比較家族史学会監修、小島宏・廣嶋清志編著
『家族研究の最前線④人口政策の比較史―せめぎあう家族と行政』
樋上 惠美子(部落問題研究所) 人口政策はとっつきにくいテーマであるか もしれない。しかし、安全な中絶薬を使用し た中絶が指定医を利用しなかったために堕胎 罪となりうる日本で、先送りされた性革命 (女性自身が妊娠をコントロールできるよう になったこと等を伴う、セクシュアリティを 含むジェンダー関係の変化)が静かに始まっ ている。性暴力に反対するフラワーデモ、そ して、性教育の改善とあわせてアフターピル (緊急避妊薬)の薬局での販売を求める「ピ ルコン」と「なんでないのプロジェクト」で ある。日本女性が妊娠をコントロールしよう とする動きがなぜ今なのか、そのための学習 書として本書の一読を薦めたい。 比較家族史学会の監修する「家族研究の最 前線」シリーズの第 4 巻である本書は 7 章ま でが日本の人口・家族政策の歴史的変遷であ り、8〜11 章が少子化対策を中心とする韓 国、台湾、フランス、中国の人口・家族政策 をそれぞれの専門家が叙述している。編者の 小島は、〈本書では当初、出生・家族政策を 中心に論じることになっていた。しかし、編 集の過程で人口政策・家族政策を普遍的に定 義することが困難であることが判明した。そ こで近年フランス語圏を中心とする広めの人 口・家族政策の概念を想定することとなっ た。この概念を「量と質の両面で人口に影響 を与える法律とその施策の体系」とし、出生 率水準を修正するために利用可能な施策、① 女子の地位に関する施策、②子ども、若者、 危機的状況にある集団に対する保護システ ム、③教育と情報提供活動、④人口分布改善 のための戦略、⑤家族計画とリプダクティ ブ・ヘルス・サービス〉と説明している。 本書は、近世以降の日本の人口・家族政策 の変遷とともに、出生促進策のフランス、出 生抑制策から促進へ転じた東アジア諸国を対 象に「量と質の両面で人口に影響を与える法 律とその施策の体系」を明らかにしようとす る画期的な試みである。 最初に、各章の著者とその内容を紹介す る。 序章 人口・家族政策の概念、分析枠組、 比較史 ……小島 宏 人口・家族政策の概念、その歴史的変遷、 そして現代の人口・家族政策の宗教的な背景 を、イスラム教はイラン・トルコを中心に、 キリスト教、ユダヤ教、仏教などを比較し、 豊富な学識によってわかりやすく示した。 第 1 章 近世東北の人口政策 ……高橋美 由紀 東北各藩を中心とした赤子養育仕置法の概 要が年代順に表 1―2 で示され、高橋は特に 二本松藩(今の福島県)について説明し、人 口減少の歯止めは、出生数増加施策が奏功し たというよりも、養蚕・製糸業によって生活 水準が上昇し、子どもを育てうる環境をつく ったことによると述べた。 第 2 章 近世西南の人口変動と子ども―子 返し(嬰児殺し)と捨子・その背景と施策 ……太田素子 1830〜44 年の防長二国(今の山口県)の 行倒、出奔、捨子の数を示した表 2―1 から、 捨子は天保の飢饉の 1837 年の前後 5 年間に 集中しており、他の年は少ない。中国・四国地方は 1720〜1858 年間に人口を 20%増加さ せており、東北の子返しを含む計画的な出産 対応と異なる。防長の農民は塩業、運輸、紡 績、製紙、藁草履製作などの副業によって 「前近代成長」を推し進めていた。 第 3 章 戦前の人口政策―量と質への関心 ……杉田菜穂 杉田は、よりよい〈生〉から成るよりよい 〈社会〉への関心に基づく人口問題研究を 「優生―優境主義」とし、最も顕著に現れた のが家族政策形成の基盤となる女性と児童の 権利論であると述べた。エレン・ケイは、婦 人の地位向上とは女権解放ではなく母性の実 現にあり、児童の健やかな発達に深く関わる 母性のあり方に未来がかかると『児童の世 紀』に著した。これを平塚らいてう等が紹介 して、社会運動の思想的基盤となった。1920 年代の子供の権利論には、海野幸徳など優生 学的発想がみられた。国際連盟が「児童の権 利に関するジュネーブ宣言」を採択したこと もあり、1930 年代には児童虐待防止法、少 年教護法と母子保護法が成立した。 第 4 章 戦時の人口政策 ……高岡裕之 厚生省が発足した 1938 年、農村の過剰人 口論が大勢を占めていたが、11 月に日中戦 争の短期終結に失敗したため、長期戦に備え て人口増に方針を転換した。1939 年に設置 された国立人口問題研究所が昭和 30 年の総 人口 1 億人を目標とする「人口政策確立要 綱」を準備し、1940 年 1 月に閣議はこれを 決定した。日中戦争期は第 2 次産業革命期で 都市化が進行、出生率の低い都市と高い農村 との格差の中で、農業人口を維持しながら重 工業による国土計画も進める人口政策が取組 まれた。 第 5 章 占領下の「人口政策」―優生保護 法の中絶条項を中心に ……豊田真穂 厚生省は連合軍最高司令官総司令部(以下 SCAP)の公衆衛生局長サムスの指示なしで は動くことができなかった。「社会党政権下 の 1947 年時点で優生保護法が通過すれば、 〈日本人の法〉と言いにくくなる。立法によ る政策の永続化を重視したサムスは、カトリ ックやソ連からジェノサイドと非難されるこ とを避けるためにも、自民党政権下の議員立 法で成立させたかった」と、豊田は述べてい る。こうして、避妊条項のあ る 47 年案では なく、「逆淘汰」―上階層者が減り下階層者の 比率が増えること―を防ぐため、中絶条項を 中心とする 1948 年案が優生保護法として成 立した。日本政府は避妊の普及が「逆淘汰」 につながると恐れたこともあった。 第 6 章 戦後本土の「人口政策」 ……田 間泰子 1946〜70 年の人口問題審議会と人口問題 研究会の文書では一貫して、生殖とその統制 は、優生思想に基づく強制の必要性ととも に、夫婦において自由になされるべきという 主張がなされた。政策は法的夫婦を社会の基 本とし、戦前の体制を継承した優生思想を SCAP の反対をも乗り越えて強化した「戦後 体制」であり、1954 年からの受胎調節特別 普及事業はその対象を生活保護受給世帯と非 課税世帯とした。1970 年代「不幸な子ども が生まれない運動」が展開されるなか、人工 妊娠中絶を一手に担ってきた日本母性保護医 協会は 1972 年から羊水検査や超音波診断な ど出生前診断を導入して、法改正に依拠せず 「人口の質的向上」に寄与し続けている。 第 7 章 戦後沖縄の「人口政策」 ……澤 田佳世 沖縄の人口は 1950 年代に急速に増加した。 海外への移民が減り、本土への出稼ぎが 80 万人と増えた。琉球政府社会局は 1955 年家 族計画の普及啓蒙を始め、1956 年琉球列島 米国民政府(USCAR)の許可を得て優生保 護法案を立法院で審議し、8 月に公布予定で あったが、「米国でカトリックの厳しい反応 が見込まれる」と公布前日に USCAR は無 効とした。1966 年、受胎調節実地指導員資 格認定講習会が沖縄で開始された。家族計画 の行政対応も遅れ、本土復帰前は「もぐり中
絶天国」と称され、非合法にもかかわらず出 生数とほぼ同数の中絶件数があったといわれ る。 第 8 章 近年における「人口政策」―1990 年代以降の少子化対策の展開 ……守泉理恵 日本の合計特殊出生率(TFR)が人口を 維持しうる 2.07(置換水準)を下回ったの は 1974 年であったが、政府は「少子化対策」 を 1989 年の TFR が丙午の 1966 年よりも下 回る 1.57 になるまで放置した。1986 年、男 女雇用機会均等法が施行され、女性の就業機 会が拡大したが、あくまで未婚期の女性であ り、1990 年代も第 1 子の妊娠判明時と子ど も 1 歳時ともに就業している割合は 1980 年 代と同じ 2 割強であった。むしろ労働者派遣 法(派遣法)により非正規、パートと家計補 助的な賃金で働く女性が増えた。1999 年、 不景気に派遣法は製造業にも広げられ、非正 規雇用が若年男性を巻き込んだため、男性の 収入格差が増大した。男性の低収入者が結婚 を躊躇した。そして、未婚率を増大させた。 このため 2004 年の「少子化社会対策大綱」 では若者の自立、仕事と家庭の両立支援が提 示された。2012 年には子ども子育て支援法 など関連 3 法案が成立し、TFR は 2005 年の 1.26 を底に、2016 年には 1.44 までに回復し た。 コラム 厚生労働省設置法における人口政 策の位置 ……廣嶋清志 第 9 章 韓国・台湾の人口政策 ……鈴木 透 台 湾 の 1951 年 の TFR は 7.05、韓 国 は 1950 年代後半 6.33 であったが、朴正熈は人 口が経済発展を阻害するとし、1961 年 10 か 年計画では 1971 年までに有配偶女性の避妊 実践率 45%にしようと、経口避妊薬と子宮 内避妊器具(IUD)と男性不妊手術が奨励さ れた。台湾では、1964 年「廣大推行臺灣省 家庭計畫五年法案」が成立し、保健所所属の 「家庭計畫工作員」が家庭訪問をして IUD や 経口避妊薬を配布した。1980 年前半に両国 とも TFR は置換水準に達した。韓国は 2004 年から、台湾は 2006 年から少子化対策を開 始 し た が、韓 国 は 2001〜17 年、台 湾 は 2003〜17 年の間、TFR は両国とも世界最低 水準の 1.3 未満である。厳格な父系制、同姓 不婚、異姓不養、「孝」優先の儒教家族であ り、男児選好のような家族内ジェンダー平等 にかかわる観念変化の遅いことが効果の出な い理由である。 第 10 章 フランスの人口政策―1930 年代 に本格化した家族政策 ……福島都茂子 19 世紀のフランスの都市民は新生児を乳 母に預ける里子の習慣があり、性交中断によ る避妊を行うため 1930 年には少子高齢化社 会であった。1932〜39 年、子ども数に応じ て累進的に増額する家族手当を国民に支給、 とくに 1938 年、専業主婦手当や単一賃金手 当を創設した。1967 年の経口避妊薬等の販 売解禁や 1968 年の「五月革命」にともなう 「性革命」を経て、1975 年妊娠中絶法が施行 された。1972 年に働く母親に保育手当が支 給され始め、1993〜94 年の TFR は 1.66 を 底に、翌年からの両立支援策に 2018 年は 1.83 と回復した。 第 11 章 中国の人口政策―計画出産下の 農村幹部と女性 ……小浜正子 1960 年代中国では結婚適齢者多く TFR は 7 になった。農村では幹部が 1971 年から党・ 政府による指示等に基づいて人口政策を実施 した。遼寧省の Q 村では 1970 年代「一子で リング(IUD)、二子で卵管結索手術」を実 施、反対に湖南省 B 村の幹部は「娘だけの 人には無理に結索させていない」と息子確保 の配慮をした。1979 年中国の TFR は 2.75 に急落した。1990 年代は一子が男なら一人、 女なら 5 年以上空けて二人になる。農村では 夫や姑の男子出産強要や多子を望む家父長制 に反発し、女性は政策に乗って協力し、ある いは裏をかくなど政策に抵抗し、したたかに 自分の意志を実現すべく行動した。2016 年 から「二人っ子政策」に移行した。
補論 戦後日本の人口政策の変遷 ……廣 嶋清志 第一期(1945〜59 年)―1946 年の「新人口 政策基本方針に関する建議」で逆淘汰の防止 が強く主張され、中絶を緩和する優生保護法 の制定によって出産調節が開始された。第二 期(60〜71 年)―行過ぎた中絶により少産化 を達成した。年少人口の資質を高める議論と 中絶分の出産増加は容認されているとみて、 出生促進の児童手当を議論し、1971 年これ を創設し、第 3 子以降に支給した。第三期 (72〜76 年)―戦後ベビーブ―マーが 1971〜 74 年に第 2 ベビーブームをもたらし、1974 年「子供を二人まで」と呼びかけ、IUD を 認可した。第四期(1977 年〜)―1977 年、出 生率は維持の方針。1990 年、入管法に在留 資格が新設・再編された。 各章はそれぞれの時代の優生思想も含めて 思想的基盤、各国の社会構造、主だった家族 政策や出生政策からテーマに応じてわかりや すく論じている。評者も「人口に影響を与え る法律とその施策の体系」として、説得力の ある論述に多くを学ばせてもらった。このよ うに、それぞれの著者が自らの専門分野を丁 寧に論じているが、小島の示した「広めの人 口・家族政策の概念の①女子の地位に関する 施策」の視点から本書への感想、疑問、要望 を述べたい。 第 1 に、女子の地位に関する施策に影響の 大きい性別役割分業について、第 8 章で守泉 は、1980 年代の日本では「日本型福祉社会」 と銘打ち、性別役割分業にもとづいたライフ スタイルに政策的に誘導する制度改革が進ん だことが、家事・育児と仕事の両立を困難に させたと述べた。評者も同感である。1985 年に専業主婦優遇策の年金の第 3 号被保険者 を創設し、総合職制度の男女機会均等法と非 正規雇用の出発点となる派遣法を成立させ た。日本の家族政策の背景にある性別役割分 業は強化され、就業と育児の両立を困難にし て、やがて結婚を躊躇させ、少子化を推し進 めた。最初に性別役割を取入れた法は母子保 護法である。第 3 章でエレン・ケイの影響を 受けた社会運動について、とくに母性主義と して「良妻賢母」教育を受けた上中層を引き つけ、母子保護法の運動の担い手となった。 健康保険法では労働者を対象にするため扶養 家族の制度はなかったが、1940 年、上中層 が対象の職員健康保険法で彼らの妻は専業主 婦であるため扶養家族が取入れられた。しか し、第一次産業が主要産業の間は日本の既婚 女子労働力率が高かった。その間は都市の上 中層のみが性別役割分業でそれ以外の階層に 普及していない。落合恵美子が指摘したよう に性別役割分業は日本の伝統ではない。ゆえ に、性別役割分業が社会構造として成立する 過程で人口政策にどのように影響したかは分 析されなければならない。 第 2 に、日本の性革命はなぜ今で、今まで 起こらなかったのであろうか。第 10 章のフ ランスで「女性の身体は女性のもの」といっ たリプロダクティブ・ライツの確立が述べら れている。序章で小島が、西欧諸国のような 性革命が日本では起こらないのは、「ジェン ダー平等が達成されず、望まない妊娠を有効 にコントロールする手段も獲得できなかった ことにより、性行動や家族形成行動を躊躇す る傾向が強まり、かえって出生力低下が進ん だのではないか」と、述べている。しかし、 評者は女性運動に着目したい。たとえば、前 述した母性主義運動のひとつである全関西婦 人連合会の幹部は戦前には優生思想を持ち、 戦後に日本主婦の会を組織した。(石月静恵、 大阪女性史研究会『女性ネットワークの誕 生:全関西婦人連合会の成立と活動』)ノー グレンは、母性主義運動は優生保護法成立時 には主婦主義を加え、母性と中絶は相反する と関わらないことにしたと指摘した。その 後、税制・社会保険では主婦優遇の家族政策 が実施され、日本女性の性革命への意欲を希 薄にしたのではないかと思う。
第 3 に優生思想について、補論で廣嶋は優 生保護法が逆淘汰論に基づく中絶制限緩和の ためのものであったとした。この点につい て、第 6 章で田間は、戦前戦後日本人が優生 思想に捉われてきたことを憂い、人工妊娠中 絶を一手に担ってきた日本母性保護医協会が 胎児の出生前診断を導入し、「質的向上」に 寄与しつづけていると指摘するだけでなく、 1996 年母体保護法への改編の後も果たして 優生思想に対し日本人に社会的変化が生じ得 たのかどうかを問うている。同様に、第 7 章 でも、優生保護法の成立がなかった沖縄で は、非合法の中絶がなされるなかでの国民優 生法や優生思想の関連に触れてほしかった。 第 4 に、第 11 章の 1960 年代前半の中国 Q 村のリングは石濱淳美が 1957 年中国に招 かれて伝えた太田リングを改良したユウセイ リングであろう。1965 年リングは WHO で IUD と 命 名 さ れ た。子 宮 内 避 妊 シ ス テ ム (IUS)は現在、国際家族計画連盟(IPPF) の第一の推奨避妊法であり、安価で失敗の少 ない避妊法である。厚生省は IUD を 1974 年 まで認可しなかった。太田典礼は優生保護法 の 47 年社会党案提案者である。そこには避 妊条項があり、太田リングによる避妊を想定 していた。この法案の廃案理由を第 5 章で SCAP のサムス局長が保守系政党・谷口弥三 郎提案の優生保護法を選んだことと日本政府 が避妊に消極的であったことを豊田が明示し たことは高く評価したい。ただし、自民党の 結成は 1955 年であり、1948 年の優生保護法 を自民党と結びつけるサムスの誤りを指摘し ていない。そして、中国に入ったリングは、 第 9 章 の 韓 国・台 湾 で も 普 及 し、日 本 の 1950 年代のような大量中絶の悲劇を避ける ことができたが、そのことに本書は触れてい ない。一方、鈴木は人口政策として移民につ いて述べ、韓国では 1993 年外国人産業研修 生制度が導入され、2004 年に外国人雇用許 可制度がスタート、民間仲介業者を排し、政 府機関が人材登用を行っており、2006 年に 研修生制度は廃止された。台湾は 1989 年か ら合法的に外国人勤労者を導入し始め、1992 年から 7 種類の「外籍労工」の雇用許可制と した。滞在は 12 年(家庭介護は 14 年)が上 限である。日本のみが技能研修生制度を取っ ている。 第 5 に、近世の第 1 章・第 2 章では出生促 進策の鍵は産業の発展によることを示した。 しかし、本書には明治期に関する章がないた め、近世と近代の人口政策の変遷やつながり が分からない。明治政府による富国強兵策に 基づく人口政策の終焉を第 4 章で高岡が、日 本の「重工業は大部分軍需工業」なので存 続・発展させるために日本は「実力」つまり 戦争で東亜圏を勢力下に置くしかなかった と、補っている。明治期の執筆者を得られな かったのはおそらく明治期の戸籍が動態統計 として不十分であるためであろうが、近世の 論文の位置づけがあいまいになり残念であ る。 (日本経済評論社、2019 年、328 頁、4800 円 +税)