子どもに必要とされる美の経験 -美的人間形成論の観点から-
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(2) 1論文題目 子どもに必要とされる美の経験 一美的人間形成論の観点から一. E.論文目次 本研究の課題. 序章. 1∼7. 1.問題の所在. 2.先行研究と本研究の特色 3。論文構成 註. 第1章 第1節 第2節. 西洋美学の歴史 近代以前の美学. 8∼16. 近代美学の成立. 17∼24. 註. 第2章. 美的人間形成論の問題. 第1節. クラウス・モレンハウアーにおける美的人間形成論. 25∼33. 第2節. 芸術が人間形成に及ぼすカ 一音楽に着目して一. 34∼40. 第3節. 子どもにおいての美的人間形成の意味. 41∼46. 註. 第3章 第1節 第2節. 教育における美的なもの 芸術教育における子どもの内的な能力. 47∼52. 芸術教育の現代的課題と可能性. 53∼57. 美の経験によって育まれる子どもの創造性. 58∼61. 註. 終章 註. 参考・引用文献一覧. 62∼63.
(3) 序章. 1.問題の所在 近年は情報化・機械化が進み、何においても便利な世の中である。しかし、生 活が便利になることで、思考や発想の柔軟性、創造性が失われっっあるとも言わ れている。その原因として、現代社会における目的合理性、計画可能性、効率性 の追求などが挙げられている。. このような社会の中で生活している子どもたちの問題について、音楽療法の理 論と実践を人間形成論の立場から考察している真壁は、次のように指摘している。. インドで出会った子どもたちと日本の子どもたちとを比べると、日本の子どもた ちには、臨機応変さ(即興性)が欠けている。その原因として、考えられるのは、. 恵まれた物質的環境にあることである。偶然性や逸脱や特殊性や無駄がなくなっ てしまっている環境の中では、 「思わぬ」喜びや「予想しない事態」への即興的. な対応が考えにくい。そのため、日本の子どもたちが「生きる意味」の実感や 「生の喜び」に裏打ちされた「生の強度」を失ってしまっているのではないか、 というのである(1)。. このような現代の子どもたちは、社会で生きていく上で様々な問題を抱えるお それがある。例えば、決まった枠内で処理できないことにぶつかることもあれば、. 思っていた通りの結果を得られないこともある。そのような場合、どう対処する のかといった壁にぶつかったとき、価値あるものに気づく感覚や、感覚から生じ る思考や発想の柔軟性、創造性が必要となってくるのではないだろうか。. 人は、生きていく過程の中で、体験や経験、認知の様々な階段をこえ、意識や 自己反省や文化的順応といった、多くの形式を通過して死にいたる。この過程で 何が起こっているのかが、人間形成において重要となるであろう。. それでは、先に述べたような現代社会の子どもたちは、この人間形成の過程の 中で、子どもに必要とされる想像力を育むことはいかにして可能か。この問いに、 本研究では美的人間形成論の観点からアプローチする。. 1.
(4) 2.先行研究の検討と本研究の特色 従来の、美的な出来事の人間形成的意味に関する考察は、様々な方面から行わ れてきた。1つは、子どもたちの発達段階において、発達という形式に従って心 理学的に研究する方法である。その他には、音楽療法や芸術療法といった心に病 気を抱えた患者に美的な経験がどのように作用するのかという療法的なもの。そ して、学校教育の中で、いかにして子どもたちが美的なものを制作し、受け入れ 楽しむことができのるか、といった事柄である(2)。これらは、美の作用において. 考察されてはいるが、美そのものの意味においては、問われてはいない。なぜな ら、発達的な面では、子どもたちの発達といった事実に視点がおかれ、副次的に. 美が作用している。心理的な面では、心を癒すといったことにあらかじめ、美が 限定されている。教授学的な面では、美的人閲形成の意味ではなく、評価などの. 規範的な面を基盤として考えられている状態から問いが立てられているからであ る。. これらの美的なものに対するアプローチの仕方に対して、ドイツの教育学者モ レンハウアーは、美的人間形成に関する哲学的考察についての今までの仮説を、. 実験的・経験的方法で集められた具体的素材を参考に最初から考え直すことを試 みた。. 彼によれば、一般的に教育において人間形成とは、規範的な到達点から発想さ れている。つまり、人間形成の過程は、人間形成が達成すべき結果からしか見ら れなくなっている。このような人間形成は、望まれた結果が目的に即応した教授 行為によって引き起こされるべきだとする論理に従っている。この原因として、. 第1に人間形成の概念を学校に持ち込んだこと。第2に諸教科を動員するための 理論・実践として教授学が生まれたことがあげられる(3)。このように、目的合理. 性、計画可能性、効率性を追求する社会と学校教育における規範的な教育が、子 どもたちの可能性を妨げているというのである。. モレンハウアーは、教育者の教育活動が、子どもの精神発達の援助者としての. 2.
(5) 役割を引き受けながらも、同時に子ども自身を、その可能的な発達から排除して しまっていると指摘している(4)。では、どうすることが子どもたちの可能性を伸. ばすことになるのか。モレンハウアーは、美的経験を、この問題解決の糸口とし. て考察している。美的経験は、経験主義的な手続きの基準に従って評価するとい う点で他の経験とは異なる。評価を行うためには、うまくいったのかそうでない のかを判定する基準が必要となる。そうした基準は、人間形成の美的部分の場合、. 理論的、実践的というように容易にはいかない。理論的態度の場合、経験科学的 に信頼のおける概念、実践的態度の場合、根拠づけられた道徳的判断があげられ るが、美的態度の場合、美的な対象を読み解く以外ほかならないのである(5)。そ. こでモレンハウアーは、美的な経験とは教授学を打ち破るような経験であるとし、 この経験を新たな形式として教育学に導入することを提案している。. 本研究では、このように指摘するモレンハウアーに依拠し、美を経験するとは どのようなことなのか、美を経験することによって、子どもたちは何を得ること. ができるのか、そして、いかにして子どもたちの可能性を広げることに繋がるの かということを考察し、子どもにとっての美的経験の重要性について述べる。. また、彼が試みた美的経験を語る際に、論述的談話の形式ではなく、メタファ ーという仮のものを通して語る形式を、教育のどの部分に見ることができるのか、. 果たしてメタファーから子どもの美的経験を見ることができるのかという点を現 代の教育問題と共に考察する。そして、最終的に、子どもたちが日常生活の大半 をすごしている学校の中で、判断が難しい美的経験が、どのように取り入れられ るのか、子どもの美的経験の意味、美的経験の必要性について検討することが課 題である。. 3.
(6) 3.論文構成 美的なものが人間形成にどのように、影響を与えるのか。美を経験することで、 子どもたちは何を得るのか。. 第1章では、時代ごとに美というものを捉え、現代の美に至るまでの流れを述 べる。まず、古代ギリ、シアでの美は、美悪合一なる人間が美善合一なる神に近づ. くという人間の営みをなしていた。つまり、常に芸術が神と1っに合わされると いう、宗教的な目的で考えられていたのである。それが、徐々に宗教が芸術を呼 ぶのではなく、芸術が宗教に至るようになる。そして、プラトンによって、この 神秘主義と理性的に構成された合理主義とが統一される。続いて、アリストテレ スは、芸術の固有性や自律性を明確に認識することで、美から芸術への比重の移 動を試みた。・彼によれば、美を見ようとする者は、まず神になることが求められ、. 美しいものとならなければならない。このように、近世における美とは、美を感 じる人間そのものに関心が寄せられていた。. 美学は、18世紀前半に、バウムガルテンによって、美や芸術に関わる感性によ る下位認識の学として新たな学問「美学(感性学)」 と命名された。近代に入る. と、美学は、カントに始まる様々なドイツの観念論によって、哲学の一分科とし て導かれた。そして、近代美学は実証主義と人間主義とによって、近世美学の反 論を形成した。それは、近世美学の宗教性における人間主義に対して、近代美学 は物質的経済的条件の根源性を主張した。また、人間主義から感情移入の心理主 義美学となってあらわれる。そして、しだいに美ではなく芸術を体系的に研究す ることが盛んとなった。. 第2章では、モレンハウアーの美的人間形成論について考察し、美の中でも音 楽に着目する。彼は、子どもの音楽即興という芸術的な経験を表現する態度を 「美的メタファー」と規定した。子どもの音楽即興をただ単に、歴史的・文化的. 解釈や発達論的な枠組みの中で処理するのではなく、美的経験そのものとして扱 う。子どもの「内的なもの」に関係する事柄として考えるとすれば「内的世界」. 4.
(7) との関連は避けて考えることはできない。そして、子どもが表現することは、す でに存在する自分を出すことにとどまらず、新たな自分を試みることである。あ る音形象に出会い悟性と想像力が戯れることで、過去に遡り新しい「自己」を編. 成する。音の形は感覚したものを表現するだけではなく、その基盤を新たに編成 する力をもつ「美的メタファー」となり、自己を編成する媒体となる。美的経験 でのこのやり取りが、現代の子どもたちの即興性を育むのである。. 第3章では、現代社会に生きる子どもにとって必要な教育について検討する。 学校では、芸術教育に限らず教育活動全般に渡って、子どもの可能性を狭めてい る。決められた範囲で行われる教育は、子どもたちの可能性を引き伸ばすどころ. か妨げる傾向にある。社会に対応するためには、感受性・柔軟性・創造性が、子 どもたちに求められている。現代の教育では、知的能力の過大な評価が行われて. いる。そこで、感覚による基本的経験に立ち返えることが、美的教育に求める点 ではないか。現代の学校教育では「ゆとり教育」と言われるものの、授業数にゆ とりを持てば「学力低下」だと言われる。社会にでるためには、ある程度の知的 能力も必要である。しかし、それだけでは社会では生きていけない。しかし、 「ゆとり教育」を設けたところで、子どもの人間性を育むといった確信には至ら. ない。感性と知性が統合されてこそ、最良の人間が造られるのである。その経験 が、美的経験なのである。. 終章では、美的経験と創造力の関連性について述べる。美的な経験をすること で必然的に創造性を育むことになる。そして、創造性は、美的経験の過程のなか で主要なものである。なぜなら、創造性を表現する際、モレンハウアーが述べた 「美的メタファー」により、自己を形成する。 「美的メタファー」を手がかりと. して、自己を省みることで、未知の自己を見出すのである。大人ができることは、. 創造性を育てる教育の実践的な面を重要視し、それを基盤として子どもの個別的 感覚経験を越えた感性認識を考慮しなければならない。その中で、メタファー的 レベェルに着目する。学校の中で、教師に求められることは、子ども自身が取り. 5.
(8) 巻く世界全体と様々に相互作用し経験する中で、創造性や想像力を加えて子ども 自身のものにする、環境を整えることである。そして、子どもたちの自己反省的. なメタファーに目を向け、自己を引き出すよう促すことが大切である。他の経験 では、得ることのできない力を子どもに身につけさせることがこの美的経験での 重要な点である。. 6.
(9) 註. ω真壁宏幹 「音楽療法における『遊戯性』一人間形成論的観点から」 日本音 楽療法学会誌、第2号、2002年、92∼100頁。 (2)Kモレンハウアー 『子どもは美をどう経験するか 美的人間形成の根本問 題』 今井康雄訳、玉川大学出版部、,2001年、346頁。 (3)同上書、12頁。 (4)同上書、13頁。 (5)同上書、14頁。. 7.
(10) 第一章. 西洋美学の歴史. 第一節 近代以前の美学 1. 古代. ①美学の準備段階. 西洋の学問を歴史的に考えるとき、ギリシアより考え始める必要がある。J・ バーネットが、『ギリシア哲学』の中で「学問的に考えるとは、ギリシア風に考 えることから始まった」と述べているように、西洋の古代においてギリシア以外 の多くの地域で見出された文化は、ギリシアが基となっている。また、人間の立 場に立って理性的に考察する思想運動が継続的に展開されたのは、ギリシアに始 まる(1)Q. ギリシアでは、美というものは、表面的な美しさとして考えられていた。美は 外的なもので、精神的には負の意味しか持たされていなかった。しかし他方では、 古代ギリシアの詩人であるホメロスによれば、神は、常に「白く輝く」腕を持ち、 「碧く輝く」瞳を持つとも言われているように、最高の美としての神々の美は、. 光になぞられていると考えられていた。そして、その光は人間の内的な生活の名 誉や徳という導きの象徴でもある。それゆえに、古代ギリシアの美において、い かにして美悪合一なる人間が美善合一なる神に近づくのかといった人間の営みを なしていた。したがって、宗教的な祭礼には、常に芸術が伴った。そして、芸術 は祭礼において人間が、美善合一なる神に従うことで自己を清めることを意味し ていた②。つまり、芸術を創作することこそが、美善合一なる神に人間が自己を ゆだねることなのであった。. しかし、常に芸術が神と1つに合わされているといった、宗教的な目的で扱わ れているということではない。例えば、詩を歌う場合、堂々たる英雄の劇的生涯 や美しい風景などを歌いあげる。そのために神の助けを求めるのであって、美し い詩を作るという芸術的目的を遂行する過程で、副次的に、人間は美善合一なる 神に一致せざるを得なくなるのである。つまり、宗教が芸術を呼ぶのではなく、. 8.
(11) 芸術が宗教に至るのである。それゆえに、人間的な自覚において作品化した、こ の時代の悲劇詩人たちは、徳や思想が死や惨劇に直面する事実を理性的に解決し ようと、神話的な運命を倫理的価値と論理的思考に基づいて美意識のうちに彫り 上げた。これがプラトンの美の思想の基盤となるものである。. アリストパネスは、『蛙』の中で、悲劇詩人アイスッキュロスとエウリピデス とを比較して、前者が死を主題としているから、説得を主題としている後者より. も悲劇として優れていると述べている。これは、世界で最初の知的な文芸批評で ある。こういつた理性による芸術論の傾向は、宇宙の秩序を数学的に構成したピ タゴラス学派の中でも、音楽論として展開されている。それは、調和的な音階が. 弦の長さの数学的比例に基づくという発見により1美的なものは、理性的に構成 されると考えられた(3)。美において、この合理主義と神秘主義の統一としてあら われたのが、古典期を代表とする思想家プラトンである。. ②プラトンにおける美学の創設 プラトンの教育思想は、理想的な国家の一員を作るところにある。彼の教育論 は、人間のもともと持っている認識の器官と能力が、現象の世界からイデアの世 界へと向けさせることにある。つまり、人間の潜在的能力、内なる能力を正しい 方向へと発展させることである。彼の美的な判断力は、正善の徳に一致するよう な境地に到達させるところにあった。. プラトンによって、美学は理論的ないし、哲学的にも深められた6プラトンに おける美の概念は、感覚的なもののみならず、精神的なもの道徳的なものについ ても用いられる。そして、彼の精神美は、魂、徳や行為、仕事や法律、知識や学 問、言論などまでも含んだきわめて広範囲のものであった。そして、プラトンの 教育論において、美の中でも音楽が主に重要視されている。音楽は、快楽を追求 するものではなく、善・美の正しい模倣である。. 9.
(12) 彼は、美とは何かということを主題とした『大ヒッピアス』の中で、美を、ふ さわしいもの、有用なもの、有益な快楽としている。また、美の判断の根拠が問 われている『ゴルギアス』では、美しいものは有用性、快楽のうちの一方あるい は両方の点で美しいとしている。しかし、これらは美の一般的な定義としてはき わめて不十分である。なぜなら、快楽を文字通りにとると、単なる感覚の満足と しての官能的快楽、純粋な知性の満足としての精神的快楽の対象の美であるから である。. このような、具体的:事物に属し、多分に有用性によって成立する相対的な美と、. 視覚あるいは聴覚にかかわる抽象的感覚要素に属し、快楽にとって成立する絶対 的な美とを区別した。そして、美は多分に善と区別しがたい意味で用いられてい る。美は善である、あるいは善は美である。つまり、美と善は同一のものとされ た。このような、美や善の価値や概念の中で、存在するイデアについて、プラト ンは、美のイデア(美の形相、美自体)を挙げて説明している。そして、このイ デアは、プラトン哲学全体の核心である。. 美のイデアとは、①美のイデアは、ときに美しいものとして現象するのではな く、永遠に存在するものである。その点で、現象と仮象との著しい対照をなして いる。②美のイデアは、唯一つの形相として自己同一的で、すべてのものに共通 して美しい。③美のイデアは、感覚ではなく、知的に属するもののみによって捉 えられる。感性的とみなされる美的とは、対照的なものである。. このように、美の固有性が際立たされており、美自体を認識することが重要視 されている。. また、 「美学」について、プラトンは「美そのものの学び」であるとしている。. 「美学」は、諸学の上に位置する最高の学問とされ、認識の完成とは「美そのも. のを知ること」だと主張している1美は、美しいものへの恋や憧れであり、美の 追求を通して、その道程の中で人間は自らの魂の本性を回復する。根本的な美は 人間が哲学的認識によって肉体的美から精神的美へと登りつめた後、知的に直観. 10.
(13) される。しかし、芸術の創造は、絶対美の天才による具体化である。天才の創作 とは、人間が神に誘われて、神が示すものを見聞きし、それを人の言語や絵によ. って翻訳することである。芸術家は、神の通訳にすぎないのである。そして、神 の中において、理性的に、神の言葉を模倣して人間の理解できる媒体に翻訳する ω。つまり、創造とは神の模倣を物象に定着することである。そこに、神秘主義 と理性主義とを統一をみることができる。このプラトンの考えに対して、人間の 立場を貫こうとしたのがアリストテレスである。. ③アリストテレスによる美学の確立. アリストテレスの思想は、現実的・経験的であった。彼は、国家の目的は国民 の幸福にあるとし、その幸福というものは道徳的な活動によって成立するとした。. アリストテレスの教育論は、実用性の高い教科においても音楽のように実利から 離れた教育を望んでおり、精神の円満な発達を目標にすべきだとしている。つま り、真のための真、美のための美といった自由教育の立場をとっている。. アリストテレスは、芸術の固有性や自律性を明確に認識することで、美から芸 術への比重の移動を試みた。彼の美の概念として、プラトンと同じく、感覚的な ものについてのみならず、精神的なもの道徳的なものについても用いられる。し かし、彼の場合の精神美は、徳や行為、数学的諸学の対象といった、プラトンほ ど広範囲のものではなかった。そして、彼においての美は、どんなものよりもま ず視覚的あるいは聴覚的な快楽にあった。また、プラトンによって、美と善は同 一のものという考えをも覆した。『形而上学』の中で「美と善とは異なってい る」と述べている。善は、目的である限り行為という変化を伴う事柄において存 在するが、美は、目的をもたず自由であり変化を伴わない事柄においても存在す る(5)。つまり、善いものは、正義や節制などの徳とそれかち生じる行為のように、. 絶対的に善いものと、支配や富、健康などのように絶対的なものでないものもあ. 11.
(14) る。その中でも、道徳的善としての絶対的な善が美として認められるのである。. そして、善自体が、美なのではなく、善の行為として実現された上で快感を与え る揚合に、美が生じるのである。彼の美の型は、模倣することによって善と一致 させようとした。自然のままの模倣ではなく、練習と洞察による技術の獲得と物. の本質を見抜くことが求められている。単なる模倣ではなく、本質をつかんだ表 現である。これは、現代の芸術論にも見られる。. また、アリストテレスは、美の中でも詩作を通した芸術哲学を学問体系の中に 制作学として位置づけた。そして、美には醜いものと美しいものとがあり、単に 感覚的なものに限ったものではなかった。アリストテレスにおいての芸術は、根 本的に技術の一部として考えられた。彼の技術というのは、単ねる経験から区別 されるのではなく真理の認識の能力でありながら、知識からも思慮かちも区別さ れたものと定義されている(6)。つまり、技術は合理的ではあるが、多分に思考的. で制作にかかわる知的能力である。芸術とこの技術との間には、密接な内的関連 が想定される。彼にとって、芸術として考えられている詩もまた技術である。詩 人の詩は、技術の合理性に立脚すべきものであり、詩について様々な技法論的規 則を教示している「詩学」自体に示されている。. アリストテレスの創造論では、模倣の対象は神的理念ではなく、典型を案出し て、これを模倣することにあった。そして、他方では芸術の心理的効果をも力説 した。彼によれば、蓄積された不安定な情緒を発散させる浄化療法が芸術の機能 として必要なものであるとしている。. これらの二人の美学者に続き、美の体系を築いたのは、プロティノスである。. 彼によれば、美の根源となる神を頂点として、理性・徳などの事物の本質として の形相という美の世界が成立し、それを原理として受けて美の序列が成立してい るω。したがって、芸術とは、成立させている原理を学ぶことによって自己を築 いていくのである。これは、自然的事物を模倣する芸術とは異なるものである。. 美を見ようとする者は、まず神になることが求められ、美しいものとならなけれ. 12.
(15) ばならない。つまり、倫理的善は美を観照し、美は善として、つつみこんだ存在 であるとする考え方に基づいている。. 2.中世. 中世の美学は、典礼美学としそみることができる。典礼は、それ自体宗教的な 芸術の集大成である。典礼は、表しがたい神を暗示し、教義を得るための工夫を こらしている。中世の美学は、象徴の美学であり、聖書の解釈学が神学的な美の 理解に役立っものとされた。. 典礼と解釈学と並んで、中世美学を特色づけるのは、スコラ学の価値論である。 それは、美は神の属性であるのか、神ぞのものであるのかという問題である。. トマス・アクィナスは、この問題を2つに分けて考えている。1つは、神がす べての事物に存在している実在的超越。もう1っは、事物などが一切の存在者の 述語としての範疇的超越。神が美である場合、美が述語となり、実在的超越が語 られる。すべての存在者の述語となる「存在・物・ある物・真・善」と並んで美 は超越となるのか。トマスは「美と善とは実体に関する限り同じものである」と しており、善が超越であれば、美も超越である(8)。ここにギリシア以来の美善合. 一の考え方は、中世において論理的に完成されていると言える。. 論理学的に考察する考え方と並んで、美を希望や救済と結び付け、美の神学が 構成された。それは、人間による芸術美よりも、神の作品としての自然美の方が 高い位置を占める(9)。このように中世の美学は、神を頂点に考えていることから、. すぐれた芸術作品が多数あったところで、美学において大きな進展を果たさなか った。しかし、神の光に照らされているという意味で、その事物自体の存在を認 識した。そして、光としての美は超越なものであり、人間の認識に関する限り美 は、最高の価値であるという現代の考えの先駆けとなったのである。. 13.
(16) 3. 近世. 近世になると、 「美的」なものを独立したものとして構築されるようになった。. そのきっかけとなったのは、17世紀末までに専門用語として確立してきた趣味の 概念である。芸術作品を通して受けた美的経験の確かさを基礎づけるために趣味 の概念によって、 「美的」なものの表象を主観的に構想することを意味するよう になった。. そして、18世紀に入りバウムガルテンによって「美」を、美学という名称で学 問としてはじめて提示された。彼は、上位の認識能力である悟性の学としての論 理学とともに、 「下位の認識論」として美学をたてた。その対象となる美を「感 性的認識の完全性」と規定した。. この構想そのものは、ライプニッツの思想の引き写しであった。ライプニッツ の形而上学叙説より「或るものを他のものの中で識別することは可能だが、その 差異や特性を言うことができない場合、その認識は曖昧である。そこに言い難い ものがあって、それが我々を魅了したり、不快感を覚えさせたりする。また、捉 えた特徴を説明できるならば、その認識は判明であると言える」と述べている。 ここで言う明晰な認識の全体がバウムガルテンの「認識論」である。そのうち、. 判明な認識は論理学であり、曖昧な認識は美学に対応する。これらの認識の区別 として、定義できるか否かがあげられている。明晰ではあるが、曖昧な認識の典 型は、感性的な質の知覚にある。つまり、明晰に識別できてもそれ以上説明する ことができないのである。芸術作品の全体的な質に関する判断も、このような感 性的認識と同じことが言える。明晰であることは、ギリシア語でclaireであり光 の特質を意味し、感性的に生き生きとした印象をもたらすことである。バウムガ ルテンの「感性的認識の完全性」も、美が価値あるものであることを示し、この 生き生きとした印象の強さとしての明晰さを指す(10)。. これらのことから、近代美学の基本的な特質を見ることができる。これは、美 の本質特徴を直観的な快の感情に見る認識論的志向の考えである。これは、近世. 14.
(17) 以前の考えであった、美を芸術作品そのもの自体に目をむけるのではなく、美を 表象する人間の側の心の働きとして捉えたものである(11)。つまり、美を感ずる. 人間の基本的な能力の問題として考えられるようになったのである。このように して、美は、人間の根源に関わる能力の問題として、善・悪や倫理への問題とも 関連づけられるようになった。. そして、新しい認識論的美学を「多様における統一」として提示されるように なると、この概念の上に美を捉えたデカルトは、 「知覚が易しすぎず、難しすぎ. ないような対象が美しい」としている。これは、捉えにくい対象を把握すること. がデカルトにおける美の快なのである。その際、対象においての様々な知覚が困 難でありながらも、快の保つ要因でもある。デカルトが注目している点は、多様 の統一が認識論的美学の原理を存在論的に訳されていることである。つまり、認 識論と存在論とのつり合いが取れている。認識も精神の力であるため、認識を通 して外から多様なものを支配する精神として多様なものを統一する(12)。美学上. の「多様における統一」説は、多様な現象を統一する精神として解かれた。この ように、精神であり力であって、一なる原理である、この力は多くの現象を生み 出す。一から生まれた多こそが完全であり、美である。これは、バウムガルテン の「感性的認識の完全性」を解釈する上での手がかりとして考えられる。. 15.
(18) 註. (1)今道友信. 『美学 第一巻』 東京大学出版会、1991年、13頁。. (2)同上書、14頁。 (3)同上書、15頁。. ω同上書、17頁。 (5)同上書、50頁。 (6)同上書、53頁。 (7)同上書、18頁。 (8)同上書、20頁。 (9)同上書、21頁。. (10)同上書、89頁。. (11)市村尚久ほか 『経験の意味世界をひらく一教育にとって経験とは何か』東 信堂、2003年、82頁。 (12)今道友信 『美学 第一巻』 東京大学出版会、1991年、89頁。. 16.
(19) 第二節近代美学の成立 1. 近代美学. 近世美学は、合理主義によって限界を自覚した上で、無限を追求することを、 美を経験する事で、形象的に自己を肯定し成し遂げようとした。これに対して、. 近代美学は実証主義と人間主義とによって、近世美学における反論を形成してい る。それは、近世美学の宗教性における人間主義に対して、近代美学は物質的経 済的条件の根源性を主張している。また、形而上学的論理性に対する人間主義か ら、感情移入の心理主義美学となってあらわれた。そして、しだいに、美ではな く芸術を体系的に研究することが盛んとなった。. このように近世美学に対し、近代美学を成立する上で3つの反論を受けた。そ れは、①近世美学は、形而上学的な考えであったが、近代になると実験心理学的 方法で数量的に測定できる快感、または、満足感が美であるという考えに転化し た。②人間と神との同一性の実現に対して、社会学的考察に至った。③知的論理 的な認識論に対して、認識とは、心の作用における感情の重要性を主張した。. 第一節で述べたように、美学は、18世紀に、バウムガルテンによって、美や芸 術に関わる感性による下位認識の学としての新たな学問である「美学(感性 学)」命名された。そして、近代に入ると、この美学を、カントに始まる様々な、 ドイツの観念論によって、哲学の一分科として導かれた。. 2. カントによる「美的判断力」. 感性の語の概念の用法については、カントの影響が大きい。感覚とは、運動能 力を持つ生体が、五感を通して身体の内外の諸刺激を識別し受容する際に生じる ものである。自らの適切な姿勢、運動を制御し、外との関わり方を方向づける。 「私」や「楽しい」 「苦しい」という認識を引き起こす働きをもち、人が直接に. 経験する事柄である。その感覚から生じたのが、感性である。. 17.
(20) 感性(sensibility)とは、一般に知性と対立して、感官・感覚さらには情念の 働きをまとめてとらえた語である。ギリシア語のaisthsisの系譜を引く。 Sensibilityという言葉は、 senseの働きあるいは、ありようをまとめてとらえた 抽象名詞な意味を合わせもっている。. ①感性は、知性の能動性に対比して、古来しばしば受動的と有限性をその特徴 として捉えられてきた。②人間が現実と接する第1の界面として、人間と現実と の関わりにおいて、重要であり人間の現実感覚やまた認識・認知一般の形成にお いて(唯一の源泉として)の役割を演じるものである。③近世において、総じて 感性の地位が知性的なきっかけとの相対的な位置関係において上昇し、様々な形 で重要な役割を演じる。このことについては、②の見方にとどまらず、人間の (現実)との関わりにおける感性・知性の根本的な転換・再編成の力動が、その 背後にあると考えられる。. カントは、この感性からすべの認識を導く(感覚主義)生き方を退けて感性の 限界を定め、知性主義的に超感性的な直観を認める生き方に対しては、人間の有 限性に踏み止まって、認識の源泉としての感性の不可欠の役割を強く主張してい る。. 感性は、一方的に受動的なものではなくて、能動的・積極的な認識の構成とし て捉えられ、受動・能動の働きを合わせもつものである。美というものが、主観 的・感性的に考察される可能性が開かれるようになったのは、カント以降のこと である。近代以降、美は感受し、また生み出す人間の特殊能力の探究へと視点が 向けられた。美の非合理的側面、美の主観性、相対性が注目され、美の判定能力 と創造能力とが議論の中心となり、美とともに概念も道徳性との関連で論じられ た。このような新しい思潮に動かされるかたちでカントの三論が生まれた。カン トは、美を「構想力と悟性との自由な遊動の内にある心情状態」と規定している。. 実践的哲学においても、カントは感性的要素を単に理性による統御を乱す感覚 的欲動としてのみでなく、道徳法則の積極的実現を促すとして捉えた。そして、. 18.
(21) 彼は、イギリスの(道徳感情)の哲学に一層知性的なものを加えた。この感情論 は、 『判断力批判』での美的感情の分析にいたって一層展開する。それは、自然. の合目的性という反省的・統制的原理を所有する反省的判断能力である。この働 きが認識能力としての悟性と欲求能力としての理性を媒介する快・不快の感情を. 含むことを発見したカントは、自然美と有機体の合目的的な美しい形態≧存在様 式のうちに超感性的な能力の働きを、自由の表現を見出すことによって、自然と 自由との結合の可能性を明らかにした。. カントの哲学は、自然科学の根本的な批判に始まる。自然科学の知識は普遍 性・必然性をもつが、その真理は単なる経験から得ることができるものではない。. 先験的な経験が必要となるのである。カントの先験的なものとは、個人的・感覚 的な自我ではなく、超個人的・論理的な自我である。自然が自我に服従を求める のではなく、自我が自然に対して法則を与える。超個人の自我を中心として考え るものである。. カントは『判断力批判』の中の「美的判断力の分析」で「美しいもの」につい ての独特な判断を取りあげている。カントは、ある対象を表象する私たちの主観 の内に快の感情が生じるとき、この対象は「美」と呼ばれ、快によって対象を判 定する能力は「趣味」と呼んだ。趣味判断とは、その対象の形式が私たちの認識 能力に適合しているか否かを判断することである。それは、何らかの概念や目的 に縛られることなく、単に調和的形式の内に感得される目的のない合目的性であ る。また、対象の客観的属性としてではなく、主観的心理的状態(快の内に表現 され意識される)であるω。つまり、美的判断は理性や悟性とは異なる独自の能 力として、快・不快という感情を規定根拠とするのである。この快が、カントの 「無関心的で自由な敵意」である。それは、何らかの対象への欲求や関心におい. て成立する感覚的な快適さや善に関するものとは異なる。あるものの対象の概念 を土台として、この対象の美としての完全性に属する美というものが見出される。. この対象の概念を土台としない無関心的で自由な敵意を、規定根拠とする純粋な. 19.
(22) 趣味判断によって判定される。趣味判断は、悟性によってではなく共通感覚から. 必然的に生じるものである。それは、趣味が概念ではなく目的から自由な快の感 覚、感情に結びついているからである。 「美的」であるごとは、必然的な快の対. 象を概念なしに認識することである。ある対象が「快」と判断されるのは、その 対象がなんらかの合目的性をもとめるものの、一般的な概念に包括されず、想像 力と悟性のやりとりの中で突き止めようとする。これが、カントの言う認識諸力 の「戯れ」といわれるものであり、ここに快が生じるのである。. カントは、上級能力として、認識能力、快・不快の感情、欲求能力をあげ、そ れぞれが、悟性、判断力、理性に基づいているとしている。悟性とは、外から与 えられる諸感覚を形式に従って、その質や量、関係や様態といったカテゴリーに 従って把握するものである。経験的に与えられる多様な現象を含む概念、さらに は私たちが見出す一定の自然法則の下で、個々の現象を規定する悟性の認識判断 をカントは規定的判断と呼んでいる。このような、認識判断や道徳判断のように 一般的なものへ包括し判断を形成する「規定的判断」から区別した判断を「反省 的判断」と呼ぶ。これが、カントの「美的判断」である。具体的で特殊なものか ら、概念や規則によって遡り探索する。その探索の過程でのやりとりの中で、物 事に対する考えが問い直される。その様を、カントは「反省的」と呼んでいる。 また、 「反省的」とは、その過程の中で先に述べた「戯れ」「が生じ、即座に受け. た観念が問い直されるのである。つまり、「反省的判断」とは、一般的なものが まだ与えられておらず、個人から一般的なものが探索される。悟性と想像力が同 時に働き、個人個人の対象がみせる魅力の意味が探索されるのである(2)。つまり、. 美的な形象とは何かを例示するものとして与えらた美的メタファーであるものの、. どのようなものの例示なのか明確ではない。それは、個々によって探索されねば ならない、特殊なメタファーなのである。このようにして、カントは、美的判断 に見られる認識諸力(悟性や想像力)の反省的「戯れ」を述べている。感性が受 容性、悟性が自発性であるとする。そして、感性は諸器官を通じての受動性とし. 20.
(23) て、そして悟性においての条件となっているのである。感性は、悟性に思考の素 材を与える働きをしている。この2つがつり合うことが、重要なのである。そし て、美的経験は、他の経験や活動から区別されるような特別な経験であることも 指摘している。. 3. シラーによる「美的教育」. カントの認識論の影響の下に、美的人間形成論を展開したのが、シラーである。. 彼は、理想主義の観念論哲学の流れに属している。理性と感性との分裂、倫理と 自然との対立があらわれてくると、調和や融合の必要性を試みている。人間は、. 感性的な状態から理性的な状態へと発展していかなければならない。感性のカを 出す状態から理性の力を出す状態へと進むためには、まず感性の力を滅ぼす必要 がある。しかし、感性をただ単に抑圧するのではなぐ、感性と理性が同時に働き、. 互いに相互作用することで、道徳的にも身体的にも強制されず活動ができる。こ の中間の状態を通ってこそ、人間は感性的な状態から理性的な状態へと移り行く ことができる(3)。そして、それは芸術のみに見られるのであり、美的教育の強調. 性を指摘している。これを図式にすると、 「感性三一美的一理性的」として示す ことができる。. シラーの美的人間形成論の特徴として、理性的な規制に基づいて、道徳主義の 限界を見抜き、道徳性を美的な感性的満足をまとめて、受け入れるといった芸術 美論に基づいている。そして、理性的に知覚できる精神状態へ高め、人間の心清 に浄化をもたらすとしている。芸術による教育は、人間の個々の力を伸ばすこと ではなく、人間全体を向上させるのであり、芸術は心理と道徳を包摂するとの思 想を示している。芸術による陶冶の思想は、宗教と国家、文学と哲学、生活と芸 術、空想と理性などの諸要素に対立はなく、全体として調和的な人間が形成され ることにある(4)。. 21.
(24) 美的教育を語る前に、まずシラーは、人間学的な考察を展開し、人間の行動を. 起こさせる衝動を2っ指摘している。1つは、感覚衝動である。これは、諸感覚 器官(身体)を通じて、世界や自然の多様さを受容しようと身を開いていく衝動 である。もう1つは、形式衝動とされ、受容された自然や世界の多様さを理性や 悟性の概念で整理し、人為的秩序を作り出そうとするものである。シラーによれ ば、人間は、この両者をもち、両方に至らない道を探ること、つまり、 「感覚衝. 動」と「形式衝動」が、バランスよくっり合って働く状態を芸術経験に認め、人 間形成論上の意義を強調すると述べている。そして、このつり合っている状態を 「遊戯」と呼び、2つの衝動を融和させる「遊戯衝動」の存在と養成を主張して いる。この「遊戯衝動」は、感性の強要も理性の強要も廃棄するところの自由を 示ものである。人間は、遊戯のなかであらゆる規定から解放され、自由の歓喜の うちにあらゆる可能性を体験するのである(5)。. シラーの美的教育は、美的経験や芸術、特に「遊戯性」に人間の完成可能性を みている。シラーの「遊戯衝動」の状態を芸術経験に認め、人間形成論上の意義 を強調するのである。人間は、美と戯れている時のみ、完全に人間として存在し ている。この遊戯衝動によって仮象として輝く美は、人間性の理念の可能性の証 明である。つまり、美は私たちを創造するのである。知的で道徳的な人間として 高めるためには、理性的状態へ至らなければならない。美的状態が、その状態に 導いてくれるのである。そして、美を通して完全な人格が形成されていくのであ る。. 4.ゲーテによる教育思想 ゲーテは、シラーと共に芸術教育運動に影響を与えた1人である。彼の教育の 目的は、人間の生得的な能力を内面から発展させ、調和的な人格を作り上げる。. そして、その人間を社会に貢献させようとするものであった。教育において、個. 22.
(25) 人的かつ社会的な目的を考慮したものである(6)。教育の方法としては、多くの経. 験を重ねることで自覚を起こさせる。自己自身で自覚させ、詰め込む教育を排撃 している。. 5.ゲーテとシラーによる芸術教育思想 18世紀末、文学者であり思想家であったゲーテとシラーによって、芸術教育 思想を解明された。彼らの思想として、人間というものは、美的なもの・芸術体 験を通して荒い感情や衝動から解放された総体として、調和のとれた人間を形成 することができる(7)。. ゲーテは、人間が世間に関わっている利害や打算に捉われることなく、いかに して調和的に人間形成していくか。そして、人間が自身の人格を調和的に形成し ていく過程に、 「美しい魂」がいかに重要な役割を果たしているのかを明らかに. している。シラーは、ゲーテの考えをより明確に理論的に述べている。. 18世紀のドイツでは、知的生活は2っの階層から成っていた。1つは、ドイツ 語は当時軍隊の言葉とされており精神的文化と接点をもたない教養階層であった。. もう1つは、中世の世界に逃避していた学者世界であった。このような時代の中 で、多くの思想家たちは、自己形成の模索を行っていた。. その時代の中で、シラーは、頭で考えることは心を通って開かれる。感受する 能力の発達は、時代の要求でもあり、人生が改善される手段に限らず、見識の改 善をも行う(8)。そして、シラーは、自己形成の探求的模索の結果を、彼の芸術教. 育思想に中にとりいれた。つまり、芸術を体験することにより、人間自身が自己 の人間性を高められるのは、その体験が自らの探求的活動を土台とした場合であ る。この視点を、現代の教育に、いかにして取り入れるかが重要となる。. 23.
(26) 註. (1)今道友信. 『美学 第一巻』 東京大学出版会、1991年、141頁。. (2)同上書、144頁。 (3)前田博 『美的教育論』 東信堂、1995年、11頁。 (4)松山雄三 「シラーの美的人間形成論について『人間の美的教育について. 連の書簡』を中心に」東北薬科大学一般教育関係論集、2003年。 ⑤真壁宏幹 「音楽療法における『遊戯性』一人間形成論的観点から」日本音楽 療法学会誌、第2号、2002年、96頁。 (6)木村信之 『創造性と音楽教育』 音楽之友社、1980年、87∼88頁。 (7)小笠原道夫 『教職科学講座 第1巻 教育哲学』福村出版、1991年、190頁。 (8)同上書、191∼192頁。. 24.
(27) 第二章 美的人間形成論の問題 第一節. クラウス・モレンハウアーにおける美的人間形成論. 1.美的人間形成とは まず、美的と人間形成とに分けて考える。モレンハウアーによれば、人間形成 について、人間は、生まれて死に至るまでの中で、体験や経験、認知といった 様々な段階をふんで成長する。その成長過程で、何が起こっているのかという問 題が人間形成を考察する上で重要であるとしているω。生まれた時から、人間は 周りの環境や教育、偶然性といった多くの影響のもとに一個人としての人として、. 形成されているのである。この影響下のもとに、どのような人間に形成されるの かが、決定するのである。. 人間形成論は、一般的に、規範的な到達点から発想されている。繰り返し、歴 史的・文化的な観点から抜け出ようとして規範的判断の領域に引き込まれてきた。. それゆえに、人間形成論は、実現へと向かいっいには実現された人間形成過程と いう概念から発想されている。モレンハウアーは、このような規範的含意が人間 形成においての概念を狭めてきたことを指摘している。この原因の一つとして、 学校教育に取り入れたことが挙げられる(2)。学校で行われることで、人間形成の. 過程は、人間形成が達成すべき結果からしか見られなくなってしまうのである。. これは、望まれた結果が目的に即応した教授行為によって引き起こされるべきだ とする論理に従っているのである。. では、先に述べた人間形成論一般ではなく、 「美的」人間形成とはいったいど のようなものなのか。モレンハウアーは、美的な事態が、芸術の領域に限らず、 人間の形成についての理論にも組み込み可能な形で記述している。その中でも、. 今日、芸術を療法的効果から考察されている文献は数え切れないほどあげられて いる。彼は、芸術療法を人間形成論から見て、次のような問いを投げかけている。. ①美的な活動は、創作的また受容的であれ危機的な生活状況を克服する上でどの ように貢献することが可能か。②美的な活動は、より意識化され、明確な見取り. 25.
(28) 図が与えられることにより自己が耐えやすい状態「癒し」の過程となりうるのか (3)。このように、療法的な考え方は、人間形成の過程ρ中で、自己を形成するの. ではなく、様々な経験をする上での手助けとなるのである。この療法関係と芸術 教授の経験とを関連づける試みはほとんどなされていない。その理由として、哲 学と療法理論の相互理解の困難といった、方法論的問題があげられている。芸術 療法にしろ、学校の中での芸術教授学にしろ、評価をすることが困難である。も ちろん、美的な経験も、経験主義的な手続きの基準に従って評価するという点に は問題がある。評価を行うためには、うまくいったのかそうでないのかを判定す る基準が必要となる。そうした基準は、人間形成の美的部分の場合、理論的、実 践的のように容:易にはいかないのである。理論的な態度の場合、経験科学的に信. 頼のおける概念が評価の対象である。また、実践的な態度の場合、根拠づけられ た道徳的判断がそれをさす。そして、美的な態度の場合は、美的な対象を読み解 く上での熟達以外の何物でもないのである。つまり、美的経験での評価とは、一 個人の美的経験を読み取らなければならないのである。このことについて、モレ ンハウアーは、美的な判断の場合「反省的」であると述べている。つまり、一個 人が、適切な概念を求めての探索途上にある中で、美的経験は、そうした探索を 軌道にのせるといった経験なのである(4)。美的経験とは、何が正しいかなどの基. 準はなく、その基準となる概念を求める上での手助けとなる経験なのである。. 美的人間形成論の社会的あるいは政治的役割について、美的人間形成の理論は どんな情報も与える必要がない(5)。先に述べたように、美的判断は、評価可能な、. どんな概念にも組み入れることができない。個人が美的な事に直面した時、何が 起こっているのか、という課題が重要となってくるのである。何が起こっている g)かという、美的な場合の作用は、あるモノに対する個人の反応を、言葉、音、. 記号を利用して記述することにかかっている。自分が感覚した内容を、人に伝達 する場合、その対象を絵で、音で、あるいは「メタファー的」に言葉で行う。言 語的なメタファーや絵や音による共鳴の記述が、美的な経験を引き起こす何もの. 26.
(29) かとなる。. これらの美的な経験をまとめると、①美的な形成運動は、感覚的に接近可能な 形象との主体の取り組みの中で生起するものである。②美的な形成運動は、直接 的観察の目の届かないところにある。そして、それを推論するしかない。形象に 対する観察可能な反応を解釈の対象とし、この解釈を媒介にして推論するしかな い。③「反応」と呼ぶものは、形象への言語的・非言語的な回答にとどまらない。. そして、かつ「受容」にとどまることなく、自らの制作において美的な素材との 活動的な取り組みを表現することも「反応」に含まれる。④鑑賞的な活動、産出 的な活動の双方についても、美的作用に含まれている。この作用は、内界と外界 を媒介すると想定している(6)。. 2.美的経験の根本問題 美的経験において、目を向けなければならないこととして、ある個人が美的な 経験をした場合の観察と観察の記述においてである。どのような観察の仕方が、. 美的人間形成の観点から見て重要なのか、どのように記述されるべきなのかとい った問いがでてくる。. モレンハウアーは、このことについて、まず、観察のカテゴリー区分の問題を 取りあげている。そして、人類学的な態度で記述しようと試みている。彼によれ ば、それらを「ミメーシス」 「様式」 「表現」等で考察している。記述において. 注意する点として規範的含意の問題である。それは、美的な経験を歴史的に批判 的な関係の中で拘束してしまう場合と、この美的な経験:を社会的・政治的な選択. 肢として利用し、人間形成の問題で述べた規範的・教授学的に判断する傾向にあ る場合とである。このような環境の中で、いかにして子どもたちの美的経験での 態度を記述することができるのか。この問題に対して、モレンハウアーは、C・ ギアーツの「濃密な記述」を提示している。これは、子どもの美的なものから作. 27.
(30) り出されたものを人類学的な態度で記述するという試みである(7)。つまり、子ど. もたちを、理解するという考えから遠ざかり、そして、私たち自身の今までの経 験や概念から離れた状態で、子どもたちと向かい合うことが求められるのである。 次にあげられる問題として、 「芸術」と「美的人間形成」との関連性について. である。それは、古代ギリシアのアイステーシス理論にあてはめるか、あるいは 歴史的・文化的に遡って考察するかの二者択一であるとしている(8)。これらの選. 択肢の前に、重要となるのは、美的に成就した対象物をどのような方向で意味づ けるかにかかっている。そして、美的に成就した場合に、現在の自分たちの文化 状況に応じた芸術を基準にして考える。これは、ある対象物が生活に関わる重要 な事柄において言明されている。この言明の中では、理論的・実践的に関係付け るという強制は一切なく、私たち自身の感覚的なものに注意をよせているだけな のである。. このような、美的に成就する中で、子どもの制作物から美的な経験の態度を見 出すことが可能なのではないか。これは、規範的教授学より歴史的な人間学の範 囲に属する。美的な経験の中で、子どもたちは、何を経験しているのか。それは、 質的・量的の両方の観点から成り立つ美的人間形成という現代教育における、 C・ギアーツの「濃密な記述」と論証ということにある。. 3.美的人間形成における教授学での問題 美的な経験とは、学校教育の中では主に美術と音楽、学校外では余暇サービス や芸術療法・音楽療法があげられる。美的人間形成が、最終的にこれらの事柄へ 導かれるべき社会的実践という生活の流れにいかに関わるのかという問題である。. すべての「美的なもの」を「芸術」の視点から見た場合、日常世界の実際の効 用の流れに対して、ある断絶の経験を有している。日常世界の実際の効用の流れ を連続の経験とすると、このような連続の経験ではなく断絶の経験の方が、美的. 28.
(31) 人間形成と密接に関係している(9)。このような断絶の経験は、連続の経験とは異. なり回り道をして実利的な意味で生活に役立っかもしれない。この断絶な経験の 中で、子どもたちに、いったい何が起こっているのかという問題があげられる。 日常の実利的な流れの中での断絶は、美的な経験にとって重要である。そして、 この断絶は、人間学的により深いところに位置している。社会的に形成された日. 常生活の実利的な流れと、芸術の形をとった美的経験との間の断絶は、人間存在 の本性的人工性、また、様々な文化や現代の人間学の視点から見た構成に根拠を 有している(10)。このような断絶な経験が起こるとすれば、子どもの美的活動の. 中で、そのきざしが存在する。そして、現代の人間形成概念の中に取り込む必要 がある。. 美的な経験:の主眼は、ある活動においてめ実利的な問題にあるのではない。つ. まり、教育議論の中に、美的経験の意味内容を問うという問題ではないのである。. 重要なのは、感覚において生じている事柄以外なにものでもない。そして、教育 議論で美的な経験:を考えた場合、限界にぶつかるであろう。これは、人間形成と. いう意味においてではなく、実利上の限界にぶつかるのである。モレンハウアー は、この断裂を人間形成上重要なものとみなしている。. 4. 美的人間形成の問題. 美的な経験の根本的な問題は、他の経験の状態には取り入れることができず、 美的な生活の状態だか’ 轤アそ存在するのである。モレンハウアーは、美的なもの. を考えるとき、芸術作品の理解の根拠を問題にすることと、美的人間形成の根拠 を問題にすることは、閤題にする対象が異なるとしている(11)。. 美的人間形成の根拠を問題にする場合、他人の制作物を理解する受動側であれ、 自分自身で制作する能動側であれ、美的な活動が主体にあることが求められる。. この主体となる美的な活動の要素が問題なのである。美的出来事における活動の 29.
(32) 要素は、感覚器官や知覚が関与しているが、美的な場合とは違った配置にある。 このような、活動とはどのようなものなのか。ある活動を観察者が記録する場合、 この活動が観察者の知覚に対して接近可能な状態である。これとは違った活動と して、活動の中心にある自分自身のみが観察可能な場合、自分以外の観察者以外 にとっては、その活動を解読することが不可能な状態である。それは、つまり自 身が感じた喜怒哀楽、自分が見たこと聞いたことに対しての、興奮や静寂などと いった事柄である。こういつた感覚は、自分自身についての経験:を自分自身に伝 えるだけで、他者の同意を求めない(12)。他者の同意を断念することは、規範的. な教育や生活の中での経験には味わえない経験である。そして、この事柄が美的 過程の特性の基となる。しかし、モレンハウアーは、美的経験の成立の最初から、. 美的な経験が、他者への視線を完全に無視することは不可能だということも述べ ている。. 美的な経験を言語化しようとするとき、人は自分自身の経験を明らかにしなけ ればならない。その場合、自我が自己とある明示的な関係にあるととが求められ る。この自我と自己の関係は、他の経験でも言えることである。しかし、他の経 験とは異なり、美的な経験の場合、自我と自己の関係は、道徳的・論理的な状況 とは違ったかたちで構成されている。道徳的な場合についてくる他者への配慮が ここでは、、空中にぶら下がった状態、つまり非道徳的な関係の中にある。彼は、 その状態を「私的」であると述べている。 「私的」のなかにも「公的なもの」を. 完壁に排除することができない。先ほど述べたように、モレンハウアーが言う、. 他者への視線を完全に無視することは不可能であり、美的な経験において公的な ものが入り込んでくるというのであれば、なんら他の経験と変わらないのではな いか。しかし、彼が問題にしているのは、このような機能ではない。美的な対象 や制作物に受容的であれ自発的であれ関わる場合、私たちは内的な過程と取り込 むことができる。この内的過程の特性や根拠は、他の経験では考えられないこと である。. 30.
(33) 美的な経験をする場合、自身の感覚は、普段絶え間なく自然に生じる感覚を超 えて、自身に主題化される。美的活動は、外的からの知覚に直面するだけではな く、過去から現在にいたる自己の感覚活動の中で獲得した内的のデータにも直面. する。このような美的経験の独自性を、美的人間形成における独自性や特性を考 えたとき、他の人間形成と区分される。このよに、区別された美的経験の独自性 とは、①物音、色彩知覚、触感などの経験は、十分に記述できないような特徴を もっている。そのため、アイステーシスー般から切り離して、芸術の形をとった. アイステーシスを考える必要がある。②美的活動におかれる視点として、この活 動が人間形成に役立つかどうかを問うのではなく、子どもや青年が美的な状態に 突入したとき、そこでいったい何が起こっているのかに目を向ける必要がある。. ③「芸術の形をとった」美的経験は、社会的・文化的「機能」に位置づける働き と有機体を新たに活性化する働きを持っている。つまり、自己が客観的に向かい 合う文化の現実と自己が主体になる違いである。どちらの観点からも言えること として、結果から生じる疑問、省察、疑惑、修正についての経験可能性を主題化 することである。. 知識、能力の獲得の人間形成的意味を測る基準として、人間形成が主体の内的 な構成部分に影響を及ぼす。だとすればいかなる内容が影響し、どのような変化 をもたらすのかといった問いが出てぐる。モレンハウアーは、美的な知覚や経験 は、まさに美的な知覚や経験の可能性の条件であるとしている。つまり、感覚事 象を、自我および自己に関連付けて主題化することの可能性の条件なのである。. ここに、美的過程のもつ人間形成的意味の根拠を見ることができる。では、感覚 事象を、自我および自己に関連付けて主題化するとはどのようなことなのか。美 的感覚について考察していく上で、この問いを明らかにする。. 31.
(34) 5.美的感覚について ある美的なものの対象を、自己の中で主題化するとき、内的な運動の存在を前 提としている。内的な運動とは、外からの刺激によって生じた知覚を自己に受容 しつつ、自我の中で態度が決定される。つまり、自我と自己の相互作用を可能に するような運動である。. 美的感覚は、この自我と自己との問で実利的なものはなく、ある対象物からの 刺激、過去において蓄積された自己、判断する自己との三者間で成立するための 可能性の条件になっている。このような状態は、受容的また制作的の両面かち起 こっている。この両者にも、差異が生じている。受容的な場合は、自我が美的活 動に向かい、その時の状況なり習慣といった特殊な配置が一定の役割を演じる。. そして、制作的な場合は、作りごとのような事柄がなされ、心的・糖神的な状態 へと知識や技能が入り込む。これらのことは、美的感覚の痕跡や反省的な確証に ついて述べることができる。受容的であれ制作的であれ、自我一自己の循環は、. 最終的には反省的関係に至る。この循環サイクルの中で、構築される経験的なも のを記述形式(循環の全段階において被験者に言葉で説明してもらうこと)で検 証可能にする。. 美的感覚は、非言語的に作り出された経験を人間形成過程だと解釈した場合、. 循環段階の表現活動と美的を作りごととして扱う段階との間に位置する。このフ ィクショナルなものに向けた運動の中で、反省運動が成立しているかどうかが明 確になる。. 32.
(35) 註. ①Kモレンハウアー 『子どもは美をどう経験するか 美的人間形成の根本問 題』 今井康雄訳、玉川大学出版部、2001年、11頁。 (2)同上書、12頁。 (3)同上書、14頁。. ④同上書、15頁。 ⑤同上書、16頁。 (6)同上書、18頁。. ω同上書、20頁。 (8)同上書、21頁。, (9)同上書、23頁。. (10)同上書、24頁。 (11)同上書、25頁。 (12)同上書、26頁。. 33.
(36) 第二節. 芸術が人間形成に及ぼすカ 一音楽に着目して一. 1.音楽のミメーシス 美的経験したことを、人に伝達する場合や他者の活動を記述する場合、比喩を 用いる。また、模倣することが必然的に求められる。ここでは、美的な経験で重 要とされる、模倣(ミメーシス)において考える。. ミメーシスという語は、美的な出来事のひとつの側面を示している。この語に おいての蓄積されてきた解釈や議論すべては、美的人間形成に想定することので きる2つの要件が含まれている。それは、①視覚と結びついた造形活動において 模倣という契機が含まれている。②美的活動においての個人の内的活動はいかに 考えられるべきかといった想定の無条件の一般性から何かが欠けている(1)。. 音楽的ミメーシスを他のミメーシスと区別するためには、音楽的ミメーシスの 特徴を音楽素材の考察によって見出すことが求められる。あるミメーシスの仕方 を選択し従うとすれば、ある一定の観点からの模範に対し距離をとる必要がある。 音楽の場合で言えば、模範より距離をとるというより、音楽と共に動くこと、. 共に戯れること、音楽に参加することを意味する。これは、芸術でいう絵画の場 合やその他の対象物の場合とは異なり、音楽という対象物は目の前に存在するも のではないため模倣の仕方が違うのである。例えば、ある曲を再度表現する時、. 直接その曲に接近しているのではなく、最初にその曲に触れた印象に接近してい るのである。つまり、曲自体に向き合うのではなく、曲に対する自己の反省に向 き合うのである。. ミメーシスとは、気分や衝動といった感情をそのまま芸術作品という形で押し 出されるのではない。内面的出来事に、ミメーシスがどう関わっているのかに視 点をあてるのである。ある出来事の変換が、表現の中でなされているのである。. 34.
(37) 2. 「音楽の力」とは. 第一章の美的経験の概念で速べたように、古代以来音楽というものは、神秘主 義的に考えられてきた。また、近代教育では、音楽は、 「創造性」 「情操」とい. った子どもたちの潜在能力の発達における理念があげられる。これらの事柄を考 慮しないで、音楽が人間形成に及ぼす力を考えることができるのであろうか。. 音楽療法の理論と実践を人間形成論の立場から考察している真壁は、音楽の実 践効果の基準判定の問題、また、音楽の効果の「客観的測定」の難しさの問題に ついて、メルセデス・パブリチェビィックとケネス・E・ブルシアの音楽の意味 から、考察している。. まず、この両者は音楽の意味について基本的に3っの立場を区分して述べてい る。それは、①音楽の意味が音楽形式自体に内在するという形式論者である。こ れは、音楽が感情的な反応を引き出すことは認められているが感情を表現するこ とは認められていない。音楽で表現されるものは、音楽独自の意味をもち音楽の 形式自体に関わるのである。②表現論と呼ばれるものは、具体的な感情を表現す るのではなく、感情そのものの「質」を表現するのである。③音楽は、音楽以外 の経験や特定の文化的なもの、個人的なものを示す象徴である(指示論)。. このように、音楽美学的に考えられており、どれもが実践の立場において貴重 なものを提供してくれている。この3っの捉え方を状況に応じて、採用すること が重要なのである (2)。. その中でも、パブリチェビィックが注目したのは、音楽のような非言語的コミ ュニケーションについてである。ここで重要なのは、行為や表現の「生気情動」. を捉えることである。そして、音楽はコミュニケーションの手段となって人に伝 達する。また、音楽療法のような療法的立場から考察する場合、表現論の立場が 主に支持されている。. それでは、彼の言う表現の「生気情動」とはどのようなものなのか。ある動作 をまねる場合、そのものの動きを知覚し、かっ自己の感覚を確認した上で、知覚. 35.
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