,
真宗連合準曾研究紀要
一一第二十七輯一一
昭 和 58蝉 2周
真
~冴ミ
研
*
企.7u
第
二
十
七
輯
真
己才 刀τt連
合
学
ム 一 A真
研
iT,G プし第二十七輯
目
次
,三y 刀~幕末
J
明治初期の党暦研究について
・ ・ ・ 木
﹁
往
生
論
註
﹄
の
思
想
的
肯
景
:
・
:
j
i
− − : :
ji
− −
: :
: :
: :
: :
加
| | 八 番 問 答 三 在 釈 業 の 軽 重 | |道
緯
禅
師
に
お
け
る
機
の
本
質
:
:
・
:
:
ー ! 禅 師 の 帰 浄 に 関 連 し て ー ー ー 場 明 藤 宏 倉 士 山 ︵ 一 ︶ 道 ︵ 三 ︶ 求 ︿ 二 七 ︶続
\】J愛
と
:
佐
々 木 乾 f、ヘ ¥..../法宗教学の思想史的意義:・
j
i
− − : :
ji
− −
: :
: :
:
j
i
− − :
平
||﹃日漠三書﹄を素材として||真
宗
に
お
け
る
信
の
問
題
:
:
:
−
J J・ − :
: :
j
i
− −
: :
: :
・ :
: :
栗
称名思想の概念枠について:::
j
i
− −
− :
: ・
j
i
− −
: ・
: :
: 畝
田
厚
原 康 部 俊 士 山 ︵ 五 回 ﹀ 海 ︵ 七 五 ︶ 輩︿︵九一一︶今家の﹁大信﹂の立場
ji
− − : : ・j
i
− − :j
i
− − : :j
i
− − − 加茂
仰
順
︵
一
20
講
と
茶
事
考
簡
谷
真智
子
f、
'-../学
会
葉
報
r'¥ iz:g幕末
J
明治初期の焚暦研究について
木
き
場ば
明
3
±.
dじd、
ν 近世に至り、復古国学・儒教・キリスト教などの各方面よりの諸種の排仏論が盛行し、それに対する仏教側の護法 論も大いに展開された。殊に幕末 J 明治初期にはそれが頂点に達し、西洋天文学の成果流入による仏教須弥山説否定 などは、仏教思想の存立基盤を揺るがす恐れの多いものであったがために、仏教側としては、護国・排耶思想との一 体化のもとに護法論を展開して防禦に努めた。須弥山説擁護も天文暦法に基づく科学的説明が必要となり、仏典に根 拠をおいた暦法である党暦の研究がなされた。 いわば仏教天文学であり、天台宗円通以下の研究家があらわれたので あった。真宗からも霊遊・信暁・介石・蓮純などが輩出し、須弥山説の実証に尽力して書物を遺したことはよく知ら れ て い る 。 と こ ろ で 、 わが国における天文学の発達の歴史は、暦の歴史と不離不可分の関係をもっており、天文学の中心は暦 法をめぐる研究であったと言って過言ではない。従って暦法研究のためにこそ天文学研究がなされたと言い得るので 幕末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て幕末 1 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て あるが、上述のような究暦研究の動き、中にも真宗を中心とする僧侶による護法的立場からの研究については、 日 本 天文学史の上においては、極めて特殊な一時的流行で、 かつ時代錯誤的特異現象とされてきている。 こ う し た 、 ともすれば特異ともされる当時の党暦研究の動向について、暦学の発達を中心観点として、仏教的視野 を加味したところに改めて意味を探ってみようとするのが本稿の意図するところである。 大谷大学図書館所蔵の一書に﹃和解仏暦一斑﹄という小冊子本がある。これは明治十七年刊行のもので、仏教暦と もいうべき内容を持つ。仏教各宗派著名寺院の宗教行事と祖師や主だった歴代師僧の忌日を掲げて暦本に仕立てたも の で あ る 。 仏 教 暦 で あ る の で 、 ﹁釈迦入滅以降二千八百三十一年本朝明治十七年﹂と記載して、神宮暦が皇紀何年 と記している体裁と対称的になっている。 これの刊行された理由は、その緒言に、 方今仏家修事法営毎ニ或ハ太陽暦−一因テ旧紀ヲ推シ或ハ太陽暦ノ紀日ヲ以テ即チ旧紀日トシ或ハ旧暦−一従テ正当 ヲ定ムル等各家区々一定ノ規範アルコトナシ為メニ本編ヲ頒行スル所以ナリ とある如く、太陽暦に変って以後は宗教行事の日が旧暦によるもの新暦によるものとまちまちであるので、判り易い ように毎日の暦に書込んで出版するというのであった。現今でも、例えば真宗報恩講が暦の数え方の違いから東派西 派で異なる日に厳修されていることは衆知の通りである。 裏表紙には﹁大日本仏暦会社印刷部﹂とあって、奥附により大阪の藤渓添治郎という人の編纂であると知られる。 これの校聞は、仏教宇宙観の中核をなす須弥山説の積極的擁護のために視実等象説を編みだした、 かの有名な佐田介
① 石が行なったといわれている。 ﹃和解仏暦一斑﹄の刊行は明治十六年から十八年までの三年間のみであって、仏教に よる暦本としては歴史上唯一のものとなっている。他に幕末期に阿見曇暦法という一枚のものの暦がありはするが、 ② それの場合は、当時一般的であった暦に単に﹁阿毘曇暦法﹂の文字を刷込んであるに過ぎない。もっとも、それが党 暦研究の流行に影響されているであろうことは言うを侠たないところである。 ③ 明治十六年以降、圏内の暦本は伊勢神宮司庁からのみ発行されることとなったとされているので、この仏教暦とも いうべき小冊子本﹃和解仏暦一斑﹄に﹁官許﹂の印判が捺されてあることは後の研究に価するであろう。佐田介石に よって終駕を迎えるとされる党暦研究の最終期頃になって、こうした書が、 しかも官許を得て刊行されている事実に は 注 目 し て よ い 。 講 話 筆 録 の 中 に 、 党暦研究が須弥山実在論にとどまらず、暦の問題にも立入っていたことは、大行寺信暁僧都の東本願寺学寮にての ③ ﹃頒暦講話井説教﹄というものが遺っていることでも知られる。最も著名な党暦研究家であった普 門円通の書である﹃実験須弥界説﹄などを引用してはその解説を進めていく内容であるが、当時︵幕末期﹀使用され ていた暦法に触れる記述があり、円通同様に、要は現在使っている暦法も淵源は仏典に説かれである所に由来してい る と 述 べ て い る 。 いわゆる党暦研究家とされる諸師の著述の多くは、必然的ながら宇宙観を説くものであるだけに数の列挙のみ多く、 また記述にしても論理にしてもやや難解であることが多いのであるが、それの講録である本書は、具体的かく卑近な 事例をとっているのでおもしろい。例えば、当時流布の暦本は京都大経師暦であり、横長の一枚ものの紙面に殆どか 幕末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て
幕末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て 四 な書きで、毎日の干支や二十四節季そして日の吉凶などをびっしりと書込んで木版刷にしたものである。その暦本に は 巻 首 に 何 の 何 年 と 記 し 、 つ ぎ に 宝 珠 型 の 一 一 一 鏡 と 称 さ れ る 図 と 大 将 軍 な ど の 八 将 神 の そ の 年 次 に お け る 方 位 が 書 か れ たのであるが、これら三鏡や八将神が元来は仏教のものであると主張している。このことは円通の﹃仏国暦象編﹄に 述 べ る と こ ろ で あ り 、 できる限り判り易くその説を敷街しようとの信暁による努力がよく表われている。他にも暦関 係の書物を引用し、全てその端は党暦にあると述べているが、後段になるとさすがに講者も問者も数字の煩噴に飽き た如くで、講者の方からこんな面倒な話は止めにしてと、党暦講義から普通説教に移ってしまったりもしている。こ @ うした点からみると、幕末期の学林・学寮において党暦が護法的立場から講ぜられたことは知られているが、その護 法精神はよく伝えられたものの、党暦の理論的あるいは数価的側面は、今一つ一般には難解煩噴として受容れられに くかった一面もあったのではなかったかと思われるのである。むしろ、 キリスト教邪教観と結びつく法護説の方がは る か に 強 く 説 得 性 も 持 ち 、 また一般に受容され易い状況にあったであろうと推察するのである。 頒行されている暦本記載の枝葉末節をとらえ、それが仏教に由来しているなどという程度の論義である実際的側面 を有していたことは、明治五年十一月九日に至って突然、中国を介せず純西洋流のグレゴリオ暦に基づく太陽暦が採 用されて暦の体裁も一新され、最新西洋説の暦となるに加えて三鏡図も八将神方角記載もなくなったこともあって、 これが党暦研究終息への急速な歩みへとつながる底流的素因となっていることは否めないであろう。 四 さて、先にわが国の天文学発達の歴史が暦法の問題と不可分であると述べたが、平安時代の貞観四年︵八六二︶に採 用された中国製の宣明暦による暦法が、実に八二三年もの間使用され続け、江戸時代の貞享二年三六八五︶に保井春
海︵渋川春海・保井算哲︶製るところの貞享暦に変わるまで、暦法の変更は永く行なわれなかったのであった。それ では保井春海はどうして新しい暦法を製ることに成功したかというに、 それは彼が中国天文学の中に西洋天文学の成 果を摂りいれた中国︵明﹀の人、遊芸子六の著した﹃天経或問﹄を読んでいたことによる。寛永禁書令の網を潜って 輸入されたこの﹃天経或問﹄が、 日蝕・月蝕の計算法に極めて優れていたことが直接的原因となったのである。 この書﹃天経或問﹄は天動説をとっており、享保十四年︵一七二九︶に至って西川正休により訓訳本が出版されるや 識者の眼に触れるところとなり、これを契機に仏教の説く須弥山世界説への疑問視が始まる。これがために、浄土宗 文 雄 は 宝 暦 四 年 ︵ 一 七 五 四 ︶ に 反 駁 書 ﹃ 非 天 経 或 間 ﹄ 、 および﹃九山八海解潮論﹄を著している。 先掲の保井春海は改 暦の功積により徳川幕府初代天文方︵暦を司る役職︶となっており、 また西川正休は長崎の西川如見の子で、 八代将軍 吉宗に登用されて延享四年︵一七四七︶に天文方に任ぜられ、吉宗の貞享暦更改の意志に沿って活躍した人物である。 将軍吉宗は西洋科学による天文暦法に強い関心を示し、天文学者中根元圭の意見を容れて寛、水禁書令を緩和し、西 洋の説を載せた漢訳天文書を輸入しようと考えた。この施策によって﹃暦算全書﹄や﹃崇禎暦書﹄といった書がもた らされ、宝暦改暦への準備が進んでいったのであった。こうした幕府方針と相侯って西川正休による﹃天経或問﹄訓 点本︵すなわち和刻本﹀が流布し、その註釈書も数多く出版されるところとなり、大阪の中井覆軒やその門下の山片幡 桃が太陽暦のことを記し、殊に幡桃の﹃夢の代﹄などはそれによって排仏書ともなったのであった。 つまりは暦法の進歩の道程が仏教須弥山説否定論へとつながり、 ひいては反駁のための党暦研究の気運を惹起させ ていくということになるのである。従って党暦研究の動きは江戸時代中期以後においてのみ顕著にみられる現象であ り、これが極まるのが普門円通による護法党暦研究の起こる文化七年︵一八一
O
︶から明治初期頃である。円通の出る 頃 と な る と 地 動 説 も よ く 知 ら れ て い る が 、 こ の 地 動 説 は 初 め 長 崎 の オ ラ ン ダ 通 詞 本 木 良 永 に よ り 、 安 永 一 ニ 年 ︵ 一 七 七 回 ﹀ 幕末i
明 治 初 期 の 究 暦 研 究 に つ い て 五幕末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て ム ノ、 刊行の﹃天地二球用法﹄という訳書で紹介されている。これを一般に広めたのは司馬江漢を始め、麻田剛立一派その 他のアマチュア天文学者であり、蘭学普及の潮流に則ったものであった。こうした経緯により、仏教須弥山説否定論 者は漸増し、加えて儒学者・復古国学者らもこれらの西洋天文学説をうけて仏教批判に回り、盛んに須弥山非実在、 地 獄 極 楽 否 実 在 を 攻 撃 し た の で あ る 。 そ こ で 普 門 円 通 は 、 ﹃ 仏 国 暦 象 編 ﹄ ﹃ 党 暦 策 進 ﹄ ﹃実験須弥界説﹄などを初めとする多くの須弥山説擁護論を著わ し ﹃立世阿見曇論﹄に中心的典拠をおいての須弥山実在の理論的証明に努め、仏教者の奮起をうながす研究と唱導 にあたった。これにより円通門下には、臨済宗環中、真宗仏光寺派信暁、東本願寺派霊遊などの研究者が輩出し、そ の 環 中 門 下 か ら は 西 本 願 寺 派 佐 田 介 石 を 生 ん だ の で あ っ た 。
五
こうした西洋天文学説普及に端を発する仏教への影響という面を、極めて如実に示してくれる書として、大行寺信 暁の説教講録﹃天文起教講義﹄をあげよう。これは天保八年︵一八三七﹀の二月十六日から同月晦日までの問、金沢永 照 寺 に お い て 門 徒 衆 群 参 の う ち に 行 な わ れ た 説 教 を 、 ﹁哲僧舟六歳﹂と誌した人物が筆録したもので、大谷大学図 書 館 に 架 蔵 し て い る 。 さて講義は四十一席から成っており、初席の 今日ヨリ暦ノヨトヲ少シッ、附シヲイタス。近比方角ノ吉凶日ノ善悪ヲ論スルコト多クハヤリテ、動モスレハ御 門徒ノ中ニ彼ノトモガラニ惑ハサレテ に始まり、諸種の世の風潮に惑わず、最も勝れている仏教、なかにも御開山親驚聖人の教えを守っていけばよいと説く。暦が仏典に根拠をおくと述べているのはいうまでもないが、当時使用の寛政暦が百年も経てばズレが生じて使え なくなるとも承知していて研究のあとが窺われる。当時世間に普及の天球地球説を﹁ハヤリ天文﹂または﹁世間天文 ノ 説 ﹂ と 称 し 、 ︵ 経 ︶ 世間天文ノ説ハ古ヒコトテハナヒ。二百年斗サキニ唐カラ天慶或問ト云書物ガ渡リタ。 ︵ オ ラ ン ダ ︶ 本ト和蘭カラ出タコト也。ソノ天慶或問ノ中ニ云テアルノカ:::世間天文ノ説日本デノ初リヂャ。処カコノ七十 コノ中ニ書テアルコトガ 年 斗 前 ニ 水 戸 − 一 不 染 居 士 ト 云 学 者 カ ア リ テ 、 ソノ人カコノ天慶或問ヲチラリト見ルト、仏法ノ大難ハコレカラオ コルト護法資治論ト云モノニ書テオヒタ。:::サテ夫カラト云モノハグルトモノ\唐カラ便リタピコトニソンナ コ ト 書 タ 書 物 カ 渡 ル 。 刊 行 で あ り 、 と﹃天経或問﹄の輸入に始まる経緯を、仏教側から記している。ここに出る﹃護法資治論﹄は宝永四年︵一七
O
七 ︶ の ⑤ 不染居土は森尚謙のことである。そしてこの風潮の甚しくなったについては、 覚政年中己来種々ノ邪説カオコリテ盛ニ仏法ヲ詩ルモノデキルユへ::: と 寛 政 年 間 ︵ 一 七 八 九 J 一 八O
一﹀以来のことであるとする。また、文化年間刊︵一八O
四 J 一 八 一 八 ︶ の 天 文 書 ﹃ 観 象 図 ⑥ 説﹄の引用もみられる。総じて当然のことながら強い護法意識に支えられており、眼前に門徒多数をおいての天球地 球説排除の説教講義として、先掲の学寮にての講義﹃頒暦講話井説教﹄と共に、注目に値する内容を含んでいる。門 徒レベルにおける様子を窺い知るものとして貴重といえよう。.
.
.
.
.
I¥. その後幕末の開国が行なわれ、否応なくキリスト教が入ってくるようになり、 キリスト教側から宣教使エドキソス 幕末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て 七幕末 J 明 治 初 期 の 党 暦 研 究 に つ い て /¥ による﹃釈教正翫﹄の如く、直接に須弥山説批判を受けるに至る。このため、暦学などに併せてキリスト教書物を、 破邪学の形で学林・学寮で研究することもなされた。しかし、これらは所詮は激動的な時代の潮流の中で、時代錯誤 ③ ついには浄土観念論などにとってかわられることとなるのである。 的 要 素 を 強 め 、 こうした一時期におわった党暦研究ではあったが、 @ 明治二十九年四月の雑誌﹃東洋哲学﹄ において井上円了氏は ﹁須弥説研究の必要を論ず﹂との一文を載せ、今度は純学問的見地から、 一つには須弥山説が仏教固有のものかそれ ともインドバラモンの説であるのかを明かすために、 また一つには古代の宇宙観研究材料として、研究を終らせては な ら な い と 述 べ て い る 。 しかし、明治十年代までの形とは全く違った動機であることを知るのである。 さて、そこでこれら焚暦研究運動の評価であるが、これを扱った論文の主たるものは三つである。 一 つ は 伊 東 多 郎氏の﹁近世に於ける科学的宇宙観の発達に対する反動に就いて||特に僧侶の運動について
i
l
﹂ ︵ ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 新 編 十 一 巻 二 号 ︶ で あ り 、 そ こ で は 西洋の新しい科学は仏教界にも浸潤し、時勢の展々として文明開化へ向って行ったので、天文学と耶蘇教とが無 関係であることも知られ、又最早須弥山説が到底持ち応えられるものでもないことが自然に了解されるようにな っ た 。 かくて新進気鋭の仏教徒は、従来の耶蘇教に対する偏見を捨て、西洋哲学の立場から理論的に彼我の優劣 を定めんと試みるようになった。ただ佐田介石のみが、依然として須弥山説の為めに奮闘を続け、盛に文明開化 思想に反抗したことが異彩を放っているが、時勢はこの保守主義者の力味かへった姿を後に残して、遠くへ歩み 続 け る ば か り で あ っ た 。 とあり、全てを時流のなせる運動ということに帰し、幕末 J 明治初期における特殊事象であったと結論 e つ け て い る 。 これに対して第二にとりあげるべきは、板沢武雄氏による﹁近世於ける地動説の展開とその反動﹂︵﹃史学雑誌﹄五二 巻 一 号 ︶ で あ り 、 そ こ に は 須弥山天文説が理論において地動説に太万打ち出来なかったことは、科学の勝利であったといわなければならな ぃ。:::然しながら党暦運動が単なる護法運動ではなく、幕末における国民の日本人としての自覚の運動であり、 西洋文化に対する対抗運動であったところに、更に思想史上注意すべき点の存することを看過してはならない。 と、自覚的な思想論争であったとする積極評価をなしている。 そ し て そ の 三 に 、 柏 原 祐 泉 氏 は ﹁ 護 法 思 想 と 庶 民 教 化 ﹂ ︿ 岩 波 日 本 思 想 大 系 五 七 ﹃ 近 世 仏 教 の 思 想 ﹄ 解 説 論 文 ︶ に お い て 、 須弥山説の実証的・実験的説明は、 その研究者たちの異常なまでの熱意にかかわらず、その内容自体は陳腐なも のでしかなかった。それは、危機感のなかで、強い護法意識をかきたてることに役立っただけに終わった。しか し一面において、それは日本仏教がはじめて近代科学と接触したことを意味した。以後の仏教が、科学的精神や 哲学的思考を無視してありえず、とくに浄土教が来世観の近代的な再確立を要請されたことをおもえば、以上の 近代科学との接触のもつ意味は、甚だ大きかったのである。 と述べ、運動それ自体の意味は見出し得ないが、近代科学と仏教が接触するという意味において、近代以降の科学的 あるいは哲学的な、学問としての仏教の研究理解の傾向に照らしてみれば、先駆的必然的な意味を大いに認め得ると 評 価 し て い る 。 筆者は以上のコ一氏のように正面からこの問題にとりくんだ形ではなく、暦や天文学の発達史の流れに沿った側面に 観点を据えると、どのように考えられるかを試みているのであるが、参考に純天文学的見地からの評価について一つ だけ紹介しておこう。天文学者新城新蔵氏の﹃こよみと天文﹄という単行本では ︵党暦研究は﹀全く古き仏経に見えたる須弥山説を祖述せるもので、要するに時代錯誤、到底発達せる西洋天文 幕 末 J 明 治 初 期 の 焚 暦 研 究 に つ い て 九
幕末
1
明 治 初 期 の 党 暦 研 究 に つ い て。
学 の 敵 で は な い 。 ︵円通、佐田介石の︶此両者の如きは若し始めより西洋天文学を学ばしめたならば、其造詣蓋 し大き見るべきものがあったらうと思はれる。好漢可惜といはなければならぬ。 と、手厳しく、しかも他人事のように評価しているのである。 筆者がったない研究のうちから思うには、党暦研究は決して暦や天文学の発達の歴史と無縁でなかったことであり、 暦とか天文というのは多く為政者がそれを司らんがために腐心するものであるから、単に宗教史や思想史上の問題以 上に、政治史とも多分に関連するところがあったと推されること。党暦研究が護法運動の一つというだけにとどまる こととなったのは、元来仏教須弥山説が近代西洋天文学に対抗できない非科学的内容性をもつものであった点に根本 問題があったのであり、必ずしも党暦研究者の時代錯誤を責めるべきではないこと。従って護法運動としては必然的 であり、仏教者の一つの姿として是認し得るものであろうと思う。殊に科学思想に対抗したということでは、柏原氏 が述べられているように、近代仏教に脱皮するための必要通過点であったと考えられる。 しかしながら、これら党磨 研究が、仏教側の意地などという世俗的理由や、檀徒確保などの経済的理由に支配されていた場合、その際には評価 を少々減ずる要があろうかと思われ、個々の人物、個々の場合について、 よ り 一 一 層 研 究 を 深 め て 結 論 を 得 る べ き か と 考 え る 。 ︵ 大 谷 大 学 ︶ ③ ② ① 註 渡 辺 敏 夫 ﹃ 日 本 の 暦 ﹄ 四 八 二 頁 。 註 ① に 同 じ 。 大 谷 大 学 図 書 館 所 蔵 。 ⑥ ⑤ ④ ﹃ 本 願 寺 派 学 事 史 ﹄ お よ び ﹃ 大 谷 派 学 事 史 ﹄ 参 照 。 宝 永 四 年 刊 本 は 大 谷 大 学 図 書 館 所 蔵 。 三巻三冊。吉雄南皐授、草野震記。刊本は国立公文書館 内 閣 文 庫 所 蔵 。⑦ 二巻二冊。清朝同治六年︿一八六七﹀イギリス人エドキ ン ス 著 。 柏原祐泉﹃日本近世近代仏教史の研究﹄所収﹁近代仏教 ③ 幕末 J 明治初期の焚暦研究について ⑪ ⑨ の 自 律 的 発 展 ﹂ 参 照 。 ﹃ 東 洋 哲 学 ﹄ 三 巻 二 号 。 ﹃ こ よ み と 天 文 ﹄ 一 二 一 一 一 一 頁 。
﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景
﹃
往
生
論
註
﹄
の思想的背景
ー ー ー 八 番 問 答 三 在 釈 業 の 軽 重 ー ー ー方
日
か
藤
t
宏2
道
2
一 一
四 はじめに 問 答 の 緒 三 在 釈 在 心 七 六 五 在 在 決 め 定 縁 脅 晶 、 と は じ め に 仏教一般で説く因果律からすれば、悪業をなした者は必ずその果を受ける、というのが一応の原則であるので、 五 逆 罪 を な し た 者 は 、 その果としての地獄の果報を受けるはずである。しかし、浄土教では、 五逆罪をなした者でさえ も、その罪業を転じて、その果報を受けないままで、浄土に往生することができる、と説き、仏教一般の因果律から は一見、逸れたかの如き因果律になっている。浄土教の真骨頂は、 五逆罪や誹誘正法をなした悪人でさえも浄土往生 が可能である、と説くところにあるから、浄土教のそういう因果律が仏教一般の因果律から逸脱しているならば、こ れは、決して看過できない由々しき問題である。この問題に対して解答を与えるのが、 @ ﹃論註﹄に説かれる八番問答の第六番である。そこでは、 五逆罪をなしたこ とのもつ因としての招果力と、具足十念のもつ因としての招果力との強弱が、 ﹁業の軽重﹂として説かれ、具足十念 の招果力のほうが強いから、そのまま浄土に往生することができる、と示されている。前者の仏教一般の因果律は、 主 に 日 常 生 活 、 いわゆる有漏の世界の事象を説明する因果論であるから、これを﹁世俗的因果律﹂と名づけるならば、 後者の悪業を転じて浄土に往生するという因果論は、超世俗の﹁勝義的因果律﹂と名づけられるであろう。そういう 意味からすれば、この第六問答は、世俗的因果律が勝義的因果律の前では何ら力をもたない無力なものであることの、 理 論 的 根 拠 を 示 し て い る 、 とも言うことができる。世俗的因果の紳を断ち切って、勝義的因果の支配する聖の世界へ 没入するという、この転回はいずれの宗教であっても説くところであり、逆に、この転回を説かないものは宗教と言 i e : 、 、 、 , 吋 八 φ ト 旬 、 u w と も 換 言 し う る 。 し た が っ て 、 そ う い う 点 か ら し て も 、 ﹁具足十念﹂という形でその転回点を示すこの第六 問答は、浄土教を支える根幹・理論的根拠を示すものである、と言えるであろう。このことは、 八番問答の構成の上 からも窺える。それは、第六問答が、 八番問答の核になっている、すなわち、世俗的因果律の果である衆生を明かす 前五問答と、勝義的因果律に基く﹁具足十念﹂を明かす後二問答という、両者を繋ぐものとして第六問答が説かれて い る 、 と い う 点 で あ る 。 そこで、本稿では、第六問答は﹃論註﹄以前のいかなる経論に依り所を持っか、ということ、 いわゆる思想的背景 に つ い て み て み た い 。 問 答 の 緒 ﹃ 業 道 経 ﹄ に は 、 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景
﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 四 業 道 如 レ 秤 、 重 者 先 牽 。 ︵ 業 道 は 秤 の 如 し 、 重 き も の 先 ず 牽 く 。 ﹀ と 説 か れ 、 ﹃ 観 経 ﹄ で は 、 五逆・十悪をなした者でも、臨終時、普知識に遇って﹁南無無量寿仏﹂と称することを教 え ら れ て 、 至心・不断に十念を具足すれば、安楽浄土に往生することができる、と説かれている。然らば、 一 般 的 に は、五逆・十悪などの業の繋縛が、下下品の十念よりも重いと考えられるのに、この場合、十念を具足することによ って往生するならば、これは﹃業道経﹄の所説と違順することになる。とすれば、 ﹃業道経﹄の﹁先牽﹂の意味はど のように理解すべきであるのか、と尋ねる形で、第六問答が始まっている。これは、世俗的因果律の立場に基く問者 の、勝義的因果律を説く﹃観経﹄の所説に対する、疑問である。次いで、瞭劫以来、有漏の諸業を造ることによって 三界に繋属されていた衆生が、十念を具足することによって三界から出離するならば、有漏業の繋縛はどうなるのか、 と問うている。それに対して、設は、 五逆・十悪業の繋縛が下下品の人の十念よりも重い、と考えているが、その軽 重の基準は、在心・在縁・在決定の三によって判断すべきであるから、 五逆・十悪業の繋縛よりも、十念の方が重い と い う こ と が い え る 、 と 答 え て い る 。 こ の な か で 、 ﹃業道経﹄所説の文に契合する経典が見あたらず、諸末註はそれに種々の経典をあてている。次に、 そ れ に つ い て 考 え て み よ う 。 ② ﹃業道経﹄という名称から、実又難陀訳﹃十善業道経﹄をあてるものがある。この経典については、名称の一致と いう点では首肯しうるが、これには、業道云々の文は説かれていない。同様な点から、馬鳴菩薩集、 ③ 善業道経﹄をあてるものもあるが、これにも所掲の文は説かれていない。 日称等訳﹃十不 次に、所掲の文と内容的に近いものとしては、次の経典が挙げられる。 ﹃蘇婆呼童子請閉経﹄巻上
@ 轍如一一秤物随レ重頭下、其物若軽少便即頭高物若均平其秤亦平↓念請人亦復如レ是。 ︵ 喰 へ ば 、 秤 は 物 の 重 き に 随 っ て 頭 下 り 、 其 の 物 、 若 し 軽 少 な れ ば 、 す な わ ち 頭 高 く 、 物 若 し 均 平 な ら ば 、 其 の 秤 も 亦 、 平 な る が 如 く 、 念 諦 の 人 も 亦 、 復 、 是 く の 如 き な り 。 ︶ ﹃ 惟 日 雑 難 経 ﹄ 要 為 一 一 随 レ 多 得 v之 意 。 在 レ 仏 多 得 レ 仏 、 在 一 一 昨 支 仏 一 多 得 ニ 酔 支 仏 一 ︵ 要 ず 多 に 随 っ て 之 れ を 得 る と 為 す 意 な り 。 仏 の 在 す こ と 多 け れ ば 仏 を 得 、 降 支 仏 の 在 す こ と 多 け れ ば 、 降 支 仏 を 得 、 阿 羅 漢 の 在 ニ 阿 羅 漢 一 多 得 ニ 阿 羅 漢 一 ⑤ 如 下 秤 随 一 一 重 者 一 得 + 之 。 在 す こ と 多 け れ ば 、 阿 羅 漢 を 得 る こ と 、 秤 の 重 き 者 に 随 っ て 之 れ を 得 る が 如 き な り 。 ︶ ﹃ 道 地 経 ﹄ ⑥ 即時身精識滅中便有レ陰。響如一一秤一上一下↓如レ是捨レ死受ニ生種吋 ︵ 即 時 に 身 精 識 滅 す る 中 に 、 使 ち 、 ︹ 五 ︺ 陰 ︹ の 生 ず る こ と ︺ 有 り 。 警 へ ば 、 秤 の 一 ︹ 方 ︺ 上 が れ ば ︹ 方 ︺ の 下 が る が 如 し 。 是 く の 如 く 死 を 捨 し て 生 種 を 受 く る な り 。 ︶ ﹃ 中 論 ﹄ 巻 三 、 観 業 日 間 而 不
受 失
レ 、 十時⑦箸
於二界一 諸業相似不相似。初受レ身時 果 報 独 生 、 於 エ 現 在 身 一 従 レ 業 更 生 レ 業 。 是 業 有 三 一 種 一 随 レ 重 ︵ 不 失 法 と は 、 一 界 に 於 い て 諸 業 相 似 し 不 相 似 す 。 初 め て 身 を 受 く る 時 、 果 報 独 り 生 じ 、 現 在 の 身 に 於 い て 業 よ り 更 に 業 を 生 ず 。 是 の 業 に 二 種 有 り 、 重 き に 随 っ て 報 を 受 く る な り 。 ﹀ 内容的に近いものとしては、以上の諸文が挙げられる。 したがって、﹃業道経﹄云々の文は、これら諸文から取意し @ た、と考えるべきであろう。諸宋註もほぼ、そのように結論している。 意したものであり、 このことは、次の﹃観経﹄云々の文についてもいえる。すなわち、この文は、 @ ﹃観経﹄の所説をそのまま引いているのではない、と。 ﹃観経﹄の下下品についての文を取 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 五﹁ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 一 六 次に、業の軽重の基準である在心・在最・在決定の﹁一ニ在﹂の依拠する諸文について考察してみよう。 在 釈 当レ知此中 由 三 ニ 因 縁 一 令 ニ 業 成 v 重 。 ﹃瑞伽論﹄巻九十、摂事分中契経事処択摂の次の文が挙げられる。 ⑮ 一 一 一 由 レ 田 故 。 一 由 = 意 楽 一 故 二 由 ニ 加 行 一 故 ︵ 当 に 知 る べ し 、 此 の 中 、 一 二 因 縁 ﹂の三在釈に相当するものとしては、 に 由 り て 業 を し て 重 き こ と を 成 ぜ し む 。 一 に は 意 楽 に 由 る が 故 な り 、 こ に は 加 行 に 由 る が 故 な り 、 ゴ 一 に は 田 に 由 る が 故 な り 。 ︶ ここでは、更に三因縁の一々を次のように説明している。 由 主 志 楽 一 者 、 謂 由 = 猛 利 纏 等 所 作 ﹁ 於 − 一 同 法 者 一 見 己 歓 喜 、 於 − 一 彼 随 法 − 多 随 尋 思 、 多 随 伺 察 、 如 是 名 為 下 由 ニ 意 楽 一 故 ⑩ 令 申 業 成 歩 重 。 ︵ 意 楽 に 由 る と は 、 謂 は く 、 猛 利 な る 纏 等 の 所 作 に 白 り て 、 同 法 者 ︵ 賛 同 者 ﹀ を 見 己 り て 歓 喜 し 、 彼 の ︹ 同 法 者 の ︺ 随 へ る 法 に 於 い て 、 多 く 随 ひ て 尋 思 し 、 多 く 随 ひ て 伺 察 す 。 是 く の 如 き を 名 づ け て 、 意 楽 に 由 る が 故 に 業 を し て 重 き こ と を 成 ぜ し む 、 と 為 す な り 。 ︶ すなわち、意楽とは、猛利な纏などのはたらきによって悪業がなされる、そういう猛利な纏や純浄な善心などである。 この意楽は﹁在心﹂に相当する。 無間所作 ⑪ 名 為 下 由 = 加 行 − 故 令 申 業 成 v 重 。 ︵ 加 行 に 由 る と は 、 謂 は く 、 彼 の 業 に 於 い て 無 聞 に 所 作 し 、 段 重 に 所 作 し 、 長 時 に 積 集 し 、 又 、 由 ニ 加 行 − 者 、 調 於 − 一 彼 業 段重所作 長 時 積 集 、 又 於 ニ 其 中 一 勧 レ 他 令 レ 作 又即於レ彼称揚讃歎 如 レ 是 其 の 中 に 於 い て 他 に 勧 め て 作 さ し め 、 又 、 即 ち 彼 に 於 い て 称 揚 讃 歎 す 、 是 く の 如 き を 名 づ け て 、 加 行 に 由 る が 故 に 業 を し て 重 き こ と を 成 ぜ し む 、 と 為 す な り 。 ︶ すなわち、加行とは、或る業を絶え間なく為したり、あるいは、他人にそれをさせたり、 また、その業を称揚讃歎す
る な ど の 行 為 で あ る 。 ﹁決定﹂は、最後心であるが、同時に、最後心以降のすべての所作をも含んでいるから、長時 問、連続して絶え間のない所作であるという加行の一部と看なせるであろう。このことを、 ﹃ 顕 深 義 ﹄ 巻 五 は 、 加行に由るとは、即ち、是れ在決定なり。無聞に所作し、長時に積集するは皆、時節に約す。彼は平生に通ず、 ⑪ 此れ、臨終無間の所作を取る、則ち、時節決定し、所作も亦、段重なり︿原漢文︶。 と 釈 し て い る 。 ﹁ 田 ﹂ は 次 の よ う に 説 明 さ れ て い る 。 由 レ 田 故 者 、 謂 諸 有 情 @ 説 名 為 レ 軽 。 於 = 己 有 v恩 若 住 一 一 正 行 及 正 行 果 一 於 レ 彼 発 ニ 起 草 同 作 悪 作 − 当 レ 知 此 業 説 名 為 レ 重 与 レ 彼 相 違 ︵ 田 に 由 る が 故 に と は 、 謂 は く 、 諸 ミ の 有 情 、 己 に 恩 有 る も の に 於 い て 、 若 し く は 、 正 行 、 及 び 正 行 の 果 に 住 す る ︹ 敬 田 な る ︺ 彼 に 於 い て 、 議 同 作 ・ 悪 作 を 発 起 す 、 当 に 知 る べ し 、 此 の 業 を 説 い て 名 け て 重 と 為 し 、 彼 れ と 相 違 す る を 説 い て 名 け て 軽 と 為 す な り 。 ︶ 田とは、業を起こす、その対象であり、対象によって軽重の別が生じる。したがって、有徳者に対する善業・悪業ほ ど 重 く な る 。 ﹃ 瑞 伽 論 記 ﹄ 巻 二 十 三 上 は 、 ﹁ 有 恩 ﹂ を 父 母 な ど の 恩 田 、 と釈してい旬。蓋し、恩田・敬固に対する業は、善悪いずれを問わず、 ﹁ 住 正 行 ﹂ を 預 流 な ど の 四 向 、 ﹁ 正 行 果 ﹂ を 預流などの四果、及び仏などの敬田である、 重業である。それらに対する重悪業が無開業とされているのも、その一端を示している。これは﹁在縁﹂に相当する。 ﹃倶舎論﹄巻十八、業品第百十九傷で、業の軽重は、業の後起︵
1
2
4
・ 田 ︵r m
g
︶ ・ 根 本 ︿ 偶 包 E 4 3 H E P 長 行E
5
同 ・ ⑬ 宮 寄 与 ・ 加 行e
g
可 o m 白 ︶ ・ 思 ︵ ロ 叩 窓 口 同 ︶ ・ 意 楽 ︿ 削 佐 官 ﹀ の 六 因 に よ る 、 と 説 か れ る も の と 比 較 す る と 、 意 楽 と 思 と は ﹁ 意 楽﹂に、加行・根本・後起は﹁加行﹂に、 田は﹁田﹂に相当し、基本的には、 ﹃ 供 舎 論 ﹄ の 所 説 と 一 致 す る 。 他 に も 、 ﹃大智度論﹄巻七十五・二十四などの文もあるが、それらは三因縁をまとめて説いていないので、三在釈、 一 々 を み ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 七﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 J¥ る 時 に 検 討 し て み よ う 。 四 在
,
t
,
,
﹁在心﹂とは、罪人が虚妄顛倒の見によって罪業を造る、あるいは、人が普知識の設けた方便や安慰によって実相 法を聞き、その心によって十念を具足する、等の場合の心の在り方である。すなわち、業の軽重はいかなる心に依止 して起こされたかにかかっている、ということである。これは、前掲︵一六頁︶の﹃瑞伽論﹄巻九十の文では﹁意楽﹂ が相当する。他には次の文がある。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 七 十 五 、 釈 夢 中 入 三 昧 口 問 、 ⑮ 是 夢 心 微 弱 故 不 レ 能 一 一 集 成 ↓ 昼 日 微 弱 心 尚 不 レ 龍 一 一 集 成 ﹁ 何 況 夢 中 。 ︵ 是 れ 夢 心 は 微 弱 な る が 故 に 集 成 す る こ と 能 は ず 。 昼 日 の 微 弱 心 す ら 尚 、 集 成 す る こ と 能 は ず 、 何 に 況 ん や 、 夢 中 を や 。 すなわち、夢中の所作業の招果を云々する際の、夢心は微弱であるから招果できない、 また、覚醒時の心であっても、 微弱なものは招果できない、と説く箇処の﹁心﹂が在心に相当する。 真諦訳﹃摂大乗論釈﹄世親釈巻十二、釈依慧学差別勝相、 悪 業 依 一 一 非 理 − 起 信 楽 従 一 一 是 理 一 生 依 = 非 理 一 起 故 虚 従 = 是 理 一 生 故 実 虚 不 レ 能 レ 対 レ 実 ⑮ 是 故 破 壊 。 ︵ 悪 業 は 非 理 に 依 り て 起 こ り 、 信 楽 は 是 理 よ り 生 ず 。 ︹ 悪 業 は ︺ 非 理 に 依 り て 起 こ る が 故 に 虚 な り 。 ︹ 信 楽 は ︺ 是 理 よ り 生 ず る が 故 に 突 な り 。 虚 は 実 に 対 す る こ と 能 は ず 。 是 の 故 に 、 ︹ 信 楽 は 悪 業 を ︺ 破 壊 す る な り 。 ︶ このなか、悪業や信楽が﹁非理﹂や﹁是理﹂によって生起するということも在心を示している。 こ の よ う に 、 心の如何によって業の軽重が決まるという考えは、動機を重視する仏教の業の立場とも合致する。 しかし、虚妄顛倒見によるよりも実相法を聞く心による方が、また、非理によるよりも是理による方が、所起の業は重 いとする判断基準は、前のことばでいえば、世俗的因果律の支配する世界と、勝義的因果律の支配する世界の対立の 上で考えられたものであり、そこでは、勝義的因果律が優先している。そのことを、前所引の﹃摂大乗論釈﹄の﹁虚 不能対実是故破壊﹂の文も示している。また、 ﹃ 論 註 ﹄ は 、 千 歳 の 闇 室 を 破 る 光 の 誓 え で 示 し て い る 。 五 在 縁 造罪人が妄想心に依止して煩悩虚妄の果報である衆生を所縁として罪業をなす、あるいは、十念が、無上の信心に 依止して、阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳の名号を所縁として生じる。これらの場合の所縁の在り方、これが 在縁である。﹃論註﹄では、菩薩摩詞薩の名を聞けば、貧−眠・療の三毒の箭が抜ける、という﹃首拐厳三味経﹄巻品 の轍を出している。この場合、菩薩摩詞薩の名が所縁である。前掲三六頁﹀の﹃瑞伽論﹄巻九十の文では﹁田﹂がこ れに相当する。これは、善業・悪業が凡夫・有徳者・聖者などに向かってなされる時、その対象に応じて業の軽重が 決まる、ということである。これと同様の考え方は、 ﹃大智度論﹄の、福田が大であれば福徳が大きい、と説く巻五 十 九 ・ 巻 六 十 の 次 の 文 に も 窺 わ れ る 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 五 十 九 、 釈 校 量 舎 利 品 、 間 目 、 若 福 徳 在 日 目 仏 心 ﹁ 仏 何 用 レ 砕 三 身 如 = 芥 子 −
A
2
人 供 養 ↓ 答 日 信 浄 心 従 三 一 因 縁 一 生 然後
得 大 果 一 報@者 ー。内 正 憶 念 者 外 有 良 福 田 響 如 下 有 一 一 好 穀 子 − 田 又 良 美 所 収 必 多 ム 是故心 難 レ 好 必 因 = 舎 利 − ︵ 問 ふ て 日 く 、 若 し 福 徳 、 仏 心 に 在 ら ば 、 仏 、 何 ぞ 身 を 芥 子 の 如 く 砕 く こ と を 用 ひ て 、 人 を し て 供 養 せ し む る や 。 答 へ て 日 く 。 信 浄 心 は 二 因 縁 よ り 生 ず 、 一 に は 内 に 正 憶 念 し 、 二 に は 外 に 良 き 福 田 有 り 。 響 へ ば 、 好 ﹃ 往 生 論 白 の 思 想 的 背 景 九守 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景
。
き 穀 子 有 り て 回 も 又 、 良 美 な れ ば 、 所 収 必 ず 多 き が 如 し 。 是 の 故 に 、 心 、 好 し と 蜂 も 、 必 ず 舎 利 に 因 り て 、 然 る 後 に 大 果 報 を 得 る な り 。 ︶ こ の な か 、 ﹁ 内 正 憶 念 ﹂ は 在 心 、 ﹁ 外 有 良 福 田 ﹂ は 在 縁 に 相 当 す る 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 六 十 、 釈 校 量 法 施 品 、 教 ニ 是 人 般 若 波 羅 蜜 正 義 一 者 其福最多。何以故。福田大故 ⑮ 福 徳 亦 大 。 ︵ ︹ 阿 韓 政 致 に 至 り 、 阿 韓 政 致 よ り 己 上 の 仏 道 に 至 る 中 間 の ︺ 是 の 人 に 般 若 波 羅 蜜 の 正 義 を 教 ふ る 者 は 、 其 の 福 、 最 も 多 し 。 何 を 以 つ て の 故 な る や 。 福 田 大 な る が 故 な り 。 福 徳 も 亦 、 大 な れ ば な り 。 ︶ 文 中 、 ﹁福田﹂が在縁に相当する。また、前掲︵一八頁﹀の﹃摂大乗論釈﹄巻十二の直前に説かれる次の文も、在縁で あ る こ と を 示 し て い る 。 真諦訳﹃摂大乗論釈﹄世親釈巻十二、釈依慧学差別勝相、 若人 従 レ 聞 ニ 正 説 一 ⑮ 於 ニ 無 分 別 智 一 生 − 一 一 信 楽 吋 由 エ 此 信 楽 一 破 一 一 壊 四 悪 道 業 吋 ︵ 若 し 人 、 正 説 を 聞 く こ と よ り 、 無 分 別 智 に 於 い て 信 楽 を 生 ず 。 此 の 信 楽 に 由 り て 四 悪 道 業 を 破 壊 す る な り 。 ︶ 人が正説を聞くことによって無分別智に対する信楽が生じる。この場合の﹁正説﹂はまさしく所縁である。 これら諸文は、行為の対象そのものを指しているが、 し か し 、 行 為 の 対 象 と て も 、 一度、思の対象、すなわち所縁 になり、然るのちに行為が起こされるから、行為の対象とても﹁所縁﹂と解することができる。これらに対して、次 に挙げる諸文は所縁そのものを指している。 次の文は在心・在縁の両者を説いている。 ﹃大智度論﹄巻七十五、釈夢中入三昧品、︿ 経 ﹀ ・ 舎 利 弗 、 如 レ 是 如 レ 是 無 レ 縁 業 不 レ 生 、 無 レ 綾 思 不 レ 生 、 有 レ 縁 業 生 、 有 レ 縁 思 生 。 於 ニ 見 開 覚 知 法 中 一 心 生 、 不 乙 従 下 不 一 一 見 聞 覚 知 一 法 中 ム 心 生 れ 是 中 心 有 レ 浄 有 レ 垢 。 以 レ 是 故 ⑮ 思 生 、 不 ニ 従 レ 無 レ 縁 生 ﹃ 舎 利 弗 、 有 レ 縁 故 業 生 、 不 エ 従 レ 無 レ 縁 生 一 有 レ 縁 故 ︵ 舎 利 弗 ょ 、 是 く の 如 く 是 く の 如 く 、 縁 無 け れ ば 業 生 ぜ ず 、 縁 無 け れ ば 思 生 ぜ ず 、 縁 有 れ ば 業 生 じ 、 縁 有 れ ば 思 生 ず 。 見 開 覚 知 の 法 中 に 於 い て 心 生 じ 、 見 聞 覚 知 せ ざ る 法 中 よ り 心 生 ぜ ざ る な り 。 是 の 中 、 心 に は 浄 有 り 、 垢 有 り 。 是 れ を 以 つ て の 故 に 、 舎 利 弗 ょ 、 縁 有 る が 故 に 業 生 じ 、 縁 無 き よ り ︹ 業 ︺ 生 ぜ ず 、 縁 有 る が 故 に 恩 生 じ 、 縁 無 き よ り ︹ 思 ︺ 生 ぜ ざ る な り 。 ︶ この中、前半の﹁於見聞覚知法中﹂は在縁を示し、後半の﹁心有浄有垢﹂が在心を示している。 ひき続いて、これは 次のように釈されている。 ︿ 釈 ﹀ 如 レ 是 業 有 一 一 因 縁 − 生 無 コ 因 縁 一 不 レ 生 思 有 − 一 因 縁 一 生 無 ニ 因 縁 一 不 レ 生 因 此
星
警
則 #
,L, 門主
主
@
業
思者但意業 思是 真業 身 口 業 為 レ 思 故 名 為 レ 業 是 三 業 困 = 四 種 法 若 見 若 聞 若 覚 若 知 一 ︵ 是 く の 如 く 、 業 は 因 縁 有 れ ば 生 じ 、 因 縁 無 け れ ば 生 ぜ ざ る な り 。 思 は 因 縁 有 れ ば 生 じ 、 因 縁 無 け れ ば 生 ぜ ざ る な り 。 業 と は 身 口 業 な り 。 思 と は 但 だ 意 業 な り 。 思 は 是 れ 真 の 業 な り 。 身 口 業 は ︹ 真 の 業 た る ︺ 思 の 為 の 故 に 名 づ け て 業 と な す な り 。 是 の 三 業 は 四 種 の 法 、 ︹ 即 ち ︺ 若 し く は 見 、 若 し く は 関 、 若 し く は 覚 、 若 し く は 知 に 因 る 。 此 の 四 種 に 因 り て 則 ち 、 心 生 ず れ ば な り J これによれば、業は因縁ハ因・所縁︶によって生じ、思も因縁︵因・所縁︶によって生じる。 こ の う ち 、 業とは身業 口業であり、思とは意業であるが、真の業は思であり、身業・口業は、それの生起するもとになっている思が業であ る辺より、業と称されるのである。そして、 心、すなわち思は所見・所聞・所覚・所知の四法によって生じるので、 身業・口業も所見・所聞・所覚・所知の四法によって生じる。このなか、所見・所開・所覚・所知は、 心にとっては 所縁であるから、業も所縁によって生じるといえる。これ、所縁←思←身口業と図式化することができ、 また、それ ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 面 背 景 を所縁←身口業と簡略化することも可能になる。したがって、身口意の三業は所見などの四種の法、すなわち所縁に よって生じるのである。この場合、眼識などの所縁である色などの六境を所縁にする、と説かないで、見聞覚知の四 法と説くのは、随念分別・計度分別などの記憶・判断の作用をもっ第六識、すなわち思に対する所縁の意味を示すた めであろうか。したがって、前所引の文中の﹁因縁﹂を因・所縁の意味に解することができる。
l
l
業 の 生 起 に は 、 所縁のみでなく、諸国が必要であるから、閣が含まれることは勿論である。もっとも広義に解すれば、所縁も因であ る か ら 、 ﹁ 因 縁 ﹂ を 因 ︵z z γ
所 縁 ハ 包 囲 日Z
E
︶に解さないで、因縁︵r
Z
E
官 民 吉 宮 ﹀ と 解 す る こ と も 可 能 で あ る 。 し かし、今は所縁を明示することが必要であるから、因・所縁と解するのが妥当であろう。||心が所縁によって生じ る、即ち有所縁であることは﹃倶舎論﹄根品第三十四煩などにも説かれており、心が何らかの所縁を持つことは仏教 一般の考え方である。したがって、そういう有所縁の心、すなわち、思によって三業が起こされる、という点からみ れば、業が所縁によって生起するということは、当然の帰結としていいうる。このことは、更に次のようにも言い換 え ら れ て い る 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 七 十 五 、 釈 夢 中 入 三 昧 品 、 ︿ 経 ﹀ 取 レ 相 故 有 レ 縁 業 生 、 子 一 従 レ 無 レ 縁 生 ↓ 取 レ 相 故 有 レ 縁 思 生 、 不 自 一 従 レ 無 レ 縁 勾 4 ︵ 相 を 取 る が 故 に ︹ 所 ︺ 縁 有 れ ば 業 生 じ 、 ︹ 所 ︺ 縁 無 き よ り ︹ 業 ︺ 生 ぜ ず 。 相 を 取 る が 故 に ︹ 所 ︺ 縁 有 る よ り 恩 生 じ 、 ︹ 所 ︺ 縁 無 き よ り ︹ 恩 ︺ 生 ぜ ざ る な り 。 ﹀ 取 〈 弘 釈 11:l V襲
撃
宅@墜
空 遠 離 相 而 凡 夫 取 レ 相 有 ユ 因 縁 − 故 業 生 若 不 レ 取 レ 相 無 − 一 因 縁 − 則 不 レ 生 是 故 一 切 業 皆 従 = ︵ 諸 法 は 空 に し て 相 を 遠 離 す と 雌 も 、 而 も 凡 夫 は 相 を 取 り 、 因 縁 有 る が 故 に 業 生 ず 。 若 し 相 を 取 ら ず 因 縁 無 け れ ば 、 則 ち 生 ぜ ず 。 是 の 故 に 、 一 切 の 業 は 皆 、 相 を 取 り て 因 縁 よ り 生 ず る な り Jここでは、相を取る、すなわち対象を把握すると明言されている。この﹁相﹂は、 ま さ し く 所 縁 に 他 な ら な い 。 また、前掲︵一二頁︶の経文﹁心有浄有垢﹂は次のように釈されている。 ﹁ 大 智 度 論 ﹄ 巻 七 五 、 釈 夢 中 入 三 昧 品 、 @ ︿ 釈 ﹀ 是 心 随 一 一 因 縁 一 生 、 或 浄 或 不 浄 。 不 浄 罪 業 、 浄 福 業 。 ︵ 是 の 心 は 因 縁 に 随 っ て 生 ず 、 或 い は 浄 、 或 い は 不 浄 な り 。 不 浄 ︹ 心 に よ る ︺ は 罪 業 な り 。 浄 ︹ 心 に よ る ︺ は 福 業 な り 。 ︶ と釈している。これは浄心・不浄心によって福業・罪業の別が生じる、 と説いているから、これは在心に相当する。 このように、業は所縁によって生起するから、業の軽重は所縁によって左右される、というのが在縁である。 前述ハ一七頁︶した如く、阿毘達磨仏教などでも、業の軽重は﹁田﹂によって左右されると説くが、いずれかと言え tま ﹁田﹂は心を離れた外的のものである。それを心に密着した所縁によって左右されると説くところに、称名・念 仏という内観の世界が窺われ、在縁の特色がよくでている。 回ι
.
J、
在
決
定
在決定は次のように説かれている。造罪人は、最終的な決断をせず、 一途にそれに向かわず、途中で放棄するよう な心によって罪業をなすが、具足十念者は、最終的に決断し、他を振り向かずそれに傾注し、 ひたすらそれのみを不 断に続けるという心によって十念する。このような、決断する心の在り方、これを問うのが在決定である。 これは、前掲三六頁︶の﹃瑞伽論﹄巻九十の文では、 ﹁ 加 行 ﹂ に 相 当 す る 。 ま た 、 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 二 十 四 、 初 品 十 力 釈 、 是 心 雄 二 時 頃 少 − 一 同 心 力 猛 利 。 如 レ 火 如 レ 毒 難 レ 少 能 成 一 一 大 事 ↓ 是 垂 レ 死 時 心 決 定 猛 健 故 、 勝 一 一 百 歳 行 力 吋 是 後 心 名 為 ニ ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 二 四 @ 大 心 ﹁ 以 下 捨 − 一 身 及 諸 根 一 事 急 ム 故 。 な ん な と 騰 も 能 く 大 事 を 成 す 。 是 の 死 に 垂 む と す る 時 の 心 は 、 決 定 し て 猛 健 な る が 故 に 、 百 歳 の 行 力 に 勝 る 。 是 の 後 心 を 名 づ け て 大 心 ︵ 是 の ︹ 死 に 臨 む 時 の ︺ 心 は 時 頃 、 少 し と 難 も 心 力 猛 利 な り 。 火 の 如 く 、 毒 の 如 く 、 少 し と 為 す 、 身 、 及 び 諸 根 を 捨 つ る 事 、 急 な る を 以 つ て の 故 な り 。 ︶ と説かれるなかの、臨終時の心の在り方は、在決定に相当する。ここでは、臨終時の心が、 それ以前になした終身の 行力に勝ることが示されている。それは、火や毒の如くわずかであっても、威力は絶大である。あたかも、血まなこ になり、汗水たらし長年月をかけて累々と築きあげた宮殿が、 たばこの火のような細火がもとで灰撞に帰し、 ま さ に 、 九仰の功を一貨に酷くが如きさまを呈する。そういう火の威力を、この火轍は示している。臨終時の心は、終身、燃 やし続けた蟻烈な煩悩の炎を、 たちどころに鎮静させるほどの威力をもち、悪業の報いを転化させ、往生浄土への道 を 聞 く の で あ る 。 また、前掲︵一五頁︶の﹃中論﹄の﹁随重市受報﹂を釈する吉蔵﹃中観論疏﹄巻八本は重業の果を先に受ける、と説 い た あ と で 、 一 生 業 無 ニ 軽 重 一 市一生業不 v受 レ 報 。 又 自 有 下 過 去 業 熟 則 受 レ 報 、 @ 従 ニ 現 行 滑 利 業 一 受 + 報 也 。 不レ周二生業一亦不
t
用 臨 終 業 ﹄ 又 自 有 下 有 ニ 臨 終 猛 利 業 受 レ 報 ︵ 臨 終 の 猛 利 の 業 は 報 を 受 く る も 、 一 生 の 業 は 報 を 受 け ざ る も の 有 り 。 又 、 自 ら 過 去 の 業 は 熱 し て 別 ち 報 を 受 く る も 、 一 生 の 業 を 用 ひ ず 、 亦 、 臨 終 の 業 を 用 ひ ざ る も の 有 り 。 又 、 一 生 の 業 に は 、 軽 重 無 く し て 、 現 行 す る 滑 利 の 業 に 従 っ て 報 を 受 く る も の 有 る 也 。 ︶ と説いている。この﹁臨終猛利業受報﹂は在決定の事実を示している。総じて、この疏は、 一応は﹁随重前受報﹂と しながらも、様々な受報の仕方があり、それをひとつの型で押し通すことはできない、と説いている。 ﹃ 論 註 ﹄ の 在 決定はそのなかのひとつを受けている。このように、臨終時や信の一念にその人の総てが覆され、新たな世界が開けるということは、世俗的因果律の支配 する世界では到底、考えられない事象である。これ、それを超えた勝義的因果律の支配する世界の所論である。
七
ま と め 一一一在釈を纏めて説くのは、一ニ、所掲の﹃瑞伽論﹄巻九十の文であるが、三在の個々を散説した形で、﹃大智度論﹄ ﹃ 中 論 ﹄ ﹁ 摂 大 乗 論 ﹄ な ど も 三 在 を 説 い て い る 。 したがって﹁論註﹄のコ一在釈は、中観・瑞伽、両派に基盤を置き、そ れらを踏まえて論を進めている、と言える。そして、三在釈では、世俗的因果律を重視し、それに沿いながら、最終 的にはそれを超えた世界が展開される、という手法が用いられている。 前所引っδ
頁 ︶ の ﹃ 摂 大 乗 論 釈 ﹄ 巻 十 二 に 、 正法を聞くことによって無分別智に対する信楽が生じ、この信楽によって四悪業が破壊される、 と説かれるが如き世 界 で あ る 。 いかなるものをも切断破壊する金剛剣が存在するのに、それを信じられず、 五十歩百歩の相違しかないも のに拘泥し、それのみに頼っている。このゴ一在釈は、そういう凡夫の愚を誠め、それの非を諒々と理論的に示してい る、そのように思えてならない。 ︵ 昭 和 五 十 七 年 九 月 十 二 日 ︶ ︵ 龍 谷 大 学 ﹀ ② ① 註 ﹃ 論 註 ﹄ 巻 上 、 真 聖 全 一 ・ 一 一 一O
九 J 一 一 一 一O
。 ﹃ 十 議 開 業 道 経 ﹄ 一 巻 、 大 正 一 五 ・ 一 五 七t
一 五 九 中 。 宣 明 ﹃ 往 生 論 註 問 書 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 聞 書 ﹄ ︶ 巻 四 、 真 全 書 一 一 ・ 一 五 八 。 恵 然 ﹃ 浄 土 論 註 顕 深 義 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 顕 深 義 ﹄ ︶ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 四 。 慧 雲 ﹃ 往 生 論 註 服 宗 記 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 服 宗 記 ﹄ ︶ 巻 三 、 真 全 書 一0
・ 七 六 上 、 深 励 ﹃ 浄 土 論 註 講 義 ﹄ 巻 六 ︵ 以 下 ﹃ 講 義 ﹄ ︶ ︵ 法 蔵 館 、 昭 和 四 九 年 ﹀ ゴ 一 五 七 頁 下 。 ﹃ 十 不 善 業 道 経 ﹄ 一 巻 、 大 正 一 七 ・ 四 五 七 下 J 四 五 八 ③ ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 二 五﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 思 想 的 背 景 ④ 上。慧雲﹃服宗記﹄巻三、真全書一
0
・ 七 六 上 。 深 励 ﹃ 講 義 ﹄ 巻 六 、 一 ニ 五 七 頁 下 。 ﹃ 蘇 婆 呼 童 子 諸 問 経 ﹄ 巻 上 、 大 正 一 八 、 七 二 一 中l
下 。 慧 琳 ﹃ 浄 土 論 註 顕 深 義 伊 麓 紗 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 伊 蕎 紗 ﹄ ︶ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 四 下 。 ﹃ 惟 日 雑 難 経 ﹄ 大 正 一 七 ・ 六O
五 上 。 慧 雲 ﹃ 服 宗 記 ﹄ 巻 三 、 真 全 書 一0
・七六上。深励﹃講義﹄巻六、三五七 下 。 ﹃ 道 地 経 ﹄ 大 正 一 五 ・ 一 二 三 一 一 中 。 慧 雲 ﹃ 服 宗 記 ﹄ 巻 三 、 真 全 書 一0
・ 七 六 上 。 深 励 ﹃ 講 義 ﹄ 巻 六 、 コ 一 五 七 頁 下 。 ﹃ 中 論 ﹄ 巻 三 、 観 業 品 、 大 正 三0
・ 二 二 下 。 慧 雲 ﹃ 服 宗 記 ﹄ 巻 三 、 真 全 書 一0
・ 七 六 上 。 深 励 ﹃ 講 義 ﹄ 巻 六 、 三 五 七 頁 下 。 宣 明 ﹃ 聞 書 ﹄ 巻 四 、 真 全 書 一 一 、 一 五 八 J 一 五 九 。 恵 然 ﹃ 顕 深 義 ﹄ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 回 。 慧 琳 ﹃ 伊 嵩 紗 ﹄ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 四 。 慧 雲 ﹃ 服 宗 記 ﹄ 巻 三 、 真 全 書 一0
・ 七 六 上 。 ﹃ 観 経 ﹄ 真 聖 全 一 ・ 六 五 。 ﹃ 磁 伽 論 ﹄ 巻 九 十 、 大 正 三0
・ 八O
七 下 。 ﹃ 顕 深 義 ﹄ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 七 上 。 ﹃ 聡 伽 論 記 ﹄ 巻 二 十 三 一 上 、 ﹁ 三 由 回 故 、 謂 於 有 恩 者 父 母 等 、 若 住 正 行 者 即 四 向 、 及 正 行 果 者 即 四 果 及 仏 等 。 此 於 一 一 有 恩 一 及 以 ニ 敬 回 一 作 ニ 善 悪 業 一 ︵ 大 正 四 二 ・ 八 三 七 上 ︶ 。 ﹃ 倶 舎 論 ﹄ 巻 十 八 、 大 正 二 九 ・ 九 六 下 。 民 国 門 ・ 回 以 − N 斗 H − N N ・ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑫ ⑪ ⑬ ⑨ ⑬ ーム ノ、 ∞ ー ロ ・ ︵ プ ラ ダ ン 初 版 本 ︶ 。 ⑪﹃大智度論﹄巻七十五、犬正二五・五八八中。恵然﹃顕 深 義 ﹄ 巻 五 ・ 慧 琳 ﹃ 伊 蕎 紗 ﹄ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 七 l 四 一 八 。 真 諦 訳 ﹃ 摂 大 乗 論 釈 ﹄ 世 親 釈 巻 十 二 、 大 正 一 三 ・ 二 四 一 下 。 了 慧 ﹃ 論 註 拾 遺 抄 ﹄ 巻 中 、 浄 全 書 一 ・ 六 一 一 一 九 上 。 賢 洲 ﹃ 浄 土 論 註 研 機 紗 ﹄ 巻 下 、 続 浄 全 書 二 ・ 四 九 九 。 ﹃ 首 楊 厳 三 味 経 ﹄ 巻 上 、 大 正 一 五 ・ 六 一 二 一 ニ 中 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 五 十 九 、 大 正 二 五 ・ 四 八 一 上 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 六 十 、 大 正 二 五 ・ 四 八 五 下 。 恵 然 ﹃ 顕 深 義 ﹄ 巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 九 下 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 七 十 五 、 大 正 二 五 ・ 五 八 七 下 。 ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 七 十 五 、 大 正 二 五 ・ 五 八 八 中 。 恵 然 ﹃ 顕 深義﹄巻五、真大系七・四一五下。慧琳﹃伊嵩紗﹄巻 五 、 真 大 系 七 ・ 四 一 六 下 。 ﹃ 倶 舎 論 ﹄ 巻 四 、 大 正 二 九 ・ 二 一 下 O K 山 内 問 Y S U N N −ω
l
∞ ・ ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 二 十 四 、 大 正 二 五 ・ 二 三 八 中 。 円 月 ﹃ 八 番問答己丑録﹄真全書一六・五五回上。了慧﹃浄土論註 拾遺抄﹄巻中、浄全書一・六三九下 J 六 四 O 上。良栄 ﹃ 論 註 記 見 聞 ﹄ 巻 三 、 浄 全 書 一 ・ 五 一 一 一 下 。 賢 洲 ﹃ 浄 土 論註研機紗﹄巻下、続浄全童三了四九九下。深励﹃講 義 ﹄ 巻 六 、 三 六 三 頁 下 J 一 二 六 四 頁 上 。 ﹃ 中 観 論 紗 ﹄ 巻 八 木 、 大 正 四 二 ・ 二 二 中 。 ⑬ ⑬ ⑫ ⑬ @ ⑬ ② @ @道紳禅師における機の本質
||禅師の帰浄に関連して|| ぉ、 ‘
,
B E J , , ,倉;
求
;
序 かつて﹁真宗研究﹂第十二輯︿昭和四十二年十一月発行︶で諏訪義譲師が﹁道縛の帰浄について﹂論究されたことによ り、道縛の帰浄に関する疑義の歴史学的見地からの解明がなされた。道緯が実践宣布した浄土信仰の道場である石壁 山玄中寺︵永寧禅寺︶に筆者も昭和五十六年七月七日参詣する好機に恵まれ、曇驚||道綜 l|善導三祖の遺風を謹か 背日にしのび、終日筆者を感激させた玄中寺の祖庭は太原市の西南六十キロの幽寂の山寺、安定村から連逢の谷聞を ぬって入った山ふところで現在も明達住持以下七名の僧によって法灯が護られていた。 道縛の帰浄の動機を一般的には、曇鷲の行業を誌す玄中寺の碑文︵今は散失﹀を観て翻然、帰浄したと伝えられ、極 めて瞬時に帰浄したごとくそれが安易に成立したごとくに解説されることが多い。それは禅師の短絡的精神転回とも 理解される危険性を与えることになりはしないのか。思えばどうして求道そして信仰確立の一大事が少時で達せられ た の で あ ろ う か 。 道 綜 禅 師 に お け る 機 の 本 質 七道 線 禅 師 に お け る 機 の 本 質 二 八 言うなれば、曇驚の碑文は道縛の信心確立への一大視標、或は最後的決断とも言うべき役割を果たしたものと推察 したい。もっとも碑文の影響を決して軽視するものではなく、碑文を尊重する立場から、 むしろ聖浄二門判を産み出 すほどの禅師己身の修道過程において、 一体何が問題となっていたのかと言う点で、以下に考察の試みを進めるもの である。禅師の内奥の苦悶のすがたとその超克に至る歩みの一端を﹁安楽集﹂に即して考察し試論してみよう。 r, 因 みに一九八
O
年八月印刷発行 1 山西省文物工作委員会発行l
の中国文物小叢書l
丁明夷執筆の﹁玄中寺﹂の中で道縛 を ﹁ 山 西 井 州 名 僧 道 縛 、 原 精 子 ゥ 浬 襲 。 学 、 入玄中寺受到曇驚碑文的感召市修浄土宗﹂と禅師の略伝を紹介してい る リ 玄 中 寺 で 入 手 ︶ 。 禅定と六度の破綻 ﹁ 一 切 衆 生 皆 有 仏 性 。 遠 劫 以 来 応 レ 値 一 一 多 仏 ﹁ 何 園 至 レ 今 仰 自 転 一 一 廻 生 死 一 不 レ 出 ニ 火 宅 レ ﹂ の 問 い は 、 ﹃ 大 集 経 ﹄ の 五 百 年説により、今は第四の五百年に当り正しくこれ機悔し修福し仏の名号を称すべき時であると定めている。 ま た 、 一方では﹁菩提心を起すならば無始よりこのかたの三界の迷いを離れる。その功徳を廻向して菩提の果を求 め る な ら ば 、 皆よく仏果をさとって菩提心が滅びることがない﹂︵第二大門の第二と言い、 安楽集一部の総結流通の ﹁ 撰 集 流 通 徳 、 並 日 施 一 一 於 一 切 ﹁ 先 発 ニ 菩 提 心 ﹁ 同 帰 コ 向 浄 国 ﹁ 皆 共 成 一 一 仏 道 こ に 述 べ ら れ た ﹁ 皆 共 成 仏 道 ﹂ は仏教の目 的 で あ り 仏 の 理 想 で あ る 。 しかしながら道紳は﹁機類の上下を摂め﹂︵第一大門の第八﹀具体的には ﹁ 天 親 ・ 龍 樹 や そ れ よ り 上 位 の 菩 薩 も 、 共 に救われる﹂︵向上︶実践道を﹁機﹂の上に確実なものとせねばならなかった。 ところが、その実践道は﹁大乗教に説くところの真如、実相、第一義空とかと言う理を心に措いてみたことさえもあ る だ ろ う か ﹂ と 絶 望 し 、 一方の﹁小乗教については、惑を断ち迷いを去る修行に堪えうる能力を有しているだろう fl, L ﹁それどころか道俗を問わずにそれが出来るものはない﹂。また﹁五戒・十善を持ち得る者は甚だ希である﹂﹁も し起悪造罪は恰も暴風駿雨と異なることがあろうか﹂と末法劣機の悲歎が限りなく告白される。更に﹁在レ此修レ因向ニ 仏 果 − 名 為 ユ 難 行 道 こ と 難 行 道 の 理 由 を 弁 じ 、 自 力 の 相 を 指 し て ﹁ 有 レ 人 怖 一 一 畏 生 死 − 発 心 出 家 修 レ 定 発 レ 通 遊 申 四 天 下 主 ﹂ と説明し、主として禅定を自力の実践と道縛は見ている。 ︵ 第 三 大 門 第 一 ﹀ 禅 定 に つ い て は 、 ︵第四大門第二の六に禅定・智慧や無量の願行が仏によって成就することが出来た、 と大智度論 を 引 く H 間接的︶直接的には﹁この世界の禅定﹂と ﹁かの浄土についての坐禅観法﹂とを比較し往生を勧めている ︵第五大門第二﹀。そして上記の難行道が遅い道であり仏果到達には次第階級を経ねばならぬ道理があって﹁当今の凡夫 は不定棄と名づけ、未だ火宅を出ておらない﹂、と言う︵第五大門第一﹀。更に難行は三大阿僧祇劫の問、六度などのす べての行業にみな百万の修行の難あり﹂とする。 かかる﹁禅定﹂や﹁六度﹂の行に道縛の最大の関心があったことが分かり、現にその実践者を高く尊崇している。 それは第四大門の冒頭に出す﹁中国此土の大徳の所行に依る﹂六人の大徳がそれであろう。この六大徳については古 来種々論議されているところだが、 歴史上明白な次第相承を確認立証されなくても、 共 ﹁二諦の神鏡・仏法の綱 維﹂と仰ぐべき﹁志行古今に稀な﹂大徳で、道縛自らの﹁師承﹂と仰がれた人々であろう。試みに筆者は六大徳を上 記の禅定と六度の行とに錬達した亀鑑と道縛が考えていたのではなかろうか、と思うのである。 一 方 、 道 縛 の 述 懐 に よ れ ば 、 ﹁すべてこの境界は穣れた境界であり、想いが乱れるので禅定に入り難い。たとい修 め得たとしても事定︵有漏の禅︶を得て、多くは好んでその禅定の味に執着する。又、未だ欲界の業報が顕れないよ う に 押 さ え て い る だ け で 、 色 界 無 色 界 と い う 上 の 世 界 の 寿 命 が 尽 き る と 多 く は 退 転 す る ﹂ ︵ 第 五 大 門 第 一 一 ︶ 。 ﹁ も ろ も ろ 道 縛 禅 師 に お け る 機 の 本 質 二 九
道 綜 禅 師 に お け る 機 の 本 質