邪馬台国の方位
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(2) . 第 17 巻. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 第1号. 邪. 馬. 台. 国. の. 位. 薫. 原. 栗. 方. 昭和4 1年6月. 北海道教育大学旭川分校歴史研究室. i i koku Kaoru KU1 七a on of Yaba rect tIHARA : The Di. 大. 要. 顔志倭人伝の邪馬台国の位置について, 数多く の論攻が発表されているが, 要は方位と里程を どう調和させるかと言う事に 問題の中心がある様に思われる, 私は方位が九十度間違っていると言う説を, 新しい観点か ら論 じて見た, つまり三世紀の頃, 我ヶ国で北をも西をもニシと言った事 があり, その為方位が混乱 したのだ ろうと言う事を論 じて見た, 次. 目. ぎ めい. 1. 二. 一. こ 三 正しい方位もある事0 ついて 序. 邪馬台国の位置について, 大和説と九州説があり, 長い論争が行なわれている, 其の主たる問題点は醜志倭人伝記載の邪馬台国の方位及び里程, 日程のどち らかにかなり無理 があ る点にある, 雛志倭人伝の方位は, 対馬より南渡 して一麦, 末慮より東南に伊都, 伊都より東南に奴, 奴よ り束に不弥, 不弥の南に投馬, 投馬の南に邪馬台があると している, この中, 不弥か ら先の方位を生すと, 夫々水行二十日, 水行十日と陸行一カ月とい う日程に合 う所 が現 実に無くなる, そこで不弥からの方位が誤 り書かれていると して, 九十度ずらし, 南を東とすると, 里程, 日 程が著 しく無理でなくなる. 唯方位がなぜ誤り記されているかについて思わ しい説明 が今迄なされなかった. 私は其について, いささか所見を述 べたい, なお, 邪馬台国を九州の夫々の地に求め, 醜志の方位を生かし, 日程及 び帯方郡より邪馬台国 に至る距離一万二千余里より, 別に記されている不弥国迄の距離 一万七百里を引いた残り, 千三 百余里という里程の解釈に工夫する諸見解 があるが, その中不弥国に至る迄の実際の距離より著 しく伸びている距離の割合で, 不弥国より先を計算 し割に短い距離に する事には問題がある, 不弥国より先は, 日程・里程が漢・ 晦の制で無理が少なく, その里程で日程 が理解出来るので, - 23 -.
(3) . 栗. 輩. 原. 漢・晴制の四百米乃至五 百米を一里とする計算によるべきでは無いかと思う, そうすると筑後 の 山門郡は距離が近すぎる事になる. どこ に 持 っ て 行 っ て も, 十 分 の 距 離 は と れ 無 い .. 叉方位, 日程と道程は順おく りで無く, 直接伊都からのものとを記 しているのだとの解釈がと なえ られた, この解釈 では, 橋本増吉氏が日本上古史研究で批評 して居 られる如く, 醜志の読み方に問題が ある等の弱点が ある. 橋本増吉氏自 身は, 不弥よりの日程 (里程は別であるが) は, 雛略・醜志の著者が, 顔志の邪 馬台国とは別 のものと考えられる大和朝廷 の, 大和か ら九州迄の日程について の知識を得, 邪馬 台 (九州) の知識と混乱 し, 誤り記された ので, 里程記事の方が正 しく, 日程記事は排せられる べ きだとされた, そ して里程を不弥迄の里程の実際より一里をず っと短くと ってある計算で 筑 , 後国山門郡を邪馬台国だろうとされた. しかし上述 した如く, 一里をほぼ正確な数で計算 して, 日程と合うのであるか ら, 両方を別々 の出所を持つ全然別種類 の記事と見る必要はあまりないのでは無いかと思 う, (瀕志の里程・日程には 色々の種類のものが含まれて居り, その中不弥国より先の分は, 国の 戸数が多いが, 多いのは数的に多い丈で無く, 組織の質的な面でも進んだ点がある為で, 里程等 資料も正確であり, 其が訓志に出ているのだと考えられまいか.) 私は奴国よりの方位が九十度違っているのだと思う. 其の論拠と して, 琉球で北の事をニシと言 って居り, 古f 初期には本土でも其の様な使い方も された事が考え得, それで理解できる地名もあるので, 醜志記事にニシが北を意味する事もあり, 西を意味する事もあった為の混乱が生 じ, 元来西と言 ったのを北とと り, 逆に南, 南と記された の で は あ る ま い か と 言 う事 を あ げ た い, ニ シ(註-) に つ い て 琉 球 で は 北 を ニ シと 言 う. ニ シは 北 風 の 事 を も 言 い, 北 風 の 意 の ニ シ が 語 源 ら しい. 西 はイ リ で, 束 は ア ガ リ で あ る, 南 は ハ エ で あ る. イ リ, ア ガ リ は, 日 の 昇 し没 す る方 向 の 意 で, ハ エ は. 南風の意である, 今では内地の用法も用いられ混乱 している, 地名では更に混乱があって, 北の意味のニシに西の字をあてて いる所が所々ある, そ の様 な 所 で は ニ シと よ ん でイ リ と は よ まな い,. 唯表記を内地の訓に したが って西に している丈なのである. 西 表 島 はイ リ オ モ テ で あ るが, 首 里 の 先 の 西 原 は ニ シ バ ル で あ っ て, イ リ バノ レで は な い. こ れ. は其の南の南風原ニハエ バ ルと対になってい る地名なので, 明 らかに北を意味 している, これに西の字を書く のは, その意味をよく考えずに, 内地風につけたのでもあろぅか, 内 地 で は, 古く よ り 西 は ニ シ で あ っ て, イ リ と 訓 ん だ は っ き り した 事 例 は 無 い,. 古事記の仁徳天皇の章に, 天皇が吉備の黒日売を愛 して居 られたのに, 皇后 が ねたみ給うので, 黒日売は吉備に逃げて帰った, そこで天皇はその後を追 って黒日売を訪ね給うた, そして帰り給 うた時に, 黒日売がたてまつ った歌に, 「倭方に ヤマトへ 忘れめや」 とあったという事が記されている.. 西風吹き上げて. 雲離れ. そき居りとも. 吾. この西風 は爾斯と書かれて居り, ニシとよむ べ きである事も間違いない. 叉前後 e関 係から西 - 24 -.
(4) . . 邪馬 台国 の方位 風である事も間違いない, 叉吉備より大和に吹く 風で. 墓 汁. ,. ない い あ鰯 雲 凝 議も ‐ 墨濃 霧菅 幸. . お。編本 疑. 義 蓬 青 葉 態冬 至警雪 蜂霊謄亨議事一 裏. 島. 審議菟 轡;略奪蔓謡冨謝る義貞. 来 糸紡 原 。 1乳. -。を 古 醐 α 、に, 方向を 、 ‐の 高気圧の為に 島に 一こしば しば発生する小規模の. ラ. 舛も 、. 多少変える事が多 いので, 琉球へは北東・北叉は東日. 図 ・. 本の日本海では北より吹く事となる,) ので, 同 じ風 を さ しな が ら, か つ そ れ が 方 位 の 名 と な り な が ら, 別 の方 位 を さ す 様 に な っ た の で は あ る ま い か,. 猶更に, 伊呂波字類捗二 仁に 東風 西南 不周風 西北 泰風 西風 とあるのは, 皆ニシ と読むらしい, 大体西よりに吹く風をニシと言ったのであろ う, 季節風も大体西より吹く と言うに過ぎぬ, 九州では方位が琉球に近 い丈に, 冬の季節風に北を思い浮べる人が多かったかも しれぬ,. 地 雷 大. ネ D 回. 方. 薗. 迎. 〆 /. r. 回 須 . 遊 木. ハ 亀. れ. ; 〆 三末 . . ー 25 -. 木. 噌を 野.
(5) . 栗. 原. 蕪. 内地でも北叉は北よりの方位をニシと言 った事があるのでは無 いかと思われる材料が ある. ニジキノ. トヘ. 神武紀に, 神武天皇が熊野荒坂津 (亦の名は丹敷滴) に至りました, よ って丹敷戸畔と いう者 をうちたもうたとある丹敷は, ニシ十キで, このキは上代仮名遣いの甲類に属するが, 紀伊国の 紀は乙類に属するので, 丹敷は紀州の北と言う意味では無い, ただ紀州の東北部に 市木, 木本, 二木, 三木, 九鬼とつらなる一連の, 地名の中にキを含む 地名 (註ニ) があって, その東北のは しが錦である, この錦は神武紀の丹敷と思われるのだが, 奈 良時代迄の文献には, これ ら一連の地名の中丹敷以外には出ていないので, これ ら一連の地名が 奈良時代以前に あったと して, これ ら地名に含まれるキが甲乙二類のどちらだったかは分 らない, 唯紀伊国の一部分で, つまり古く はキの国の一部分で, 同 じくキと言 っていたのであれば, 区別 する為にも, すなわち二つの地名が共存 しうる為にも, 紀州のキが甲類であるに対 して, 乙類だ っ た の で は あ る ま い か,. (市木より一連の番号のついた地名がつづき, 九に及んでいるのであるから, 其等の地名につ いて い るキ は, 一 グ ル ー プ の も の と 言 え よ う. そ れ は 新 宮 の 北 方 よ り は じ まり, 尾 鷲 の 東 に 及 び,. その東北に錦があるので, 紀伊国に比べ, かなり小さい面積の地域 で, かつ紀伊国の一部分であ る.) さ て 丹 敷 の キ も 乙 類 な の で, ニ シ キ の キ は 此 の 一 連 の地 名 の 中 に 含 まれ て い る キ で あ っ て, 其. 等の地域のニシの方向にあるという意味であろう, そ して丹敷の位置はそれ ら一連の地名の東北にあるので, ニシは北の意にと って差支えない. 此は古典に出, 現在使われている地名で, ニ シを北の意味を二使 ったのではないかと思 われる例 で あ る,. 叉現存地名に, 現在長崎市内に入れられている西浦上は浦上のほぼ真北に ある. 叉鹿児島市内 の西別府は五別府の北にある, 叉琉球の様に, 西をイリと言 った事もあるのでは無いかと思 われる材料はある. するとニ シは 西以外の方向をさ していたかも しれぬと言う事になる, 古事記に, 開化天皇の御子に御真木入日子印恵命の御名がでてより, イ リ(註三) を名の中に含 む 人 々 が しき り に 出 て い る,. 其は成務天皇の御代か ら叉出無くなる, 応神天皇の御代, 高木之入日売命と いう妃の御名が出ているのが最後で, それより全く 滋無く な る,. 書紀でも大体同 じである, 御真木入日子印恵命は, 書紀に, 命が即位 して崇神天皇になりたもうて, 任那国が入貢 したの で, 任 那 が も と の 名 を 改 め, 天 皇 の 御 名 の 一 部 を い た だ い て, ミ マ ナ と よ ば れ る よ うに な っ た と. 言う事が記されてい る, その御名を持ちたもう天皇である, この御名の入を西の意 に解 した解釈は未だ現れていない, ただ西をイ リという琉球の方位名が, 上代我ヶ国で行なわれていた可能性もあるのであるから, この御名の入が西の意であると言えるかも しれぬ, も し西の意だとすれば, 任那などが朝貢し, 西方経営に関心が持たれた時イヒを反映 して, 西= イ リという言葉を名の中に含む事が多く な った のかもしれない, 麦那事変中, シナ子と言う名な どが, し ましば付け られた様にである. 東国経営の比重は軽かったので, アガリなどという言葉を含む名はあまり付け られなかったの 26 -.
(6) . 邪 馬 台 国 の 方 位. だとも考えられる. 丹敷などの地名も其頃付け られたものであろうか, 神武紀では, 大和に入りたもう前に, 丹敷 浦にいたりたもうたのであるが, 九州と関りある地名だとすればなお面白い, 琉球に近く, 季節 風もより北向きだからである, ◆ 西別府は中世以降のものであろう,. 書紀に南北を日の縦, 東西を日の横と名づけたもうたとある成務天皇の御代より, 入を含む名 が見えなくなる のも面白い, 日 の縦, 日 の横 は 傍 訓 ヒノ タ タ シ, ヒノ ョ コ シ で ある, 日 本 書 紀 私 記 (甲 本) では, 日 縦 は, ヒノ ョ キ シ, ヒノ タ ッ シ で あ り, 日 機は ヒノ ョ コ シ で あ る. 私 記 (乙 本) で は 日 太 々 末 之 と 日 与 古 之 で ある. こ のタ タ シと 言 ぅ は 日 の進 路 を 断 ち 切 る か らタ タ シ, タ ッ ツな の で あ っ て, 北 を キ タ と 言 う のは, 分 つ こ と を キ タ と 言 う の で, ヒノ タ タ シと 同 じ着 想 よ り 出 た 名 か と 思 う, 断 っ て 分 つ か ら, 分 ニ キ タ ニゴヒな ので ある. ヒノ ョ コ シ の方 も 太 陽 の進 行 に 並 行 して い る か らヨ コ シ な ので あ ろ う, 此 も日 向・÷→ ヒ ム ガ シ ÷→ ヒ ガ シニ 東 と 関 連 の ある 名 で あ り, 着 想 で あ る,. のぼり, いりは, 太陽が勝手に昇り, 沈む のであるが, ひがしの方 は人間が日に向 って行く 積 極性, 主体制があり, かつ日に平行する抽象的な線を考え, それをヒノョコシと名 づける客観的 な自然把握 の上で, それを基準に日に向 って行こうとする主体制が, ヒ ガシ, ヒムガシの言葉の 上に見出されるのは面白い, それは叉自分自身を客観的に見うる精神がめばえていた事のしる しでもあろう, その様な精神は, 国土統一の気運がすすむと共にめを え た も の で あ ろ う. 四道将軍, 景行天皇と倭建命の国土統一事業のあと天皇になりたもうた成務天皇の御代, 南北, 東西 の名を定められたと言う記事は, 人間の精神の発展の順序か らいって自然な位置に書かれて い る と 思 わ れ る,. (広く他の社会と交る機会が人間を対目的にするのである.) ヒ ノ タ タ シ, ヒ ノ ョ コ シ の名 は お そ らく, キ タ, ヒ ガ シ な ど の名 と ー し ょ に か, 或 は 相 前 後 し. て使われは じめたも のであろう, 景行天皇が, 日向国 の名を日に向 っていると言うのでそう付けたもうたと言う景行紀の記事は, 東をヒガシと言い出した事とも関連のある伝承であったのかもしれぬ, 西風の吹く方向位では間に合わなくなり, 叉がまん出来ない程あいまいな表現 の様に, 人々の 心 に 感ぜ られ 出 して, ヒノ ョ コ シ に そ うて ヒ ガ シ の 反 対 側 を ニ シ と い う 様 に 定 め られ た のか も し. れぬ, そ の場合ニシが西にな ったのは, 大和では冬の季節風が西北より吹き, 西に してもさほど不自 然 で な か っ た 事 と, ヒ ノ タ タ ツ, ヒ ノ ョ コ ツ と い う方 位 観 の基 礎 に な る 着 想 に む す び つ い て, キ. タと言う言葉がすてがたく 大きく 心にうつ ったのであろう, キタについては景行紀の碩田, 葦北は, 多氏の分国, 倭建命の御東征などに関りあったと思わ れる 葦の分国の意かと思われるが, 日向の国名起源と相並後して出てくる のは興味ある事である. 人の名にイ リが使われ無くな ったのは, 西方への大和朝廷の関心が低く なった為では もとより 無くて, 代りの方位名 が出てきた為であろう. 要 は, 瀕志の倭人伝の原資料が集められた頃は, 国家統一とそれにともなう精神的な発展に応 じて, 方位の正確なかつ新 しい呼び方が始り, 一方其を知らず, 或は其に馴れない人達がいて以 -2 7-.
(7) . 栗. 原. 薫. 前 のよ うなよ び方 を し, ニ シ と 言 っ て も どこ を い っ て いる の か 分 らぬ 状 況 だ っ た の で は あ る ま い. か, 殊に九州など西 の地帯ではそうだ ったのであろうか, ヒの言葉 のみ行われ, 方位観が確立 した時に 琉球では, 国家統 一の域外に あったので, ニシニゴ も, 冬 の季節風が真北よ り吹く こともあり, ニシニゴヒとなったのであろう。 それでも日本本土語 のニツ; 西も伝わって きて, 闘志の頃あったかと思われる様な混乱がおきた, そして今に及んで いる, 上述二ツバ ル-西原などはその一例で ある, かくて 醜志倭人伝の方位に混乱 が生 じたのであろう, 三. 正しい方位もある事につい て. さてニ シに北と言う意味と, 西と言う意味と があって, 邪馬台国よりニシヘ陸行一月水行十日 で投馬国に, 没馬国か ら西へ水行二十日で不弥国に達するのだと 言う説明を, ニシを北の意に 解 し, 邪馬台国 の北に投馬国, 投馬国の北に 不弥国があると記 した資料が出来, たまたまその資料 が採用されて, 醜志倭 人伝の該当部分の記 事にな ったのであろう. それに しても, 末慮国までの方位は間違いないのだ し, 未慮国より不弥国に至るまでは, 東北 と言うべ きを東南と記 すなど問題はあるが, 東を南に間違える程間違 って いない. 東北と東南で は, やはり九 十度違 って いるがその程度な ら間違いが自然に起り得る, 此はなぜか, 醜志倭 人伝の記事は数種 の別々 の資料を合わせて 作られたも - 橋本増吉氏は日 本上古史研究で, のと して, 其れ等は伊都国 まで, 不弥国まで, それ以下な どである, 最初 の二つが九州邪馬台国 について の資料だ のに, 不弥国より先にはやや後で発達 した大和朝廷について の資料, 日程等が 含 まれて いる のだろうとされた. (諸国 の国名, 里程, 日程, 方位に関する記事の部分について である.) 橋本氏は方位は九州邪馬台国のだとされて いるが, 上に論 じた様に, 方位について まちがいが あっ たとすると, 方位の分も, 日程, 里程と結びつけてよ い一 グルー プ の資料つまり北九州より 大和にいたる資料, つまり大和朝廷の資料と考えてよい のではあるまいか. そうすると, 不弥国迄の資料も, 大和朝廷を中心とする資料と考えてよくなる. それに しても橋本氏の論ぜ られた様に, 夫々の部分の記載事項にかなり相異があり, 別々 の資 料にもとずくと 思われるので, その各々 の部分の一つ丈に方位のあやまったのがあり, 他の資料 は あやまっていなか った, それを知 らずに綜合したのだと考え られる, そう考えると, 方位の正 しい部分がある事が 説明できる. 翻志の誌す所を見るに, 伊都国迄は 非農業地帯と見える, 一支に水田がある事は記 されている が, 食料に不足する程であった, 伊都国以東は, 一般の地域つまり農業地帯であったろう. 水田農業は奈良時代に, 耕作法が大変 したが, 猶本質的に は, つまり牧畜 や狩猟拾集に比べて は同 じ様なものであった, 邪馬台国の人々は, 本質的には奈良時 代の人々と大差ない生活をして い た と 見 る べ き で ある.. {東南アジア, イ ンド等の水田耕作の技術は, 我が国奈良時代以前, つまり邪馬台国時代と似 ているとされているが, その収獲量は 一反当五斗乃至八斗である. 律令時 代, 水田等級の最下の ものは一反当三斗であったが, 実際には適用されず, 次 の六斗か ら適用された, 一反の面積が広 かっ たので, 今 のに直 すと一反当五斗になる. 今邪馬台国の水田一反当収量が五斗だ ったとする - 28 一.
(8) . 邪 馬 台 国 の 方 位. と, 四十万町歩の水田があれば二百万の人口が養える事になる. (一人平均一年一石食すると し て) 四十万町歩は和名抄田積の約四割であるが (今の約九分の一である) , 此位はあっ たのではある まい か,. 邪馬台国の戸籍について は, 先に本誌 (註四) で発表したが, 大体一戸十五人位で (私はその計 算で, 一 戸の婦数を誌 してある のを資料の一つと してあげて, 今迄のものにつけ加えた) , 伊都 一支 国より邪馬台国に至る五ヵ国戸数十四万二千戸 (私は社会の異る末慮, , 対馬 の一戸当人口 は別であろうと して計算より除いた, 叉邪馬台国より先の国々は, 仮空の国叉は邪馬台国などに 含まれている国々で,、別 の資料だ った のが, 未整理 のまま付け加えられているので, その戸数は 分 ら無 い ので なく, 邪 馬 台 国 よ り 先 の国 々 のに 含 ま れ て い る のだ, した が っ て 伊 都 国 よ り の五 ヵ. 国の戸数で日本の大体の戸数を尽 していた のだと主張した) の人口は約二百万人となる. 栗原朋信氏がさきに, 西域 の例をひき, 醜志の戸数などの数が大体正 しく, 当時 の国々はそれ を裏付ける調査資料をもっていたのだとされた, 其れは正 しいと思う. 唯三韓諸国には道程記事が無く, 倭人伝のも, 帯方郡より狗邪韓国に至る七千余里は約十倍の 誇張で, 未慮にいたる千里 づつのニ つ の航路も誇張がいちぢる しい. 其れ等の国々には正確な資 料が無かった ので, それが醜志の道程に反映 した のだろうか, 正確な資料が無かった のは社会が 未発達で, 国家組織も小さく未発達だ った為だろ う, 大国になれば, 統治の為にも, 夫々 の資料がととのっていたと思われる, 叉一般的にも社会的 成熟があって, 大国を組織できたのだと思う, 翻志の国名, 方位, 道程記事がいくつかの原資料に分かれると思われるのは, た またまそうな った のでは無くて, 正確度 の異う幾種類かの原資料が出来, 其れ等を綜合せざるを得ない事情が あったと思われる, 狗奴国のは, 伊都国迄の部分か, 邪馬台国のすぐ後についていたのだと思われる. 前者だと邪 馬台国の南はそのまま南となり熊野にでもなるのであろう, 後者だと南は東となり, 信濃, 毛野と野を含む地名の全部叉は一部分になるのであろう, 方位を九十度直してよいと言う事になると, 邪馬台国は大和地方だと言う事になる. 註一 ニシの譜は, 叉にせの意がある. ニシの方角が必ずしもはっ きりせず, あるいは方言などで西やら北やら分ら無い事が時にあった為か, 偽 の意をもつようになったものであろうか. 摂津国風土記逸女 (釈日本紀) に偽者土蝶があり, 此は常陸国風土記の荒敗 (俗云阿良夫流爾斯母乃) と あるのに相応じ, 偽者は荒賊の意であろうが, 叉偽をニシと言ったらしい事が言えるかもしれ無い, (でたらめなど言うので, 偽者と荒賊は相通ずるのであろう) . 叉中世より鰍を餅と書き, ニシンと言う事は, にせの魚の意であろう, 北海道で財源として非常に尊重し, 単なる魚で無いとして餅と書いたと言う説が, 北海道で一般に行なわ れているのは間遠いであろう. 今は鰍はごく下等の魚としか見られていないが, 昔もあまりおいしい魚でなかったので, 魚らしくもない 下等の魚と言う意味で, にしん=偽の魚とよばれ, 餅と書かれたのではあるまいか. あるいは北の魚の意ででもあるのか. 似るは, 西÷→偽から出た語なのであろう. 註二 丹数=錦;ニシキにつづく一 連の地名には, 九木滴クキウラ, 九鬼村クキムラ, 八鬼山, 三木崎, 三木浦 ミ キウラ, 三木里浦ミキサトウラ, 二木島浦ニキシマウラ, 二木島里浦ニキシマサトウラ, 木本浦キノモト れ木カウノキ, 赤木アカキ, 木津 ウラ, 羽市木, 上市木カミイチギ, 下市木シモイチギ, 遊木浦ユキウラ, ね 呂等がある, この中浦がついたのと, 数がついたのは一連の地名と思う. 他は紀州のキかもしれぬ, - 29 -.
(9) . 栗. 原. 蕪. 四, 五, 六, 七が無いが, 現地をおとずれた人の話では, 小地名にあるそうである, 其等は南北の牟婁郡の海岸にあるのを見ても, 紀州のキとは別のキだと考えられよう. したがって, 紀州のキは乙類のキ, 丹敷の数のキは甲類のキであるが, 其は木本などを中心とする一連の キを含む地名を持つ地方の地名のキと紀州のキは関係が無い事を示している. 更に丹数が其様な地帯の一番北にある事によって, そのニシキのニシは北の意に解しうると言 う 事 に な る,. (地理調査所五百分の一地図, 及び小川琢治, 市町村大字読方名菓) 更に南牟婁郡には西の字のついた地名が多く, 吉野郡 (奈良県) の北山川ぞひに上北山- 下北山の両村が あって, その南に東牟婁郡 (和歌山県) の北山村と, 南牟婁郡 (三重県) の西山村が北山川をはさんで相対 している, この西も北の意かもしれぬが現在の地名なので違うかもしれぬ. 北の意なら北山と同じ意とな り, 同じ意味の地名が川をはさんで両側にある事になる. 註三 東夷伝には, 韓土に日本人が鉄をとりに渡り, 叉狗邪韓国など日本人の国と思われる国が, 対馬海峡の北 岸にあっ たと記されている. 叉ー支, 対馬の人々が乗船南北に市耀したと言うのは, 両島の民が, 一方では海物を食する状況で, 一方 ではやや田地がある程度の民なのでは, あるいは日本本土から商業の為に移住した人々かもしれぬが, それ にしても九州, 朝鮮間の海峡を盛に往復, 商業に従事していたのが思いやられ, 叉伊都に一大率を置くな ど, 邪馬台国では西方経営に意を用いて, 重視していた事がうかがわれる, その様な状況は, 醜が楽浪郡を回復して後そうなったのでは無く, それ以前からそうだったのであろう. わずか十年位で急に変化が起きるとは思えず, 叉起きたら麓志に記されている筈だ. 更には翻の楽浪郡回復と同時に使を郡につかわす様な機敏な活動は, 西方経営に力を尽していてこそ可能 な事であったろう, 三品彰英先生が, 朝鮮では日本の神紙についての信仰が古代にあったと説いて居られるか, 其は日本の韓 土への武力進出の前に起源があるのであるが, 其は恐らく邪馬台国を書き残した醜志の時代よりやや前の時 代なのであろう. 其は叉イリなどの言葉が頻繁に使われていた時代なのであろう. 天皇やその御子達・妃達の御名にイリの名かは入ってくるのは, 西方経営が盛んになった状況を反映して いるのであろうと思われる, その頃はまだ西ニニシの称ははじまって居らず, 両方の言葉が使われる様になって髄との交通がはじまっ たのであろう, ニシが使われだすとイリの御名が無くなる, それは書紀, 古事記では成務天皇の御代なのである, 註四 北海道学芸大学紀要十五巻二号 拙稿 古代の地名について (7). 一 30 -.
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