レ ー 「
路=由。 道
白,、」
者 を 則チ釈
是ν し
六 て
度万
行 定 散 也
﹃愚
禿紗
﹄
−
7﹂ 令4匹 ︑
tt ν
チ ノ
⑮
斯則
自力
小善
路也
︒
と言
われ
︑白
道と
は︑
貧損
煩悩
の中
にあ
り︑
自ら
決断
し︑
釈迦の勧める声︵教法︶を聞いて西に向うが︑︑
52
4U
L4 dふ れ口 刀
解・別行・悪見の疑惑から脱出できない︑凡夫の自力の道であることをあらわされている︒
一方
聖人
は
﹃教
行証
文
類﹄
にお
いて
は︑
真如︑二河警喰中︑一言ニ白道四五寸一者︑白道者︑白之言対レ黒也︒白者即是選択摂取之白業︑往相回向之浄業也︒
黒者即是元明煩悩之里山業︑二乗・人・天之雑善也︒道之言対レ路︒道者則是本願一実之直道︑大般浬喋売上之
@
大道也︒路者則是二乗・三乗万善諸行之小路也︒
と
﹃愚禿紗﹄の釈とは反対の釈をしておられる︒この釈の中の白道は︑阿弥陀如来の︑必ず凡夫がこの道を来るこ とを信じて建立された本願の道である︒
白道に対して︑このような二つの︑相対する釈を聖人がなされたことは︑経典によって釈迦の教えを聞き︑自力の 願生心を発起はしたが︑自力であるがゆえにいまだ疑問を捨てきれずに行きつもどりつしながら歩んでいる凡夫の道 が︑実は弥陀の本願力廻向の大道であることをあらわそうという意図があったからだと考えられよう︒自力の願生心 によって浄土を求める凡夫の︑その行の究極において阿弥陀如来の招喚の声を聞くとき︑そこに聞かれるのが信心で あろう︒星野元豊博士は﹁凡夫は相対的対応関係において欲求的に専心に阿弥陀仏を念ずる︒それは個としてますま す個的になることである︒研ぎすました個の極限︑個の尖端において私は阿弥陀仏に触れるのである︒阿弥陀仏は法 性法身の否定的自己限定として個的に尖鋭化されて私一人に向う︒その尖端と私の願生心の尖端の触れ合った一点こ そ︑天親の一心である︒信楽開発の一念であ旬︒﹂と言われる︒
それによって疑惑を抱いた苦難の道が
実は弥陀の
本願一実の直道であったこと︑すなわち︑自己がすでに如来に包まれていた︑あらしめられていたことが知らされる ので あろ う︒ まさ しく
︑
﹁極 速円
融之
白道
﹂で ある
︒
また
︑
﹁白 道四
五寸
﹂の
﹁四 五寸
﹂に
つい て︑
﹃教行証文類﹄には︑白道が本願の大道であることを示された後︑
その広さが﹁四五寸﹂といわれることに対し︑
ト ハ フ ル ノ ユ
⑮
言ニ
四五
寸一
者︑
輪一
一衆
生四
大・
五陰
一也
︒ 真宗 にお ける
信の
問題
八五
真宗
にお
ける
信の
問題
八六
と釈されている︒また﹃愚禿紗﹄には︑それが﹁四大毒蛇︑五陰悪獣﹂であるという説明がなされてい旬︒四大・五
陰は凡夫の身体と心のはたらきのすべてをあらわすものと考えられ︑また毒蛇・悪獣の語が付加されていることによ
り︑それが悪性・虚仮不実のものであることを示されているのであろう︒すなわち︑本来限定され得ない本願の白道
が四五寸と限定されていることにより︑それが同時に︑凡夫の歩む自力の道でもあること︑換言すれば︑凡夫の煩悩
心より歩み出した道が︑本願の大道と不二であることを再確認できる︒このことが獲信において真にわかるとすれば︑
獲信とは︑私は煩悩蟻盛のこのままが仏に包まれ︑あらしめられているとの自覚であると言えるであろう︒
星野元豊博士は﹁回心とは直線的関係において対応的にある仏と私との対応関係の極︑それが逆転回して仏と私と
が円環的包摂的関係にあるという事態である︒直線的対応関係は私と方便法身との対応関係として私と仏との非本来
的関係である︒それに対して︑仏と私とが円環的包摂関係にあるということが︑仏と私との本来的関係である︒従っ
て回心とは︑非本来的関係が本来的関係にたちかえることにほかならな刊︒﹂と言われる︒二河の署職とそれに対す
る聖人の釈より伺えることがこの説明によくあらわされていると思う︒
五
獲信によって煩悩が断ぜられるのではないことは﹃正信備﹄の中の次の句に明らかである︒ν
タ −
Yフ ス デ 晶
︐ 異 色
F
摂 取 心 光 常 照 護 己 能 雄 レ 破
= 克 明 闇 一
常覆
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雲 霧 之 下 明 無
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下 ν愛R,曽
長
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κ二,~士雲
t
霧雲霧畠
如来に摂取され︑無明は彼られているのに︑煩悩蛾盛の現実は依然として存在しているという︒煩悩があるというこ
とは︑自我がそのまま保存されているということである︒それは私が主体性をあらわにしている状態である︒如来の 私へのはたらきかけは︑この主体性へのはたらきかけであると言えるであろう︒それによって︑主体的に自ら行う選 択や決断は︑実には如来の力をその根底に有し︑それにささえられている︒換言すれば︑私の主体性は如来にささえ られた主体性であること︑如来あっての私の主体性であるということが明らかになった状態︑それが煩悩のあるまま で無明の聞が破せられた状態︑署長霧の下に閣のない状態であると言えるであろう︒そこには︑これまでの私の主体性 がいかに仏に背いたものであったかの自覚があり︑煩悩を燃やしたままの身で︑真に主体的に生きる道が知らされる︒
﹁南 王阿 弥陀 仏﹂ の力 であ
る︒
ここにおける私の主体的な決断は︑
ただ念仏に生きるということ以外にはないであろう︒如来にささえられている にもかかわらず︑これまではわざわざそれをふり払って生きてきた︒
しかしそれでもなお如来の光明は私を抱かずに はおかなかった︒このことに気がつくとき︑私の主体性は念仏に生きること以外の選択は決してできないであろう︒
ここに不可思議なる主体の自覚があり︑私の主体性はその中に融即される︒そこに信心があるのであろう︒
. . . . . .
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、
凡夫に発起する信心は︑凡夫の主体的な決断であるという点においては相対的・時間的である︒と同時にまた︑最 初に見たようにそれは如来の心であると言われる︒このことは﹃唯信紗文意﹄の次の文にはっきりと示されている︒
﹁浬繋おば滅度といふ︑エん為といふ︑安楽といふ︑常楽といふ︑実相といふ︑法身といふ︑法性といふ︑真如と
い ふ
︑ 一如といふ︑仏性といふ︑仏性すなはち如来なり︒この如来徴塵世界にみちノ\たまへり︒すなわち一切 群生海の心なり︑この心に誓願を信楽するがゆへに︑この信心すなわち仏性なり︑仏性すなわち法性なり︑法性 真宗 にお ける 信の
問題
/¥ 七
真宗
にお
ける
の信
問題
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}\
@
すな わち 法身 なり
︒﹂ 仏性リ如来即一切群生海の心であり︑この心に信心が起こるのであるから︑信心は仏性であり︑法性であり︑法身で あると言われる︒如来の心即凡夫の信︑凡夫の信即如来の心であることが示されている︒では︑信心獲得の凡夫は直 ちに如来であるのか︒聖人は次のように続けられる︒
﹁法
身は
いろ
もな
し︑
かた もち まし まさ ず︑
@
しか れば こ
Lろ
もお よば れず とこ ばも たへ たり
︒﹂ 法身は凡夫の思惟分別のとどかない超越であると言われるのである︒すなわち︑如来の心即凡夫の信︑凡夫の信即如 来の心であると同時に︑如来は凡夫を超越しているということである︒信心が仏性であり︑仏性は如来であるならば︑
獲信の凡夫は直ちに如来であると考えるのが普通であるが︑聖人はそうは言われない︒
﹁この信心すなわち仏性なり︑すなわち如来なり︒この信心をうるを慶喜といふなり︑慶喜するひとは諸仏とひ
@
とし きひ とと なづ く︒
﹂ と﹃ 信唯 紗文 意﹄ に言 われ
︑ また
﹃浄 土和 讃﹄ に︑
﹁信 心よ ろこ ぶそ のひ とを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり
@
仏性 すな はち 如来 なり
﹂ とう たわ れて いる よう に︑
﹁諸
仏と
ひと
し﹂
﹁如 来と ひと し﹂ と言 れわ るの であ る︒
﹁如 来と ひと し﹂ につ いて
﹃末 燈紗
﹄に は︑
﹁浄土の真実信心の人は︑この身こそあさましき不浄造悪の身なれども︑心はすでに如来とひとしければ︑如来とひ
@ としとまふすこともあるべしとしらせたまへ︒﹂
と述べられている︒すなわち︑如来にあってはすべてが無差別・平等一味であるものが︑凡夫にあっては煩悩のゆえ
に如来と即一と言うわけにはいかないということであろう︒すなわち︑
ては如来即凡夫︑凡夫即如来として成り立っているということであろう︒ ﹁如来とひとし﹂ということが︑如来におい
如来とひとしい人は正定衰のくらいに住する人である︒その人が如来においては売上大浬擦にいたった人というこ
とに なる ので あろ う︒
まさしく不可思議である︒そして不可思議の光明に摂め取られ︑あらしめられているのが凡夫である︒信心とは︑
この事実がわかることであろう︒
信心と往生・成仏︑それに関する時の問題等︑論究すべき点は多い︒これらについては︑他日発表させていただき
たいと思う︒
③ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 註
﹃真
宗聖
教全
書﹄
二︑
一五
七頁
同 右 四 七 頁 同 右 四 八 頁 同 右 四 八 頁 同 右 四 七 頁 同 右 四 八 頁 同 右 四 八 頁 同 右 五
O二
頁
真宗
にお
ける
信の
問題
︵高
田学
会﹀
⑫ ⑬ ⑬ ⑭ ⑬ ⑫ ⑪ ⑬ ⑨
﹃真
宗聖
教全
書﹄
二︑
六一
八頁
同 右 五 九 頁 同 右 六 二 頁 同 右 六 八 頁 同 右 五
O頁
同 右 五 三 頁 同 右 一
︑ 四 六 頁 同 右 二
︑ 四 四 頁 同 右 四 九 四 頁
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九