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平野龍一博士の学説の検討(試論)

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Academic year: 2021

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は じめに 平野龍一博士が平成

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年)

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日に亡 くなられた。刑事法 (刑法、刑事訴訟 法、刑事学)の研究者、教育者、立案者 として多年のご活躍 については高い評価が与 えら れ、文化功労者 に選ばれた。83才の高齢なが ら数か月前 まで論文 も執筆、発表 してお られ たので、やは り突然のご逝去の感があ り、大 きな衝撃 を受けた。 平野博士 は昭和17年 に助手 に採用 されたがす ぐ軍務 に着 き、第二次大戦終了後、刑事法 の研究 を始め られた。敗戦、占領、新憲法公布、施行 、学制改革、刑事手続改革 とい う時 代か ら出発 して、東大教授 、刑法学会理事長、東大学長 を歴任 された。戦後の 日本の中心 に常 にお られたのであって、平野博士が亡 くなられた後、 どうした らよいか ととまどう思 いである。 私は平野博士の講義 を聴 き、研究のご指導 をいただいた。記憶がお とろえない うちに先 生 に関することが らを記 したい と思 う。 同時 にとりあえず平野博士の学説、人生の位置づ けを試みたい と思 う。 一 平 野 先 生 との 出会 い (1)私 は昭和36年4月に東京大学教養学部文科一類 に入学 し、昭和37年9月に法学部-の 進学が決 まり

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月か らは教養学部の講義 と並行 して法学部の講義が始 まった。 憲法、民法一部、刑法総論、政治史であった。 この刑法総論 を担当された先生が平野龍 一教授であった。1) 講義 は新旧両派の学説 を比較す る形で進め られた。教科書 は団藤重 光教授の 「刑法綱要 ・総論

と木村亀二教授の 「刑法総論

」(

有斐閣 ・法律学全集)であっ た。旧派の代表 として団藤 (実際に団藤が旧派であるかは深 く検討が必要であるが)、新派 の代表 として木村 を採 り上げたと私はその当時思 っていた。配 られたプリン トではその よ うな対比が各項 目 (例 えば共犯等)についてなされていたように思 う。 この講義 を聴 くまでには、教養学部の教養科 目として、社会科学系の-科 目として法学 (山田最) を聴講 したが、まだ法学、法律 についての理解、知識は少なかった。平野教授 の講義 について深 く理解で きた とはいえなかった と思 う。 またこの教科書の選定で も分 る とお り、まだ平野教授 の刑法の教科書又は総論 についての体系的な記述 はなかった。その

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後のことを考 え合わせ ると、ち ょうど刑事訴訟法 についての研究∴著作が一段落 して

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「刑 事訴訟法」(有斐閣 ・法律学全集)次 は刑法 について取 り組 もうとされていた時期ではなか ったか と思われる。 当時深い予備知識があって聴講 していたならばその後の展開を予見す ることもで きたか も分 らないが、当時の私 には無理であった。 当時の状況 において解決 しなければならない課題 はた くさんあった。1.犯罪の成立、 認定は行為 を対象 とす るのか、意思 を対象 とするのか、刑罰の 目的は応報 なのか教育 なの か、人間には意思の 自由はあるのか、以上の如 き ドイツの旧派刑法学 と新派刑法学の争い。

2.

旧派刑法学 について も日本では小野清一郎博士の学説 (構成要件論、国家主義的傾向)、 滝川幸辰博士の学説 (自由主義的傾向)、団藤重光博士の学説 (人格形成責任論)があった。

3.

新派刑法学 については、 リス トは自由主義者であったが、 日本の牧野英一博士 は個人 の 自由の擁護 について無 とん着であった と批判 された。 また木村亀二博士 は、 目的的行為 論 を加味する新派理論 を展開 していた。2) 本格的に刑法学 に取 り組 もうとされた当時の平野教授 ・博士3'が この ような課題 につい て思いをめ ぐらしてお られた と想像 される。 平野教授 の刑法学 についての学説は、当時は、 目的的行為論 に傾斜 していること以外 ははっきりしていなかった。 (2)昭和38年4月に法学部 に進学 した。法学部 において刑法各論、刑事訴訟法の担当が平 野教授 であった。4) 私達は後 に振 りかえるならば歴史的な講義 を聴いていたことになると 思 う。 しか し当時は他の先生の講義 は聞いていないので比較 しようもなかった。5) 私が この間に決定的な衝撃 を受けたのは、 「常習犯 について団藤教授 は人格形成責任論 によって刑 を加重するとしているが、常習犯が精神病質で精神障害者であるとす るならば、 責任 は軽減 されるか、問 うことがで きないことになる

」とい う平野教授の考え方である。 この間に平野教授の言動 には他 に刑法の研究に関 しては二つの重要 なことがある。 1つ は 「軟かい決定論 (ソフ トデタ- ミネーシ ョン)」であ り、

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つめは経験法学研究への関与 である。 「軟かい決定論

は私は意思 自由論の論争の中では決定的な賛同を得 られるよう な ものではなかった と思 う。少な くとも私 は納得で きる ものではなかった。 また経験法学 に平野教授、川島教授等が精力的に取 り組 まれた動 きは私 にはむ しろ嫌悪感 を覚 えるほ ど であった。特 に川島教授の変容は戦後の 日本の法学史にも影響 を与 える ものであった。昭 和

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年の後期 に民法一部 を聴いた時が 「所有権法の理論

に発す る川島法学の最後だった のではないか と思われる。 昭和38年 に経験法学 を振 りか ざす川島教授 は別人の ように思わ れた。 昭和38年当時、団藤教授 「刑法綱要総論

を勉強 していて、人格形成責任論 は一旦は感 心 したが、その後いろいろな疑問がわいて きた。 その時に前述の平野教授 の常習犯 につい ての言説 に触れたことによって、私の疑問はます ます深 ま り∴ どうして もこの疑問を解 き たい と思 うようになった。今振 り返 えるならば、やは り、刑法研究の きっかけを与 えて く

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だ きったのは平野教授 であ った と思 う。 私 は昭和

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月に東京大学社会科学研究所 の渡辺洋三助教授 (当時) にご相談 して京 都大学大学院の宮 内裕教授 を紹介 していただ き、京都大学 に伺 ってお会 い し京都大学大学 院への進学の意思 を固め

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月に受験 し合格 して、昭和

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月か ら京都大学大学院で研 究す ることになった。 平野教授 はその後、 目的的行為論 を放棄 される。 刑法の機能的考察 を唱 え られ、倫理 を 過度 に重視す る小 野博士 と対決 され る。 また人格形成責任論 に対 す る疑問 を堅持 されて団 藤先生 との村立 を深めてゆかれた。小野博士 は刑法改正の担 い手であ ったが、平野教授 は 具体的 に法制審議会の委員 を辞任 して行動 で対決 し、 日本の社会 を揺 さぶ った。 また団藤 博士 は最高裁判事 あるいは皇太子 のお妃選 びをされる等位 階 を極 めたが、平野博士 は団藤 博士 の人格形成責任論 に対す る批判 をゆるめることはなか った。平野博士が 目的的行為論 を放棄 された後、 目的的行為論 は 日本 では次第 に勢力 を失 なっていった。平野教授 は東大 紛争の際 に加藤一郎総長代行 を助 けて最終的 には警官の導入 を決 めて収拾 された。6) 当時、思想 史的 にはジ ョン ・スチ ュアー ト ・ミルを高 く評価 してお られる。7) こう して刑法 について基本的 な考察 を終 えて、刑法 についての著書 を発刊 され ることと なった。

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年) 「刑法 の基礎」(東京大学出版会)

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年) 「刑法総論

」(有斐 閣) 「刑法改正の研究

」(共編、東京大学 出版会)

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年) 「刑法各論 の諸問題」(法学セ ミナー

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年 (昭和

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年) 「刑法改正の研究

」(共編、東京大学 出版会)

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年) 「刑法総論

」(有斐 閣)

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年 (昭和

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年) 「刑法概説」(東京大学出版会) 私 は昭和

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年以来京都大学大学院に在籍 して修士論文 「ドイツ支邦法時代 における累行 窃盗 の増大 と刑法の変遷」 を書いた。昭和44年 に博士課程 に進学後、昭和

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年 に、 ヴ オル フガ ング ・シ ョルツ

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日法 における危険 な常習犯罪人の概念」の翻訳 を 「法 学論叢」(京都大学) に発表 した。 (3) 宮 内先生が亡 くな られた後、平場安治教授 ・博士 にご指導 いただいていたが、京都大 学 を退職 され ることにーな り、東大の平野教授 にお聞 きした ら、東大の大学院でのゼ ミナー ル-の参加 を認 めていただいた。平場教授 もご了解 された。私 はこの ご寛大 なご配慮 に深 く感謝 してい る。 大学 院のゼ ミナールでは監獄法の改正 に関連 して各国の行刑法の報告 、討論が行 なわれ 、ヽ

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た。私 は 「とにか く未決 と既決は分 けなければならない。」と先生 に申 し上げた。8) 私は常習犯 についての研究 を続けていたが、研究 についての 自由は保障 されていた。

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年)か ら昭和

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年) まで東京大学総長 をされる。 この間、昭 和

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年) より刑事判例研究会に出席 させ ていただいた。 この伝統ある判例研究会 で

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ケ月に 1度平野先生の司会の もと勉強がで きたことは私の人生 において至福 の時であ った。平成の

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年 を過 ぎた頃か ら体調 を くず されることがあったが車椅子で出席 されるこ ともあった。杖 をつかれて歩かれた時ご一緒 したこともあった。論文 についてはめていた だいて、勢いを得 て拙著 「刑法学入門

を出す ことがで きた。 どうして もす っきり分 らな い ドイツ語の訳 について、ぴた りと誤 りをご指摘いただ き納得で きたこともあった。 「刑事訴訟法 もやってほ しい

」とお便 りをいただいたことがあった。私 はこのお ことば を近年重 く受け とめ、で きるだけの努力 をしているつ もりである。 国民の裁判への参加 に ついて参審制 を推奨 され、実現 した. 「裁判員制度」については批判 もあるが、-歩一歩 やは り実現 に向けて努力 しなければならない と思 う。!" 二 刑法学説 平野先生の刑法学説の特徴、位置づけは どの ように考 えた らよいのであろうか。 1.社会科学全体 を見渡 した時には、非マルクス主義的な社会実態論への親近 を持 ってお られた と思われる。 時代の制約、立場の制約があるために、マルクス主義 については理解 は してお られたが、一線 を画 してお られた。 しか し社会の実態 に依拠 し、把撞 した上での 刑事法学-のあこがれを終生持 ってお られたように思 う。 目的的行為論 に最初 は魅力 を感 じられたこと、経験法学 に傾斜 されたこと、法社会学 に関心 を持 ってお られたこと、 ドイ ツの ドグマテ ィークだけの刑法学でな く、アメリカの犯罪学 に関心 を持 ち翻訳紹介 された こと等が皆同 じ姿勢か ら出た ものではないか と思われる。 ご自身はマルクス主義 について は踏み込 んだ研究はされなかったが私達子弟の中での研究、発表 を抑圧 されることはなか った。

2.

次 に思想史的には、ジ ョン ・スチュアー ト ・ミルの自由主義 にた どりつかれた と思 う。 近年 までの世界史の動 きを考 えるな らば先見であった といえるのではないだろうか。 刑事訴訟法の研究にまず取 り組 まれ、徹底 した当事者主義 にもとづ く人権擁護の刑事訴 訟法学 を展開された。 第二次大戦の戦前、戦中を知 り、戦後の変革、特 に新 しい憲法 にお ける、刑事手続 についての人権擁護の規定 を高 く評価 された。人権問題 の中核の一つが刑 事訴訟のあ り方であることを深 く見抜いて全力 を傾 け られたのである0 自由主義的姿勢は小野博士の国家主義、倫理主義 に対す る徹底 した批判、対決 となって あ らわれた。 また団藤博士の人格形成責任論 はナチズムにその源 を持つ ものであ り、最後 まで妥協 されることはなかった。

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刑法学 における難問は常習犯 も含む人格障害、精神病質の問題である。 これについては 残 された最後の問題 としてまだ未解決であることを認めてお られた。 一つあえて記 してお きたいことは次のことである. 平野先生の思考、著述のス タイルは あえていえば分析的である。 メスを入れて切 り裂 き再編する。 その思考過程、著述過程 は 大変魅力的であ り多 くの人をひきつけて きた。考える刺激 となった。 しか し構築 された建 物 を見 るような体系性が一見 しては分 らない といえるのではないか。他の多 くの刑法 につ いての著作 と比較 した時に理解 しに くい と思われるところがある。 ジ ョン ・スチュアー ト ・ミル と同 じく 「偉大 なる泥沼

といわれることもあるのか も分 らない。

刑事訴訟法学説

私 自身は前述の ように学部の講義で 「刑事訴訟法」(有斐閣、法律学全集) を教科書 とし て読 んで刑事訴訟法 を理解するい きさつであったが、平野先生がお亡 くな りになって後、 刑事訴訟法の条文が大変す っきり理解 されるのを感 じた。私はあっと驚いた。平野刑事訴 訟法学の呪縛の ような ものが強 くあったのか と考えている。 著名な著作である前記 「刑事訴訟法

の改訂版が出ていない 。私 は 「是非改定版 を出 し ていただ きたい

」とお話 しした時があったが 「もう無理だ

」といわれた。 平野刑事訴訟法学 をどの ように扱 ってゆ くかは今後の課題である。 四

その他

先生は精神医療 に深い関心 を持たれ、いわゆる保安処分、治療処分の論争 において も微 妙 なバ ランスをとりなが ら対処 してこられた。先生が亡 くなられた後 どの ような展開にな るのであろうか。 脳死の問題で晩年力 を注がれた。 特別法の分野で も多才 な業績 を残 された。 おわ りに 平成16年10月23日に私のいる地域 を含む新潟県中越地方は強い地震 に見舞 われた。資料 が散逸 したこと、時間的に余裕がなかったことで十分 な参照 もで きないで執筆 した ところ が多々である。 しか し何 より,も早 く書 き留めておかなければと思い本稿 を書いた。文中、 それぞれの文脈 において、平野先生、平野教授、平野博士 と書 き分 けた。 「平野龍一先生の人 と業 績」(「ジュ リス ト」2004年12月15日号 (NG1281))がある。 参照 し たが私の視点 とは異なることが多かった。 ご略歴、ご業績 については、 「故平野龍∵先生 を偲ぶ会」(2004年9

4日) における配 布文書 に依 った。

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(注) 1) ちなみに、憲法は小林直樹教授、民法一部は川島武宣教授 、政治史は篠原一教授 であった。 2)木村博士は死刑廃止論者 として有名であった。 3)昭和37年 (1962年) に法学博士の学位 を受け られた。

4)

平野教授 については 「三冠王

とい ううわ さがす ぐに耳 に入 った。東大法学部卒業一番、当時 の高等文官試験行政、司法共 に一番であった とい ううわ さである。 (昭和15年(1940年)東京帝 国 大学法学部法律学科入学、昭和17年(1942年)同卒業)(昭和17年(1942年)卒業後東京帝国大学法学 部助手、 しか し昭和20年(1945年)まで臨時召集 により軍務 に服 した。) また平野教授 のゼ ミナールは刑法総論 と民法一部が優でなければ入れない といわれた。昭和38 年のゼ ミナールでは、 (私 は入っていなかったが)「判例演習」(有斐 閣)をテキス トに使 っていた。 5) どの ようない きさつであったか忘れたが団藤教授 の講義 も聴 いた。なお刑事学 は担当が藤木英 雄教授 であった。 6)学生、大学院生側の全学共闘会議 の議長山本義隆氏 は、私 の寮でのワ ンダーフ ォーゲルの先輩 である。近年 「磁力 と重力の発見」 とい う名著 を出版 された。 7)昭和30年代 に未牟田夏雄氏の ミル 「自伝」の翻訳が出た。 また東大大河内学長が卒業式で ミル の 「太 ったぶたよりもやせたソクラテスになれ」 との言葉 を引用 して流行 となった。 8)昭和51年 (1976年)か ら昭和55年 (1980年) まで法制審議会監獄法改正部会委員 をされた。 9)新潟中央短期大学の平成16年度後期 における 「日本国憲法」の講義では、 「裁判員の参加す る 刑事裁判 に関する法律」 について説明 した。

参照

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