として
著者 前原 淳史
雑誌名 社会科学
巻 48
号 2
ページ 277‑305
発行年 2018‑08‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000242
「七博士事件」の再検討
─ 「金井延日記」を中心として ─
前 原 淳 史
日露戦争直前の開戦世論の高まりには,東京帝国大学教授が起こした「七博士事件」
が大きく影響したとされている。本稿では,その七博士事件を 1900(明治 33)年に起 きた「第一次建白」,1903(明治 36)年に起きた「第二次建白」に分け,前者を中心に 分析した。
分析にあたっては,東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料セン ター原資料部に保存されている「金井延日記」を基礎史料として,主に七博士中の経 済学者金井延を中心として検討を進め,七博士事件の全体像を明らかにすることを試 みた。
その中で,これまで注目されてこなかった博士たちの人間関係などのプライベート な面が明らかになり,金井の交流の幅が政府要人,軍人など非常に多岐に渡っている こと,またその人脈を巧みに使いながら,社会政策学会の活動を通して政府と世論を 動かすということを経験し,それが第一次建白へと活かされた可能性を示した。
これにより,七博士事件の一端が明らかとなり,日露戦争の開戦原因を問い直す契 機になるのではないかと考える。
は じ め に
現在までに,日露戦争に関する研究は数多く存在しており,それらは軍事史,外交史,
社会史,政治史などさまざまな側面からアプローチされているが,戦争の起源をいつ,ど の点に見出すのかという最も重要な問題についてさえ,評価が確立したとは言えない1)。
さて,日露戦争の原因を解明しようと試みた研究は,大きく二つに区分できる。一つ は政治外交史的研究であり,これは当時の日本の政治指導部の動向に注目したものであ る。近年の研究で主なものとしては,伊藤之雄『立憲国家と日露戦争』(2000)2)や千葉 功『旧外交の形成 日本外交 1900−1919』(2008)3)などがある。もう一つはメディア史 的研究であり,これは国民の開戦世論に注目したものである。近年の研究で主なものと しては,片山慶隆『日露戦争と新聞 「世界の中の日本」をどう論じたか』(2009)4)や,石
川徳幸『日露戦争開戦過程におけるメディア言説』(2012)5)などがある。原因を明らか にするためには,いずれの視点も必要であると考えられるが,双方を架橋する研究は皆 無に近い。戦争というものは,政府と国民が同じ方向を向いて(あるいは,向かされて)
起こるものである。そのきっかけとなったのが,七博士事件であり,日露戦争の開戦原 因を解明する上で特に注目すべきだと筆者は考えている。
しかし,事件はもとより七人の博士を主題とする研究はほとんど存在しておらず,詳 細な検討が加えられてきたとは言えない。もちろん,博士の人物像や,生活状況などの 送っていたのかなどのプライベートな面に着目した研究など皆無である。しかし,博士 たちの人間関係などのプライベートを考慮しながら,博士の思想形成過程を明らかにす ることこそが七博士事件分析には必要である。そのため,その面を考慮しつつ,七博士 事件の全体像を再構成し,新たな側面から開戦原因に迫ろうというのが,本研究の狙い である。
具体的には,史料が豊富に存在しており,七博士の中心メンバーの一人であった経済 学者の金井延に注目し,検討を進めていく。
七博士事件の実像を明らかにすることは,どうして日本は「開戦」という対外行動を とったのかという問いに対する解答の端緒ともなるはずである。
1 これまでの七博士事件研究とその問題点
七博士事件とは,東京帝国大学(以下「東京帝大」とする)の教授を中心とする 7 人 の博士(東京帝大教授小野塚喜平次・金井延・高橋作衛・寺尾亨・戸水寛人・富井政章,
学習院教授中村進午)が対露開戦を訴えた意見書を政府に提出した出来事を指す。先行 研究において明らかにされている事件の展開は以下の通りである。
1900(明治 33)年 9 月 9 日,金井・寺尾・戸水・富井・中村・松崎蔵之助の六博士は 近衛篤麿主催の集会において対政府建議活動を展開することを決め,同月 28 日,対露強 硬論に山県有朋首相,ついで 11 月に加藤高明外相に建議した(この一連の流れを以下「第 一次建白」とする)。その後活動は下火になるが,日露間での緊張が高まる 1903(明治 36)年頃から再び盛り上がりを見せ,5 月 31 日,小野塚・金井・高橋・寺尾亨・戸水・
富井,中村の七博士は,6 月 1 日に桂太郎首相を官邸に訪問して意見を陳述,また小村寿 太郎外相,翌 2 日には山県を訪問した。さらに高橋が起草した建議書を一部修正のうえ 清書し,6 月 10 日に桂首相,元老山県・松方正義,小村外相,山本権兵衛海相,寺内正
毅陸相へ持参あるいは郵送,6 月 17 日にも山県邸・児玉源太郎台湾総督邸を訪問した。6 月下旬に『東京日日新聞』が七博士建白を批判した6)のに反発し,七博士が意見書を公 表したため,全国各紙がこれをとりあげるに至った(この一連の流れを以下「第二次建 白」とする)。その後,小野塚・富井を除く五人は,建部遯吾・渡辺千冬を加え,10 月 5 日に『日露開戦論纂』7)を刊行した。これは近衛を首領とする国民同盟会8)の対外硬運 動9)の一端を担うものであったと評価されている。
通説ではこの事件を契機に新聞界は開戦論が主流となり,1903 年 10 月に至って非戦論 の牙城であった『萬朝報』が論調を転向させたことで,新聞はほとんど開戦一色になっ た10)。そのため七博士事件は「世論を一挙に開戦へと導くのに大きな役割を果たした」
と
いう意義づけがされている11)。このような点を踏まえると,七博士事件は,日露戦争研 究において非常に重要な事件であると言える。それにもかかわらず現在までに事件に関 する研究はごく少数に限られている。それらは三つに大別できる。一つ目は大学と政府との闘争を書いたものであり,これは大学の自治をめぐる文脈の 中で,七博士事件をとらえた研究である。主なものとしては竹内洋『大学をめぐる病−
東大紛擾と教授群像』(2001)12),松尾尊兊『滝川事件』(2005)13),立花隆『天皇と東大
−大日本帝国の生と死』(2005)14)などがある。竹内は七博士の一人である小野塚に触れ る際に背景として七博士事件に言及している。松尾は滝川事件における東大と京大の関 わりを背景として,七博士事件の際の戸水と山川健次郎総長の辞職をめぐる事件の顛末 に言及している。立花は七博士事件について詳しく記述している。その中で立花は繰り 返し七博士の愚かしさを強調している。
二つ目は法学的観点から分析・評価したものであり,これは七博士の言説を法学的に 分析した研究である。主なものとして,朴羊信「『七博士』と日露開戦論」(1998)15)や 春名展生『人口・資源・領土 近代日本の外交思想と国際政治学』(2015)16)などがある。
朴は七博士の主張の法学論としての妥当性を検討しつつ,彼らの議論の杜撰さを強調し ている。春名は小野塚や建部を中心に七博士事件を分析しており,彼らの中に見える国 際政治思想やダーウィニズムについて言及している。
三つ目はメディアとの関わりでとらえたものであり,これは七博士の建白書が世に知 れ渡ったのは,新聞がそれを大々的に取り上げたためであり,その面に着目した研究で ある。主なものに宮武実知子「『帝大七博士事件』をめぐる輿論と世論」(2007)17)や前 述の片山『日露戦争と新聞』や石川『日露戦争開戦過程におけるメディア言説』などが ある。宮武は大学人とメディアが相互利用を始めたメディア史上の事件として七博士事
件をとらえており,「大学教授像を変えた事件」としている。片山は当時のマス・メディ アが開戦論に転換した時期とその論理について,新聞 11 紙・雑誌 4 誌を精緻に分析し,
対露開戦論の形成過程とその論理を明らかにしており,「七博士意見書」が大きな反響を 呼び,これ以後ロシアへの強硬論は力を増していったと述べている18)。石川はロシアに 関する記事件数の量的分析を行い,日露開戦過程における主戦論と非戦論の構造を解明 するとともに,それらの変遷を探ることで対露開戦論が主張されるようになった出来事 を明示している。また七博士事件が起こった 1903 年にロシア関連の記事数は爆発的に増 加しており,対露開戦をめぐる問題が言論界において最大の争点となっていたと述べて いる19)。
しかし,これらの先行研究に共通する問題点として,一次史料に基づいたの七博士事 件の詳細な検討が不十分であることが挙げられる。そのため一次史料を用いながら,七 博士事件の全体像を明らかにすることは,開戦原因を探るという意味において,日露戦 争研究に貢献できると考えられる。以上の問題意識に基づいて,本稿では,七博士の中 の金井延を中心に取り上げ,七博士事件の実像を明らかにする。以下金井の経歴を簡単 に紹介しておく。
金井は明治・大正時代の経済学者であり,1865(慶応元)年遠江国に生まれる。1885
(明治 18)年東京大学卒業,翌年ドイツに留学し,コンラート・シュモラー・ワグナーら 新歴史学派の教授たちに教えを受けた。1893(明治 26)年帰国後,26 歳で帝国大学法科 大学教授,法学博士となり,1925(大正 14)年まで在職する。1897(明治 30)年に設立 された社会政策学会によってさらに組織的な地歩を固め,1900 年には第一次建白,そし て 1903 年には第二次建白をおこない,「七博士」の一人として日露開戦論の先頭に立っ た。1919(大正 8)年には東京帝大の初代経済学部長に就任する。そして 1933(昭和 8)
年神奈川県の大磯にて死去している。
では,なぜこの金井に注目するのか。その理由は三つ挙げられる。
第一に史料が豊富に残されている点である。東京大学大学院法学政治学研究科附属近 代日本法政史料センター原資料部(以下「近代法政史料センター」とする)には,「金井 延関係文書」として約 650 点にも及ぶ膨大な史料が所蔵されている。特に注目すべきは,
金井自身が記録した日記であり,それは 1880(明治 13)年から 1932(昭和 7)年までの 52 年間にも及ぶ(以下これを「金井日記」とする)。「金井日記」は現在未翻刻であるが,
これを用いることにより,七博士の中で最も詳細にその動きを追うことができ,それと 同時に七博士事件の過程も明らかにできると考えられる。
第二に金井は終始七博士として活動した人物であり,開戦論などの対外政策について の論稿を数多く執筆しており,その外交思想などを詳細に分析することができるためで ある。なお,「七博士」は一括りに呼称されることが多いが,実は時期によってその構成 員は異なっている(図 1「『七博士』と称された大学教授とその活動」を参照)。しかし,
その中で金井は第一次建白から第二次建白以降まで一貫して関与しており,「七博士」の 中心メンバーとして行動している。また経済学者の立場からの開戦論を主張している点 も注目に値する。
第三に金井に関する研究が不十分であるためである。基礎資料としては,金井の娘婿 でもある河合栄治郎が編修した『金井延の生涯と学績』20)(以下「金井伝記」とする)が ある。これは詳細で有益な記録だが,それだけにかえって後世の研究者たちは河合の記 述に依拠する傾向が強く,金井の事績に関する研究がその後七十年にわたってすすまな かった憾みがある21)。先行研究において「金井日記」は単なる事実確認の傍証として用 いられるのみで,これを中心に据えて歴史学的な検討が加えられてきたとは決して言え ない。
図 1 『七博士』と称された大学教授とその活動
A B C D E F G H I
戸水寛人(1861-1935) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
中村進午(1870-1939) ○ △※ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
寺尾亨(1858-1925) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ × ○
高橋作衛(1867-1920) × × × ○ ○ ○ × × ×
金井延(1865-1933) × ○ ○ ○ ○ ○ ○ × ○
富井政章(1858-1935) ○ ○ ○ ○ × × × × ×
小野塚喜平次(1870-1944) × × × ○ × × × × ×
松崎蔵之助(1866-1919) ○ △※ ○ × × × × × ×
建部遯吾(1871-1945) × × × × ○ ○ ○ ○ ○
岡田朝太郎(1868-1936) × × × × × ○ ○ ○ ○
その他 井上哲
次郎
※中村と松崎は 9 月 28 日の建白には参加していない A:近衛邸訪問 1900 年 9 月 9 日
B:第一次建白 1900 年 9 月 28 日,11 月 25 日 C:『諸大家対外意見筆記』 1900 年 10 月 D:第二次建白 1903 年 6 月
E:『日露開戦論纂』 10 月 5 日 F:「戦争持久の宣言」 1905 年 5 月 23 日 G:「国家百年の大計」 5 月 24 日 H:「講和条件の最小限度」 6 月 11 日 I:講和批准拒否の上奏 9 月 21 日
※註 17 書(宮武実知子「『帝大七博士事件』をめぐる輿論と世論」)所収表 1 を改編
では具体的にどのようにアプローチしていくのか。「金井日記」を基礎史料に据え,時 期を 1899(明治 32)年,1900 年に絞り,できる限り詳細に人物交流,金井が参加してい た団体の動きなどを追う。
まずこの時期に焦点を絞ったのは,金井たちが 1900 年に第一次建白を行い,これが第 二次建白につながる重要な事件であるが,十分な検討が加えられてきたとは言えないた めである。その理由は,当時の新聞各紙で大々的に取り上げられ,通説において対露開 戦世論を醸成したとされる第二次建白に研究の力点が集中しているからである。しかし,
七博士事件の全体像を明らかにするためには,まずは第一次建白を解き明かす必要があ る。なお,第一次建白に注目するにあたって,「七博士」(正確には「六博士」だが)は 金井・寺尾・戸水・富井・中村・松崎の六人を中心対象として扱う。
また史料的なメリットも挙げられる。第二次建白時期の日記には事件に対する具体的 な記述が比較的少ないのに対し,第一次建白時期の日記は詳細に記述されており,事件 の過程を丁寧に追跡できる。そして,政府要人,軍人,対外硬運動関係者,七博士との つながりなどといった人物交流や金井が参加していた団体の動きなどを明らかにし,事 件の全体像を把握する。またその際に他の人物の日記22)や当時の新聞とのクロスチェッ クも適宜実施しながら事実の確定作業を進める。
このようなアプローチで日露戦争の開戦原因研究に一石を投じてみたい。
2 七博士事件の展開過程
2.1 金井延とその人間関係
本章では,第一次建白の展開過程を明らかにする。「建白」という行為を実施するため には,「ルート」が確立されていなければならない。意見書を作成してもそれが政治的に 重要な地位にある者の手に渡らなければ,意見書として意味をなさない。そしてルート の形成には「人脈」が重要である。いったい金井たちはどのような人脈を持ち,ルート を築き上げていたのだろうか。
まず前提として 1899・1900 年当時の東京帝大教授の社会的地位は非常に高かった。そ れは吉野作造の「民本主義鼓吹時代の回顧」(『社会科学』1928 年 2 月)23)の以下の記述 からもうかがい知ることができる24)。
それ(1901(明治 34)年,1902(明治 35)年を指す―引用者)以前に在ては,政府 でも条約の改正だ法典の編纂だ幣制の改革だと新規の仕事に忙殺され,従て学者の
力を藉る必要も繁かつたので,帝大の教授は陰に陽に大抵それぞれ政府の仕事を兼 ねさせられていたものらしい
実際金井は高等文官試験の試験問題の作成と監督,鉄道国有調査会25)や貨幣制度調査 会26)などのように,政府が個別の問題を調査し議論する会合に参加するなど,政府のブ レインとして活躍していた。金井以外の諸博士も大学教授と政府の仕事を兼務する者が ほとんどであった。例えば,寺尾は 1896(明治 29)年には外務省参事官も兼任しており,
富井は 1893 年以降,法典調査会民法起草委員として明治民法の起草にあたっている。
つまり,当時の東京帝大教授は日常的に政府要人と顔を合わせる機会が多く,豊かな 人脈を形成する下地は十分整っていたと考えられる。
では金井個人の人脈はどうであったか。「金井日記」の分析によってそれを明らかにし ていく。
「金井日記」は先述した通り,金井自身が記した,1880 年から 1932 年までの 52 年間の 日記である(ただし一部日記が存在しない期間もある)。日記はほぼ毎日つけられている が,ほとんど何も書かない日などもあり,記述量は日によってかなり異なっている。市 販された日記帳に記しており,筆記具には鉛筆・筆 ・インクペンを用いている27)。自ら の感情を日記に記すことはほとんどなく,日記には自分の身の回りでおこったことを記 す。毎日誰が来たか,誰に会いに行ったかを「来訪」「往訪」として,誰から手紙が来た か,誰に手紙を送ったか,またその簡単な内容を「受信」「発信」として記している。日 記帳にあらかじめこれらの項目がある場合はその欄に記述するが,それらがない場合は 自分で項目を書いて,その下に記述する。「来訪」「往訪」「受信」「発信」のみを記載す る日も多々ある(ただし例えば,「発信」が「送信」と書かれるなど,これらの項目の呼 称は若干変わることもある)。
以上の特徴を有するため,日記の分析を通じて,金井の行動,人間関係などを鮮明に 明らかにすることができると考えられる。
ところで,1900 年は北清事変が日本を騒がせており,北清事変終結後も撤兵をせずに,
清国領内に留まり続けるロシアに対して日本が警戒心を高めつつあった時期であった。
この頃から近衛ら対外硬論者たちは国民同盟会を結成して「支那保全」をスローガンの 一つに掲げ,ロシアの南下政策に対して積極的な政策をとるべきであると盛んに訴える などの活動を展開していた28)。1899 年はその前年にあたる。この頃までに既に近衛を首 領とする東亜同文会29)が結成されており,対外硬運動が開始されていた。
金井個人に注目してみると,1899 年には自身が会長的な地位にあった「社会政策学会」
の活動を熱心に行っていた。社会政策学会の活動については第二節で詳しく扱う。1900 年には北清事変に対する積極策を発表しており,その活動の中で第一次建白をおこなう ことになる。
金井の人間関係を探るにあたって,まずその核となる血縁関係を明らかにしておく(図 2「金井延を中心とする家系図」を参照)。
金井は 1871(明治 4)年に出京し,金井家は招魂社(現在の靖国神社)の社司桑原眞 清と郷党の関係があったため,神官長屋に住んだ。桑原は元は浜松在の神官であり,そ の長女は長谷川貞雄に嫁ぎ長谷川の長女は寺内正毅に嫁いだ(その子供が寿一である)。
桑原の次女美智子は陸軍大将大久保春野に嫁ぐ。その娘潔子が 1892(明治 25)年 4 月 4 日に金井と結婚し,両人の次女国子が河合と結婚する。また大久保の三女の安子は海軍 卿川村純義の息子鉄太郎に嫁ぎ,四女の国子は旅順攻略などで活躍した一戸兵衛の養女 となる30)。このように金井は政府・軍部の要人たちと血縁関係があった。実際日記を見 てみると,金井はこれらの血縁者たちと頻繁に会っており,その回数は非血縁者と比べ ても,大久保を筆頭にずば抜けて多い。このような血縁関係を基礎にして金井は人脈を 形成していったと考えられる(以下図 3「人物別集計表 1899 年・1900 年」を適宜参照 のこと)。
図 2 金井延を中心とした家系図
(註 20 書(河合栄治郎『金井延の生涯と学績』)をもとに作成)
Ἑྜᰤ㑻 ᱓ཎ┾Ύ
୕ዪ
ᏳᏊ
㛗ዪ
₩Ꮚ
ዪ
ஂಖ㔝
ᅄዪ
ᅜᏊ
ᕝᮧ㕲ኴ㑻ᕝᮧ⣧⩏
㛗ዪ
ḟዪ
ᅜᏊ
㔠ᘏ
ḟዪ
⨾ᬛᏊ
㛗㇂ᕝ㈆㞝
㛗ዪ ᑎෆṇẎ
ዪ ᑎෆᑑ୍
୍ᡞර⾨ࡢ㣴ዪ࡞ࡿ
୍ᡞᐶ㸦㣴Ꮚ㸧
⾨ࡢ㣴ዪ
図 3 人物別集計表 1899 年・1900 年
金井延と会った回数
1899 年 1900 年
1 月 2 月 3 月 4 月 5 月 6 月 7 月 8 月 9 月 10 月 11 月 12 月 1 月 2 月 3 月 4 月 5 月 6 月 7 月 8 月 9 月 10 月 11 月 12 月 計 政府要人
山県有朋 1 2 1 4
樺山資紀 1 1 1 1 1 1 1 2 9
西郷従道 2 1 3
加藤高明 1 2 1 1 1 4 1 11
西園寺公望 1 1
芳川顕正 0
曽弥荒助 1 1 2
青木周蔵 1 1
桂太郎 0
伊藤博文 3 1 4
末松謙澄 1 1
金子堅太郎 0
渡辺国武 1 1
林有造 0
星亨 1 1
松田正久 1 1
伸島武之助 0
奥田義人 1 2 1 1 1 1 7
松方正義 1 1 2
平田東助 1 4 5
安広伴一郎 1 1 2
清浦圭吾 1 1 1 3
軍人
福島安正 0
川村純義 1 2 1 1 5
大久保春野 4 2 1 2 1 1 2 3 1 1 2 1 1 2 1 24
一戸兵衛 1 1 1 3
一戸寛 0
山本権兵衛 0
島村速雄 0
神尾光臣 1 1 2
八代六郎 1 1
児玉源太郎 0
寺内正毅 1 1 1 3
寺内寿一 2 2
長谷川貞雄 1 1 1 3
田村怡与造 0
柴五郎 0
井口省吾 0
東條英教 0
上原勇作 0
七博士
戸水寛人 1 1 2 1 4 1 1 11
寺尾亨 4 1 1 6
中村進午 1 1 1 1 1 3 8
高橋作衛 0
富井政章 1 1 4 1 2 1 3 4 2 19
小野塚喜平次 0
建部遯吾 0
松崎蔵之助 1 1 2 2 2 3 11
岡田朝太郎 1 1
対外硬運動関係者
近衛篤麿 1 1 2 1 5
陸実 1 1 2
根津一 1 1
小川平吉 3 3
三浦梧楼 1 1
松浦厚 0
蔵原惟昶 0
神佃知常 0
成田与作 0
その他
大隈重信 1 1 1 3
犬養毅 1 1 2
渋沢栄一 1 1 2
樺山愛輔 2 2 1 1 6
高橋是清 1 1 2
板垣退助 2 2
谷干城 1 1
東京大学近代日本法政史料センター原資料部所蔵「金井日記」1899(明治 32)年〜 1900(明治 33)年をもとに作成。
「会った回数」については確実に会ったと記されている箇所のみを集計
日本政界において重要であったと思われるが,当時の内閣の構成員ではなかった者を「その他」とした
では,政府要人たちとのつながりはどうであったか。
1899・1900 年の「金井日記」を見てみると,驚くべきことに金井は山県を始めとした 当時の内閣の構成員のほとんどと面識があったことがわかる。しかし,いったいこのよ うな政府要人とのつながりはいつ,どのように形成されたのであろうか。日記に政府要 人たちの名前が登場するようになるのは,1886(明治 19)年のドイツ留学以降である。そ れまでは学生ということもあり,政府要人とはほとんど交流していない。1882(明治 15)
年 10 月 18,19 日に渋沢栄一が講義で大学を訪問したという記述や,1886 年 1 月 2 日に 森有礼に会った(新年の挨拶か)という記述程度である。学生時代の日記は主に学生生 活についての記述が多く,どの講義に出たとか,講演を聞きに行くとか,試験を受けた などの記述に止まる。政治的な事件などについての記述は管見の限り,確認できなかっ た。しかし,1886 年の留学以降,日記には政府要人の名前も見え始める。
留学中の日記の記述で特に注目すべきは,1889(明治 22)年 3 月 21 日の記述で,「中 山寛六郎氏等ニ会ヒ談話(中略)福島少佐ノ紹介ニヨリ山県大臣ニ会ヒ暫時談話ノ上辞 去」とあり,初めて山県の名が日記に登場する。そして 23 日には山県を監獄に案内した とあり,また 4 月 7 日,5 月 15 日には山県らと食事をともにしたとある(4 月 7 日には 山県の通訳も担当している)31)。これらの記述から,政府要人とのつながりは留学以降に 始まったと考えられ,留学は金井の人生のターニングポイントであったと言える。
以上の事実から,金井が政府と近い距離にあったことがわかる。この人脈が建白書提 出のルートとなり,第一次建白につながったと考えられる。またそれは同時にこの頃の 東京帝大教授の地位の高さと政府との距離の近さを示す証拠でもあろう。
次に軍人とのつながりを検討する。
1898(明治 31)年から 1905(明治 38)年の日記を見てみると,金井は福島安正32)・川 村・大久保・一戸・一戸寛33)・島村速雄・八代六郎・神尾光臣・児玉源太郎・寺内・寺 内寿一・長谷川貞雄・田村怡与造・柴五郎・井口省吾・東條英教・上原勇作などの日露 戦争で活躍した軍人たちと面識があったことがわかるが,いったい彼はどのようにして このようなつながりを構築したのであろうか。先述した通り,川村,大久保,一戸,寺 内,長谷川は血縁者である。そのため特に会った回数が多く,深いつながりがあったこ とは容易く想像できる。血縁者に軍人が多く,なおかつ彼らが軍部の中で比較的高い地 位にあったということが金井の人間関係の特徴である34)。
では,非血縁者とのつながりはいつ生まれたのであろうか。これには二つのきっかけ があったと考えられる。一つは血縁者である大久保らとのつながりから派生して人脈が
広がったというパターンである。大久保家を訪ねた際などにそこに居合わせた軍人と知 り合いになったというケースが多々見られる35)。もう一つは,政府要人たちとの人脈形 成の場合と同様,留学によってつながりが生まれたということである。留学中の日記を 見ると,金井は留学先のドイツで同じく留学に来ていた軍人や駐在武官と知り合い,親 しく交わっていることがわかる。例えば,福島,井口,東條,上原とはドイツ留学中に 出会っている36)。特に福島は駐独武官ということもあり,金井と会う機会が多かったと 推測される。帰国後もこのような留学中に形成された軍人たちとのつながりを基礎とし ながら,コネクションを広げていったのであろう37)。そしてこれらの軍部とのつながり を利用して軍事面でのロシアの動向等についての情報を入手していた可能性は高い。も しそうであるならば,それらの情報は金井が論を構成するにあたっての論拠の一つと なっていったと考えられる。しかし,1899,1900 年時点では児玉や福島といった日露戦 争で活躍する大物軍人たちとはほとんど面識がなく,大久保や川村のような血縁者と頻 繁に会っているという特徴が見られる。そのためこの時点では,軍事情報は大久保など の血縁者から得ることがほとんどで,それ以外の者から情報を得るようになるのは,金 井が「七博士」として精力的に活動し始める第一次建白以降であったと言える。
次に近衛を中心とする対外硬論者たちとのつながりを明らかにする。具体的には近衛,
陸実(羯南),根津一,小川平吉,三浦梧楼,成田与作38)である。金井はこれらの人物と も頻繁に会い,また書簡のやりとりをしている。
建白書提出に関してはこれらの対外硬論者とのつながりが特に影響していると考えら れる。1900 年 9 月 6 日,東亜同文会の幹事柏原文太郎が近衛を訪れ,「大学教授連中に我 らと同論者があり,特に松崎は躍起である」と告げた。そこですぐに彼らを招いて一団 体を組織させることをはかる手筈となった39)。近衛が大学教授を動員しようと思い至っ た理由は,「麁野の政客」が多い国民同盟会の主張に「権威を添ふる」ためと,軟弱論の 伊藤博文が学者を尊敬する性格を利用して,伊藤の肺腑をつくためだった40)。このよう な背景を踏まえると,金井らが行った第一次・二次建白はやはり近衛らを中心とする対 外硬運動の一環であったと言える。また近衛の主催する会合には軍部関係者も出入して おり,軍事的な情報はそこで入手していた可能性も高い41)。
最後に「七博士」とのつながりを見る。ここでの「七博士」とは,第一次建白と第二 次建白を行った博士たちを指す。
日記を見てみると 1899・1900 年時点において,金井は他の七博士とあまり会ってはい ない。だが,その中で頻繁に会っているのは,富井である。金井は富井と家族ぐるみの
付き合いがあり,公私ともに仲がよかったと思われる42)。その他の博士とも会ってはい るが,その頻度は富井には及ばない。なお,この頃小野塚,高橋,建部とまったく会っ ていないのは,彼らが留学へ行っていたためである。松崎とは専門分野も近く,日記に 登場する回数も少なくない。また松崎とは同じ高等文官試験委員であったため日頃から 試験問題作成のためなどで頻繁に書簡のやり取りをしている。戸水とはお互いに社会政 策学会の会員であり,1899 年から頻繁に会っている。しかし,中村,寺尾の場合は第一 次建白が行われた 1900 年の 9 月以降に会っている。この傾向は他の博士にも当てはまり,
面会の回数は 9 月以降に集中している。このことから金井は普段から他の博士たちと外 交問題について話し合っていたわけではなく,それは 9 月の近衛主催の会合で顔を合わ せたことがきっかけとなった可能性が高いと推測できる。そうであるならば,第二次建 白につながる博士たちの人間関係は第一次建白を契機に形成されたと言える。
ここまで金井の交流関係を検討してきた。もちろん単純に日記の登場回数が多いとい う事実だけで「親密であった」などと結論できない。どのような場で,どういった会話 をしたのかなどについても詳細に分析しなければ,金井の人間関係を解明したことには ならない。だが,それには史料的な限界がある。しかし,会った回数などを可視化する ことによって明らかとなることがあるのもまた事実である。現に政府・軍部の人間と顔 を合わす機会に恵まれていたことや,七博士同士は私的な場で会う機会があまりなかっ たことが,この分析から明らかになった。
しかし,実際は会っているが,日記に記録されていないこともある。なぜならば日記 では,金井が何かの団体の会合等に参加した場合,「〜会に出席」「〜(場所)を訪問」と だけ記しており,そこに参加していた人物名を書かないこともあるからである(例:「社 会政策学会ヘ行ク」など)。つまり実際に金井が会った人物の人数や回数はもっと多いと 推測されるのであり,「金井日記」のみではそれらの全てを明らかにすることはできない のである。さまざまな他の史料と照らし合わせながら,金井が参加していた会合などの 実態を明らかにしなければ,真の意味で金井の人間関係・行動を解明することはできな い。そこで次節で金井が所属・参加していた「団体」に焦点をあてて検討をおこなう。と はいえ,金井はさまざまな団体に所属しており,そのすべてに対して詳細な検討を加え ることは,本稿ではできない。そのため今回は金井が参加している回数が最も多く,特 に力を入れて行動していたと考えられる「社会政策学会」について詳しく見ていく。社 会政策学会の活動と,その中での金井の果たした役割を検討することで,第一次建白が 起きる前の状況と,第一次建白自体が実際どのようなものであったのかを明らかにする
ことができよう。
2.2 第一次建白とそれまでの過程
社会政策学会とは,1896 年 4 月 2 日に桑田熊蔵の主唱で社会問題の研究会を立ち上げ ることになり設立された研究啓蒙団体であり,命名は翌 1897 年 4 月になされた。ドイツ に留学し,講壇社会主義を修めて帰国した金井・桑田・山崎覚次郎らに代表される人々 がその活動の中核を担い,始めは金井と思想が似ており,帝国大学関係の親しい人々と の会合であった43)。その中で金井は実質上会長の立場にいた44)。社会政策学会はさまざ まな社会問題を議題として議論を重ねていたが,その中でも特に労働問題を中心に扱っ ていた。その主義とするところは,現在の私有的経済組織を維持し,その範囲内におい て個人の活動と国家の権力とによって階級の軋轢を防ぎ,社会の調和を期するにあり,こ の主義に基づいて内外の事例に徴し,学理に照らし,社会問題を講究することが社会政 策学会の目的であった45)。
1899 年頃になると日本資本主義の発達する中で必然的に起こってきた社会問題につい て,社会主義者の運動が侮りがたいものになろうとしている現実に危機感を持ち,傍観 することに堪えられず,従来の「私会的」なものから,その社会政策主義を前面に据え 社会の表面に打って出て活躍する「公会風」な傾向を示し始めた46)。実際,この頃にな ると,自らの主張を新聞や雑誌などの媒体によって外部に発信し始める。つまり「メディ ア」の力を使って自らの主張を世に広めようとしたのである。その傾向が顕著にあらわ れた事例として「市街鉄道問題」がある。東京市において市街鉄道を整備するにあたっ て,それを「私有」とするか「公有」とするか意見が分かれていた。東京市は日本の首 都であるにもかかわらず京都市や名古屋市(1898 年 5 月には路面電車が開業)よりも鉄 道整備が遅れていた47)。そのため市街鉄道の整備は東京市における早急の課題の一つで あり,それは同時に明治政府の重要課題でもあった。この問題は私有派が勝利し,1903 年に東京電気鉄道,東京電車鉄道,東京自動鉄道の三社併立体制で開業された。私有派 の勝因は公有の下での資金調達の困難さであったが,この困難が解決された 1911(明治 44)年には東京市に買収され,結局私有時代は約 8 年間であった。金井ら社会政策学会 はこの問題に対して終始公有を主張し続けた。その論拠は路面電車事業の独占的性質,事 業収益の都市財源としての財政的意義,社会政策的役割などであった48)。
この市街鉄道問題において,金井ら社会政策学会はメディアを使って主張を世間に発 信するだけでなく,政府要人たちに建白も行っている。注目すべきは,この建白のプロ
セスが第一次建白のプロセスと酷似していることである。以下 1899 年に焦点を絞り,「金 井日記」の記述から社会政策学会の動きを見ていく。
この年最初の社会政策学会の会合は 1 月 13 日に開かれ,桑田の演説や矢部,小原二法 学士の入会に関する投票が行われた49)。次に会合が開かれたのは 3 月 11 日で,この日は 加藤晴比古幹事を始め窪田静太郎,桑田,高野,時枝(誠一),戸水の諸氏及び新規入会 者高岡大次郎が参加し,会食後協議の他,種々の談話を行った。また 5 月 29 日には専修 学校において「加藤,桑田ノ二氏ト会シ社会政策学会ノ趣意書及規則ノ原案ニ関シ協議」
した。どうやらこの日に社会政策学会の趣意書と規則の原案がまとまったようである。そ の後も会合は定期的に開かれたが,特にその活動が活発になるのは 10 月以後である。
まず,10 月 10 日に一橋の学士会において社会政策学会の委員会が開かれた。この日の 日記には以下のような記述が見られる。
社会政策学会ノ市街鉄道問題ニ関スル委員会ヘ出席ス会者ハ松藤,美濃部,葛岡ノ 三氏ナリ四人協議ノ上葛岡氏ノ立案セム所ニ修正ヲ多少加ヘ明日ノ総会ニテ提出ス ル事ヲ議決スル
この記述から,この時には既に市街鉄道問題の委員会が存在しており,社会政策学会 の中心議題であったことがわかる。また翌 11 日の日記には,以下のような記述がある。
市街鉄道問題ニ干シ同会ノ意見ヲ葛岡ノ提出セル原案ニ多少ノ修正ヲ加ヘタルモノ ニ一定シ之ヲ発表スル事ニ決議シ九時頃散会
どうやらこの日に市街鉄道問題についての意見を世に発表することが決定されたよう である50)。そして 10 月 16 日には政府要人を訪ね,意見書を配り歩く。日記にはその時 の様子が以下のように具体的に書かれている。
市街鉄道問題ニ干スル社会政策学会ノ意見書数部ヲ携ヘテ各大臣ヲ訪ハムト欲シ先 ツ西郷侯ヲ訪フ在サス夫人ト会ヒ談話ノ上意見書ヲ託シテ去リ山県侯ヲ訪ヒ面会 三十分計ヲシテ星亨ノ同問題ニ関シ来訪ニ会ス,辞去シ安広,広沢,寺崎ノ三氏ト 四時マテ談話ノ上去リ松方伯ヲ訪ヒ自宅ニ在ルヲ聞キ意見書ヲ置ケルノミニテ去リ 樺山伯ヲ訪ヒ一時間談話ノ上去リ桂清浦芳川三大臣方ニ意見書ヲ授ケル上風月堂ニ テ晩餐ヲ喫シ小松原内務次官ヲ訪ヒ意見書ヲ置キテ去リ加藤晴比古氏ヲ訪ヒ一時間 計談話ノ上去リテ曽弥農相及品川子方ニ意見書ヲ授ケル上去ル
このように金井は自らの論を研究会レベルで止めず,政策実行能力を持つ政府要人た ちにも提示した。つまり,金井自身が「理論と実践」を不可分のものと捉えており,現 状の変革を想定して理論を構築し,信念をもって行動していたと考えられる。その後も
経済学協会で意見書を朗読したり51),日本経済会へ意見書を送ったりする52)など自らの 意見を広めることに執心した。12 月 4 日には「市街鉄道公有ノ議」と題するパンフレッ トを発表し53),それを 12 月 6,8 日に再び政府要人に建白している54)。その模様はそれ ぞれ以下の通りである。
[6 日]樺山伯ヲ訪ヒ談話一時間計社会政策学会ノ意見書ヲ贈リ(中略)松方伯ヲ訪 ヒ不在ニ付同上意見書ヲ託シテ山県方ニ行キ面談ノ終ヲ待ツ間安広寺崎服部平 田(東助)氏等ニ会ヒ稍ヤ久シキ間談話ノ上遂ニ前三氏ト共ニ晩餐ヲ喫ス(中 略)余ハ侯ニ前記ノ意見書ヲ呈シタル上九時二テ辞去シ曽弥荒助方ニ立寄リ同 上意見書ヲ託シテ去ル
[8 日]先ツ清浦圭吾法相ヲ次キニ西郷内相ヲ訪フ在サス皆ナ社会政策学会意見書ヲ 置キ去ル第三ニ伊藤侯ヲ訪ヒ暫時面談ノ上同上ノ意見書ヲ呈シテ去リ小松原内 務次官ヲ訪フ在サス是亦意見書ヲ置キテ去リ
このように 6 日には樺山資紀,松方,山県,曽弥にも意見書を贈り,8 日にも清浦圭吾 法相,西郷内相,小松原内務次官を訪ね,意見書を贈り,伊藤とは暫時面談の上同上の 意見書を呈している。また 12 月 10 日には大隈にも社会政策学会の市街鉄道公有の議を 呈した。このように当時の政府の大臣クラスの大物達に意見書を贈っていることがわか る。ここで特に注目すべきは,樺山,山県,曽弥,清浦,西郷,小松原には,実際に邸 宅まで足を運び,複数回意見書を贈っていることである。これは 10 月に建白した際の意 見書を 11,12 月で改訂し,それを建白したためであると思われるが,ここに現状変革を 目指す金井のこの問題に対する熱意が感じられる。
また,金井は直接政府に働きかけるだけでなく,新聞や雑誌などのメディアを使って 世論を動かそうともしている。10 月 14 日には日本新聞社社長の陸実を訪ねて,社会政策 学会の意見書等を全文,新聞『日本』に掲載することを依頼している。陸は快くこれを 承諾したため,金井は意見書の印刷物 1 枚を渡した55)。実際,新聞『日本』の 10 月 16 日付附録週報に「市街鉄道公有論」の見出しで社会政策学会の意見書が掲載されてい る56)。また,同 16 日には「日報社,時事新報社ニ立寄リ意見書等掲載ヲ促」している57)。 このように金井には自らの意見をメディアによって盛んに世間に拡散し,それによって 間接的に政府を動かすということも考えていたようである。この時から既に金井は新聞 などのメディアの力を理解し,それを利用していたのである。金井は「人気」つまり世 論などというものは妙なものであるが,非常に影響を及ぼすものであることは疑いない と,その影響力について認めている58)。
次に見る第一次建白の流れは,これまでに見てきた社会政策学会の活動との共通点が 非常に多い。以下 1900 年における「金井日記」の記述からその流れを追っていく。
日記での記述で具体的に第一次建白に関する記述が登場するのは,1900 年 9 月 12 日で ある。この日の記述は以下の通りである。
富士見軒ニ行キ近衛公,陸実,根津一,小川平吉,富井,戸水,寺尾,松崎ノ諸氏 ト会シ先ツ晩餐ヲ喫シ終リテ北清事変善後策ニ関シ露トノ主戦論者タル根津氏ノ軍 略上ヨリノ講話アリ終リテ種々ノ協議打合等ヲ為シ十二時過ニ至テ漸ク散会ス 金井はこの日に初めて近衛主催の会合に参加したと考えられる59)。またこの日に陸は 建議書を政府に提出することだけでは不十分であり,各自の意見を世間に発表するべき であると提案している。これに対し,金井と戸水ら諸博士たちは同意している60)。この 反応には前述した 1899 年の社会政策学会での活動が影響していると考えられる。
9 月 20 日には教授会に参加しており,この日の日記には,「別室ニ於テ寺尾,戸水,松 崎ノ三氏ト北清事変ニ干シ協議スル所アリ」という記述がある。このように教授会など で顔を合わせる機会が多かった博士たちは,議論を交わしていたのである。9 月 24 日に は寺尾から「陸実氏執策建白書案」が届いており61),これは 9 月 12 日の会合での決定に より作成された意見書の原案であると考えられる。そして 9 月 27 日には再び富士見軒に おいて会合が開かれた。この日の模様は以下の通りである。
富士見軒ニ行キ近衛公及富井,戸水,寺尾,小川四氏ト会シ先ツ晩餐ヲ喫シ終リテ 北清事変善後策ニ干スル建白書ノ事ヲ相談シ文案ヲ改シ明日携ヘテ首相及外相ヲ訪 フ事ヲ決ス
この日に意見書の最終案が作成され,翌日に首相,外相にそれを提出することが決め られている。意見書の内容は「支那保全」のために,ロシアの満州占領に断然と抗議す ること,および「朝鮮問題」を速やかに解決することが求められており,その目的を達 成するために,「帝国ト利害ヲ一ニスル国ト相連携」することが提案されている62)。この 最終案はやむを得ず各博士の意見の最も異議なき点のみを文章にしたものであり,実際 には各々の意見にはかなりの相違とみられる63)。
そして実際翌 28 日には山県と青木を訪ねている。この日の日記には以下のような記述 がある。
富井政章方ヘ行キ既ニ集マレル寺尾亨戸水寛人二氏ニ会ヒ主人ト四人暫時相談ノ上 車ヲ聯ネテ番町ニ行キ青木外相ヲ訪フ未タ帰宅セス因テ携ヘ往ケル建白書ニ名刺ヲ 添ヘテ家人ニ託シテ去ル直ニ目白ニ馳セ山県首相ニ面会シ内閣ハ既ニ総辞職ヲ奏請
シ居ルニ関ラス建白書ヲ呈シ一時間計四人互ニモ意見ヲ述ベ且ツ首相ニ意見ヲ聴キ 六時ニ至リ辞去
以上の経緯をみると,社会政策学会で市街鉄道問題に関して建白を行った際とプロセ スが非常に類似している。というよりも,むしろ社会政策学会での建白のやり方を模倣 したと考えられる。つまりここからわかるように,1899 年の時点で建白をおこなう下地 が準備されており,第一次建白では既に存在していた政府要人とのコネクションを使っ たに過ぎないのである。
なおこの建白を行った後,金井は義父である大久保の家を訪ねており,ここでも北清 事変について内談している。大久保は当時陸軍中将であり,金井は山県との会談の内容 を踏まえた上で軍人としての彼との情報交換を行ったと推測される。この他にも政府要 人への働きかけとして 11 月 25 日に加藤外相邸を訪れている。この日は富井,寺尾,松 崎,戸水,中村と共に加藤に面会し,外交上の談話をなしている64)。この日の対談はま るで討論会のようなものであり,金井は最も熱心に財政論を闘わせ,松崎は最も激烈に 鉄道に関する意見を述べた。
山県・加藤への建白とそれに関連する一連の経緯が第一次建白である。この建白を世 間一般が知ることはなかった。それは博士らと山県,加藤との間にこれを秘密にしてお こうという内約があったためである65)。実際内情を知っていたはずの陸が社長を務める 日本新聞社発行の『日本』でさえもこの建白にはまったく触れておらず,それは他のメ ディアも同じであった。しかし,建白直後に博士たちは自らの意見を世間に発表する。そ れは建白の際に作成された意見書のオリジナルではなかったが,金井,戸水,富井,寺 尾,中村,松崎の六博士と小川の対談を速記し,それを文章化した『諸大家対外意見筆 記』66)が小川と成田の手によって作成されている。9 月 16 日の日記によると,金井は小 川に会って北清事件処分に関する意見を演述し,この二人のやり取りが石川由郎によっ てすべて速記されたようである。そして 9 月 19 日には小川から談話の速記録が届いてい る67)が,この内容が『諸大家対外意見筆記』に掲載されたと考えられる。これは内務省 に届けることなく出版された非売品であったが,『大阪朝日新聞』を初めとして他の諸地 方新聞に掲載された68)。ここに至って 9 月 12 日の会合における陸の提案が実現したので ある。戸水はこれが「大ニ世人ノ注目ヲ惹ケリ」と評している。その理由を「世間の人 はこれまで大学教授はすべて温良恭謙譲の人だけだと思っていたが,我らが忽焉として 対外硬の議論を主張し,しかもその議論の発表方法がやや果断であった」69)ためだとし ている。確かにこの第一次建白まで,東京帝大教授が政府の外交政策に対して公に声を
上げることなど前例がなかった。1900 年に至ってついに大学教授は政治,特に最も重要 な問題の一つである外交に対して発言するようになったのである。実際に世間の注目を 集めたかどうかは別にしても,象牙の塔を出て,政府と世論を動かそうとした第一次建 白は画期的な事件であった。なお戸水は「輿論喚起をするためには出版が必要」と考え ており70),実際に彼らが新聞や雑誌に意見を発表してきたことはここまで見てきた通り である。ここに彼らのメディアの力を重視する傾向が表れている。これは社会政策学会 の活動から一貫していることである。
ところで,『諸大家対外意見筆記』は無届で出版されたものであったが,なぜそうまで して出版に躍起になったかというと,これは大学教授の権威を借りて政府筋および世間 の対外認識に影響を及ぼすことを狙っていたのである71)。小川が 10 月 7 日に近衛に送っ た書簡の中でその配布先が以下のように列挙されている72)。
一著者 三十部づつ 百八十 一政党本部 二十五 一各政党地方支部 一部づつ 百五十 一研究会 三 三 一懇話会 〃 〃 一木曜会 〃 〃 一茶話会 〃 〃 一幸倶楽部 〃 〃 一朝日倶楽部 〃 〃 一丁酉会 〃 〃 一枢密院議員 一冊づつ 全員 一各大臣台湾総督在外公使 〃
一県会議長 一冊づつ 五十 一各新聞社 一冊づつ 百
外に両大学及高等学校,私立専門学校の図書館へ一冊づつ 東邦協会等へ一冊づつ
実際にこれらの団体すべてに送付されたかについては不明である。しかし,大阪朝日 新聞社に届けられたことは間違いない。なぜならば,10 月 28 日に「専門家の対外意見
(一)」の見出しでそれが報じられているからである73)。以下その記事を抜粋する。
清国事件は重大の問題にして,其の時局の如何は東洋の将来,特に我邦の利害に属
すること極めて切なれば,此際最も知識あり,専門の学術ある人士の意見を徴し,有 力なる参考にせんこと必要なるが,こゝに東京弁護士法学士小川平吉氏が此程来,戸 水,寺尾,富井,金井,松崎の六法学博士及び中村法学士に就て其の意見を叩きし 際の筆記を得たれば本紙上に連載することゝはなしぬ,先づ羅馬法学者にして,且 つ東西の形勢に精通する東京帝国大学教授の談話筆記より始めん
そしてこの後に『諸大家対外意見筆記』に掲載されている内容と同様の戸水の意見書 が引用されている。もちろんこの事実だけを根拠に先ほど挙げた送付先リストすべてに 送ったと結論することはできないが,少なくとも新聞社に送ったというのは間違いな い74)。そしてもしリスト通りに送られていたとすれば,この『諸大家対外意見筆記』は さまざまな業界の世論形成に影響を及ぼしたと推測できる。無届とは言え,かなりの部 数を印刷し,それを各界に満遍なく送付することが計画されているからである。そのた め公権力もすぐにこの動きに対して反応を示した。
小川は『諸大家対外意見筆記』と根津の「軍事私見」75)それぞれ 30 部を金井ら諸博士 に送っている76)。この事実からも,前掲したリストに忠実に,『諸大家対外意見筆記』は 送られていたと解するべきである。また送付された具体的な日付は『回顧録』に示され ていないため定かではないが,おそらく 11 月 11 日前後であると思われる77)。その後一 両日を経て警察官が戸水の家を訪れ,根津の「軍事私見」を差し押さえにきた。その際 に『諸大家対外意見筆記』のことにも触れ,内務省に無許可で出版したものであるから してこれを告訴するとした78)。警察は内容ではなく,その出版手続きを理由に規制を加 えたのである。戸水以外の富井,中村79),寺尾,金井らのもとにも警察が訪れ,戸水の 際と同様の対応をしている80)。金井の日記の 11 月 12,13,14 日にはその時の模様が詳 細に記されている。
[12 日]不在中室越巡査二回来リ二回目ニハ入リテ余ノ帰宅ヲ待ツ即チ面談ス用事ハ 外交意見ニ干スル印刷物ニ干ス暫時談話ノ上去ル
[13 日]不在中石川巡査(嘉永)前日ノ室越巡査ニ代リテ来訪スト云フ根津一氏ノ軍 事私見頒布禁止サレタル為メ公務ニ関スルモノノ如シ再来ヲ告ケテ去ルト云フ
[14 日]午前七時前石川巡査来訪軍事私見頒布禁止サレタルニ付キ残余ノ分(二十三 部)ヲ保存シ置カム事ヲ求ム余不得止之ヲ応シ其旨名刺ニ記シテ捺印ノ上渡ス 巡査去ル
金井の場合は警察の求めを拒みきれず,やむなくこれに応じたようであるが,特に何 の紛擾もなく終わっている。その他の博士については多少揉めた博士もいたが,いずれ
の場合も『諸大家対外意見筆記』は差し押さえられることなく終わっている81)。 また,第一次建白後,寺尾の意見書が新聞『日本』に取り上げられた際82)には,加藤 が寺尾に対し以下のように注意を与えている83)。
個人ノ意見トシテ時事ヲ論議スルハ敢テ咎ムルトコロニ非ス唯タ公刊紙上ニ対手国 ノ国名ヲ揚ケテ公然論議スルハ誤解ヲ来タスノ虞アリテ外交ニ害アリ
ここからわかるように,加藤は,個人の外交意見を論議するのはよいが,不特定多数 が見る出版物上で具体的に国名などを出してそれを論議するのは,世間に誤解を与え,そ れは外交にとってよくないと考えており,それゆえに寺尾に注意を与えたのであった。こ の頃,寺尾は東京帝大教授と外務省の仕事を兼務していた84)ということもあり,外相で ある加藤から注意を受けたと考えられる。
10 月 11 日に金井は小川に「外交問題ニ干スル意見速記」を送っている。このように金 井は近衛ら対外硬派らの人間とは直接会わなくとも頻繁に連絡はとり,情報交換などを 日常的に行っていたようである。
10 月 18 日には「近衛公並二十余新聞社ノ催フセル会合」に参加している。この日の会 合の様子は以下の通りである。
紅葉館ニ行キ近衛公ト各新聞社員ノ催フセル時局研究会ニ出席ス来賓ハ三浦子,富 井,寺尾,戸水,松崎,有賀,中村及余ナリ八時半マデニ戸水,富井,寺尾,有賀 ノ四氏ノ支那問題ニ干スル演説アリ(中略)余ハ亦請求ニ応シ一場ノ演説ヲナシ少 シク気陥ヲ吐ク
この日の会合も支那問題,つまり北清事変にまつわるものであり,1900 年時点での金 井のこの問題への関心の高さがうかがえる85)。この日の記述には「一場ノ演説ヲナシ少 シク気陥ヲ吐ク」とあり,金井がかなりの熱量で北清事変について語ったようである。先 述の通り,「金井日記」には金井自身の感情の吐露があまり見られないため,このような 記述は珍しい。その点からも金井にとって北清事変は特別なものであったということが 言えよう。なおこの日の模様は 10 月 20 日の東京朝日新聞でも報じられている。以下そ の一部抜粋である86)。
金井博士ハ経済財政上より強硬なる態度を以て事に当るも差支なき旨を演説し(中 略)何れも専門学者の論として会衆に満足を与へたる由
記事の中には,金井以外の博士たちの演説内容も紹介されている。ここでは「博士た ちの演説が会衆に満足された」とあるが,戸水は『回顧録』の中で戸水は諸博士が真面 目に外交問題を語っても世の人の心を動かすことは難しいことを悟り嘆いている87)。ど
うやら報道と実際の状況は異なっていたようである。
金井の外交問題への関心の高さを示す事実が他にもある。例えば,10 月 28 日に金井は
「千葉県法律講演会」に参加している。この日の日記には,以下のように書かれている。
岡田朝太郎ノ刑事政策論アリ次キ余ハ「外交ト経済トニ関スル実勢並ニ学理」ト題 シ一時間計演説
この記述にある「外交ト経済トニ関スル実勢並ニ学理」はその後 1901(明治 34)年 5,
6 月に論稿の形で『明治法学』88)に掲載され出版されている。その内容は経済学上の見地 から外交を論じるというものであり,北清事変には強硬姿勢で対応すべきであると力説 している89)。
12 月 20 日には日本法律学校で講演を行っている。この講演に関して金井は日本法律学 校の関係者と何度も書簡をやりとりし90),綿密な準備をして臨んだことが日記からうか がえる。金井は日本法律学校に初めて訪れたようだが,この年の 9 月に戸水が日本法律 学校の幹事に就任していた91)という縁もあり,この日の講演は日本法律学校側から要請 されたものであった。当時私立学校においても,北清事変への関心は高かったのであろ う。講演については「臨時学術講演ヲナス事一時間ト五十分」としか書かれていない92)
が,講演の速記録が近代法政史料センターに保存されている。「法学博士金井延君講演外 交と経済学」と題された速記録であるが,具体的な日にちは書かれておらず,「法学博士 金井延君講演(三十三年十二月某日)」と明記されているのみである。しかし,日記を見 ていくと 1900 年 12 月におこなわれた講演は日本法律学校での講演の一回のみであり,内 容的にも金井が当時最も関心を持っていたと思われる北清事変とロシアにまつわること であるため,この速記録は 12 月 20 日に日本法律学校でおこなわれた講演のものである と断定してよい93)。ここで強調しておきたいのは,金井が積極的に学外で講演を行って いたということである。金井は東京帝大教授であったため,比較的講演の機会に恵まれ ていたということもあり,自らの意見を一度に大多数の人間に語ることができたのであ る。そしてこれは先述した市街鉄道問題の時にも共通している。実際,1899 年にも金井 は頻繁に市街鉄道問題に関する講演を行っている。このように金井は自分が関心を持つ 問題について自身の意見を積極的に世に声を発していたのである。
ここまで検討してきたように,市街鉄道問題建白と第一次建白の二つの建白はそのプ ロセスが非常に類似している。①政府要人への直談判,②新聞・雑誌などのメディア利 用,③講演・演説による大衆扇動という三つのアプローチによって日本社会を動かそう とした金井の戦略がここに見て取れる。