投
馬
国
の考
古
学
特別展
岡山市埋蔵文化財センター
開催にあたって
今から約
1800
年前に、日本列島には女王卑弥呼が君臨する邪馬台国
と い う ク ニ が 存 在 し た こ と が、 中 国 の 歴 史 書 で あ る『 三 国 志 』
、 い わ
ゆ る「 魏 志 倭 人 伝 」 に 書 か れ て い ま す。
「 魏 志 倭 人 伝 」 に は、 中 国 か
ら邪馬台国に至る過程に存在するクニについても語られており、その
中で最も大きいのが投
とうまこく
馬国です。投馬国は、邪馬台国に至る直前のク
ニに相当し、住民の数を象徴している戸数では、邪馬台国の
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万戸に
次ぐ
3
万戸を有しています。
邪馬台国の所在地については、江戸時代から論争が続いており、決
着はついていません。しかし、邪馬台国の時代(西暦
3
世紀)の考古
学的な成果からすると、この時期の列島内における中心地は畿内にあ
った可能性が高いと考えられます。列島の中心=邪馬台国であるとす
ると、邪馬台国は畿内、大和に存在していたと考えられます。そうし
ますと、九州から瀬戸内海を通って邪馬台国にいたるうち、その中間
地点にあり、しかも遺跡密度の高い吉備の地が、投馬国の候補地とし
て最もふさわしいと考えられます。今回の展示は、投馬国の歴史を発
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縄文時代の瀬戸内中部では、数多くの貝塚が形成され、列島内でも貝塚が集中する地域の1つ といえます。しかしながら、全体として遺跡は少ない傾向が明らかです。後期になると、それ まであまり遺跡の形成されることのなかった平野部へ集落が認められるようになります。この 傾向は縄文時代晩期も同様であり、その背後には何らかの植物栽培がなされていたとする意見 もあります。ただし、この点に関しては、平野部へ開発のために進出したのか、それとも山間 部での生活圏が飽和状態となったために平野部へ進出しなければならなくなったのかといった ことによって、その意味は大きく異なるように思われます。今のところ、縄文時代の後期から
晩期にかけての明確な農耕集落を指摘することは難しく、将来の発掘調査の進展が注目されます。
平野への進出
打製石斧 ( 石鍬 ) の出土 ( 吉野口遺跡 )
狩猟採集の時代である縄文時代が過ぎ、水田稲作を主体とする弥生時代が到来します。最初 に北九州へ渡来した水田稲作は、東へ向かって拡散していき、やがて列島の大半が弥生時代と なります。ただし、水田稲作を受け入れた姿は地域によって様々であり、土器の特徴から推測 すると、九州からの影響が色濃くみられる地域と、独自性を保っていた地域の両者が存在して いたようです。具体的には東にいくにしたがって後者の例が多くみられ、東日本の弥生土器は、 縄文時代の土器とあまり変わらないといった印象を受けます。
岡山平野の水田稲作の開始時期は、縄文時代晩期後半とされている突
とったいもん
帯文土器の時期まで遡 るという意見と、旧来の弥生時代前期からという意見に分かれています。その結果によっては、 突帯文土器の所属する時代を縄文時代晩期とするか、それとも弥生早期とするかが異なってき ます。稲作の有無の証明については、プラントオパール分析などの科学的な分析手法も有効で すが、時期を明確に把握できる水田遺構が検出される必要があります。
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水田稲作の開始 ― 最古の水田
吉備最古とされる水田遺構 ( 津島江道遺跡 )
環濠集落の出現
環
かんごう
濠 集 落 の 出 現 は、 稲 作 の 開 始 や 広 が り に 歩 み を 同 じ く し て い ま す。 弥 生 時 代 の 始 ま り の 時 期、 北 部 九 州 で み ら れ る よ う に な っ た 環 濠 集 落 は、 ま た た く 間 に 東 の 地 域 へ と 伝 わ り ま し た。 弥 生 時 代 の 前 期、
岡山平野においては、百間川沢田遺跡や南方遺跡 ( 岡
山 市)、 清 水 谷 遺 跡(矢 掛 町)な ど を 環 濠 集 落 の 例
として挙げることができます。
全 長 数 百 m に わ た り 掘 ら れ た 環 濠 は、 そ の 内 側 に 位 置 す る 建 物 や 貯 蔵 穴 な ど を 守 る た め 防 御 的 な 性 格 を 帯 び て い た も の と 推 測 さ れ ま す。 こ う し た 環 濠 を も つ 集 落 の 登 場 は、 労 働 力 を 集 め 行 わ れ る 稲 作 農 耕 の 定 着 に 反 映 し て い る よ う に、 当 時 の 社 会 に 協 同 的 な集団関係が築かれていたことを示しています。 弥 生 時 代 中 期 に 入 る と、 岡 山 に お い て は 環 濠 集 落 は 確 認 さ れ な く な り ま す が、 逆 に 畿 内 な ど の よ う に 環 濠 集 落 が 発 達 す る 地 域 も み ら れ、 そ の 必 要 性 や 意 味 合 い も 地 域 社 会 の 中 で 差 が あ っ た こ と が う か が え ます。
弥生時代前期の壺 ( 南方遺跡 )
南方遺跡の環濠
南方遺跡は旭川西岸平野の中央に位置する弥生時代中期の拠点的集落です。前期には津島遺 跡 な ど か ら、 分 か れ る 形 で 集 落 が 作 ら れ て い ま し た が、 中 期 に な る と 南 方・ 国 体 町・ 絵 図 町・
上伊福・奉還町にまたがる、およそ東西1.2km、南北1kmの範囲に遺跡が集中し、「南方遺跡群」
を形成します。また、一部に推定内径95m程の環濠も築かれます。
これらの地点では、足の踏み場もないほどの遺構の密度の高さや、出土する遺物の多さから 人口の集中があったと考えられます。そして、南方遺跡は、特に出土遺物からみるに、石器や 木器、骨角器などの未成品から生産拠点であったことが、同じく畿内産の石器や南九州の土器 などから遠距離交流の拠点になっていたことが分かります。また、木工芸に代表されるように 優れた技術と知識をもった集団が存在していたことがうかがえます。
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銅剣 ( 南方釜田遺跡 )
南方遺跡の拡大
足 守 川 流 域 で は、 弥 生 時 代 前 期 か ら 中 期 ま での間、主な集落遺跡は点状に分布しており、 規 模 の 面 で、 旭 川 流 域 の 各 遺 跡 と 比 較 し て み て も、 こ れ ら を 大 き く 超 え る も の は 認 め ら れ ません。ところが、弥生時代も後期に入ると、 状況が変わって平野部に進出するようになり、 遺 跡 内 に 存 在 す る 遺 構 の 密 度 も 急 激 に 高 く な る傾向にあります。
こ の よ う な 集 落 遺 跡 の 展 開 は、 人 口 や 各 種
手 工 業 生 産 の 集 中 化 の 動 き と 関 連 し た も の で あ っ た と 想 定 す る こ と が で き ま す。 ま た、 出 土遺物の中でも、青銅器の流入の状況からは、 足 守 川 流 域 が 旭 川 流 域 に 比 べ て、 そ の 獲 得 を 優位に進めていたことが分かります。
以 上 の よ う な、 弥 生 時 代 後 期 か ら 終 末 期 に お け る 足 守 川 下 流 域 の 集 落 遺 跡 の 動 向 は、 当 地 域 に お い て 次 第 に 活 発 化 し て い く 墳 丘 墓 の 築 造 と い っ た こ と が ら と、 大 き く 関 係 す る も のと考えられています。
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集落出土の銅鏃
(左:津島江道遺跡 右:東山遺跡)
足守川流域の集落群
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弥生人の精神世界
遺跡を調査していると、当時の生活・文化に迫る手がかりとなる遺物が発見されることがあ ります。ここでは、それらについてスポットをあててみましょう。
まず音に関して、木製品の楽器が遺跡から出土する場合があります。弦楽器としての琴がそ れにあたり、他にも刻
こっこつ
骨と呼ばれる楽器は、動物の骨や角に刻み目を入っており、こすり合わ せて音を出します。これらの楽器は主に、祭祀儀礼の場での使用が考えられています。
次に人を模した土
どぐう
偶を観察していると、入れ墨を表現したと考えられる線刻がみられること があります。文献資料にも出てくるように、当時の人が入れ墨を身体に施した様子を具体的に 示す資料なのでしょうか。
同じく文様の中で、古墳時代の直
ちょっこもん
弧文の祖形となったモチーフも吉備の地では関係する遺物 が多く確認されます。例としてよく挙がるのが、楯
たてつき
築弥生墳丘墓の弧
こ た い も ん せ き
帯文石や特殊器台ですが、 この文様の起源については諸説あり、すべては明らかになっていません。
刻 こっこつ
骨 ( 東山遺跡 ) 板づくりの琴
墳丘墓の時代
溝による区画や盛
もりつち
土による墳丘をもつ墓を、
前方後円墳に代表される「古墳」と区別して「墳
丘 墓 」 と 呼 ん で い ま す。 一 般 の 人 々 と は 区 別 し て 葬 ら れ る 人 物 や 一 族 が 現 れ た こ と を 示 す と考えられています。
墳 丘 墓 は 早 く も 弥 生 時 代 前 期 に は 出 現 し ま すが、吉備ではその後ほとんど発達しません。 と こ ろ が、 弥 生 時 代 後 期 後 半 に な る と 突 如、 倉 敷 市 矢 部 の 丘 陵 上 に 楯 築 弥 生 墳 丘 墓 が 築 か
れます。楯築弥生墳丘墓は墳長70m以上、円
丘 に ふ た つ の 突 出 部 を も つ 日 本 最 大 の 弥 生 墳 丘 墓 で す。 墳 丘 に 巨 石 を 立 て 並 べ た そ の 姿 は 他 に 類 を 見 な い 特 異 な も の で、 最 初 の 吉 備 の 王 墓 と い う に ふ さ わ し い も の で す。 同 時 に 特 殊 器 台 を 用 い た 最 初 の 墳 丘 墓 で も あ り ま す。 す な わ ち、 古 墳 時 代 の 埴 輪 へ と つ な が る 吉 備 の 墳 丘 墓 の マ ツ リ は、 楯 築 弥 生 墳 丘 墓 の 被 葬 者のために創出されたものといえます。
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特殊な器台形土器 ( 長坂1号墳 )
そ の 後 墳 丘 墓 は 特 殊 器 台 と と も に 吉 備 全 域 に 広 が り ま す。 特 殊 器 台 を 用 い た 祭 祀 を 共 有 する地域集団のまとまり「クニ」の出現です。
平成 26 年度岡山市埋蔵文化財センター特別展「投馬国の考古学」 平成 26 年 10 月 1 日
編 集 岡山市埋蔵文化財センター 〒 703-8284 岡山市中区網浜 834-1 発 行 岡山市教育委員会 〒 700-8544 岡山市北区大供 1 丁目 1 -1 印 刷 アイプリックス株式会社 〒 700-0064 岡山市北区大安寺南町 2-1-3
表紙:南方遺跡出土 木製品 ( 威儀具 )・土偶