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龍谷大学佛教学研究室年報 第3号 007藤田 祥道「瑜伽行派における『雑阿含』703経の解釈をめぐって」

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Academic year: 2021

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可昔話,.!l 703 糸圭♂〉角~:.r.:Jミ をァゲ〉く‘・っマご 博士課程二回生 藤 田 祥 道 輸伽行派が非有非無についてしばしばr

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(例えは遍計所執性)は存在しないから非有であり、

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(例えば依他起性および円成実性)は存在するから非無であるJという見方をすることは、すでに 指摘されているところであるω。こういった、有なるもの、無なるものの定立を認めた上で非 有非無中道を説く輸伽行(唯識学)派の中道観は、中観派の月称

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によって以下のよう に批判されており、必ずしも仏教内で一般的なもので・はなかったことが知られる。 妄想されたものが既に存在せず、他によって起こるものが現存するという以上、彼〔唯識論 者〕には〔いぜんとして〕あるとないとのこつの考えが生じているのである。どうして〔有 と無との〕二つのの極端論を回避したことになろうか。・・・・・・それゆえに、有と無との二つ の〔極端〕論に陥らないことは、中観学派の見解においてのみ見られることであって、 〔唯〕 識論学派の見解ではそうはならないと知るべきである(2)。 ところで、このような考え方をする輸伽行派において、 「有るものを有ると、無いものを無い と知るJという、解釈いかんによっては有・無の定立を肯定しているかのような阿含の定型句も しくはそれに類似する文章がしばしば見いだされ川、重視されていることは、興味ある事実で ある。本稿の目的は、この漢訳『雑阿含.!I

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経に同定される阿合経のなかの一文が、特に『輸 伽論』においてどの様な文脈で引用され、どの様に解釈されているかを考察することにある。 I ここに取り上げる定型句を含む経典の一部が世親

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の『倶舎論』随眠品ω 引用さ れていることは、すでに周知のことと思われる。本庄良文氏は、この『倶舎論』所引の経典に対 応するものとして漢訳『雑阿含.!I

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経(南伝では

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を挙げ、更にチベット訳でのみ伝え られるシャマタデーヴァの倶舎論註“ Abhidharmako~opãyikã

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にこの倶合論所引の経に対する註として漢訳雑阿含とほぼ対応する経が全文引かれていることを 明らかにされている(5)。ここでは、まず、漢訳雑阿含の前半部分を示し、つぎにこれに対応す る

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所引の経文を和訳することにしたい。なお、括弧内の党文は、 『倶舎論』本文に見られる ものである。 知是我問。一時悌在舎樟

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国祇樹給孤濁園。爾時世尊告諸比丘、若所有法彼彼意解作謹、皆悉 如来無畏智所生。若比丘来為我声問、不詔不偽、質直心生、我則教誠教授為其説法。長朝為

(2)

-29-彼教誠教授説法、至日中時得勝進慮。若日暮時為彼教誠教授説法、至展朝時得勝進廃。如是 教授己、彼生正直心、実則知実、不実知不実、上則知上、無上則知無上.嘗知嘗見嘗得嘗覚 者、皆悉了知。斯有是慮。 111 111 111 111 111 • (d) 舎衛国因縁。信解の根拠であり作証される〔対象〕でもある諸法のそれぞれを作証するため に入り来る比丘たちは、無畏を備えた知来によって〔それら諸法を〕知るのである。わが声 聞にして、誌なく、諸なく川、質直なる性質の比丘たち(8)は来るがよい。私は教授教誠し て、法を説こう。(比丘は、私によって〕夜明けに教授されたなら、日暮れに優れたものと なろう。日暮れに教授されたなら、夜明けに優れたものとなろう。彼がこのように優れた法 を正しく理解したなら、有るものを有ると知り、無いものを無いと知り、その上がまだ有る こと(有上)をその上がまだ有ると知り、この上なきこと(無上)をこの上なしと知るであろう

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。 そして、知るべきこと、見るべきこと、現観すべきこと、体得すべきことのすべてを知り、 見るようになる根拠が〔彼のもとに〕有るであろう。

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このように、 『雑阿含.!I

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経とは本来、十力を備えた如来が彼のもとに来た質直なる比丘を 教授教誠、説法(10)によって彼が所知を証得するまで教導することを説くという、教育的・修道 論的内容をもった経典である。しかし世親が『倶舎論』でこの経典を引用するのは、無を対象と する認識(無所縁識 :asadãlamban~ vij~ãnam) を認めないことを論拠として過去未来世の法の実 有を主張する説一切有部の三世実有説を批判するという、多分に教理的な問題意識による。つま り世親は、経典に「無いもの

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を無いと知る」と説かれていることを無所縁識存在の経証と し、これによって、無所縁識が認められない以上認識対象となる去来世の法は実有でなければな らないという有部の主張を真っ向から批判しているのである。従来のこの経典に対する関心も、 この世親の主張に関するものであった(11)。 ところで、有部の三世実有説批判にこの経典を依用する手法は世親の創見によるものではない。 それは世親以前の『輸伽論.!I(註(3)

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、さらにはハリヴァルマン

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の『成実論』 (12)にまで遡ることが出来ると考えられる、すでに形式化されたものである。前者『輸伽論』の 「去来実有論批判」では、諭伽行派は有部に対して無(ここでは我、見角などの「畢寛無」が例 示される。後述参照。)を認識の対象として認めない場合、ヨーガ行者は有を知っても無を知ら ないことになると批判して、所知法が有

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と無

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とからなることを述べている。 一2

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8-輸伽行派では、しかし、このような「無所縁識存在証明」ないし「三世実有説批判」という 『成実論』や『倶舎論』とも共通する文脈から離れた、独自の観点からの解釈・評価がこの経典 になされる。まず、 『雑阿合経』に対する注釈書的性格をもっ『輸伽論摂事分』がどの様に経を 解釈しているかをみてみることにしよう。 『摂事分』は、上述したような内容をもっ雑阿合経を内容的に1.説正法教、

2

.

教授教誠《川、 3.知理作意、 4.得真実証という修行道を構成する四種の項目に分類して解説するが、そのなかで 3.如理通達を次のように解説している(14)。 〔善男子が、〕有為法に関しては聡慧者達が有であると承認(共許)したものと無であると承 認したものとを〔それぞれ有である、無であると〕知り、また無為法に関しては有頂〔定〕 に至るまでの有上なる浬梁を有上であると、無上なる〔浬襲〕を無上であると知ること、こ れが「如理通達」である。 『摂事分』によれば、経のいう有(sat)・無(asat)とは有為法を、有上・無上とは無為法すな わち浬柴を指すのであり、この両者からなる一切法を四念住に依拠して知実に了知することが、 無上浬集を目指す修行者連の実質的な修行内容、知理通達であるという。

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摂事分』の解釈は、 このように修道論的な立場からのものであり、その点では経に忠実であるといえよう。 有ないし無上を如実に知ることを重視する姿勢は、 『輸伽論』のその他の箇所においてもみら れる{註(3)

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.なかでも「本事分中間所生地J(註

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が出世間的現量を、 出世間智於所行境、有知為有、無知為無、有上知有上、無上知無上。如是等類、名不共世間 清浄現量c と規定していることは、注意される(15)。 また次の例は、輸伽行派における如理作意のありかたを表現するひとつの例として、注意され るであろう。 ・〔宴坐者は次のように〕過去・未来世、現在世を知理作意する. (すなわち〕彼は法の みを、事のみ(vastumatra)を、因のみを、果のみを一一有るものを有ると、無いものを無い と一見て、無なるもの(asadbhuta)を増益せず、有なる事(sadvastu)を破壊・損減しない で実在(bhuta)を実在を知る。すなわち、無常・苦・空・無我なる諸法について無常・苦・ 空・無我として〔知るのである)0 ( W声聞地』、註

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以上によって、 「有るものを有ると、無いものを無いと知る」云々という文章が、初期輸伽行 派では知理作意のありかた等を表現するものとなっていることが知られた。もちろん、この際、 有・無が具体的には何を意味しているかが問われるべきであるが、これらの各用例においては明 示されておらず、知ることができない。しかし、次節の考察によって知られるように『輸伽論』 の有・無の解釈は各所において少なからず相違しており、したがって上の諸例における有・無に ついても必ずしも同一内容のものを意味しているわけではないて'あろうことが推察される。

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-27-n u I 上述したようにこれまでに引用した『輸伽論』の諸例においては、それぞれの文脈でいう有 (sat)・無(泊at)が具体的に何をさしているかが明示されていないが、同論書には、有・無に関 して様々な解釈がみられる。ただしここではそれらのいくつかを概観するにとどめたい。 (イ) 有・無に関して『輸伽論』中でもっとも詳しくかっ網羅的な説明を与えているのは「本 事分中思所生地Jである。

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思所生地Jは、所知すなわち観察すべき対象を考察するとは

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(有 と無からなる所知について〕有るものを有ると、無いものを無いと観察すること」であると言明 し(註

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、そして有を①独自相としての有“6)、②一般相としての有、③仮相としての有(=仮 有)、④因相としての有、⑤果相としての有の五種類に、同じく無を①未生無、②己減無、③相対 無、④勝義無、⑤畢寛無の五種類に分類している。このなかで、無に関しては、撃寛無を除いた 前回者が時間的・空間的な相対関係あるいは世俗の言説において有を合意している相対的非存在 であるのに対して、石女の子などによって例示される畢寛無が絶対的非存在でーあるという区別が あるfげ¥同学派で問題とされる人我ないし遍計所執性の無は、後者の畢寛無に含まれる(18)。 (イ.) なお「本事分中思所生地」は、更にこの他に三性を含む五種の有性と三無性を含む五種 の無性を説くφ (ロ)

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摂決択分中思所生地J(cf.註

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は、 『雑阿含~

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経で言われている有・無が何で あるかを問うが、我を仮有の範暗に入れているためにか、ここでは実際には実有あるいは仮有が 伺であるかが問われるのみで、無が何であるかは直接には言明されていない。しかし結論的にい えば、言語基体となる実有なる事(dlios卯)に依存して仮設される仮有のなかでも、 「我Jは仮 有の範鴫に属していながら、なおかつ「無い」と説かれている。 (ハ) ti'声聞地~ (19)には、所知法を有と無によって三分割する解釈がみられる。すなわち、 『声聞地』は三解脱門の設定に際して、所知境を無と、有為と無為からなる有とに分割し、これ を空・無願・無相の三解脱門の各々の対象領域とする。ここでは無とは我・有情等を指し、有の なかの有為は五謹を、無為は浬繋を指す。こういった有・無の解釈には、遍計所執性の無、依他 起性・円成実性なる三性の有・無と通じるものがあると考えられるが、この点を含めて、輸伽行 派の三種三昧については他日:考察したい。 (ニ) ti'摂事分』、 『菩薩地』に於ける空性説に於て論議される有・無は、 『輸伽論』におけ る有・無の解釈の点で見過ごすことが出来ないものであるが、言うまでもなくこれについては既 に多くの研究がなされている(20)。ここでは、 『阿毘達磨集論』において無着

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が空 性説を『雑阿合.1

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経の文章と結び付けて理解していることを指摘するにとどめたい(2υ 。有-無を如実に知るという経文が輸伽行派の空性説・空観にも影響を及ぼしていることが、これによっ n h u q L

(5)

て知られる。 W これまでの考察によって、輸伽行派では『雑阿含A

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経中の定型句が(

1

)有部の三世実有説 批判ー無所縁識存在証明という『成実論』や『倶舎論』とも共通する文脈で用いられているだ けでなく、 (II)如理作意、出世間的現量などの概念を表現する聖言としても捉えられており、こ の学派の教と行の両面に少なからず影響を与えていたことが知られたと思う。 ところで、このように輸伽行振が「経」の定型句を(1)のようにも(11 )のようにも依用してい ることは、この学派がこの定型句ないし経自体を全く異なったこつの観点から把握、解釈してい ることを意味しているので・はあるまい。なぜなら、後者 (11)の用例においても『無いものを無い と知る」というときの「無」が畢寛無や未生無、己減無を合意している場合には、必然的に無所 縁識を認めていることになるわけであり、これは言い換えるならば、こういった場合には(II)の 用例においても無所縁識を認めない説一切有部に対する批判が、意図的にせよ、意図的でないに せよ、なされていることを意味するからである。もっとも、一口に無所縁識を問題にするといっ ても、法の三世実有を直接に否定する未生無・己減無の認識を問題にする場合と、畢寛無の認識 を問題にする場合とでは、その意味するところが異なってくることは注意されよう。瑞伽行派で は、上述の『輸伽論』における有・無の解釈例その他(eg.註(3)-k)にみられるように無に関して 人我ないし遍計所執性という畢寛無を問題としている例が多くみられるが、畢寛無の認識は、無 所縁識の容認を前提としているとはいえ、必ずしも三世実有説批判につながるものではない。も とより有部の「無所縁識なし」という主張は、警愉(論)者違によって、三世実有説の点からだけ でなく、無所縁識が認められないとしたらいかにして畢寛無なる我を無我と認識するのか、とい う無我観あるいは空観の点からも批判の対象とされていたのであるが(22)、輸側予派においても、 人無我等の畢寛無の認識を問題とするところに有部への批判がなんらかあるとしたら、やはり後 者の点からであったと思われる。同学派でも誓輸(論)者と同様の批判がなされていたことは『輸 伽論』の記述から看取されうるところである句針。 ともかく、輸伽行派では、 「有るものを有ると、無いものを無いと知る」という阿含の定型句 が、一方では三世実有説批判の経証となり、またそれが直ちに如理作意等を表現する聖言となる ようなありかたて捉えられていたと考えられる。言い換えれば、こういった無所縁識をめく'る問 題が、瑞伽行派がは無我等の)r無いものを無いと知る」ことを知理作意の一端として重視して いることへの一つの思想的背景となっていたと考えられる。少なくとも、同学派において無が所 知法であるといい、無を如実に知ることが重視される時、その背後に「無所掃識なし」という主 張に対する批判がなんらかあった可能性は否定で・きないであろう。 p h u ワ 臼

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〈註〉 (1) 循山総ー『無ニの思想的発展についてJ r宗教研究J254. 1982. P. 51. (2) L. V. Poussl n( ed. ). Presonn epodii. P. 215. 2-5.訳文i事長尾施入1尊土による<r明らかなことば{中論月祢釈)J r世界の名 著2・大乗仏典J.1967. P. 284)。 (3) 以下の個所にみられる。 (A) r強制論』本車分φ有尋有伺地(T(oi9YO).30. P. 305b;cf. V. Bhottoch・ry・(ed.). The Vogicirobhumi port 1.1951 • P. 127(n. 7)) (B) 問、問所生地(T.30.p.357c);Pek.09i 220・6) (C) 問、恩所生地(T.30.p.3612c;Pek.Osl 231・4) (0 ) 問、声問地(K.Shuk 1・(ed.). 5r8vokobhumi (58h. ). 1973. P. 103: T. 30. P. 412b) ([)周論傾決択分中恩所生地(T.30. P. 658c;Pek. Zi 201b3・4) (F) 岡、声岡地(T.30. P. 617b-c: Pek. Z i 258・8-b1) (6)S. Levi (ed. ). Hohiiyiineeutriil8mk画rotome 1. 1907. P. 65. 19・20 (H)UI!織聖教諭』領海銀品(T.31.P. 523・(cf.8)) (1) 岡(131.p.532c(cl.^)) (J)r大集問毘逮鷹.論J(T.31.p.675o;PelLi 90b5・6) (K>r摂大乗論』無性釈 od円S.D-1(T.31.p.398c;Pek.い 269b2) (4) P. Prodhon(ed. ). Abhidh

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m.1967. P. 300. 16・18. (5) 秋本勝・本庄良文「倶舎諭一三世実有貌{訳註)J r南都仏鞍J41. 1978. PP. 103・104. (6) T. 2. P. 189

-(7) 秩本・本庄論文(p.105註15)に指泊されているように、演訳と f混jとI諸 jの順序が迎。後述する『領事分Jla 「自事lを求め、誌なく、読なく、質直なるアトがうの者t主・・・・・・・ jと述べ(Pek.lli372・1)、漢訳縫同会と岡じ。 (8) dro^ 10 dro^ pobi ro^ b事Incon dogをdgeslo^ dro^ pobl'・・と訂正して読む. (9) Pek. Thu 20b4・8. (10) 註(13)多照。 (11) 佐々木現順『阿毘遣唐思想研究J• 1958.PP.376-383、岡『仏微におげる時間論の研究J• 1969. PP. 166・173. (12) r又 た 汝 (:去来世jま有論者)、所滋(=認諾対象)有るを以ての紋に織と名づくと雲わ11'、法を滋るとは有なら11'則 ち有と剣り、無ならば即lち無と知ることなり.若し此の.無ならば、此の事費軍事を以ての放に名づけて空を見ると為す なり.J (T.32. P. 254b) なお『婆沙論』によると、無所録識の存在を主張したのは「嘗喰者 jであるという(Shoryu Kotsuro. HARIVARHAN ON SARVASTIVAOA.印度@悌敏砂研究.26・2.1978. P. 1062).面白伽行派の無性la去来世の法の認績を 無所総識とする説を経量留に帰す(r綬大乗治』無性釈・dHS. 0 -14. T, 31.i>.402c; Pek.li 276・3-4). (13) 上述の漢iR姥岡念、シャマヲデーウ‘ァ所事lの縫l事、ともに敏綬敏説、説法の順序であり、 『概事分』の1.説正法絵、 2,教便事担減と t孟順序が逆.

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領事分』が自分の依用した阿含に敏領敏説、説法の順で説かれているのを故意lこ順序をi! にして般釈しているとみるよりも、 『領事分』の俗用した肉含が元来、説法、数侵害虫採の順で説かれていたとみる方が 無理がないであろう。 (14) T.30.~864b:Pek , ~i 37206・8, (15) 周伺のように『大乗荘厳経論11立、単旦盟盟段稽すなわち五Ii伽地申の第四、明(aloko)の徳行内容を f有・黛とし て対象を見ること、出世間管であり、そ(の智}によって有るものを有ると、無いものを無いと、如実に見るのである

(S8C Cd 90toyothobhüto~ PO~Y8tY osoc c8sotob). Jと規定する(it(3)・6.安電車釈によれば、ここで言う有とほ岱他

起・同成実であり、無とは遍~tPfr 紋である (Pek.Hi 2096-4)). r荘厳経論』のこうした記述l宜、このrli伽論』の出世 間的現量の記述とおそらく無関係で i主ないであろう。なお、五議制地については、阜.1,1宝『唯1&の実路J

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治座大乗仏 教8J.1982を、また、 rli伽論』の現量論の内容及び歴史的位置に関しては、梶山総-r仏教知議論の形成J n間座大 乗仏教9J • 1984. pp.68・70'を多照。 (16) 独自褐としての有は、さらに、勝鍍有に相当する腸線相としての有と実有に相当する“事目:扶絹としての有(mtshonmo -bi mtshen~id kYis yod po.・1i^9・-Iok宇000-刊t)と現在相としての有の三種に分頬される(“向井亮 r o轟伽論』に 於ける実有と仮有に続いてJ r印度$悌教事研究J2ト2.1973. P. 869,.照). (17) この点については符谷憲昭『空位理解の縄問題J r理想J610. PP.60-61を毎照。また、実有、仮有、賄事監有の内容に ついては向井上縄論文を多照. (18) cf, r領大量世論J無性釈odI1S.

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-I(T. 31.p, 398c:Pek.li 2690). (19) sBh..pp.267・268:T. 30. P. 436b-c. (20) 向井亮r H釧 論 』 の 室 性 説 ー 『 小 室 経 』 と の 関 連 に お い て ーJr印度感働教@研究J, 22-2. 1914. PP. 368-375 ;長尾H入「室性iこ於ゆるf余れるものJJ r中観と唯誼J• 1978. PP. 542・560;水尾寂芳rli伽行派における空位説 の展開Jr待望事山論緩J17, 1983.PP.21・36:縛§上織論文その他多照. (21) r 何等空砲.謂著於是慮此非有、由此理正観為~.著於是慮余是有、白此理 2日:実伺有。是名薯入室性。・・・・・・放薄伽 党密意説言『有如実知有、無 ~O実知鰐J.J(詰(3・J)) (22) r婆沙諸J(T.27. P. 360). r XliE理論J(T. 29, P. 622・16-19).また註(12)のf成実論』の叙述を魯限。 (23) cl.130.~585 ・9-13:Pek.Zi 19b4・1また:<$:'111末尾を会照されたい.

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