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医療裁判の研究 : 期待権侵害論の射程に関する一考察・最近の最高裁判例をめぐって

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(1)医療裁判の研究 一期待権侵害論の射程に関する一考察・最近め最高裁判例をめぐって-. 根 本. -. CONTENTS 第1緒. -. 言. 第2. 事実の概要. 第3. 控訴審判決要旨(大阪高裁平成14年9月13日). 第4. 上告審判決要旨(最一小判平成16年1月15日). 第5. 問題の所在(1). 第6. 解. 1第5. -. (3). 説. (1)について. (1)期待権侵害論の意義 (2).期待権侵害論に関する判例・学説 (3)期待権侵害論と医療水準 (4)新しい医療水準より漬鐸される研錬義務・転医義務の在り方 (5)本判決の検討 2. 第5. (2)について. (1)患者死亡の時点における生存率の具体的数値如何 179.

(2) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). (2)本判決の棲討 3. 第5(3)について (1) 「相当程度の可能性」についての証明 (2)本判決の検討 (3) 「相当程度の可能性」に関する証明責任の所在(立証責任の転換) (4)本判決の検討. 第7. 第1緒. 語. 結. 言. 医師と患者の関係において,患者は,医師が自分の疾病について現代の医療 水準にある医学知識・技術を駆使して診療してくれる筈との"期待"を有して いる。かりに,医師がこの"期待"に反し,現代の医療水準に従った診療をせ. ずに,嘆痛が増悪するのを放置したため,死亡させるという結果を招いた場合, 医師が法律上の責任を負うのは当然である。しかし,患者が,医師の診療の適 否に係らず死亡する運命にあった場合(例えば,・末期癌患者),医療行為と死亡 の因果関係が否定されるため,医師の法律上の責任は否定される。しかし,近 午,医療民事裁判の場面において,因果関係否定事例であっても,医師に過失 があれば,なお最善の診療を受けたいという"期待"を法律上保護すべきとの 理論が提唱され,最高裁によっても肯定された(最二小判平成12年9月22日 民集第54巻第7号2574頁『切迫性急性心筋梗塞により死亡した患者について, 医師が適切な初期治療を行っていれば,急性豚炎と誤診することなく,患者が その死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性があるとされた事 例』) (以下,平成12年判決という). 1)。もっとも,その射程については明らかで. なかったところ,これをある程度具体化した判例(慕-小判平成16年1月15 日裁判所時報第1355号27頁『スキルス性胃痛により死亡した患者について, 胃の内視鏡検査を実施した医師が適切な再検査を行っていれば,患者がその死 180.

(3) 医療裁判の研究. 亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性があるとされた事例』) が現れたので紹介する(以下,平成16年判決という)。. 第2. 事実の概要. 原審の確定した事実関係の概要等は,次の通りである。 Aは昭和43年生まれの女性であり,. Yは滋賀県近江八幡市で個人病院を開設. している開業医である。Aは平成11年6月30日,食事中に喉が話手る感じがし, 暗吐することもあるなどの症状を訴えて,. Yは,診察の結. Yの診察を受けた。. Y. 果, Aの症状につき.,急性胃腸炎,食道炎,輝炎の疑いがあると診断した。. は,同年7月17日にAを診察した後,同月24日に,胃内視鏡検査(以下, 検査」という。)を実施した。本件検査においては,. 「本件. Aの胃の内部に大量の食物. 残漆があったため,その内部を十分に観察することはできなかった。もっとも, 本件検査の結果によれば,幽門部及び十二指腸には通過障害がないことが示さ れており,冒潰療,十二指腸潰癌又は幽門部胃癌による幽門狭窄は否定される. ものであったから,胃の内部に大量の食物残直が存在すること自体が異常をう かがわせる所見であり,当時の医療水準によれば,この場合,再度胃内視鏡検 査を実施すべきであった。しかしながら,∵Yは,本件検査が上記のとおり不十 分なものであり,また,異常をうかがわせる所見もあったにもかかわらず,再 検査を実施しようとはせず,. Aの症状を慢性胃炎と診断し,. Aに対し,胃が赤. くただれているだけで特に異常はない,心配はいらないと説明し,内服薬を与 えて経過観察を指示するにとどまった。 ンター(以下,. Aは,同年10月7日,滋賀県成人病セ. 「成人病センター」という。)で診察を受け,同月15日に,胃透視. 検査,同月19日に胃CT検査,同月21日に胃内視鏡検査等の各種検査を受け, その結果,スキルス胃癌し診断された。当時のAは,胃壁全体の硬化が認めら れ,また,腹水もあり,痛の腹膜への転移が疑われた。. Aは同月22日に成人病. センターに入院し,化学療法を中心とする治療を受けたが,同年11月に接骨 181.

(4) 横浜国際経済法学第■14巻第3号(2006年3月). への転移が確認され,平成12年2片4日に死亡した。 そこで, 基づき,. Aの相続人であるⅩらが,. Yに対して,診療契約上の債務不履行に. Yが適切な検査をしなかったためスキルス胃癌の発見が遅れ,これに. よりAが死亡し,またはAがその死亡の時点においてなお生存していた相当程 度の可能性を侵害されたと主張して,これによって被った損害の賠償を求めた のが本件である。. 第3′控訴審判決要旨(大阪高裁平成14年9月13日) 1. Yには,本件検査当時,. 2). Aに対し,近い期日に厳重な禁食処置の上,再度. 胃内視鏡検査を行うべき診療契約上の義務があったにもかかわらず,必要な 検査を実施しなかった過失がある。 本件検査当時にAに対し直ちに適切な治療が行われていたとしても,. 2. 死亡の結果は回避できなかったから,. Aの. Yの過失とAの死亡との間に因果関係. を認めることはできない。. 仮に,本件検査時点でスキルス胃癌との診断がされ,これに対する化学療. 3. 法が行われていたとしても,. Aがその死亡の時点においてなお生存していた. 「相当程度の可能性」があったとまではいえない。. 第4. 上告審判決要旨(最一小判平成16年1月15日). 原審の上記判断のうち,. 3.は是認することができない。その理由は次の通. りである。. 1医師に医療水準にかなった医療を行わなかった過失がある場合において, その過失と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないが,上記医療 が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当 程度の可能性の存在が証明されるときには,医師は,患者が上記可能性を侵 182.

(5) 医療裁判の研究. 書されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解 すべきである(最高裁平成9年(オ)第42号同12年9月22日第2ノJ、法廷判決民集54. 巻7号2574頁参照)。このことは,診療契約上の債務不履行責任についても同 様に解される。すなわち,.医師に適時に適切な検査を行うべき診療契約上の 義務を怠った過失があり,その結果患者が早期に適切な医療行為を受けるこ とができなかった場合において,上記検査義務を怠った医師の過失と患者の 死亡との因果関係の存在は証明されなくとも,適時に適切な検査を行うこと によって病変が発見され. 当該病変に対して早期に適切な治療等の医療行為. が行われていたならば,患者がその死亡の時点においてなお生存していた相 当程度の可能性の存在が証明されるときには,医師は,患者が上記可能性を 侵害されたことによって被った損害を賠償すべき診療契約上の債務不履行責 任を負うものと解するのが相当である。 2. 本件についてこれをみると,■前記事実関係によれば,平成11年7月の時点 においてYが適切な再検査を行っていれば,. Aのスキルス胃癌を発見するこ. とが十分に可能であり,これが発見されていれば,上記時点における病状及 び当時の医療水準に応じた化学療法が直ちに実施され,これが奏功すること により, Aの延命の可能性があったことが明らかである去.そして,本件にお いては,. Yが実施すべき再検査を行わなかったため,上記時点におけるAの. 病状は不明であるが,病状が進行した後に治療を開始するよりも,疾病に対 する治療の開始が早期であればあるほど良好な治療効果を得ることができる のが通常であり,. Aのスキルス胃癌に対する治療が実際に開始される約3か. 月前である上記時点で,その時点における病状及び当時の医療水準に応じた 化学療法を始めとする適切な治療が開始されていれば,特段の事情がない限 り, Aが実際に受けた治療よりも良好な治療効果が得られたものと認めるの. が合理的である。これらの諸点にかんがみると,. Aの痛状等に照らして化学. 療法等が奏功する可能性がなかったというのであればともか・く,そのような 事情の存在がうかがわれない本件では,上記時点でAのスキルス胃癌が発見 183.

(6) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). され,適時に適切な治療が開始されていれば,. Aが死亡の時点においてなお. 生存していた可能性があったものというべきである。そうすると,本件にお Aがその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性が. いては,. 認められるから,これを否定した原審の半り断には,法令解釈を誤った違法が あるというべきである。. 第5. 問題の所在. (1)本判決が,いわゆる期待権侵害論について,. 「患者が死亡の時点におい. てなお生存していた相当程度の可能性」の存在を要件事実とする根拠は何 か。. (2) 「生存していた相当程度の可能性」の具体的な内容,つまり,患者死亡 の時点における生存率の具体的数値はどの程度なのか。. (3)本判決は,. 「相当程度の可能性」に関する証明責任を,被告琴療側に転. 換したものなのか。. 第6 1第5. 解. 説. (1)について. (1)期待権侵害論の意義 期待権侵害論の外延は未だはっきりとしていない。期待権侵害論とは,諸外 国においてもI,oss. of. Chance,あるいはPerte. d、une. Chanceなどと呼び習わさ. れているよう.に,単なる裸の期待感情(被害感情)をも法律上の保護に催する と考える.理論なのか(裸の期待権論),それとも,ある程度具体的な被害,すな わち慰謝料に換算できる程度の精神的損害のみを保護する理論なのか,明確な 答えは出ていない。 わが国における期待権侵害論は,諸外国と異なり,医事法・民事医療訴訟の 184.

(7) 医療裁判の研究. 領域のみのプロパーな理論として特化されており,前者,すなわち裸の期待権 論とは,医師の診療に過失があることを前提として,過失行為と患者死亡の結. 果との間の因果関係を証明できないのみならず,患者が死亡ゐ時点においてな お生存していた相当程度の可能性(延命可能性の存在)をも証明できない場合ま で救済する考え方であり,後者は,単なる期待感情のみならず,これに延命利 益や適切な治療機会を受ける利益の存在を要件事実として加味し,医師の注意 義務違反と,かかる利益の損失との間の因果関係の証明を求める考え方を意味 する。因みに,論者によっては,裸の期待権論のみを期待権侵害論肯定説と位 置づけ,それ以外の見解を期待権侵害論否定説と捉える者もいる。つまり,請 点(1)は,わが国の医事法・民事医療訴訟領域における,期待権侵害論の定 義や法的構成(成立要件)にかかわる問題であるとともに,その適用範囲を画 する問題なのである3)。. (2、)期待権侵害論に関する判例・学説 期待権侵害論の判断スキームにつし?ては,従来から諸説があったところである が,判例・学説の変遷を概観すると,概ね以下のように整理することができる。. 福岡地判昭和52年3月29日4)は,期待権侵害論の情夫である(以下,昭和52 年判決という)o本判決は患者が妊娠中絶手術後に死亡した事案に関する判断で あるが,. 「-. (死因が不明で確定できない場合であっても)十分な患者管理のもと. に診察・診療がなされていれば,ある結果も生じなかったかもしれないという 蓋然性がある以上,十分な診察・診療をしてもらえるものと期待していた患者 にとってみれば,その期待を裏切られたことにより予期せぬ結果が生じたので はないかという精神的打撃を受けることも必定というべく,右にいう患者の期 待(これを期待権といってよい。)は,診療契約において正当に保護されるべき法. 的権利というも過言ではない。」として,原告の請求を慰謝料の一部のみ認零 した。. 主要な判例集に登載された下級審判例を渉猟した限りではあるが,その後も 185.

(8) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). 本判決の立場を踏襲する判例が散見されるようになり,. 「-適切な治療を受け. て■治癒する機会と生存の可能性を奪われたことの精神的苦痛は慰謝されるべき である。」 (東京地判昭和58年1月24日). 5),. 「不治と思われる病気に雁思した場合. は,結果の如何に関わらず,諸々の制約の中でも,最大限の適切な治療を求め る努力をすることは,人の生そのものといいうるのであり,充分な治療を受け て死にたいと望むのは余りにも当然のことである。」 年2月25日). (宇都宮地裁足利支如召和57. 6)などと判示し,原告の請求を慰謝料の一部のみ認容している。こ. のように,下級審においては,期待権侵害論肯定説が大勢を占めるようになり, 判例理論を形成していった。 学界では,.昭和52年判決を契機として議論が活発化したが,当初は期待権. 侵害論を否定する学説が有力であった。その根拠とするところは,凡そ以下の ようなものであったo即ち,単なや期待という主観的な感情は権利として認め られないので,権利に準じた法律上保護されるべき利益に該らない。そして, 単なる期待は被侵害利益として認められないのであるから,過失に基づく行為 が存在したとしても,損害がなく,行為と結果との間の因果関係を欠く。これ を不問に付しつつ賠償義務を肯定することは,無因果関係責任論もしくは結果 責任の是認に他ならず,従来の損害賠償理論を前提とする限り,到底認めるこ とはできないという,概念法学的な解釈論に基づくものであっ た7)。 しかし,その後,期待権の内容が,判例の集積により「延命利益」. 「治療機. 会の喪失」などというように,次第に具体化されるにつれ,期待権侵害論を肯 定的に捉える学説が通説化するに至った。 学界においては,さらに議論のボルテージを上げ,生命侵害に代替する形で 措定された各被侵害利益の相互関係を明らかにしようとする動きも見られ,あ る論者は, 「-医師が最善を尽くせば,患者のおかれた結果が違っていた可能 性を,死亡事例で考慮すれば,延命可能性という概念が結びつきやすく,患者 の気持ちを代弁すれば期待に背いたという発想が出てくる。損害の種類に注視 すれば延命利益論となり,保護の必要性(権利性)に力点を置くときは期待権 186.

(9) 医療裁判の研究. 侵害という考えに至ると見てもよい。.さらに単なる期待外れは法的保護に催し ないならば,保護に催する期待とは何かと考察が進んでいくと生命の質ないし. ライウスタイルであるとする考えや,治療によって健康を回復すべき機会が失 われたとの治療機会喪失論が登場してくる。」と分析している8)。 思うに,期待権侵害論は,死亡事例のみならず後遺症遺残事例についても問 題となり得,また,癌のような不治の疾病に雁思した場合のみならず,不慮の 事故などによる致死性の疾患の場合にも問題となり得るのであるから,被侵害 利益も事例に応じて類型化されるべきであり,また,被侵害利益の相互関係も 明らかしなければならないことは当然であるから,傾聴に催する見解である。 しかし,本見解が「期待」の内実を,生命の質やライフネタイルに求めてい ることについては,若干の疑義がある。生命の質とは,判例や学説において QOL. (Qualityoflife)と呼び習わされている概念であり,概ね,. 「患者の, 充. 分な治療を受けたいという心の満足」あるいは「患者が,どれだけ納得した生 活・人生を送るかという質的な利益」を意味するとされている。ただし,医学 研究者と倫理学者の間において, (Evidence based. QOLの充足度を評価する際に,. EBM. medicine)なる統計を判断要素に加味するのか否かについて. 意見が分かれているようである。 かようなQOLを期待権の内実と捉えるとすると,仮にEBMを考慮して評価. に客観性を持たせたとしても,裸の期待権説と何ら変わらないことになりはし ないか。事実,この見解の提唱者は,延命利益や治療機会の喪失を要件としな. いばかりか,患者の「期待」の限衷を画する医療水準の機能につき,判例・通 説のように,医療行為における過失の有無の認定における,医師の注意義務の 上限を画する概念と捉えるのではなくて,医師の注意義務の下限を示すものに 過ぎないと解しており,事実上,患者の主観的な期待を法律上保護する結果と なっているからである。. 因みに,ある診療方法が臨床医学における実践と評価されるためには,それ が標準的・な成書に記載されることを要し,その間,約5年程度の周知期間があ 187.

(10) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). るといわれている9)。すると,本見解によると,医師は,. ある程度の冒険的治. 療を施さなければならないことになるのであろうか。また,冒険的治療を施し た結果,悪しき結果を生じたとすれば,やはり診療契約上の不完全履行責任を問 われるのであるから,医師は進退両難の地位に置かれることになりはしないか。 医療行為の報酬は,国民皆保険制度(国民健康保険・社会保険)に基づく診療 報酬基金から支払われるが,周知のように,診療内容を点数化して報酬に換算 する方法が採用されており,基金に対して点数化して請求できる診療方法は, 事実上医療水準に達した術式に限られ,それ以外の術式は患者側の負担となる ため(自由診療),医師はかような術式の採用を蒔跨するものである。また,医 師は賠償責任保険に加入するのが通常であるが,筆者が,ある大手保険会社の 課長職(一橋大学・法博)に問い合わせたところ,最近,医賠のResultが急速に 悪化しているため,加入を拒否するケースもある,保険会社としては現状を維 持するのは困難であり,加入者の選別と保険の料率アップによって対処する他 はないとの回答であった。 アメリカ合衆国のように,国民皆保険制度を採用せずに,国民個人が民間の 保険会社と各別に医療保険契約を締結し,高額保険加入者は,最高水準の医療 を受診できるが,民間保険無加入者は,受診するたびに医療費を支払う関係上, 金額に応じた医療水準の診療を受けられるに過ぎないという建前,分かりやす く表現すれば,事実上のダブルスタンダードを採用しているのであれば,患者 側が医療に賭ける期待の程度も自ずから相対化されることになり,高額保険加 入者について容易かつ高額な賠償を認めたとしても,公平を失することはない。 既往の考え方は,まさに,患者を,資本主義的な自由競争原理における「消費 者」として位置づけ,その保護の在り方を類型化しようとするものであり,傾 聴に催する。 このような考え方に対して,わが国においては,国家が国民間の経済力格差. を捨象し,可及的に平等な取り扱いを旨としつつ,後見的な見地から国民の健 康を守る観点から,低額な保険料に基づく国民皆保険制度を採用している(こ 188.

(11) 医療裁判の研究. の建前により,医療における国民の消費者性は希薄化される)。つまり,富の再分配 の見地から,結果として高額所得者が低所得者の医療費を分担するスキームに なっているのである。しかも,医療水準は(各医療機関の性質に応じて)一律か つ高水準であり,国民の意識としても,公的保険にさえ入っていれば最高の医 療を受けられて当然と思いがちである。このような医療水準と国民意識を以っ て過失の有無を判定し,しかも,裁判所が容易かつ高額の賠償を認める法律解. 釈をするとしたら,保険会社は医賠から撤退せざるを得なくなり,医自利才現有 財産のみから賠償金を支払わなければならなくなる。すると,医師は,かよう. なリスクを回避するため,救急医学科や小児科,周産期医療科などのハイリス クな領域から手を引いたり,致死性患者の救命措置を避けるため,患者選別を 常態化させ,事実上の受診拒否をすることになろう。これを萎縮医療・防衛医 療と言わずして何であろうか。このような現状に鑑みると,わが国において, 医師と患者の関係に,欧米流の消費者原理を導入するのは時期尚早というべき である。. 先の見解の提唱者は,諸外国における期待権侵害論を紹介したり,わが国に おける判例・学説を分析するなどして,期待権侵害論の在るべき姿・将来の方 向性を展開しているが,筆者が指摘した国情の相違やインフラの整備状況を看 過した見解というべきであり,にわかに賛成できない。. 類似の有力説として,医療水準については通説・判例と同様に医師の注意義 務の上限を画する概念と捉えつつ,. QOLを強調し,延命利益や治療機会の喪. 失を要件としない見解もあるが10),医療過誤の領域においてのみ,無因果関係 責任論や結果責任を肯定する根拠が不明であるとの誇りを免れず,先の見解と 同じ批判があてはまるので,妥当ではないと考える。 既往のような判例・学説の趨勢のなかで,最1/ト判平成11年2月25日が出さ れた(以下,平成11年判決という). ll)。本判決は,医師が,肝硬変患者に対し,. 肝細胞痛を早期に発見するための検査を実施しなかった注意義務違反と,患者の. 肝細胞癌による死亡との間の因果関係を否定した原審の判断に違法があるとさ 189.

(12) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). れた事例であり,期待権侵害論に肯否に関する初の最高裁判所の判断であった。 本判決は,被告医師の注意義務違反と患者死亡との因果関係について,適切 な診療を適時に行っていたのであれば,患者が死亡当時においてなお生存して いた高度の蓋然性が証明された場合には,延命可能期間が不明であったとして ち,被告医師の不作為と患者死亡との間の因果関係を肯定できる旨を判示した。 ただし,本判決が「-患者が右(つまり,その死亡の)時点の後いかほどの期 間生存し得たかは,主に得べかりし利益その他の損害の額の算定に当たって考. 慮されるべき事由であり,前記因果由係の存否に関する判断を直ちに左右する ものではない。」と判示していることから理解できるように,その法律構成は, 従来までの期待権侵害論のスキームと異なる。つまり,被告医師側の注意義務 違反と悪しき結果との因果関係を肯定しつつ,そこに時間的因子を織り込んで. 解釈する手法を採用している点,換言すれば,いわゆる不作為型医療事政にお ける「損害」を単純な「死亡」ではなくて,. 「その時点における死亡」と捉え,. 失われた延命期間の長短を損害の大小の問題に解消して考慮している点に注意 を要する。. なお,本判決の原審はオーソドックスな期待権侵害論に依拠していた。つま り,被告医師の診療行為に注意義務違反(過失)を認めつつ,悪しき結果(忠 者死亡)との間の因果関係を否定し,損害の内容については,生命侵害ではな くて延命利益の喪失と捉え,慰謝料のみの賠償を認める見解に立脚していた (福岡高判平成8年6月27日). 12)。かような判断に対し,本判決は,被告医師の注. 意義務違反と患者死亡との間の因果関係を否定する原審の判断に誤りがあると して,原判決の当該部分を破棄し,原審に差し戻したところ,差戻審の判断が 出される前に,平成12年判決(詳細は後述)が出されて確定したため,本判決の 法律構成は傍論にとどまることになった点にも注意しなければならない。 本判決に続いて出されたのが平成12年判決である。本判決は,切迫性急性 心筋梗塞により死亡した患者について,医師が適切な初期治療を行っていれば, 急性障炎と誤診することなく,患者がその死亡の時点においてなお生存してい 190.

(13) 医療裁判の研究. た相当程度の可能性があるとされた事例であり,オーソドックスな期待権侵害 論を判例理論として確立した,画期的な内容の判決であった。 本判決の要旨は,. 「-生命を維持することは人にとってもっとも基本的な利. 益であって,右の可能性(すなわち,医療水準に適った医療行為が行われていたなら ば,患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性)は法によっ て保護されるべき利益であり,医師が過失により医療水準に適った医療を行わ ないことによって患者の法益が侵害されたものということができる。」という 部分に集約されている。 上記判旨から理解できるように,本判決は延命利益の存在を要件事実として おり,被告医師側による医療水準に適合しない診療行為の存在が認定されたと. しても,それのみを以って損害賠償債務の発生を認めないことを明らかにして いる。つまり,裸の期待権論を否定し,従来までの債務不履行や不法行為の理 論の枠内において期待権侵害論を処理する立場に依拠するこ七を明確にしたも■. のである。. 以上のような判例・学説の流れの背景_には,実務的な配慮があるものと思わ れる。つまり,期待権侵害論とは,雑把な表現をすれば「過失あり・因果関係 なし」 ■と事実認定された事案に適用される理論であるところ,被告医療側が医 療水準に適合しない診療行為を行ったことは事実であるにもかかわらず,これ と悪しき結果との因果関係が証明されないために,原告被害者側が救済されな いという「すわりの悪さ」を解消するため,延命利益の喪失・治療機会の喪失 などの事実を損害とみて,これと医療側の注意義務違反との間の因果関係を肯 定し,小額の慰謝料のみを認め,被害感情(つまり,誤診をした医者が運よく逃げ おおせたという腹立たし.い気持ち)の慰謝を図り,可及的早期の紛争解決を期そ うとする配慮があったものと推測される。そして,今般,筆者が評釈する平成 16年判決は,平成12年判決が示したスキームに依拠しつつ,. 「相当程度の可能. 性」の具体的な内容に言及したものと位置付けることができる。 なお,既往の判例や有力学説の関係を図表化すると,概ね以下のように整理 191.

(14) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). することができる。. 悪しき結果との. 医療水準. 延命可能性. ○. ○. ○. ○. ○. ○. ○. ○. ○. ×. ○. ○. ×. ×. ○. ×. ×. 因果関係. 過失. SC.班ll.2,25. (破棄差戻). ○. SC.H12.9.22. (上告棄却.確定). 〉く. SC.H16.1.15. (破棄差戻) 水野謙説 (学習院大学教授) 石川寛俊説. ×. (弁護士). ○-必要. ×-不要. (3)期待権侵害論と医療水準 民事医療訴訟の領域においては,因果関係の存否に関する事実認定と,過失 の存否に関する事実認定,つまり,結果回避可能性の存否と,これが肯定され. f=場合の結果回避義務違反の有無は,証拠関係が共通であることに鑑みて,辛 実上一つの証拠調手続の中で施行されている。そのため,証拠調の過程におい て,因果関係の存在証明,換言すれば,結果回避可能性(死亡事例でいえば救命 可能性)の証明がなければ,裁判所は要証事実としての過失と因果関係を不存. 在と認走せざるを得なくなるので,被告医師の損害賠償責任を否定することが できた。即ち,他の過失の成立要件に関する証拠調や,それに基づく事実認定,.. を行なう必要がないことを意味し,具体的には,過失における結果予見可能性 と■,これが肯定された場合の結果予見義務違反の有無については,もはや吟味 する必要がなかったのである。 しかし,近年,期待権侵害論が判例理論として確立され,訴訟においても請 求認容事例が多数を占めるに至り,医療行為と悪しき結果との因果関係(結果 回避可能性)が否定された場合であっても,なお,被告医師に損害賠償責任を 192.

(15) 医療裁判の研究. 肯定する余地が認められたことに伴い,結果予見可能性・結果予見義務につい ても,詳細な証拠調と事実認定が必要とされるようになった。 かかる証拠調の過程において,重要な事実認定の要素となるのが「医療水準」 である。つまり,.期待権侵害論の判断スキームは,当該医療行為と悪しき結果 との間の因果関係の存否にかかわらず,被告医師が,診察時において当該結果 を予見し得たのか否かを責任の有無の判断要素とするのであるが,この判断を なす際の-資料に供するため,診察当時の医療水準を証拠によって画定しなけ ればならず,医療水準を画定した後で,医学と,その実践である医療が経験科 学であることに鑑みて,裁判所は各証拠関係に基づき,当該医師が医療水準に 照らし,当該結果を予見し得たのか否か,また,慰謝料相当額を算定する際に, 当該医療行為の医療水準からの逸脱の程度を吟味しなければならないことにな ったのである。以上のように,民事医療訴訟実務において期待権侵害論が定着 するに伴い,医療水準が一躍脚光を浴びることに.なったのである。. 民事医療訴訟実務における期待権侵害論と医療水準の関係は,凡そ以上のよ うなものであるが,この,患者側の期待の限界を画する概念というべき医療水 準に関する,判例・学説の変遷について説明する。 医療水準に関する判例理論については,平成7年(1995)年を境に,従前の 考え方と新しい考え方に分けることができる。 従前に考え方に関するリーディングケースは,輸血梅毒事件(最-小判昭和 36年2月16日). 13)である。本件は,東大付属病院で受診した患者が,子宮筋腫. 治療手術の際に輸血を受けたころ,輸血用血液の職業的給血者が梅毒スピロヘ ータのキャリアであったため,患者が梅毒に雁思し,後遺症も遺残した結果, 離婚やむなきに至ったので,給血を担当した同病院勤務医と同病院の経営主体. である国を提訴した事案である。裁判所は,. 「・-いやしくも人の生命及び健康. を管理すべき業務(医業)に従事する者は,その業務の性質に照らし,危険防. 止のための夷験上必要とされる最善の注意義務を要求される-。」と判示し, 勤務医が給血者に相当な問診をしていれば(「身体は大丈夫か」とのみ訊いたので 193.

(16) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). は不充分),血液検査証明書(陰性)交付後に給血者が売春婦に接していた事実. を知り得,梅毒感染を予見できたとして,勤務医の過失を肯定した。以後,医 師の注意義務は.最善注意義務と呼び習わされ,.判例理論として確立したが,. 「最華」の具体的な内容は明らかにされておらず,抽象的な義務にとどまって いた。. この点を具体化したのが,未熟児網膜症高山日赤事件(最三小判昭和57年3月 30日) 14'である.本件は,昭和44. (1969)年に発生した事故であり,いわゆる. 未熟児として出生した患者を晴育器に収容し,. 38日間にわたって酸素投与を. 施したところ,網膜静脈迂曲による網膜症の兆候が現れたため,ステロイド投 与による対症療法を施したが効果が見られず,失明の危険を回避するため,忠 者を,当時の最先端治療法とされていた光凝固法を実施可能な他院に転送した。 しかし,既に右眼は治療不可能(オーエンスⅤ期),左眼は同治療法の適応時期 を徒過しており(オーエンスⅢ期の晩期),左眼のみ同治療法を実施したものの 効果はなく,結果として両眼を失明するに至った。そこで,患者側が光凝固法 を実施可能な他院への転医措置の遅滞等を理由として,同病院の経営主体であ る日本赤十字を相手取り提訴した事案である。・ 裁判所は,. 「-. (最善)注意義務の基準となるべきものは,診療当時のいわゆ. る臨床医学の実践における医療水準である。」と判示し,当時における光凝固 法の実施例は合計6例(専門誌2例・学会誌4例)のみであったことを根拠に,光 凝固法は一般眼科開業医はもとより,大学痛院などの総合病院レベルにおいて すらも-般的に施行すべき水準に達していなかったとして,高山日赤病院の転 医義務を否定した。本判決は,. 「医療水準」という概念を初めて用いた判決で. あり.,判旨の文字通り,医療水準を超える注意義務はないことを意味し,具体 的には,診療当時の医療水準に照らし,悪しき結果を予見し得なかったことが やむを得なかった場合は(結果予見可能性の不存在),そもそも結果予見義務もな. いことになり,■過央の有無を論じる前提を欠くと考えるものであった。 既往のような一連の流れの集大成が,未熟児網膜症昭和47年事件(最二小判 194.

(17) 医療裁判の研究. 平成4年6月8日)である15)。本件も,未熟児網膜症に関する判例であり,晴育 器に収容し酸素投与を施した患者につき,未熟児網膜症を疑い,眼底検査を実 施したが,異常なしとの診断を下し,後に白内障と診断し,点眼薬による治療 を行っていたところ,患者側が,他院の医師より白内障ではなく未熟児網膜症 であるとの確定診断を得,他院にて治癒を目指したが,結局失明に至った事案 である。. 裁判所は,. 「-医師は,患者との特別の合意がない限り,右医療水準を超え. た医療行為を前提とした,赦密で真撃かつ誠実な医療を尽くすべき義務まで負 うものではなく,その違反を理由とする債務不履行責任,不法行為責任を負う ことはない。. -. (被告医師に対し,原告患者に)光凝固法等の受療の機会を与え. て失明を防止するための医療行為を期待する余地はなかったのである。. -. (原. 判決は)結局,本件医療契約の内容として,同医師に対し,医療水準を超えた 医療行為を前提とした上で,赦密かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務を求め, その義務違反による法的責任を肯認したものといわざるを得ない。」と判示した。 本判決は,医療水準と期待権の関係に言及した初の判断であり,被告医師側 については,診療契約上の最善治療義務は診察当時における医療水準の限度で 履行すれば足り,これを超える術式を採用する義務を否定し,原告患者側につ いては,医療水準を超えた治療方法が採用されることまで期待したとしても, 斯かる期待は法律上保護されない(即ち,慰謝料請求の対象とならない)ことを明 らかにしたものである。■. 既往の,従来までの考え方に基づく一連の判例は,経験科学としての医学の 本質や専門家としての医師の裁量を尊重しており,・妥当な内容と評価できるが, 以下のような批判を受けた。即ち,過誤か否かが問われている医療行為が「診 療当時の臨床医学め実践」の枠内にあれば,悪しき結果発生についての過失責 任は常に否定されることになり,医療水準を高めるための努力義務,例えば, 医療契約上の債務として医師の研鐙義務を観念することが困難となるほか,医 療水準を,より低い方向(開業医レベル)で一律に同じと捉えることになり,例 195.

(18) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). えば,開業医が最先端の医学的知見を求め,これを有する大学病院等に患者を 転送する義務(転医義務)を観念することも困難である,という批判であった。 確かに,本判決を根拠とする医療側の主張として,. 「-大学病院であるから. といって,一般開業医よりも重い注意義務を負うわけではない。」であるとか, 「-高度な治療法が一部の医療機関で行われていたとしても,他の医療機関に おいて,これを実施する義務を当然に負うものではない。」などの主張が散見 された。. 既往のような従来の考え方に対して,新しい考え方の嘱矢は,未熟児網膜症 姫路日赤事件(最二小判平成7年6月9日)である16)。本件も未熟児網膜症に関す る判例であり,昭和49年12月,晴育器に収容し酸素投与を施した未熟児患者 につき,網膜静脈迂曲による網膜症の兆候が現れたが,その発見が遅れ,光凝 固法を適時に実施しなかった結果,失明は免れたものの,両眼の視力が著しく 減弱(0.06)した事案についての判断である。裁判所は,医療水準は全国一律 であるとする従来までの解釈を事実上変更し,. 「ある新規の治療法の存在を前. 提として,検査,診断,治療などに当たることが診療契約に基づき,医療機関. に要求される医療水準であるかどうかを決するについては,当該医療機関の性 格,所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきである。右事情を 捨象して,すべての医療機関について要求される医療水準を一律に解するのは 相当でない。・」と判示した。また,各医療機関によって異なり得る医療水準の 間隙を充填するため,最新の医療水準が浸透しずらい医療機関に転医義務を認. め, 「-予算上の制約等の事情により,その(光凝固法の)実施のための技術・ 設備等を有しない場合は,. ・-これを有する他の医療機関に転医させるなどの適 切な措置を採るべき義務(がある。)」と判示した。 姫路日赤事件と,高山日赤事件・昭和47年事件の判断が異なった理由であ るカ.‡,主たる理由は,未熟児網膜症の雁患時期,すなわち事件発生時期による 差異による。昭和50. (1975)年8月,厚生労働省特別研究班は,. 「未熟児網膜. 症の診断および治療基準に関する研究報告」と題する報告書を公開し,光凝固 196. ■.

(19) 医療裁判の研究. 法の有用性を一般化したため,裁判所は,この時点を医療水準の確定時とみて, 判断を区別したからである。 もっとも,姫路日赤事件も本報告書の公開以前の事件なのであるが,時期的 にも本報告書の公開時期と近接しており,医療水準の完成期にあったといえ, また,当時の姫路日赤には,光凝固法の有用性を知悉した小児科医が複数在籍 しており,眼科との連携を図っていた事実を認定しており,開業医レベルより も高レベルの医療水準を要求しても酷ではないとの配慮があったものと推測さ れる。. また,姫路日赤事件判決は,医療水準の相対性を肯定する関係から,末端の 医療機関に属する医師の研鐙義務を認める余地を残したものであったが,本判 決に続いたペルカミンS事件(最三小判平成9年2月25日). 17)は,まさに医療機関. の研鐙義務について言及するものであった。事案であるが,患者が腰椎麻酔薬 ペルカミンSを用いた虫垂炎の切除手術を受けた際,麻酔管理の方法として, 担当医師が看護師む■こ対し,同薬添付文書(効能書)の注意書き(2分間隔の血圧測 定)と異なる,当時における一般的な医療慣行であった5分間隔の血圧測定を 命じたところ,注入後4,. 5分の時点で意識レベルや血圧の急激な低下,呼吸. 不全などの症状が発琴し,その結果,虫垂炎の手術は成功したものの,患者に 重篤な後遺症が遺残したというものであった。裁判所は,. 「-医療水準は,医. 師の注意義務の基準(規範)となるものであるから,平均的医師が現に行って いる医療慣行に従った医療行為を行ったからといって,医療水準に従った注意 義務を尽くしたと 直ちにいうことはできない。. -医師が医薬品を使用するにあ. たって文書(医薬品の添付文書)に記載された使用上の注意義務に従わず,それ によって医療事故が発生した場合には,これに従わなかったことにつき特段の 合理的理由がない限り,当該医師の過失が推定されるというべきものである。」 と判示し,平均的医師が現に行っている医療慣行は必ずしも医療水準とはなら ないこと,その反面として,医師は,現状にとどまることなく,新しい医学的 知見を求めて常に研摸し,医学界全体の医療水準の底上げに務める義務がある 197.

(20) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). ことを明らかにした。. 判例理論の変遷は,概ね以上のようなものである。. (4)新しい医療水準より演緯される研律義務・転医義務の在り方 医療側の注意義務を拡大することは,患者側の期待権の拡大を意味する。し かし,医療水準に関する従来の考え方に対する批判は,そのまま額面どおりに 受け取るべきなのか否か,らまり,医師一般に対して,転医義務や研律義務を 法律上の義務として一般的に強制するのが果たして妥当なのか否か,実情を踏. まえてもう少し深く検証すべきように思われる。 臨床現場においては,開業医が大学病院・総合病院等に患者を転送したり, 医療機関の内部において,他科に患者を転送すること,また,救急救命士や看 護師などのパラメディカルスタッフから申し送り(引き継ぎ)を受けて医師が 診察に当たることは,至極当然なルーチンの作業なので,転医義務を診療契約 なる双務契約上の債務として観念するまでもない。また,転医はいわば「診断」 の一部というべき行為であり,原則として医療の専門家たる医師の裁量に属す るのであるから,明白な裁量の逸脱がない限り,無闇に法律上の責任を問うべ きではない。因みに,一連の最高裁判例も,光凝固法という先端的治療法をめ ぐる給合病院間の転医義務についての判断であり,開業医と総合痛院の間や, 同一総合病院内における各診療科間の転医義務に関する一般的な判断ではない ことに注意すべきである。. 研鐙義務についても,これを法律上の義務として一般に強制するほどに,医 師一般に向上心がないとは到底思えない。 けだし,医師養成機関である医学部医進課程のおいては,各年次毎に留年制 度が設けられているほか,留年可能年数も厳格に規定されており,さらには, 成績低迷者は国試の受験を認めない処置をとるなどし,国試合格者の質の維持 に努めている。また,第5. ・. 6学年次には,各診療科の臨床を体験する講座. (俗に,ポリクリと呼ばれる)が必修科目として設定されており,学生は国試の受 198.

(21) 医療裁判の研究. 験準備と臨床体験を強いられることにより,医道の厳しさを肌で体験するので ある。そして,医師免許取得後においても,研修医制度があり,各診療科に配 属された研修医(俗に,フレマンと呼ばれる)は,指導医(俗に,オーベンと呼ばれ る)の厳格な指導の下,基本的な診察方法や術式を修得する。この研修終了段 階で,研修医が臨床現場に対応できるスキルを修得したと認められると,研修 担当機関が「専攻医」として認定するのである。その後もさらに研鋒は続き, 次は「専門医」を目指す。研修を終えた専攻医は,法律で規定された診療科を 設置しており,かつ,一定数以上の病床を有する医療機関において,一定年数 を超える常勤医を経験すると,. 「専門医」 (診療科によっては,指定医,あるいは認. 定医などと呼ばれることもある)試験の受験資格が得られ,この厳しい試験(診療 科にもよる■が,筆記・口述の双方を実施するのが通常である)をクリアして,漸くス. タートラインに立つのである。ここ至るまでに,医学部入学後,十数年の歳月を 要するのであるが,大抵の医師はこの段階まで昇ってくるものである17)。. その後は,勤務医を経て開業する医師もいるが,勤務医・開業医の如何を問 わず,研鐙活動は盛んである。筆者には,身内を含めて十数人の知人医師がお り,筆者も医学系の学会に参加することもある。例えば,千葉県の大学病院関 係者を中心に構成されるCritical. Care. Medicine. (救急医学に関する学会)峠,医. 師免許と法曹資格を併有する専門家を招請するなどして,学際的な考察を深め. るなどの研鋒活動を行っているが,門戸は広く,参加者の範囲は医師のみなら ずパラメディカルスタッフにも及び,参加者数も多く活況を呈している。製薬 会社との共催であることも相侯って資金も潤沢であり,密度の濃い報告を聞く ことができる。また,多くの医師は臨床と研究を経験しているので,質疑応答も 的確かつ活発であり,理論と実務が尭離しがちな文系学会とは様相を異にする。・ 以上のような実情に鑑みると,転医義務については辛くも肯認できるとして ち,研鋒義務は余りにも専門家としての地位に不相応な義務というべきであり, これを法律上の義務として医師一般に強制するのは如何なものかと思料する次 第である。 199.

(22) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). また,患者側の意識の変化も,考慮すべき実情の一つである。 近年における国民の権利意識の向上,医事法領域でいえば,患者の主体性の 確立,すなわち自己決定権の承認という動きを誤って捉え,例えば,セカンド オピニオンの有用性をドクタニショッピングと勘達し′、し,自らの要望■を受け入 れる医師に出会うまで医療機関の変更を繰り返す患者も存在する。しかも,従 前の医療機関を申告しないため,処方薬の重畳による薬害を来たすドクターシ ョッピングドランカーすら存在するのである。このように,・医師が患者の要望 を無条件に呑むべきことを当然視し,患者の要望と異なる術式選択した結果が 思わしくない場合の責任は,全て担当医師の研鋒不足や,適切な医療機関に転 医させなかったことに起因するとして,全責任を医師側が負うべきと考えるク レーマ一息者も多いのである。 このような,ヒステリックな考え方の背景には,特定の市民団体と癒着した マスコミによる医療バッシングの風潮や,警視庁や裁判所付の記者クラブによ る,事実上統一された意見によるスクラム報道の影響がある。 最近の判例・学説による,転医義務・研鐙義務の捉え方は広きに失するよう に思える。例外的な事象を以って本則とする理論は本末転倒の語りを免れない。 元来,転医義務・研鋒義務は,診療債務に付随する従たる債務というべきもの であるから,転医義務については明白な裁量逸脱,・研鐙義務については著しい 不見識というべき例外的な事情がない限り,安易に当該義務についての注意義 務違反を認定すべきではないと考える。. (5)本判決の検討 医療民事裁判を,民法学おける債務不履行・不法行為理論の枠内で解決しよ うとする限り,少なくとも,裸の期待権を保護すべきではない。けだし,過失 に基づく医療行為と悪しき結果との因果関係の証明を不要とした分,延命可能 性(-患者死亡の時点における生存率)の証明を要求することによって歯止めを掛 けないと,無因果関係責任論・結果責任を是認することになるからである。ま 200.

(23) 医療裁判の研究. た,医師に対して結果責任を問うことは,経験科学としての医学の本質にも反 する。つまり,医学は,自然科学の領域に属する諸学問と異なるので,医療行 為の適否に関する正確な事後的検証は不可能である。即ち,類似の臨床例は存 在しても,全く同じ臨床例は存在しないからである。この意味において,本判 決が, 「死亡当時なお生存していた相当程度の可能性」を要件事実としている のは妥当である。. 2. 第5 (2)について. ㌔(1)患者死亡の時点における生存率の具体的数値如何. 患者が,死亡の時点で生存していた「相当程度の可能性」を,期待権侵害を 主張する際の要件事実としたとして,その中身ともいうべき具体的な数値(患者死亡の時点における生存率)は・どの程度のものであることを要するのか,が 問題になる。. この点,因果関係の証明は,東大ルンバ-ルショック死事件(最判昭和50年 10月24日). 18)において示されたように,自然科学的な100%の証明は不要であ. るも, 「・-特定の事実が特定の結果発生を招いた関係を是認し得る高度の蓋然. 性を通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものとして証 明するものであること-」を必要と考えられており,最低でも70-80%程度 の証明をなすことを要するとされていた。 期待権侵害論の法的構成に関するリーディングケースとなった平成11年判 決も,本判決を受けて,. 「患者が死亡当時においてなお生存していた高度の蓋. 然性」の証明を要求しており,生存率が70-80%.に達することの証明を要求 していたものと思われる。これに対して,平成12年判決は,. 「患者がその死亡. の時点においてなお生存していた相当程度の可能性」の証明を要求しているこ とからわかる羊うに,. 「蓋然」に対して「相当」なる表現を用いて文言を区別. し,前者よりも低い程度の証明で足りることを明らかにしている。しかし,実. 際にどの程度低いのかについては判示していないので,実務の指針を形成すろ 201.

(24) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). ためにも,これをある程度具体化しなければならない。 この点につき,平成12年判決は,. 「-適切な救急治療が行われたならば,確. 率は20%以下ではあるが,救命できた可能性は残る。」とする鑑定意見を容れ て判断しているが,鑑定書とは別個に意見書も提出されており,生存率を 70%-80%と診断するものも存在し,こちらも証拠として採用されているこ とに鑑みると,鑑定書記載の20%という数値のみを根拠に判断したとは思わ れない。ゆえに,本数値を一般に敷街するのは早計である。 なお,医療訴訟に詳しい実務家の中には, る。その理由として,最低限度,. 50%程度と解する論者も存在す. 「疎明」と同程度の立証を要求すべきことを. 挙げている。訴訟を熟知した秀逸な見解というべきであり■,傾掛こ催する19)。・. (2)本判決の検討 平成16年判決は,平成12年判決の論理を受けて下された判決であるが,平 成12年判決と同様に,生存率に関する具体的数値を明らかにしていない。従 って,その具体化は,今後の判例の集積を侯つ他はない。ただ,現時点におけ る私見としては,以下のように考える。かりに生存率を低率で差し支えないと すると,延命可能性を要件とした意味を失うので,裸の期待権を保護すること と変わりがなくなり,前記1.の(2)で示した批判がそのまま妥当する。ま た,訴訟法的に見ると,. 「証明」の程度が「疎明」よりも低いというのも不合. 理である。ゆえに,生存率が50%以上存在したことの証明を要求すべきである。. 3. 第5. (3)について. (1) 「相当程度の可能性」についての証明 平成12年判決のスキームは,既往の通り,原告患者側において,. 「医療水準. に通っていない医療が実施されたこと」と「悪しき結果」との因果関係の証明 を不要としつつ,なお「医療水準に適った医療を実施したと仮定した場合」と 「患者がその死亡時点においてなお生存していた相当程度の可能性」の存在と 202. 、.

(25) 医療裁判の研究. の因果関係(事実的因果関係・不作為の因果関係)の証明を必要とし,その証明の 程度は「相当程度の可能性」である,と解するものであった。ただ,これを裁 判所の事実認定という側面から見た場合,. 「相当程度の可能性」に関する心証. を,果たしてどの程度まで得られれば,これが存在したと事実認定すべきなの かについての判断が,裁判所ごとにかなり異なるようである。 本件についても,原審は,本件患者Aにつき,いかなる療法を採用すべきで あったのか,また,適時に適切な療法を施したとすれば,果たしてどの程度の 期間延命し得たのかについての証明がないから,化学療法のみならず,それ以 外の方法を以ってしても,. Aが,その死亡の時点においてなお生存していた相. 当程度の可能性を証するに足りる証拠はない旨判示していることから分かるよ うに,原審は,単に抽象的な延命可能性を窺い知ることができる程度の証明で は,いまだ裁判所としては心証を得られないと解したが,上告審(本判決)は, 病状が進行した後に治療を開始するよりも,疾病に対する治療の開始が早期で あればあるほど良好な治療効果を得ることができるのが通常なので,本件にお ける延命可能性の存在は経験則に照らし明らかであるとして,これを存在する ものと認定している(もっとも,裁判所は「経験則」ろごる文言を用いていない。. 「通. 常」という文言の合理的解釈に過ぎないことをお断りする)。. (2)本判決の検討 確かに,原審認定の事実関係として,. Aの病状等に照らして化学療法等が奏. 功する可能性がなかったというのであればともかく,そのような事情の存在が うかがわれない本件では,上記時点でAのスキルス胃痛が発見され,適時に適 切な治療が開始されていれば,. _Aが死亡の時点においてなお生存していた可能 性があったものと認定されていることに鑑みると,具体的な療法や延命期間の 証明がなくても,なお,.裁判所が「相当程度の可能性」なる要件事実を証明し たとの心証に達したと判断したことがあながち不当とはいえない側面もある。 しかし,私見としては,本判決の少し前に出された最高裁判例,つまり『開 203.

(26) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). 業医が,急性脳症に雁思した患者を適時に鎗合病院に転送していれば,患者に 重篤な脳原性運動機能障害(精神年齢2歳前後・言語能力なし)が遺残しなかった 相当程度の可能性があるとされた事例』において(最三小判平成15年11月11日). 20),. 「相当程度の可能性」の認定につき,証拠として採用した,患者の完全回復率 に関する統計的な資料等を詳細に検討し,統計的な数値(完全回復率22.2%)と, 転医すべき時期における患者の容態(通院中改善の兆候なし・点滴中の曜吐や意識 障害の発現など)を併せ考慮して,重篤な後遺障害が遺残しなかった相当程度の 可能性の有無を検討すべきである判示し,この点について更に審理を尽くさせ るため,単なる数値のみで判断した原判決を破棄し原審に差し戻していること に鑑みると,本判決が,具体的な治療法や延命期間の証明もなしに,単なる経 験則のみに依拠して,. -かかる要件事実の存在を認定したことに対しては,やや 安易に失するのではないかとの疑問を呈する次第である。. (3) 「相当程度の可能性」に関する証明責任の所在(立証責任の転換) 因果関係の証明に関する本判決の論理は,. 「-特段の事情がない限り, Aが. 実際に受けた治療よりも良好な治療効果が得られたものと認めるのが安当であ る-」との判示内容から明らかなように,このまま素直に読むと,被告医師側 に,. 「仮に適時に適切な治療を施したとしても,良好な治療効果を得ることが. できなかったことの医学的な証明」をなすべき証明責任を課したようにも解釈. し得る(立証責任の転換)。実際にも,原告患者側の上告受理申立理由には,忠 者側に「相当程度の可能性」の存在を証明させるのは妥当でない旨の記載が見 られるので,本判決は,かような要求を容れて原判決を破棄し,原審に差し戻 したと解釈する余地もあるが,かような解釈は妥当なのか否かについて検討し なければならない。. この点につき,医療訴訟に詳しい実務家の中には,本判決は,単に,原審が 採用した各証拠関係から認定した事実関係に基づき,早期め治療開始は,その 治療が遅れたときよりも延命効果を生むとの経験則を通じて,最高裁自身が, 204.

(27) 医療裁判の研究. 相当程度の可能性に関する立証があったものと判断したに過ぎないと解すべき であり,原告患者側に証明責任があるとする従来のスキームを変更するもので はないと説明する論者も存在する。本見解は. 訴訟を熟知した秀逸な見解とい. うべきであり,傾聴に催する21)。. (4)本判決の検討. 立証責任の転換を認めると,患者死亡の時点における生存率を低率に抑えた 場合と同様に,証明責任あるところに敗訴ありとの法諺の通り,. 「相当程度の. 可能性」の証明は多くの場合において奏功しないことが予想され,これを要件 事実とした意味を失う虞れがある。換言すれば,仮に立証責任の転換を認める と,医師の過失が肯定された事例の多くにつき,無因果関係責任論を肯定する ことにもなりかねず,前記1.の.(2)で示した批判がそのまま妥当する。ゆ えに,本判決は,あくまで民事訴訟における証明責任の分配の法理(法律要件 分類説)の枠内の判断であり,原告側に証明責任があることを前提とした判断 と解すべきである。かような見地からすると,本判決は,本件の事実関係に着 目した事例判決に過ぎず,. 「相当程度の可能性」の立証に関する先例としての. 価値は低いと考える。. 第7. 結. 語. 本判決に反対し,原判決に賛成する。 期待権侵害の法的構成については,平成12年判決の論理を踏襲した本判決 を妥当と考えるが,訴訟法的な側面,つまり「相当程度の可能性」に関する 「証明」の在り方については反対する。私見としては,いわゆる裸の期待権の 保護を否定した趣旨に鑑みて,患者死亡の時点における生存率については, 50%程度を必要とすべきことを明確にすべきであり,事実上の立証責任の転 換についても,これを認めるべきではないと考える。 205.

(28) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月). なお,本判決以降の判例の集積に委ねられた論点として,期待権侵害論にお ける「損害」認定の在り方がある。この問題について,現在までに形成されて いる判例理論・有力学説の見解を総合すると,概ね以下のように整理すること ができる。. まず, 「損害」の性質であるが,患者が最善の治療を受けられなかったため に,延命期間を喪失したことに起因する精神的苦痛を慰謝するための慰謝料と しての性質を有すると考えられている。つぎに,損害の認定基準であるが,延 命期間の長短のみならず,過失の認定における注意義務違反の程度(-医療水 準からの逸脱の程度)など,諸般の事情を総合的に考慮して判断されている。さ らに,認容額については,財産的損害と比較すると比較的低額である。具体的 には,. 「悪しき結果」との因果関係が肯定された場合と比較すると,その凡そ. 10分の1程度,つまり数十万円から数百万円程度である。因みに,既に確定し ている,平成12年判決む言おける認容額は200万円である。但し,近年において, 一千万円を超える損害額を認容する事例も現れ,高額化の傾向にある。もっと ち,近年,期待権侵害に基づく「損害」の範時に財産的損害を含めるべき との 主張があり,平成11年判決も財産的損害の賠償可能性について否定的な判断 をしていないことに鑑みると,本判決に対する影響の有無について,差戻を受 けた原審の判断が侯たれるところである。 最後に,医療民事訴訟の在り方全体にかかわることであるが,裁判例を,過. 失・因果関係・損害などの諸項目について疾病別に類型化することにより,あ る程度統一的な紛争解決基準を明らかにすることも可能なように思われる。か ような試みは,強制的な自賠責制度との連携のもとに運用されている交通事故 民事訴訟において,保険会社の協力により既に具体化されているが(いわゆる 赤本・青本),医師の大半が責任賠償保険に加入している現状に鑑みれば,医療 民事裁判においても実現可能と思われる。そうすれば,多くの事件が和解や調 停により解決している実情(例えば,東京地裁医療集中部設置後約3年間の,仝既済 事件における和解や調停成立の割合は約6割にも上るという事実)にも合致し,紛争 206.

(29) 医療裁判の研究. の早期解決に資するものと思われる22)。 以. 上. 【註釈】 1)大塚直「不作為型医療過誤による患者の死亡と損害・因果関係論一二つの最高裁判決を機縁と して」ジュリスト第1199号9頁(有斐閣2001),平沼高明「専門家責任保険の理論と実務」247 頁(信山社2002),加藤新太郎「医療過誤訴訟における因果関係」川井健・田尾桃二編転換期 の取引法一取引法判例10年の軌跡357頁(信山社2004) 2)判例集未登載 3)期待権侵害論の淵源・沿革・比較法的考察については,高畑順子「 点-Perte. d、une. 『損害』概念の新たな一視. Chance論が提起する問題を通して-」法と政治第35巻第4号641頁(1984). 津野和博「機会の喪失理論について(1). ,. 」早稲田大学法研論集第77号99頁(1996),同(2). 同第78号95頁(1996),同(3)同第80号87頁(1997),同第81号163頁(1997),高波澄子 「米国における『チャンス喪失論』. (-). 」北大法学論集第49巻第6号39頁(1999),同(二. 完)第50巻第1号138頁(1999)など。なお,期待権侵害論に関する総論的な先行業績は多 数存在するが,最新の文献としては,小賀野晶-「医療事故訴訟における因果関係」伊藤文 夫・押田茂賓編医療事故紛争の予防・対応の実務-リスク管理から補償システムまで-79頁 (新日本法規2005),植草桂子「医療事故訴訟における損害論一延命利益・期待権・機会喪失等. -」前掲伊藤・押田103頁があり,現時点におけろ判例・学説の動向を,図表を交えて分かり やすく整理している。 4)判例時報第8.67号90頁 5)判時第1082号72頁 6)判例タイムス第468号131頁 7)横井節夫「判例評論」判例時報第883号137頁(判例時報社1978),饗庭忠雄「医療事故の焦点」 日本医事新報第2950号106頁(日本医事新報社1980),稲垣喬「医療訴訟と医師の責任」320 頁(有斐閣1981),塚田敬義「期待権の成否について」日本医事新報第3618号91頁(日本医事 新報社1993)など 8)石川寛俊「延命利益,期待権侵害,治療機会の喪失」太田幸雄編・医療過誤訴訟法(新・裁判実 務体系1). 306頁(青林書院2002). 9)平沼高明「医事紛争入門」239頁(労働基準調査会1997) 10)水野謙「損害論の現在-権利侵害ないし法益侵害との関係に着目して」ジュリスト第1253号 195頁(有斐閤2003) ll)民集第53巻第2号235頁,前掲(1)大塚・加藤 12)判時第1039号66頁 13)民集第15巻第2号244頁,最新の文献として,山口斉昭「医療水準一往意義務の基準」前掲伊 藤・押田47頁 14)判夕第812号177頁,前掲山口 15)民集第49巻第6号1499頁,前掲(1)平沼120頁,. 207頁,前掲山口 207.

(30) 横浜国際経済法学第14巻第3号(2006年3月) 16)判夕第1571号51頁,前掲山口 17)杏林大学医学部のシラバス・杏林大学医学部付属病院における医師養成システム,および, 日本大学歯学部のシラバス・日本大学歯学部付属病院における歯科医師養成システム等 18)民集第29巻第9号1417頁 19).伊藤佑輔弁護士(昭和大学医学部客員教授・法学博士平沼高明法律事務所所属)の見解 20)民集第57巻第10号1466頁 21) 19)に同じ 22)平沼直人弁護士(平沼高明法律事務所所属)の示唆による。なお,平沼高明法律事務所は (秩)損保ジャパンの顧問であり,かつて交通事故民事訴訟における、損害賠償額の定額化 (赤本・青本)を実現した実績がある。なお,高野真人「自賠責・労災等システムとの比較による医 療事故補償システム」前掲伊藤・押田405頁. 【参考文献】 手嶋豊「医師の責任」川井健・塩崎勤編専門家責任訴訟法(新・裁判実務体系8). 240頁(青林. 書院2002) 平沼高明「医師賠償責任保険」同上265頁 山川一陽「医療事故の概念とそれによる医療機関.医師の責任」前掲伊藤・押田3頁 加藤憤「医師賠償責任保険」平沼高明先生古稀記念論集「損害賠償法と責任保険の理論と実務」 348頁(信山社2005) 若松陽子「医療過誤訴訟の到達点」歯科医療過誤訴訟の課題と展望一新しい医療の指針を求め て-19頁(世界思想社2005). 208.

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