第
一
項
玄
誓
の
出
自
と
西
念
寺
第
一
節
西
念
寺
玄
誓
の
事
跡
庄
司
暁
憲
﹃相
伝
義
書
﹄
相
伝
家
の
聖
教
目
録
に
つ
い
て
口
-玄誓
・空
閑
の事
跡と
空恵
の
﹁聖
教目
録﹂
-﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 -五 此 の 度 、 西 方 寺 空 恵 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 を 考 察 す る に あ た り 、 空 恵 の 師 匠 で あ る 玄 誓 と 養 父 で あ る 空 閑 の 事 跡 を 先 き に 論 じ て か ら 、 後 半 に お い て 、 空 恵 の 目 録 に 言 及 し た く 思 う の で あ る 。 そ の 理 由 は 、 目 録 中 の 空 恵 撰 述 部 で は 、 そ の 著 述 に 師 玄 誓 の 負 う 所 が 多 く あ り 、 ま た 、 空 閑 に 関 し て は 、 空 閑 が 書 写 し た 書 籍 類 を 目 録 の 第 一 編 に 掲 載 し て い る こ と に も よ る の で あ る 。 玄 誓 は 、 京 都 伏 見 光 啓 寺 の 忍 誓 の 子 と し て 生 ま れ 、 母 は 、 西 方 寺 空 誓 の 娘 妙 雲 で あ り 、 西 方 寺 第 八 世 空 了 の 姪 と 言 わ れ る 。 こ の 空 誓 は 、 西 方 寺 第 五 世 の 空 誓 と は 別 人 で あ る 。 な ぜ な ら 明 応 三 年 ( 一 四 九 四 ) に 没 し て い て 年 代 が 合 わ な い か ら で あ る 。 玄 誓 は 長 じ て 、 山 城 国 南 山 科 勧 修 寺 村 の 西 念 寺 に 入 寺 し 、 第 六 世 を 継 承 し た の で あ る 。 こ の 西 念 寺 と は 、 初 代 が 蓮 如 上 人 の 教 化 を 蒙 っ た 中 村 源 六 郎 入 道 益 慶 徳 で あ り 、 第 二 世 明 了 、 第 三 世 順 西 、 第 四 世 順 誓 、 第 五 世 清 閑 と 次 第 し て き た 寺 で あ る 。 は じ め に一 六 の 教 相 に 渡 り 経 論 の 要 義 を 述 す 。 当 家 の 故 実 に 於 て は 悉 く こ れ を 考 う 。 又 、 法 談 勧 化 の 弁 説 、 甚 あ ざ や か に し て 、 聞 人 感 ぜ ず と い う こ と な し 。 故 に 都 鄙 の 僧 俗 尊 敬 す る こ と 、 草 叢 の 風 に な び く が ご と し 。 因 て 今 に 於 て 一 宗 の 学 問 、 一 宗 の 故 実 、 此 師 を こ い 慕 う 。 と あ り 。 玄 誓 は 、 宗 義 や そ の 弁 説 に 優 れ 、 ま た 故 実 に も 精 通 し て い た の で 、 第 十 四 世 琢 如 上 人 は 、 東 六 条 に 西 念 寺 の 別 業 を 創 し て 、 彼 を 居 住 さ せ た と い う の で あ る 。 そ し て 、 賢 了 亡 き 後 ( 一 六 五 八 年 没 ) 、 一 肩 職 に は 円 智 が 就 い た 。 万 治 三 年 ( 一 六 六 〇 ) に は 、 親 鸞 聖 人 四 百 回 忌 法 要 の た め に 琢 如 上 人 の 御 書 披 露 に 、 玄 誓 は 円 智 と と も に 大 阪 天 満 へ 出 か け て い る 。 そ の 翌 四 年 に 御 遠 忌 法 要 は 厳 修 さ れ た 。 ま た 、 玄 誓 は 、 寛 文 二 年 ( 一 六 六 二 ) 十 月 八 日 と 、 翌 三 年 二 月 二 八 日 と の 二 回 に わ た り ﹁正 信 仰 ﹂ を 常 如 上 人 の 御 前 で 講 義 し て い る の で あ る 。 更 に 、 学 寮 創 設 ( 一 六 六 五 ) 当 時 に は 、 円 智 を 総 括 者 と し て 、 玄 誓 を は じ め 東 坊 了 海 、 長 覚 寺 噫 慶 、 常 徳 寺 休 甫 ら の 堂 僧 が 、 所 化 僧 (学 徒 ) の 指 導 や 監 督 の 任 に あ た っ て い た の で あ る 。 寛 文 六 年 ( 一 六 六 六 ) に は 、 本 堂 再 建 の 使 僧 と し て 玄 誓 と 徳 応 寺 照 空 と が 、 五 畿 内 に 派 遣 さ れ て い る 。 同 年 十 一 月 に は 、 か つ て 本 法 寺 教 咲 の 本 法 寺 事 件 ( 一 六 三 八 二 ︿ 四 二 年 の 間 ) が あ り 、 父 教 瑛 と 息 子 良 秀 は 破 門 状 態 に な っ て い た の を 、 こ の 時 公 海 僧 正 (教 如 上 人 の 娘 如 頓 尼 の 子 ) の 仲 介 に よ り 復 帰 を 願 い 出 た 。 同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号
第
二
項
学
僧
と
し
て
の
玄
誓
と あ り 、 姓 は 中 村 で 、 名 は 慶 廉 と い う こ と が 分 か る 。 そ し て 、 東 本 願 寺 の 堂 僧 と し て 採 用 さ れ た と も あ る 。 よ っ て 玄 誓 は 、 当 時 の 堂 僧 す な わ ち 学 僧 で あ っ た の で あ る 。 彼 の 師 匠 は 、 西 方 寺 第 九 世 賢 了 (浄 林 坊 休 之 一 五 八 八 一 六 五 七 七 四 歳 没 ) で 、 そ の 門 下 生 で あ っ た と 思 わ れ る の で あ る 。 ま た 、 堂 僧 と し て 出 仕 し た 時 は 、 先 輩 格 と し て 誓 源 寺 円 智 が い た の で あ る 。 慶 安 五 年 ( 一 六 五 二 ) の 一 切 経 校 合 の 厳 命 の 折 、 玄 誓 は 、 当 時 一 篇 職 で あ っ た 専 念 寺 (後 号 西 方 寺 ) 賢 了 の 指 揮 の 下 に 堂 僧 の 円 智 や 常 徳 寺 休 甫 ら と 共 に 校 合 に 加 わ っ て い る 。 ま た 、 ﹁帖 外 御 文 ﹂ 七 四 通 の 編 纂 に も 賢 了 の 下 で 参 画 し て い る の で あ る 。 そ し て ﹁西 念 寺 略 記 ﹂ に は 、 (﹁ 草 創 期 に 於 け る 大 谷 派 宗 学 の 史 的 考 察 ﹂ p 192 よ り 引 文 ) 玄 誓 は 、 本 山 淳 御 門 主 に 仕 へ て 、 常 に 六 条 に 居 住 し 、 専 ら 一 宗 の 奥 義 を う か が い 、 古 録 を 考 へ 、 当 家 学 匠 の 名 を 得 た り 。 剰 へ 、 諸 宗 玄 誓 の こ と に つ い て 、 ﹁西 念 寺 系 譜 ﹂ に は (﹃ 草 創 期 に 於 け る 大 谷 派 宗 学 の 史 的 考 察 ﹄ 岡 崎 正 謙 著 -宗 学 研 究 p 92 よ り 引 文 す ) 六 代 目 鵠 哉 賢 慶 廉 釈 玄 誓 法 橋 本 願 寺 堂 僧 召 出二 尊 院 へ 古 籍 の 調 査 に 出 向 き 、 そ こ で ﹁漢 語 灯 録 ﹂ を 発 見 し て い る の で あ る 。 常 如 上 人 は 、 堂 僧 ら に 良 秀 の 調 査 を 命 じ 、 十 一 月 十 九 日 に 円 智 や 玄 誓 、 法 光 寺 賢 恵 ら は 、 そ の 件 の 協 議 を 謀 り 、 不 許 可 の 決 議 を 言 上 し た が 、 常 如 上 人 は 、 僧 正 か ら の 依 頼 を 重 じ て 復 帰 を 許 可 さ れ た と い う 出 来 事 が あ っ た 。 そ の 後 、 円 智 ( 一 六 七 〇 年 没 ) や 了 海 ( 一 六 七 四 年 没 ) の 亡 き 後 は 、 玄 誓 、 噫 慶 、 西 福 寺 恵 空 ら の 堂 僧 が 、 学 僧 の 教 育 等 に 従 事 す る こ と に な っ た の で あ る 。 所 で 、 寛 文 十 二 年 ( 一 六 七 二 ) 七 月 一 日 に 琢 如 上 人 の 弟 で 連 枝 の 智 光 院 宣 縁 (従 因 、 大 信 寺 退 寺 ) は 、 玄 誓 の 故 実 に 秀 で て い る の を 賞 賛 し て 、 父 宣 如 上 人 の 御 影 を 授 与 し た の で あ る 。 そ し て そ の わ ず か 十 四 日 後 に 宣 縁 は 、 示 寂 し て し ま っ た の で あ る 。 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) に 起 こ っ た 新 潟 法 中 と 能 登 浄 明 寺 と の 法 論 謬 事 件 の 時 に は 、 恵 明 院 如 晴 を 中 心 と し て 玄 誓 や 長 福 寺 斎 円 、 休 甫 ら が そ の 取 調 べ や 教 導 に 携 わ っ た の で あ る 。 そ し て 、 玄 誓 は 、 休 甫 と と も に こ の 事 件 の 所 見 を ﹁十 条 反 問 之 評 ﹂ に 認 め た の で あ る 。 延 宝 三 年 ( 一 六 七 五 ) に は 、 唐 本 ﹁ 一 切 経 ﹂ が 、 大 阪 の 二 八 日 講 に よ っ て 、 本 山 に 寄 進 さ れ る 際 に 、 玄 誓 は そ の 斡 旋 の 労 を も と っ た の で あ る 。 延 宝 六 年 ( 一 六 七 八 ) に は 、 玄 誓 や 南 温 寺 樹 心 ら は 、 学 寮 に 講 堂 の 施 設 が な い こ と で 、 そ の 必 要 性 を 常 如 上 人 に 説 き 、 そ の 結 果 机 殼 邸 西 側 に 講 堂 が 新 設 さ れ る こ と に も な っ た 。 貞 享 の 頃 ( 一 六 八 四 二 ︿ 八 七 ) 、 玄 誓 は 、 先 輩 円 智 と と も に 嵯 峨 の ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 玄 誓 に は 、 四 人 の 子 息 が あ り 、 長 男 受 円 、 二 男 空 閑 、 三 男 立 円 、 四 男 浄 入 で あ る 。 そ の う ち 長 男 受 円 は 、 西 念 寺 第 七 世 を 継 ぎ 、 二 男 空 閑 は 、 母 方 の 西 方 寺 第 十 一 世 を 継 い だ の で あ る 。 三 男 立 円 は 、 洛 東 に 浄 真 寺 を 興 し て 住 持 し 、 ま た 堂 僧 と し て も 任 じ ら れ て 、 権 僧 都 に 補 さ れ て い る 。 四 男 浄 入 は 、 在 俗 し て 中 村 半 三 郎 と 名 告 っ て い た と い う 。 玄 誓 は 、 元 禄 三 年 ( 一 六 九 〇 ) 十 二 月 二 四 日 に 入 寂 す る 。 門 下 生 で あ っ た 空 恵 は 、 師 匠 の 玄 誓 を 讃 仰 し て 自 撰 の ﹁無 量 寿 経 綱 維 紗 ﹂ 分 科 下 巻 の 奥 書 に (﹁ 大 谷 派 学 事 史 ﹂ 続 真 宗 大 系 第 二 十 巻 よ り 引 文 ) 爰 洛 陽 に 玄 誓 法 橋 な る 者 有 り 。 西 念 寺 に 寓 す る こ と 有 年 。 真 宗 の 陶 練 、 最 も 其 の 奥 を 究 め て 、 屡 、 経 論 を 講 じ 、 鎮 て 従 衆 に 侶 す 。 と 讃 じ て い る 。 つ ま り 、 玄 誓 は 、 宗 義 の 奥 義 を 極 め 、 経 論 を 講 義 す る 時 は 、聴 衆 者 に 対 し て そ の 内 容 は 実 に 丁 寧 な も の で あ っ た と い う の で あ る 。 所 で 、 学 寮 創 設 ( 二 ︿ 六 五 年 ) を そ の 基 点 に し て 創 設 以 前 を ﹁宗 学 の 草 創 期 ﹂ と い う な ら ば 、 創 設 か ら 後 十 二 年 間 を ﹁学 寮 の 初 期 ﹂ と 言 う こ と が で き よ う 。 い ま 、 こ の 玄 誓 が 活 躍 し た 時 期 は 、 宗 学 草 創 期 後 半 か ら 学 寮 初 期 に あ た る も の で あ り 、 そ し て 、 初 期 の 学 匠 中 と し て は 、 円 智 。 一 七
第
三
項
玄
誓
の
子
息
と
年
寿
-‥ 一一 一一 で あ る 。 こ こ に 、 ﹁第 十 四 世 ﹂ と あ る の は 、 後 世 に 世 代 を 途 中 に 加 増 し た た め 相 違 が 生 じ た も の で あ り 、 空 恵 が ﹁聖 教 目 録 ﹂ の 中 で 、 養 父 空 閑 を ﹁西 方 寺 十 一 世 ﹂ と 呼 ん で い る こ と か ら 、 空 閑 が 第 十 こ 世 で あ る こ と は 確 か 一 八 釈 空 閑 西 方 寺 第 十 四 世 、 後 号 専 修 坊 、 数 多 の 聖 教 を 書 写 し 、 当 寺 に 凡 そ 二 百 三 十 部 納 む 。 元 と 山 科 西 念 寺 玄 誓 法 橋 の 二 男 、 当 寺 歴 住 二 十 余 年 、 (中 略 ) 正 徳 元 、 八 月 二 十 七 日 寂 、 七 十 一 歳 同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 了 海 に 次 ぐ 存 在 で あ っ た と 見 倣 す こ と が で き る の で あ る 。 ま た 、 玄 誓 の 研 究 文 献 は 、 二 男 空 閑 に そ の 全 て が 相 続 さ れ た と 思 わ れ る の で あ る 。 最 後 に 、 玄 誓 の 寿 年 が 不 詳 と な っ て い る の で 、 そ の 推 定 年 寿 を 少 し 考 察 し て お こ う 。 玄 誓 が 、 二 男 空 閑 を 寛 永 十 八 年 ( 一 六 四 一 ) に 生 ん で い る こ と や 、 上 記 の 業 績 な ど を 勘 案 し て い く と 、 彼 の 寿 年 は 次 の 如 く 想 定 さ れ る の で あ る 。 (推 定 ) 一 六 一 七 年 生 一 六 九 〇 年 没 (確 定 ) の 寿 年 七 四 歳 (推 定 ) 位 い と 見 る こ と が で き る よ う で あ る 。
第
一
項
空
閑
の
学
僧
に
つ
空 閑 (後 号 専 修 坊 一 六 四 一 一 七 一 一 七 一 歳 没 ) は 、 寛 永 十 八 年 に 西 念 寺 玄 誓 の 二 男 と し て 生 ま れ た 。 そ の 後 、 寛 文 五 年 ( 一 六 六 五 ) 正 月 、 二 五 歳 の 時 に 母 方 の 在 所 寺 で あ る 西 方 寺 に 第 十 一 世 と し て 入 寺 す る 。 ﹁城 州 伏 見 西 方 寺 歴 代 系 譜 ﹂ に は 、 次 の よ う に あ る 。 (﹁ 続 真 宗 大 系 ﹂ 第 二 十 巻 ﹁大 谷 派 学 事 史 ﹂ p 18 よ り 引 文 ) いて 所 で 、 一 般 的 に は 、 空 閑 は 学 僧 で あ り 、 本 願 寺 の 堂 僧 と し て 仕 え て い た と も 考 え ら れ て い る 。 そ れ は 、 日 下 無 倫 氏 に よ る と 空 閑 は 、 玄 誓 附 法 の 真 弟 で あ る 、 (中 略 ) 父 玄 誓 の 遺 志 を 継 い で 、 日 夜 勤 学 に 倦 む こ と な き を 以 て 、 自 ら を 専 修 坊 と 号 し た 。 特 に 父 よ り 附 与 せ ら れ し 数 多 の 考 録 は こ れ を 枢 底 に 秘 し て 、 堅 く 他 見 を 誠 め た 。 (﹁ 初 期 宗 学 界 に 於 け る 西 方 寺 空 恵 の 研 究 ﹂ ) と 、 空 閑 が 、 父 玄 誓 の 学 業 を 引 き 継 い だ 学 究 僧 で あ る と 評 し て い る 。 つ い で ﹁大 谷 派 学 事 史 ﹂ (p 18 ) で は 、 慶 秀 ・ 円 智 の 著 述 の 如 き は 殆 ど 之 を 自 写 し て い る 辺 よ り 察 す る と 、 時 代 的 に 見 て 、 恐 ら く は 円 智 に 師 事 し た 人 で あ ろ う 。 と 記 述 さ れ て い る 。 ま た 、 岡 崎 正 謙 氏 は 、 円 智 の 系 統 に 属 す る 学 匠 で あ っ て 、 恐 ら く 円 智 の 門 人 で あ ろ う と 思 う 。 空 閑 が い か な る 学 識 を 有 し て 居 つ た か は 、 そ の 著 述 の 遺 れ る も第
二
節
西
方
寺
空
閑
の
事
跡
と 記 し て い る 。 現 代 人 の 我 々 か ら す れ ば 、 ﹁教 行 信 証 ﹂ 六 巻 で さ え 書 写 す る こ と は 大 変 な 気 力 と 根 気 が 必 要 で あ る の に 、 二 三 三 部 (含 追 加 二 部 ) も の ぽ う 大 な 数 を 書 写 し た と い う こ と で あ る か ら 、 全 く 気 の 遠 く な る よ う な 話 で あ る 。 ま た 、 上 記 資 料 な ど で 、 慶 秀 ・ 円 智 の 著 述 類 の ほ と ん ど を 書 写 し て い る と の 指 示 が あ る の で 、 次 に 慶 秀 と 円 智 の 著 述 書 の 書 写 部 の み に つ い て 記 す こ と に し よ う 。 そ れ は 、 ﹁安 心 決 定 抄 私 記 ﹂ と ﹁持 名 抄 私 記 ﹂ 一 巻 の 二 部 の 下 記 に ﹁慶 秀 作 ﹂ と な っ て い る 。 ま た 、 円 智 の も の は 、 ﹁和 讃 科 考 ﹂ 一 巻 、 ﹁歎 異 抄 私 記 ﹂ 一 巻 、 ﹁和 讃 私 記 追 加 ﹂ 一 巻 、 ﹁七 条 鏡 ﹂ 一 巻 の 四 部 の 下 記 に ﹁ 円 智 作 ﹂ 又 は ﹁円 智 述 ﹂ と 記 さ れ て い る 。 た だ し 、 こ の 撰 述 者 名 は 、 空 恵 が 他 の 目 録 を 擬 ね て 書 物 名 の 下 記 に 書 い た と 考 え ら れ る の で あ る 。 例 え ば 、 ﹁七 条 鏡 ﹂ は 、 実 は 真 行 寺 了 現 の 撰 述 し た も の で あ る 。 又 、 ﹁正 信 偶 私 記 ﹂ や ﹁和 讃 私 記 ﹂ は 、 ﹁大 谷 派 学 事 史 ﹂ (p 4 ) に よ る と 、 慶 秀 の 遺 著 と し て は 、 ﹁正 信 偶 私 記 ﹂ 二 巻 ・ ﹁三 帖 和 讃 私 記 ﹂ 六 巻 ・ ﹁御 伝 炒 私 記 ﹂ 四 巻 ・ ﹁持 名 紗 私 記 ﹂ 一 巻 ・ ﹁安 心 決 定 紗 私 記 ﹂ 二 巻 (中 略 ) ﹁破 邪 顕 正 紗 私 記 ﹂ ・ ﹁顕 名 紗 私 記 ﹂ 等 の あ っ た こ と が 知 ら る る 。 と あ り 、 ﹁正 信 偶 私 記 ﹂ 書 入 一 巻 と ﹁和 讃 私 記 ﹂ 書 人 全 部 五 巻 合 三 巻 の 二 部 は 、 当 然 に 慶 秀 の 作 で あ り な が ら 、 そ の 書 物 名 の 下 記 に は 撰 述 者 名 が 付 記 さ れ て い な い な ど 、 不 備 な 点 が あ る こ と を 指 摘 し て お き た い 。 ま た そ の 理 由 と し て は 、 空 閑 は 、 父 玄 誓 よ り 数 多 の 聖 教 や 講 録 、 或 い は 了 一 九 の の な き た め に 、 こ れ を 明 ら か に す る こ と を 得 な い が 、 故 実 学 者 の 玄 誓 を 父 と す る 空 閑 は 、 恐 ら く こ の 方 面 に お い て の 学 匠 で あ っ た ろ う 。 (﹁ 草 創 期 に 於 け る 大 谷 派 宗 学 の 史 的 考 察 ﹂ ) と 、 述 べ て い る の で あ る 。 し か し 、 か く 言 う 空 閑 に つ い て 学 寮 で の 活 動 に つ い て 全 く 不 明 で あ り 、 確 固 と し た る 根 拠 は ど こ に も 見 い 出 す こ と が 出 来 な い の で あ る 。 空 閑 は 、 上 記 の 資 料 が 述 べ る ご と く 、 宗 乗 に 関 係 す る 書 籍 類 は 、 そ の 大 半 を 書 写 し て い る の で あ る 。 ま た 、 存 覚 の ﹁浄 典 目 録 ﹂ に 記 載 さ れ て あ る 書 物 名 の う ち 覚 如 上 人 著 述 類 は 全 て 書 写 し て お り 、 存 覚 師 著 述 類 も ﹁俊 解 記 ﹂ 一 巻 を 除 き 全 て 書 写 し て い る 。 ま た 追 加 編 は 、 ﹁信 貴 鎮 守 講 式 ﹂ だ け が な く 残 り の 書 物 名 の ﹁浄 典 目 録 ﹂ 以 下 四 部 全 て が 書 写 さ れ て い る の で あ る 。 そ し て 、 こ の 空 閑 の 書 写 し た 典 籍 類 の 目 録 が 、没 後 に 養 子 の 空 恵 に よ っ て 作 成 さ れ た の で あ る 。 空 恵 は 、 自 撰 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 の 第 一 編 に 西 方 寺 十 一 世 専 修 坊 釈 空 閑 聖 教 書 写 部 類 と 内 題 を 置 い て 、 前 半 部 は 、 著 述 者 別 に 古 籍 を 整 理 し て 書 物 名 を 列 記 し 、 後 半 部 は 、 あ る 程 度 の 部 分 で 同 種 類 別 に 列 記 し て い る の で あ る 。 そ し て 、 空 閑 が 書 写 し た 書 物 類 の 総 部 数 を ﹁都 合 二 百 三 十 九 部 ﹂ (実 数 は 二 三 一 部 ) ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口
第
二
項
空
閑
の
書
写
典
籍
に
つ
い
て
同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 解 類 の 秘 書 な ど を 付 与 さ れ た の で あ る が 、 こ れ ら を 匿 箱 の 奥 底 に 収 蔵 し て 他 見 は 勿 論 、 義 理 の 息 子 の 空 恵 に も 滅 多 に 拝 眉 さ せ な か っ た よ う で あ る 。 そ れ で 、 空 閑 が 死 去 す る ま で 、 匿 箱 中 の 書 籍 や 師 匠 玄 誓 の 著 述 類 な ど を 自 由 に 見 る こ と が 出 来 な か っ た と 思 わ れ る 。 そ れ が 、 正 徳 元 年 ( 一 七 一 二 に 養 父 空 閑 が 示 寂 す る こ と に よ っ て 、 そ の 匿 箱 が 空 恵 に よ っ て 開 封 さ れ る こ と に な っ た 。 所 が 、 空 恵 に と っ て は 、 置 箱 中 の 多 く の 書 籍 類 は 、 そ の 時 初 め て 対 面 す る も の も か な り あ っ た と み ら れ 、 そ の 書 籍 の 由 来 や 撰 述 者 名 な ど に つ い て 余 り よ く 知 ら な か っ た と 思 わ れ る の で あ る 。 そ れ 故 、 撰 述 者 名 の 誤 記 や 記 入 漏 れ な ど が 生 じ た も の と 窺 わ れ る の で あ る 。 二 〇 正 徳 二 壬 辰 年 六 月 二 五 日 改 之 西 方 寺 権 律 師 空 恵 と あ り 、 第 四 編 目 録 の 奥 書 に は 、 正 徳 二 年 六 月 二 五 日 書 之 西 方 寺 釈 空 恵 と あ っ て 、 明 ら か に 第 三 編 の ﹁改 之 ﹂ と 第 四 編 の ﹁書 之 ﹂ と を 書 き 分 け て い る と こ ろ か ら み れ ば 、 第 三 編 目 録 の ﹁西 方 寺 安 置 印 判 書 籍 目 録 ﹂ の 方 は 、 書 き 改 め た と い う 意 味 に 読 み と れ る 。 つ ま り 、 こ の 正 徳 二 年 と は 、 空 閑 が 入 寂 し た 翌 年 で あ り 、 西 方 寺 の 全 権 が 空 恵 に 移 譲 し た 時 期 で も あ る 。 そ こ で 、 空 恵 は 、 蔵 書 を 点 検 し た と こ ろ 、 従 前 か ら あ る (仮 称 ) ﹁安 置 目 録 ﹂ で は 、 既 に 漏 れ て い る も の も あ っ た で あ ろ う し 、 又 、 空 恵 自 身 の 所 持 本 を 少 な か ら ず あ っ た こ と か ら 、 新 た に 書 き 改 め た と 思 わ れ る の で あ る 。 そ こ で 、 問 題 と な る の が 、 従 前 か ら あ っ た ﹁安 置 目 録 ﹂ は 、 誰 れ が 書 い た も の か と い う こ と に な る 。 ま ず 、 空 恵 自 身 が 撰 述 し た と い う こ と は 、 程 ん ど 考 え ら れ な い 。 な ぜ な ら 空 恵 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 の 撰 述 よ り 前 と な る と 、 父 空 閑 の 存 命 中 に あ た り 、 従 っ て 書 糖 類 の 管 理 は 空 閑 が 厳 し く し て い た 筈 だ か ら で あ る 。 あ と は 、 推 測 の 域 を 出 な い の で あ る が 、 空 閑 は 、 父 玄 誓 か ら 多 数 の 典 籍 類 を 付 属 さ れ 、 そ れ を 厳 し く 保 管 す る 上 に お い て 、 そ の 書 籍 類 の 目 録 空 閑 の 聖 教 目 録 に つ い て は 、 今 日 何 も 現 存 し て い な い の で あ る 。 空 閑 は 、 父 玄 誓 か ら の 多 く の 典 籍 類 の 付 属 も あ っ た が 、 自 身 で も 三 百 余 り も の 書 籍 を 書 写 す る な ど 、 そ の 聖 教 の 収 集 に は 非 常 に 熱 心 で あ っ た と い え る 。 そ し て 、 存 覚 の ﹁浄 典 目 録 ﹂ 一 巻 も 書 写 し て い る が 、 自 ら 聖 教 目 録 を 作 っ た か ど う か は 判 明 し て い な い の で あ る 。 し か し 、 推 測 の 上 で は そ の 可 能 性 も 存 在 す る と 言 わ ね ば な ら な い で あ ろ う 。 そ れ は 、 空 恵 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 の 第 三 編 と 第 四 編 の 奥 書 に は 。 (第 三 編 目 録 の 奥 書 )
第
三
項
空
閑
の
聖
教
目
録
に
つ
い
て
籍 目 録 ﹂ 五 (巻 ) は 、 ひ ょ っ と し た ら 、 旧 来 の ﹁安 置 目 録 ﹂ か も 知 れ な い 。 空 恵 は 、 第 一 編 で は 、 親 鸞 聖 人 の 著 述 を 冒 頭 に 掲 げ た り 、 第 三 編 で は 、 父 了 賢 の 所 持 本 を 初 頭 に 挙 げ た り し て い る 点 か ら 、 ﹁小 本 部 ﹂ で も 空 閑 の 目 録 を 初 め に 掲 げ て い た と も 考 え ら れ は す る 。 そ し て 、 正 徳 二 年 の 時 、 空 恵 は 、 新 た に 自 撰 の ﹁安 置 印 判 書 籍 目 録 ﹂ を 作 成 し た と 、 こ の よ う に 解 せ ば 、 ﹁改 之 ﹂ と 記 し た 理 由 も 頷 づ け て く る の で は な い だ ろ う か と 、 窺 わ れ る 。 最 後 に 、 空 閑 の 没 年 時 を 記 す る な ら ば 、 正 徳 三 年 八 月 二 七 日 に 七 一 歳 で 示 寂 す る 。 空 恵 が 五 一 歳 の 時 で あ る 。 余 維 の 北 域 佐 渡 州 の 生 を 受 く 。 姓 は 首 藤 、 長 善 寺 了 賢 太 愛 の 十 男 。 母 は 白 井 氏 、 妙 賢 尼 と 号 す 。 延 宝 第 四 、 十 月 二 十 一 日 州 の 西 蓮 台 に 於 て 除 髪 す む 法 秀 法 師 が 師 と 為 す 。 同 六 年 復 六 月 、 華 洛 に 臍 る 畝 始 め 玄 以 法 橋 に 託 す 。 次 に 玄 誓 法 橋 に 謁 す 。 後 に 学 林 に 入 り 、 恵 明 院 ` 和 尚 に 奉 仕 す る こ と 有 年 な り 。 貞 享 元 、 秋 九 月 六 日 空 晴 法 師 認 ″ の 譲 り を 受 け て 城 南 伏 見 邸 西 方 寺 に 寓 す 。 を 作 成 し て 管 理 に 務 め た の で は な い か と 推 察 す る 次 第 で あ る 。 現 物 確 認 せ て い る の で 、 そ れ に よ る と 、 (﹁ 続 真 宗 大 系 ﹂ 第 十 一 巻 p 44 ) は さ れ て い な い が 、 ﹁聖 教 目 録 ﹂ の 第 四 編 の ﹁小 本 部 ﹂ の 最 初 に 掲 げ る ﹁書 と あ る 。 父 は 、 長 善 寺 第 三 世 了 賢 ( 一 六 〇 八 一 六 八 二 七 五 歳 没 ) で 、
母
は
白
井
時
久
の
娘
で
法
名
妙
賢
(
ヱ
(
一
一
了
一
七
〇
五
九 四 歳 没 ) で あ っ た 。 日 下 無 倫 氏 に よ る と 父 了 賢 は 、 譚 を 太 愛 と い い 、 性 よ く 学 を 好 み 、 漢 玉 篇 七 巻 を 暗 誦 し て 徳 声 遠 近 に 聞 え た 。 世 に 行 は る る ﹁韻 鏡 手 鏡 ﹂ は 、 実 に そ の 人 の 撰 す る 所 。 (﹃ 初 期 宗 学 界 に 於 け る 西 方 寺 空 恵 の 研 究 ﹄ ) と あ り 、 父 了 賢 は 、 漢 籍 に 秀 で た 学 僧 で あ っ た と い う 。 ま た 、 空 恵 の ﹃聖 教 目 録 ﹄ 第 三 編 に は 、 ﹁三 部 図 経 ﹂ 二 部 を 挙 げ て 下 註 に ﹁内 一 部 佐 州 長 善 寺 了 賢 太 愛 遺 物 也 ﹂ と 記 し て い る こ と か ら 、 父 了 賢 か ら の 付 属 典 籍 で あ る こ と が 知 ら れ る 。 す ぐ 上 の 兄 恵 南 は 、 佐 渡 の 真 言 宗 大 聖 院 の 住 持 と な り 、 別 に 長 安 寺 も 兼 務 し て い て 、 空 恵 と 同 じ く 学 究 膚 の 僧 で あ る 。 空 恵 は 、 延 宝 四 年 ( 一 六 七 六 ) 十 六 歳 の 時 、 佐 渡 郡 金 井 村 中 興 の 西 蓮 ニ ー 空 恵 (太 阿 ・ 寂 印 ・ 休 隠 一 六 六 一 一 一 七 四 六 八 六 歳 没 ) は 、 寛 文 元 年 ( 一 六 六 一 ) に 佐 渡 国 佐 渡 郡 河 崎 村 字 椎 泊 の 東 派 長 善 寺 了 賢 の 十 男 と し て 生 ま れ た 。 空 恵 の 撰 述 し た ﹁真 宗 要 決 ﹂ 下 の 奥 書 に 、 自 叙 伝 を 載 ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口
第
一
項
空
恵
の
出
自
に
つ
い
て
第
三
節
西
方
寺
空
恵
の
略
譜
同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 寺 法 秀 の 下 で 得 度 し た 。 彼 は 、 後 年 こ の 師 法 秀 に 対 し て 、 自 撰 の ﹃浄 土 文 類 管 解 ﹄ の 奥 書 に (右 同 よ り 引 文 ) 佐 州 西 蓮 台 に 釈 法 秀 と い う 者 有 り 。 鎮 て 此 の 典 を 崇 む 、 偏 え に 栖 心 の 宅 と 為 す 。 余 薙 染 の 師 と 為 す 。 既 に 去 る こ と 閻 浮 有 年 、 し か り と 雖 ど も 、 彼 の 遺 語 虚 棄 し 難 き 。 と 述 懐 し て い る こ と か ら 、 ﹁浄 土 文 類 聚 紗 ﹂ を 法 秀 か ら 手 解 き を 受 け た と 思 わ れ る の で あ る 。 そ し て 、 そ の 二 年 後 の 延 宝 六 年 ( 一 六 七 八 ) の 夏 に 、 若 千 十 八 歳 で 京 都 に 上 り 、 初 め 三 条 の 福 円 寺 玄 以 に 身 を 託 し て 、 そ こ で 修 学 を 積 ん だ 。 こ の 師 玄 以 に つ い て は 、 爰 に 洛 都 に 玄 以 法 橋 と い う 人 有 り 。 聡 明 叡 智 に し て 、 卓 は 筆 才 也 。 敲 推 は 数 才 の 労 益 を 精 す 。 茲 に 因 っ て 細 素 に 化 を 浴 す る 者 、 其 の 員 を 知 ら ず 。 (﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 巻 七 ﹃阿 弥 陀 如 来 三 種 印 相 秘 決 義 解 ﹄ の 奥 書 p 33 ) と 述 べ て 、 師 玄 以 の 知 識 は 、 多 岐 に 秀 で て 、 そ の 著 述 は 、 数 年 を 費 や す 精 密 さ を 極 め 、 多 く の 学 生 僧 に 指 授 を 施 し た と い う の で あ る 。 そ の 後 、 空 恵 は 東 本 願 寺 の 学 匠 で あ る 西 念 寺 玄 誓 に 拝 謁 し て 、 学 林 (学 寮 ) 生 と な っ た の で あ る 。 そ し て 、 恵 明 院 如 晴 の 門 下 生 と し て 宗 学 の 研 鐙 に 励 ん で い っ た と い う の で あ る 。 二 二 p 30 よ り 引 文 ) 貞 享 元 、 九 月 六 日 、 二 十 四 歳 当 寺 に 寓 す 歴 住 二 十 五 年 と あ り 、 そ れ は お そ ら く 師 匠 の 西 念 寺 玄 誓 が 、 空 恵 の 学 徳 を 認 め て 子 息 空 閑 が 入 寺 し た 西 方 寺 の 後 継 に と 勧 め た こ と に よ る の で あ ろ う 。 時 に 空 閑 は 四 四 歳 で あ り 、 空 恵 と の 年 令 差 は 丁 度 二 十 年 で あ っ た 。 最 初 空 閑 の 長 女 伊 佐 の 婿 と な っ た が 、 二 年 後 の 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 ) 八 月 十 六 日 に 入 寂 (二 一 歳 没 ) し た の で 、 次 女 の 遊 志 を 妻 に 迎 え た 。 下 の 三 女 の 俊 は 、 父 空 閑 の 在 所 西 念 寺 受 玄 に 嫁 い で い る 。
第
二
項
空
恵
の
学
僧
と
し
て
の
事
跡
空 恵 は 、 貞 享 元 年 ( 二 ︿ 八 四 ) に 西 方 寺 第 十 一 世 空 閑 の 養 子 と し て 入 寺 す る こ と に な る 。 ﹁城 州 伏 見 西 方 寺 歴 代 系 譜 ﹂ に は 、 (﹃ 大 谷 派 学 事 史 ﹄ 空 恵 は 、 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 ) の 夏 に 、 同 門 の 請 い も あ っ て ﹃観 経 四 帖 疏 ﹄ の 講 義 を し て い る 。 ま た 同 年 に ﹁浄 土 論 註 ﹂ も 開 廷 し て い る 。 元 禄 三 年 ( 一 六 九 〇 ) に 師 事 し て い た 玄 誓 と 死 別 す る こ と に な る 。 空 恵 三 十 歳 の 時 で あ る 。 元 禄 六 年 ( 一 六 九 三 ) 八 月 十 一 日 に 権 律 師 に 任 じ ら れ た の で あ る 。 所 が 、 記 録 の 上 か ら は 、 空 恵 は そ の 貞 享 三 年 以 降 か ら 享 保 四 年 ( 一 七 一 九 ) ま で の 三 三 年 間 の う ち 、 宝 永 元 年 ( 一 七 〇 四 ) に I 度 き り ﹃三 帖 和 讃 ﹄ を 講 じ て い る だ け で あ る 。 そ の 理 由 に つ い て は よ く 分 か ら な い の で あ る 。 そ し て 、 養 父 空 閑 が 没 し た 正 徳 元 年 の 五 十 一 歳 の 時 、 仕 え て い た 連 枝の 恵 明 院 如 晴 か ら ﹁愚 禿 紗 考 記 ﹂ 三 巻 を 賜 わ っ て よ り 以 後 、 空 恵 の 華 々 し い 活 躍 が 始 ま る の で あ る 。 そ の 業 績 の 詳 細 は 、 後 掲 の 付 録 二 ﹁ 西 方 寺 空 恵 の 事 跡 年 譜 ﹂ に 譲 る こ と に す る 。 空 恵 は 、 本 山 学 寮 で 二 度 (四 回 ) 講 義 を 行 っ て い る 。 一 度 目 は 、 享 保 十 年 ( 一 七 二 五 ) 五 月 九 日 よ り 五 月 十 八 日 ま で ﹁浄 土 和 讃 ﹂ を 講 義 ( 一 回 ) 。 翌 十 九 日 よ り 六 月 九 日 ま で ﹁高 僧 和 讃 ﹂ を 講 義 (二 回 ) 。 そ し て 六 月 九 日 ま で ﹁正 像 末 和 讃 ﹂ を 講 義 す る (三 回 ) 。 こ の 時 、 第 十 七 世 門 主 真 如 上 人 よ り 晒 布 を 賜 わ っ て い る 。 二 度 目 は 、 六 九 歳 の 時 で 享 保 十 四 年 ( 一 七 二 九 ) 四 月 十 五 日 よ り 五 月 二 十 日 ま で ﹁安 楽 集 ﹂ を 二 八 座 講 義 し て い る (四 回 ) 。 そ し て 、 七 月 一 日 に は 、 空 恵 が 隠 居 し た と い う こ と で そ の 労 を ね ぎ ら い 真 如 上 人 よ り 晒 二 疋 を 賜 わ っ て い る の で あ る 。 隠 居 後 、 空 恵 は 、 仮 住 い す る 洛 東 の 蓮 花 王 院 の 側 の 小 坊 や 、 伏 見 西 方 寺 の 自 坊 を 始 め と し て 、 長 浜 、 大 阪 、 和 歌 山 と 各 地 で 講 義 を 行 っ て い る 。 し か し 、 学 寮 で の 講 義 は 、 そ の 後 一 度 も 行 っ て は い な い の で あ る 。 そ し て 、 そ の 著 述 の 数 は 、 非 常 に 多 く て 七 十 部 に 及 び 、 内 容 も 、 宗 乗 か ら 史 伝 、 伝 記 、 寺 誌 、 地 誌 等 に 渉 っ て 幅 広 く な さ れ て い る の で あ る 。 ま た 、 講 義 の 回 数 も 、 生 涯 の う ち で 四 二 回 と 数 多 く 行 っ て い る 。 そ し て 、 そ の 講 義 題 目 も ﹁大 経 ﹂ ・ ﹁浄 土 論 註 ﹂ ・ ﹁安 楽 集 ﹂ ・ ﹁観 経 疏 ﹂ ・ ﹁撰 択 集 ﹂ ・ ﹁正 信 偶 ﹂ ・ ﹁三 帖 和 讃 ﹂ と 多 種 に 及 ん で い る 。 更 に そ の 会 所 も 本 山 学 寮 で は 二 度 (四 回 ) 、 八 尾 大 信 寺 で 五 回 、 願 得 寺 で 七 回 、 自 坊 西 方 寺 で 六 回 、 願 楽 寺 で 三 回 、 即 円 寺 で も 三 回 、 徳 正 寺 で 二 回 、 洛 東 の 小 坊 で ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 二 回 、 教 行 寺 ・ 平 野 恵 光 寺 、 長 浜 御 坊 、 伊 勢 真 楽 寺 、 常 福 寺 、 常 念 寺 、 泉 証 寺 で 各 一 回 づ つ 行 っ て い て 、 あ と 会 所 の 不 詳 が 三 回 あ っ て 、 合 計 四 二 回 で あ る 。 空 恵 の 門 下 生 と し て は 、 そ の 研 究 調 査 が 十 分 に 行 わ れ て は お ら ず 、 そ こ で こ こ で は 、 空 恵 と 何 ら か の 関 係 の あ っ た 者 た ち を 挙 げ て お く こ と に す る 。 ま ず 真 弟 の 西 方 寺 第 十 三 世 正 恵 ( 一 六 八 七 一 七 六 四 七 八 歳 没 ) と 願 楽 寺 第 十 一 世 浄 恵 (寿 量 薙 一 六 九 四 一 七 六 八 七 五 歳 以 降 没 ? ) が い る 。 正 恵 に は 、 延 享 五 年 ( 一 七 四 八 ) 頃 の ﹁蓮 師 講 式 ﹂ 一 巻 の 著 述 が あ り 、 弟 の 浄 恵 に は 、 明 和 五 年 ( 一 七 六 八 ) 頃 完 成 の ﹁真 宗 故 実 伝 来 紗 ﹂ 上 ・ 下 ・ 追 加 (目 録 ) ・ 増 補 (目 録 ) の 四 巻 を 筆 頭 に 、 ﹁教 如 上 人 御 伝 略 並 法 談 ﹂ 一 巻 、 ﹁親 鸞 聖 人 伝 略 ﹂ (宝 暦 十 年 、 一 七 六 〇 ) 、 ﹁八 斎 戒 随 身 記 ﹂ (願 楽 寺 の 浄 恵 作 か 疑 問 ) の 四 部 の 著 述 が あ る 。 他 の 門 下 生 と し て は 、 祐 念 寺 恵 照 、 恩 任 寺 恵 春 、 佐 渡 の 伊 藤 順 祐 、 徳 正 寺 第 八 世 祐 意 、 上 坂 澄 勝 (法 名 了 源 一 六 五 六 一 七 二 七 七 二 歳 没 ) と そ の 息 男 の 兼 勝 (了 廓 一 六 九 〇 一 七 四 〇 五 一 歳 没 ) と 孫 の 上 坂 惟 勝 の 三 代 、 常 福 寺 円 誓 、 正 楽 寺 賢 哲 、 親 戚 の 受 賢 (西 念 寺 か ) 、 正 円 寺 乾 外 、 慶 念 寺 誓 旭 、 即 円 寺 了 閑 、 吉 村 浄 智 ( 一 六 五 六 一 七 二 四 六 九 歳 没 ) と 子 息 吉 村 好 信 、 西 来 寺 六 世 禅 恵 、 伏 見 興 禅 寺 覚 恵 (西 派 ) 等 の 人 た ち が い る 。 ま た 、 そ れ 以 外 に 親 厚 の あ っ た 人 た ち は 、黄 槃 山 万 福 寺 の 院 主 ら 脱 峰 。 二 三
第
三
項
空
恵
と
相
伝
家
寺
院
と
の
関
係
同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 呆 堂 ・ 寿 泉 日 峰 と 、 藤 原 広 豊 卿 と で あ っ た の で あ る 。 二 四 所 で 、 空 恵 は 、 晩 年 の 七 九 歳 の 時 、 即 ち 、 元 文 四 年 ( 一 七 三 九 ) に 記 し た 自 叙 伝 に は 、 (﹁ 続 真 宗 大 系 ﹂ 第 十 一 巻 ) 二 大 信 寺 と の 関 係 如 晴 と 共 に 空 恵 に 命 じ た 常 智 と は 、 常 如 ・ 一 如 ・ 如 晴 ら の 弟 晴 含 ( 一 各 勒 え て 而 じ て こ れ を 栖 心 蔵 に 納 む 。 然 り と 雖 も 、 妨 碍 は 多 端 に し て 、 而 じ て 未 だ 弘 く 講 じ ず 。 是 れ 最 も 慨 然 為 り と 述 べ て い る 。 つ ま り 、 自 著 し た 書 物 類 を 全 て 西 方 寺 の 栖 心 蔵 に 仕 舞 い 込 ん だ に も か か わ ら ず 、 尚 も ﹁妨 碍 多 端 ﹂ を 受 け て 、 中 央 に て 講 釈 が 出 来 な い よ う に な っ た の は 、 悲 嘆 と 共 に 憤 怒 を 覚 え る 限 り で あ る 、 と そ の 胸 中 を 吐 露 し て い る の で あ る 。 し か し 、 空 恵 が 蒙 っ た と い う 妨 難 は 、 い つ の こ と で あ り 、 ど ん な 内 容 で あ っ た の か 、 現 在 の と こ ろ 不 明 で あ る 。 ま た 、 空 恵 の 僧 綱 は 、 元 禄 六 年 ( 一 六 九 三 ) に 権 律 師 を 賜 わ っ て か ら 、 最 後 ま で そ の ま ま で あ っ た 。 所 が 、 玄 誓 の 三 男 立 円 は 、 権 僧 都 に 補 せ ら れ て い る 。 そ れ は 、 空 恵 自 身 が 、 本 山 で の 評 価 を 余 り 得 て い な か っ た こ と に よ る も の で あ ろ う か 、 と も 推 察 さ れ る の で あ る 。 つ い で で あ る が 、 空 恵 に は 八 人 の 子 供 が い た 。 長 男 正 恵 、 次 男 恵 頓 (若 死 ) 、 長 女 妙 智 (若 死 ) 、 三 男 浄 恵 、 次 女 弥 佐 、 四 男 英 昌 (首 藤 政 衛 門 、 伏 見 大 亀 谷 居 住 ) 、 三 女 遊 佐 、 四 女 久 米 で あ る 。 一 願 入 寺 と の 関 係 空 恵 は 、 自 叙 伝 の 中 で 恵 明 院 如 晴 ( 一 六 五 一 一 七 二 二 七 二 歳 没 ) に 永 年 奉 仕 し た と 述 べ て い る 。 こ の 如 晴 は 、 第 十 五 ・世 常 如 上 人 と 第 十 六 世 一 如 上 人 の 弟 で 、 父 琢 如 上 人 の 遷 化 に よ っ て 急 き よ 得 度 (二 一 歳 ) し て 、 直 ち に 学 寮 と の 関 係 を も っ た 人 で あ る 。 そ の 後 、 岩 船 の 願 入 寺 の 住 職 と な り 、 連 枝 格 で 学 僧 で も あ っ た 。 相 伝 家 側 で は 、 こ の 如 晴 を 相 伝 家 の 一 人 と 見 倣 し て い る 。 空 恵 は 、 正 徳 元 年 ( 一 七 一 こ の 夏 に 、 如 晴 と 、 八 尾 大 信 寺 深 広 院 常 智 と の 二 師 か ら ﹁愚 禿 紗 ﹂ の 註 釈 書 を 作 る よ う に 命 じ ら れ 、 如 晴 か ら は 、 更 に ﹁愚 禿 炒 考 記 ﹂ 二 巻 も 拝 領 し て い る 。 し か し 、 空 恵 は こ の 二 師 の 存 命 中 に は そ れ を 果 す こ と が 出 来 ず 、 そ の 二 十 年 後 の 享 保 十 六 年 ( 一 七 三 一 ) 八 月 、 命 に 報 い て ﹁愚 禿 炒 試 解 ﹂ 四 巻 を 草 稿 し た 。 そ し て 九 年 後 の 元 文 五 年 ( 一 七 四 〇 ) に は 、 そ れ に 改 補 を 加 え て ﹁愚 禿 紗 試 解 並 分 科 ﹂ 四 巻 と し て 完 成 さ せ た の で あ る 。の 伝 授 (箱 伝 ) の 仕 方 に 酷 似 し て い る か ら で あ る 。 又 、 空 恵 は 、 常 智 没 ( 一 七 一 七 年 ) 後 の 享 保 六 年 ( 一 七 二 こ 閏 七 月 に 、 大 信 寺 で ﹁浄 土 和 讃 ﹂ を 講 義 し て い る 。 そ し て 享 保 八 年 ( 一 七 二 三 ) に 常 智 の 長 男 明 了 院 真 智 (性 含 一 七 一 二 一 七 四 五 三 四 歳 没 ) が 若 千 十 二 歳 で 、 第 五 世 を 継 い だ の で あ る が 、 こ の 新 発 意 の 教 育 の た め も あ っ て か 、 空 恵 は そ の 後 三 年 に 渉 っ て 大 信 寺 に て 講 義 を 行 っ て い る 。 即 ち 、 享 保 八 年 五 月 二 九 日 よ り 六 月 二 三 日 ま で ﹁高 僧 和 讃 ﹂ (二 二 座 ) 、 同 九 年 八 月 二 日 よ り 二 一 日 ま で ﹁正 像 末 和 讃 ﹂ (二 一 座 ) 、 同 十 年 八 月 に ﹁浄 土 論 註 ﹂ (三 二 座 ) を 講 義 し て い る 。 こ の 真 智 に は 、 三 歳 下 の 弟 円 妙 院 真 覚 (超 芸 、 一 七 一 五 一 七 六 一 四 七 歳 没 ) が い て 、 当 時 若 年 の 兄 弟 は 、 こ の 空 恵 の 講 義 を 聴 講 し て い た も の と 推 測 さ れ る の で あ る 。 弟 真 覚 の 方 は 、 享 保 十 年 ( 一 七 二 五 ) に 真 宗 寺 第 十 六 世 と し て 入 寺 す る こ と に な る 。 そ し て 、 こ の 兄 弟 は 、 後 に 延 享 二 年 ( 一 七 四 五 ) 五 月 、 束 本 願 寺 第 十 八 世 従 如 上 人 の 相 伝 儀 式 の 折 り 、 御 相 伴 に 加 わ り そ の 時 相 伝 家 と な っ て い る 。 真 宗 寺 自 体 は そ の 時 よ り 相 伝 家 の 寺 院 と な る 。 こ の 時 、 御 返 伝 役 を 務 め た の が 、 光 善 寺 第 十 世 本 乗 院 一 玄 (海 顕 一 六 八 三 一 七 四 六 六 四 歳 没 ) で あ る 。 所 が 、 真 智 は 、 こ の 年 の 十 一 月 二 二 日 、 三 四 歳 の 若 さ で 没 し た の で 、 弟 の 真 覚 が 、 真 宗 寺 と 兼 務 す る 形 で 大 信 寺 第 六 世 を 継 ぐ こ と に な っ た の で あ る 。 六 六 八 一 七 一 七 五 十 歳 没 ) の こ と で あ り 、 大 信 寺 第 三 世 恩 光 院 琢 性 (瑛 含 一 六 四 九 一 七 〇 〇 五 二 歳 没 ) が 、 一 如 光 海 と 改 号 し て 門 主 に な っ た の で 、 そ の 後 を 承 け て 大 信 寺 第 四 世 と な っ た 人 で あ る 。 正 徳 三 年 ( 一 七 一 三 ) に は 、 正 徳 発 巳 秋 八 月 。 深 広 院 殿 常 智 和 尚 の 高 命 に 依 っ て 、 こ れ を 記 し 案 下 に 捧 ぐ 。 和 上 歓 喜 し て 、 而 じ て 秘 決 紗 と 題 す 。 然 る に 智 公 命 じ て 云 く 。 必 ず 門 弟 の 気 菓 を 閲 し て 、 此 一 軸 を 授 与 し 、 以 っ て 印 可 と 為 す 可 き 也 。 (﹁ 真 宗 全 書 ﹂ 巻 七 三 ﹁雑 文 集 ﹂) と あ り 、 常 智 は 、 空 恵 に 命 じ て ﹁秘 決 紗 ﹂ を 書 か せ て い る 。 更 に 、 翌 正 徳 四 年 ( 一 七 一 四 ) 二 月 に は 、 ﹁報 恩 講 式 嘆 徳 称 揚 炒 ﹂ 三 巻 の 著 述 も 命 じ て い て 、 同 年 の 七 月 に 空 恵 は そ れ を 完 成 さ せ て い る 。 こ の 常 智 は 、 相 伝 家 の 一 人 で あ る こ と が 十 分 に 推 測 さ れ る 。 そ れ は 、 ﹁相 伝 義 書 ﹂ の 巻 物 類 の ﹁第 一 巻 ﹂ に は 、 深 智 博 覧 の 機 質 あ り 。 或 は 、 鈍 根 浅 識 の 機 、 性 得 あ る べ し 。 所 詮 、 た だ 教 信 教 行 証 の 器 ` 悶 を 感 察 し て 、 其 人 に あ ら ざ れ ば 、 授 与 口 伝 な き こ と 代 々 分 明 な り 。 と あ る 内 容 と 、 常 智 が 空 恵 に 命 じ た 必 ず 門 弟 の 気 高 を 閲 し て 、 此 一 軸 を 授 与 し 以 っ て 印 可 と 為 す 可 き 也 と の 文 面 と の 間 に は 、 そ こ に 同 じ 体 質 が 流 れ て い る と 見 受 け ら れ る 。 ﹁気 菓 を 閲 し て ﹂ と は 、 門 弟 の 天 性 や 能 力 を よ く 調 べ て と い う 意 味 で あ る 。 そ し て こ の ﹁秘 決 紗 ﹂ の 一 軸 を 授 与 さ せ て 印 可 と す る 発 想 は 、 全 く 相 伝 ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 二 五
同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 二 六 は 、 そ の 翌 享 保 八 年 ( 一 七 二 三 ) に 五 五 歳 で 隠 退 し て 、 そ の 後 、 本 山 の 職 分 に 従 事 し て い る 。 従 っ て 息 男 の 清 涼 院 真 悟 (兼 性 一 六 九 一 一 七 六 八 七 八 歳 没 ) が 、 第 八 世 を 継 ぐ こ と に な っ た の で あ る 。 そ し て 、 翌 享 保 九 年 ( 一 七 二 四 ) か ら 享 保 十 一 年 の 三 年 間 に か け て 空 恵 は 、 願 得 寺 に 出 向 し て 講 義 を 重 ね て い る 。 即 ち 享 保 九 年 六 月 に ﹁高 僧 和 讃 ﹂ を 、 十 年 に は ﹁大 無 量 寿 経 ﹂ と ﹁安 楽 集 ﹂ を 講 義 し て い る 。 こ の 折 り ﹁願 得 寺 記 ﹂ 一 巻 も 著 述 し て い る 。 更 に 十 一 年 三 月 晦 日 よ り は ﹁正 像 末 和 讃 ﹂ を 七 座 講 義 し て い る 。 従 っ て 、 こ の 願 得 寺 で の 四 回 の 講 義 を 、 一 悟 と そ の 息 男 真 悟 の 親 子 が 聴 講 し て い た と 見 倣 さ れ る の で あ る 。 ま た 、 空 恵 は 、 享 保 十 九 年 ( 一 七 三 四 ) 七 月 に は 、 ﹃瑞 泉 寺 ・ 本 泉 寺 ・ 願 得 寺 系 図 ﹄ な る も の を 作 成 し て い る こ と か ら 、 願 得 寺 開 基 の 実 悟 (兼 俊 一 四 九 二 一 五 八 四 九 三 歳 没 ) に も 関 心 を 持 っ て い た と 見 受 け ら れ る の で あ る 。 し か し 、 一 悟 、 真 悟 の 親 子 が 相 伝 家 の 人 で あ っ た か と い う こ と に は 、 現 在 の 相 伝 関 係 の 資 料 か ら は 、 そ の 記 録 を 見 い 出 す こ と が で き な い の で あ る 。 三 恵 光 寺 と の 関 係 空 恵 は 、 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 ) 六 月 七 日 に 、 恵 光 寺 系 の 怪 厳 (不 詳 ) の 寺 で ﹁選 択 集 ﹂ の 講 義 を す る 。 そ の 時 、 怪 厳 が 筆 録 し た も の が ﹃選 択 集 聞 書 ﹄ 一 巻 と な っ て 残 さ れ て い る 。 そ の 翌 元 文 二 年 ( 一 七 三 七 ) 五 月 五 日 、 平 野 恵 光 寺 第 八 世 性 俊 (願 力 院 真 行 一 七 〇 一 一 七 五 〇 五 十 歳 没 ) の 請 い に よ っ て 同 じ く ﹁選 択 集 ﹂ を 講 義 し て い る 。 又 そ の 折 り に ﹁恵 光 寺 記 ﹂ 一 巻 も 著 述 し て い る 。 こ の 頃 に 、 恵 光 寺 に い た の は 、 性 俊 と そ の 子 息 性 澄 (真 淳 後 号 真 芸 一 七 二 八 一 七 五 七 三 十 歳 没 ) と で あ る 。 性 澄 は ま だ 九 、 十 歳 位 で あ っ た が 、 父 と 一 緒 に 空 恵 の ﹃選 択 集 ﹄ を 聴 講 し て い た こ と で あ ろ う 。 ま た 怪 厳 に つ い て は 、 不 明 で 分 か ら な い 。 ま た 、 性 俊 や 怪 厳 が 相 伝 家 の も の で あ っ た か ど う か も 、 現 在 の と こ ろ 不 詳 で あ る が 、 性 澄 は 後 に 、 教 行 寺 第 十 世 を 継 い で 、 発 深 院 真 芸 (性 誘 ) と 改 号 し 、 宝 暦 二 年 ( 一 七 五 二 ) に 大 信 寺 真 覚 よ り 相 伝 を 授 与 さ れ て い る の で あ る 。 五 教 行 寺 と の 関 係 空 恵 は 、 享 保 十 三 年 ( 一 七 二 八 ) 二 月 一 日 よ り 三 月 五 日 ま で ﹁浄 土 論 註 ﹂ を 教 行 寺 で 講 義 し て い る 。 そ の 時 、 教 行 寺 に は 、 第 八 世 智 量 院 真 誓 (性 静 一 七 一 〇 一 七 二 八 一 九 歳 没 ) が 住 職 を 務 め て い た が 、 講 義 四 願 得 寺 と の 関 係 空 恵 は 、 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) 四 月 一 日 よ り 五 月 十 日 ま で 、 願 得 寺 に て ﹁浄 土 論 註 ﹂ を 三 八 座 講 義 し て い る 。 更 に 同 五 月 に は ﹃観 経 疏 玄 義 分 ﹄ 、 ﹁浄 土 論 註 ﹂ を も 講 義 し て い る 。 こ の 時 、 願 得 寺 の 住 職 を し て い た の は 、 第 七 世 至 誠 院 一 悟 (兼 海 一 六 六 八 一 七 五 四 八 七 歳 没 ) で あ り 、 彼
六 大 通 寺 と の 関 係 長 浜 の 大 通 寺 は 、 相 伝 家 寺 院 で は な い が 、 そ れ に 準 ず る 寺 で も あ る 。 空 恵 は 、 享 保 十 五 年 ( 一 七 三 〇 ) 九 月 十 九 日 に ﹁浄 土 和 讃 ﹂ を 六 座 講 義 し て い る 。 そ の 時 の 住 職 は 、 第 四 世 超 絶 院 海 徳 ( 一 応 一 六 八 四 一 七 五 六 七 三 歳 没 ) で あ り 、 一 如 上 人 の 五 男 に あ た る 人 で あ る 。 一 如 上 人 は 、 父 常 如 上 人 よ り 相 伝 (直 伝 又 は 的 伝 と も い う ) を 授 与 さ れ て い る が 、 こ の 海 徳 に つ い て は よ く 分 か ら な い の で あ る 。 を し た 一 ヶ 月 余 り 後 の 四 月 十 三 日 に 示 寂 し て し ま っ た 。 そ れ で 、 長 福 寺 の 諦 住 院 真 円 (後 の 従 如 ) を 教 行 寺 に 入 寺 さ せ て 第 九 世 を 継 が せ た 。 し か し 、 延 享 元 年 ( 一 七 四 四 ) に 真 如 上 人 が 遷 化 し た の に 続 き 新 門 主 融 如 上 人 も 示 寂 し た の で 、真 円 が 東 本 願 寺 に 入 り 第 十 八 世 従 如 上 人 と な っ た 。 そ の た め 大 恩 寺 に い た 性 澄 (恵 光 寺 ) が 教 行 寺 第 十 世 真 芸 と 改 号 し て 入 寺 す る こ と に な っ た の で あ る 。 所 で 、 真 誓 が 相 伝 家 の 一 人 で あ っ た か ど う か は 分 か ら な い が 、 真 円 (従 如 ) 、 真 芸 は 前 述 し た よ う に 相 伝 家 の 人 達 で あ っ た こ と は 確 か で あ る 。 蓮 如 上 人 末 子 。 権 律 師 兼 智 法 譚 実 従 和 尚 は 、 永 禄 第 七 六 月 一 日 。 河 州 枚 方 庄 に 於 て 入 寂 。 寿 算 六 十 七 歳 也 。 其 の 遺 跡 順 興 寺 と 号 す 。 然 る に 中 古 、 彼 の 寺 を 洛 陽 に 移 す 。 そ れ よ り 其 の 跡 は 、 荊 莽 の 場 と 成 す 。 専 に 釈 慶 秀 、 本 庄 の 命 を 奉 っ て 、 彼 の 哲 跡 の 麓 に 一 仏 場 を 建 て 、 本 寺 の 通 院 と 為 す 。 こ れ に 因 っ て 当 寺 山 上 に 実 従 和 尚 の 墳 墓 有 り 。 近 年 改 葬 令 む 。 遺 骨 を 山 下 に 移 す 。 貴 房 が 彼 の 和 尚 の 血 脈 と 為 す に 就 い て 、 追 慕 の 思 い 少 な か ら ず 。 男 っ て 其 の 誠 志 を 感 じ て 、 御 骨 を 分 与 令 む る も の 也 。 河 州 枚 方 願 生 坊 享 保 二 十 歳 乙 卯 春 三 月 釈 城 州 伏 見 興 禅 寺 覚 恵 公 ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 七 興 禅 寺 と の 関 係 所 で 、 空 恵 は 、 興 味 深 い 一 文 を 享 保 二 十 年 ( 一 七 三 五 ) 三 月 に 書 き 残 し て い る 。 (﹁ 真 宗 全 書 ﹂ 巻 七 ﹁雑 文 集 ﹂ p 9 ) こ の 一 文 を 仮 り に ﹁実 従 和 尚 遺 跡 記 ﹂ と 名 づ け て お く 。 そ こ で 、 こ の 一 文 と は 、 ど う い う 性 格 の も の か と い う に 、 推 測 の 域 を 出 な い の だ が 、 興 禅 寺 覚 恵 が 、 自 分 は 実 従 の 子 孫 で あ る か ら 、 そ の 遺 骨 の 分 与 を 願 生 坊 某 に 申 し 出 た の で 、 願 生 坊 で は 、 実 従 遺 骨 の 因 縁 に つ い て 、 故 実 に 詳 し い 空 恵 に そ の 代 筆 を 依 頼 し 、 空 恵 は 、 そ の 物 語 を 記 し て 、 依 頼 主 の 名 前
(釈
-)だ
け空
けて
渡し
た。
そし
てそ
の時
の空
恵
の控
えが
この
一文
と
思 わ れ る の で あ る 。 い ま 、 こ の 順 興 寺 実 従 ( 一 四 九 八 一 五 六 四 六 七 歳 没 ) は 、 相 伝 家 二 七以 上 が 、 空 恵 と 相 伝 家 (人 ) 並 び に 相 伝 家 寺 院 (家 柄 ) と の 関 係 で あ る 。 た だ し か し 、 空 恵 の 教 学 そ の も の が 、 相 伝 義 書 の 影 響 を 色 濃 く 受 け て い た か ど う か は 、 今 後 の 研 究 が 待 た れ る 次 第 で あ る 。 い づ れ に せ よ 、 空 恵 と 相 伝 家 の 人 た ち と の 関 係 は 、 彼 の 生 涯 を 通 し て 密 接 的 な 関 係 で あ っ た こ と だ け は 否 定 で き な い で あ ろ う 。 ま た 、 空 恵 が 生 き た 時 代 中 に は 、 相 伝 家 側 か ら 、 相 伝 家 と 目 さ れ る 人 々 が 数 多 く い た こ と を 付 記 し て お く こ と と す る 。 そ れ は 、 本 法 寺 教 瑛 、 長 覚 寺 噫 慶 、 南 涙 寺 樹 心 、 願 入 寺 如 晴 (以 上 が 学 寮 系 で あ る ) 、 光 善 寺 寂 玄 、 一 玄 、 真 玄 、 大 信 寺 真 覚 な ど (以 上 が 相 伝 系 で あ る ) 、 そ し て 、 常 如 、 一 如 、 真 如 、 従 如 上 人 な ど (相 伝 系 本 家 ) で あ る 。 同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 の 一 人 で 、 本 願 寺 第 十 一 世 顕 如 上 人 へ の 相 伝 (返 伝 ) 役 を 司 ど っ た 相 伝 家 に お け る 重 要 人 物 で あ る 。 二 八 し て い る の で あ る 。 ま た 、 撰 述 年 時 に つ い て は 、 目 録 の 第 三 編 の 末 尾 と 第 四 編 の 終 り と の 二 ヶ 所 に 、 撰 述 年 号 と 撰 号 が 記 載 さ れ て い る 。 第 三 編 末 尾 に は 、 正 徳 二 壬 辰 年 六 月 二 五 日 改 之 西 方 寺 権 律 師 空 恵 第 四 編 の 終 り に は 、 正 徳 二 年 六 月 二 五 日 書 之 西 方 寺 釈 空 恵 こ れ に よ っ て 、 正 徳 二 年 ( 一 七 一 二 ) 六 月 二 五 日 に 撰 述 し た こ と が 知 ら れ る 。 そ れ は 、 空 恵 が 五 二 歳 の 時 で あ る 。 次 に 、 撰 述 意 趣 だ が 、 前 年 の 正 徳 元 年 に 養 父 空 閑 が 七 一 歳 で 没 す る こ と に よ っ て 、 空 恵 は 、 西 方 寺 の 寺 務 は じ め 宝 物 や 書 籍 類 の 全 権 を 相 続 す る こ と と な り 、 特 に 書 籍 類 に 関 し て は 目 録 を 作 成 し て そ の 管 理 に 心 が け た と 考 え ら れ る 。 そ し て 、 こ の 目 録 の 見 開 き 右 端 下 に 、 城 州 府 見 金 松 西 方 寺 什 物 と あ る こ と か ら 、 こ の 一 巻 は 、 西 方 寺 の 備 え 付 け 用 と し て 撰 述 さ れ た こ と が 知 ら れ る 。 従 っ て 、 こ の 目 録 一 巻 は 、 当 時 の 学 寮 に 対 し て 公 開 す る 目 的 で 作 成 さ れ た も の で は な く 、 あ く ま で 私 的 な 寺 の 蔵 書 目 録 的 用 途 の た め に 記 し た も の で あ る と 言 え よ う 。 空 恵 は 、 本 の 表 紙 に ﹁聖 教 目 録 ﹂ と そ の 題 号 を 掲 げ て 目 録 一 巻 を 撰 述
第
一
項
撰
述
年
時
と
そ
の
意
趣
第
四
節
空
恵
の
﹃聖
教
目
録
﹄
一
巻
の
概
説
こ の ﹁聖 教 目 録 ﹂ の 編 成 形 態 は 、 四 編 の 目 録 が 一 冊 に 綴 ら れ て 編 成 さ れ て い る の で あ る 。 第 一 編 目 録 ﹁西 方 寺 十 一 世 専 修 坊 釈 空 閑 聖 教 書 写 部 類 ﹂ 第 二 編 目 録 空 恵 撰 述 目 録 第 三 編 目 録 ﹁西 方 寺 安 置 印 判 書 籍 目 録 ﹂ 第 四 編 目 録 外 典 蔵 書 目 録 こ の 四 編 と も に 空 恵 の 直 筆 に よ っ て 出 来 上 が っ て い る こ と で 、空 恵 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 は 全 て 彼 の 撰 述 と い う こ と が で き る 。 所 が 、 一 般 の 諸 目 録 な ど の 紹 介 で 、 目 録 の 第 一 編 目 録 を 空 閑 撰 述 と 記 載 さ れ て い る も の が あ り 、 そ れ は 誤 り で あ る こ と を 明 記 し て お く 。 次 に 、 各 編 の 目 録 の 概 要 を 述 べ る と 、 第 一 編 目 録 は 、 空 閑 の 書 写 し た 書 籍 類 の 目 録 で あ る 。 第 二 編 目 録 は 、 空 恵 が 撰 述 し た 書 籍 類 の 目 録 で あ る 。 第 三 編 目 録 は 、 仏 教 書 籍 類 (内 典 ) の 蔵 書 目 録 で あ る 。 第 四 編 目 録 は 、 一 般 1 籍 類 (外 典 ) の 目 録 で あ る 。
第
二
項
﹁聖
教
目
録
﹂
の
編
成
ら 宗 祖 、 歴 代 祖 師 の 著 述 の 註 釈 書 と 次 第 を 踏 ん で 書 物 名 が 列 挙 さ れ て い る 。 第 三 編 は 、 浄 土 真 宗 系 や 浄 土 教 系 か ら 通 仏 教 系 に 及 ぶ 経 典 、 論 釈 、 伝 記 等 が 大 略 的 に 区 分 し て 列 記 さ れ て い る 。 第 四 編 は 、 儒 書 、 唐 本 、 小 本 と そ の 小 見 出 し が 付 け ら れ て 各 群 ご と に 列 記 さ れ て い る 。 従 っ て 、 こ の 空 恵 の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 は 、 各 形 式 態 の 別 々 の 目 録 を 一 巻 に 編 成 し て 出 来 上 が っ て い る と 言 う こ と が で き る の で あ る 。 ま た 、 各 四 編 の 形 式 は 、 そ れ ぞ れ 別 々 の 構 成 で 目 録 編 集 が な さ れ て い 最 初 の ﹁書 入 れ ﹂ の 後 に 、 あ る 時 期 に 再 度 、 自 撰 の 著 述 名 を 加 筆 さ せ た る 。 第 一 編 は 、 前 半 部 が 著 作 者 別 に 書 物 名 が 列 記 さ れ て あ り 、 後 半 部 は 、 と 思 わ れ る 節 が あ る 。 大 体 が 種 目 別 に 群 と な っ て 列 記 さ れ て い る 。 第 二 編 は 、 空 恵 自 撰 の 著 述 所 で 、 ﹁書 入 れ ﹂ と い う 表 現 を と っ た の は 、 こ の 正 徳 二 年 の 年 号 を も っ 目 録 で あ り 、 ま ず 浄 土 三 部 経 の 註 釈 書 よ り 始 ま り 、 次 い で 七 祖 の も の か た ﹁聖 教 目 録 ﹂ は 、 最 初 の 撰 述 の 折 り に は 、 第 一 編 、 第 三 編 、 第 四 編 の ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口 二 九 こ の ﹁聖 教 目 録 ﹂ 一 巻 は 、 一 応 、 正 徳 二 年 の 六 月 二 五 日 に 完 成 し た と 見 受 け ら れ る 。 所 が 、 撰 述 者 の 空 恵 は 、 後 年 こ の 目 録 に 加 筆 を 施 こ し て い る 形 跡 が あ る 。 そ れ は 、 第 一 編 と 第 二 編 並 び に 第 三 編 と に み ら れ 、 特 に 第 二 編 は 、 全 体 が 後 年 の 加 筆 書 入 れ に よ っ て 成 立 し て い る と 推 測 さ れ る の で あ る 。 例 え ば 、 一 般 的 に 、 自 分 の 著 述 目 録 を そ の 撰 述 継 続 途 中 の 時 期 に 作 成 す る こ と は 、 無 理 な こ と で あ る 。 従 っ て 、 と あ る 時 期 ご と に 加 筆 し て い き 、 晩 年 に 及 ん で 目 録 が 完 成 さ れ る べ き も の で あ ろ う 。 そ れ 故 、 こ の 第 二 編 の 目 録 も 、 書 体 が 途 中 で 変 っ て い る 点 な ど か ら 、第
三
項
後
半
の
加
筆
と
書
入
れ
に
つ
い
て
同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 三 〇 三 編 の 目 録 に よ っ て 編 成 さ れ て い た と み ら れ 、 そ し て 、 第 二 編 は と い う 例 え ば 、 第 二 編 の 冒 頭 に 掲 げ ら れ る ﹁無 量 寿 経 綱 維 炒 ﹂ 三 巻 は 、 そ の と 、 後 年 の ﹁書 入 れ ﹂ に よ っ て 成 立 し た と 推 測 さ れ る か ら で あ る 。 い ま 、 奥 書 に よ る と 、 養 父 空 閑 の 没 後 (正 徳 元 年 ) に 、 師 匠 玄 誓 の ﹁無 量 寿 経 ﹂ そ の 理 由 を 二 、 三 あ げ て 論 証 し て み よ う 。 の 註 釈 文 を 空 閑 の 所 持 匿 よ り 発 見 し て 、 そ れ を 指 南 書 と し て ﹁綱 維 紗 ﹂ 一 、 ま づ 、 第 二 編 に 列 挙 さ れ て あ る 空 恵 自 撰 の 書 物 名 は 、 そ の 書 物 の を 撰 述 し た と あ る し 、 又 、 前 半 部 の 最 後 の ﹃和 讃 秘 決 ﹄ 八 巻 の 奥 書 に も 奥 付 な ど か ら 、 そ の 大 半 が こ の 目 録 の 撰 述 年 時 、 即 ち 正 徳 二 年 以 降 の も 同 様 の 内 容 が 記 さ れ て あ り 、 そ し て そ の 撰 述 年 時 も 、 正 徳 二 年 以 降 と 断 の で あ り 、 よ っ て 目 録 作 成 時 に は 存 在 し て い な か っ た と い う こ と が で き 定 さ れ る の で あ る 。 更 に 、 第 八 番 目 に 列 挙 さ れ て い る ﹁式 歎 徳 称 揚 紗 ﹂ る 。 三 巻 に は 、 正 徳 四 年 ( 一 七 一 四 ) に 大 信 寺 の 常 智 の 命 を 承 け て 、 そ の 年 二 、 右 の 反 論 と し て 、 こ の 第 二 編 は 、 正 徳 二 年 の 時 点 で 他 の 三 編 の 目 の 七 月 に 撰 述 を 完 成 し て い る の で あ る 。 よ っ て 、 こ れ ら の 点 か ら 考 え る 録 と 同 時 に 成 立 し て お り 、 筆 跡 の 異 な る 後 半 部 分 の み 、 自 撰 の 書 物 名 を と 、 第 二 編 の 成 立 年 時 は 、 正 徳 二 年 以 降 と な ら ざ る を 得 な い の で あ る 。 後 年 に な っ て 更 に 加 筆 し た も の で あ り 、 正 徳 二 年 と い え ば 、 空 恵 は 五 二 四 、 第 二 編 全 体 が 、 後 年 の ﹁書 入 れ ﹂ と い う 論 者 の 指 摘 は 、 又 、 別 の 歳 に 及 ん で お り 、 前 半 部 は 既 に そ の 著 述 の 草 稿 本 が 完 成 し て い た 時 期 で 理 由 に よ る の で あ る 。 そ れ は 、 第 二 編 の み が 、 他 の 三 編 と 比 較 す る と ど あ る か ら 、 予 め 第 二 編 と し て 自 撰 の 書 物 名 を 列 挙 し た も の で あ る と 主 張 こ か 異 様 な 状 態 で 記 述 が な さ れ て い る と い う 点 で あ る 。 す る こ と が 出 来 る 。 ① ま づ 第 一 に 他 の 三 編 に は 、 全 て 内 題 或 い は 小 見 出 し が 置 か れ て い 三 、 そ の 主 張 は 、 あ る 程 度 認 め ら れ る と い え よ う 。 な ぜ な ら ば 、 第 二 る に も か か わ ら ず 、 こ の 第 二 編 に は 何 も な く 、 た だ 初 頭 の 書 物 名 編 の 前 半 部 の 書 物 名 の 奥 付 け に よ る 撰 述 年 時 が 、 正 徳 二 年 よ り 十 年 以 内 の 下 に ﹁西 方 寺 空 恵 撰 ﹂ と だ け 記 さ れ て い る の で あ る 。 に 集 中 し て お り 、 奥 付 け は 、 正 徳 二 年 以 前 の 草 稿 本 か ら 清 書 し た 折 り の ② 次 に 、 第 二 編 自 体 が 、 非 常 に 窮 屈 な 状 態 で 書 か れ て い る こ と で あ 年 時 を 記 入 し た た め に 、 正 徳 二 年 以 降 と な っ た だ け で あ る と も 考 え ら れ る 。 は す る 。 ③ 空 恵 の 自 撰 は 、 七 十 部 に 及 ん で い る の に 、 第 二 編 は 、 総 書 物 類 が し か し 、 概 略 的 に 見 て そ う い う 主 張 は 成 り 立 つ か も し れ な い が 、 実 際 わ ず か 二 一 部 だ け 列 挙 し て 、 ﹁改 悔 秘 決 ﹂ 一 巻 と 記 し て 止 ま っ て に 前 半 部 の 書 物 類 の 一 々 に つ い て の 奥 書 や 奥 付 け の 撰 述 意 趣 を 検 討 し て い る の で あ る 。 い く と 、 そ の 推 論 も 影 を 薄 く せ ざ る を 得 な い の で あ る 。 ④ 第 二 編 が 、 第 一 編 と 第 三 編 と の 間 の 紙 面 の 余 白 を 利 用 し て そ こ に
第
五
節
空
恵
の
﹃聖
教
目
録
﹄
一
巻
挿 入 さ れ た よ う な 格 好 と な っ て お り 、 し か も 第 二 編 の 終 り か ら 次 頁 が す ぐ さ ま 第 三 編 と し て 始 ま っ て い る 点 な ど 、 そ の 不 自 然 さ が ぬ ぐ い 切 れ な い の で あ る 。 因 み に 第 三 編 と 第 四 編 と の 間 に は 、 余 白 が 二 頁 あ り 、 そ の 形 式 か ら す れ ば 、 第 一 編 と 第 二 編 と の 間 に も 少 な く て も 余 白 二 頁 以 上 が あ っ た と 考 え ら れ る の で あ る 。 ⑤ 第 一 編 と 第 三 編 や 第 四 編 と は 、 そ の 筆 圧 も 、 書 物 列 記 の 間 隔 も 、 ま た 右 肩 上 が り の 書 体 も 非 常 に よ く 似 て い る が 、 第 二 編 の み は 、 そ の 全 て が 違 っ て い る の で あ る 。 こ と に な る の で あ る 。 最 後 に 、 第 二 編 の 書 入 れ 、 加 筆 は 、 空 恵 と は 別 人 の 筆 跡 で は と の 疑 い も 出 よ う が 、 論 者 の 見 解 と し て は 、 空 恵 の 直 筆 と 認 定 し て お き た い と 思 う の で あ る 。 一 第 一 編 目 録 の 構 成 に つ い て こ の 第 一 編 目 録 は 、 養 父 空 閑 が 没 し た の で 、 空 閑 が 生 涯 に 渉 っ て 書 写 し た 書 物 類 を 、 空 恵 が 整 理 し て 目 録 と し て 撰 述 し た も の で あ る 。 そ し て 、 そ の 目 録 の 構 成 は 、 次 の 如 く な っ て い る 。 ま づ 、 こ の 目 録 の 構 成 は 、 本 文 上 で は 区 別 さ れ て い な い が 、 前 半 部 と 後 半 部 と に よ っ て そ の 書 物 類 の 分 類 の 仕 方 が 相 違 し て い て 、 前 半 部 は 、 著 作 者 別 に 書 物 群 が 列 記 さ れ て い る が 、 後 半 部 は 、 種 目 別 に 書 物 群 が 整 理 さ れ て 列 記 さ れ て い る の で あ る 。 三 一 以 上 、 一 か ら 四 の 論 証 及 び 考 察 し た 点 か ら 総 合 的 に 判 断 す る と 、 第 二 編 の 空 恵 撰 述 目 録 は 、 こ の 目 録 作 成 の 当 初 、 即 ち 正 徳 二 年 に は な か っ た も の を 、 後 年 に 及 ん で 第 一 編 と 第 三 編 と の 中 間 余 白 部 分 を 利 用 し て ﹁書 入 れ 、 加 筆 ﹂ し た も の で あ る と 結 論 づ け る こ と が 出 来 る の で あ る 。 更 に 第 二 編 の 目 録 の 撰 述 年 時 を 推 定 す る な ら ば 、 第 二 編 の 前 半 部 の 書 物 類 の 奥 付 け 年 時 か ら 、 享 保 七 年 ( 一 七 二 こ 頃 と 思 わ れ る 。 つ ま り 、 初 期 の 目 録 作 成 よ り 十 年 後 頃 に 、 更 に 自 撰 の 著 述 目 録 一 部 を 加 え て ﹁聖 教 目 録 ﹂ と し た と み ら れ る の で あ る 。 そ し て 、 後 半 部 の 加 筆 の 年 時 に つ い て は 、 そ の 列 挙 さ れ た 書 物 類 の 奥 付 け 年 時 か ら 、 ﹁存 覚 上 人 伝 ﹂ 一 巻 が 、 最 も 後 年 の 享 保 二 十 年 ( 一 七 三 五 ) 二 月 に 撰 述 さ れ て い る 点 か ら 、 そ の 年 以 降 、 即 ち 七 五 歳 以 後 の 加 筆 と 断 定 す る こ と が 出 来 よ う 。 つ ま り 、 前 半 部 の 書 き 入 れ よ り 十 三 年 後 に 、 更 に 後 半 部 の 十 一 部 を 加 筆 し た と い う ﹁相 伝 義 書 ﹂ 相 伝 家 の 聖 教 目 録 に つ い て 口第
一
項
﹁西
方
寺
第
十
一
世
専
修
坊
釈
空
閑
聖
教
書
写
部
類
﹂
(第
一
編
目
録
)
後 半 部 は 、 ﹁信 一 念 御 筆 記 ﹂ 一 巻 (作 者 不 詳 ) か ら が 後 半 部 と 見 ら れ 、 最 初 の 書 物 群 は 、 一 応 、 真 宗 系 の 初 期 の も の と お ぼ し き 書 物 類 が 混 交 し て 列 記 さ れ て い る が 、 そ こ に は 、 そ の 書 籍 の 著 作 者 選 定 に 、 空 恵 が 多 少 苦 労 し て い た 様 子 が 窺 わ れ る の で あ る 。 そ し て 、 次 の 群 は 、 ﹁変 古 裏 ﹂ 一 巻 か ら で 、 各 師 の 伝 記 群 を 中 心 に 列 記 さ れ て あ る が 、 又 そ れ 以 外 の 種 目 の 書 籍 も 多 少 入 り 混 じ っ て い る の で あ る 。 次 の 群 は 、 ﹁弥 陀 経 義 集 ﹂ 一 巻 か ら で 、 教 義 群 の 書 物 類 が 列 記 さ れ て い て 、 ﹁聖 教 抜 書 ﹂ 一 巻 で 一 旦 締 め 括 ら れ て い る 。 そ の 後 の ﹁善 恵 上 人 法 語 ﹂ 一 巻 か ら は 、 種 目 混 合 で 書 物 類 の 列 記 が あ り 、 ﹁破 邪 問 答 ﹂ 三 巻 で 締 め 括 ら れ て い る 。 そ し て 、 ﹃擢 験 抄 ﹄ 一 巻 か ら ま た 種 目 混 合 で 列 記 さ れ て ﹁葬 礼 記 ﹂ 一 巻 で 締 め 括 ら れ て い る 。 次 の 群 は 、 ﹁絵 像 木 像 記 録 ﹂ 一 巻 か ら で 、 古 記 録 の 書 物 群 が 列 記 さ れ て ﹁続 無 名 抄 ﹂ 一 巻 で 終 っ て い る 。 三 二 次 の ﹁正 信 局 私 記 書 入 ﹂ 一 巻 か ら は 、 正 信 偶 、 和 讃 の 註 釈 群 で 一 括 し て 書 物 類 が 列 記 さ れ て い る 。 次 の 群 は 、 ﹃真 宗 聖 跡 集 ﹄ 一 巻 か ら で 、 二 四 輩 伝 の 書 物 類 が 列 記 さ れ て 、 ﹃越 前 三 門 徒 法 脈 ﹄ 一 巻 で 締 め 括 ら れ て い る 。 次 は 、 二 部 だ け 経 典 群 が 列 記 さ れ 、 次 い で 一 部 だ け ﹁和 論 語 ﹂ 十 巻 が 挙 げ ら れ て い る 。 次 の 群 の ﹁難 波 戦 記 ﹂ 六 巻 か ら は 、 武 家 記 群 の 書 物 類 が 列 記 さ れ て い る 。 そ し て 途 中 か ら は 、 紀 行 群 の 書 物 類 が 列 記 さ れ て 、 終 り 部 分 は 、 雑 書 籍 が 列 記 さ れ て ﹁天 王 寺 年 中 行 事 ﹂ 一 巻 で 締 め 括 ら れ て い る 。 最 後 段 の 二 部 は 、 前 述 の 筆 跡 と 少 々 違 っ て い る の を 、 ﹁都 合 二 百 三 十 九 部 ﹂ と 既 に 総 部 数 を 計 算 し た 後 に 記 載 さ れ て い る 点 か ら 、 後 日 な い し 後 年 に 空 閑 の 書 写 本 が 出 て 来 た の で 加 筆 し た も の で あ る と 見 倣 さ れ る の で あ る 。 同 朋 学 園 佛 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 十 三 号 そ し て 、 前 半 部 は 、 宗 祖 を 特 に 重 じ て 親 鸞 聖 人 の 著 述 群 を 冒 頭 に 掲 げ て 記 し 、 続 い て 元 祖 法 然 上 人 の 著 述 群 と 世 代 を 繰 り 上 げ て 記 し 、 次 い で 聖 覚 法 印 、 隆 寛 律 師 へ と 次 第 さ せ て 著 述 群 が 記 さ れ て い る 。 そ し て 次 に は 、 真 宗 系 の 第 二 世 如 信 上 人 の 著 述 群 と そ の 世 代 を 引 き 戻 し て 記 し 、 以 下 次 第 さ せ て 覚 如 上 人 、 存 覚 上 人 、 従 覚 上 人 、 存 如 上 人 、 蓮 如 上 人 と 歴 代 祖 師 の そ れ ぞ れ の 著 述 群 を 記 し て い る の で あ る 。 二 書 物 類 の 部 数 に つ い て (前 半 部 ) 1 親 鸞 聖 人 製 作 ⋮ ⋮ ⋮⋮ : 七 部 (部 数 ) ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 一 一部 隆 覚 律 師 作 ・ 5 4