農村の低賃金をめぐる前資本主義的要素と完全競争型労働市場の問題
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(2) 42. 農業問題研究 第 50 巻第 2 号[通巻第 83 号] 2019. 1. して重視された農村の特殊性の具体的内容と,それが 取り除かれた後にどのような型の労働市場を想定する. る.一方で江口(1978)は「切り売り」労賃と同様の 低賃金を捉えているが,単身者の労働力のみを再生産. かを視点とする.. する賃金として規定している.また,賃金階層の最下. 2.低水準の農外賃金に関する議論の流れと農村 の特殊性 1)農村の低賃金の特殊性 農村における農外賃金の分析は,戦前から続いた日 本資本主義論争を継承する性格を持つ.日本資本主義 論争は高率小作料の性格規定をめぐる論争であったが, その小作料が資本主義的な地代としては説明困難なほ ど高額であるという現状認識においては共通していた といえる.対立する論点は,高率小作料を半封建的な 地代として,前資本主義的な農村の特殊性を重視する 認識(講座派)と,高率小作料は大きな農村人口を背 景とした土地需要によるとし,資本主義の運動法則の 中で説明できるとする認識(労農派)であった.今日 議論される農村の特殊性は,この半封建的地代に関す る議論の流れをくむ,前資本主義的な要素に関する議 論と位置づけることができる.この前資本主義的要素 の議論は,農業経済学および農業問題研究の中心課題 が農業の後進性の克服にあるため,必然的に重要な課 題となるといえる. さて,農村の農外賃金は,農家の在宅兼業が一般化 した高度経済成長期後半以降に活発に議論されるよう になった.これは,農村への農外労働市場の展開が見 られた反面,農家労働力の農外流出が離農・農地流動 化に結びつかず,長期にわたり兼業滞留した要因解明 が大きな研究課題となったことを背景とする.このと き,研究対象となった農外賃金は臨時雇用形態による 低水準の男子農外賃金であった.この臨時的農外就業 は,農家の就業の軸足が農業にある中で生じており, その低水準な賃金は自家農業と相互依存的に成立する ものであった.磯辺(1985)は,この低水準の賃金を 小作料との関係において体系的に示している.それは, 自作地地代を生活費充足上不可欠の所得とすることに より,高率小作料と低い自家労賃評価が相互依存的に 生じる構造を解明し,小作料と低労賃に関する従来の 研究を集大成するものであったといえる.この低賃金 を重層化した農村の農外賃金の中に位置づけ,社会的 に賃金水準を下げる機能を果たしていることを示した のが田代(1979)(1984)である.そこでは,農村の 労働市場は重層的な賃金階層が形成されているが,農 業就業の傍らで追加的に農外に就業する「切り売り」 労賃が,農村の特殊性を体現する最下層の賃金とし て,賃金水準全体を引き下げる機能を持つとされてい. 層に位置するこの賃金が,年功序列型賃金の出発点に なることによって,賃金階層全体を押し下げる機能を 持つとしている.「切り売り」労賃が年功序列型賃金 の出発点となることによって,賃金全体を引き下げる とする認識は田代(1979) (1984)にも共通し,また, 両者とも「切り売り」労賃的低賃金に “ 標準から外れ た低水準 ” という特殊性を見ていた点においても共通 する.この特殊性を前資本主義的性格とすれば「切り 売り」労賃となり,標準となる賃金─労働力の価値通 りの労賃─から外れた価値分割賃金とすれば,江口 (1978)の規定となる. 標準的な賃金を想定し,そこから大きく外れるもの を特殊とする視点は関連する議論全体に共通していた といえる.またその特殊な低賃金が,農村の全般的な 低賃金構造の規定要因となることは,関連する研究の 共通認識となっていた.そのため,この「切り売り」 労賃的低賃金を体現する階層が農村経済分析の焦点と なり,ひいては農村の特殊性を表すメルクマールとし ても見られるものとなったといえる. 2)「切り売り」労賃的低賃金がみられないことに 関する議論 前資本主義的性格の有無の対立点を含みながら, 「切り売り」労賃的低賃金は農村の特殊性を体現し, 地域の農外賃金水準を規定するとの認識は広くマル クス派に共有されたといえる.そして,田代(1979) (1984)以降の実証的農村経済分析では,「切り売り」 労賃的低賃金の分析が中心課題の一つとなった.それ ゆえ,そのような低賃金が多く見られる地域が分析対 象とされることが多かった.一方で,地域によっては 高賃金と低小作料の組み合わせがあることが知られて いた.このような地域は都市化・工業化が進んだ兼業 深化地域であり,日本農業の低所得問題の議論の対象 とはなりにくい地域であった.この兼業深化地域の調 査研究によって,地域内に「切り売り」労賃的低賃 金が階層として見られないことを示したのが,山崎 (1996)である.これは「切り売り」労賃的低賃金に 関する議論に新たな方向を求めるものであった. 「切り売り」労賃的低賃金が検出されない理由は, ①農外労働市場が展開を始めた時から,その地域には “ もともと「切り売り」労賃的低賃金の階層はいない ” 可能性と,②労働市場の展開過程において “ いなく なった ” 可能性がある.①は,「切り売り」労賃的低 賃金が地域の賃金全般を引き下げる機能は,そもそも.
(3) 農村の低賃金をめぐる前資本主義的要素と完全競争型労働市場の問題. 43. 有効範囲が限られていたことになる.②の場合は,農. である.吉田(1995)は女子の低賃金を規定する農村. 村の低賃金に構造的変化が生じていることを示し,議. の特殊性の本質として,家父長制的要素を内包する直. 論の中心が “「切り売り」労賃的低賃金の変化および. 系家族制を指摘している.これに対して友田(1996). 消滅 ” の分析に移行することになる.この①,②の理 解には,前項に見た A 農村の低賃金に前資本主義的 な性格をみる認識,B 見ない認識との組み合わせがあ る. 山崎(1996)では①の可能性が示唆されたが,① に関しては,野中(2002)が兼業深化地域において, 「昭和ヒトケタ」世代のリタイアとともに「切り売り」 労賃的低賃金が消滅したことを示している.「昭和ヒ トケタ」論が世代的に農家の就業に大きな変化があっ たことを示していることからも,①の認識は成立しに くいといえる.それゆえ,今日の議論は A ②(前資 本主義的性格を見る・いなくなった)と B ②(前資 本主義的性格は見ない・いなくなった)の認識の対 立を抱えながら,「切り売り」労賃的低賃金の消滅と, その後に残る低賃金の構造に議論の中心が移行してい る. 戦前の議論であれば,地主・小作関係やイエ制度な ど,観察しえる封建的要素が農村にあったことは,労 農派も認めるものであった.そのため,資本主義の 外側に位置する特殊性の存在は,かなりの説得力を 持っていたといえる.しかし,戦後形成された自作農 は,性格規定としては Chayanov(1957)(1966)に 近い小農であり,基本的に資本主義経済を構成する主 体の一つである.よって,戦後の農村の低賃金に資本 主義と異質な特殊性を見るならば,その特殊性の意味 内容を示さなければならない.その特殊性の意味内容 は,前項に見た “ 標準から外れた低水準 ” であったが, それを資本主義の外側の特殊性(前資本主義的)とす る認識と内側とする認識が並存していた.この対立す る認識は論争的に展開しなかったため,曖昧な違いと して残された.それゆえ,「切り売り」労賃的低賃金 が見られない段階の議論も,現状認識は共通するもの の,A ②か B ②かの議論が明確になっていない状況 といえる.直近の A ②を代表する山崎(2017)が野 中(2009)を A ②の枠組みの中で理解するのは,こ の A ②と B ②の対立する認識が曖昧となっているた めであるといえる.この点は後段にみるように,前資 本主義的要素が取り除かれた地域労働市場を,アプリ オリに完全競争型と想定する問題に関わり,重要な論 点となる部分である. 3)女子賃金と家族規範 先述の A ②の認識に立ち,農村の特殊性を体現す る低賃金が女子に移行したとするものが吉田(1995). は,賃金分析は世帯単位での把握が必要であると批判 している.ダグラス=有沢の法則のように,女子賃金 の分析は世帯単位での分析が進められており,吉田 (1995)も農村の特殊性として農家の家族規範を見て いる.それゆえ女子賃金は世帯単位での把握が必要で あり,それは同時に男子賃金も世帯単位での分析が必 要であることを意味している. 「切り売り」労賃の議論は,農家世帯の農業就業の 度合いが高い状況において展開されていた.この状況 の中で,男子に「切り売り」的農外就業があるとして も,その男子には農業就業もあり,また他の世帯員も 農業に従事している状態である.それゆえその「切り 売り」労賃の分析は世帯の農業・農外就業を一体的に 捉えるものとなり,自動的に世帯単位となっていたと 言える.低賃金が小作料との関係を持っていたため, 世帯単位の分析となっていた側面もある.ところが, 常勤形態による就業では,農業との関係,および家族 との関係は,目的意識的に捉えなければならない.ま して,女子は都市・農村とも,追加的所得を目的とし てパート労働に従事するケースが多いため,家族規範 の在り方との関係において,その賃金水準を分析しな ければならない.友田(1996)の提起はこのような理 論的な問題を提起したのである.野中(2009)の示し た家族規範と賃金の結びつきは,この問題提起を継承 したものといえる.. 3.農村の特殊性と完全競争型の労働市場 1)山崎・山本論争と「ワリカン」賃金 山崎(2014)がいうように,資本主義が高度に発達 する段階であっても,資本の本源的蓄積の過程は終了 していないとする認識は,Harvey D.(2010)も提起 しており,特異的なものとは言えない.しかし,資本 主義的生産様式が形成される過程を模式的に示した資 本の本源的蓄積を,戦後の農民層の分化・分解のプロ セスに当てはめることに対して,山本(2016)が示し た違和感を共有するマルクス派の論者は多いのではな いかと考える.山崎(2014)の議論は抽象度が高く理 解が難しいのだが,山崎(2014)のいう本源的蓄積が 終了する過程を,特殊農村的低賃金を規定する前資本 主義的要素が消滅する過程と理解すれば,先に整理し た農村の特殊性の議論として理解できる.そして,前 資本主義的要素が消滅するにつれて賃金が上昇してい るとすれば,野中(2009)の「ワリカン」賃金に農村.
(4) 44. 農業問題研究 第 50 巻第 2 号[通巻第 83 号] 2019. 1. の特殊性を見ることも理解出来る.この理解に立って,. なものとして扱われる傾向にあった.これに対し,農. 山崎(2014)(2017)と野中(2009)の対立点を整理. 村の低賃金に前資本主義的な要素を見ない野中 (2009). したい.. の視点は,この最上位にある賃金を,農村の低賃金と. 野中(2009)は,リタイア世代に支配的に見られた 歴史的に異質な差異を持つものではなく,結びつく家 「切り売り」労賃的低賃金が世代交代によって消滅し, 族規範に差があるものとして捉えるものである.その 調査時点の世帯主世代はその「切り売り」労賃的低賃 ため,「切り売り」労賃的低賃金の消滅と,「ワリカ 金より高いが, 「近代家族」を成立させる賃金には至 ン」賃金が入れ替わる形で標準化していることは,前 らない「ワリカン」賃金が主流となっていることを示 資本主義的な要素の止揚ではなく,農村の労働力の雇 している.ただし,これは前資本主義的な要素の消滅 用における段階論的変化として捉えていることを意味 と軌を一にした賃金上昇として捉えることを意味して する. いない.むしろ前資本主義的な要素が市場の機能を阻 前資本主義的な要素の止揚は地域労働市場の攪乱要 害しない労働市場においても,低賃金が標準的とされ 因の排除であり,結果として賃金水準が上昇するもの る賃金に収斂しないことを提示しようとするものであ と捉えるならば,「ワリカン」賃金は「切り売り」労 る.そして,この賃金格差が維持されるメカニズムを, 賃の消滅過程に位置付くと考えられる.この分析視角 資本主義の再生産構造と関連を持って成立する家族規 によれば,「切り売り」労賃の検出が地域労働市場の 範との関係において見ることを提起するものである. 特殊性分析の中心的な課題となる.山崎(2017)に読 賃金が複数の家族規範と結びついて重層的に成立す み取れる分析視角はこれであり,これを踏襲する新 るという説は,低賃金を含む賃金格差は前資本主義的 井・永田(2017)にも共通する.ここで注意しなけれ 要素による市場の攪乱ではなく,資本主義内部の一般 ばならないのは,農村の特殊性の減退を本源的蓄積の 性を持つ要因により形成されることを意味している. 進行として捉え,「切り売り」労賃の消滅を前資本主 また,このような重層的な賃金が同時的・多段階的に 義的構造に滞留する農家人口の減少に連動する賃金上 決定されるということは,低い水準から高い水準へ移 昇として捉えるならば,該当する労働市場をアプリオ 行するとは限らないことも意味している.もちろん, リに競争的な市場として想定する可能性を含んでいる 労使の力関係の変化を含みながら,歴史的には賃金は 点である. 上昇傾向を示してきた.しかし,上野(1990)が示し 2)農村賃金の重層性と分析視角 たように,世帯の家計費は世帯主男子が担い,妻は専 標準とする賃金を想定することは,一物一価的に労 業主婦として家事と育児を担うとする「近代家族」は, 賃が決定される労働市場を前提としており,労賃を本 近・現代の一貫した家族規範と見ることはできない. 質的に規定するものは労働力の価値であるとするマル このような「近代家族」は独占段階のイギリスの労使 クス『資本論』の規定に従うものといえる.この労働 間の合意によって成立し,世界的に普及したと考えら 力の価値規定にかかわる家族規範が,国内あるいは同 れる. 一地域内に複数存在するとする「ワリカン」賃金説は, 磯辺(1985)や田代(1979)(1984)が示した様に, マルクス『資本論』と理論的整合性が取れていないよ 農家の家族規範は家族員の総働きであり,日本におけ うに見える.これに関しては,現状分析ではモデル的 る「近代家族」は国家独占資本主義的な社会政策に な資本主義の運動法則がそのまま適応できるとは限ら 沿って,都市部から成立・展開したといえるだろう. ないとする方法論がある.これは宇野派理論が提示し そのため,高度経済成長期以降の農村に,在宅で就業 た方法論であるが,実証研究に携わる者にはある程度 可能な農外雇用機会が展開する時には既に,「近代家 共通する方法論といえるのではないだろうか.また, 族」が “ 家族員の総働き ” の農家的家族規範と並列的 独占段階において普及した「近代家族」を分析視角に に存在していたと考えられる.そのため,「切り売り」 取り入れていることは,非競争的な労働市場を含む段 労賃的低賃金しか見られない農村においても,この賃 階論的な視点に立つことを意味する.現実に重層的な 金は潜在的に共有されていたといえる.田代(1979) 賃金は,独占資本段階の企業間の系列的序列化の中で (1984)の「切り売り」労賃の議論において,農村に 形成されている.それゆえ,農外賃金の重層構造は労 見られる農外賃金のうち,最上位に位置する都市部と 働力の需給関係と同時に,独占段階以降の資本蓄積の 同水準の賃金がこれに相当する.田代(1979)(1984) 在り方との関係をみる視点が必要と考えられる. 以降の「切り売り」労賃の議論では,この最上位の賃 重層的な賃金は,「棚」に例えると理解しやすい. 金は,前資本主義的性格を持つ農村の低賃金とは異質 「切り売り」労賃的低賃金のみが見られる状態は, 「棚」.
(5) 農村の低賃金をめぐる前資本主義的要素と完全競争型労働市場の問題. 45. は多段階に作り付けてあるが,実際の労働力需要並び. ないことになる.しかし,農民層の分化・分解の過程. に農業経営の条件から,「切り売り」労賃的低賃金の. としては,農外流出の機会を待つ労働力は大量に滞留. 「棚」しか埋まらない状態である.「切り売り」就業は. している状態である.このような労働力の滞留を本源 臨時的雇用であるため,年間通して稼働する必然性を 的蓄積の過程として捉えるならば,高賃金が支配的な 持たない産業,具体的には建設業に多い.そのため, 農村において前資本主義的な要素が解消されていない 工場進出や商業・サービス業の発展がなければ,「切 ことになる.これは「切り売り」労賃的低賃金の有無 り売り」労賃的低賃金以外の「棚」は埋まらない.ま が,農村の特殊性の解消の指標とはならないケースが た,農村経済が自給的な性格を強く持っていたことも, あることを意味しているのではないだろうか.このよ 「切り売り」労賃的低賃金の「棚」しか埋まらない状 うなケースは農村の低賃金分析では注目されなかった 況を規定していた.自給的な領域が大きければ,貨幣 が,大型の工場誘致に成功した地域や,途上国に生じ を媒介とした労働力の再生産は限定されたものとなる. る可能性が高い. 「切り売り」労賃的低賃金は家族の扶養を許さない水 賃金は高い水準から始まって,その後低下するケー 準だが,自給的な農家経済における追加的な現金所得 スもある.これは景気動向を反映する側面もあるが, を求める者にとって,この「棚」でも世帯の労働力の 「棚」の埋まり方, 「棚」構造自体の変化,および日本 再生産を確保できるものであった.その意味で,この 資本主義の推移との関係を捉える必要がある.自己の 「棚」が主に埋まる構造は前資本主義的な要因が深く 労働力の再生産もできないような賃金(いうなれば 関わっている.ただし,「切り売り」労賃的低賃金の 「使い捨て」的なもの)も存在する.そのため,観察 「棚」は江口(1978)が規定したように,単身者の労 された「棚」の再生産可能性を,労働力の再生産のあ 働力の再生産は保障するものであるため,その「棚」 り方(「ワリカン」賃金説では家族規範)として捉え 自体が前資本主義的存在とはいえない.また,社会的 る必要がある.そして,農村に用意される「棚」の種 に最下層の「切り売り」労賃的低賃金の「棚」が他の 類によって,日本資本主義における農村の位置づけを 「棚」の高さを低くする機能があるとされた.これは, 明らかにして行く視点が必要である. 一番下の「棚」のみが埋まる構造によって,上の「棚」 3)地域労働市場における農村の特殊性と市場の型 に置くべきものも一番下の「棚」に置くことによって 野中(2009)が整理したように,従来の農村の低賃 発揮される.つまり,「棚」への配置法を下方にシフ 金分析においては,労働力の価値を現実の生活費に換 トすることにより,社会的に賃金を抑制できたといえ 算して標準的な賃金を想定し,それから外れるものを る.このような配置法に農村の前資本主義的要素が関 特殊とする視点がとられていた.しかし,このような 係するものの,「棚」構造および個々の「棚」に前資 標準的な賃金の存在を前提とすることは,市場におい 本主義的性格があるためとは言いがたい. て必ず均衡価格が得られるとする新古典派的な市場観 一番下の「棚」のみが埋まる前資本主義的要素が減 に陥る可能性を内包する2).そして,前資本主義的な 退すれば,上の「棚」が埋まるようになり,見かけ上 農村の特殊性が低賃金を規定するとする認識には,均 は賃金は上昇する.しかし,「棚」は必ず低い方から 衡価格を形成する市場を暗黙の前提としながら,その 高い方へ埋まるとは限らない.農村の工場進出は,常 前資本主義的な特殊性が市場の機能を攪乱していると に小規模な地方企業からスタートするわけではなく, 見る傾向を含んでいる.山崎(2014)(2017)は市場 工業の中心部から大規模な工場が移転する形で進出す の型を明示していないが,その前資本主義的要素が取 るケースがよく見られる.山形県や福島県の工業化は り除かれた後に,攪乱要因から解放された市場の機能 1) このパターンが多かったと言える .このような工場 の発現が想定されているのではないか.とすれば,そ れは競争的な市場を意図せず想定することになるので の場合,農外流出の機会を待つ労働力が豊富だからと はないか,という問題点を指摘したい.これは,山崎 いって,低賃金からスタートするとは限らない.むし (2015)のような,従来の議論を牽引した研究 ろ都市的な賃金水準を持ち込むことが多い.このよう (1996) だけでなく,曲木(2016) ,新井・永田(2017)のよ な上の「棚」から埋まるケースの場合,その工場が必 要とする労働力が確保された時に募集は停止される. うに,現在展開されつつある議論についても同様であ る.曲木(2016)は女子の低賃金を家族規範ではなく, この状態を地域的に見れば,上方の「棚」は満たされ ているが,下方の「棚」には空きがある状態である. 雇用形態との関係に見ている.この賃金と雇用形態の 関係は体系的に示されたものではないため,今後研究 このとき,「切り売り」労賃的低賃金の「棚」が空席 が深められる部分であろう.だが,そこに家族規範の であれば,この地域は都市的な賃金水準しか検出され.
(6) 46. 農業問題研究 第 50 巻第 2 号[通巻第 83 号] 2019. 1. ような,資本主義の運動法則の内側において賃金が重. めには,労働市場の型をとらえる視点や,賃金格差が. 層化する構造を見ないならば,完全競争型の単純な市. 構造化される段階論的な視点が不可欠であろう.一方. 場を想定する可能性が高くなる.正社員賃金とパート. で,完全競争市場は限定された条件でしか成立しない. 賃金に二極化する,というベクトルを見るならば,正 社員市場とパート市場それぞれの均衡価格が形成され る,という新古典派的枠組みに近づくことになる.ま た,新井・永田(2017)は「切り売り」労賃以外の低 水準な農外賃金を,景気後退の局面との結びつきで捉 えようとしている.その低賃金の規定要因を不況によ る労働力需要の減退にとどめてしまうと,やはり単純 な競争的市場を想定する可能性が高くなる.新井・永 田(2017)は農外賃金と農業所得の関係を捉えており, 農村特有の低賃金構造と景気循環の影響を一括的に捉 える手法の構築途上にあるといえる.しかし,「切り 売り」労賃的低賃金に前資本主義的要素を見るならば, その前資本主義的要素が無くなった場合にどのような 労働市場の型を想定するかが,必ず問われることにな る.. ことは,新古典派以外の学派の間で共通認識となりつ つある.その中で,マルクス派がアプリオリに市場均 衡的な賃金を想定することは,理論的に大きな問題で あろう. 農民層の分化・分解の研究が,農村における階級構 造の分析にあることに立ち返れば,農村に見られる賃 金を,その時の日本資本主義の課題と絡めて捉えるこ とが中心的な任務となる.そして,農業構造の調整が 長期にわたり停滞する要因解明の一環として,農村の 労働市場を分析し,大局的には市場の陶冶による構造 調整が可能かどうかを検討する任務が我々にはある. それゆえ,農村の特殊性の議論は,それが取り除かれ た労働市場の分析として,新古典派批判の体系化の一 環として発展させて行く必要がある.. 4.おわりに 以上に整理したように,「切り売り」労賃的低賃金 に関する議論,山本(2016),山崎(2017)の論争と 野中(2009)の認識に関連する論点の整理により,農 村の低水準の農外賃金を前資本主義的な特殊性と見る か否か対立点として表面化しているとした.そして農 村の前資本主義的な特殊性は,それが減退した後に, どのような市場の型を想定するかという論点を内包し ていることを指摘した.マルクス派としては,この市 場観に関する問題こそ,より本質的な論点である. 本稿は,前資本主義的な要素が農村の低賃金の規定 要因であったことを否定するものではない.「棚」の 例えに示した様に,農村の労働力が最下層の賃金のみ に割り当てられる構造に,前資本主義的要素は深く関 わっている.しかし,その最下層の賃金は同時に資本 主義的に決定されている側面を持ち,前資本主義的な 要因が取り除かれた後も,場合によっては生き残る. また,全体としても格差構造は維持される.これまで の農村の前資本主義的特殊性を強調する議論では,そ の特殊性が取り除かれた後の市場をどのようなものと 想定するかの議論が希薄であった.これは,市場の機 能を攪乱するものとして,前資本主義的要因に注目し てきた歴史が強く影響していると考えられる.しかし, 格差構造を前資本主義的要素によって説明することに は限界がある.また,標準と位置づけられる賃金水準 に収斂しない市場の構造そのものの分析が希薄になる 可能性を含んでいる.農村賃金分析の議論の深化のた. 注 1) 福島市近郊における工場進出,農外賃金の推移に関 しては,別稿を準備している. 2) 原(2006)第Ⅱ部は,マルクス派は完全競争型の市 場均衡を前提とし,新古典派と共通する理論体系を 持っていると批判している. 引用文献 新井祥穂・永田淳嗣(2017)「沖縄県宮古島における農 家就業構造と農業構造の動態」『農業経済研究』89 巻 1号,pp.1-18. チャーヤノフ著,磯邊秀俊・杉野忠夫共訳(1957) 『小 農経済の原理』大明堂. Chayanov, A. V.(1966) The Theory of Peasant Economy, The University of Wisconsin Press. 江口英一(1978) 「農村における過剰人口プールの新し い形成」中央大学経済研究所編『農業の構造変化と労 働市場』中央大学出版部,pp.239-330. David Harvey(2010)A Companion to Marxʼs Capital, Vrso. 原洋之介(2006)『 「農」をどう捉えるか 市場原理主義 と農業経済原論』書籍工房早山. 磯辺俊彦(1985) 『日本農業の土地問題』東京大学出版 会. 曲木若菜(2016) 「東北水田地帯における高地代の存立 構造─秋田県旧雄物川町を事例に─」『農業問題研究』 47 巻2号,pp.1-12. 農業問題研究学会編(2008) 『労働市場と農業』筑波書.
(7) 47. 農村の低賃金をめぐる前資本主義的要素と完全競争型労働市場の問題. 房. 野中章久(2002) 「平野部兼業深化地域における兼業滞. 上野千鶴子(1990) 『家父長制と資本制─マルクス主義 フェミニズムの地平』岩波書店.. 留構造の後退─農協出資農業生産法人が展開する地域. 山本昌弘(2016)「山崎亮一著『グローバリゼーション. を事例として─」 『農業経済研究』73 巻4号,pp.161-. 下の農業構造動態─本源的蓄積の諸類系─』」『農業経. 169.. 営研究』54 巻3号,pp.121-122.. 野中章久(2009) 「東北地域における低水準の男子常勤 賃金の成立条件」『農業経済研究』81 巻1号,2009, pp.1-13. 田代洋一(1979)「労働市場と兼業農家問題の現局面」 『農業経済研究』51 巻2号,pp.63-71. 田 代 洋 一(1984) 「 日 本 の 兼 業 農 家 問 題 」 松 浦 利 明・ 是永東彦編著『先進国農業の兼業問題』富民協会, pp.165-250. 友田滋夫(1996) 「直系家族制農業は日本の賃金構造を. 山崎亮一(1996) 『労働市場の地域特性と農業構造』農 林統計協会. 山崎亮一(2014) 『グローバリゼーション下の農業構造 動態─本源的蓄積の諸類型─』御茶の水書房. 山崎亮一(2017)「山崎亮一著『グローバリゼーション 下の農業構造動態』に対する山本昌弘氏の論難に応え る」『農業経営研究』54 巻4号,pp.120-124. 吉田義明(1995) 『日本型低賃金の基礎構造』日本経済 評論社.. 規定しているか? ─吉田義明著『日本型低賃金の基 礎構造 直系家族制農業と農家女性労働力』を読ん で」『農業問題研究』42 号,pp.61-70.. (2017 年4月6日受付) (2017 年8月 22 日受理). 要旨:農村の低賃金構造の議論においては農村の特殊性が重要な論点であるが,論者によって認識の違いを含ん でいる.本稿は,従来の議論はアプリオリに完全競争型の労働市場を想定し,その中で均衡点である「標準」と そこからはずれるものを「特殊」とする傾向があることを批判する.そして,労働市場そのものに賃金格差が固 定的に形成される傾向を分析すべきことを問題提起する. キーワード:農村の特殊性,賃金の格差,完全競争型の労働市場.
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