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G. ジラールと相互教授法(2) : 近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革(そのニの2)

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(1)Title. G. ジラールと相互教授法(2) : 近代学校システムの形成と教授・教育方 法の改革(そのニの2). Author(s). 大崎, 功雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 52(1): 33-45. Issue Date. 2001-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/239. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 2巻 第1号 北海道教育大学紀要 (教育科学編) 第5 l l霊園doUDi iぢ ofEduca錠on (Educa錠on) Vo Jouzn鑓ofHo ver s ‐52 ‐I , No. 平成 13 年 9 月 September , 2001. G.ジ ラール と相 互教授法 (2) --近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革 (その二の2) --. 大. 崎. 功. 雄. 北海道教育大学旭川校教育学教室. G‐G i u b QgSys t r a rd紅縦 Mum頭Teach em (2). - -Fo ld ‐System al rma恒onofl品e Modem School Re角 mlofl故e1each曲 骨 組1dEdu(盟檀on司-Me故od (Pzmt2 No. 2) - - ,. OHSA窓 【 ユーSa。. DePalt座l ienceofEduca甑on A ikawa Ca entofSc S司b jmPus ,L ,. HO I由幻doUni iぢofEducat i vers on. 第二部目次 は じめに. 1.〈主体〉の制作と相互教授法 学校=啓蒙の制作物 従属 〈主体〉 の形成と教授法 2. G‐ジラールと相互 教授 法. 「授業形態」 とは 〈等級 化〉 と相互教授法 「十 人組」 とベル;ラ ンカスター・ シス テム. 「混合形態」 と〈等級化〉 〈等級化〉 の機能. (以上, 本学紀要 第5 1巻 第2号) 3. 相互教授法の訓育的機能 〈等級化〉=〈差異化〉 への転換 相互教授法の 「原理念」 学習の容易化・遊戯化と市民的勤勉性 法の支配=自発的服従と相互教授法 人間的命令=指導力の形成-- 「子 どもの世界」 の訓育機能 〈学習の共同性〉 と教育者の資質論 自律した個人の関係性--相互教授法の世界 (以上, 本号) 33.

(3) . 大. 崎 功. 雄. 3. 相互教授法の訓育的機能 承前-- 〈等級化〉 = 〈差異化〉 への転換 ジラールの第一論文(「教授形態論」 )において中心テーマをなした相互教授法の核心は, 教授=学習内容の )〉と進 級の シス テム 化 にあ っ た. こ の 〈等 級 化〉 に よ っ て く分節化〉 による 生 徒 の く等 級 化 (Grad頃enmg. 企図された機能は等質化された学習集団 (分団) における生徒の適応 (進度に応じた学習) にあっ たが, 同 時にその隠れた機能として学習進度の序列化とその制度化が内包されていた‐ それはジラールの未 だ知らざ る機能であるが, 明らかに学習の近代化がはらむ二重機能 (学力形成とその序列化) を意味していた. とこ ろ で, ジ ラ ー ル にお い て は気 づ か れな か っ た, こ の 〈等 級化〉 の は ら む 諸 矛 盾 につ い て, ジ ラ ー ルと は異 質の立 場, す な わち, ベ ル =ラ ンカス タ ー ・ シス テ ム に反対 の 立場 か らの 問題提 起 もあ っ た.す な わち, ドイ ツの - 教 師 (J . ポ トフ ィ ルス) の 書簡 集(『ドイ ツ 的 意 味 と精神 にお ける ベ ル =ラ ンカス タ ー 法 に 関す る lus Z tusPhotophi 書 簡 集, あ る い は ドイ ツ・ ラ ンカス ター 派 の 欠 陥 につ い て(Jus e 湧 け α定 Lαれcα紡 げ= eR ,βr d d sc膨 れ Lαれcαsただ≠,1827)』)に お け Met九odeim de賜 舵 膨 れ Sれれeは箆α Gei s≠ e ,oderdαs Mαc励んe認容e er e“Z. るつ ぎのよう な 認識 であ る‐ ベ ル=ラ ンカス ター ・ シス テ ム で は, 生 徒 の母 集 団 の 中 に学習 レベ ルの 同 じ グ. ループ (等質化による分団) を形成し, 生徒の達成度に応じてその分団から進級させたり, 後退させたりす )」 と押さえたうえで, 分団におけ 土山e i i t ることになるの だが, この論者は, この く等質化〉 を 「平等(G1 e c )」 を拡大し, l i 土山e i t る 「平等化」 は生徒全体の 「平等化」 につながるのではなく, むしろ 「不平等(Ung c e 固定するものだと批判する. 平等システムをあまりにも拡張しすぎるものは, 明らかに誤っています. 神は賢明にも, その偉大な 仕事に際しても, 人間を相互に不平等にしたのです‐ だが, その理由をあなたに詳しく説明する必要 が あ る で しょ う か. ラ ンカス タ ー の 方 法 が どれ ほ どの 平等 を も た らす か を見 てく ださ い. 友 よ, 人 は上 述. の方法によって平等よりもむしろ不平等を多く引き起こしているかのように私には思えます‐ それはど lml ), ま た私 は そ れを 見 た こ と i う いう こ とか? 仮 に私 が80~90人の 生 徒 のク ラス を10の 分 団 (Abthe g. i があるのですが, 1 3の分団に分解したとしよう‐ そうする と各区分 (Di琉s on) において は [学力の- 引用 者] かなり等 しい生 徒 たち が一 緒 にいる こ と になる で しょ う. しか しな がら, 一 つ のク ラス の中 の l d 〕e ) がそ れ だ けい っ そう 大 きく な ら な い だ ろ う か? そ たく さ んの 分 割 に よ っ て, 差 異 (Ver i t s chi ede ) を生 み l l i i i t して そ の と き に は, 一つ の ク ラス の 中 にほ ぼ全 体的 な平 等 ( e cm〕 e z emucheumver se e Gl. 出すことはまったく不可能ではないだろうか?一クラスの中の10のクラス (分団のこと-引用者) の生 徒たち はさま ざまな段階に位置しており, すべてのものが一つの段階に達する ことは決してありませ ) 1 ん. 彼 ら は結果 的 に不平 等 のまま です.(. ここに危倶されている事柄は, 生徒の母集団の中に学力の等しい分団を形成する 〈等級化〉 は, それが精微 であればあるほど, 等級間の差異の拡大と固定化につながっていくのではないか, という懸念である. 要す る に, ベ ル= ラ ンカス タ ー . シス テ ム にお ける 〈等 級 化〉 は等 級 間の 〈差 異化〉 に転 じる こ と によ り, 平等. ではなく不平等の拡大 (序列化) につながる, というものである. すでに見てきたように, L‐ ナトル プが ( 2 )と は こ と な っ た )〉 i 競 争原 理 を 排 除 した と ころ に想 定 した, 〈向 上 心〉 に 基 づ く 〈等 級 化 (C1ass道c enmg 3 ) 次元 でと ら え られている こ と は確 か である( ‐. また, この著者は, 生徒の自発的な級替えが, じつは勤勉や学力に見合っ た学習を保証するものではな く, 逆に怠惰を助長する仕組みともなることを危倶している‐ 例えば, ドイ ツにおける或るランカスター・ 34.

(4) . G. ジラールと相互教授法 (2). スクールでの実例--自発的に降級を申し出た生徒の実例--を追跡して観察すると, その降級の申し出は 生徒の謙虚さの現れではなく, よりレベルの低い級 (分団) において楽して学習する口実であっ たことが判 明 した と いう ◎.. さて, いずれにせよ 〈等級制〉 のもとでの進級システムは, 生徒が元の等級から解体され, 新しい等級へ 進むことを意味するから, そこでは く生徒-生徒関係〉 の解体と再構成がつねに進行する. つまり, 学習の 成果は個人としての生徒に還元され, 生徒は個人として進級する. したがっ て, 形態としての相互教授法 は, 結 果 と して 〈学習 の個 別 性〉 を生 み出 す こ とと なる. ジ ラ ー ル に と っ て, こ の 問 題 は どのよう に認 識 さ. れているだろうか. 結論を先取りすると, ジラールは 〈学習の個別性〉 ではなく, もっ ぱら相互教授法の学 「相互教授の道徳的 習過程と形態に着眼することにより <学習の共同性〉 を主張する. ジラールの第二論文( 価値論」 )がこの課題を扱うこととなる.. 相互教授法の 「原理念」 「学校における理解力の陶冶に関しての, 新しい相互的教授形態の長所はすでに暗示されましたから, そ )(傍点は原文の隔字体) 第二論文がこのテー 5 れではつぎに, 私 はその道徳 的価値について言及します」( . マの下で取り扱う教授形態は, 「より新 しい相互教授の形態」 であり, 第一論文で見た 「十人組」 な どの古 い形態は対象とされない‐ 同時に, 新しい形態についても, 下記のように, 最初 から重大な制約が設けられ て いる.. また, 相互教授そのものだけが, つまりその本質だけが重要であります. そして, 相互教授と結びつ けられた種々さまざまな学校装置あるいは装飾はまっ たく重要ではありません. ここにおいては, 国民 的慣習 (Na ) が, 新しい学校の設立者や後援者の性格が, 教育に関するその都度の見解 i l i t t t =S ona e が, そ して しかも 笑う べ きオリ ジ ナリ ティ 要求 が, 強力 に語 ら れたの です. こ こ で は こ れ らの こ と は , ‐ す べ て脇 に置 か れな け れ ばな りま せ ん. な ぜ な ら, 私 は, 原 理念 ( Ur=ldee ) にお い て 与 え ら れて いる. ような, 単純で純粋な相互教授だけを扱わねばならないからです. その原理念とはつぎのようなもので す ゴ順序 をふ ん で行 わ れる, 生 徒 の 生 徒 による 教授 (Unte r l i chtderSchimerdmchsch「merim st面en‐ ( 6 ) gz江1ge)‐. こ のよう に, ジ ラー ル は いう と ころ の相 互 教授 法 の 「原 理 念」 の み を 問 題 とする した が っ て ベ ル = ラ ン . ,. カスター.システムにおけるさま ざまな装置 (教室内に設けられた一斉行動や秩序形成のための諸々の教具 や シス テム, 賞罰 シス テム 等々) は視 野の 外 に置 か れる. 第一 論 文 にお ける と 同様 に ここ でも ベ ル= ラ ン ,. カスター・シス テムの教育空間はとらえられない. また, 生徒の役割の相違 (例えば, 反復練習 だけを担当 する 復 習 教 師 Repe i t t l l口er で or である か, ある 一 定 の段 階 で教 師に代 わ っ て 教授 を 担 当 す る 助 教 師 Unter e. あるかのちがい) も 「どう でも良いこと」 とされる‐ それは, どちら であっ ても結局 は 「生徒が生徒 に , よって教えられる」 からだという‐ ただ, 「全員に順番が回っ てくるように 教える生徒がしばしば交替す , 7 ) る こ と」 だ け が留 意 さ れ な けれ ばな ら な い という( ‐. だが, ジラールがこの相互教授の 「原理念」 に含めるいくつかの指標がある‐ それは 第一に多数の段階 , 設定, 第二に生徒の等級化である. 私 はま た, ク ラス の 中 に多 数の 段 階 (memere st面en), な ら びに 時 間 で はなく 生徒 の進 歩 に のみ ,. 結 びつけられた, 絶えず流動する等級化 (K1 ) を前提とします. 両者とも新しい教授形態 i t a s s近ka on 35.

(5) . 大. 崎 功. 雄. 8 ) の原 理 念 に含ま れま す.(. したがって, ジラールが 「原理念」 として挙げる相互教授法の特徴は, ①教授=学習内容ができるだけ多数 の段階に分けられていること (学習内容の分節化) , ②この段階がクラス内に設けられているこ と (集団の と 分節化) , さらに, ④この等級化が , ③生徒が進度に応じてこの段階のいずれかに分類されるこ (等級化) 絶えず流動すること (絶え ざる進級と降級) , そして, ⑤教える生徒が交互に替わり, 全員に順番が回るこ と (役割の交互性) , といったものとなろう. これが, 「順序をふんで行われる, 生徒による生徒の教授」 の 輪郭である. 第一論文は相互教授法の歴史的由来とその分類に当てられたのだが, この第二論文では, 相互 教授法はさらに抽象化され, 時代的特徴も地域的相違も一切捨象されることになる‐ しかし, それだけに, ジラールの相互教授法理解の特質が浮き彫りとなる‐ そして, その中核的な概念が学習の く分節化=段階 化〉 と生徒の 〈等級化〉 にあることも明白となる (ただし, ジラールにおいては, ナトルプと相違して, 学 習内容の分節化についてはそれ以上論究されない) . ジラールは, このように相互教授法の原理念 を設定したうえで, 「相互的教授形態は道徳的価値を有する か?」 という問いを立てる. 彼が相互教授法に見い だす訓育的機能はつぎの四つである. 第一は相互教授法 が学習を容易にすることにより, 生徒を勤勉にするという機能, 第二は生徒に法の下への自発的服従を体得 させるという機能, 第三は人が人に命じる仕方の学習機能, 第四は無償の愛の体得機能である という‐ 以下 において順次, ジラールの挙げる相互教授法の訓育的機能を検討しよう.. 学習の容易化・遊戯化と市民的勤勉性 生徒を勤勉にするというのが, ジラールのとらえる相互教授法の第一の訓育的機能である. それは, 相互 教授法の原理念から導かれる. 「まず第一に相互教授においてす べての観察者の注意を引くにちがいないこ 9 ) 相互教 ) 取 り 扱 っ て いる と いう こ と であ り ま す」 ( と は, そ れが生徒 を ま っ たく個 々 別 々 に ( besonder s .. 授法の特質は, 教授=学習の過程をたくさんの段階に区分 し, 生徒がその段階を一つ一つ容易に達成可能な ) 〈等級化〉 く段階化〉 ) ようにするところにあった( ,そ . 生徒は, 自己のレベルに合っ た段階に位置づけられ( ) 〈進級システム〉 の達成に応じて進級ないし降級する( . だから, 相互教授法は, 生徒一人一人を個々別々に ) 扱うものである( 〈学習の個別性〉 . 同時にそこで行われる課業は, 類似の能力をもった生徒によってなされ 〈学習の共同 ), また, 交互的な作業と生徒共同による永続的な活動として行われる( るものであり( 〈等質化> ) 性> ‐ したがって, 「それらは子 どもたちにとって刺激的ではないでしょうか?」「その全体は遊戯に似てい i t ter欲ius de ln) がある の です」. こう し ま す‐ そ して こ こ に, じつ に, 古代 人の文 字遊 び (Ludusl r 虹te. て, 相互教授法は生徒にとっ て学習の遊戯化 を意味し, 学校は魅力ある ところになる‐ 「したがっ て, 経験 がいたるところで示しているように, 子 どもたちは学校が好きになり, 早く から学校に行き, そこに喜んで 1 0 ) 留まります. そして彼らはいつも新たな喜びを抱いて通学する」 ようになるという( ‐ このようにして, 相互教授法は生徒に生き生きとした活力をもたらす‐ 「では, このような快活さと熱心 さのもとで, 訓育は何を手に入れる だろうか?それは, 何といっても青少年 が喜んで仕事を引き受け, 勤勉 ) つ ま り 学 校 は市 民 生 活 に 1 1 を 身 につ ける よう になる こ と で す. そ れ は生 き る た め の 至福 の習 慣 で す」 ( ‐ ,. 必要な労働 と勤勉の習慣を身につけさせるところになる, というのである. そして, これを保証するのが, 相互教授法による学習の容易化と達成感の実感であった. ところで, ここに意図された勤勉性とは何か. そ れは, 他者の命令による, 非自発的・盲目的な勤勉性ではなく, 自ら意図した作業の達成感に動機づけられ 、 たそれである‐ それは く自発的=自律的勤勉性〉 である. ジラールにおける相互教授法の重要な訓育的機能 の 一 つ がここ にあ っ た. ベ ル= ラ ンカス ター ・ シス テム にお い ても勤 勉 の習 慣 形成 が目 指 さ れた が, そ れは 36.

(6) . G. ジラールと相互教授法 (2). 性 (逸脱の抑止) とその反復による習慣形成であり, またその動機は競争と賞罰 (名誉と差恥心 行動の斉一」 へ の訴 え) であ っ た. ジ ラ ー ルの ばあ い は, 習 慣 形 成の 点 でも, 動 機 づ けの 点 で も こ れと は こ となる. そ れ. は, 段階づけられた, つまり, すぐ手に届く (到達可能な) 目標に置き換えられた学習課題を, 自身の行為 を通じて達成することによって得られる習慣である‐ またその際の動機は達成感であり, それは外部から与 え ら れる の で は なく, 学習 行 為 自 身 に埋 め 込ま れて いる‐ ここ に, ベ ル = ラ ンカス タ ー ・ シス テ ム と はこ と. なる, 近代学校のもう一つのタイプが浮かんでくる. 市民的勤勉性 〈自発的=自律的勤勉性〉 の合理的 (自 発的) 形成・修得機関としての学校であり, 教授・教育方法の改良はそのため に目指されたといえよう. [前略] 勤勉の習慣は, その教授形態が稚い児童の弱さ, 彼の必要や要求に適していないような学校 では決して生み出せないでしょう. 私たちの教育施設は怠惰を育てる学校(Sch ョ mendes M山Biggzmges) で は な い か, と いう 苦 情 が, じつ に し ば し ば 寄 せ ら れ て い ま す. こ れ は 明 ら か に 厳 しい 批 判 で す‐ だ. が, 凡庸で, 単調な, そして不親切な教授法が青少年を少しもとらえていないこと, そして彼らを学校 1 ) 2 の 中 で し ば し ば, そ してあま り にも 怠 惰 にす ごさせ て いる と いう こ と は, 真実 であ りま す‐(. 相互教授法の中核的機能をなす学習の容易化は, 生徒の怠惰を防止し, 勤勉の習慣を形成するための担保で あった. そして, この学習の容易化と達成感を保証するシス テムが, すでに何度もふれている相互教授法に おける 〈等級化〉 による進級システムに求められていることは, 明瞭である. 「子 どもの必要や要求」 に適 する こ と が, 結 果 と して, 社 会 (市 民 生 活) の ニー ズ に応 じる こ と になる という, 学 校 -子 ども -社 会の 三. 者関係が読みとれる.. 法の支配=自発的服従と相互教授法 1 3 )を実践的に修 ジラールが相互教授法の第二の訓育的機能として挙げるのは, 「法の下への自発的服従」{ 得 させる 機 能 であ る. そ れは どう いう こ と か, ま ず, ジ ラ ー ル の論 理 を押 さ え てお こう‐. 学校では 「服従(象≧ ho r sam)」 が修得されなければならないが, それは 「強者の腕の中にある動物的な沈 黙」 ではなく 「法の下への自発的服従」 でなければならない. 動物的恐怖による服従は一時的であり, 恐怖 はすぎ去れば効力を失う‐ これに対し, 永続的な 「法に対する尊敬」 が学校で育てられな ければならない. このように, 市民社会の秩序( 「法の下への自発的服従」 )の形成が目指される点で, ジラールの認識は, 先述 の 『世界のあらゆる部分における, 相互教授法の著しく急速な普及』 における 〈従属主体〉 の形成と同一で あ る. だ が, 『普 及』 の 著 者 は, 「法 そ の も の につ い て の 知 識」 と いう 認 知 的側 面 を 重 視 して い た 脳) こ れ .. に対しジラールは, むしろ学校の訓育的側面を重視する‐ これ (法に対する尊敬の教育-引用者) は, 明らかに, まず第一にそ してとりわけ教授そのもの に よってなされなければなりません. しかし, 教授には実践的なもの, つまり それは非常に強く望まれ , るものですが, 法に対する服従を長くまた強力に訓練するものがありません‐ そもそも学校シス テム ) 1 5 (学校 の仕 組 み, Schm=Emncht ) がそ れ に役 立ち 得 な い の か どう か ? を確 かめ てみよう.( Umg. このように, ジラールは学校システムの中に 「法の下への自発的服従」 を訓練する機能を設定する この視 . 6 ) 1 点はナトルプと同様である. しかも, 懇意的な教師の支配する学校を批判する 点でも 同 一 であ る( ‐ 通例の学校では, ただ一 人, すなわち教師だけが支配しています‐ この教師は成人であり, 弱くて軽 37.

(7) . 大. 崎 功. 雄. 率な生徒たちの中にあって, 気まぐれに肯定したり, また厳粛だっ たりします. そのため, 生徒たちは 同一の瞬間に恐怖でふるえたり, また笑ったりするのです‐ 彼らは支配者に服従します‐ しかし, その ) に対 す る も の よ り は弱 い で しょ う. そ して, こ の よう な 学 校 を 支 配 して 服 従 は 権力 者 (胡bemQacht. ) に対する尊敬 は, そもそもこのような指導か ) は強者の法にすぎません. 法 (Ge いる法 (Re t se z cht 1 7 ) ら は絶対 に生 じ得 ない で しょ う.(. このような教師の懇意的意志の支配する学校 から, 法の支配する学校へと転換するにはどう したらよい か. ここでもジラールは, ナトルプと同様に, 学校を公明正大な法が支配する小国家に癒え, 生徒たち自身 にその法の行使を習熟させようとしている. そこでは, 生徒自身が 「絶えず交替しながら, 法の機関となら なければならない」 . その際とりわけ重視されるのは, 「教師を生徒から少し遠 ざけ」 , 生徒相互に法の行使 を任せることである. つまり, 生徒の相互教授 (教育) システムが新しい学校システムとして採用されるの ) や であ る. 「そ こ に は, 秩 序 が従 順 さ と と も に 支 配 して い ま す. そ して, 少 年 た ち は 強 権 (Uebar l nacht. 恐怖なしに法の範囲内で命令したり, 服従したりしているのです. しばしば年長の少年たちがはるかに年下 の少年の命令に喜んでま た凡帳面に従っている ことは, 実際に注目に値します. そして, その子どものもつ と いう 言葉 にあ りま す. ) は,『汝 は す べ き』 l 力 の す べ て (g t ze Gewa z u ・ , ある い は, 『汝 は して はな らな い』 つ ま り こ こ で は, 人 は [動 物 の 服 従 で は な く -引 用 者] 人 間 と して の 服 従 (Menshengehor sam) を 刻 印 ) 1 8 し, 訓 練 して いる の です. そ して そ の 際, 道 徳 性 が獲得 さ れて いる こ と は明白 です」 ( .. 以上のようにジラールは, 相互教授の学校システムが, 法の支配に生徒を習慣づけることにより, 生徒に 「人間としての服従」 という道徳性を修得させるのだする. だが, なぜ生徒は法の支配に服すことができる の か, こ れ だ けで は 不 明 である. ナ トル プが批判 的 に とらえ たベ ル= ラ ンカス タ ー ・ シス テ ム にお い て は,. 学校全体が規律=訓練システムとなっ ており,〈見る一見られる関係〉(監視の体系) , そして競争と賞罰の 〈身体の制度化〉 )が修得されていた. そこでは, 逸脱や怠惰は斉一性から システムを通じて, 行動の斉一性( の逸脱として白日の下にさらされ, 所与の役割の履行の訓練を通じて規律=秩序の身体化=習慣化が目指さ れた. そして, それを促す駆動力 が生徒間の競争システムであり, 賞罰のシステムであっ た (したがって, 功利主義がこのシステムを支える支配的原理であっ た) . いっ ぽう, ナトルプの ばあいは, 教師と生徒の意 志を超えた学校のシステム性を評価すると同時に, 生徒の発達の駆動力を生徒自身の活動衝動 と自我感情に 裏づけられた く向上心> を措定することにより, 競争と賞罰のシステム を克服しようとした. これに対して ジラールは, 学校における生徒の相互的役割に具体化された法の支配の習熟をいうのみで, その保証につい ては不明である. ジラールおいては, それは自明のものなのであろうか. これに対する回答は, 相互教授法 の第三の訓育機能 (人間的に命令する力の習得) において, 全面的にではないが展開されている.. 人間的命令=指導力の形成-- 「子どもの世界」 の訓育機能 ジラールが相互教授法の第三の訓育機能として設定するものは, 第二の機能の裏返し, すなわち, 「人間 的に命令する」 能力の獲得機能である. では, なぜ命令する力の修得が必要なのか, ジラールの立論を追っ て みよう. 土山chbe危hl だが, 少 年 はま た, 学 校 にお い て, 人 が人 間的 に命 令 する (mensc en) 仕 方 も 学習 しな け れ ばなり ま せ ん. な ぜな ら, 命 じる こ と はす べ ての 者の 本 分 だか らです. 私 は, この世 のい たる と ころ. に, 父や母, 最年長で最も尊敬すべき当局を見いだします. いたるところで私は, 家長や主人がその使 用人や職人といるのを見ます. これらの者が命令する ことは何と多いことでしょう ! そ の ほ か になお, 38.

(8) . G‐ ジラールと相互教授法 (2). 市参事会員の身分のようなものもあります. たといその形態が人の注意を引かないとしても, その種の 身分は同様に, 広範囲に普及しています. 人は, 出生により, 財産により, 勇気や強さにより, 才能や 器用さにより, そして徳や功績により, そのような身分に達します. 要するに, 彼の周囲の人々の意見 内だとしても, 何か卓越したものをもつ者には, 彼に目をむけ, 彼の話を聞き, 彼に頼み, 彼に従う部 ) 1 9 下 がいる の です‐ 私 たち 大 人の あ い だで は, こ のよう にな っ ていま す.(. ジラールの認識は明瞭である. 学校は大人社会=市民社会における人間関係 (支配-服従関係) を修得する 場だという. この認識もまた, ナトルプのものであった (ナトルプは 「家庭的.市民的生活」 を反映する場 2 0 ) そ して ジ ラ ー ル は 懇 意 的・ 強 権 的 な 支 配- 服 従 の 関 係 で は な く 人 間 的 と して 学 校 を 構 想 した) ( ‐ , , ,. =理性的な支配-服従の関係を市民社会の基本的姿として措定するのである‐ だが, ジラールのこの面での 2 1 )の 措 定 にある 認 識 はもう 少 し複雑 であ る‐ そ れは, 「子 ども の 世 界 (Ki )」( l t nde rwe . ジ ラ ー ル は, 子 ども の 日常 生 活, 子 ども 独 自 の 世界 を見 い だ して いる. そ の 認 識 をた どっ て みよう. 親 =. 大人は市民生活の必要から, 子 どもの生活すべてには関われない‐ やがて, 「子 どもたちは, 私たちから少 し遠ざかります. 彼らは集い, 私たちから離れて思う存分, そして自由に喋っ たり, 遊んだりします」 ‐要 するに, 「子 どもたちは, 国家の中に国家を形成します」 . そして, この子 どもの自由国家の中にも命令と服 従 が ひと り で に 入 り こ む.「体 格 (Ges ), 力, 器用 さ, 自 然 な 雄 弁, 断 固 たる 調 子 を 当 局 (obr l ta t igke i t , ,. 命令する子 ども) はまっ たく容易に持ちこみます」 . だが, 子 どもの世界は大人の世界から隔絶しているの ではなく, 「彼らは必要とするものを私たちから手 に入れる」 のであり, 子 どもの世界は良くも悪くも大人 社会を反映する. しかし, そのすべてを反映するわけでもない. ここに, ジラールの教育論=学校論の重要 なポイントがある‐ すなわち, 「子 どもの世界」 (子 ども-子ども関係) を相対的に独自なものと じて設定す 2 2 ) 前者は る認識と, それを大人の社会 (大人-大人関係, 大人-子 ども 関係) の反映とする見方である( . 子 ども社会における固有の教育機能の承認につながり, 後者はすでに歪められている子ども社会を矯正し, あるいは補充する必要の認識である. 学校は, この両者の機能を負うものとして位置づけられる‐ さて, 以上の認識から, 子どもを 「現在および将来人間的に命令するように教育すること」 が課題とされ る. 当 然 にも ジ ラ ー ル は, こ れ を 学 校 の 課題 と する わ け だ が 通 常 の 学 校 の 中 で は 行 わ れ て い な い と 見 な , す.. さて, 通例 の学校 で は そ れ (人 間的 に命 令 する こ と -引用 者) にはま っ たく 携 わ っ ていま せ ん そ の .. 仕組みにおいては, 生活の二つの関係が考慮されているだけであり, 第三の関係は全然考慮されていま せん. つまり, 普通の学校は, まず第一 に, 恭順あるいは従順の関係 [の教育-引用者] とりわ け教 , 師に対する, 時々年長者やその他の身近な上に立つ者 (obem) に対するそれに関わっ ています. ま た, 普通の学校は, とくに学校の範囲内では, 同一の段階に立ち 生きている人間およ び子 どもと して , の, 生徒相互の平等あるいは相互的尊敬の関係を配慮しています‐ しかしながら, 生徒はそこでは決し て上に立つ者としては現れません‐ 彼には, この重要な関係において彼が何者であり また何を有して , 2 3 ) いる か を 白日 の 下 にさ らす よう な動 機 は 与 え ら れ ていま せ ん.( ,. これに対し, 「普通の学校が行っていないことを, 相互教授法が導入されている学校は達成しています こ . こでは, 生徒は彼が助教師の地位 に就いているときは, 上役 (obe ) として現れます」 e r r ‐ だから, 生徒は 指導者, 命令者としての役割を修得する, というのである. だが, これだけではこのような役割を修得する メカニズムが不明である‐ つまり, どうして生徒は 「人間的に命令する」 能力を身につけるのか それを保 , 39.

(9) . 大. 崎 功. 雄. 証するシステムが不明である. これは, さきに, 「法の下への自発的服従」 を保証するシステムが不明であ る と述べ た こと に通 じる. ジ ラ ー ル は, この点 に関 し, 相 互 教授 法 のつ ぎの よう な特 質 を叙述 する.. 人は, 彼 (助教師役の生徒-引用者) が指導者として心に育んでいる ことを, 彼の振る舞いに見いだ します. 人は, 彼の中に, 謙虚さあるいはうぬぼれ, 忍耐あるいは立腹, 公平あるいは不公平, 親切あ l ) を尊敬させ, 好ませる徳 t るいは利己心を, 見い だします. そしてそれらはすべて, 支配力 (Gewa であるか, あるいは抑圧し, 憎ませ, 有害にする悪徳かであります.回 要するに, 助教師役の生徒の態度・振る舞いの中に, 彼の指導者としての徳性が現れるというのである. そ して, それを見て取るの は, 当然にも教師である. ここに, 生徒の内面は態度・振る舞いに現れるという内 外一致論, あるいは内外転化論 と, 教師の目による生徒の把握という論理が読みとれる.〈見る一見られる 関係〉 の登場である. 若干の子が入学に際しう ぬぼれによってすでにだめにされていたとしたら, 彼らが助教師に任命され たときに, その悪徳はきっ ときわめて明瞭に現れるでしょう. [中略] 若いうぬぼれ屋は注意深い教師 5 ) の 目 を逃 れら れない で しょ う.@ や はり, ジラ ー ル にお い て も, 相 互 教 授 の シス テ ム は 〈見 る 一見 ら れる 関 係〉 の シス テ ム で あ っ た の で あ る‐ だが, ベ ル=ラ ンカス タ ー ・ シス テ ム にお い て は, この 関係 は教 師の意 図 をも 超 えた シス テ ム に, 生 徒. から隠された見えざる視線として刻印さ れていたが, ジラールのばあいには, 目に見える, 直接的な 〈教師 -生徒関係〉 として描かれている. だから, 相互教授のシステムが教師による監視の空間になるか, それと も教師の眼差しの空間になる かは,〈教師-生徒関係〉 の在り方次第である. ここから, ジラールにおいて は, 後述するように, とくに教育者の資質が問われることになる. 相互教授法は, 誰でもが使える自動的シ ス テ ム で は ない と いう こ と になる.. ところで, ジラールはもう一つ重要な教育関係を指摘する. それは, 先記した 「子 どもの世界」 にも通じ る教育関係である. [前略] 子 どもたちもこの訓育の一部を引 き受けます. 彼らは, 彼らの仕事の関わりにおいて, 彼ら の若き教師 (教師役の生徒のこと-引用者) の堕落した権威を感じ, そして権威に喜んで従う代わりに 関係を絶つのです. 子 どもの心ゞ情には子どもの意見 が効果的です. 彼らの非難は, 権力の濫用を抑制す 2 6 ) る ため のも っ とも 強力 な手綱 です.(. 子 どもは子 どもの意見に敏感である. だから, 子 どもが子 どもを教育する. つまり,〈生徒-生徒関係〉 の 機能である. ジラールが, 「子 どもの世界」 に相対的な独自性 を認めたのは, 子 ども同士の教育関係を認め る か ら である. こ こ に, 相 互 教授 法 の もう 一つ の核 心 があ っ た.. [前略] 教師が彼ら (うぬぼれの強い生徒-引用者) に不快の念を起こさせたり, 彼らを侮辱するよ りも, 小さな生徒たち が欠陥をとがめる方がよりうまくいくでしょう. 彼らのことば, 笑いの方が, 私 たちの説教よりも効果的です. 周囲の非難によって内省せず, 改善されない子 どもが, 私たちの銭言に 2 7 ) よ っ て 矯正 さ れる 得る だろう か?( 40.

(10) . G‐ ジラールと相互教授法 (2). こ れ はベ ル= ラ ンカス ター ・ シス テ ム にお ける 義 恥罰 の シス テ ム と は こ と な る, 「子 ども の 世 界」 にお ける. 教育力の確認であり,〈生徒-生徒関係〉 の活用である. 「法の下への自発的服従」 を保証するのも, 「人間 的に命令する」 力の修得 を保証するのも, 子 ども 同士の同意=共感 と不同意=非難という,〈生徒-生徒関 係〉 の 教育力 にあ っ た. で は, 共感 や 非 難 を 支 える も の は何 か‐ こ れをさ らに押 し進 める と, ナ トル プ にお. いて教育力の源泉として措定された, 生徒の内的感情, 「人間的品位」(ナトル プ) に代表さ れる 〈自我感 情〉〈自尊 心〉 の問題に行 き着く. ジラールもまた, 「人間的に命令す る」 (人間的に服従する) 力の背景 に, 子 ども の く自我感 情〉 を 措 定 して い たの である.. 〈学習の共同性〉 と教育者の資質論 ジラールの認める相互教授 法の第四の訓育機能 は無償の愛の体得機能 だという が, それは どういうこと か. ここに, 相互教授法における 〈等級化〉 に基づく進級システムが内包していた,〈学習の個別性〉 の問 題 へ の 回答 が用 意 さ れる こ と になる. ジラ ー ルの 認識 は こう であ る.. いったい, 若い教師たち (助教師役の生徒のこと-引用者) は彼らの学校において何をなすでしょう か?彼 ら は天 か ら ( von oben) 若 干 の 才 能 を 得 て きま した. そ して, 彼 らの級 友 の ため に 自 分を役立 て. ようと努力 しています. 彼らは他の者によっ て教えられました. そして, 彼らは相続したものを自分の ために利己的に所有することはしません. そうではなく, 一方の手が受け取ったものを, 他方の手が返 却するのです. その際, 何も 販売さ れません. 無償で手に入れられたものは, 無償で与えられるので 2 8 ) (傍 点 は す. かく して, この 教授 形態 にお い て は, キリ ス ト教 の愛 が実 際 に 身 につ け ら れる の で す.(. 引用者) ジラールは, 学習は共同で行われるがその成果は個人に現れる というねじれ現象を, 理論的には認識し得な 「利己的所有」 )として直観的に認識していた. だから, この学習成果の個人 かった. しかし, 現実的な問題( 所有という現象を, 相互教授法のシステムが生み出す問題としてではなく, 逆にそのシステムにおける 〈学 習の共同性〉 が解決できる問題としてとらえるのである. つまり, 成果の無償性 (学習成果は無償の努力に )を相互教 「無償で手に入れられたものは, 無償で与えられる」 より他者から与えられた) と, 成果の相互性( 授 法 が実践 的 に示 して いる と 考 える の である. した が っ て, ジ ラ ー ル にお い て は, 賞罰 や 競 争 な どの, 学習. 2 ) このことは 相互教授法のシステムを維持するう え 9 行為の外部からの動機 づけは排除されるのである( . , での生命線であった. だが, これはきわめて危うい解決である. なぜならば, 学校が市民社会=経済社会か ら隔絶されること (閉じられた社会) なしには, それはあり得ないからである. だから, ジラールは理論的 な 問題 と して で はな く, 「キリ ス ト教 の 愛」 の 問 題 と して 語 ら ざる を 得 な か っ た. も と よ り, ジラ ー ル の こ. )への弁明--に 3 0 の第二論文が, 教会勢力への弁明--相互教授法 は宗教と道徳に有害であるとする批判( 力 点 があ っ たと しても, こ の点 は無 視 で きな い.. ジラールにおいては, 学習成果の利己性という 問題は, 学習形態と学習過程の共同性により解決可能だと 考えられた. だが, それはきわめて困難な課題であった. その保証は, 学校におけるあらゆる営みが共同性 =相互性を付与されて行われる以外にはあり得ない. 換言すれば, 営みは人の関係 として現れるから, あら ) 〈関係としての教育〉 ゆる人間関係 が教育性をもっという世界を構想するほかはない( . にもかかわらず, ジ ラールはこの学校システムを理論的に深める道を選んでいない. そうではなく, 実践的な課題として提起す るだけであった (問題の先送り) . こう してジラールの論点 は, 学校における教育関係の論究に進 むのでは なく, 教育関係の主催者=教師の資質論へと転換される. 41.

(11) . 大. 崎 功. 雄. これらの長所 (無償の愛の体得など-引用者) は それに決して欠けることがあり得ないほど 相互 , , 教授法と密接に結びついています. しかし, それらの長所が豊かに達成されるためには 学校の中に明 , 断な精神と, とく に感受性豊かで高進な」ム情をもち, この教授形態からその中にある子 どもの純化のた めに役立つあらゆるものを引き出す術を心得ていて そしてそれに努力するような教育者が存在しなけ , ればなりません. それ (相互教授法-引用者) は優れた道具です. しかし それは他のすべてのものと , 1 )(傍点は 3 同様に, 巧みで, 意欲的な手を必要とする道具です. --精神だけがそれを生かすのです.(. 原文の隔字体) 以上のよう に, ナトルプに似てジラールにおいても 最終的には教師の資質・力量が問題とされる だが , ‐ , この教師の資質論は一般的・抽象的である‐ 相互教授法のシス テム その教育空間 そのはらむ諸矛盾を突 , , き詰めたところに登場する教師論ではない‐ ナトルプが学校システムの機能と問題性を追究して到達したと 3 2 ) しか し 理 論 の 深度 に は相 違 は あ る も の の ジ ラ ー こ ろ の, 学 校 シス テ ム の 要 と して の そ れ で は な い( . , ,. ルのとらえる相 互教授法においても,〈教師-生徒 関係> が 基 本 で あ り そ こ に あ る 教育 空 間 はベ ル= ラ ン , カス タ ー ・ シス テム の そ れと は異 質の もの であ っ た そ れ は 決 して教 師の 手 を放 れて機 能する も の と して ‐ ,. あっ たのではなく, いうなれば教師のタクト (巧みで 意欲的な手) が指揮する世界であっ た . ,. 自律した個人の関係性--相互教授法の世界 以上, ジラールの二つの論文を中心に検討してきた. 最後に ジラールが構想し 実践した相互教授法の , , 世界を総括してみよう‐ ジラールが相 互教授法に託した期待は何よりも学習の容易化にあっ た. 「教授形態 論」 においては, 教師中心形態・相互形態・混合形態の三者を比較する指標は情報提供主体の在処に求めら れたが, その効果・目的は生徒の学習の容易化と確実化にあっ た. そして そのために要請されたのが 学 , , 習の段階化に基づく生徒の 〈等級化〉 と達成度に応じる進級システムであった‐ だから 相互教授の合い言 , 3 3 ) と こ ろ で こ の 〈等 級 化〉 は そ の シス テ ム の 性 格 上 生 徒 を 個 々 別 々 に 扱 葉 は 「等 級 化」 で あ っ た( . , , ,. うものであっ た. ここから, 学習の共同性とその成 果の個別性というねじれ現象が浮かび上がってきたので あっ た. ジラールはこれを, 学習の共同性を敷宿することにより 理論的にではなく実践的に解決しようと , した‐. だが, 相互教授法の目指したものはそれだけであろうか. その訓育機能において期待された機能は 「自 , 発的=自律的勤勉性」 の修得においても, 「法の下への自発的服従」 や 「人間的に命令する」 力の修得にお いても, そこに想定されているのは く自律した個人〉 の形成であり, その個人の織りなす関係性の育成で あった. だから, 学習成果の個人所有=利己的所有は 〈自律した個人〉 の勤勉に対する対価の意味をもつも のでもあっ た‐ ジラールの構想する相互教授法の世界は, 突き詰めていくと, そのように機能するもので あったが, 彼はその結果についてまでは見とおすことも, 承認することもできなかった. だから 相互教授 , 法の導入された学校においては,「[生徒は-引用者] 一 方の手が受け取っ たものを 他方の手が返却するの , です. その際, 何も販売されません」(卸 (傍点は引用者) として, 対価の思想を否定する‐ ジラールの構 想し許容できる世界とその意図を超えて相互教授法が創り出していく世界とは このよう に区別される‐ 以 , 上のよう に, ジラールが構想する相互教授法の学校システム は ある意味では近代的個人形成 につながらな , - い, 後 進 的な 一 面 を有 して い た.. ところで, 各所で指摘してきたように ジラールの相互教授法理解の枠組みは そのほとんどがナトルプ , , の整理するものと重なっていた‐ 史料による考証はできないが, ジラールが181 0年代のナトルプの諸著作を 読む機会もあったと想定できるほどである‐ だが, こう した類似があるにも拘わらず, ベル=ランカスター 42.

(12) . G. ジラールと相互教授法 (2). .システム を相互教授法の系譜として押さえ, その枠内に閉じこめ相対化してしまう基本的認識の点で, ジ ラ ー ル の立 場 はナ トル プの そ れと 大 きく 相 違 して い た. そ して, こ の 認識 こそ が, ベ ル= ラ ンカス タ ー ・ シ ス テム の 教育 空 間 を と ら え損 な わ せる もの であ っ た. 繰り 返 しになる が, ベ ル= ラ ンカス タ ー・ シス テム の. 歴史的特質は, 相互教授法にあったのではなく, 行動の斉一性を担保として繰り広げられる, 規律=訓練シ ス テ ム にあ っ た の で あ る. そ れ で は, プロイ セ ンを は じめ とす る ドイ ツ に お い て 「相 互 教授 の 学 校 シス テ ム」 と して流布 す る 教育 空 間 は, ナ トル プの 理解する も の と ジ ラ ー ル の理解 する も の とのあ い だ で, どの よ. うな位置を占めるであろう か. その諸相をさらに追ってみよう‐. (続く). 註 Z増e der tんodeim deはt t ( 1 ) Jus s c膨れ S無乃eαれα Gei郡ら oder dαs N解財庇Z t tus Pho eに Me eLαれcαs opmlus ,Bば琢e 湧け αZ i i iC.H.R H細ヒmalm,1827 Z禽 de賜s i opo e g cん鋤 L伽cα群er pz ‐ ‐36‐37 ,S .Aた 膨 勿 鋤 卦 鋤“α M‐れ P編みr ,Le ,be iothek 所 蔵) i tatsbibl (Univers i ig tatLeipz ,UDivers. 3 )一 「近代 学校 シス テム の 形成 と教授・教育 方 法の改革 (その一 ( 2 ) 拙稿 「B‐C ‐L‐ナ トル プとベル=ラ ンカス ター・シス テム(. 2年2月, 9ページ. 0巻 第2号, 平成1 』 第5 の3) --」『北海道教育大学紀要 (教育科学編) 3 ) なお, この著者フ ォ トフィ ルス が, ベル=ラ ンカス ター・シス テム にお ける 〈等級化〉 をフラ ンス 革命 の 理念 である 「平 ( 等 (G1 土山e i )」 の理念の現れ ととらえ, それは人間の能力の多 様性を否定 し平等化 (画 一化) する も のである と批判 して i t e c. いることにも注意する必要がある‐ 彼は, 「ランカスター法の愛好者たちは行きすぎた平等の賛美者である」 と批判すると 1793 土山e )」 と題するつ ぎのよう な詩( i i t ともに, それは1795年6月 7日付 けの ドイ ツの月刊 誌 に掲 げられている 「平等(G1 e c 年のフランス語原文 からの ドイ ツ語訳) を想起させるものだと している‐ ) にす ぎぬで imare 「平 等 とは, 諸君 は/今あるよう な 人々 のあ い だ で は/市 民 生 活 に棲 むキメ ラ のよう な 怪 物 (Ch は?と思う であろう. /とにかく パ リを ご覧あ れ‐ どの子 ども (革命の子 ども-引用 者) も/そこ で は, 今も っ て辻棲 の合 わないこと (Gegenthen) をい っ ている. /短剣 を手か ら奪い取り/無 所 有 の人 間は/ま だ何 ほ どか所有 し, 信仰. する人間を/この単純な手段 (短剣-引用者) によって, 瞬く間に/財産の平等へと導ける, と. /その他の点の不平 等/すなわち, 知的諸力の不平等!な どは/ 大 して面倒 な ことで はな い‐ /何 とな れ ば, 見よ!/頭を手に入れていな い人間は/要するに, 頭 をま だ付 けている 人間の/胴 からその頭を切 り 落 とす‐ こう して, 町全 体 に/平等 が完 全 に徹 l u l 底するの だ」 (Jus z tusPho t ≠ op us c . . 傍点 は原文の隔字体) ‐ ,op‐ ,S‐35 このフラ ンス 革命 に関する詩をラ ンカス ターの方法(Lを t tho こう してフ ォ トフィ ルス は,「も し人が意地悪 して, - u ・ cas er=Me ) に適用 してみる なら ば, そ れはまたおそらく, とく にパ リ に当 て はま っ ただろう. 何 とな れ ば, 新 聞 は, パリ で は少な de ) においてランカスターの方 法を予 告 しな いよう な学校は は や らない, と いう こ とを報告 している くともその校名 (F止血a からである」 (ぬ緩りS.35-36 -) と して, ランカス ター 法をフラ ンス 革命の 理念と結 びつ けて批判 する の である. この 理解 は, ベル ニラ ンカスター・シス テムにつ いての正確な理解で はない が, 革命期 の フラ ンス や ドイ ツ にお いて 同 シス テム が受 容されていっ た世相の一端を, 革命の反対者の立場から物語るもの と して, 特 筆 しておく必要があろう‐ ( 4 ) Zb z d- -40 ‐ ,S. ( 5 ). “ l l ichtes” i悦gen Untel Gregor Gi ische Werth des wohle ingeねchteten wechse 2d卿7 z se 7 rard, Der moral ge九 der ,in,”ぼれα. ]‐ (Staa b l t i i tbek zu Ber超, scんwe Z i Z Z t sb o Z e r Bencht zer sc膨れ Gemeあれ“ z奪eれ Ge s e s cんα元,Fad危emo ‐X獣医ロな1 , [S ,1825 Pヒ t Bi i turbes t e scherKU1 z 所蔵) 1 獣医 71□‐ ( 6 ) 恥餌.,[S ‐X医αロm]-幻 ( 7 ) Z玩ば- 1 ‐Xααロな1 . ,S ( 8 ) ヱb id‐ ( 9 ) あ餌. .XL‐ ,S Qの Z るi dっS L-× ] L1 ‐x] ・ ( I P ヱb I id- . ‐幻L ,S. 43.

(13) . 大 崎 功. 雄. 回 恥冠. 回 恥扇. 回 拙稿 「G‐ ジラールと相互教授法( )「 「近代学校システムの形成と教育.教授法の改革 (その二の1) --」『北海道教育 1 大学紀要 (教育科学編) 』第5 3年2月,2 2ページ‐ 1巻 第2号, 平成1 1~2 回. Gr I zん S egorGi c rard .XLI-幻LI . ,op.. Q多 L‐ ナトル ブの 学校 シス テム 論 につ いて は 拙稿 「B.C‐L.ナ トル プとベル=ラ ンカス ター‐シス テム( 2 )一 「近代 学校シス ,. テムの形成と教授・教育方法の改革 (その一の2) --」『北海道教育大学紀要 (教育科学編) 』 第5 0巻 第1号, 平成1 1年8 月, とく に9ペー ジ以 降, 参照. ナ トル プにおいても, 小 国家 と しての 学校 が設定さ れる. そこ には 「憲 法」 が支配 し 教 ,. 師個人の懇意的支配が排除される仕組みが想定されている‐ そのうえ, この小国家としての学校には, その管理を教師と生 徒とで行うことによ り自動的に秩序 が形成される と いう 同=練シス テム (Di l i inar t s c sys em)」 が埋め込ま れていた. p 回. GregorGi 1 rard .XLI ‐ ,o野α ん S 回 Zも紡りS I-X1 一 1 1 1 ‐幻LI ‐ ( 9 発id. 1 I I 1 .幻L ‐ ,S 回 拙稿 「B.C L ナ 3月 前掲, 2 ~3ペー ジ, 参照. ‐. トル ブとベル=ラ ンカスター・シス テム( 回 GregorGi 一口1 Z ≠ rard c .X1 . ‐ ,Op‐ ,S. 物 子 どもの関係 (子 ども一子ども関係) は, 大人の諸関係 (大人-大人関係, 大人-子ども関係) の反映だとするジラール の立場は, 相互教授法反対者への批判においても明らかである‐ 反対者は, 「若い助教師は彼らの任務を遂行するに際し, 不遜になり, 生意気になるにちがいない‐ これに対し, その他の生徒は嫉妬をもち, ねたみ深くなるにちがいない」 と主張 する‐ だが, こうした態度への 「誘惑は, 生徒が彼らの級友に授ける教授にはありません. 思い上がり, 貴族的な物腰は家 庭から学校に持ちこま れるのです‐ という のは, 父の家ではすべて が神 聖 に行 わ れる わけではなく ま た子 ども たち のあい , だで崇拝され ている 多数の年長 者のう ぬぼれも周 知のこと だからです」 ( z玩ば. l-×甑甑IX)‐ 諸問題 は 子 どもの外 .X甑αnnl ,S. 部からもち来される. だから, 「私たちは, 私たちの誤りを子ども時代のせいにしてはなりません‐ 子 どもたちは私たちよ りも善良です.それゆえ,『子 ども のよう に歩め(Wa de l W i t・ inen)』という 格言が妥当する のです」(必滅. I ・ edie me .X甑ばIX)‐ ,S. 原罪的児童観に対立するこのような子ども観が, フライブルクにおけるカトリック教会の保守化に伴って受け入れられなく なるのは, 火を見るよりも明らかであろう. 相互教授法は道徳や宗教に有害であるとの批判は, 本質的にはジラールのこの ような立場に対する批判であったろう‐ . 鈎 Z も餌. ◎ ヱ る諺. ‐xααmx- ,S 師 Z b id‐ .Xαα山i. ,S . ポポヴァ は,「かれ (ジラー ルー引用 者) は, 生徒に対 し必要な賞 を与える ことにベル同様夢中になっ ていた」 (M‐Popova ,. 鰯. Di eβew軽忽曙 危r彦勿知れrの2 gdeszUecれseZse誌奪eル び乃≠erァlcんtsまれ 彫れgあれd αれd れ deれ 紘o比sscん“Ze刀 αes 嵐oれ#れe肋szは Aれ‐ ‘鳶ば& Zi uich ) と している が, 確認できない. ジラー ルの第二論文の論理からすれ ば, 学‐ 危7 s幻叉 Jαんrた秘れ z gde ,1903 ,S‐68 習等への報償は排除される ことになる‐ ポポ ヴァ も述べるよう に, フライ ブルクの都 市 学校 に関する ジラー ル 自身による ま とま っ た描 写 は見 当 た ら ない ( b i idりS‐69 ) の で, 1816~1817年 頃 の相 互教授 法 導 入期 の 実情 は不 明 であ る‐ も し, ポ ポ. ヴァの指摘が正確であるとするなら, 賞罰の否定に通じるジラールの論理は, 第二論文の執筆時期 ( 2 1 8 5年) における思想 的発展であるのか, 実際と思想の食いちがいであるの か, そ れとも, 弁 明のための脚 色 であるの か, にわ か には判 断できな し\. ◎ 1817年当時には, フライ プルク の司教 トピアス・ジェ ニー (Tob iasJe ・my) は相 互教授 法のフライ ブルク の都市学校への導 入を支持 していたが, 1818年のローマ教会のイ エ ズス 会士召 還決定を境 にその立場 を変 え, 1821年 には相 互教授 法 は道徳と. 宗教に有害であると言明するにいたっている‐ また, 1 8 2 3年には, 州議会が相互教授法に反対する決定を下している‐ ジ ラ ールはこ の議会決定を受 けて, フライ ブルクを去りルッ エ ルンに隠遁する こととな っ たの である‐ ジラ ー ル が相 互教授法. の有効性に関する論文執筆を最初に求められたのはちょうどこの1 2 8 3年当時であり, したがってこの論文は政治的・宗教的 保守化の中での相互教授法批判への弁明という性格を帯びていた (拙稿 「G )一 「近代学校システ 1 . ジラールと相互教授法( ムの形成と教育・教授法の改革 (その二の1) --」 前掲,3 0ページ, 註 鰯 参照) ‐ 44.

(14) . G‐ ジラールと相互教授法 (2) 回. S 紅; yl i Gregor Gi 云 c rard , . ,‐ ,op.. 岡. すでに見てきたよう に, ナ トル プは, 学校の教育関係の基軸 を く教 師-生徒 関係〉 に置 き, ベ ル=ラ ンカスター・シス テ ムにおけるよう に 〈生徒-生徒関係〉 に置換する ことは しなか っ た. そ れ は, 学校 が教 師や 生徒の意志 を超え たところ に成 立するシステムである ことを認識 したう え・で, シス テム に規定されつつ もそ の シス テ ム を稼働 させる という 二 重機 能 を一 身. に担う教師に, 学校が 「システムでありながらもそれを構成する成員にとって生きられる場=関係」 となるために果たさね 2 )一 「近代 ばならない役割=使命を負 わせよう と したからである (拙稿 「B‐C .L.ナ トル プとベ ル=ラ ンカス ター・シス テ ム(. 学校システムの形成と教授・教育方法の改革 (その一の2) --」 前掲, 9ページ, 参照) . 回. ldin BI晦gersch皿en, Gregor Girard, “Uebersichtderverschiedenen Lebご免 棚Qen bey血 UDtellicht al迂 G 卸ロロasien ul. i 2 l - l le Bi ldung derJugend’ r sc九we ze i l l lekt er九α7 zdZ明るg d f l te l ヒロer Waldiguロgin Bezug aqf毒 e t ei l nkenzu“ nebst Wi ,i ,裟. Z Z i s e s cんα元,15 s c膨れ 企 脳 肋ル”勿智eれ Ge r ‐X1 ‐ .0‐ ‐a ‐Bedcht ,S ,a ” th des wohleingerichteten wechselsei甑ge口 Untenichtes , in, 物 流αれdZ““g der 回 Gregor Girard, “Der moradische Wer Z Z scんwe i Z Z s e s cんα鷲,15 z増eル Ge s cたeれ 鍍 膨 躍れ” ze r .幻 双 ‐a ‐0‐ .Beacht ,S ,a. 3年度文部省科学研究費補助金による研究-- 「プロイセン・ ドイツにおける近代学 (本研究は, 平成10~1 223 〕 --の研究成果の一部である) 校装置の形成と教育方法の改革」〔課題番号10610 (本 学 教 授. 旭 川 校). 45.

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参照

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