式に位置づけることは︑憲法論として新た

︵当然のことながら︶女性も幸福に値

八〇

(15)

とを問題としている︒

ずである︒ で ︑

つまり︑﹁国家が︑中絶するかしないかの女性の

しかも︑そのような身体的統合性への権利として妊娠中絶の自由を位置づけることは︑その保障が︑われわれが個 体化された一人の人格になるための条件として︑他の諸権利よりも先行しなければならないことを意味する︒そうで あるならば︑たとえ憲法上の明文規定がなくとも︑憲法が︑少なくとも︑個人を︑全体として︱つの人格かのように

( 1 4 )  

扱わなければならないのなら︑憲法上の権利として︑妊娠中絶の自由を根拠づけることができるものと考えられる︒

さらに︑こうした身体的統合性への権利としての妊娠中絶の自由は︑安全な妊娠中絶へのアクセスの積極的な保障

( 1 5 )  

も含み得るものでもある︒われわれが身休的統合性のファンタジーを維持するためには︑自分が自分の身体をコント ロールできるのだと考えられなければならない︒そうしたファンタジーが打ち砕かれ︑原初的自己感覚が動揺したと き︑他者︵とくに大文字の他者である法︶

一貰した身体的統合性のファンタジーを作り直すために必要なイマジナリーな領域を保障しなければならない︒

そのためには︑自分が自分の身体をコントロールできるのだと考えられる状況も︑併せて保障しなければならないは 十分なのである︒身体的統合性への権利は︑それが実際どのようであるかは社会的・象徴的な承認次第で変わってく

るにせよ︑すべての人種︑階級︑国籍の女性にとって安全な中絶が利用可能であるという条件を確立することを要求

( 1 6 )  

する﹂ものなのである︒

ルーベンフェルドと同じように︑妊娠中絶の自由の制限に関して︑女性に母性を押し付けるこ コーネルにすれば︑それは幸福に値しない存在として︑女性を﹁格下げ﹂ずることに他ならな

妊娠中絶の自由の再定位︵二ふ加︶

は︑その者がその者の身体をコントロールでぎるかのように尊重すること

での問題設定から解放されたものだからである︒

﹃選択﹄を積極的に妨害するのをさし控えるだけでは不

(16)

て︑高く評価できるように思われる︒ 第五八巻︱二号

い︒ところが︑この﹁格下げ﹂という評価は︑

ルーベンフェルドの考えのように限定されたものではない︒ルーベン

フェルドは、妊娠中絶の制限の問題を、国家の積極的•生産的作用に求めている。しかし、「格下げ」という評価を

用いることで、その間題を「国家による」積極的•生産的作用に限定しなくてすむように思われる。なぜなら、誰か

を「格下げ」することは、国家による積極的•生産的作用だけでなく、われわれも、不当に誰かを「格下げ」してし

まうかもしれないからてある︒また︑この﹁格下げ﹂という評価を用いることによって︑われわれは︑母性を生産す

んでしまう問題として︑ る積極的•生産的作用の問題を、たんなる画一化としてだけではなく、女性たちを社会的に抑圧された立場に追い込

( 1 7 )  

いっそう明確に理解することがでぎるように息われる︒

このようにコーネルの「格下げ禁止」原理の考えが、国家による積極的•生産的作用権利主体の側からすれば、

消極的権利に限定されず︑社会的抑圧の是正を問題とするものなら︑この点からも︑妊娠中絶の自由に積極的権

利の側面を含ませる可能性を認めることができるだろう︒

もちろん︑身体的統合性への権利からにしても︑﹁格下げ禁止﹂原理からにしても︑積極的権利の側面の根拠づけ

は︑必ずしも十分なものだとはいえないかもしれない︒しかし︑たとえそうだとしても︑その可能性を示すものとし

さて︑こうしたコーネルの考えを踏まえるなら︑妊娠中絶の自由は︑胎児の生命権︑あるいは胎児の生命保護に関

する利益によって制限されてはならない︒なぜなら︑それは︑妊娠︵中絶︶

関法

した人たち︵そして︑そうするかもしれ

から︑自己を再想像する可能性を奪い︑女性を社会的に抑圧された立場に追い込んでしまうものだから

である︒また︑妊娠中絶に関して︑国家が﹁責任﹂という目標を追求することも許されないだろう︒それは︑そもそ

(17)

妊娠中絶の自由の再定位︵ニ・完︶

も女性たちが﹁無責任﹂であることを前提としており︑まさに女性たちを﹁格下げ﹂することにほかならないからで

コーネルのいうように︑少なくとも︵身体的︑精神的なケアも含めて︶女性の生命や健康保護

( 1 8 )  

て︑安全な妊娠中絶へのアクセスの積極的な保障も含めて考えられなければならないことになるだろう︒

コーネルの考えは︑州のコントロールからの自由の原則や政府の中立性の原則ばかりでなく︑生殖の 積極的自由の原則をも満たす可能性をもつものとして︑評価できるのではないだろうか︒

︵女性の生命や健康保護のために課される規制を除いて︶妊娠期間の程度に関わりな く︑妊娠中絶の自由に対する規制を否定することには︑疑問をもたざるを得ない︒したがって︑その点に関しては︑

コーネルの考えにしたがえば︑妊娠とは原初的自己感覚が動揺する重大な転換点であり︑そうしたときにこそ︑イ マジナリーな領域が保障されなければならない︒その帰結として︑胎児の生命権︑あるいは生命保護に関する利益の 点から︑妊娠中絶を制限してはならないことになる︒しかし︑そうした転換点は︑妊娠の全期間に渡っているものだ

一貰した身体的統合性のファンタジーを作り直すように自己を再想像するためには︑妊娠の全期 間に渡って︑イマジナリーな領域が保障されなければならないのだろうか︒

この問題に関しては︑おそらくドゥオーキンの考えが参考となるように思われる︒ドゥオーキンは︑なぜ︑胎児の 独立生存可能性の生じる時期が女性の妊娠中絶の自由の終期を画ずるのか︑

という問いに関して︑﹁胎児が生存可能

となる時点が到来する前に︑通常︑妊娠中の女性は︑妊娠を続けることが最良であり正しいことであると思うか︑妊 ろうか︒あるいは︑ 修正されなければならないように思われる︒

しかしながら︑

ある︒それに対して︑

(18)

娠を終わらせることが最良であり正しいことであると思うかについて︑熟考し決断するだけの十分な機会を有してい

( 1 9 )  

る﹂という理由をあげている︒このことをコーネルの考えを踏まえて言い換えるのなら︑たとえば﹁胎児が生存可能 となる時点が到来する前に︑通常︑妊娠という事実を知って大きな転換点を向かえた女性は︑自己を再想像するのに もちろん︑それが実際に胎児の独立生存可能性が生じる時点なのか︑それ以外なのか︑あるいは︑具体的にいつな

のか︑に関しては学際的な分析が必要とされるもので︑本稿で答えることはできない︒しかし︑

己を再想像するために十分に必要とされる期間が保障されるのなら︑それ以降の妊娠中絶の自由を制限したとしても︑

( 2 0 )  

身体的統合性への権利としての妊娠中絶の自由を否定したことにならないように思われる︒

これまでの妊娠中絶の自由に関する議論は︑女性の権利と胎児の生命権︵あるいは生命保護に関する利益︶

図式を前提としてきた︒しかしながら︑そうした対立図式を前提とするなら︑妊娠中絶の自由に関する議論が︑憲法 論として深まる可能性は乏しい︒なぜなら︑

ドゥオーキンが指摘するように︑そうした対立図式では︑原理的解決が また︑こうした対立図式では︑﹁胎児は︑人か否か﹂︑あるいは﹁胎児は︑

結する︒しかし︑そうした問いは︑裁判所が容易に答えられるものではない︒そうであるならば︑そうした問題設定

そのものが︑民主的決定に委ねることを先取りしたものになってしまう︒ 望めないからである︒

十分な機会を有している﹂ということになるだろう︒

関法

0 )

いずれにしても︑自

いつから人となるのか﹂という問題に帰 八四

(19)

妊娠中絶の自由の再定位(一―•完)

ならば︑その自由の保障によって︑ コーネルの見解を検討してきた︒

したがって︑妊娠中絶の自由に関する議論を憲法論として深めるためには︑こうした従来の問題設定そのものを見 そこで︑本稿では︑必ずしも︑こうした従来の問題設定を前提としないドゥオーキン︑

ルーベンフェルド︑そして ドゥオーキンの見解は︑妊娠中絶に関する議論を﹁派生的利益﹂ではなく︑﹁独自的利益﹂をめぐるものだと考え

ることで︑原理的な解決を試みるものである︒このように︑彼が従来の問題設定を批判的に見直したことは︑高く評

価できるだろう︒

しかし︑ドゥオーキンの考えでは︑公権力が﹁責任﹂という目標を追求でぎるため︑ほとんど意味をなさなくなる ように思われる︒﹁責任﹂という目標の追求と︑﹁強制﹂あるいは﹁服従﹂という目標の追求との違いは︑必ずしも明 確ではない︒そうてあるならば︑﹁責任﹂という目標の名の下で︑実際は﹁強制﹂や﹁服従﹂という目標の追求が許

されてしまう︒そのため︑

ドゥオーキンの考えでは︑生殖の積極的自由の原則はおろか︑政府の中立性の原則も満た すことが期待てきない︒加えて︑女性が多数意見にしたがって﹁責任﹂を負わされることの意味や効果に関して︑彼

の考えは︑あまりに無関心であるように思われる︒それは︑女性を﹁格下げ﹂ずることにほかならない︒そうである 直さなければならない︒

︵妊娠中絶を決断した︑あるいは︑決断するかもしれない女性に対す る︶社会的抑圧を再生産することになりかねないだろう︒

ルーベンフェルドの見解は︑公権力の積極的作用に注目するものである︒そして︑彼は︑妊娠中絶の自由を制限す ることの不正を︑たんに特定の行為が禁止されることではなく︑それによって︑母性が生産され︑画一化されてしま

(20)

た対立図式を女性に押し付け得るのか が動揺する重要な転換点である︒そうしたときこそ︑ できないように思われる︒ 第五八巻︱二号

うことだと考えた︒たしかに︑そのことこそ︑妊娠中絶の制限に関わる重要な問題だと思われる︒しかし︑

ルーベン フェルドの考えでは︑それを反全体主義のみから捉えるものであるために︑生殖の積極的自由の原則を満たすことが コーネルの見解は︑妊娠中絶の自由を身体的統合性への権利として理解するものである︒この身体的統合性への権

利は︑他の諸権利より先行するものとして保障されな

ればならない︒それは︑精神と対比されるところの身体の自

l t

由の保障ではなく︑イマジマリーな領域の保障を媒介にして︑身体を含めて統合された人格への権利なのである︒

コーネルの見解にしたがえば︑妊娠とは︑それまでの身体的統合性のファンタジーが打ち砕かれ︑原初的自己感覚 像できるのに必要なイマジナリーな領域が保障されなければならない︒加えて︑他者︵少なくとも︑大文字の他者で

は︑いまだ女性の身体の内部にある胎児を︑独立した人格かのように扱う見方を押し付けてはならない︒し かも︑こうした身体的統合性への権利としての妊娠中絶の自由は︑安全な妊娠中絶へのアクセスの積極的な保障も含 み得るものでもある︒こうしたコーネルの見解は︑政府のコントロールからの自由の原則︑政府の中立性の原則だけ でなく︑不十分ながらも︑生殖の積極的自由の原則を満たす可能性を示すものとして︑高く評価できるものだといえ

このように身体的統合性への権利として妊娠中絶の自由を理解した場合︑妊娠中絶の自由を巡る問題は︑女性の権 利と胎児の生命権︵あるいは生命に関する利益︶

関法

一貰した身体的統合性のファンタジーを作り直し︑自己を再想 との対立図式に設定されることはない︒むしろ︑そもそも︑そうし

︵コーネルの表現でいえば︑﹁男性的な想像界﹂に女性を巻き込むべきか︶こ

(21)

( 2 1 )  

そが︑間われなければならないものなのである︒

つまり︑それは︑女性とその他者︵とくに︑大文字の他者である 法︶との間における︑女性と胎児に対するそれぞれの見方の対立図式に位置づけられるべきものである︒そして︑身 体的統合性への権利としての妊娠中絶の自由は︑それらに対ずる他者の見方これまでの胎児の生命との対立図式

( 2 2 )  

も含めてから解放された心的空間︑すなわちイマジナリーな領域の保障を求めるものなのである︒

もちろん︑こうした身体的統合性への権利︵あるいは︑そのように意味づけられる妊娠中絶の自由︶を︑

唯一の方法が︑妊娠中絶へのアクセスを制限することだというわけではないのである︒そのための方法は︑

日本国憲

法の解釈論として具体的に展開するには︑多くの課題が残されている︒しかし︑たとえそうだとしても︑身体的統合 性への権利として妊娠中絶の自由を理解することは︑これまでのような胎児との対立図式から解放されることを意味 しており︑憲法論としての新たな可能性を示すものだと思われる︒しかも︑それは︑すでに述べてきたある一定の例 外を除いて︑妊娠中絶の自由を制限できないだけでなく︑安全な妊娠中絶へのアクセスの積極的保障の可能性さえ示

( 2 3 )  

唆するものでもある︒

( 2 4 )  

しかしながら︑そのことは︑何も胎児の生命を疎かすることを意図しているわけではない︒胎児の生命を尊重する

いくつも

考えられる︒妊娠中絶へのアクセスを制限したところで︑妊娠中絶の必要性が減少するわけではない︒そうであるな

は︑危険な︶妊娠中絶を増やすだけのことである︒その意味で︑こうした方法は非建設的なものだといえるだろう︒

本稿は︑そうした非建設的な方法を禁止することで︑

娠中絶の自由の実質的保障と胎児の生命尊重の要求とを両立させる方法は︑性教育や女性と子供の福祉の向上など︑

妊娠中絶の自由の再定位︵ニ・完︶

いっそう建設的な方法を促そうとするものでもある︒女性の妊

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