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︵ 統 ︶

ドキュメント内 真宗研究27号全 (ページ 48-60)

愛 と

」色、

I[4

佐 さ

々 さ

木 き 乾 1

愛 に つ い て 現代日本で一般に考えられている愛は西洋流の愛である︒それは明治時代にゲ認を愛と訳して文学者や哲学者が 西洋思想を紹介したのに始まる︒即ち西洋文化の流入に伴って西洋文学の翻訳とキリスト教の伝導によって西洋流の 愛が流行したのである︒愛の問題は永久に結論に到達しない哲学上の問題であるが︑本論は宗教意識の基本としての 愛を論旨とするから焦点をここに置くことにする︒

先ず﹁愛と認識﹂の問題である︒認識以前に愛がなければならない︒愛しないものを識ることはできない︒神を認 識するためには先ず神を愛しなければならない︒愛という心の動きがあって︑その上でそのものを深く知ることがで きる︒愛のないところに認識は成立しない︒即ち愛とは意識の志向作用である︒従ってこの愛には善悪や美醜の価値 判断が伴わないから無記である︒ただ心の動き志向作用を愛という︒憎さへも愛の排除作用であるとする︒もし愛に 善とか美とかの価値判断が伴うならば︑その愛は極めて末端の世俗的な愛である︒文学に現われる愛はとかく甘美と

か醜悪とかの価値判断が伴っているから誤解され易い︒今道友信氏は﹁ブリタニカ百科大事典﹂の愛の項で﹁日本の

近代文化を実際的にはたした当為不在の愛は人間的に深化しなかったためである︒鴎外︑激石︑藤村︑武郎︑荷風︑

直哉︑潤一郎︑康成︑由起夫等日本文学者は夫々個性のある才人たちも愛に関する形市上学をもたず︑愛を大地と血

潮への本能的傾斜にゆだねる︒そこには祈り︑機悔に裏打された意志的知性的な愛の形成への志向はない︒愛は課題

なるが故に﹁汝等相愛すベし﹂と神の提としてあるという西欧の基本線を理解しなくては執着と愛の差別は認識でき

ない︒愛を単に心理的な感情の起伏に閉じこめた因習による︒せいぜい愛国心と民族愛位しか至り得ず︑真の人類愛

は考えられなかった︒核家族への帰巣本能の形式で隣人や親族への無関心のうちにエゴイズムに転落する︒公徳心の

欠如もこの辺に由来する︒本能に落ちかけた愛が理念に復位する暁を呼び戻さねばならない︒﹂

と述

べて

いる

傾聴

に値

いす

る︒

仏教では︑愛は愛欲煩悩を意味するから仏教思想が支配していた日本古代より江戸時代までに作られた恋愛文学で

は愛 の字 は疎 遠し て使 用せ ず専 ら念 であ った

F S

を愛と訳した時点から日本の思想界に混乱をもたらしたのである︒

の二

元 性

愛はその動向機能作用に従ってエロス愛とアガペー愛とに二分される︒両者は全く相反する動向作用を示すもので

ある

エロスはプラトンが究明した愛である︒これは卑近な感能愛から出発して高度な真善美の価値を志向するところま ︒

で昇華する範囲の広い愛である︒プラトンは真善美のイデアの世界へのあこがれと追及をエロスと称した︒即ち現に

学問︑道徳︑芸術の発展はエロスの然らしめるところであって︑人聞が日夜努力しているそのことがエロスの現われ

ハ続︶愛と念

四 一 一

︵続﹀愛と念

である︒人類が発展向上する精神的原動力をエロスと言う︒向上発展を続けているその結果は現代の文明文化を生み

出し︑生活は向上したが︑科学発達の結果一方では原子爆弾を作って人類の破滅を憂慮させる事態を生じている︒

常生活は便利になったが一方では環境汚染公害問題を生ずる等の矛盾に撞着している︒これらは向上愛エロスの然ら

しめるところである︒イデアを志向し向上を続けるからである︒ついには完全者たる神や仏を志向するのもエロス愛

にほ かな らな い︒

これに対してアガペー愛がある︒隣人愛とも言われる︒キリスト教で神の愛と言われるものである︒神にそむいた

罪人︑愛される資格のない人聞を救おうとする神の無償の愛である︒隣人をも己れの如く愛し︑汝の敵をも愛する性

質のものである︒このアガペー愛は神のみのよく為し能うものであって︑利己的な人間には不可能なことである︒理

念として存在する︒完全な遂行はできなくても一歩でも近づくように努力することが要請せられるのである︒

以上二つの愛即ち神へ向う向上愛と神より発する降下愛とが原則的に強調せられるのでキリスト教が愛の宗教と言

われるゆえんである︒仏教で菩薩道の上求菩提︑下化衆生が言われるのに似ている︒この愛の二元性は仏教では如何

様に考えられているかを七高僧について考察しよう︒

念 の 二 元 性

(ー)

龍樹︵一五Ol

二五

O︶は易行品の中で﹁仏法に無量の門あり︑世間の道に難あり易あり︑陸道の歩行は則ち苦しく

水道の乗船は則ち楽しきが如し︒菩薩の道も亦是の如し或は勤行精進もあり或は信方便の易行を以て疾く阿惟越致地

に至る者あり:::若し菩薩此の身において阿惟越致地に至ることを得て阿縛多羅コ一貌三菩提を成らんと欲はば当に是

の十方諸仏を念ずベし:::是の諸仏世尊は現に十方の清浄世界に在って皆名を称し阿弥陀仏の本願を憶念すること是

の如し︑若し人我を念じ名を称して自ら帰すれば即ち必定に入り阿蒋多羅三窺三菩提を得る︑是の故に常に憶念すベ

し:::﹂と述べている︒上代印度では十方世界に無量の諸仏の存在を認め︑これを恭敬礼拝執持名号することが一般

民衆の傾向であって︑その中でも西方浄土の阿弥陀仏が優位を占めていたことが詳しく表現されている︒

﹁若

人疾

至不退転者︑応以恭敬心執持名号﹂

﹁若 有称 名者 即得 不退 転﹂

﹁称 名一 心念 亦得 不退 転﹂

﹁人 能念 是仏 即時 入必 定﹂

等の侮句が陣所に見られる︒

菩薩は難行道を捨てて易行の信方便称名念仏によって阿惟越致地に到達することができる︒阿惟越致地は仏果菩提

への途中ではあるが不退転の位であるから菩薩も安堵する地位である︒一般民衆にとっては高速な理想よりも卑近な

現実として実証されることが望ましい︒易行ロ聞は現生不退︑現生正定棄を明快に説示したものであって親驚聖人も特

に力説される所である︒上求菩提︑向上愛︑エロスの領域である︒これは易行品の性質上止むを得ないことであるが︑

猶下化衆生︑降下愛︑アガペー愛即ち島和島が説かれている傍句がある︒次の通りである︒

﹁何況於菩提︑自度か島骨︑於此二乗人︑億倍応精進﹂

﹁乗 彼八 道船

︑能 度難 度海

︑−

F骨

恥骨 骨﹂

﹁過去世諸仏︑降伏衆魔怨︑以大智慧力︑島称朴和岳︑彼時諸衆生︑尽心皆供養︑恭敬而称揚︑是故頭面礼︒

現在十方界︑不可計諸仏︑其数過恒沙︑無量無有辺︑静勝静勲岳︑常転妙法輪︑是故我恭敬︑帰命稽首礼︒

未来世諸仏︑身色如金山︑光明無有量︑衆相自荘厳︑酌岱島和岳︑当入於浬襲︑如是諸世尊︑我今頭面礼︒﹂

等の侮句によって度衆生アガペー愛の思想を扱みとることができる︒

︵統

﹀愛

川と

四五

︿続

﹀愛 と念

四六

(ニ)

世親

︵三

01

四OO

頃︶ は﹁ 無量 寿経 優婆 提舎 願生 傷﹂ の長行の中で五念門を次のように述べている︒

﹁若

し善

男 子善女人五念門の行を修し成就すれば畢寛して安楽園土に生れ彼の阿弥陀仏を見ることを得る︒五念門とは一礼拝門︑

二讃 歎門

︑三 作願 門︑

観四

察門

︑ 五廻向門なり︒礼拝とは身業もて阿弥陀如来応正遍知を礼拝して彼国に生ぜんとの 意をなすなり︒讃歎とは口業もて彼の如来の名を讃歎称すること彼の如来の光明智相の如く彼の名義の如く如実に修 行して相応せんと欲す︒作願とは心に常に一心専念に畢寛して安楽国土に往生せんと作願して如実に著摩他を修行せ んと欲す︒観察とは智慧をもて観察し正念に彼を観じ如実に見婆舎那を修行せんと欲す︒廻向とは一切苦悩の衆生を 捨てずして心に常に作願し廻向を首として大悲心を成就することを得るなり︒﹂と述べ︑さらに礼拝︑

観察の四円を入の四門とし︑第五の廻向を出の門とする︒

讃歎

︑作 願︑

﹁菩薩は入の四門をもって自利の行成就し︑出の第五門の 廻向をもって利益他の行成就す︒害薩は是の如く五念門の行を修して自利利他して速に阿縛多羅三貌三菩提を成就す ることを得る﹂と述べている︒この五念門の思想はその後の浄土教の諸師によって種々に引用される考え方であって︑

念仏行を五段に分析解釈したことは世親の創意であり︑

インドの哲学者が現代的に言えば念仏行に現象学的解釈を施 したものである︒因にこの現象学的態度は仏教哲学ではよく使われる方法であって特に浄土教はこの態度に立脚して いると言える︒今この五念門を身口意の三業に配当して説明することは従来一般に行われている仕方であるが必ずし も厳密に墨守する必要はないと思う︒

一念三千の理の通り一念に五念門を行ずることがある︒即ち合掌黙想の中にも 念仏の心境を分析するとこの五念門になると理解したい︒五念門の中︑前四念と後一

念︵廻向︶に分類統一しているのを別の表現ですると前四念は往生浄土への向上の念であり︑第五廻向は浄土より降 こ

の五 念門 を具 し備 てい る︒

ドキュメント内 真宗研究27号全 (ページ 48-60)

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