博士学位論文(東京外国語大学)
Doctoral Thesis (Tokyo University of Foreign Studies)
氏 名 澤井 志保 学位の種類 博士(学術)
学位記番号 博甲第196号 学位授与の日付 2015年6月24日 学位授与大学 東京外国語大学
博士学位論文題目 競合する語り:香港で働くインドネシア人家事労働者によるイスラ ーム文学創作グループ 「ペン・サークル・フォーラム香港」
Name Shiho SAWAI
Name of Degree Doctor of Philosophy (Humanities) Degree Number Ko-no. 196
Date June 24, 2015
Grantor Tokyo University of Foreign Studies, JAPAN Title of Doctoral
Thesis
Competing Narratives: an Islamic-writing group of Indonesian Domestic Workers in Hong Kong "Forum Lingkar Pena Hong Kong"
競合する語り:
香港で働くインドネシア人家事労働者による
イスラーム文学創作グループ「ペン・サークル・フォーラム香港」
澤井 志保
目次
序論 ………1
第1章 先行研究の検討 1-1 親密性労働のグローバル化と国際移住家事労働………11
1-2 国際移住する女性家事労働者の社会運動………16
1-3 競合する語りー:メトニミーによる価値の競合と意味の再解釈 ………19
1-4 イスラーム運動における批判的・実践的エージェンシー………22
第2章 調査の手法 2-1 フィールドワークについて ………27
2-2 一次資料について………34
2-3 調査中の私の位置と役割………37
2-4 メンバーの経歴………44
第3章 FLP香港の結成の経緯―インドネシアと香港 3-1 インドネシアにおける出版業の拡大………50
3-2 インドネシアにおける「文学コムニタス」の拡大………54
3-3 イスラーム系文学の振興………39
3-4 香港におけるIDW社会運動の発展………60
3-5 香港のIDWによる出版活動………66
3-6 FLP香港の設立………77
第4章 FLP香港の活動形態 4-1 隔週定例ミーティング………82
4-2 文学とコンピュータ・リテラシーの相互学習………95
4-3 宗教実践………98
4-4 イベント運営………116
4-5 出版活動………127
第5章 月刊ブレティンに描かれる概念の整理 5-1 「家」としてのヴィクトリア公園………134
5-2 ブレティン編集による執筆スキル学習………135
5-3 ペンによるダアワの意味………136
5-4 メンバー間の結束と正義への訴え………138
5-5 宗教、移住労働、お金………145
5-6 結婚と恋愛、ジェンダー関係………148
第6章 短編小説集のテクスト分析 6-1 テクストの大まかな傾向とメトニミーによる主体性の操縦 ………153
6-2 国際移住家事労働………157
6-3 望ましい女性像………161
6-4 雇用者との権力関係………168
結論………176
略語表
BMI (Buruh Migran Indonesia):インドネシア人移住労働者(buruhとは非熟練労働 者を指す語彙である。)
FDH (Foreign Domestic Helpers):外国人家事ヘルパー(香港政府が使用する公式名称 だが、ヘルパーという呼称で家事労働者の労働者性を看過するような危険性があるという 意味で、本稿では同義のMDWを使用する。)
IDW (Indonesian Domestic Workers):インドネシア人家事労働者 MDW (Migrant Domestic Workers):国際移住家事労働者
TKI (Tenaga Kerja Indonesia):インドネシア人労働者(インドネシア政府が使用する 公式名称)
TKW (Tenaga Kerja Wanita):女性労働者(暗に国際移住家事労働者を意味する用語。
BMIと比べてジェンダーにまつわる偏見があるため、BMIを使用する人が多い。)
MAW (Minimum Allowable Wage):最低許容賃金(香港政府によって、FDHの雇用 の際に保障されている最低賃金)
AK (Apakabar):アパカバル(香港で出版されているインドネシア語タブロイド)
BI (Berita Indonesia):インドネシア・ニュース(香港で出版されているインドネシ
ア語タブロイド)
DD (Dompet Duafa):インドネシアのイスラーム慈善事業団体
FLP-HK(Forum Lingkar Pena Hong Kong):ペン・サークル・フォーラム香港 IKAPI (Ikatan Penerbit Indonesia):インドネシア出版業者協会
IM (Intermezzo):インターメッツォ(香港で出版されているインドネシア語タブロ イド)
KJRI-HK(Konsulaat General Republik Indonesia Hong Kong):在香港インドネシア共 和国領事館
UR (Utbiyaturrohmah):ウツビヤトゥルロハマ(香港のイスラーム系IDW団体)
ATKI-HK(Asosiasi Tenaga Kerja Indonesia Hong Kong):香港インドネシア人労働者同 盟
IMWU (Indonesian Migrant Workers’ Union):インドネシア人移住労働者組合
序論
現在、数十万人から数百万人といわれるインドネシア人女性が、家事労働者として アジアや中東諸国で労働に従事している。特に、1998年のアジア通貨危機以降、イン ドネシア国内での失業率の悪化に伴い、女性による家事労働者としての海外移住が大 きく増加した。
このような状況は、インドネシア人女性の人生における選択肢を大きく広げるとと もに、インドネシア社会における「海外で女性家事労働者として働く」ことについて の人々の理解のしかたをも大きく変えることとなった。
このような状況の重要性を踏まえた上で本稿は、海外で働くインドネシア人女性家 事労働者が休日を利用して携わる宗教文学創作運動を取り上げて、国際移住家事労働 する女性が、どのような問題に対峙しながら、望ましい自己像を実現するかについて 詳しく考察するものである。
インドネシアでは、女性家事労働者が社会運動に参加することは決して一般的では ない。また、海外で働くインドネシア人女性家事労働者が社会運動に関わることもま れなことであった。もしそうならば、なぜ香港にて、このような宗教文学創作運動が 出現したのだろうか。本稿は、このような疑問に対して答えを探すべく、インドネシ ア人女性家事労働者によって移住先の地域、香港にて結成されたイスラーム文学創作 運動グループ、ペン・サークル・フォーラム香港(Forum Lingkar Pena Hong Kong、
以下FLP香港)が創立される経緯を検証しつつ、グループ活動において見られたメン バーの語りと創作テクストにおける言説を分析し、このような社会運動の意義につい て詳しい検討を試みる。
このような目的のために、筆者は、(1)2008年10月から2009年3月までの6か月 間の香港での現地調査、(2)2010年3月-4月にインドネシアにて行った追加現地調査、
補足資料として、(3)2006年9月から2008年8月まで留学していたインドネシア、中
部ジャワでの文学出版と文学愛好者についての現地調査において収集した情報をもと に議論を行う。
香港は、インドネシア人移住家事労働者の受け入れにおいては、サウジアラビア、
マレーシア、台湾、シンガポール、アラブ首長国連邦についで第6位を占める、主要 受入国のひとつである(BNP2TKI 2015)。
しかし、これら1位から5位までの国ではなく、香港にてこのような社会運動が生 まれたことの背景には、香港だけの事情というよりは、インドネシアと香港両方の社 会状況が関わっていたと筆者は考える。これを踏まえて本稿は、二つの社会要因が偶 発的に関わり合ってFLP香港が成立する経緯を問題の射程内にとらえ、詳しい検討を 試みる。
2004年2月15日、12名の香港で働くインドネシア人女性移住家事労働者
(Indonesian migrant domestic workers/以下IDW)が、イスラーム文学創作グルー プ、FLP香港を結成した。FLP香港は、「ペンによる<ダアワ>(ムスリムによる、
人々をアラーの説く道に招き入れようとする一連の啓蒙、啓発活動。他者に対してで あるとともに、自分に対する働きかけにもなりうる。また、非ムスリムの改宗運動も 含まれる)」というスローガンのもと、イスラームの価値に沿った文学創作、出版活動 のほかに、宗教指導者による宗教的講話や、映画上映会などのイベントなどを含め、
イスラームと文学創作にゆるやかに関連する活動を行っている。このような、イスラ ームを標榜した啓蒙活動を行うIDWのグループは、2010年時点の香港で100グループ ほどに達したことを考えると1、FLP香港の出現は、2000年代後半にかけて起こった IDWによるイスラーム系社会運動の拡大の経緯を暗示していたともいえる。
インドネシアでは、1998年までの30年あまりの間、スハルト大統領による権威主 義的政権が実権を掌握していたことから、政治にかかわる社会活動の自由が著しく制 限されてきた。このような政治的自由の制限は、権威主義政権が終焉して10年以上た
つ現在においても、いまだ、現地の人々の価値観に少なからぬ影響を及ぼしている。
加えて、主に都市部知識層によって牽引されてきたインドネシアの社会運動の歴史を 考えると(Aspinall 2005; Heryanto 2003)、大半が非都市部出身で高等教育を受けな い階層に属する女性国際移住家事労働者が海外で社会運動に参加するという事実自体 が、深い考察に値すると考えられる。さらに、女性国際移住家事労働者が文学創作・
出版活動を行っているという事実は、2000年代半ばのインドネシアにおいては斬新な 現象であった。なぜなら、インドネシアでは、女性家事労働者は「バブ」(元来は植民 地時代から使われていた「家事労働者」を指すジャワ語語彙で、ジェンダーと階級の 面から差別的な意味をもつ)と呼ばれ、非都市部の教育水準の低い女性に特有の職業 とみなされており、封建的な主従制度の中の搾取の対象、ないし男性を誘惑する性的 放埓の象徴として、文学的記述の対象とはなっても、文学の著作を行う主体としては 見なされてこなかったからである(Weix 2000)。インドネシア国内のメディア言説も、
国際移住家事労働者女性を、国境を越える「バブ」とするいいまわしを頻繁に使用し ていたことも、そのような事実を物語っている(Seneng 2015)。
そもそも、非都市部出身で高学歴をもたないインドネシア人女性が海外にて家事 労働者として働くことが一般化する背景には、グローバル化におけるジェンダー関係 の問題がある。グローバル化とは、政治、経済、文化の諸相が国家や地域の境界を越 えて地球規模で機能するようになることで、それぞれの社会に大きな変化をもたらす 動きである(サッセン 2011)。そして、グネワルデナとキングソルバー(2006)によ ると、グローバル化とは、不可避的にジェンダー化されたプロセスであるという。そ れは、多方向に及ぶ人間、物質、資本や価値観などの流れを、一元化されたシステム のもとに再構築する。しかし、その一方でグローバル化はまた、特定の地域や活動の 分野における不均等な構造的権力関係を、さらに強化し、複雑化しつつ、豊かな国と 貧しい国を問わず、一部の女性(そして男性)をさらにスティグマ化された立場に追
いやるといわれている。このような流れの一例が、家事労働を含む、親密性労働のグ ローバル化である。親密性労働とは、人間の生命活動のすべてを円滑に運営するため に,ある個人の性的欲求の充足,良好な身体と精神状態の維持,他人を愛し,他人と の情緒的関係性の構築と維持するなどの「親密的要求」を満たすべく世話をする労働 を指す(落合2012:3)。家事労働は、文脈によって、親密性労働と再生産労働の両方 に包括される労働である。
たとえば、伊藤と足立(2008)は、親密性労働のかわりに、広義の意味での人間の再 生産と社会的再生産の両方に不可欠な一連の労働という意味での「再生産労働」とい う用語を使った。伊藤と足立は、これまでは世帯内の家事労働やケア労働として国境 の内部でシステム化され、女性の無賃労働として引き受けられてきた再生産労働が、
現在においては市場化され、国際的に外注されることで、女性移住家事労働者の大規 模送り出しと受け入れという現象を生み出したと指摘している。この結果、女性家事 労働者の国際移動が、「家事労働は女の仕事である」というような既存のジェンダー・
ステレオタイプを、国籍・エスニシティ・階級・宗教に分岐させ、新たな「家事労働 は外国人女性の仕事である」というような差別的な価値観を生じさせる事態を引き起 こした。
現在、アジアからの女性の国際移住家事労働は年々増加を示しており、より貧しい 国の女性が、より富める国の家庭で、代理妻・代理母の役割を担っている。決して裕 福とはいえない家庭出身のインドネシア人女性が、現金収入の得られる職を求めて、
海外での家事労働を請け負うという現象からは、インドネシア人女性国際移住家事労 働者が、家事労働のグローバル化のアクターとなっていることがわかる。これは、女 性国際移住家事労働者が、親密性労働のグローバル化という構造的変化に応答し、日 常生活レベルの実践に変換する媒介者-エージェントとして機能しているということ を意味する。
このような、グローバルな構造的変化とジェンダー化されたエージェンシーのあい だの関係性は、先行研究によってもすでに指摘されてきた。例えば、ジェンダー研究 者のコンネルは、「構造」を、社会関係においてみられる長期的または広範なパターン であるととらえ、このような社会関係は、社会的行為によって常に再構成されること で、存続することができると論じた(2001:20-21)。また、このような社会関係を規 定する上でジェンダー関係は最も根幹的なものであり、現実生活での直接的な個人の 関わりあいにとどまらず、市場や、メディアを通して媒介され、社会全体に浸透して いる価値観のシステムに組み込まれるからこそ、グローバル化を考える上ではジェン ダーへの視点が不可欠だと主張した。これが、現在、多くのグローバル化についての 研究者が、ジェンダー関係に特に着目する理由である。ここで、さきほどの「親密性 労働のグローバル化」に立ち戻って考えるならば、この種の労働の中でも特にジェン ダー化の歴史が長く、数々の不平等な権力関係を生んできた家事労働の経験を、女性 たちの紡ぎ出す「語り」によって明らかにしようというのが、本稿の目的である。
実際、FLP香港という文学創作グループの出現は、ジェンダー化された職業として の女性移住家事労働者による社会運動であるという意味だけではなく、女性家事労働 者が、海外にて自分の関わるジェンダー関係をイスラームというレンズでとらえなが ら語りを行うという、インドネシア語文学の新たなあり方の形成プロセスとも不可分 である。
つまり、FLP香港の活動形態の背景には、香港とインドネシアの二国をまたぐトラ ンスナショナリティがみてとれる。そしてこのようなトランスナショナリティが、親 密性労働を通して「第一世界」と「第三世界」の女性の生活を連結させているとすれ ば、FLP香港は、インドネシアと香港という、ふたつのローカリティを包括しながら、
グローバルな規模での性的分業システムの再構築という全世界的潮流にも与している のだ。
このような状況下でFLP香港が、イスラームと文学による啓蒙を第一義として掲げ、
「ペンによるダアワ」を行っているという事実は、このグループが、家事労働のグロ ーバル化に応答しつつ、文学創作活動とムスリムとしての望ましい価値観の実現を統 合させようとしていることを示している。
しかしながら筆者は、調査をとおして、この一見明白な宗教文学運動は、実は宗教 的、文学的達成感のためのみならず、メンバーたちが、家事労働者として国際移住す る中で直面してきた問題に効果的に対処しながら、広義の理想の女性像を体現するた めの手段として有効であるからこそ、出現したのだと考えるようになった。換言すれ ば、FLP香港の活動は、メンバーたちが、国際移住家事労働者女性として抱える多面 的な主体性を、宗教と文学というラベルでもって(再)文節化し、表現しなおす行為 と不可分なのである。
この点を踏まえて本稿では、FLP香港のメンバーたちが、こうした自己の再分節化 に積極的に参加することで、親密性労働のグローバル化を自分なりに認識し、解釈し、
実践していく状況を考察する。ここで彼女らが、再生産領域のグローバル化という構 造的要因―つまり、「第一世界」と「第三世界」を家事労働によって連結する動き―に おいて、「ちょうつがい」としての役割を果たしていることは重要である。なぜなら、
このような「ちょうつがい」としての役割は、移住女性個人のアイデンティティの根 幹に影響するからだ(足立 2008)。例えば、国際移住労働により、家事労働者女性は インドネシアから香港へ地理的に移動することで経済力が向上する一方、単身の外国 人女性として社会的マイノリティになる。また、いわゆる「非熟練労働」としての家 事労働を行うことにより、インドネシア・香港の両方に存在する家事労働者への差別 にさらされることで、階層的なスティグマをも経験する。
しかし、その一方、国際移動は、移住女性に大きな自由と希望を与える。例えば、
インドネシアでの望ましくない現実―夫や親との不和や貧困などの問題から距離を置
き、自分自身になるという願望が、移住労働によって実現する。このように、国をま たいで存在する理想と現実に直面しつつ、できるだけ望ましい社会関係を取り結び、
よりよい「自分」になるために女性たちが選び取るのが、社会運動への参加であり、
宗教と文学創作という手段なのである。このように、女性たちが、構造がもたらす自 由と制約の中で、できる限りの力でもって自己実現を企てる動きを、グデワルデナと キングソルバーに倣って、「主体性の操縦」と呼ぶことにする。
そもそも、インドネシア人女性家事労働者が香港にて社会運動へ参加するという現 象は、香港におけるすぐれた社会インフラと、国際移住家事労働者の権利保障に多く を負っている。香港特別行政区政府(以下香港政府)の労働省(勞工處)は、移住家 事労働者(Foreign Domestic Helpers/FDH:本稿では、あえてMigrant Domestic
Workers/MDWと記述する)が、最低許容賃金、週休などの権利とともに、雇用者宅で
の住込み雇用の強制や、家族の呼び寄せを制限するなどの、細かい規定を行っている。
また、香港基本法は、すべての香港居民(香港に在住する人間)に対する結社の自由 と団体交渉権を保障している。このような規定の結果、香港では、単身移住者労働者 として外国人女性が大量に受け入れられ、香港居民の世帯の一部に組み込まれる形で 労働に従事するという状況が生まれた。
MDWのこのような雇用形態は、MDWが働く世帯内外にて、個別の「ジェンダー化され た社会関係」を生み出した。例えば、香港居民の世帯に、東南アジアないし南アジア の女性が単身で住込むという状況は、香港での既存の家庭内ヒエラルキーにおいて、
外国人家事労働者を、世帯の維持に必要でありながらも、家族の一員とはなりえない
「他者」として規定した。さらに、一定額の賃金、週休の保障などの規定は、日曜日、
雇用者の自宅では居心地の悪さを感じた家事労働者女性たちが、公園や市場の屋上、
または路上で終日たむろするたまり場を出現させ、行き場のない外国人家事労働者が、
休日の公共の場にて存在を露出するという、ジェンダー化された(そしてまた、国籍
/エスニシティ、宗教や文化によっても差別化された)社会的序列を可視化した。
しかしその一方、政府による規制は、MDWが結社の権利を活用して、労働組合やそ の他社会運動組織を生み出すことをも可能にし、インドネシア政府や香港政府に対し て権利を主張することを通しての「対抗的社会関係」をも創出した。このことから、
コンネルのいう個々の「ジェンダー化された社会関係」とは、相互に矛盾をはらみつ つ、共存しているととらえることができる。その意味において、コンネルのいうグロ ーバルな世界とはとは、異なる「ジェンダー化された社会関係」どうしが絶え間なく 相克する、<「社会関係」という「意味/価値観」の戦場>として成立していると考 えることができる。
だからこそ本稿は、「ちょうつがい」としてのIDWの視点からこのイスラーム文学創 作運動をとらえ、メンバーの繰り出す「語り」が、どのような社会関係を立ち上げつ つ、主体性の操縦を可能にするのかについて考察する。そして、ここでIDWの主体性 の操縦の試みのための手段となるのが「イスラーム」である。これは、ジェンダー化 された社会関係において自己を再定義するためには、IDWにとってイスラームが有効 であると認識されているということである。だからこそ現在の香港全域において、多 数のイスラーム系IDW団体が活発な活動を行っており、休日のたまり場においては、
ムスリムIDW女性たちが長いヴェールや、ゆるやかなシルエットのワンピースなどを 身に着けて、社会活動を行う現象が広く見られるのであろう。これは、これらの女性 たちが、イスラームの名のもとの実践を積極的に「主体性の操縦」の道具として取り 入れている事実の一端と見ることができる。これを踏まえ、本稿では、FLP香港のメ ンバーが(1)宗教実践 とともに、(2)望ましい自己を表現するプロセスを精査す る。
実際のところ、インドネシア人女性がイスラームによって「主体性の操縦」を行う ことは、香港に移住する家事労働者に限った現象ではない。むしろこのような行為は、
インドネシア人を含む世界中のムスリム(女性)によって行われている現象である
(Heryanto 2014, Rinaldo 2013)。そして、インドネシア人女性のイスラームによる 主体性の操縦は、1990年以降のインドネシア国内においてみられた、「イスラーム勃 興」の議論と深く関連している。ブレナーなどによると(ブレナー 1996; ジョーンズ
2010;野中 2013)、90年代以降のインドネシアのイスラーム勃興においては、イスラ
ームは、宗教的価値の再認識であるだけでなく、消費文化を大胆に取り入れながら現 代的な女性らしさを表現する手段として人々の支持を高めてきた。特に、都市部知識 層の若者は、携帯電話に礼拝時間を知らせるアラームを設定したり、高価なブティッ クでムスリムの衣服を購入するなどの行為をとおして、宗教倫理にトレンディさや洗 練されたテクノロジーなどを組み合わせた上で自己表現するような文化的「商標」と してイスラームを取り込んでいる節が見受けられる。そして、このようなインドネシ ア国内でのイスラーム復興もまた、コンネルのいうグローバル化における「ジェンダ ー化された社会関係」の再編成の動きであるとするならば、本稿で取り上げるFLP香 港は、もともとはインドネシア国内で起こった宗教文学創作運動をIDW女性たちが香 港に持ち込むかたちで設立されたという意味において、インドネシア国内で起きたイ スラーム復興による「ジェンダー化された社会関係」の再編成と、香港でのイスラー ム系IDW団体の出現を関連づけるためのアクターとして位置づけられるのではないだ ろうか。さらに、インドネシア国内でのイスラーム勃興と香港でのFLP設立の共通点 は、イスラームが、宗教としてだけでなく、文化やライフスタイルを体現するための 道具としても享受されているところである。これは、イスラームの教条的側面や政治、
経済的側面とともに、文化的側面へのいっそうの学術的関心が、インドネシア人のイ スラーム実践を深く理解するために必要とされている証とも考えられる。
したがって、香港におけるインドネシア人のイスラーム文学創作グループに注目す ることで、近年のインドネシア社会における「イスラーム復興」ないし「イスラーム
文化実践」がトランスナショナル化するプロセスを詳察するというアプローチは、本 稿の独自性のひとつとなる。そしてこのようなアプローチは、現代インドネシアのイ スラームが持つ、文化的な実践としての側面を強調するとともに、現代インドネシア 人にとってのイスラームが、市場や消費文化と矛盾するとは限らなく、むしろ、相互 に強化しあうというヘルヤント(2013)の議論の検証にもつながるだろう。
このような視点をも踏まえながら本稿は、FLP香港が香港とインドネシア両方にま たがって存在する複数のジェンダー化された社会関係に応答する媒体として機能する 様子を考察する。
以降で本稿は、(1)なぜ香港にて、このような宗教文学運動が出現したのか?とい う問いをたて、インドネシアと香港のそれぞれの社会的状況が偶発的に重なって起こ った社会的経緯を論じる。また、(2)FLP香港のメンバーがおこなう「主体性の操 縦」の目的は何かという問いについては、(a)宗教実践 とともに、(b)IDWとして、
できる限り望ましい自己像を実現するプロセスに焦点をあてて考察を行う。
とくに(b)においては、当該グループの創作したテクストの分析を通して、(i) 移 住家事労働の意味 (ii) 望ましい女性像 (iii)移住家事労働をめぐる関係 という テーマが、メンバーの語りで中心的な位置をしめていた点を指摘する。したがって以 下では、メンバーによる語り(発言内容)とメンバーが執筆したテクストの語りの両 方を取り上げて、国際移住家事労働を通して発生する社会関係において、雇用者と IDWの間での価値観の対立とともに、これらの異なる価値観を交渉して、望ましくな い価値観を転覆したり、再解釈しつつ、妥協点を見出しながら、メンバーが望ましい 自己像や関係性を吟味し、調整する状況を検証する。
議論の流れとしては、第1章の先行研究の検討、第2章の研究の方法論のあと、第 3章にて、FLP香港設立の経緯を追う。具体的には、インドネシアの中小出版業の拡大 とイスラーム文学の一般化、香港でのIDWについての規制と交通、通信インフラが後
押しするかたちでIDWによる社会活動グループが増加したことにより、10名あまりの 文学愛好者のIDW有志によって、FLP香港がイスラームを核として結成されるプロセ スが検討される。これにより、上記(1)の問いを検討する。続いて上記(2)の問 いについては、第4章から第6章にわたり、FLP香港の定例活動にてメンバーたちの 発言と創作されたテクスト両方にみられる「語り」を取り上げて検討する。第4章で は、FLP香港の活動形態について整理しつつ、上記(i)~(iii)に関わるメンバーの語 りの内容を整理する。第5章では、FLP香港が発行する月刊ブレティンの言説、第6 章ではFLP香港が出版した2冊の短編小説集にみられる記述を取り上げて、上記(i)~
(iii)の概念がどのように描かれるかについて考察を行う。第6章では短編小説テクス
トを精文分析し、テクスト中に描かれたIDWの主人公に関わるメトニミー(換喩)の 二項対立性を詳細に分析し、意味の転覆や再文脈化が行われるプロセスを<語りの競 合>として精査する。これにより本稿は、語りによる「望ましい自己像」が、メンバ ーの語り、月刊ブレティンでの言説を踏まえて、出版物に結実する段階的なプロセス を浮かび上がらせる。またそこでは、メンバーの立ち上げる理想の自己像が、イスラ ームという枠と合致するかどうかをについても検証する。つまり、IDWメンバーたち は海外での家事労働の中で、宗教という枠だけには到底収まりきらない多くの問題を 抱えていることは、FLP香港の掲げるイスラームという大義とどう関連するのか?メ ンバーのとらえる「イスラーム」とは、実はイスラーム以外の倫理道徳や価値観をも 包括する力をもっているのではないだろうか?たとえば、語りにおける「イスラー ム」という理想は、FLP香港メンバーが受ける家事労働者への差別に抗議し、結婚に 際して「行き遅れ」たりせず、一方で「間違った」恋愛関係にも陥らないよう自戒す るために標榜されるような、曖昧さと矛盾をはらむ概念である可能性があるからだ。
このような多様な文脈を、FLP香港メンバーにとっての「イスラーム」は、どのよう に首尾一貫性したものとして成立するのだろうか。このような疑問を踏まえて以下で
は、FLP香港のメンバーが、イスラームがもちうるキャパシティを最大限に利用して、
より望ましい自分像を多様な社会関係の中で立ち上げながら、親密性労働のグローバ ル化に応答するさまを詳細に検討していく。
第1章 先行研究の検討
1-1 親密性労働のグローバル化と国際移住家事労働
すでに述べたように、現在、グローバル化にどう対峙するかが多くの社会で重大な 問題として取り上げられているが、グローバル化にもいくつかの種類がある。とりわ け、これまでのグローバル化の議論において中心的に取り上げられてきたのは、政治、
経済問題など、いわゆる「生産領域」において出現した諸問題であった。そこでは、
グローバルな人の移動の流れを取り上げるにあたっても、おもに政治経済分野にて生 産活動に従事する成人男性をアクターとすることを前提とした考察が行われていた。
しかしながら近年では、家事、介護、看護、リラグゼーション、エンターテインメン トなど、他人をケアしたり楽しませたりすることに関わる、いわゆる生産領域以外の 産業にてグローバル化が進んでおり、女性が積極的な国際移動を行っていることが多 くの研究にて報告されている(Gunewardena, Nandini. and Kingsolver 2007,
Hochschild 2000)。これは、国民国家と資本主義経済システムを盤石とした近代国家
システムのグローバルな再構築が起こるにともない、そこに住む人間のあり方や社会 関係が大きく変化しているがゆえに引き起こされている現象である(サッセン 2006)。 たとえば、病気治療や美容施術、リラグゼーションのために海外へ渡航したり、外国 人の配偶者を探したり、家事や看護、介護労働者を海外から受け入れるという状況が、
いわゆる先進国を中心に生まれている(Palriwala & Uberoi 2008; 伊藤と足立 2008)。 結果として、貧しい女性がこの種の労働に従事するために国際移動をするようになり、
彼女らの出身国と受入国、両方での社会の女性、男性のあり方や家族の意味が大きく
変化しているのである。
このように、グローバル化をめぐる研究関心の視点が「生産領域」から「それ以 外」に移り始めた点については、すでに多くの研究者が、それぞれの用語によって問 題提起をおこなってきた。例えば、A.ホックシールド(Arlie Hochschild)は、この 種の労働のグローバル化を「グローバルなケアの連鎖(Hochschild:2000)」と呼び、
R.パレーニャス(Rhacel Parreñas)は「再生産の国際分業(Parreñas:2000)」と名 づけ、落合恵美子は「親密圏の再編成」、伊藤るりと足立眞理子においては、「再生産 領域のグローバル化/再編成(伊藤、足立:2008)」と提題した。
たとえばホックシールドは、上記の「再生産領域」の活動を「感情労働2」という 視点からとらえ、アメリカにおいて、家事労働やキャビンアテンダントなどのケア労 働がジェンダー化されており、家事労働については、移民を雇うことでトランスナシ ョナル化とともに人種化されていることを指摘した。一方、足立は、「労働力の再生 産」と「広義の社会的再生産」の両方の意味で「再生産領域」をとらえ、このような 領域を維持する<人間>の生命のサイクルすべてにかかわるすべての労働-家事、育 児、介護、看護、結婚から、娯楽や観光、臓器や人身売買まで―が、国境を越えて外 注され、女性の国際労働移動が拡大することにより、世界規模でのジェンダーや階層 概念の再編成を促している点に注目する(伊藤、足立2008:8-9;足立 2008 :248)。 さらに、落合は、人間の生命活動のすべてを円滑に運営するために,ある個人の性的 欲求の充足,良好な身体と精神状態の維持,他人を愛し,他人との情緒的関係性の構 築と維持するなどの「親密的要求」を満たすべく世話をする労働について「親密性労 働」と定義した(落合 2012:3)。
これらの論者が共通して指摘しているのは、これまでは家庭内の女性の無賃労働を 中心に担われてきたケア労働(ホックシールド)/再生産労働(パレーニャス、伊 藤・足立)/親密性労働(パレーニャス、落合)が、いわゆる「先進国」にて国際的
に外注された結果、より貧しい国の女性による移住労働が増加し、これらの労働にま つわる「国際的なジェンダーの連鎖」の一端を担うようになったことである。つまり、
これまでにはなかったかたちで、「先進国」と「発展途上国」の女性やその家族が、ケ ア労働/再生産労働/親密性労働を通して直接的ないし間接的に社会関係を取り結ぶ ことになった結果、女性たちの出身国と受け入れ国両方の国家や市民社会、市場など の領域の組織やシステム、価値観が大きな変化を遂げていることが共通して問題とさ れている。このような図式のもとでは、国際移住家事労働を行う女性は、出身国と移 住先の国を新たな関係で接合する「ちょうつがい」となると足立(2008:248)は指摘 している。
これら三者三様の提題を踏まえると、本稿では、いわゆる「生産領域以外でのグロ ーバル化」をどのように定義するのが最適であろうか。
たとえば、ホックシールドのいう「グローバルなケア連鎖」概念では、ケアを輸出 する国と輸入する国の間のグローバルな関連性と不均衡性に深く踏み込めておらず、
伊藤と足立のいう「再生産領域」という用語は、現代の国際移住家事労働者が抱える 問題の根源を問う上で非常に重要な視点を提供してはいるが、この語彙を留保なしに 使用した場合、伝統的な「生産領域」との二項対立性が強調されかねないため、結果 的に「再生産領域」とは「生産領域」を補完すべき二次的存在であり、「家族」という 本来はきわめて相対的な概念を本質化しているかのような印象を与えかねない。これ らを鑑みて、本稿は、落合のいう「親密性労働」を使用する。
なぜなら、落合のいうように、「親密性労働」は歴史的に、私秘性(privacy)、親密 性(intimacy)、家内性(domesticity)からなる「親密圏」にて担われ、国家や市民 社会、市場からなる「公共領域」とは対立するものとしてとらえられてきたことが、
現在のグローバル化におけるジェンダー化された社会関係に大きな影を落としている からである。つまり、これまで親密性領域といえば、「家族」そして「女性」がつねに
連想されてきたにも関わらず、実際には、親密性労働は近代以前から家族の外部に開 かれ、社会的に担われて来た労働だったと落合は強調する(落合 2013:5-6)。だから こそ、親密性労働と私的領域(=家族)の結びつきを自明とせずに相対化する姿勢が 必要になり、「生産」との対立性と不可分である「再生産」ということばよりも「親密 性」労働という用語を優先する必要があるのである。さらに落合は、多くの親密性労 働が、アジアをはじめとした多くの社会にて「家庭にて女性が担うべき仕事」という 偏見にまみれているからこそ、この種の労働が、現在のグローバル化によって、家庭 の内外にて有償や無償で行われている現象を取り上げることで、狭義の再生産労働や ケア労働について回る固定概念から自由になれると論じた(落合 2012:8-9)。
このような問題意識は、「生産領域以外のグローバル化」を考えるためには重要な視 点である。なぜなら、「生産領域」と「再生産領域」の二分法と、「公的領域」と「私 的領域」のジェンダー化が、近代社会システムにおける生産領域中心主義と男性中心 史観を生み出してきたとすれば、今後の世界の展望において、生産領域/公的領域/
男性中心の視点ではなく、それ以外の視点から「生産領域以外」のグローバル化をと らえる姿勢が有効だからだ。しかし、単に「男性中心」を「女性中心」に読み替え、
「公共領域」のグローバル化を「私的領域」のグローバル化へと視座を転換するだけ では、グローバル化が含み持つジェンダー化でされた二項対立の図式は変わらない。
だからこそ本稿は、いわゆる「生産領域以外のグローバル化」を、親密圏労働を中心 とした全世界におよぶ社会の再構築ととらえ、全ジェンダーと社会領域を組み込んだ 価値観の創造プロセスとして概念化するために、「再生産労働」という用語の意義を十 分踏まえながらもあえてこれを使わず、「親密性労働のグローバル化」を使用する。こ れにより、親密性労働が近代家族概念との不可分性によって発達したという歴史を踏 まえながらもこれを相対化しつつ、これまでこの種の労働が対置されてきた公共性領 域に取り込まれたり、時には影響を及ぼしたりしながら、グローバル化を成し遂げて
きたさまを浮き上がらせることができるであろう。加えて本稿が、数ある親密性労働 の中で家事労働に焦点を据えるのは、家事労働がジェンダー化された親密性労働の代 表格であり、家庭の中での労働を行うのは女性のつとめという、公私二元論の核とな る価値観を形成してきたからである。つまり、これまでの生産領域を中心とした世界 システムのとらえ方を下支えしてきたのが家事労働の女性化であったとすれば、家事 労働の意味が今後どのように変化する可能性があるのかについて考えることは、グロ ーバル化の相対化のためには重要であると考えられる。加えて、これまでの国際移住 家事労働者についての研究においては、家事労働者の行う労働における問題が中心で、
余暇や趣味の活動についてはあまり検討がなされてこなかった。しかし、当然ながら、
女性家事労働者も仕事時間に他者をケアする以外にも、日常生活で家族や友人知人、
そして自己を気遣い、愛情表現をおこなっているはずである。このような視点から近 年では、コンスタブル(2007)をはじめとする、国際移住家事労働者の余暇の過ごし 方から照射した研究が出現している。これを踏まえて本稿は、女性家事労働者が行う 労働の部分ではなく、余暇を利用して参加する社会運動について取り上げ、家事労働 と宗教生活、文学創作活動についての包括的な語りを取り上げることで、これまで家 事労働者と家事労働に付き纏ってきた固定観念の縛りをできる限り相対化しつつ、家 事労働を多面的に理解したい。
1-2 国際移住する女性家事労働者の社会運動
女性による国際移住家事労働の増加にともない、MDWによる社会運動が顕在化し始 めたのは1990年代以降であるため、この分野での先行研究の蓄積は限られている。こ のことから本稿では、国際移住家事労働者による社会運動について考える手がかりと して、女性による社会運動についての研究群にまず目を向けたい。
たとえばフェレ(Ferree: 1992)は、社会運動を起こす原動力には大きく分けて、
経済的合理性と価値観的合理性の二通りに分けられると論じた。経済的合理性に重き を置く社会運動とは、物質的利益を追求するタイプのもので、価値観的合理性を求め る社会運動は、ある理想の実現を目指すものであるという。そしてフェレは、とくに 社会的周縁に位置する、たとえば貧困層女性の集団にとっては、主流社会にて是認さ れてはいても、自分たちには不公平な価値観に対して、独自の「オルタナティブな」
価値観を打ち立てることが可能になるからこそ、社会運動に参加するのだと主張した (Ferree, 1992:46)。この種の社会運動の場では、メンバーは限られた資源を駆使して、
自分たちが社会経済的資源をはく奪されているという現実を乗り越えようとするので あり、ここで参加者の一番の武器となるのが、共通の価値観の共有である。このよう なフェレの議論は、ポーレッタとジャスパーの社会運動における集団的アイデンティ ティについての議論にも通じるものがある(Polleta and Jasper 2001)。ポーレッタ とジャスパーは、社会運動のメンバー内で共有される共通の価値観としての集団的ア イデンティティが、グループの外部の「敵」に対してメンバーを結束させる効果を持 つだけでなく、グループ内部でのメンバー間の経済的・文化的資源のギャップを埋め て調整するような役割をも担いうることを指摘した。これは、移民女性の社会運動、
そしてイスラームの名のもとに文学創作を行うFLP香港の活動においても有効な視点 である。共通の価値観による結束が、メンバーの運動への参加の動機と意義に深くか かわっているという議論は、容易に理解できるものである。
しかしながら、フェレのいう経済的合理性と価値観的合理性は、二者択一的に選び 取ったり、明確に切り離せる概念なのだろうか。両者は互いに両立可能である可能性 はないのだろうか。そう考えると、我々がいま取り組むべきなのは、社会運動におい て、経済的合理性と価値観的合理性がどのように連関し、参加者に参加の意義を与え ているかという問いであろう。これこそがフェレの標榜する「社会運動が埋め込まれ た社会的文脈に注意を払う」という姿勢であり(Ferree 2006: 6-7)、このような姿勢
によってこそ、もともとは互いに無関心な人々が共通の目的のためにつながり合い、
社会運動に参加する経緯を深く理解することができる。これを踏まえて本稿では、こ のふたつの合理性がメンバーにどのような価値観の実現の機会を与えているのかにつ いて考察する。
この他、トゥレーヌやメルッチなどの「新しい社会運動」論において、人々がポス ト近代化社会において社会運動に参加することの動機には、社会や政治のシステムの 変革よりも、新たな価値観の創造にあるという議論がある(トゥレーヌ 2011、
Melucci 1989)。たとえばメルッチは、新しい価値観の創造が行われる例として女性運
動を挙げているが、女性による価値観の創造が社会運動のありかたとどうかかわって くるのかについては、深い考察は行われていない。このような「新しい社会運動論」
の限界を補完できるのが、女性研究における個別の社会運動研究群であろう。これら の研究において、女性たちがジェンダー差別的な価値観を変革し、性差による差別の ない価値観の確立を求めて集団的行動にかかわっていく過程を丹念に追う姿勢は、本 稿でのFLP香港の活動形態の考察でも採用する手法となる。
実際、親密性労働に携わる女性が、価値合理性と経済的合理性を組み合わせて社会 変革を求めることは、今に始まったことではない。たとえば、1960-1970年代の米国 を中心におこった女性解放運動に引き続き、1980年代の米国で出現した第二波フェミ ニズムは、女性の行う親密性労働についての軽視に対しての異議申し立てであった。
そこでは、家事労働が専業主婦による無賃金、または低賃金労働とされてきたことが
「名前のない問題」として批判されたからである。これを踏まえると、当時の標語
「The personal is political(個人的問題は政治的な問題)」は、現在の親密性労 働のグローバル化という文脈において新たな意味を持ちうるのではなかろうか。だか らこそ、FLP香港のメンバーが親密性労働の意味を吟味しつつ、親密圏の定義と親密 性労働の意味を再構築するプロセスを考察することは、女性による社会運動の現代的
な意義を探ることと同義なのだ。またこの標語は、親密性労働の女性化だけでなく、
特定のエスニック化(○○人は家事労働者という決めつけ)や宗教化(○○教徒は家 事労働者という決めつけ)にみられるような複合差別をも再評価する上での視座にも なるだろう3。
序論にて述べたように、アジアにおける外国人家事労働者の受入国の中で、香港は、
外国人家事労働者による社会運動の一大拠点をなしてきた。国際移住家事労働者によ る社会運動についての学術研究群も、香港を舞台として取り上げたものがほとんどで ある(Chang and Ling 2011, Hsia 2009, Sim 2007, Constable 2009, Lai 2010, Swidler 2006, 小ヶ谷 2008)。これらの研究はそれぞれに特色があり、チャンとリン
(2011)、シャ(2009)の研究は家事労働者によるNGOや自助組織などによる、外国人 家事労働者の集団としての待遇改善運動について取り上げている。一方、シム
(2007)の考察は、香港で家事労働者によるNGOに参加するインドネシア人女性が、
トランスナショナルな文脈で自己のジェンダーを再定義する個人的なプロセスに光を 当てた。小ヶ谷(2010)の研究はシムと同じく、外国人家事労働者によるNGOのリー ダーをつとめる女性によるインタビューの語りを通して、女性主体の立ち上がりを検 証したものである。
このような研究群の中でライ(2010)の論文は少し趣向が異なっており、香港のイン ドネシア人家事労働者による社会運動が、常に音楽やダンスなどの文化活動を活用し ている点に注目し、文化実践がこれらの女性の社会運動において、参加者の自己表現 における重要な道具となっていることを示唆している。
これらの先行研究を整理すると、アジア諸国ではたらく外国人女性家事労働者によ る社会運動においては、グループ主体、そして個人主体両方についての視座が提供さ れていること、家事労働者の権利保護などの社会変革を目指したものに加え、文化実 践による自己表現のプロセスについても検討がなされていることがわかる。ただ、こ
れらの中でいまだ取り上げられていないのが、宗教の役割である。とくに香港では、
外国人家事労働者の二大派閥のうちのひとつであるインドネシア人にとっては、宗教 が倫理規範と文化実践の両面において重要な役割を担っていることを勘案すれば、本 稿が外国人家事労働者の社会運動における宗教の意味について深く検討することは、
ただ重要なだけでなく必要な試みでもあるといえる。さらに、これらの先行研究は、
短編論文がほとんどであり、ひとつの研究対象グループについて、長期にわたって関 係性を維持しながら考察を行ったものは少ない。これを踏まえ、本稿では、7年に及 ぶ長期的な関係性に基づいたグループへの理解と丹念なテクストの読みこみに基づい た考察を試みる。これにより本稿は、外国人女性家事労働者による宗教的文学創作運 動を、ひとつの文化の創造プロセスとして深く精査する。
1-3 競合する語り:メトニミーによる価値の競合と意味の再解釈
本稿では、第4章―第6章において、FLP香港のメンバーによる発言(話し言葉)
と執筆されたテクスト(書き言葉)両方に注目し、それらの語りのあいだの一致や矛 盾を通して、どのような価値観が標榜されているかについて詳細な検討を行う。
社会運動における「語り」に注目する研究は多数あり(Polletta 1998, Snow and Benford 1988, Snow and Benford 2000)、理論的な背景も多彩であるが、本研究にお いては、フィールド調査において筆者が書き留めたメンバーの語りと、メンバー自身 が月刊ブレティン、香港のインドネシア語タブロイド紙、または単行本等で出版した 散文テクストの語りにおいてあらわれたキーワードをメトニミー(換喩)とみなし、
メトニミーを通して表現される複数の異なった価値観の競合から、語り手が自己の主 体性を吟味し、選択する様子を検討する。
80年代のシンボリック・インタラクショナリズムに影響を受けた社会学者のスウィ ドラーは、社会的構造変化とは、エージェンシー(行為主体)の行う行為の意味が、
文化によって媒介されることにより起こると主張した(Swilder 1986)。つまり、人は、
文化を「道具」として自由に組み合わせて、自己が直面する構造の制約に適応しつつ、
自分なりの行動規範を選び取る。その意味では、構造変化とエージェンシーの行為は、
文化のアイコンに付与された「意味」によって媒介される。またここでは、構造とエ ージェンシー、文化のすべてが、互いとの相互作用により変化する関係にあるとされ ている。
このような80年代の議論は、エージェンシーが自己の行為に対して持てる自律性を やや強調しすぎるきらいがあるとはいえ、構造・エージェンシー・文化のあいだの動 態的な関係が社会変化を引き起こすことに着目している点では、現在の議論にも十分 適用可能である。たとえば、2000年代のアメリカ社会学における「文化社会学」学派 においては、映画、ニュース、殺人事件などの社会的現象におけるメディア言説を取 り上げ、そこに現れる文化のアイコンの意味について細かく分析し、構造とエージェ ンシーの関係性を追求しており(Jacobs 2000, Smith 2005, Alexander 2012)、文化研 究をとおして社会とエージェンシーとの関係性を動態的に捉えようとする視点はいま だ有効である。従って本稿では、スウィドラーのいう「文化の道具セット」を、2000 年代後半の視点で出された、ポーレッタによるメトニミーを使った社会運動のナラテ ィブ分析への接合を試みる。
歴史学におけるテクスト分析を論じたハイドン・ホワイトによると、メトニミー
(換喩)とは、あるテクストにおけるシンボルを、ある現象の置き換えとして還元的 に解釈することで意味を創出するものであるという。(たとえば「50艘の柱」が「50 艘の船」をあらわすなど、船の一部が船全体を意味する)(ホワイト 2015:34)そして このような換喩の性質は、ある現象のうちの一部分を、別のもののある一面や、機能 的一部分に還元することで、その現象の全体と一部分との関係性を浮かび上がらせる。
たとえばこれは、ある語りの中で「雷の咆哮」として表現される大きな声の文化的ア
イコンが、「雷が吼える」という行為主体(父親)と行為(激怒)の関係性を表象する こともあれば、「雷の咆哮」という現象における結果(叱咤)とその原因(父を激怒さ せた理由)に注意を促す場合もある。つまり、換喩における、ある現象と還元された 部分の関係性を明確にする機能は、ある社会現象のもつ意味を、主体と行為の関係性 として再分節化するのに適していると考えられる。
ポーレッタは、このようなメトニミーの性質をふまえ、アメリカ社会運動(公民権 運動、堕胎の合法化、反パートナーシップ・バイオレンス法の制定など)における運 動参加者の語りを記号論的に分析し、語りに現れるメトニミー(ポーレッタいわく、
隠喩と喚喩の混合した記号)の意味を考察した。ポーレッタは、メトニミーにおける 上記のような「全体」と「部分」の関連性に注目し、語り手がメトニミーを使って、
ある現象における一般的な意味合いを転覆する、ないしは再文脈化して新しい意味を 付与することで、社会運動の理想が分節化されると主張した。このような例は、女性 のエンパワーメントのためのグループに加わった女性が、レイプの被害にあった経験 について語る際に、語りの当初では自分自身を「被害者」として表現したのちに、最 終的には「サバイバー」として再定義するというようなケースである。このような例 示によりポーレッタは、この女性の自分語りにおいて、自己を「レイプ」の「被害 者」としての関係性で表現したのちに「サバイバー」として定義しなおすという再文 脈化のプロセスに注目し、メトニミーによる自己再定義の契機として指摘した。これ は、語り手自身が、自分の個人的な経験(レイプの犠牲となること)を、自己の望ま しいあり方(トラウマの超克)に結びつけることで、社会運動の目標とともに、望ま しい自己の実現や回復が達成されることを示唆している。言い換えれば、ここでポー レッタのいうメトニミーによる語りの再文脈化は、スウィドラーのいう、文化の道具 セットによる構造とエージェンシーの媒介と同じメカニズムを指摘しているのだが、
ここでポーレッタが卓越しているのが、具体的な語りにおける再文脈化のプロセスを
メトニミーによって分析することによって、個人の語りが社会運動グループとしての スローガンに吸収されていく点を指摘したところである。
しかしながら、ポーレッタの分析は秀逸ながらも網羅的ではなく、ある社会運動を 集中的に調査したうえで、この種の語りを通した自己の再定義プロセスを細かく検討 してはいない。このような限界を踏まえて本稿では、FLP香港メンバーの発言内容と 文学創作テクストにおける自己の意味の再文脈化のプロセスを精査する。これにより 本稿では、ポーレッタの行った社会運動における語りのメトニミー分析を、運動参加 者の語りとテクストの二本立ての検証によって、さらに精緻に行うことを目標とする。
1-4 イスラーム運動における批判的・実践的エージェンシー
FLP香港を考察する上では、このグループが文学創作とともにイスラームを標榜し ているという事実が非常に重要なる。なぜなら、インドネシア人によるイスラームの 名のもとの啓蒙運動は、豊かなバリエーションとともに長い歴史に彩られてきたから である。しかしながら、本稿の目的はそれらをすべて網羅することではない。したが ってここでは、2000年代のインドネシアにおけるイスラーム運動における文化的側面 と、とくにジェンダー化された価値観への影響に的を絞って、簡潔にまとめる。
インドネシアのイスラームの特徴としてよくあげられるのは、現在までこの社会に 色濃く影を落とすとよくいわれる、1998年まで30余年続いたスハルトによる権威主 義的政権による統治の影響である。
1960年代に政治的実権を掌握した当初、スハルトは、イスラームを自らの権力の脅 威とみなし、抑圧するような政策をとった(Heryanto and Mandal, 2003, Heryanto
2013)。この時点では、イスラームは社会勢力としての力は制限され、イスラームの実
践も反社会的とみなされることが多かった。たとえば、ジョーンズやブレナー、ブラ ックウッドが指摘するように、1980年ごろまでのインドネシアにおいては、女性がジ
ルバブ(ムスリム女性が頭部を包む短めのスカーフ)を日常的に身に着けていると、
求職面接などにおいて不利になることが多かった(Brenner 1996, Jones 2010,
Blackwood 2011)。しかし、このようなイスラーム実践を差別する価値観は、90年代
になって大きく変化し、2000年代には、イスラームの実践や、ムスリムとしての自己 表現が、肯定的な意味をもつだけでなく、ファッショナブルな営為としてみられるよ うになった(Blackwood 2011)。
これには、独裁主義的政権が達成した、1990年代までの目覚ましい経済成長と工業 化が影響している。これにより、大都市を中心に国内消費がけん引され、中間層の台 頭と消費文化の拡大がみられるようになったからだ。さらに90年代後半に、一党独裁 制度の権力腐敗が悪化し、汚職や権力闘争のせいでほころび始めると、スハルトは、
イスラームを新たな支持基盤として利用しようとして、ムスリムとしてのアイデンテ ィティをより顕著に示し、イスラーム団体に接近するようになった。結果として、イ ンドネシア社会全体が豊かになって富裕層が拡大し、またイスラームの意味が肯定的 に理解されるようになり、2000年代以降においては、イスラーム的消費文化の勃興と もいうべき現象が起こった。
たとえばブレナーは、スハルト体制以後の富裕層の女性たちが、ファッショナブル なアクセサリーや服装を身に着けることを通して、ムスリム女性としてのアイデンテ ィティを表現する現象を考察した(Brenner 2011)。ここでブレナーは、イスラームを 意味するスカーフやスカート、上着のスタイルが、ファッション性と融合して、「おし ゃれなムスリム女性」としての自己表現が起こるプロセスに注目している。つまり、
ここでのイスラーム文化は、宗教的側面と同様に、文化的側面も非常に重要なのであ る。しかし一方で、2000年代のインドネシアのイスラーム文化は、単に消費文化を反 映しているわけではなく、他の側面も内包している。たとえば、フリスク(2010)が マレーシアのムスリム女性についての研究を通して指摘するように、ムスリム女性は、
女性の果たすべき役割を、妻、母として、家族/親密圏の中で定義するイスラームの 教義と交渉することを要請される。つまり、現代のインドネシア人ムスリム女性の多 くが、現代の消費文化による自己表現と、ムスリム女性としてあるべき女性像の間で、
何らかの妥協点を見出すことを要請されているということである。ここでフリスクは、
マレーシアの富裕層ムスリム女性が、裕福であるにも関わらず、あえて質素なファッ ションに身を包み、自分に与えられた消費や行動のチャンスの行使をあえて拒否する ことで、ムスリム女性としてのアイデンティティを表現する様子を描いた。これが、
フリスクのいう、ムスリム女性の「否定的エージェンシー」である。しかしもちろん、
このようなムスリム女性のエージェンシーは、単に肯定的か否定的かの二者択一では なく、時と場合により肯定、否定するとともに、両方を決め兼ねたりもするような両 義性を持ってもいるのではないか。この点においてヘルヤント(2013)は、インドネ シアのイスラーム映画『愛の章句』分析によって、この映画のオーディエンスの大部 分を示すいわゆる中間層の若者たちが、イスラーム的価値観とそれ以外の価値観との 相剋と葛藤を鮮やかに描き出した。ヘルヤントは、『愛の章句』にて、登場人物が身に 着けるファッションや彼らの享受する文化のアイコンを通して表現されるこの種の葛 藤にスムーズに感情移入できたからこそ、この映画がヒットしたということを精緻に 議論している。
このように、現代人が信仰を求めると同時に、政治的清廉さ、経済的成功やトレン ディさなどの価値観とも両立するための葛藤に焦点をあてたイスラーム文化研究の姿 勢は、リナルドの研究にも顕著である。リナルドの考察においてとくに卓越している のは、インドネシア人ムスリム女性のエージェンシー(行為主体性)を、「実践的」エ ージェンシーと「批判的」エージェンシーの二つの側面から理解しようとした点にあ る。前者は、教義にて指定された女性像を実践することで出現するエージェンシーで あり、後者は、前者のような教条を自分なりに再解釈し、より現実に見合った理想と
して読み替えるような批判的姿勢をもつことによって得られるエージェンシーである。
たとえば、ムスリム女性がイスラームの教義に従い、決められた身体的部位を覆い隠 すためのスカーフやヴェールを身に着けることは、「実践的」エージェンシーの立ち上 がる契機となりうるだろう。一方、親族の男性の付き添いなしの女性の外出は忌避す るべきとする教義があるにも関わらず、インドネシア人のムスリム女性が単身で海外 移住を行い、非ムスリムの世帯に住み込んで家事労働に従事するという過程において は、このような教義を批判的に再解釈し、女性の海外移住家事労働を正当化しながら、
自らの仕事の意義と価値を再定義する作業が不可欠になる。このために、FLP香港メ ンバーは、教義の言葉どおりの意味とその中にあるメッセージの本質とを批判的に検 討しながら自分なりの答えを導き出しているのなら、彼女らはここでリナルドのいう
「批判的エージェンシー」を発現させているのではないだろうか。したがって、この 二つのエージェンシーの分類は、FLP香港メンバーを含む現代ムスリム女性の抱える、
イスラームへの信仰と他の価値観とを両立するための葛藤を考察するためにはそれぞ れ有益であると考えられる。しかし惜しむらくは、リナルドのインドネシア人ムスリ ム女性団体参加者についての研究では、この二つのエージェンシーはあくまでそれぞ れ分離した概念としてとらえられており、互いが重なったり、互いを強化/弱体化す るような微妙な関係性が十分に描ききれていない点が見受けられる。したがって本稿 では、リナルドの二つのエージェンシー概念の重なりや相互関連性に注目しつつ、FLP 香港のメンバーが現実と教義のあいだで行う交渉に特に注目して考察を行う。
第2章 調査の手法
序章にて述べたように、本章以降では、次のような疑問についての検討を試みる。
(1)なぜ香港にて、このようなイスラーム文学創作運動が出現したのか?
(2)FLP香港での「ペンによるダアワ」の内実である、①宗教実践 と ②望まし