明 治 期 に お け る 滋 賀 県 下 小 判 訟
拶
社会認識教育に関する研究
(課題番号03680264)滋賀県教育史資料目録
(
2
)
平 成4
年科学研究費補助金一般研究(
C
)
研究成果報告書1
993
年3
月研究代表者
木全清博
(滋賀大学教育学部教授)む ま し カ ミ き 「明治期における滋賀県下小学校の社会認識教育に関する研究」は、科学研究 費の一般研究
(C)
課題番号03880284
の補助を得て行われたものである。 研究は1881""82
年度<平成3""4
年>の2
か年計画で実施された。 明治期における滋賀県の教育実践史の研究は、体系的な滋賀県教育史が編纂さ れていないこともあってたいへん立ち遅れている。その主要な原因は、教育実践 の基本的資料の収集、整理、分析が行われていないことにある。明治以降に滋賀 県教育史が一度も編纂されたことがなく、県下の市町村立図書館や学校に所蔵さ れている資料目録さえできていないのである。 このような事情から本研究は、 2つの方向の研究を並行して進めることになっ た。一つは、明治期の社会認識教育に関する教育実践史の研究として、歴史教育 ・地理教育・郷土教育・修身教育の基礎資料をもとに滋賀県の地域教育の実践を 分析し検討する研究を進めた。もう一つは、滋賀県教育史の資料収集に努めるこ とであった。滋賀県下の歴史の古い小学校を訪ね、所蔵資料を調査し目録を作成 する作業に取り組んだ。 本報告書には研究成果のまとめとして、前篇は「滋賀県における明治期の社会 認識教育」の個別論文2編と研究ノートを、後篇に「滋賀県教育史資料目録 (2) Jを収録した。後篇は昨年3
月に刊行した『滋賀県教育史資料目録(1)
~ (19
9
1
年度6
4
頁)の続編である。 研究組織 研究代表者:木全清博(滋賀大学教育学部教授) 研究経費 平成2
年度 平成3
年度 計 研究発表1800
千円800
千円2200
千円 木全清博「滋賀県における明治初期の教育史資料 (1)一布達書目録・学事年報 -巡視功程一J(W
滋賀大学教育研究所紀要』第25
号1
9
9
2
年3月) 同 「 向 上 (2) 一小学校教則(その 1) ー」(
W
滋賀大学教育研究所紀要』第26
号1
9
9
3
年3月) 同 『滋賀県教育史資料目録(1) ~1
9
9
2
年3月6
4
頁〉《 自 主 欠 》 盲守案書 イ固.5.3
U
言命コ乞・ -滋賀県における明治期の社会認識教育ー [論文解説]…・1 滋賀県における明治期の郷土教育-郷土地誌教科書を中心に一...・
M ・.22
滋賀県における万国史教育の展開...・H ・..…...・H ・...・H ・...・H ・H ・H ・..…253
【資料紹介】明治期の滋賀県郷土教科書...・H ・...・H ・...・H ・H ・...・H ・H ・.38 千愛第箸 法玄妻室房毛老支著書f貝三望苦ラド斗目禽表 ( 2 ) [資料紹介]…...・H ・..…...・H ・....・H ・...・H ・H ・H ・...・H ・...・H ・..…H ・H ・...・H ・..46 第 1部 学校沿革誌・学校日誌・郷土誌等資料…....・H ・...・H ・...・H ・...・H ・..…521
守山市内小学校資料2
長浜市内小学校資料3
甲賀郡内小学校資料4
高島郡マキノ東小学校資料5
彦根市高宮小学校資料 第2部学校所蔵教科書資料...・H ・...・H ・...・H ・...・H ・..…...・H ・...…...・H ・..641 水口小学校蔵書
2
大原小学校蔵書3
能登川北小学校蔵書4
金勝小学校蔵書5
高宮小学校蔵書 第3
部 個人所蔵教科書資料・・H ・H ・....・.H ・...・H ・...・H ・...・H ・...・H ・-…H ・H ・..831 片岡由久家蔵書
2
横田三千太郎家蔵書3 藤居泰之家蔵書
第4部 滋賀県史・郡史・市町村史<教育関係>一覧...・H ・...・H ・..…...・H ・..93 第5
部 明治期郡役所<教育関係>資料一伊香郡役所一....・H ・...・H ・....・H ・.
9
7
盲守淳書 イ固
2
H
J
言吉宮三と 一 言 滋 賀 県 に お け る 明 言 台 巽 沼 の1
滋賀県における明治期の郷土教育 一郷土地誌教科書を中心に一 2 滋賀県における万国史教育の展開3
[研究ノート] 明治期の滋賀県郷土教科書 全土壬言言忍言責島幸女予寄ー【詰省主こ角翠言兇】 滋賀県における明治期の社会認識教育の研究として、ここでは
2
つの個別論文 と1つの論稿を掲載した。最初の論文は、滋賀県における明治初期から中期にか けての郷土教育に関するものであり、2
本目の論文は滋賀県における万国史教育 に関するものである。明治期の滋賀県下小学校で行われた教育実践の実態に迫る ために、実際に使用された郷土教科書を発掘・収集し、その教授内容と方法の具 体を明らかにしようとした。 これらの一連の研究は、日本の社会認識教育のあゆみを、明治期以降の学校教 育のなかで教育課程・教科書・教材・授業に焦点をあてて明らかにしていく、 「 近代日本の社会認識教育史研究」の基礎作業に位置づけている。 最初の明治期の郷土教育に関する論文は、滋賀県における郷土教科書の刊行状 況とその教科書内容に注目した。郷土地誌教科書は、明治10
年から数年間に盛 んに県地誌・郡地誌の刊行され使用された時期と、明治2 0年代半ば----30年代 半ばに主として滋賀県地誌と郷土史の刊行・使用された時期の2
つの時期がある。 教科書を素材にして郷土地誌・郷土史教育の実践をとらえようとした。 次の論文は、明治5年 <1872>の「学制」から明治14
年 <1880>までの問、日 本の小学校で行われた万国史教育(世界史教育)をとりあげたものである。地理 教育と異なって、歴史教育は現在でも小学校では日本の歴史を学ぶだけである。 開化啓蒙期に成立・展開した小学校の万国史教育の実態を、滋賀県の場合につい て教則上の位置、教科書内容について検討した。 なお、万国史教育についてすでに「万国史教科書の内容分析(1) (2) (3)
J
(W滋賀大学教育研究所紀要~ Nn22.23.24 1989.90.91)として、民間版3
種 類、官版2種類、 『巴来高園史』の各教科書を検討したことがある。また『滋賀 史学会誌~N
o
.
7 0989.2) と『関西教育学会紀要~ Nn14 0990. 7)にも、万国史教 育に関する論文を発表した。3
番目は、明治期の郷土教科書に関する研究ノートである。滋賀県の地域で、編 纂され、刊行された郷土教科書は、郷土地誌や郷土史だけでなく、郷土讃本、作 文、習字、算術(珠算)、修身、実物、農業などの教科目にも及んでいることが わかった。とくに明治10
年代には、まだ文部省による教育内容の統制・管理が それほど強くなく、 「学制」期・「教育令」期をつうじて滋賀県独自の教則が作 成され、地域独自の教科書づくりが行われた。 明治初期に刊行された教科書のうち、滋賀県下の教師たちが編輯し、執筆した 教科書で、滋賀県内の本屋から刊行されたものが数多くある。県下の古い小学校 や市町村立図書館に偶然残った郷土教科書が発見できることがあり、ここで挙げ たものはその一部である。ここには、 『滋賀大学月報』の表紙に1989年から91年 にかけて掲載した論稿を修正して再録した。滋賀県における明治期郷土教科書の 全体像の研究は今後の課題であるが、研究の端緒にする意味で研究ノートとして 掲げた。1
i
議 室 電 男 宅 に お け る 明 言 台 其 耳 の 多 郎 二 ヒ 妻 女 官 亨 一 多 郎 ゴ 二 土 也 言 志 妻 女 不 十 芸 書 を 中 , 心 む こ ーI滋賀県における明治期の郷土教育
海後宗臣は、郷土教育の発達にふれて「郷土地理書として刊行されたものは明 治8
年頃よりあり、明治10
年末迄に郷土地理教科書として刊行されたものは約20
種に及んでいる。我々はこの郷土地理書のうちに、我国小学校における郷土 教授の端緒を認めなければならないJ
(1)。明治初期の郷土地誌教科書の刊行とそ の使用を、わが国の郷土教育の端緒=源流ととらえる考え方は、この論文の執筆 された昭和初期の郷土教育運動の最盛期にほぼ確立し、現在に至っているといえ よう。 滋賀県における明治期の郷土教育の動向は、郷土地誌教科書の刊行状況を整理 するなかで明らかになる。表1の滋賀県における郷土地誌教科書一覧を見ていた だこう。 現在までの調査で確認できた滋賀県の郷土地誌教科書類の総計32冊を見ると、 これらの刊行はほぼ2
つの時期に集中していることがわかる。<1>
明治8
年か ら18年 ご ろ <1
8
7
5
-
1
8
8
5
>までの時期、<2>
明治24
年から35
年ごろ<189
ト19
0
2
>
までの時期に大別される。 明治期においてなぜこの2
つの時期が、郷土地誌教科書の刊行のピークとなっ たのか、その背景をさぐって見ょう。<1>
はじめの明治8
年から同18
年の刊行状況について見ると、明治10
年 代に盛んになる郷土地誌教科書の刊行は、 「学制Jの理念と現実の落差をうめる ものとして登場したと考えられる。明治5
年 <1
8
7
2
>
r
学制」によって開化啓蒙 主義による小学校の教則が通達され、翻訳教科書による近代的な教育内容が示さ れた。当時の民衆にとって、小学校に子どもを入学させることは授業料負担や学 校運営資金の棟割負担など経済的に過重な負担となった。そのうえ、学校教育の 中身が生活に役立つ実用的知識を欠いたものであった。民衆は「不就学Jという 手段での抵抗をとったのである。 明治10
年 <1
8
7
7
>
をはさんで、文部省は全国に官吏を派遣して、 「学制」の 実施状況の実態調査を実施した。その結果、不就学にいたる原因は、民衆の生活 とかけ離れた教則や教科書にあり、教師の教授法の未熟さにあることなどにある ととらえた。r
学制」理念に基づいて、全国で画一的に教則を適用することを反 2-表1 法玄妻室
9
畏 の 多 郎 ニ ヒ 主 也 言 志 妻 女 不 同 書 一 一 事 乞 一 日 月 言 台 其 耳 一 《県地誌》 1 近 江 風 土 誌 上 ・ 下 河 村 祐 吉 琵 琶 湖 新 聞 曾 社2
滋 賀 県 管 内 地 理 問 答 田 中 織 遠 彦根・小川九平3
近 江 地 誌 墨 上 ・ 下 北川舜治 大津・津宗次郎 4 滋賀県系管内地理書 奥田楽世 間5
同 地 理 書 字 引 河野通宏 同6
同 地 理 書 問 答 同 同7
同 地 理 書 課 圃 同 同8
改正滋賀県系管内地理書奥田柴世 間9
滋賀勝地誌 梶山弛一 同1
0
滋賀県系管内小撃地誌川添清知 大津・島林専二郎 明治8
年9
年1
0
年1
0
年1
0
年1
1
年1
1
年1
2
年1
3
年1
6
年 上3
6
丁、下23T
2
0
丁 上5
7
丁、下4
6
丁3
5
丁2
0
丁 目丁5
0
X
3
4
c
m
3
4
丁24T
2
6
丁1
1
小撃近江地誌 一 井 寿 衛 雄 大 津 ・ 津 宗 次 郎2
4
年5
4
丁1
2
近江地誌 滋賀牒私立教育曾京都・杉本甚之介2
7
年4
5
頁1
3
近江地誌・児童用 宗宮信行 大津・島林専二郎3
3
年22T
1
4
新撰・近江地誌 山本高次郎・鈴木治太郎・豊田穣・日向清蔵 大津・安原正光3
5
年1
5
丁 《郡地誌》1
5
滋賀蘇管内栗太郡誌山本清之進 大津・津宗次郎1
2
年2
5
丁 目 改 正 同 同 同1
7
年25T
1
7
滋賀県系管内阪田郡誌中矢正意 向1
2
年1
2
丁 目 同 伊 香 郡 誌 長 瀬 登 喜 雄 同1
2
年9
丁 目 同 浅井郡誌 中矢正意 長漬・早瀬右内1
3
年1
1
丁2
0
同 滋賀郡誌 村 田 巧 大津・津宗次郎1
3
年15T
2
1
同 野 洲 郡 誌 巽 築 蔵 同1
3
年1
1
丁2
2
同 甲賀郡誌 山 懸 順 大津・古川伊助1
3
年2
8
丁2
3
同 愛知郡誌 横 家 平 彦根・小川九平1
3
年18T
2
4
同 神崎郡誌 松 浦 果 大津・小川義平1
3
年1
5
丁2
5
同 犬上郡誌 渡遁弘人 彦根・小川九平1
4
年2
2
丁2
6
同 滋 賀 郡 小 畢 地 誌 川 添 清 知 大津・津宗次郎1
6
年1
8
丁2
7
同 伊 香 西 浅 井 郡 誌 同 郡 教 育 曾 木 ノ 本 ・ 安 達 湖 一 郎1
7
年1
0
丁2
8
篭頭・甲賀郡小事地誌高谷柳差・平田次勝 水口・薮音次郎1
7
年14T
2
9
高島郡地理概署 東 郷 秀 太 郎 高 島 ・ 川 上 平 兵 衛1
8
年1
2
丁3
0
近江園滋賀郡誌 同郡教員組合曾大津・島林専二郎3
1
滋賀県系管内甲賀郡誌久野正二郎 甲賀・栗林徳平3
2
東浅井郡誌 東浅井郡教育曾長漬・中村藤平 - 3-3
2
年12T
3
3
年9
丁3
3
年9
丁省して、各府県独自の教則の制定を認め、地域独自の教科書づくりを承認してい く政策に転換した。 文部大書記官九鬼隆ーは第三大学区巡視報告書で、 「都都貧福ノ度ヲ測リJ
r
幾様ノ教則ヲ設ケJr
地方管内ノ風土物件ヲ編成」した、郷土にねざした教育が 必要であるとしたのである。(!i文部省年報 第5
次』明治10
年) こうして郷土地誌教科書づくりは、江戸時代以来の往来物の伝統を引き継ぎ、 各府県で最も地域性を生かした教科書として、精力的に編纂・刊行された。!i文 部省年報』の「小学書籍一覧表」を分析した中川浩ーは、明治8
年 <1
8
7
5
>
まで は全て日本地誌と万園地誌で占められていたが、明治9
年 <1
8
7
6
>
には小学校の 地理教科書23
種類のうち県別地誌が5
種類、翌年10
年<1877>には25
種類 のうち11
種類が県別地誌ないし国別地誌となっていると報告している。さらに 明治11
年 <1
8
7
8
>
には38
種類のうち、郷土地誌は22
種類にも達しているの である(2)。 さらに『文部省年報』第7--8
次の「小学書籍一覧表」を追ってみると、明治12
年は地理教科書31
種類のうち15
種類が、13
年は6
種類のうち2
種類が、14
年は55
種類のうち45
種類が郷土地誌教科書となっている。第10
次年報 (明治15
年)以後は出てこず、小学書籍一覧は第12
次年報(明治1
7
年)は 掲載されなくなる(
3
)
。<2>
明治20
年代半ばから30
年代半ば<
1
8
9
1
-
-
1
9
0
2
>
ごろに、郷土地誌教 科書の刊行が第2
のピークをむかえる。ここでは郷土地理の教育のための教科書 として位置づけが強くなり、郷土史、郷土理科ともかかわった教育の一環とされ ている。 明治20
年代半ばから30
年代半ばの郷土地誌教科書は、10
年代と較べると 滋賀県管内の郡地誌は少なくなり、県地誌が中心である。郡地誌教科書は甲賀郡 地誌と滋賀郡地誌と東浅井郡の3
種類であり、県地誌教科書は4
種類が刊行され ている。 明治18
年<1886>の「小学校令」と「小学校ノ学科及其程度」において、小 学校は制度面で確立されてきており、教育内容、教科書、教授細目などの統制が 進んで来たことによる。尋常・高等の2等各4年間の小学校における、学科の内 容が規定された。すでに明治14
年<1881>
の「小学校教則綱領」で歴史科と地 理科が設置され、学科の内容と程度が示されていた。r
小学校令」において、歴 史科と地理科はともに高等小学校の学科とされ、教科の規定が明確にされた。 明治24
年 <1
8
9
1
>
ごろから郷土地誌教科書の発行が活発化するのは、明治2
3
年 <1
8
9
0
>
の「改正小学校令」と翌24
年の「小学校教則大綱」の影響である。 歴史科と地理科はここでも高等小学校の教科とされたが、尋常小学校においても 設置しでもよいとの条文があった。しかも、尋常小学校で設置する場合、歴史科 ・地理科とも「郷土」から始めることが指示されたのである。 地理科では、 「日本地理及外国地理ハ 日本ノ地理及外国地理ノ大要ヲ授ケテ 人民ノ生活ニ関スル重要ナル事項ヲ理会セシメ兼ネテ愛国ノ精神ヲ養フヲ以テ要 4-旨トス 尋常小学校ノ教科ニ日本地理ヲ加フルトキハ 郷土ノ地形方位等児童ノ 日常目撃セル事物ニ就キテ端緒ヲ開キ 漸ク進ミテ本邦ノ地形、機構、著名ノ都 会、人民ノ生業等ノ概略ヲ授ケ 更ニ地球ノ形状、水陸ノ別其他重要ニシテ児童 ノ理会ジ易キ事項ヲ知ラシムハシ
J
(第6
条)とあった。 同じく歴史科においても、 「尋常小学校ノ教科ニ日本歴史ヲ加フルハ塑主三
関スル史談ヨリ始メ漸ク建国ノ体制、皇統ノ無窮、歴代天皇ノ盛業、忠良賢哲ノ 事蹟、国民ノ武勇、文化ノ由来等ノ概略ヲ授ケテ 国初ヨリ現時ニ至ルマテノ事 歴ノ大要ヲ知ラシムへシJ (第7
条)とあった。 明治18
年に新しく教科として設置された理科においても、 「最初ハ主トシテ 学校所在ノ地方ニ於ケル植物動物鉱物及自然ノ対象ニ就キテ児童ノ目撃シ得ル事 実ヲ授ケ就中重要ナル植物動物ノ形状構造及生活発育ノ状態ヲ観察セシメテ其大 要ヲ理会セシメJ
(第8
条〉として、尋常科においては郷土の自然観察から入る ことを重視している。 この明治24
年 <1
8
9
1
>の教則改正の結果、郷土地理、郷土歴史に関する教科 書が続々と刊行された。地理、歴史、理科において、郷土にある直観材料による 教授が進められたのである。直観教授にのっとった郷土教科書づくりが盛行した。 海後宗臣は、この時期について「明治24
年頃より約10
年間に150
余種刊 行されている。そのうち郷土地理約100
種、郷土史約35
種、郷土地歴約15
種である。……これ等郷土に拠る教科書が全国的に使用されていたことは、郷土 に基く教授が如何に一般化して行われていたかを充分に知らしめているものと思 ふJ
I
この時代は郷土教科書が最も多く使用された時であって、我国郷土教育の 発達上注目すべき時期である」と評価している(4)。 E 明治初期の滋賀県における郷土教育の成立1
明治10
年以前の郷土地誌の教育<近江園地誌> 一『近江風土誌~ (明治8
年)ー 明治10
年以前に刊行された滋賀県の郷土地誌教科書が、1
冊確認されている。 明治8
年 <1
8
7
5
>
1
月に河村祐吉が大津・琵琶湖新聞曾社から刊行した『頭書 近江風土誌 上・下』である。この教科書は、明治7
年<1874>1
0
月の「滋賀県小 学教則」において、下等小学の第4
級の「地理読方」と第2
級の「地理輪講」に 掲げられている。第4級は現在の3年生前期、第2級は4年生前期に相当する。 『頭書近江風土誌』は、滋賀県最初の教則である明治7年の「滋賀県小学教 則Jで、日本地誌の『日本国尽』や万園地誌の『世界国尽』に先だって学ばせる 教科書として位置づくられていた。すなわち、この教則においては、まず郷土地 誌から入って、次に日本地誌、そして万園地誌(世界地誌)から一般地理へとい うカリキュラム上の配列が行われている。 郷土地誌教育として、第6
級(2
年生前期)の「近江田郡村町名JI
地方往来」 - 5-が教則に掲げられて、次いで第
4
級の『近江風土誌』があり、第4
級から第2
級 にかけて上記の日本地誌、万園地誌の教科書が掲げられている。上等小学になる と、第8
級と第7
級の「地理輪講」で、 『西洋事情.JJW
挿園地学往来.JJW
地球儀』 「世界地図」が挙げられ、第5
級で『輿地誌墨』が挙げられている。 さて、 『頭書近江風土誌.JJ (近江八幡市立図書館所蔵本)は、上巻が1
丁か ら37丁、下巻が37丁から59丁となっている。著者の河村祐吉は青森県士族 で、明治6
年4
月一7
年11
月まで滋賀県権少属13
等で庶務課学校簿書専務の 任にあった人物である(r
滋賀県官員録 明治6・7年J
W琵琶湖新聞』第3号 附録、第27
号附録)(
5
)
。 『頭書近江風土誌』の内容は、頭書とあるように上段と下段からなっている。 上段は楢書体で下段は草書体によって、近江国の地誌の大要について郷土地誌の 知識を与えるとともに、習字の練習として字を覚えさせるように工夫された教科 書である。江戸時代以来の往来物系統の教科書スタイルであり、この後の滋賀県 の郷土教科書には見られなくなる形式である。 近江国の地誌の大要は、次のような項目を掲げている。最初に滋賀県の位置、 国境、石高・人口・戸数・村数、次に神社名、寺院名、山縁、河川、原野、町村、街 道、電信路、郵便役、島名・瀧・渡場、名所旧跡、主要な村の物産などである。上 段と下段は同頁でなく、内容も必ずしも一致していない。 巻頭書き出しの部分(下段草書)を引用する。r
近江全国は(者) 滋賀県系の (乃)管轄にして/牒鹿を(越)大津に置く 此 園 た る や 北 緯 三 十 五 度 西 経 三 度 五 十 分 東 京 を 以 て / 零 度 と す 東 西 凡 十 六 里 南 北 三 十 二 里 齢 東 は ( 者〉伊勢美濃西は(者)山城丹/波に隣す南は(者)伊賀北は(者)若狭 越前等に堺す 四境皆山嶺湖水中央に/横たハり 此即ち琵琶に似るを以て 琵琶湖と名く(以下略)J
2 明治10年代の郷土地誌<滋賀県地誌>(1) 一『近江地誌暮.JJ (明治10
年) -北川舜治の『近江地誌暮 上・下.JJ (大津・津宗次郎刊)は、明治10
年6
月に 出された郷土地誌である。北川のこの郷土地誌本について、小学校の教科書に指 定されたことを示す資料は見つかっていない。しかし、後に見るように内容から みて、同時期に編輯された郡地誌教科書に与えた影響が強く認められること、当 時の教員用の地誌教科書として使われたことが推測されることから、ここで取り 上げることにした。 北川舜治は、栗太郡志津村(現草津市)の豪農の家に生まれ、号を静里と称し た。19
歳で京都に遊学して経史、博物学、医学、儒学を修め、郷里に戻って私 塾を聞き、医者のかたわら和学・漢学を教授した。明治8
年 <1875>5
月、滋賀県 に出仕し、史誌編纂兼学務担当を命ぜられ、県内各校を巡視した。同10
年2
月 に文書掛に転じ、15
年11
月に家庭の都合で辞任した。しかし、郡の依頼で栗 太野洲郡の学務担任書記として再出仕し、19
年まで勤める(
6
)
。 6-北川舜治の著書は、明治
7
年<1874>
の『内外史略dI3
巻に始まり、明治9
年 『明治新史dI (明治史略)8
巻、明治10
年の『近江地誌客』と続く。明治20
年代から30
年代にかけて、北川は郷土史、郷土地誌関係の著書のみならず、膨 大な数の著書を残した博学である。 北川の『近江地誌客 上・下』は、上巻が57丁、下巻48丁から成る本格的な 近江園地誌本である。巻頭に滋賀県権令簡手田安定の書、 「以観園光」を掲げて いる(北)1I
は、滋賀県県令・知事績手田安定の遺命により、簡手田の一生の事蹟を 『牧民偉績dI8
巻にまとめる)0 Ii'近江地誌署』は、最初に近江国全体に簡潔に ふれた後、近江国管内12
郡の地誌を詳細に記述したものである。 上巻では、全国総論から始まり、滋賀郡誌栗太郡誌 甲 賀 郡 誌 野 洲 郡 誌 蒲 生 郡 誌 神 崎 郡 誌 の 順 序 で 叙 述 し 、 下 巻 に 愛 知 郡 誌 犬 上 郡 誌 、 坂 田 郡 誌 浅 井 郡 誌 伊 香 郡 誌 高 島 郡 誌 の 計12
郡誌を叙述している。12
郡誌における郡 誌 の 内 容 は 、 「 全 郡 形 勢 山 嶺 河 川 原 野 海 布 団 圃 反 別 匿 童 戸 口 神 社 寺 院 畢 校 物 産 村 落 市 街 陵 墓 古 城 古 跡 古 戦 場 」 で あ る 。 『近江地誌暮』中の「蒲生郡誌」の項の一節を引用してみよう。 <匿壷戸口>r
全郡ヲ十八匿ニ分劃シ村敷二百五ケ村町敷六十八町戸数二万八百 零二戸人口八万三千百二十六男四万零八百十六人女四万二千三百十人j < 古 城 >r
安土城ハ下豊浦村ニアリ天正四年織田信長ノ築ク所七層ノ天守閣ヲ作 シ高サ七丈十年明智光春火ヲ縦テ之ヲ燭ク…...・H ・..西大路ニ市橋氏ノ邸アリ 元和年中市橋壱岐守長利以後世々之ニ居リ封地一万八千石明治維新ノ後西大 路藩ト称シ文版籍ヲ奉還シ勝トナシ後大津勝ニ合ス」 北川の郷土地誌本の特色として、次の3
点が挙げられる。 (1)近江全国の概要説明でも統計数字がかなり使われており、各郡誌の冒頭部 分でも統計数字がよく使われている。 (2)各郡誌において、沿革略史(陵墓、古城、古跡、古戦場)に多くの頁数を 割いている。郷土地誌ではあるが、郷土沿革史を重視している。 (3)挿絵、地図が全く見られない郷土地誌本である。小学校の児童用ではこの 点からしてもも用いることが困難であり、この内容は教師用の郷土地誌本と して使用されたものと推測される。3
明治10
年代の郷土地誌<滋賀県地誌>(2)
一『滋賀県系管内地理書dI (明治10
年)ー ①滋賀県地誌教科書の小学教則における位置と特質 奥田楽世編輯の『滋賀県系管内地理書dI (明治10
年11
月 大津・津宗次郎刊) は、明治10
年代の滋賀県下の郷土地誌教科書として、最も長期間使用された教 科書である。この郷土地誌の教科書は、滋賀県の小学校教則において、明治10
年6
月の小学教則、明治12
年2
月の小学普通教則、明治13
年12
月の小学模 範教則、明治15
年8
月の小学校教則、明治18
年9
月の改正小学校教則の5
回 のすべての教則に掲げられている。刊行された明治10
年11
月以降、約10
年 7-聞にわたって明治初期の滋賀県下小学校で使用された郷土地誌教科書であった。 目まぐるしく変遷した教科目や教科書の多い中で、この教科書は珍しく安定して 使われたものである。 『滋賀県系管内地理書』の編輯者は、高知県士族奥田楽世である。奥田は、明治
9
年文部省より滋賀県学務課長に転任してきた人物である。奥田の滋賀県学務課 長就任の背景は、 「本膳夙ニ本校ノ不振ニ見ルアリ 明治九年冬文部省ノ中視学 奥田柴世ヲ以テ事務課長トナシ 管下ノ撃政ヲ更正シ本校ノ規模ヲー振拡張スル ヲ期スJ ( u'大津師範撃校第一年報』明治10
年〕であり、滋賀県庁が教育行 政と師範学校の教育養成を充実するために文部省から招請した人物である。 奥田築世編輯の『滋賀県系管内地理書』は、このような滋賀県下の小学校教育の 充実・発展をめざして、教育内容面で“上から"テコ入れする一つの方策として 具体化された教科書であった。この教科書に関連して、河野通宏編輯『滋賀勝管 内地理書字引~ (明治10
年12
月〕や、河野編輯 大島一雄校正『滋賀県系管内 地理書課圃~ (明治1
1 年 10 月)、河野編輯『滋賀県系管内地理書問答~ (明治1
1
年6
月)などが、いずれも大津・津宗次郎から発行されている。 滋賀県郷土地誌の教科書として、教員や児童の使いやすいように「字引Jや「 滋賀県地図Jを発行したばかりか、同教科書の「問答教科書jも発行したのであ る。河野通宏は、明治10
年3
月30
日に大津師範学校書記になり、同13
年1
月17
日まで大津師範学校に勤務した(12
年3
月より教員兼務)。河野は、奥 田築世の協力者として、同教科書の普及・使用の便宜となる本を編輯したものと 考えられる。河野編「問答教科書」が登場するのは、明治13
年12
月の「滋賀 県小学模範教則Jまで地理科として独立しておらず、 『滋賀県系管内地理書』は専 ら「問答科Jr
読物科」という科目のなかで教えられたからである。この他、同 教科書に関しては明治10
年の初版本に続いて、明治12
年3
月の再版本である 『改正滋賀県系管内地理書~ (津宗次郎刊)も出ており、相当普及していたことを 窺わせる。 『滋賀懸管内地理書』は、 「明治10
年9
月25日 版権免許」を得ている。 滋賀大学教育学部附属図書館には、同教科書の版権免許証が残されている。これ によれば、 「第三千五百七拾査披/版権免許之謹/奥田柴世編輯 滋賀県系管内地 理書 中本査冊/高知県系土族奥田柴世蔵版/右者明治十年九月二十五日ヨ リ向三十年ノ間版権免許候也/明治十年九月二十五日/内務卿 大久保利通 印」 となっている。なお、河野編輯の同教科書字引についても、同様の版権免許証が 残っている (7)。 ②『滋賀懸管内地理書』の内容と教授方法 さて、 『滋賀県系管内地理書』の内容であるが、1
丁から24
丁が近江田、25
丁から33T
までが若狭園、33
丁から35
丁までが越前国敦賀郡の地誌となっ ている。当時の滋賀県管轄下の近江田12
郡と若狭国4
郡、越前国1
郡である。 各国の郷土地誌は、位置 自然(山岳・河川・島・滝など) 街道 町村名 人口 反別社寺学校物産を記している。地誌の記述は、それほど子どもの興味を 8-ひく内容となってはいないが、見聞きの
1
丁にほぼ1
枚の挿絵や簡単な地図が入 っており、親しくする工夫がなされている。たとえば、 「瀬田橋ノ圃JI
唐崎ノ 圃J
I
伊吹山ノ圃J
I
建部神社ノ圃」とか、 「大津市街ノ圃J
I
彦根市街ノ圃」 などである。 『滋賀県系管内地理書』の人民の生業に関する内容の一節を抜きだしてみよう。 「人民ハ一般ニ耕種ヲ業トナスト雄モ 伊香浅井坂田ノ諸郡ハ専ラ桑蚕紡織ヲ 業トシ 甲賀郡及ヒ愛知郡ノ南部ハ茶ヲ産シ沿湖ノ人民ハ漁魚ヲ業トシ 蒲生神 崎ノ二郡ハ盛ニ貿易ヲ勉メ又醸造ヲ業トシ 或ハ遠ク函館ニ貿易シ或ハ東西諸園 ニ支舗ヲ設ケ家資数万ヲ累ルモノ頗ル多シ 蓋シ封建ノ世ニ賦税重ク民命ニ勝へ サルニヨリ遂ニ地ヲ去テ行商ヲ業トスルニ到レリ 是ヲ以テ村民頻ニ家ヲ興シ暴 富ニ到ルモノ歴々屈指スルニ暇アラス 故ニ嘗時ノ富ヲ稽スルモノハ多ク此諸郡 ヲ推スJ (4丁) この部分は、 「問答科J
I
読物科」でどのように教えられたであろうか。河野 通宏編輯『滋賀県系管内地理書問答』では、次のようになっている。 「問 桑蚕紡織ヲ専業トナス地ハ何郡ナルヤ」 「答伊香、浅井、坂田郡j 「問茶ヲ産スル地ハ何郡ナルヤ」 「答申賀、愛知郡」 「間 貿易ヲ勉メ醸造ヲ業トスル地ハ何郡ナルヤ」 「答蒲生、神崎郡」 『滋賀県系管内地理書』の教授は、 「問答科」のなかで郷土生活の知識を与える ために行われたが、教授方法は「問」と「答」を交互に繰り返しながら、記憶し ていく形でなされた。したがって、この問答に見るように郷土人民の生業の概括 的知識だけが問われて、これに答えるだけでよいとされたと思われる。I
問答科」 の方法を使って、郷土地誌教科書の基礎知識の記憶を重視する方針がとられた。 他方で、河野は『滋賀県系管内地理書課圃』の囲み書において、 「下等5
級生徒 ノ如キ年歯撃力共ニ未夕、浅キヲ以テ許多ノ事物ヲ悉ク記憶セシメント欲セパ却テ 其要ヲ失シ所謂蜂虻両ナガラ之ヲ得ザルニ至ル...・M ・..管内地理書ヲ授クルハ管内 地理ノ概略ヲ知ラシメントノ主意ニシテ・H ・H ・..山川岬角等悉皆之ヲ記憶セシムベ シトノ意ニ非ザルベシ」と、記憶中心の方法をしりぞけようとした。実際の授業 では河野の意図に反して、郷土の概括的知識を記憶することが重視された。E
明治10
年代の郡地誌教科書の分析1 滋賀県の郡地誌教科書の概観
ここで検討する滋賀県の明治10
年代の郡地誌教科書は、現在の時点で発見し、 収集しえた15
冊である。刊行年次別に見ると、明治12
年の『滋賀県系管内栗太 郡誌JJW
同 坂 田 郡 誌JJW
同 伊 香 郡 誌 』 の3
冊、同13
年の『同浅井郡誌』 『同滋賀郡誌JJ W岡 野 洲 郡 誌JJ W同 甲 賀 郡 誌JJ W同 愛 知 郡 誌JJ W同 神 9-崎郡誌』の
6
冊、同14
年の『同犬上郡誌』の1
冊、同18
年 の 『 同 滋 賀 郡 小撃地誌』の1
冊、同17
年の『同 伊香西浅井郡誌.n
Ii'鑑頭甲賀郡小畢地誌』 『改正 同 栗 太 郡 誌 』 の3
冊、そして同18
年の『高島郡地理概客』の1
冊で ある。このうち、栗太郡に関しては、明治12
年本と17
年本は同一内容の改正 本である。明治12
年と13
年の両年で、9
郡地誌が刊行されている。 滋賀県12
郡のうち11
郡の郡地誌教科書の刊行が確認されているが、現在ま で蒲生郡誌のみ確認できていない。上記14
種類15
冊の内訳は、滋賀郡誌と甲 賀郡誌と伊香郡誌の各2
種類計6
冊、他は7
郡の各郡誌1
冊づっ7
冊、栗太郡誌 のみ2冊である。但し、伊香郡誌と浅井郡誌がそれぞれ単独で出された後、明治1
7
年に『伊香西浅井郡誌』として刊行されている。これは明治13
年5
月5日
に、浅井郡が東西二郡に分割されたためである。 2 郡地誌教科書の滋賀県小学教則における位置づけ 滋賀県下の郡地誌教科書は、明治13
年12
月の「滋賀県模範教則」において、 初めて教則上公認されている。下等小学(2
カ年)の第3
級<現在の1
年生後期> に地理科の「近傍市街町村Jがあり、ここで郡地誌が教えられた。同教則では、 第2
級<2
年生前期>で「日本国尽J
I
世界ノ大別J
を、続いて第1
級<2
年生 後期>で『滋賀県系管内地理書』を教え、さらに中等小学(3
カ年)の第6
級から第 4級まで師範畢校編輯『日本地誌客』を、第3級と第2級で同編輯『万園地誌墨』 を教えることになっている。このように明治13
年「滋賀県模範教則」では、郡 地誌→滋賀県地誌→日本地誌→万園地誌という、身近な郷土からはじまる“同心 円的拡大"の原理による内容構成が打ち出されてきた。 続いて、明治15
年8
月の滋賀県「小学校教則」でも、初等科(3
カ年〕中等科(3
カ年〉高等科(2
カ年)の中で、中等科第6
級<現在の4
年生前期>に「学校 内外及郡内地理ノ概署J、第5級に「滋賀県管内地理ノ概署」、第4級と第3級 で「日本地理」、第2級に「万園地理」となっている。 郡地誌教科書はこの教則でも正規のカリキュラムに位置づけられ、さらに明治1
9
年9
月の「滋賀県改正小学校教則」においても尋常科(4
カ年)の後、高等科(4
カ年)の第1
学年<現在の5
年生>に「学校近傍ノ地形・滋賀県管内地理」と して位置づけられている。ここでも“同心円的拡大"の原理が貫かれ、第2
学年 と第3学年で「日本地理」、第4学年で「外国地理Jとなっている。 3 滋賀県下刊行の郡地誌教科書の4類型 すでに、明治10年代の滋賀県郡地誌教科書の大まかな素描を試みたことがあ る(8)。滋賀大学教育学部附属図書館所蔵の10郡地誌について、 4類型に分けて 検討を加えた。そこでの類型の分析を修正して、その後に収集した4郡地誌の計14
種類をあらためて新しい4
類型に区分してみたい。< A
類型ー「地理総論I I
地理総説Iを、郡地誌の前に付すタイプ>4
郡誌 ハ U 1E よこの類型の郡誌として、 『滋賀県管内坂田郡誌.!l Ii同 伊香郡誌.!l (明治
12
年〉と『同滋賀郡誌.!l Ii同野洲郡誌.!l (明治13
年)がある。 各郡地誌に先だって、 「地理総論Ji
地理総説」が2""'4丁を使って記述して いるところに特色をもっ。i
地理総論J
i
地理総説J
において、坂田郡誌、滋賀 郡誌、野洲郡誌は、挿絵とともに「地ノ大ナルモノヲ洲、文大陸トイヒ、其ノ小 ニシテ、水四周ヲ囲ミタルモノ、之ヲ島ト云フ」という説明から入っている。洲、 大陸、大洋、島、半島、山、岡、山脈、嶺、火山…...・H ・..などの自然地理の概念 を簡潔に説明している。伊香郡誌のみが、地球、太陽、東・西半球、五大洲、五大 洋、緯線・経線などの説明を行っている。 『滋賀県系管内伊香郡誌』の凡例において、巻首に「地理総論」する理由を載べ ている。r
洲洋水陸ノ匿分ト至極経緯ノ線用トヲ記憶セシメ以テ地球儀問答科ノ 資料ニ供セント欲スルカタメ也Jと述べ、 「地球儀問答」を学ぶ前段階の資料と して使用するためであるとした。 4郡地誌とも、郡地誌の部分の記載は、郡の位置、山川、街道、寺社、小学校、 村名をあげており、統計資料として村数、戸数、人口、反別、地価、地租金など が書かれている。Ii滋賀県系管内滋賀郡誌』の凡例では、 「小畢生徒ノ為ニ著ノ、ス ヲ以テ文字ノ卑僅ヲ免レス勉メテ解シ易キヲ主トス」として、やさしくわかりや すい文字と文体に心がけたことを述べている。r
郡中ノ市街村落古城旧跡名山巨 川等之ヲ記載スルト錐モ其著名ナルモノヲ挙ク其他ハ開如ス」。 さらに、同郡誌の著者村田巧は、郡地誌から学ばせる意義について「凡ソ地誌 ヲ讃ムニ先ツー郡ノ地理ヲ知リ而メー園ニ及ホシー園ヨリ天下ニ及スヲ順序ト云 フペシ是所謂高キニ登ルハ必ス卑キヨリスルノ謂ナリ」と書いている。明治12
-13
年段階において、教授原則として“まず近きより遠きに及ぼす"という考 え方が広まってきたことを示しているものである。<B
類型ー郡の自然地理・人文地理を網羅する典型的な郡地誌>8
郡誌B
類型の郡地誌に属するのは、 『滋賀懸管内栗太郡誌.!l (明治12
年) Ii同 浅井郡誌.!l Ii同愛知郡誌.!l Ii同神崎郡誌.!l (明治13
年) Ii同犬上郡誌』(明治
14
年) Ii同伊香西浅井郡誌.!l (明治17
年)である。 この類型の郡誌は、A
類型のような10
丁前後の簡潔な郡地誌の記述ではなく、 各郡の地誌的記述が詳細になり15
丁""'2
5
丁に及ぶようなものである。郡地誌 教科書の記述内容は、郡の位置から始まり人口、戸数、村落数、反別、地価を記 し、ついで主要な山岳、河川、街道、橋梁、津港、池などを説明し、郡の中心町 村の沿革と現況を説明する形が多い。最後に神社、寺院、郵便局、警察などを挙 げているものもある。 さきのA
類型の著者は4
郡誌とも他府県出身人であったが、B
類型の著者は浅 井郡誌を除く5
郡誌が滋賀県人である。しかもそれぞれの郡内の出身や居住者で あり、各郡の自然地理や人文地理に詳しいことが、きわめて詳細で網羅的な地誌 教科書を作り出したと思われる。この郡地誌教科書を低・中学年児童用として考 えれば、いかに郷土地誌とはいえ、かなり細かな知識を授けられたものと推測で 11 ム 唱E iきる。 『滋賀懸管内犬上郡誌』の緒言で、著者渡漫弘人は郡地誌学習の意義を次のよ うに述べている。渡漫弘人は明治
10
年7
月から12
年4
月まで彦根伝習学校→ 彦根初等師範学校教師(幹事)で13
年4
月に同校が滋賀県師範学校に合併にな るや、14
年から18
年まで滋賀県師範学校教師となる人物である。 「那然氏日 各地ノ境界人口産物等ヲ畢フハ 其中心即チ撃校所在ノ地ヨリシ 此皐ノ畢ルマテ 次ヲ追フテ周囲ノ遠地ニ及ボシ 姶モ小環ヨリ大環ニ韓スルガ 如クナルベシト 善哉言ヤ 夫レ人苛クモ地撃ヲ皐.1'¥ント欲セパ其規程如何ニ注 意セザル可ラズ 今ヤ小撃ノ教日ニ開明ニ赴キ 業ヲ地皐ニ受クルモノ其校舎或 ハ居住スル所ノ市邑ノ分界ヲ知ラズシテ 己ニ敵洲各園ノ境界ヲ撃ブガ如キ自然 順序ニ惇レルモノナキニ至レリJ ここには、当時の教育学・教授法に影響を与えたチャールズ・ノルゼントの言葉 が引用されている。Ii'那然氏小畢教育論.!l (文部省印行 明治10
年1
月刊〕の 第一篇第28節の地学(地理学)教授について、助言の第四をそのままとったも のである。大津師範学校は、明治11
年の伝習学科教則において『那然氏教育論』 を「教育論旨」として学ばせているように、この“近きより遠きに及ぼす"教授 原則の思想はかなり広まっていたと考えられる(9)。<C
類型ー郡内町村の沿革史を中心にした郡地誌>1
郡誌 C類型の『滋賀懸管内甲賀郡誌.!l (明治13年〉は、他の郡地誌に全く見られ ないスタイルをとる郡地誌である。郡地誌の内容は14
郡誌の中でも最高の28 丁という分量であり、その記述内容が郡内町村ごとの詳しい沿革史を中心にして いるのである。最初の2
丁には甲賀郡内の地形、位置の概略が述べられ、その後 3丁から20丁までは各村落の史談風沿草略史を中心にした地誌となっており、 最後の20丁から28丁までが郡内の高山、大川の概略、道路となっている。 たとえば、水口についての説明は、 「倉田荘ハ(水口〕鈴鹿油日ノ山脈分レテ西ニ延ヒーハ葱ニ至テ止ルヲ山尾郷ト披ス嵯峨荘ノ西ニ接ス東海道ニ係リ……-O
美濃郷ハ菅原氏食巴ニシテ延喜元年太宰府権師ニ左遷ラル...・H ・.
.
0
水口神社ハ 祭神...・H ・.
.
0
大岡寺ハ・H ・H ・.
.
0
水口域ハ・H ・H ・..Jというようになされている。生 徒にとっては詳しすぎるとも思える説明であり、大人向けの郷土史といっていい ほどである。 著者の山鯨順は文政元年<1818>
生まれの元水口藩士の漢学者で、明治7
年1
月より8
年9
月まで水口の知周学校の教師を勤めた。同月より滋賀県庁に出仕し、 数年間の県官吏の問、地誌編輯の仕事に従事する。Ii'滋賀県系管内甲賀郡誌』はこ の時期の著作であろう。なお、長男の悌三郎は東京師範学校卒業後、文部省にお いて多数の教科書を編纂した(0)。<D
類型ー上段に要点や問題を載せ、児童の便宜を工夫した郡地誌>3
郡誌 この類型に属する郡地誌として、 『滋賀県系管内滋賀郡小撃地誌.!l (明治18
年) 『龍頭甲賀郡小撃地誌.!l (明治17
年) Ii'高島郡地理概略.!l (明治18
年)の3
ワ U ' E i郡誌がある。また、滋賀郡誌の著者川添清知は、明治
18
年に県地誌『滋賀県系管 内小畢地誌』を刊行しているが、これも同様なスタイルをとっている。 この3
郡誌は刊行年次を見ると、明治18
年から18
年の時期にかけてのもの である。しかも滋賀郡誌と甲賀郡誌はすでにともに1種類づっ刊行されている。 この点からして明治12-14
年段階に刊行された郡地誌よりも、より児童向け に工夫がこらされた郡地誌となっている。 『滋賀県系管内滋賀郡小皐地誌』の「大津」の項(下段本文)を見ょう。 「港津ハ大津ヲ以テ第一トス、船舶ノ出入間断ナク董夜汽笛ノ撃絶タズ・H ・H ・.. 全郡第一ノ都曾ヲ大津トス郡ノ南部ニアリ、ーニ鶴浦ト称ス、京極高次ノ域社ナ リ、市坊ノ数九十一、戸数四千六百六十、人口一万五千六百三十齢アリ、此地ハ 東海東山北陸三道ノ要路ニ嘗ルヲ以テ、旅客ノ往来常ニ絶エズ、近時水ニ汽船ア リ、陸ニ蒸気車アリ、其繁華旧日ノ比ニアラズJ ここで上段には、 「幅員東西十六町、南北一里余」と書かれているだけである が、 「膳所」の項に「膳所城ハ明治三年廃域」とあったり、郡内村落の説明の項 の一節には「穴太村ニ穴穂撃校アリ此村ヨリ山城国一乗寺村ニ出ルヲ青山越文ハ 白取越ト称ス天文十九年将軍義晴此山中ニ病死ス」と書かれている。 高谷柳茎・平田次勝著の『篭頭甲賀郡小事地誌』は、上段がすべて「問題」の形 をとっている。高谷柳茎は、当時甲賀郡の善誘学校(現甲賀町大原小学校)の教 師であった。この郡地誌教科書の原本は、現在大原小学校に残る1
冊のみ確認さ れるだけである。この教科書の凡例において、 「小撃中等科第六級生ノ需用ニ充 ツ可キ相嘗ノ地誌アルナシ」と言って、適切な教科書がないので自ら編輯したと 述べている。 (11) ついで、 「此編ノ目的タル小畢生徒ノ暗記ニ供スルニ在レハ敢テ文飾ヲ作為セ スJI
上欄ノ問題及附録ハ大略ヲ示スモノナレハ之ヲ活用シ或ハ更ニ問題ヲ設ク ル等ハ其意ニ随フモノトス」と述べる。子ども向けに便宜を図り、工夫を凝らし た目的は、暗記しやすいようにすることであった。川添j青知編輯の『滋賀県系管内 小事地誌』の凡例でも、 「小撃生徒ノ藷記ニ供センガ為Jと述べている。 『篭頭甲賀郡小撃地誌』の上段「問題」を最初から見ると、 「甲賀郡ハ近江ノ 園ノ何レJ I
J
I
J
I
北ハイカンJ I東ハイカンJ I西ハイカンJ I南ハ何園ニ 接スルヤJ I甲賀郡ノ状ハイカンJ I
甲賀郡ハ湖ニ沿フヤ否J I全郡ノ段別ハイ カン」と続く。 C類型で同じ甲賀郡誌で「水口」を見たので、この書の「水口」 の上段「問題」を挙げてみる。I
倉田ノ荘ハ幾村ナリヤJ
I
全郡ノ中央ハ何村ナ リヤJ I水口域ヲ築ケシ人ハ誰レJ I
美濃部天満宮ノ、何人ノ作J I水口神社ノ祭 神一二ヲ示セ」となっている。 最後に、同郡誌教科書の「附録」をあげておこう。I
此皐校ハ村ノ何レニ位ス ルヤJ I
校名ヲ間フJ I
教場ノ敷ハイクツJ I
撃校ノ門ハイツレヲ向キシヤJ I
撃校ノ有ル村ノ境界ハ如何J
...・H ・..I
撃校ヨリ甲賀郡役所へ路程ハ何程J
I
撃校 ヨリ滋賀県系鹿へノ里程ハ凡ソ何程JI
此撃校創立ノ年月ヲ示セ」。現場教師であ る高谷柳茎が編輯した教科書は、 “近きより遠きに及ぼす"教授原則に忠実な郡 地誌教科書であり、 「問題」においてそれを具体化したものであった。 っ d 噌 ‘ iN 明治20年代半ばの滋賀県における郷土教育の展開 1 明治20年代半ばの滋賀県地誌教科書 一『小撃近江地誌j] (明治
24
年)と『近江地誌j] (明治27
年〉一 明治24
年 <1
8
9
1
>
1
1
月の「小学校教則大綱Jにおいて、文部省は尋常小学 校において地理科、歴史科を課す道を聞き、その筋道として身近な郷土地理、郷 土史から入ることを示唆した。この方向で滋賀県においては、滋賀県地誌の教科 書が2
冊編纂されている。 1冊は一井蕎衛雄『小畢近、江地誌j] (明治24
年 大 津・島林専二郎)であり、いま1
冊は滋賀県教育会編纂『近江地誌j] (明治27
年 京都・杉本甚之介)である(
1
2
)
一井蕎衛雄は、 『小撃近江地誌』の巻頭の例言において、 「此書ハ小事校滋賀 牒管内地理ノ教科用ニ充テンカ為メ、専ラ教授上ノ便ヲ謀リテ著述セシモノ」と 述べている。同書の刊行は明治24
年4
月で「小学校教則大綱」より前ではある が、明治23年の「改正小学校令」での方針を通して、郷土地理の教科用として 刊行したのである。 一井は、この教科書の形式を「体裁自ラ通常ノ地誌ト異ニシテ、全園地理ノ大 恒ヨリ各郡ノ地理ニ入リ、各郡ノ地理ヨリ復全園地理ノ綱要ニ入ル」と書いてい る。これまでの滋賀県地理は、滋賀県全体の主要な自然地理、人文地理に関して の事象を叙述していく方法がとられていた。ここでは県下の13
郡の各郡地誌が 中心とされており、県全体の地誌は「第1
章諜習」で各郡地誌の導入、最後の 「第15
章 綱要」でまとめとして簡潔に取り上げられているだけである。この 叙述形態は、滋賀県教育会の『近江地誌』でも採用されている。最初が「護端J で最後が「結論」となっている。今、これを示すと次のようである。 「 第 一 章 諜 習 第 二 章 滋 賀 郡 誌 第 三 章 栗 太 郡 誌 第 四 章 野 洲 郡 誌 第 五 章 甲 賀 郡 誌 第 六 章 蒲 生 郡 誌 第 七 章 神 崎 郡 誌 第 八 章 愛 知 郡 誌 第 九 章 犬 上 郡 誌 第 十 章 坂 田 郡 誌 第 十 一 章 東 浅 井 郡 誌 第 十 二 章 伊 香 郡 誌 第 十 三 章 西 浅 井 郡 誌 第 十 四 章 高 島 郡 誌 第 十 五 章 綱 要 」 『小撃近江地誌』では、滋賀県下の13
郡地誌の内容は、位置、地勢、市巨、 道路の4
項目について述べ、山・川・岬・湾・物産・社寺・戸数・人口・村名などが書か れている。一方、 『近江地誌』では、各郡の位置、地勢、町村、名所が書かれて いる。前者は和本で54丁ということもあって、各郡地誌の内容はかなり詳しい が、後者は和装活字本の45頁というように簡潔なものである。 さて、一井が『小畢近江地誌』で採用した叙述形式は、教授方法とも関係して いるのである。彼は例言のなかで、 「先ツ議習ニ於テ全園地理大韓ノ観念ヲ輿へ、 而シテ後其撃校所在ノ郡誌ヨリ之ヲ始メ、漸次近隣ノ諸郡ニ入リ、次第二各郡誌 ヲヲ課イ、終ニ至リテ全園地理ノ綱要ニ及フへシ」と語っている。まず滋賀県の 全体的な概観をつかませ、最初は「学校所在の郡誌」を学ばせ、次に「近隣の諸 郡誌」、次第に「県下の遠い郡誌」、そして最後に「県全体の綱要Jという順序 で学ばせるべきだというのである。すでに何度か見たように、 “近きより遠きへ - 14ー"の教授原則の適用であり、社会的空間を“同心円的拡大空間"からとらえさせ ようとしている。 しかし、一井は新しい教授方法も提言している。彼は郷土地誌の学習に「必ス 地圃ニヨリテ記述ヲ授ケ」という原則を述べている。
r
殻習畢ラハ全園概略ノ地 圃ヲ描カシメ、一郡ノ地勢ヲ授ケ畢ラハ、文之カ概略ノ地圏ヲ描カシメ、市邑ヲ 授ケ畢ラハ、従ヒテ其所在ヲ記シ、又道路ヲモ記入セシムルヲ要ス、而シテ既ニ 線組ヲ畢ルニ至ラハ、更ニ詳細ナル全園地圃ヲ描カシムルヲ善トス」。郷土地誌 の教育において「地図」活用の重要さを指摘したものとして、貴重な提言であっ た。とはいえ、一井はここでは具体的な地図を示したわけでないし、同教科書に 載った地図は滋賀県全図と大津市街図だけで、ともに粗っぽい概念図である。当 時の郷土地誌教科書の地図は、ほとんどが鳥かん図か「けば法Jによる地図しか なく、縮尺の正確な平面図は全く見られなかった。一井の提言も、この時代的状 況のなかでとらえておくべきであろう。2
明治20
年代半ばの滋賀県の郷土史教科書 一『小皐校用・近江史談JJ (明治28
年)ー 一井蕎衛雄は、明治28
年10
月28
日に『小事校用・近江史談JJ (同盟書房〉 を刊行した。同盟書房は、大津の島林専二郎、彦根の贋回七次郎、長浜の中村藤 平の3人の同盟の書庖である。一井は、 2年前に近江地誌を刊行したのについで、 近江郷土史を完成させた。現在のところ、この本より以前に出た滋賀県の小学校 用郷土史教科書は発見されておらず、 『小撃校用・近江史談JJ(25
丁)は、滋賀 県において最初の小学校用郷土史教科書とみることができる。なお、原本は滋賀 大学教育学部所蔵本と東書文庫所蔵本以外は発見できていない。 この教科書の緒言において、一井は郷土史の教育のあり方について述べている。 (1)郷土史の講究は「先ス自家ノ盛衰、沿革ヨリ、其町村ノ史事ニ及、後本書所 載ノ事項ニ進ペシJ……自分の家族史→町村の沿革史→近江郷土史への順序 (2)近江郷土史の排列は上古よりの年代史であるが、 「学ブニハ自己ノ郡ニ関 連セシモノヨリ始ムルモノモ妨ゲナシ」……生徒の身近な郡史より学ばせる (3)郷土史は郷土地誌と併行して「学ブニアラザレパ、事実ヲ正確ニ記憶スル コト能ハズ」。郷土地誌で現在の地を知り、後にその来歴を学ぶのである。 (4)郷土史においては、 「常ニ地図ヲ展べ、地理ノ復習ト兼ネテ沿革事変ノ地 理ニ関スルコトヲ想像スベシ」 『小事校用・近江史談』は、高等小学校第1
学年児童用の教科書として編纂した ものであるが、尋常小学校でも用いてもよいとしている。25
丁のうち本文23
丁、名所旧跡1
丁、歴代天皇系統表1
丁(但し本史に関係ある天皇のみ)という 構成である。同教科書において、近江郷土史として挙げられている郷土史教材は、 次の目次に見るとおりである。 「 第 一 課 毅 端 第 二 課 日 本 武 尊 第 三 課 市 遁 押 磐 皇 子 第 四 課 大 津 ノ 宮 第五課弘文天皇・長等山前山陵 第 六 課 逢 坂 の 閥 第 七 課 紫 式 部 F h d第 八 課 延 暦 ・ 圏 域 二 寺 第 九 課 源 義 経 第 十 課 粟 津 合 戦 第 十 一 課 平 宗 盛 第 十 二 課 近 江 源 氏 第 十 三 課 織 田 信 長 第 十 四 課 蒲 生 氏 郷 第 十 五 課 浅 井 長 政 第 十 六 課 豊 臣 秀 吉 第 十 七 課 賎 ガ 岳 の 七 槍 第 十 八 課 毛 受 荘 介 第 十 九 課 井 伊 氏 第 二 十 課 近 江 聖 人 第 二 十 一 課 現時の形勢」 近江郷土史の教材として挙げられたのは、郷土にゆかりのあると考えられる人 物であった。郷土史を人物史による説話の歴史物語として教えようとしたのであ る。人物史の扱いが「修身的」な傾向になることは、この時期の歴史教科書に共 通するが、 『近江史談』でも免れることはできなかった。たとえば、 「第七課 紫式部」の記述は、次のようである。 「石山寺本堂の東面に源氏の間あり 昔紫式部此室に 源氏物語を著したと いふ式部は藤原為時の女にして幼より
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学聞を好み常に兄の傍にありて 書を読むを聞き 之を藷んず長じて博く和漢の書に通じ 歌を善し 文に巧み なり かく才学ある人なれども 更にほこり高ぶることなし 藤原宣孝の妻とな り夫死するに及び操を守り 再び嫁せず 其頃文学盛んにして 一条天皇の皇后 上東門院学聞を好ませられ才女子を召し給ふ...・H ・H ・H ・"J3
山田誠之介の「郷土教授」特設論の提起 一『近江教育IJ (明治27
年〉ー 滋賀県尋常師範学校教師山田誠之介は、明治27
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月刊行の『近江 教育IJ (大津・島林専二郎刊)のなかで、 「郷土教授」を一教科として特設すべき であるという提案を行っている。山田は同校に明治25
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月の間 勤務した人物であり、誠之助とも書く (13)。明治 2 0年代の半ばという早い時期 の“郷土科特設"論の提起は、注目すべきものがある。彼の論を聞いて見ょう。 「余ハ姦ニ殊サラニ郷土教授ノー科ヲ設ケテ、之ニ含マシムルニ其ノ地理、歴 史、理科ニ関スル事項ヲ始メトシ、郷土ノ風俗、習慣、物産、生業、教育、兵制 ノ事ヨリ町村制度ノ機関、郵便通運ノ事ニ至ルマテ、悉ク之ヲ網羅セシメントス。 然ラパ則チ郷土教授ノ範圏タル、 j旬ニ庚閲ニシテ、教授ノ運轄亦自在ナリトイフ ベシ」 山田誠之介(助)は『近江教育IJ (和装活字本88
丁)の8
章のうち、はじ めの3
章(13
丁)で理論編としての「郷土教授」論を述べ、後の5
章(55
丁) で応用編として「郷土教材」の実例を示している。後半の「郷土教材」例は、前 半の理論部分を受けて選択したものであるとしている。r
近江教育ノ五題」に彼 が挙げた具体的「郷土教材」をみていこう。 (1)近江ノ朝...・H ・..r歴史ノ端緒ヲ開キ、以テ尊王ノ志気ヲ養フJ (2)近江聖人...・H ・..r修身ノ起貼トシ、以テ道徳教育ヲ施スJ (3)近江商人・H ・H ・..r商業教育ノ中心トシ、以テ立身慮世ノ道ヲ知ラシム」(4)
近江八景...・H ・..r
地理ノ起貼トシ、以テ邦土山川ノ美ヲ愛スル念ヲ養フ」 (5)江州米……「農業教育ノ起貼トシ、以テ賓業ノ重ンズベキコトヲ知ラシムJ ハhu山田は、前半において「郷土教授」論を次のように展開している。第ーに、郷 土教授の必要性を、児童の事物に対する“直観教授"から説いていることである。 山田によれば、児童への知識の教授は、五官を通して行われるものであり、事物 の教授においては「直費」に依拠して行わなければならない。