田 た
士 山
厚 主
三法霜教学の特質的﹁兼学﹂的根拠伺﹁円解﹂思想
むす
びに
かえ
て
彼は江戸中期西本願寺派第四代能化︵在職︑享保幻J
寛保
1﹀
にし
て︑
初期真宗学確立期といわれる学林
能化時代の頂点に位置する著名な学匠である︒法課教学の宗学史︵真宗学史︶上での評価・位置づけについては︑明治
@ 期以来︑前回慧雲博士をはじめとする宗学大家によるあまたのが高説あり︑さらにその上に一言を加える余地のない
かのごとくであるが︑今から約二十年前︑薗田呑融氏が法宗教学の思想史的意義の再検討を促すベく次のような問題
提起をされていたことは︑近世仏教思想の見直しが要請されている現況の中で再読するとき︑なお重要な研究課題の
残されていることを示唆せしめる︒
人はしばしば能行説と所行説を簡単に対比し︑かつ本来親驚の教学の内部に内在していたもので︑それが時代
の推移とともに顕彰されたと︑
説をはじめて明確にすることができたのは︑︵換言すれば親驚教学の中にそれを発見しえたのは︶︑ いともたやすく考えがちであるが︑問題はしかく簡単ではない︒法震が法体大行
かれの天台や
華厳ないしは仁斎の古学などにも及ぶ広汎な諸学探究の結果にほかならぬ︒かれの法体大行説のみをとり上げて
高い 評価 を下 だし なが ら︑
一方ではその原因をなした諸学研究の必然の成果ともいうべき対鳳揮論争の片言双句
をあげて︑聖浄混消の過失をつくようなことは︑正しい思想史的考察とはいいがたいであろう︒これを要するに
③ 法案の対外論争と宗学思想には不可分の内的関連があったといわねばならぬ︒
法案の広汎な諸学探究の学識に鑑み︑従来よりの宗学史的評価に対する鋭い批判と︑広く近世思想史上での位置づけ
の必要性を提起されたものと受け取れる︒そして︑薗田氏自らも法案教学への考察を深められ︑
﹁知 空以 来の 能行 説
で固められた学林の中へ︑絢欄たる学識をふりかざして宗学に新傾向を吹込んだ法震のデビューぶりは︑まことに華
やかなものであった︒そのかげには伝統派からの根強い抵抗があったにもかかわらず︑少くともかれの生存中には︑
めだった反対は起らず︑学林の内外は法震の所行説によって風擁されてしまった︒真宗教学は僅々二十年程の聞に︑
③ 能行説から所行説へと百八十度の転換をとげたのである﹂と︑結論づけられた︒ところで問題は︑言われるところの
所行説への学説転換が︑思想史的には如何なる学文的背景のもとに行なわれ︑かっそれが如何なる意義を持つのかと
いう点にあると思われるが︑薗田氏は﹁法案の本派学事史上に果した役割は︑近世的展開を教学の上に実現したこと
⑤
︑
に求められなくてはならない﹂と展望されるのみで︑﹁近世的展開﹂の内実については言及されないままとなってい
法宗 教学 の思 想史 的意 義
五五
法案
教学
の思
想史
的意
義
五六
る
。
近年︑近世仏教思想を近世思想史上に位置づけ︑とくに幕藩制イデオロギーとしての仏教思想の歴史的位置を跡付
けんとする試みが盛んである︒なかでも︑幕藩制国家のイデオロギーとしての自己形成をめざした主体的・能動的な
思想だったという意味において﹁幕藩制仏教﹂と促え︑かつ中世仏教思想史との連続性の中で近世仏教の全体像を構
築せんとして︑目下︑精力的な仕事をしておられるのが大桑斉氏である︒大桑氏は︑言われるところの﹁幕藩制仏教
﹁法震の教学は真宗を大乗仏教に解消す
@ るのではなく︑逆に真宗教学としての自律性において大乗仏教を包摂せんとする﹂ものであったとし︑その際﹁華厳
@ 的思惟を普遍的なものとして前提としつつ︑個別的自律性の確立をめざし﹂︑もって﹁幕藩制仏教を形成﹂する一翼を の形成﹂という視野の中で他宗派の仏者とともに法案思想にも言及せられ︑
荷なったとされる︒ところで︑大桑氏においては︑﹁幕藩制仏教﹂の基本的思惟として仏者の思想に規定性を与えた
のが︑唯心浄土・己心弥陀という民衆に内在する﹁﹃心﹄の自律性﹂であったとされ︑この基本的思惟をもって﹁幕藩
制仏教﹂を成り立たしめる論拠とされるが︑民は近世仏教を﹁幕藩制仏教﹂として位置づけることに性急なあまり︑
﹁﹃心﹄の自律性﹂なる概念を固定的・非歴史的概念に陥れてしまった嫌いなしとしない︒法課教学の形式においても︑
法震のめざす真宗の﹁自律性﹂を︑当代諸思想の中でどのように位置づけ︑かつまた言われるところの民衆の心に内
在する﹁自律性﹂をどのように取り込むことによって教学形成に向ったのか︑そうした問題については一向に明らか
では ない とい えよ う︒
本稿では︑以上のような研究状況を念頭に置きつつ︑法震教学の近世思想史上での位置を確定するための端緒とし
て ︑
﹃日
渓三
書﹄
︵以
下︑
﹃三 書﹄ と略 称す
﹀を 取り 上げ る︒ 周知 のよ うに
︑
﹃一
ニ書
﹄と
は﹁
学則
﹂﹁
独語
﹂
﹁鳥
語﹂
を 合綴 した もの で︑ 数多 い法 震の 著述 の中 で︑
後世まで最も愛読されたこともあって︑
宗派 内で は余 りに も著 名で
︑
﹁学則﹂にいたっては現在ひろく利用されている﹃僧侶必携﹄にもその一部が資料として掲載されているほどである︒
いま改めて素材として取り上げること自体に問題性を感じられる向きもあるかもしれないが︑法震が﹃コ歪百﹄を述作 するに至った動機や︑そこに断片的ながら散在する法案教学の片鱗を窺うとき︑
われわれは﹃三書﹄を通じて法案教 学の思想的課題や特質がいかなるところに所在するのか︑その手懸りを得ることができるであろう︒ところが︑
E司
書﹄の著名などにはその思想史的重要性が見過され︑従って未だ正当な位置づけもなされていないのであり︑ここに 敢えて取り上げる所以である︒
﹃日渓三書﹄解題
﹃三
書﹄
とは
︑
﹁学
則﹂
﹁独
語﹂
﹁鳥
語﹂
を合 綴し もた ので
︑ 僧銘
︵僧 僕門 人︑ 法震 孫弟 子︶ 後の 序を 附し て安 永九 年京都銭屋・丁字屋から刊行されたが︑この﹃日渓三書﹄こそ法案の数多くの著述の中で︑後世まで最も広く愛読さ れたものである︒以下︑内容の性格上︑
学﹁ 則﹂ と﹁ 独語
﹂・
﹁鳥 語﹂ に分 けて 若干 解の 題的 検討 を加 えて みよ う︒
﹁学
則﹂
の成
稿は
︑
﹁学則﹂末尾門人南麟践によると﹁享保十五康成季夏﹂とあるから︑
一七
三
O
︵享
保日
﹀年
︑法
震三十八歳の時と考えられる︒この時期の法案は︑能化若震の後継者としての信任あつく︑学林きつての俊英として 重きをなし︑代表作の一っと考えられる﹃阿弥陀経聖浄決﹄二巻をまとめたのは︑
﹁学 則﹂ 成る 前年
︵享 保
H︶
のこ
と
であ
った
︒
﹁学則﹂の出典については法霧自らは明かにしていないが︑注釈書によれば︑唐の﹃管子﹄弟子職篇に﹁学則﹂の 二字が見えることに拠るという︒しかし︑例えば僧錯著﹃日渓学則聞信紗﹄にしばしば登場してくるように︑享保十 二年刊の﹃但係先生学則﹄に触発されての述作であったことを窺わしめる︒井上哲雄著﹃真宗本派学僧逸伝﹄﹁法霧﹂
法宗
教学
の思
想史
的意
義
五七
法案
教学
の思
想史
的意
義
五/¥
の項
によ
れば
︑
﹁日渓学則の著作に至っては機軸を但徳学則に取ると難も︑宗侶之に由て始めて学問の用心を知る﹂
とある︒但し︑それが学問方法・思惟様式においていかなる影響を受けたのかについては︑今後さらなる検討を必要
とし
よう
︒
とこ
ろで
︑
﹁学則﹂は法諜門下の学侶を対象にして示された真宗学徒の学問規則だが︑門弟達にどのように位置づ
けられていたのだろうか︒僧錯の﹃日渓学則聞信紗﹄に︑
ノ如
ク︑
余リト云へトモ五百年来︑吾宗ニ於テ学文ノ事ヲ大キニ教ヘタルハ是カ始ナリ︒古来学文ノ事ヲ云ニ付テハ今
カナ殉キシカト手本エ定メテナケレトモ︑西吟師講堂建立ノ序︑或ハ恵空師ノ叢林業︑近頃恵然師ノ和字ノ学則
アリ︑此等ノ短章長文︑或ハ漢語和語ニテ伝ルコト幾計アレトモ︑或ハ不具或ハ大器量ヲ育ルニ共道狭シ︒
f「
中
略﹀古来今コレヨリ外ニナシ︑此云へハ六十余州此学則ニ離レテ外ニ学文ノ手ヨリハナキヤウナリ︒宿植善根ノ
人ハ各別吾党ノ学則ニテ実ニ天下ノ祖宗門下ノ学則ナリ︒余レトモ卑謙シテ日渓学則ト云︑担保学ハ儒者ノコト
ナレ
ハ︑
至日
/\ テ父 母ヲ 顕ス
︑
コレカ彼家ノ要ナリ︑今ノ学則ハ日渓師如実修行ヨリ出ルナレハ︑
一挙 百話 ノ 金言 探グ 信ス ヘシ
︒
︵ 一
1二
丁 ﹀
とある︒法震門下に連なる注釈書ゆえ珊か誇張もあろうが︑学林教学の本格的な手引書であったことがわかる︒
﹁学 則﹂ は広 汎な 学識
を踏
まえ
︑
かつ﹁学則﹂にふさわしく簡明にまとめられているために︑注釈なしには読みこ
なす こと が難 しい
︒
一つにはそのためか︑異例に多くの注釈書が書かれている︒刊本としては泰運著﹃日渓学則解﹄
一巻
︿明 和八 年刊
︑平 安一 書林
︑龍 谷大 学図 書館 蔵︶ があ り︑ 写本 とし ては 玄珠 著﹃ 日渓 学則 考証
﹄一 一巻 一冊
︵嘉 永三 年︑ 龍谷 大学 図書 館蔵
︶︑ 僧舘 著﹃ 日渓 学則 聞信 紗﹄ 二巻 二冊
︵宝 暦二 年︑ 龍谷 大学 図書
館蔵
︶︑ 鳳令 者﹃ 日渓 学則 和解
﹄
一巻
︵明
和 元年
︑龍 谷大 学図 書館 蔵﹀ があ る︒ さら に未 見写
本に
覚了 著﹃ 日渓 学則 科文
﹄
一 冊 ︑
仰誓著﹃日渓学則委筆﹄一冊︑僧