道
教
︵
道
智
大
経
︶
について
||特に呉訳四願文との関係||西
尾
京
雄
︵ 大 谷 派 ︶四念住説に関して
初期仏教を研究するに当って、主として四諦、 一 一 一 因 縁 、 八正道を中心として研究せられてきているようで、四念 住説を注意することが少ないようである。このことは、 仏教の根本基調としてそうであるべきであろう。龍樹は四念 一実一相であるが、衆生のためなのである。 ① 倒 故 、 著 ニ 此 身 受 心 法 一 作 一 一 邪 行 づ 為 一 一 是 人 一 故 説 一 一 四 念 住 こ と い っ て い る 。 四諦で説かないのは、仏教は本来、 ﹁ 有 衆 生 多 念 乱 心 願 住 説 に つ い て 、 な お 、 古来より浄土教の経典の成立は浬繋 経と華厳経とによっているといわれている。現に、釈尊が入滅前における教説が主として四念住説であった。大無量 寿経の対告衆である阿難は特にこの説について傾倒していたようである。釈尊の教説は七科三七道品といわれる。即 ち、四念住・四正勤・四如意足・五根・五力・七菩提分・八聖道である。これ等の中、 ② 摂めることは、龍樹も﹁四念処はよく具足して道をうる。﹂といっている。 四 念 住 説 、 が 釈 尊 の 一 代 の 教 を 後 述 す る よ う に 、 余 が 一 応 か り そ め に 、 部派仏教における一部派の道教であろうと想定した雑阿含経、道口問、第三二経には﹁一切法者四念処﹂とあることに 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て道 教 ︵ 道 智 大 経 ﹀ に つ い て よって、その教説の重要性を知ることができる。親訳大無量寿経には﹁仏法において該羅して外無し﹂ @ 二七四上︶とあり、同じ思想系統に属するものであることを知る。 ︵ 大 正 ・ 一 ニ ・
道教︵道智大経︶
について想定
魂訳大無量寿経における道教と初期大無量寿経の道智大経とは同一経典を指すものであり、それについて異論はな し、。
金 子 大 栄 先 生 は 、 存 覚 の ﹁ 六 要 紗 ﹂ に ﹁ 一 言 − 一 道 教 一 者 光 指 二 代 一 益 互 乙 立 乗 乙 と 釈 せ ら れ た る が た め に 、 古 来 、 代 仏教のこととして解するものが砂くはなかった。併しいま、大無量寿経の大意を説く言葉として、道教をあらゆる仏 @ 教と解することは不適当でないであろうか﹂と疑問を提起せられておられる。 しかし、大無量寿経の前成立の経典と しての論議に触れておられない。このことは西派においても同じく伝統講義せられておられるようであ旬。この疑問 は、その浄土教の思想史的研究するものとしては、誰しも一応心に関わるものである。 ⑤ 亦、これに関心を示しておられる。又 、
最 近 で は 、 藤田博士も そこで、浄土教も仏教であるか、ぎり、忽然として発展したものと思われない。釈尊は対機説法者として、 つ ね に 、 医王に警えられるのであるから、初期仏教の如何なる教説に基礎を持つものであるかを考究したい。 魂 訳 に は 、 ハ 豆 日 現 道 教 ︵ 大 正 ・ 一 二 ・ 二 六 六 上1
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光 闇 道 教 ︵ 二 六 六 下 ︶ 、 日 広 宣 道 教 ︵ 二 七 三 下 ︶ 、 帥 宣 布 道 教 ︵ 二 七 五 中﹀等と出ていて、広宣とか宣布とか、その語感からして、特別な広い経の集録があったのではないであろうかと憶 測 せ ら れ る の で あ る 。 い ま 、 あ げ た 、 説 訳 、 日 開 の 条 下 に は仏説阿難、無量寿仏、為コ諸声聞菩薩大衆一頒宣法時、 都 集 ニ 七 宝 講 堂 ﹁ 広 出 宜 道 教 一 演 暢 妙 法 、 莫 レ 不 ニ 歓 喜 ﹁ 心 解 得 道 。 ︵ 呉 訳 、 仏 告 ニ 阿 難 一 阿 弥 陀 仏 、 為 一 一 諸 菩 薩 阿 羅 漢 一 説 レ 経 、 都 悉 大 会 講 堂 上 、 諸 菩 薩 羅 漢 及 諸 天 人 無 央 数 、 都 不 可 計 、 皆 飛 一 一 到 阿 弥 陀 仏 所 一 為 レ 仏 作 礼 、 却 坐 総 経 、 其 仏 広 説 、 道 智 大 経 、 皆 悉 関 知 、 莫 レ 不 一 一 歓 喜 ﹁ 踊 躍 心 開 解 者 、 大 正 ・ 一 一 了 三
O
七 上 、 漢 訳 二 八 七 中 、 皆 悉 関 知 の 次 に 経 道 の 語 を 加 え る ︶ と 。 又、魂訳伺の条下には 今 我 於 一 一 此 世 一 作 仏 、 演 説 経 法 、 宣 布 道 教 、 断 ニ 諸 疑 網 一 抜 一 一 愛 欲 之 本 一 杜 一 一 衆 悪 之 源 一 遊 4歩 三 界 一 無 レ 所 一 一 拘 閣 一 典 捜 智 慧 、 衆 道 要 、 執 コ 持 綱 維 一 昭 然 分 明 、 開 三 一 小 五 趣 一 度 一 一 未 度 者 ﹁ 決 正 生 死 泥 垣 之 道 ︵ 大 正 ・ 二 一 ・ 二 七 五 下 ︶ と 。 そ の 他 の 個 所 に 、 同総領道智、典主教授、世間八方上下、所レ過斗度諸天人民、 踊 飛 嬬 道 之 類 ﹁ 皆 令 レ 得 一 一 仏 泥 垣 之 道 一 ︵ 呉 訳 、 大 正O
九 上 、 漢 訳 二 九 一 上 全 同 ︶ 付典主智慧、総領教授︵呉訳、三O
九 上 、 典 主 智 慧 都 総 教 授 、 漢 訳 、 二 九 一 上 ︶ 等 と 説 か れ て 、 典 揮 ︵ 経 典 を ま と め と る ︶ と か 、 総領教授︵すべてをとりしまって教授する︶という説示が、特別な収録 の経典の意義を総括して教示しているように思わしめる。 ﹂ と に 、 道智大経の経名にしても、 普 通 で は 、 大道智経 ︵ 呂 田 ゲ 山 吉 田m
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と 山 間 口 同 a 凹E
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白︶といわるべきであろう。それで、ここでは、大経とは呂田ゲ智正宮口Z
で は な く し て 、 むしろ、衆多の経の集りを想像せしめられるのである。 これ等のことより、阿含、尼何耶の編輯に注意したことである。 雑阿含経、巻二四、第五請は、 ﹁道品﹂として、第一、第六O
五経より第六三九経︵大正・二・一七O
下 | 一 七 七 中 ︶ の三四経を数える。しかし、各経をよく数えると四O
経 が 収 め ら れ 、 ﹁ 赤 沼 目 録 ﹂ で は 、 正しく四O
経とせられてい 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て期総(惣!草 ill +<鎚) 1
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1. (No. 605. 170 下〕四念、処 2. (No. 606. 171 上〉四念処 3. (No. 607. 171 上)一乗道(如実法), S. 47. 24. Suddhaka, S. 47. 18. Brahma 参。 4. (No. 608. 171 上〉甘函法, S. 47. 41. Amata. 5. (No. 609. 171 上〉四念処集( samudaya )没( atthagama), S. 47. 42. Samudaya. 6. (No. 610. 171 中)正念・正知, S. 47. 2. Sato. 7. (一一. 171 中〉過去未来修四念処,向上。 8. (No. 611. 171 中〉菩法粟〔四念処〉,不善緊(貧欲蓋,蹟書,睡眠,梓悔,疑), S. 47. 5 Kusalarasi. 9. (No. 612. 171 下)如来説法無 ν 有二終極一,如 F 人執ニ持四種強弓ー,大力方便射ニ多羅樹影ー疾過無上レ1*1,
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20. 6. Dhanuggaho. 参。 10. (一一 171 下〉一切四念処経,皆以二此総句− 11. (No. 613. 171 下〉三不菩根(貧,書,療〉善緊(四念、処) 12. (一一 172 上〉三悪行(身,口,意よ S. 47. 47. Ducaritarμ ;三想(欲,毒,害);三覚(欲,毒,害);三界 (欲界,主主界,害界), S. 47. 49. V edana. (説訳,大正,一二,二六九下,三覚,三想を出す,参〉13. 〔 No. 614. 172 上〕如来大丈夫義, S. 47. 11. Mahapurisa. 14. (No.615. 172 上〉阿難「比丘尼修二四念処一白知二前後昇降一 J, S. 47. 10. BhikkhunI-vasako. 15. (No. 616. 172 上〉厨士, S. 47. 8. Sudo 〔当「取ニ白心相一英上令ニ外散一 四念住説について〉 16. (No. 617. 172 下一 173 上)烏, S. 47. 6. Saku 早 agghI, Jataka. 168 参。 17. 〔 No. 618. 173 上中〕四念処得二四果,四種福利一 18. (No. 619. 173 中)私伽陀莱落(自護護他,護他白護〕, S. 47. 19. Sedaka 〔 Ekantaka ?) 19. (No. 620. 173 中下〉猿張, S. 47. 7. Makkata. 20. 〔 No. 621. 173 下)年少比丘, S. 47. 4. Sallarμ. 21. (No. 622. 174 上〉竜羅女, S. 47.1. AmbapalI. 22. (No. 623. 174 中〕世間, S. 47. 20. Janapada (Ekantaka ?) 23. (No. 624. 174 下− 175 上〉欝低迦, S. 47. 16. U ttiya. 24. (No.625. 175 上〉婆騒迦, S. 47. 15. Bahiya; S. 35. 89. Bahiyo 参。 25. (No. 626. 175 上〉比丘超越生死。 26. (No. 627. 175 上中〉阿那律陀, S. 47. 26. padesarμ 参。 27. (No. 628. 175 中)優陀夷,阿難問訊, S. 47. 21. silarμ. 28. (No. 629. 175 中〉阿難破陀羅問訊不退転, S. 47. 23. parihanarμ 参; S. 45. 18 20. Kukkutarama (1-3) 参。 29. (No. 630. 175 下〉令三不浄衆生而得二清浄ー耳目,向上。 潮時延
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組) !2 0 ムド 30. (No. 631. 175 下)能令 F 未 ν 度二彼岸一得u
度二彼岸「向上。 31. (No. 632. 175 下〉得ニ阿羅漢ー。 32. (No. 633. 175 下〉一切法者四念処,(魂訳,於仏教法該羅無外大正,一三,二七四上〉 33. (No. 634. 176 上)賢聖出離, S. 47. 17. Ariya (Ariya niyanil 王 a)C
般若経では般若を仏母とするが既に四念 住説において聖人即ち仏陀出離を説いている。〕 34.C
一一− 176 上)甘露法作証, S. 47. 32-34. viraga, viroddho, Bhavana. 35. (No. 635. 176 上〉巳浄衆生,令レ士骨三光沢一 36.C
一一 176 上)如ニ浄衆生J
口是,未度彼岸令度,得二阿羅漢ー得ニ貯支仏一得二阿蒋多羅三貌三菩提− 37. (No. 636. 176 上)比丘, S. 47. 3. Bhikkhu. 38. (No. 637. 176 中〉波羅提木叉, S. 47. 46. patimokkha. 39. 〔 No. 638. 176 中下)純陀沙弥供二養舎利弗ー, S. 47. 13. Cm;iqa. 生経, 2. 舎利弗(大正,三,七九),般泥垣 経,参。 40. (No. 639. 177 上中)布薩時……四念住,是名下白洲以白依,法洲以法依,不二異洲一不中異依 1:, S. 47. 14. Celarμ.2
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二 上 ︶ ︵ 漠 訳 、 第 二 四 願 、 我 作 仏 時 、 我 国 諸 菩 薩 、 説 経 行 道 、 不 如 仏 者 我 不 作 仏 ︶ と あ る 。 従来、この呉訳、第一六願をもって、現訳の第二五願、 ﹁ 説 我 得 仏 、 国 中 菩 薩 、 不 レ 能 レ 演 − 一 説 一 切 智 一 不 得 正 覚 ﹂ を あ て 、 ﹁説一切智﹂の願としている。会通すれば、 そ う い う こ と に も な る で あ ろ う 、 が 、 ﹂の説経行道とは﹁経の行道 を説くこと﹂と読むべきであろう。これまで、 行道の語義について審にしなかったことによるのであるまいか。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 七道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 入 この﹁行道﹂の語こそは、第一
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一雑阿合、第四の﹁行道一一挙経﹂の行道にあててよいのであるまいか。 呉訳の経題は、仏説阿弥陀三耶三仏、薩楼仏植過度人道経といわれる。 ⑪ るのであるが、よく考えると大無量寿経の初期成立の経名として極めて素純で、 ﹂ れ は 一般に奇異の経題の如く感ぜられ あ る べ き 名 と 思 う 。 それは、阿弥陀正等覚者︵﹀BE
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︶と一切諸仏︵回日 4 白 ゲ ロ 円E
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︶とが相いともに護念して、 人道を過度する義であろう。そのことは、 さ ら に 後 述 す る が 、 い ま 、 呉訳第二ハ願、浄土の菩薩が、 ﹁ 仏 の 如 し ﹂ と す る こ と は 、 呉 訳 ︵ 大 正 ・ 一 一 了 三O
九 上 、 漢 訳 、 二 九 一 上 ︶ に 、 仏 一 一 一 回 、 阿 弥 陀 仏 、 至 其 然 後 般 泥 垣 者 、 其 蓋 楼 豆 ︵ 観 世 音 ︶ 菩 薩 、 便 当 作 仏 、 総 領 道 智 、 典 主 教 授 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 当 復 如 − 一 大 師 阿 弥 陀 仏 ﹁ : : : 其 次 摩 詞 那 鉢 ︵ 大 勢 至 ︶ 菩 薩 当 復 作 レ 仏 : : : 復 如 一 一 大 師 阿 弥 陀 仏 一 : : : とあって、正しく、その本願文と一致するのである。 そ こ で 、 行 道 と は 、m
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白 色 白 円 C L E 宮EB
聖 無 量 光 荘 厳 経 、 河 口 慧 海 、 蔵 本 和 訳 参 照 ︶ と 還 究 せ ら れ て よ い と 思 わ れる。そのぬ由昨日は、説訳では三誓偏において﹁修究行﹂と訳している。 ⑪ 一句である。呉訳においては、南無阿弥陀三耶三仏檀と三たび、 それは、南無阿弥陀仏と称うることの一翠 ︵ 契 ︶ 即 ち ︵ 大 正 ・ 二 一 ・ 一 一 一 一 六 中 下 ﹀ ︵ 漢 訳 、 南 加 熱 無 量 消 浄 平 等 覚 、 二 九 八 下 に 三 回 ︶ 称 え ら れ て い る 。 それで、第一六願の願名は﹁説経如仏﹂と名づくよりも﹁行道如仏﹂とすることが、 その願事を直示せられるとと もに、道教との関係を知ることができる。 それについて、なお二=口したいのは、阿難は釈尊の常随比丘であって、多聞第一であることはいうまでもないが、 ⑬ お こ な い 正 念 第 て 正 行 第 一 、 総 持 第 一 と い わ れ る 。 そ の 行 ︵ 住 、 坐 、 そ の 正 行 と は ぬ 同 H F は 、 南 無 阿 弥 陀 仏 で あ ろ う し 、 臥︶はつねに念仏し、その名号を総持︵L
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田宮丘三件むしていたことを示すものでないであろうか。次に、呉訳第一八願は﹁説教殊勝﹂と名づけられてきた。即ち、 第一八願、使某作仏時、令我智慧説経行道十一一倍於諸仏﹁得是願乃作仏、 不 得 是 願 、 終 不 作 仏 、 とあり、ここに﹁経の行道を説くこと諸仏の十倍ならしめん。﹂と。 ﹂の十倍は満数をいうものであろうから、 そ の 志願の究克なることを知る。その願名も﹁説経殊勝﹂というよりも﹁行道殊勝﹂とその願名を明確にすべきものと考 え る 。 阿弥陀仏の光明が﹁最尊第一無比諸仏光明皆所不及也﹂︵呉訳、大正・一一了コ
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こ 中 、 決 訳 、 二 八 二 中 ︶ と 説 か れ 、 さ らに、その経の行道について﹁其有人民、善男子善女人、間一一阿弥陀仏聾一称誉光明、朝暮常称誉其光好、至心不断絶、 在 心 所 願 、 往 生 阿 弥 陀 仏 国 ﹂ ︵ 呉 訳 、 大 正 ・ 一 二 ・ 一 二O
三上、漢訳、二八二下﹀とあって、呉訳第一八願文と相応している。 ただ、漢訳において、願文として特記しないことに注意したい。四
呉訳の経名と第四願︵漢訳、第一七願︶と道品第一八経について 呉訳、大阿弥陀経の経題は、仏説阿弥陀三耶三仏、薩楼仏檀過度人道経であるが、 その経題は一経の意義を象徴す る も の で あ る 。 先 に 、 阿 弥 陀 仏 と 諸 仏 と が 、 衆 生 を 護 念 し あ っ て 、 救済することを表わすものであろうことを述べ た。このことは、その本願文によって証明せられるようである。 呉 訳 、 第 四 願 文 、 使某作仏時、令我名字、皆聞八方上下無央数仏国、皆令諸仏及於比丘僧大坐中、 説 我 功 徳 国 土 之 善 、 諸 天 人 民 及 蝿 飛 踊 動 之 類 、 間 一 一 我 名 字 ﹁ 莫 レ 不 一 込 山 山 心 一 欲 喜 踊 躍 者 、 皆 令 来 生 我 国 、 得 是 願 乃 作 仏 、 不 得 是 願 終 不 作 仏 ︵ 大 正 ・ 一 一 了 三O
一 中 、 漢 訳 第 一 七 願 文 、 我 作 仏 時 、 令 我 名 聞 八 方 上 下 無 数 仏 国 、 諸 仏 各 於 弟 子 中 、 歎 我 功 徳 国 土 之 善 。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 九道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て
。
諾 天 人 民 嬬 動 之 類 、 関 我 名 字 、 皆 悉 踊 躍 来 生 我 国 土 、 不 繭 者 我 不 作 仏 、 二 八 一 中 下 ︶ これ等の初期無量寿経の願文は、前半が親訳の第一七諸仏称揚の願、後半が第一八の聞名歓喜往生の願に相応され ており、これに対して疑義をさしはさむものはないであろう。 しかし、呉訳では第四願、漢訳では第一七願のうちに相い摂められていることに注意したいのである。説訳では、 阿弥陀仏の四八願の中において、それ等は一一の願として独立すべき最も重要なものであるとして、別願として分立 したものであろう。しかも、それ等は前後に並立していることである。 ⑬ さて、これについて、関係深いと思われる道品、第一八﹁自護護他、護他白護﹂経の一経を左に挙げよう。 如 是 我 聞 、 一 時 仏 、 在 一 一 拘 薩 羅 人 間 一 遊 行 、 於 私 伽 陀 緊 落 北 身 恕 林 中 、 爾 時 世 尊 、 告 一 一 諸 比 丘 一 過 去 世 時 、 有 一 一 縁 瞳 伎 師 一 肩 上 竪 レ 瞳 、 語 ニ 弟 子 二 = 口 、 汝 等 於 一 一 瞳 上 一 下 向 、 護 レ 我 、 我 亦 護 レ 汝 、 迭相護持、遊行嬉戯、多ニ得財利吋 時 、 伎 弟 子 語 コ 伎 師 一 一 言 、 不 レ 如 一 一 所 言 ﹁ 但 当 ニ 各 々 自 愛 護 一 遊 行 嬉 戯 、 多 得 一 一 財 利 戸 身 得 − 一 無 為 安 穏 一 市 下 、 伎 師 答 吾 一 口 、 如 一 訟 所 − 一 一 口 ﹁ 各 自 愛 護 、 然 其 此 義 亦 如 一 一 我 説 ﹁ 己 自 護 時 、 即 是 護 他 、 他 自 護 時 亦 是 護 レ 己 、 心 自 親 近 、 修 習 、 随 護 作 証 、 是 名 目 一 自 護 護 レ 他 ﹁ 云 何 護 レ 他 自 護 、 不 レ 恐 一 一 怖 他 ﹁ 不 レ 違 レ 他 、 不 レ 害 レ 他 慈 心 京 レ 彼 、 是 名 一 一 護 他 自 護 ﹁ 是 故 比 丘 、 当 ニ 如 是 学 一 自 護 者 修 一 面 念 処 一 護 レ 他 者 亦 修 一 面 念 処 ﹁ 仏 説 ニ 此 経 一 己 、 諸 比 丘 、 聞 一 一 仏 所 説 一 歓 喜 奉 行 。 さ て 、 上 述 の 経 典 は 根 本 説 一 切 有 部 見 奈 耶 薬 事 、 七 ︵ 大 正 ・ 二 四 ・ 一 一 一 一 一 中 ︶ に も 出 て い る 。 二人のアクロバットが 人 の 肩 の 上 に 竿 を 立 て 、 その竿頭に一人が上って曲芸して利益を現前せしめんとする師と弟子との問答である。釈尊、その義利をよみしたまう誓説である。余はこれを﹁自護護他、 他護自護﹂経と名づけることとする。 い ま 、 え ﹂ 戸 り に 、 南 伝 を 和 訳 し よ う 。 付 自 ら を 護 ら ば 他 を 護 る か ︵ 巳 仲 間
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︶ 、 策 励 ︵r
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白 岡 国 自 由 ︶ す る こ と で あ る 。{
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日 同 沼 田 削 ﹀ 慈 悲 ︵ 自 白 門 仲 間 ︶ 、 哀 感 ︵ 白 ロ ロ 円E a
回 同 釦 ︶ す る こ と で あ る 。 こ こ で 、 さらに、その内容が明細になってきたと考えられる。 以上、長々と列挙したことは、これ等をもって﹁行道一契﹂経と関聯して考察したいからである。 四 念 処 経 に つ い て は 、 つねに、繋念と在前ということがいわれる。繋念とは、身・受・心・法の四法についていか に 思 念 す る か に あ る 。 一 般 に 、 小 乗 浬 操 経 に お い て は 、 無常、苦、無我、非浄と念じ、大乗浬梁経においては常 楽・我・浄と別相によって観ずる。 し か し 、 衆生の対機と動機とによって種々万態である。 そ の 総 相 と し て は 、 道 口 問 、 第 九 九 雑 阿 含 、 第 一 一 八 九 究 天 経 ︵ 大 正 ・ 二 ・ 三 二 二 上 ︶ で は 、 真 如 法 を も っ て し 、 第 一O
一 雑 阿 合 、 第 四 経 ︵ 大 正 − 二 ・ 四 九 四 上 中 ︶ で は 、 一 行 ︵ 南 無 阿 弥 陀 仏 ︶ と し て 称 念 す る が 如 く で あ る 。 在前とは、﹁若行︵ぬ丘町︶、若立、若坐、若臥、若睡、若覚、若去︵宮門p
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ロ 丹 市 ︶ 、 若 来 ︵ 白σ
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﹀若前後視 h v ハ ス ル a E 宅 ⑬ 瞬、若屈伸怖仰、若著衣、若持鉢、若食飲、便利、若語、若黙常一ニ其心ことあって時処諸縁をえらばず対象を ﹁ 行 道 一 撃 ﹂ 即 ち 、 ﹁ 正 知 し て 住 す る ﹂ ︵ 凹2
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む こ と で あ る 。 さ ら に 、 われわれの念仏へと指向する心ばえを示すものとして、道品、第三九経︵大正・二・一七六中i
一 七 七 上 ︶ 並 に 第 四O
経との両経に浬繋経の文が並挙されているのに注意したい。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 我 今 不 久 当 一 一 過 去 寸 是 故 汝 等 当 知 、 白 洲 以 白 依 、 法 洲 以 法 依 、 不 異 洲 不 異 依 、 謂内身身観念住、精進、方便、正智、 正念、調伏世間貧憂、如是外身、内外身、受・心・法、法観念住 とあって、共に釈尊の入誠に先立っての遺誠せられている。 ここの文における﹁自らを洲︵灯明︶とし、自らを所依とし、 他 を 所 依 と せ ず 、 法 を 洲 と し 、 法 を 所 依 と し 、 他 を所依とせずして住すベし。﹂︵三宮含℃白
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凶 田 口 氏 J D m 訪日・白信仰︶ に つ い て 、 ﹁仏陀には法の活動が明に意識されていたが、 仏弟子の中でも法の活動を賜として自己 の信仰を意識していた者もあるであろうが、 眼前に見る智慧と慈悲の権化である仏陀に目を覆われて、仏陀を信の対 象と考えていた者が多かったであろう。仏陀を帰依の対象としている者に対する厳誠である。仏陀の智慧と慈悲を通 し て 、 さらに、法に帰依するところに仏陀の真意があるのである。﹂と。 ﹂の説明は一応、正しいであろう。正直の の と で‘こ き ろ る 、 白 骨 で つ あ て る 余 」。⑮も そ と m t主•>ぃ 却
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7こ し か し 、 さ ら に 、 ﹁ 縁 起 の 法 を 自 覚 さ れ た 白 で あ り 、 法を自覚すること 縁起の法を観念の上では、 想念はできるが法を自覚し体験することので きる白であると誰が確信し得るであろうか。それは、仏陀の外に他の人の教に依ることなく、自己を洲とし、所依と せよとは、専ら、縁起無量法を有量としてしか把握のできない白であることを誠しめておられるのであろう。道品、 第二二、傾国の美技Q
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︶に、それは経意より一行者︵開r
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ととも名づけられるようであるが、 そこには、油の満つる鉢︵E
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日 4 田 口 問 ロ 白 ︶ と 説 か れ て い る。しかれば心念も亦同じであり、その油とは責愛をいうものである。念仏は五乗斉入のものであるが、浄土の経典 は人道を過度することが主題なのである。それ故に、自ら仏陀に帰依し奉る︵∞ロ門E
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ら で あ る。龍樹善薩の本願文とせられる﹁若人念我称名自帰﹂の自帰、 世親菩薩の﹁世尊我一心﹂の我である。唐訳におけ党本の無他縁智︵田宮
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− − 由 主 。 ぬ ・ − u乙であることを顕示することを主とするものであると考える。 る ﹁ 得 二 乗 道 一 無 レ 有 ニ 疑 惑 ﹁ 於 ニ 仏 教 法 一 一 小 一 一 白 レ 他 悟 こ ︵ 大 正 ・ 二 ・ 九 九 上 ︶ 、 以上、略説したことであるが、呉訳の第四願文︵漢訳第一七願文︶が前半と後半とが二分せられることは、道品第一 八﹁自護々他、護他自護﹂経に依ることの名残りである証左ではないか。 釈尊は耕田婆羅豆婆遮︵p
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︿ 山 首 ︶ 婆 羅 門 を 教 化 し た ま う の で あ る 向 、 そ こ に は 、 ﹁正念は自ら守護し、是 れ則ち善御者﹂とあるように仏教は正念こそ第一である。 さ て 、 い ま 、 行 道 一 契 経 を 念 頭 に お い て 、 ﹁ 自 護 々 他 ﹂ を 理 解 す れ ば 、 まづ三宝に親勤し、念仏の教法によって策 励し、ことに数々修習することによって自己そのものが見開かれて合掌、 帰命となる。そこに、諸仏と衆生とが南無 阿弥陀仏の称名となり、功徳と国土との善の讃歎となる呉訳第四願文の前半として発展したものであろうか。 次 に 、 ﹁ 護 レ 他 護 レ 白 ﹂ と は 、 忍 辱 と 無 害 と 慈 悲 と 哀 感 と に よ る と あ る 。 法蔵菩薩は、二四願を立てて、分檀布施、 一 心 、 智 慧 ︵ 呉 訳 、 大 正 ・ 二 一 ・ 三O
二中︶六波羅蜜の志願常に勇猛とある。魂訳において﹁如 来 以 一 丞 一 蓋 大 悲 一 持 一 一 哀 三 界 ︸ 所 副 以 出 司 興 世 ﹁ 光 一 一 闇 道 教 ﹁ 普 令 三 群 萌 獲 ニ 真 法 利 己 ︵ 欲 下 怒 一 一 群 萌 一 恵 以 工 具 実 之 利 品 流 布 本 ︶ と 不 犯 道 禁 、 忍 辱 、 精 進 、 あるが、群萌の衆生救済こそは、忍辱を第一とするであろうが、 その根源こそは、慈悲と京患でなくてはならない。 大悲とは、道品のB
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即 ち 、 大 慈 悲 心 で 、 持 哀 は 白 ロ ロ 内E
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が あ て ら れ る 。 そ こ で 、 漢 訳 第 一 七 願 文 の 後 半 は ﹁ 諸 天 人 民 嬬 動 之 類 、 聞 一 一 我 名 字 一 皆 悉 踊 躍 、 来 一 一 生 我 国 一 不 レ 爾 者 、 我不作仏﹂と そ の ま ま 読 み と ら れ る 。 と こ ろ が 、 呉 訳 後 半 は ﹁ 諸 天 人 民 蛸 動 之 類 、 間 一 一 我 名 字 一 莫 レ 不 一 一 慈 心 歓 喜 踊 躍 者 皆 令 一 二 米 コ 生我国ことあり、ここで一見読みとり難い﹁莫レ不−ゑ ω 心こは﹁護他白護﹂において慈悲︵5
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︶ のみが総じて取 り出されて、道教の名残りを止めているものであろうか。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ﹀ に つ い て道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 以上により、呉訳の経題と第四願︵漢訳、第一七願︶、 四 期大無量寿経との関係を究明するものにとって、極めて重要なものであると考えるのである。 それ等と道品第一八﹁自護々他、護他自護﹂経は、 道教と初
五
結
査 一 山 道教︵道智大経︶と初期無量寿経との関係について、 その一部を明にすることができたようである。仏説阿弥陀三 耶三仏薩楼仏壇過度人道経とは、道教の諸経群をこの経題を中心として編輯・創作されたもののように思われる。大 その典拠をできるだけ明にし、 一 語 を 無 量 寿 経 は 、 われわれ浄土教徒の生命である。たとい一つの経句であっても、 も忽にしてはならない。浄土経典の原初形態群は初期仏教にあるであろう。 註 ① 相 官 度 論 、 一 九 巻 ︵ 大 正 ・ 二 五 ・ 一 九 八 上 ︶ 、 正 ・ 二 五 、 四O
三 下 | 五 下 ︶ ③ 判 官 度 論 、 一 九 巻 ︵ 大 正 ・ 二 五 、 一 九 八 上 ︶ ③異部宗輸論、仏教研究、第八巻第一号、ω
説 一 切 有 部 の 根 本 教 義 、 一 二 五 頁 、 同 ﹁ 四 念 住 に は 一 切 法 あ り と 説 く べ き な り 。 ﹂ω
化 地 部 の 根 本 教 義 、 ご ニ 五 頁 、 同 ﹁ 諸 の 道 支 は 諸 念 住 に よ っ て 説 か れ た り 。 ﹂ ④教行信証講義、昭和三O
年 一 一 月 刊 行 、 金 子 大 栄 選 集 、 第 六 巻 五 三 頁 。 ⑦大無量寿経の教理史的研究、昭和三三年六月刊行、池本 重 匡 著 一 五 四 頁 、 ﹁ 貌 訳 の 道 教 は 大 経 に 説 く 真 実 教 で は な く て 、 第 二 義 的 な も の と し て 理 解 せ ら れ て い る が 、 初 期 大 四八巻︵大 経 の 道 智 大 経 は 第 二 義 的 な も の と 見 る こ と は 無 理 で あ る と 思 わ れ る 。 貌 訳 で も こ の と こ ろ の 道 教 を 真 実 教 で な い と す る と 、 阿 弥 陀 仏 が 浄 土 で 方 便 教 を 説 か れ る こ と と な っ て 不 可 解 の こ と と な る で あ ろ う よ と 。 ⑦原始浄土思想の研究、昭和四五年八月発行、藤田宏達著 二 三 三 頁 | 二 三 四 頁 。 ⑦赤沼目録、雑阿合経︵附録、第二、略称、単雑︶ ︵ 同 ︶ω
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帆 w o そ れ ぞ れ の 経 の 表 現 の 相 具 に 注 意 す べ き で あ る 。③この表現は、貌訳大経の﹁如来以無蓋大悲私立以三界、所 以 出 輿 於 世 光 闇 道 教 : : : ﹂ と 同 趣 意 、 つ づ い て 、 ﹁ 今 度 し 、 後度するも亦是よりす、これ本より清浄無為なりにとあ る。この句より、さらに、世親造、無量寿経優婆提舎願生 旧 閣 の ﹁ 一 法 句 は 謂 清 浄 句 、 清 浄 句 者 謂 智 慧 無 為 法 身 故 ﹂ ︵ 大 正 ・ 二 六 、 二 三 二 中 ︶ を 想 い 出 さ し め る 。 ①藤田宏達著、原始浄土思想の研究、本願比較対照表︵三 八