第二章 美的人間形成論の問題
第二節 芸術が人間形成に及ぼすカ
一音楽に着目して一
1.音楽のミメーシス
美的経験したことを、人に伝達する場合や他者の活動を記述する場合、比喩を 用いる。また、模倣することが必然的に求められる。ここでは、美的な経験で重 要とされる、模倣(ミメーシス)において考える。
ミメーシスという語は、美的な出来事のひとつの側面を示している。この語に おいての蓄積されてきた解釈や議論すべては、美的人間形成に想定することので きる2つの要件が含まれている。それは、①視覚と結びついた造形活動において 模倣という契機が含まれている。②美的活動においての個人の内的活動はいかに 考えられるべきかといった想定の無条件の一般性から何かが欠けている(1)。
音楽的ミメーシスを他のミメーシスと区別するためには、音楽的ミメーシスの 特徴を音楽素材の考察によって見出すことが求められる。あるミメーシスの仕方
を選択し従うとすれば、ある一定の観点からの模範に対し距離をとる必要がある。
音楽の場合で言えば、模範より距離をとるというより、音楽と共に動くこと、
共に戯れること、音楽に参加することを意味する。これは、芸術でいう絵画の場 合やその他の対象物の場合とは異なり、音楽という対象物は目の前に存在するも のではないため模倣の仕方が違うのである。例えば、ある曲を再度表現する時、
直接その曲に接近しているのではなく、最初にその曲に触れた印象に接近してい るのである。つまり、曲自体に向き合うのではなく、曲に対する自己の反省に向 き合うのである。
ミメーシスとは、気分や衝動といった感情をそのまま芸術作品という形で押し 出されるのではない。内面的出来事に、ミメーシスがどう関わっているのかに視 点をあてるのである。ある出来事の変換が、表現の中でなされているのである。
2. 「音楽の力」とは
第一章の美的経験の概念で速べたように、古代以来音楽というものは、神秘主 義的に考えられてきた。また、近代教育では、音楽は、 「創造性」 「情操」とい った子どもたちの潜在能力の発達における理念があげられる。これらの事柄を考 慮しないで、音楽が人間形成に及ぼす力を考えることができるのであろうか。
音楽療法の理論と実践を人間形成論の立場から考察している真壁は、音楽の実 践効果の基準判定の問題、また、音楽の効果の「客観的測定」の難しさの問題に ついて、メルセデス・パブリチェビィックとケネス・E・ブルシアの音楽の意味 から、考察している。
まず、この両者は音楽の意味について基本的に3っの立場を区分して述べてい る。それは、①音楽の意味が音楽形式自体に内在するという形式論者である。こ れは、音楽が感情的な反応を引き出すことは認められているが感情を表現するこ
とは認められていない。音楽で表現されるものは、音楽独自の意味をもち音楽の 形式自体に関わるのである。②表現論と呼ばれるものは、具体的な感情を表現す
るのではなく、感情そのものの「質」を表現するのである。③音楽は、音楽以外 の経験や特定の文化的なもの、個人的なものを示す象徴である(指示論)。
このように、音楽美学的に考えられており、どれもが実践の立場において貴重 なものを提供してくれている。この3っの捉え方を状況に応じて、採用すること
が重要なのである (2)。
その中でも、パブリチェビィックが注目したのは、音楽のような非言語的コミ ュニケーションについてである。ここで重要なのは、行為や表現の「生気情動」
を捉えることである。そして、音楽はコミュニケーションの手段となって人に伝 達する。また、音楽療法のような療法的立場から考察する場合、表現論の立場が 主に支持されている。
それでは、彼の言う表現の「生気情動」とはどのようなものなのか。ある動作 をまねる場合、そのものの動きを知覚し、かっ自己の感覚を確認した上で、知覚
したものの「質」を抽出し、自己の中に取り込む。この感覚経験の「質」を「生 気情動」と言う。そして、この「生気情動」は感覚的なものだけでなく、感情や 情動の問題までも抱えている。
このことは、1920〜30年代にドイツのハンブルク大学で行われたハインツ・ベ ェルナーの感覚研究より明らかにされている。ここでは、アリストテレスが述べ た「共通感覚」を考慮して考えられている。
共通感覚とは、諸感覚が特別な個人の感覚になる以前の未分化なものである。
この未分化な状態の中には、表現的意味が含まれている。つまり、世界を対象化 し客観的に捉える前の段階で、感情的反応,表現的意味と結びついている。これ を分かり易く言うと、例えば、ゾクゾクする話と聞いたとき、おそらく恐い話で 冷たい感じを人にもたらすだろうといった事柄である。このような情動が伴った 感覚経験が生じるのは、音楽の場合、ある対象の音楽が自己の内面で響いている ように全身で聴くときである。ベェルナーは、音楽が自己と融合している場合に 感じる感覚を「生きた感覚」としている。その「生きた感覚」を感じる場面は、
次にあげる「反省性」と「遊戯性」の中でのやりとりでなされる。
モレンハウアーは、バウハウスの芸術教育の構想によって人間形成の意義を見 出している。バウハウスの教育の特徴として、①教師や過去の経験を模倣するこ
どに批判し、生徒の独自性を自己活動の中で展開させる「創造性」重視の教育。
②創造性教育が、主観の解放に陥らず、自然研究に基づく造形原理の教授の要請。
つまり、身体と精神の自己反省性を高めるものである。バウハウスの音楽教師ゲ ルトルート・グルノウは、 「感性調和論」と呼ばれた音楽教育を行った。それは、
「音」と「色」といった根源的な体験に返って、諸感覚のバランスを獲得するこ とで、身体一精神一心の自然な秩序を回復することを目的としている。この教育 の特徴として、①音の体験と色の体験は、物理的一心理的作用を身体に及ぼし、
それに対応する特定の「形」や「身体の動き」を生み出す。特定の色や音の体験 が、特定の形や身体の動きを誘発する。②どのように「音」と「色」が影響を与
えるのかに気づくこと。③身体全体を秩序づけられた感度のよい「共鳴体」に合 わせること。
そして、先に述べた「生気情動」の詳細について、乳幼児研究者であるダニエ ル・スターンは、乳幼児の他者認知に関して「生気情動」という仮説を提示して いる。 「生気情動」とは、日常の喜怒哀楽による感情とは異なり、原初的な情動 である。これは、他者の行動をただまねるのではなく、行動の強度やリズムとい った「生気情動」を認め、これを自己の身体に引き移し模倣するということであ る。そして、この「生気情動」こそが、美的経験のもっとも重要なものである。
グルノウの教育は、大人になるに伴って対象化されていく日常的な感覚を活性 化し、 「生気情動」レベェルの感覚であることに気づかせること。そして、無自 覚的に行われている子どもの美的経験を自覚的で高度に分化した認識の中で行わ せることである。つまり、美的経験の基盤として、感度のよい「共鳴体としての 身体」を形成すること、そして自らの感覚一身体体験に自己反省的である身体を 形成するといった実践である(3)。この「共鳴体としての身体」の感覚体験が美的 経験の基盤となる。この中で行われる「共鳴体としての身体」の感覚記憶と表現 媒体が引き起こす感覚の間で生じる差異の経験が、意味ある美的経験をもたらす のである。この「共鳴体としての身体」を形成することは、モレンハウアーの美 的メタファーと重なり合う。
モレンハウアーは、子どもの音楽即興性について、美的メタファーと規定して いる。子どもの音楽即興をただ単に、歴史的・文化的解釈や発達論的な枠組みの 中で処理するのではなく、美的経験そのもの自体として扱う。子どもの「内的な もの」に関係する事柄として考えるとすれば、 「内的世界」との関連は避けて考 えることはできない。そして、子どもが表現することは、すでにある自分を出す ことにとどまらず、新たな自分を試みることでもある(4)。美的メタファーするこ とで、自己をメタファーの中で構成していく活動を人間形成の本質的構成要素の 一つだとしている。
モレンハウアーは、この新たな自己を発見する美的メタファーと呼ばれるやり 取りを、 「反省的」と呼んでいる。この「反省」は第一章で述べたカントの美的 判断の意味として扱われている。それは、ある音形象に出会い悟性と想像力が戯 れることで、過去に遡り、新しい「自己」を編成することである。それは、カン トの言う「規定的」に判断するのではなく、それぞれの音の形象自体に着目し、
そこに意味あるものを見出している。そして、その意味を反省的に探索するので
ある。
また、真壁は、計画性や効率性の支配を相対化するチャンスを「遊び」がもつ 人間形成力に、すなわち独特な音楽経験である音楽療法のセッションに見られる のではないかと考え、 「遊戯性」に着目した(5)。
経験的直観に基づき、即興=遊戯が重要とされる理論的根拠は何なのか。音楽 療法的観点から見た場合、真壁は、ドナルド・ウイニコットの遊びの理論を用い て述べている。
ウイニコットによれば、心理療法での「遊戯性」とは、クライアントと療法士 の2人の問でなされる遊びそのものである。療法士は、クライアントに不安や恐 怖を与えず、試してみる「潜在的可能性を秘めた空間」を作らなければならない。
子どもにとって、楽器が療法士との間に存在するということは、 「人間」とは異 なった、安定して不変な「物体」であるため、安心してさまざまな感情を試して みる可能性を開いてくれる。そして、他者と自己の境界を認識していくことが容 易となる。これは、楽器(空間)という媒体がもつ歴史文化的な構造的特徴であ り、そこにおいて、安心して感情のやりとりや文化的なものと個人的なものとの やりとりが行なわれる。 「物体」を問に置くことで、自己と他者の境界が流動化
しつつ再編されてくる。このような空間を遊戯空間とし、この遊戯空間で、媒体 をはさんでなされる試行的やりとりがなされる。この遊戯空間は、日常生活から 離れた、 「現実の規範の適応や強制からは、解放されている」フィクショナルな 設定である。音楽療法空間は、遊戯空間であり現実の規範の適用や強制から解放