はしがき 森鵡外の初期の作品の中に、 「舞姫」rうたか たの記」 『文づか ひ』の三篇がある。『舞姫』は、 明治二十三 年一月、 「國民の友」第六巻、 第六十九号の付録に発表 された。 これによって、 鴎外は、 小説家として、 世に立 ち現われたの である。 そして同年八月、 「柵草紙」第十 一号に rうたかたの記」を発表し、 翌二十四年一月に、 「文づかひ」を「新著百種」第十二号に掲載し た。 この ように、 これら三篇は、 短期間のうちに 、 矢継ぎ早に発 表され たこ とがわかる。 閾外は、 明治十七年、 数え年二十三歳の時、 陸軍省か ら官費留学生七して、 ドイツヘ渡るようにという命を受 けた。 そしてその年の八月に、 横浜を出航し た。 四年蘭 の留学を終え、 横浜に入港したのが、 明治二十一年九月 であった。 したがって「舞姫」 rうたかた の 記 」 「文づかひ」は、 帰国直後に発表された ものであると言える。 ドイッ留学 という大きな体験が、 何らかの形で、 これらの作品に影 を落としていることは明らかである。遡れば、 佐藤春夫 氏が` 「森閾外のロマソティシズム」(昭和二十四年九
注一
月「群像」筑摩書房「森閾外研究」所収)の中 で、 「 こ れ等三つの短篇は鵡外のドイッみやげともいふぺき作品」 であるとされている。 このように、r舞姫 」「うたか たの記」「文づかひ」が一 纏りにされるのは、 発表時期 を同じくするものである、 という埋由がある。 が、 その 他に、 内容面から見て、 三節に共通するものがあると思 われる。 そこで、 三篇を通しての内容的共通点を、 特に 登場人物、 小説技法の面から探り、 「舞姫」「うたか た の記」「 文づかひ」が一括された所以とその妥当性につ いて 、 本稿で述ぺてみたい。森閾外初期三部作の基底
亀
池
峰
子
-28-' •9 ,まず、 三篇の女主人公` エリス、 マリイ、 イ 、 ダにつ いて考えて みよう。 これ らの三女性については、 類似し た形容が成されている。 「舞姫」のエリスは、 「この青 く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、 半ば露を宿せ る長き屁毛に 掩はれたるは、 何故に一顧したるのみにて、 用心深き我心の底までは徹したるか。」と描写されている。 「うたかたの記」のマリイについては、 「そのおもての 美しさ、 濃き藍いろの目には、 そこ ひ知らぬ憂ありて‘ 一たび顧みるときは人の腸を断たむとす。」と描かれてい る 。そして 、 「この目は常にをち方にのみ迷ふやうなれ ど、 一た び人の面に向ひては、 言葉にも増して心をあら はせり。」というのが 、 「文.つかひ」のイ 、 ダの風貌であ る。一 t 一篇は別個の作品であるが、 女主人公の形容は、 同 ―女性 とも言い得る程、 酷似している。いずれも、 「憂 いを帯びた目」にそ の特徴がある。 r膚瀑日記」明治十七年十月二十_―-日の記述に、 次の ような件りがある。 ルチウスF raeulein Lucius といふ二十五六 歳と覺しき虜女のいつも黒き衣滸lて、 面に憂を帯び たるもあり 。 t ルチウスとの初対面の印象を、 閾外は「面に憂を帯び たる」と述べている。 これは、 三篇の女主人公と共通し た特徴 である。 さらに、 「文づかひ」のイ 、 ダの「上衣 も裳も黒きを着たる」という描写も 、 ル チウスの「いつ も黒き衣著て」という記述と重なり合う 。 長 谷川泉氏が、 注11、 著書「森繭外論考」の中で、 既に指摘されているように ルチウスは、 「獨逸日記」中に最も多く登場する女性で ある。ルチウスと鵡外の仲が親密であったことは、 閾外 がライプチヒからドレスデソに 発った、 朋治十八年+月 十一日の記述からも窃うことができる。 そこには、 「ル チウス氏は別に臨みて余が小照を求む。」と ある。 日記中 の登場回数や、 姻外に小照を求めたとい う事実からし て、 ルチウスは、 鵡外にとって特定の 女性であったことが想 像できる。鵡外は、 約束の二箇月後にライプチヒに戻っ て来て、 ルチウスに再会するが、 明治十八年十二月三十 日に、 再びドレスデソヘと向かっている。この日をも っ て、 閾外とルチウスの交渉は終わる。 けれども、 「黒き 衣」の「面に憂を帯びた」ルチウスの思い出 は、 関外の 心に強く残っていたに違いない。 その面影が、 三篇を創 作し 、 女主人公を形造っ た際に、 浮かび上がって来た も のと考えら れ る。 このように、 共通 の風惰でもって描写された女主人公 であるが、 次に、 それぞれ の性 格に目を向けて みる。 ま ず、 エリスについて であるが、 「舞姫」中の彼女の性格
描写は非常に少ない。 直接表現は、 「エリスがこれ(賤 しき限り なる業・・・筆者注)を追れ し は、 おとなし き 性格 と、 剛気ある父の守護とに依りてなり。」という箇所だけ である。 しかし、 母を説き動かして、 太田と一緒に住む ようにする場面や、 太田を追って日本にやって来ること を既に決 め ているという手紙の文面等から し て‘ ェリス の積極性 ・強さを窺うことができる 。最後にェリスは、 '「我豊太郎ぬし、 かくまでに我をば欺き玉ひしか」とい う言葉を吐いて、 「狂女」となってしまう。 この一言に、 ェリスの気持ちは結集されていると言えるであろう 。 自 我に目覚め始めて、 それを主張しようとする が、 果敢無 くも、 太田によって打ち崩されてしまうので あ る。 では、 「うたかたの記 J のマリイは、 どう であろうか。 彼女は、 この作品の冒頭に描か れた、 威厳ある「女神バ ワリア像」のイメージを持っている0性格が如実に現わ れているのは‘ 次の三箇所である。 少女は卓越しに伸びあがりて` 俯きゐたる巨勢が 頭を、 ひら手に抑へ、 その額に接吻し つ 。 少女は「さても澄餞知らずの繊子どもかな、 汝等 にふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、 ふり ほどきて突立ち、 美しき目よりは栢褻出.つと思ふば かり、 しばし一座を貌みつ。 少女は誰が飲みほしけむ珈琲碗に蔀へたりし「n ップ 」 を取 りて、 中な る水 を 口に術むと見えしが、 唯一喋゜ このような奇怪な行動をするため、 マリイは、 人から 「狂女」と呼ば れ る。実際に「バラノイア」という病名 の精神病になったェリスとは、 程度の差こそあれ、 同じ ように「狂女」として描かれている所に‘ 共通点を見い 出すことができる。 マリイの奇怪な振舞も、 自己発見か らくるものと考えられる。 不幸な身上のために抑圧され ていた自我は‘ 巨勢によって呼び起こされる。 そしてマ リ イ は、 必死になって自己主 張をする。そ の主張は、 断 固としていて、 少しも揺るがせない威厳を持っている。 しか し 、 そ うしたマリイ の威厳も、 王の前で砕け散って しまうことに なる。 次に、 「文づかひ」のイ 、ダであるが、 彼女の行動も また、 並みー通りではない。 それは、 「櫃兵の勇ましさ 見むとて 、 人 々騒げどかへりみぬ 」 とか、 「さいつ頃ま では、 鳩あまた飼ひしが、 あまりに馴れて、 身に緊はる ものをばイ、ダいた<嫌へば、 皆人に取らせつ。」という 箇所から窺うことができる。 イ 、ダも、 自我意識の強い 女性として描か れている。 彼女は、 貴族社会の中で決め られてしまった、 許婚との結婚を回避するために、 王宮 -3 0_
入りを決意し、 実行する。与えられた社会環境に妥協す ることなく、 自己を主張し続け、 イ 、ダの場合` その自 己 主張は遂げられる。 これは自 我に目覚めて、 その自我 に忠実に生きた、 近代女性の姿を、 浮き彫りにしたも の であると考えられる。 ところで、 イ 、ダは、 ニリスやr リイのように、 「狂女」にはなれない。 そ れ は 、 社会現 境に対処しながらも、 自分自身を守っていこうとする理 性が 、 大きく働いてい ることに依ると思われる。 感情の 域を脱することができなかったエリスやマリイが、 情の 女だとすれば、 イ 、ダは理性の女であると言え る。 さら にまた、 「狂女」になれ ない理由として、 イ 、ダが、 エ リスやマリイに較ぺて、 高い身分である ということも挙 げられるで あろう。 以上のように、 三篇のそれぞれの女主人公、 エリス、 マリイ、 イ 、ダについて比較検討してみると、 性格的な 共通点を見い出すことができる。 そ れ は、 一途さ、 自我 の強さ という点である。 この 性格は、 三女性の心の奥底 に据えられた、・同一の基石であろうと思われるが、 表出 の仕方 ・程度には差がある。 エリスの場合、 自我に目覚
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めつつ あるのに対して、 マリイの場合は、 自我に目覚め•
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て、 自己主張を始める。 そしてイ 、ダの場合になると、..
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目覚めた自我を主張し続け、 それを行動で果たす。 この ように三篇の女主人公を通じて 、近代 女性として、自我に 目覚 めていく段階を見ることができる 。 三篇が発表され た明治という時代から考えても、 女性の自己確立の描写 は 、 非 常に画期的なものであったろうと思われる。 自我に目覚めるということは、 自分 という存在の必然 性を、 自覚することである。 初期三部作の女主人公の自 我は、 自分は自分の ために生きるとい う、 狭 い意味での 自我である。 それが、 「雁 J( 明治四十四年九月1大正二 年五月)のお玉になると、 そこに 表われてくる の は、 他 との関連によって自覚される自 我である。 さらに、 「安 井夫人」(大正一_一年四月)のお佐代に なってくると、 自 我を 減する覚悟によって他を生かすと いう、 言わぱ自己 筏牲的な、 広い意味での自我を見ることができる。 お佐 代の 「美しい目の視線は遠い、 遠い所に注がれて 」いて、 「未来に何物をか望んで」いる。 遠い未来を目差すお佐 代の態度には、 狭い自我を脱却した、 晴れ晴れしさがあ る。 遠大な理想のために、 生きようとするのである。 こ の広い意味での自我は、 「山椒大夫」(大正四年一月) の安壽、 「殴後の一句」(同年十月)のいちについ て も 言え ることである 。 このように、 鵡外の後の作品を展望 して見ると、 女 主 人公の自我は、 単に自分を生かすこと から 、 身を捨てて他を生かす、 ひいては 、 社会全体を生さて次に、 三篇の男主人公に目を転じてみる。 太田に しろ、 巨勢にしろ、 小林にしろ、 ドイッ留学中の閾外自 身の投影で あろ うと思われる部分が、 少なからずある。 ここでは 、 これらの 男主 人公の性格描写に、 スボットを 当てて見 る。 ま ず 、 r舞姫」の太田に目をやれば‘ 女主人公エリス の性格描写が非常に少ないのと全く対照的に、 男主人公 太田のそれは、 三作中最も多い。 顕著な箇所を抽出して、 次に掲げる。 余は守る所を失はじと思ひて、 おのれに敵するも のには抗抵すれども、 友に封して否とはえ射へぬが 嘴なり。 (中略) 余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、 卒然 ものを問はれたるときは、 咄磋の間、 その答の範囲 を善くも羹らず、 直ちにうべなふことあり 。 さてう ペなひし上にて、 その為し難きに心づきても、 強て 嘗時の心虚なりしを掩ひ隠し、 耐忍してこれを賓行 すること僕々なり。 これ らの箇所は、 薄志弱行で、 他律的な太田の性格描 かすという方向へ、 発展していくのである 。 次のような字句が見られる 。 嗚呼、 獨逸に来し初に、 自ら 我本領を悟りきと思 ひて、 また器械的人物とはならじと誓ひしが、 こは 足を縛して放た れし鳥の暫し羽を動かして自由を得 たりと誇りしにはあ らずゃ。足の絲は解くに由なし 。 太田は、 自分自身を、 綺ら れた烏のイノージと してい る。 太田を綺っ た糸を先に絵っていたのは 、 某 省の長官 であり、 今度は天方伯であ る。 このように、 太田の世界 は、 常に 他人によって変化していく。 r舞姫」は、 現実 社会と、 内の世界(エリスとの世界)の絡み合いによっ て、 織り成されている 。 その中で、 太田は、 一旦は自己 再発見によって、 自律的に生き ようとした が、 現実社会 に戻ることによって、 他律的・受身的に生きることに帰 らねばならなかったのである。 次に‘ rうたかたの 記 」の男王人公巨勢について考え てみよう。 巨勢は、 マリイの脇役的存在で あ り、 明確な 性格付けはされていな い。 もちろん巨勢の登場は‘ rぅ た か たの 記」の中で必要不可欠 で あるが、 物語は、 明ら かにマリイ中心に展開している。 それが、 「文づかひ」になると、 男主人公の影はます ます薄らいでくる。 小林の登場意義は、 イ、ダから頼ま れた文を渡す、 という使命を果た したことだけにある。 写である。 ヽ こ . さら
-32-クイトルからして、 これ がr文づかひ」のボイソトであ るとも言えるが、 全体の物語展開に於いて、 小林は、 常 に傍観者でしかない。 ィ 、ダと小林との関係は、 エリスと太田、 あるいは、 マリイと巨勢のように親密ではない。 ィ 、ダは、 言わば 負婦人である。 小林は、 イ 、ダを崇拝することはでき る けれども、 ある程度以上は近づけない。 したがって、 小 林のイ 、ダに対する恋の進展は、 見られない。 これは、 · 殴 掃人崇拝のルールである。 つまり、 現実的な恋愛の成 就を前提としない、 愛の奉仕 で ある。 小林は、 一見、 利 用されたに過ぎないよ うに見えるが、 文使いとして慟< こと自体が、 小林からイ 、ダヘの愛の奉仕であると考え られる。 そこに、 相手からの愛の報酬を望むことは許さ れない。 こ れ は、 ドイッ中世以来の、 恋愛奉仕の思想で ある。田外は、 ドイツの騎士道文学の特質でもある 、 こ の貨婦人崇拝のルールに従 った―つの愛の形態を、 r文 づかひ」の 中に取り入れたの では ないかと思われる。小 林の上に、 一稲の威圧惑めいたもの が瀕っているのは‘ このためで あろうか。 小林についての描写は、 全く曖昧 である。 rうたかたの記 」「文づか ひ」の男主人公については、 それぞれの女主人公程、 明確な性格描写が成されていな ‘ .A 、 しカ r舞姫」の男主人公と同様に、 他律的であると言 えよう。 いずれも、 女性に重点が置かれ、 男性像は模糊 として いる。 以上見てき たこ とから、 女主 人公と男主人公を合わせ 考える時、 その間に、 一種の相関関係が成り立っている こと に気づく。 女主人公の描写が多いのは、r文づかひ 」 「うたかたの 記」「舞姫」の順である。それに対して 、 男主人公については、 「舞姫」rうたかたの記」r文づ かひ」の顧である。 これは、 興味深い現象である。何故 このよう な現われ方をしたので あろうか。 ―つには、 女主 人公の身分に関わりがあるのではない かと思われる。 ニリス は舞姫という朦業で、 一般的に言 って、 低い階層の女である。 マリイは、 美術学校のモデ ル であるが、 名高い画工の娘であり、 三女性の内では中
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的身分と考えられる。 イ 、グは、 貨族の姫という、 高 い陪級に身を設いている。 ちなみに、 太田は官費留学生 であり、 エリスより身分が上であ る。 巨勢は画工であり、 言わば、 マリイと同等である。小林は 少年士官であるが、 ィ 、ダの身分よりは劣る。 このような相互の地位の差が 原因して ` ェリ スについては、 太田の口を通してしか語られないのであり、 また、 小林の存在が、 イ 、・クの陰に 隠れてしまっているかの ように見えるので あ ろう。 もう―つには、 男女 の 親疎の度合が、 描写分益に関係 していると思われる。 ェリスと太田とは、 心身共に通じ 合った仲であり、 最も親密である。 マリイと巨勢とは、 同ピヘルで交わっていたかの親がある。彼らに対して、 ィ 、ダと小林の間には、 前述した如く、 ある種の威圧惑 めいた ものが介在し、 必ずしも親しくはない 0 貴婦人崇 拝の立場から、 自然に、 小林の目から見た姫イ 、ダの叙 述が 、 「文づかひ」の大半を占めたものと考 えられる。 以上述べてきたように、 身分階級の違いと、 男女 の親 疎の程度によって、 「舞姫」では、 男主人公の描写が多 くな り、 「文づか ひ」では、 女主人公の叙述が主となっ たと考えられ る。 そして、 両要因共に三作中、 中間的で ある「うたかたの記」が、 描写の面に於 いても、「舞姫」 と、 r文づかひ」の中 閾に位置する。 この よう に、 三篇 を通し て 見ると、 女主人公と男主人公の間に、 相関関係 を見い出すことができるのである。 さ ら に言及すれば、 この相関関係は、 無関係な異国の 人に自分 の運命を託 すという、 三篇に一貫した女主人公 の態度にも、 関連してくる。自我に 目覚めた、 あるいは 目覚めつ つ ある女主人公が、 現在の境遇から抜け出そう さて、 三篇を、 登場人物の使い方という観点から誂め が時、 特異な存在が目を引く。 それ は、「うたかたの記」 の王と、 「文づかひ」の中の牧童である 。 いずれも、 物 語の本質から考 え る と、文中に登場すべき必然性はな い。 そして、 他の 物語構成要素に較ぺて、 非現実的であ る。 ルウドヰヒニ世につ い て は、 史実に基 づいて書かれた 。 こ の 国王の溺死革件の真相は、 闇に包まれ 注―― ものである てい て 、 明 らかではない 。繭外は、 この王の謎の死につ いて、 マリイを登場させ、 彼女 への 王の熱狂的な思慕と 四 より と飛随する。 そして、 自分の運命を、 男主人公に託すの である。 そこには、 一種の冒険が試みられてい る。 その 試みが 成功するか否か は、 女主人公が 理性的であ る かど うか、 という点 に関わってくる。 エリスの場合、 情の世 界から脱す る ことができなかったため 、 冒 険は 失敗に終 わる 0 マリイも、 正常な理性を保ち得なかったが故に‘ 試み は成功しない。常に理性的であったイ、ダだ けが 、 新しい撓遇への脱皮に、 成功をおさめるの である。閾外 の目は、 理性の女の方 に向き、 後の作品に於いて、 理性的な女性を、 模索していくの である。
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いう原因を設定して、問題解決を試みている。rうたか たの記」に於ける王の死は、マリイの死と絡み合わせる ことによって初めて、積極的な意味を帯びてくる。 その 点からしても、「うたかたの記」に於ける、ルウドキ ヒ 二世の溺死は、非常に人工的であると言える。 実在のルードウィヒニ世に ついて、他 の 作品では、ど のように取り扱っているのであろうか。 i) こで一例と し て、カロッサのr美しき惑い嘩ざを取り挙げてみる。 ル ードウィヒニ世に関する記述は、次の如く で ある。 (テキストとして、岩波文庫のr美しき惑い嘩年」を用 いた。以下の引用は、このテキストによるJ 溺死した王をい つ までも悲しんでいる疑い深い.^ イエルソ 国民の心をこの人は一歩々々と、このよう な信頼感に転化さしてし まったのである。(八頁) 夢想家ルードウィヒ王がすでにあらわき常軌を逸 して彼の国をほとんど弁済不能の負債の状態に陥れ たとき(不思議なこと で あるが単純なこの国の国民 はそれを少しも王に対 して悪くは思っていないので ある)王の近親一同は大臣たちと謀って、この病め る君主 を 後見人の監督のもとにおくことに決せざる をえなかった。(ニー五頁) 好ましくない 現代と壮麗な王者の夢とのあいだの 分裂は、どう手をつけ ようもないもの であった。極 度にまで誇り高い心にのこされた唯一の道は、華麗 な装いをこらした孤独への没入であった。それがし だいに彼を現実世界から永遠な自由の境へ誘い出し たのである。こういう王者たちはむろん為政の人で はありえない。しかし国民は悩める高貸な姿のもっ ... 不思議な魅力の とりことなって、その姿 を おのが空 想の世界中へ迎え入れるのである。(二四七ーニ四 八頁) このよう に、「美しき惑いの年」には、ルードウィヒ 二世につ いて、再三言及されている。しか も 、常に深い 親愛の情を込めて、述べてある。r美しき惑いの年」が、 ヵロッサの自叙伝と言っても いい作品であるのに対して、 繭外の「うたかたの記」は、あくまでもフィクショソで ある。この相違から であろうか、「うた かたの記」のル ウドキヒニ世は 、 .少なくとも 、親愛の情をもって描か れ ているとは思わ れない。それは 、国外が異国人であった ことも、原因すると考えられる。 当時の日本人で、この国王の溺死事件を知っ ていた人 は、少なかったことであろうと推測される。してみれば、 「うた かたの記 」 に国王を登場させた の は、時の話題と なっている事柄を組み込むことによって 、読者の気を引
こうとしたのではないと言える 。 当時の日本の読者にと っては、 国王自体が、 西洋そのものの如く、 バク臭く惑 じられたに違いな い。 まして、 その 国王が 、 恋 のために 横死したと なれば、 現実とは全く異なる別世界での出来 事のように 思われたこ とであろう。 帰国 したばかり の閑外の頭の中に、 ドイツでの様々な 思い出 が渦巻いていたことは、 疑う余地もない。 閾外は、 その思い出を顆々に再生して、 小説に習き表わしていっ た。その時、 意識していたか否かは知る由もないが、 よ り西洋らしさを出した いがた めに、 史実に創作を付け加 えた国王をも、 登場させたのであろうと思われる。 . 鵡外の創り上げた国王の話は、 まる で神話か伝説であ る。 このことは、 「文づかひ」の牧庶についても言える。 本文 中知らぬ問に現われ、 またすっと消えていく。笛吹 きの牧童も、 日本では見られない故に、 題材としては新 鮮である。 「文づかひ」の中では、 城や王宮の描写で、 十分に西洋 を 描いているが、牧磁という別のク’チで、 それに色を添え ている。 この王や牧童の挿話は、 現実から離れた、 捉われない 世界に於ける‘ 闊外の夢であった と 考えられる。閾外の 捉われない世界は、 西洋にあった 。 しかしそれは、 西洋 そのま まではなく、 人工的に創り上げた西洋的世界であ では、 次に、 三篇を小説技法の面から考察してみよう。 「.9たかたの記」は、 物語のすぺて がドイツで終始して いるが、 「舞姫」と「文づかひ」は‘ 述痰から回想へと いう、 いわゆる枠構造を用いている。 「舞姫」の場合、 その 枠の部分は、 帰途の船中である。そこで、 回想 が語 られ始める。図外は、 この形式をッルゲーネフのr春の 芭から学んだちしきことを、 「再び氣取半之丞に典ふ る書」の中で述べている。これ は、 石掘忍月の「舞姫」 五 る。 悶 外 は、 物語の中で、王ゃ牧蛮を自由に、 空想的に 描くことによ って、 あ る意 味での笑への憧れを表現し よ うとしたかのようである。 この点からすると、 非現実的 な王ゃ牧菰の挿話は、 「うたかたの記」「文づかひ」の それぞれのロマソティシズムを引き立てる、 直要な紫材 になっていると言える。 この意味 では、 この二つの挿話 には、画期的意義が認められる。 しかし、 これら の挿話 は、 最終的に、 王の死、 あるいは牧童の失踪という形で、 締め括られる。これは、 品外の夢が、 現実の世界では通 らないものであったということを示していると思われる。 王・牧蛮が 消えてゆく のは、 つま りは、 磁外の夢の消失 を意味するも のであったと考えられる。
-36-批判に対する、 閾外の二 度目の反駁文であり、 相澤謙吉 の筆名で、 明治二十三年四月二十八日から五月六日まで、 六回にわたって、 云四民新聞」に載せられたものである。 その中に、 次のような一文が ある。 .足下はツルゲニエフが春波を讀みしか。 起手主人 公たる半老の男子が夜二時に疲れて宴より闘りし朕 を窯し彼をして筐中なる美人の胎を見て恢悟の心を 起こさしめ、 これより本停に入る 0 猶舞姫の舟中の 一段ありて、 さて郷貫などを叙する文に入る如 し。 此蓮接の虞太田生は岡々浮々いでそのあ らましを文 に綴りて見むと筆を一縛したれど、 ツルゲニエフは 紙晟老錬にして、 様に依りて胡直を書かざるため、 許多の重複語あるを顧みず。 この記述中の「春波」が、 r春の水」である。 悶外は、 述懐から回想へと移る際の策の運び方は、 ツルゲ9ネフ より自分の方が簡潔で良いと 、 自負しているかのように 言っている。 ここには、 小説技法の面に於いて、 より完 璽なものを目差そうとする、 閾外の姿勢を窺う こと がで き る 。 さらに、 枠構造を細かく見ると 、 「春の水」が、 述俄 ↓回想↓述懐と いう構成であるのに対して、 「舞姫」の 方は、 述楔↓回想とい う形を採り、 再び述懐部分には戻 って来ない。 この形式は、 「文づかひ」について も同様 である。枠の部分は、 「それがしの宮の催したまひし星 が岡茶寮の獨逸會」である。 そして、 その場面から、 小 林の留学体験談へと移っていく。 しかし、 その回想部分 から、 元の場面へは返らない 。 二作共、 読者が予想する、 シソノトリカルな棉成には なっていない。 換言するならば、 いずれも、 未完成に終 わっていると言える。 この途中切れのような構成は、 よ り良い小説技法を目差した、 鵡外の作為であろう。 した がって、 内容とも関述してくる。 r舞姫」では、 一方的 に恋人エリスを捨てて帰国していく、 太田の自分自身 へ の恨が、 解決されないまま、 後に残る。 また、 r文づか ひ」の場合にも、 「けふの靖衣の水いろのみぞ名残なり ける 。」と結ばれているように、 小林のイ 、 ダ姫に対する 名残り惜しさが、 余韻として襟っている 。 このように見 てく る と、 枠構造は採っていな いが、 物語 の 終わり方に
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しては‘ rうたかたの記」にも、 同様のことが言える。 つまり` マリイの死によって、 巨勢の恋も消え、 aオ> ライの図も完成 を見ないまま、 そこに残るのである。 未完成によって譲し出された、 この結尾の余韻は、 三 篇の男主人公の惑慨である。_―-篇はすぺて、 途中で終わ らせなければ、 精神的緊張力を表現できなかったであろうし、 また 読者も、 その心理を理解し得なかったであろ う。太田 ・巨勢 ・小林には、 ドイッ留学中 の閾 外の影を 見ることが で きる。 その三男性が皆、 満たされない感慨 を後に残しているのは、 前に も述ぺた、 関外の夢が現央 には通用しない という ことの、 証し とも考えられる。 こ れは、 閾外精神の一っの現われであると言えよう。 「舞 姫」とr,ったかたの記」は、 悲劇的な結末と なり、 そこ には挫折が見られる。 しかし、 r文づかひ」になると、 それ程の苦悩は感じられない。 それは、 はやこの作品に 於いて、 諦念の意識が芽生え始めていたからではないで あろうか。 この点については、 以後の研究課題としたい 。 以上述ぺ てきたように、「舞姫」rうたか たの 記」「文 づかひ」を通して見ると、 人物造形や小説技法の面に、 種々の共通点を見い出すことがで きる。 このような内容 的共通点が、 三篇の基氏になるもので あると考えられる。 この初期一_一部作は、 内容面から見ても、 閾外の全作品 中で、 特徴的である。 が、 同時に、 これら三篇は、 人物 造形、 あるいは閾外精神の表出等の点に於いて、 後の作 品への崩芽となっている とも言えるものである。 〔注u 住— r森鵡外研究」 (筑摩書房、 昭和三十五年、 三 月)三二頁 。 注二 長谷川泉r森闊外論考」(明治書院、 昭和三十 七年、 十一月)「同一人物で最も回数の多い記述 を得た」ニニ四頁。 注三 (一八四五ー一八八六)・ハイエルソ国王、 ルー ドウィヒー世の孫。精神病が品じて鹿され(一八 八六 •六· I 0).:,.ュクルソペルク湖畔に移さ れ たが、 翌日(一八八六 •六 ・ーニ)、 侍医グッデ ソと共に‘ 溺死体となって発見された。 ― 'Das Jahr der schinen TA..isch m gen :-(]九四一) 注五 手塚冨雄訳「美しき惑いの年」 和二十九年、 七月) 注六 鵡外が読んだのは、 この小説のドイツ語訳で、 レクラム文庫本 Wilhelm " Fr�hl in gsY.Ogen " 注四 Lき愕訳 である。 (岡山大学大学院文学研究科) (岩波書店、 昭